「父の立場は機能的なもの。」へブル書12章4~11節

 権威や支配というものは、秩序を与え、組織をまとめるためには必須なものです。ところが、だからこそ、その権限の範疇を超えたり、悪用したりすると、人々が苦しみ、組織が崩壊するものとなります。

「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ2・2)とあり、サタン配下の悪霊の権威が、私たちの社会に規制を加えていることを示しています。私たちが「常識」、「忠誠」、「従順」‥という社会への迎合が、私たちをむしばんでしまうのです。つまり、社会における権威の背後には、サタンの働きがあり、それらを通じて、私たちの自由を拘束し、信仰生活に制限を与えているのです。ですから、権威に対して服従を当然とする人々が、信仰者の自由を獲得することはできないのです。

 「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。」(Ⅰコリント15・24)とは、この世を支配している悪の権威を亡ぼすということです。信仰者は、この悪の勢力との闘いという現実を意識しないと、権威におびえ、自由に判断することをできなくなってしまうのです。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6・12)とあり、「悪魔の策略に対して立ち向かう為に、神のすべての武具を身に着け」(同11)ることが必要なのです。その中でも祈らない人は、霊的に眠ってしまっているので、戦うことも意識せずに、惑わされるのです(18)。

 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。」(ローマ13・1-3)という戒めがあります。実際には、支配者は神ではなく、人間なので、暴君のこともあり、悪の顕現である場合もあります。ここでは、「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。」という言葉に注意するべきです。つまり、「良い行いをしようとすると、支配者が恐ろしい」時には、この教えは適用しないということです。

 このようにして、サタンの企みの中にいるということは、判断せずに絶対服従を命じる組織や風習に従っているということが理解できます。「妻も、全てのことにおいて、夫に従うべきです。」(エペソ5・24)という聖句におって、歴史的に多くの敬虔な女性信徒が夫に仕えてきました。それはそれですばらしいことですが、「夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。」(28)という夫婦の相互の愛が前提となっています。

今日の聖句は、父の日のためのものです。神の国では、父親も母親も子供もありません。全ての人が、独立した存在であり、従属的な関係はありません。ということは、父や母は、地上での生活のための機能的なものだということになります。つまり、父や母は、子どもたちにその役割を果たす使命があり、そのために「父と母を敬え。」(マタイ19・19)、「両親に従いなさい。」(エペソ6・1)とあるのです。

 「父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」(12・7.8)とは、「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(11)ということのためです。つまり、父親の役割は、子どもたちに従順を教え、社会の規範を損なわないように厳しくし躾けることです。ですから、父親不在であったり、父親がその厳しく躾けるという役割を果たさないと、その子は、社会の規範を守ることができず、犯罪や偽りを言いながら、言い訳や正当化で反逆的な行動を取ることようになってしまうということです。

 ルカ15章に、父親に背いて放蕩三昧をした息子の話があります。親に反逆するのも、放蕩も自己責任であり、親の責任ではありません。親は親で、子どもに対する父親の役割を果たしたかが神の前で問われます。ただ、親も子どもも、神の植え付けた罪責感があり、その罪責感というものは、取り返しのつかない、人に責任を転嫁できないような状況に陥った時に、現実の罰となって現れるのです。人生というものは、その現実生活の中で悔い改め、神の前に立つかどうかを問われるものなのです。

 父親は、息子が放蕩した責任を恥じ、日夜息子の為に祈ります。これが父親の責任であり、決して息子をなだめに探し回ってはならないのです。悔い改めなければ赦さない、という神の在り方を、模さなければならないのです。悔い改めないで放蕩を続け、父に詫びない息子は破滅するのです。親は、断腸の苦しみを受けるのです。

 父親がその厳しさの働きをしなかった子どもの特徴は、罰や挫折があっても、規範を守らない、という特徴があります。最近は、そういう親が多いですが、未成年の時代に子どもを躾けられなかった父親は、生涯の苦しみを背負うことになります。父の人生における生き甲斐は、子どもの成熟とその「平安な義の実」だからです。

 私自身は、明治生まれの非常に厳しい父の下で育ちました。勝手気ままに生きることや誤魔化すことを恥じ、社会規範は守り、罰は当然のものとして受け、人を攻撃したり侮辱することなど決して行いません。父によって訓練されて「平安な義の実を結」んだと感謝しております。

へブル書12章4~11節

  • 12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
  • 12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
  • 12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
  • 12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
  • 12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
  • 12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
  • 12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
  • 12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。