「信者の聖い生活。」Ⅰコリント5章6~13節

 日韓の政治的争いに発して、韓国では日本に対する敵意がむき出しのようです。日本人は、敵意を含めた感情を表すことを恥としますが、責められ攻撃されるばかりでは、さすがに腹が立ってきたようです。

 韓国は、「恨の国」と呼ばれ、朝鮮民族にとっての「恨」は、単なる恨みや辛みだけでなく、無念さや悲哀や無常観、(虐げる側である優越者に対する)あこがれや妬み、悲惨な境遇からの解放願望など、様々な感情をあらわすものである。恨の文化は、代々の王権や両班による苛斂誅求を極めた階級的支配に対する民衆の抵抗意識と、中国からの異民族による侵略・征服で、永続的な服従を余儀なくされた国辱を引きずり、日本による併合が「長い抑圧と屈辱の歴史」であったという事実を省みない一方的な主張の元で行われる反日教育や、内外の圧倒的な力に依存性せざるを得なかった朝鮮半島独特の文化である。

韓国では、クリスチャンでさえも、この恨によって形成された意識から脱却し、聖めと御霊による成熟を得ることは難しいような気がします。私は、韓国ではクリスチャン同士の大げんかを何回も見ています。

日本人の国民性は、「和と礼儀を大切にする。」と言われます。和とは、「自分に合った場所を見つけてその枠の中だけにいる」ことであり、その枠からはみ出るのは和を乱すために社会が許さず、逆に枠の中は「自分の分」として責任を果たすように求められる。それができないと「無能」という烙印を押されてしまうので、他人の領域には互いに手を出さないのがルールだと紹介している。

今日の説教は、日本人クリスチャンが、この日本的文化の枠から離れて成熟や聖めを獲得できるかということが要旨です。

コリントは商業の発達している大都市ですが、道徳的退廃をしており、神殿に仕える千人の巫女は売春婦であったそうです。「コリント人のように振る舞う。」とは、不品行を行うという意味であったそうです。ですから、教会に通う人々にも、習慣としての不品行から抜け出られない人は多く、パウロが激しく糾弾するのです。

使徒たちの中でパウロだけが博学であり、神学的素養をもってキリスト教を展開していた人物であり、もしパウロがいなかったなら、その後の発展はなかったろうと思われる神の選びの大使徒です。そして、その信仰と使徒としての信徒教育は、イエス様の教えに基づいた倫理的側面も確立したものでした。韓国のキリスト教は、今や一般人の魅力を失うような教理的及び道徳的退廃をもたらしています。それは、「恨」という文化を打ち破ることができずに、指導者が傲慢になってしまったからかもしれません。日本のキリスト教が当初から盛んにならないのは、キリスト教の教えが、日本の「和」を乱す者であったからかもしれません。

宗教の指導者が自らを律することができなければ、その宗教は崩壊します。「監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。実は、反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者が多くいます。」(テトス1・7-10)

 信者への指導もきちんとしなければならないと反省することも長い牧会生活では多くあります。牧師に反発し、礼拝でも不遜なことを語り、何度も戒めても、自分の在り方や考えを変えようとしない人がおりました。教会員は、教会を離れた人の為に執り成しをしていますが、悔い改めるようにと祈っている人は少ないように思います。

 日本的「和」の精神では、ともかく、円満に済ませようとする傾向が強くあり、反発的な人、不道徳な人、不信仰な人に対しても、穏やかに受け入れることが多いようです。神は愛であり、寛容だから、とすることは、神よりも、人を尊重することであり、不遜な信仰姿勢です。つまり、指導者よりも、互いの和を大事にする傾向があり、団結すれば、指導者しいては神にも言い逃れができるという日本的精神の現れなのです。それは、自分ももしかしたら、罪を犯すかもしれない、その時は、皆が取り成してくれたら、裁きを免れることができる、という思考なのです。

 相対思考というものは、絶対者、全知全能の神の前では通用しないものです。佐倉惣五郎という人が、重税に苦しむ農民の為に将軍に直訴して処刑されたということを、イエス様の型であると説教する人がおりました。日本的キリスト教の典型です。無謬なる神に対して、私たちは悔い改めるしかないのです。執り成しの祈りというものは、その全知全能なる神の前で、本人が悔い改め、或は信仰を持つためのものです。神は、その人の成長の為でなければ働いて下さらないからです。それ以外には、自らの信仰で、その人のために信仰の行いをするしかありません。

 信仰者は、神を信じて行いをするのです。神に動いてもらう神頼みの祈りというのは、この世の宗教の惑わしです。私自身は、神が働いて下さる法則と導きを探り、その語り掛けにいつでも対応できるように備えています。そして、神様の名を叫んでも、神に従って生きていない人に対して、神が決して働いてくださらないことを悟りました。

 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

Ⅰコリント5章6~13節

  • 5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。
  • 5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
  • 5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。
  • 5:9 私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。
  • 5:10 それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。
  • 5:11 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。
  • 5:12 外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
  • 5:13 外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。