「どうしても必要なことは一つ。」ルカ福音書10章38~42節

 クリニックニュースにも書いたのですが、ニューカレドニアの旅は心に残るものがありました。日本人では、腹を立てる人がかなりいると思います。約束していたのに来ないし、聞いたことは間違っているし、お知らせもなく休んでいる。車のスピードはとてつもなく速い。勝手に生きているけれども迷惑を掛けているわけではない。客の八割五分が日本人というホテルの日本人ガイドだけが擦れていて日本人的でしたが、彼女が他のスタッフに干渉しようとしても、相手にはされないことが面白かったですね。

 町の駐車場でコインがなく困っていたら、相談した女性が代わりに入れてくれました。英語が通じないだけでなく、公用語のフランス語も話さない人がかなりおりました。一人当たりGDPは日本と変わらないけれども、人口が500分の一なので、所得は偏っているのでしょう。豊かではない人が殆どですが、関係なく楽しんでいます。確かに、「天国に一番近い島」だと思いました。

 そして、祈りの中で今日の聖句が思い出されました。さらに、なぜ私がこの島の人々に対して腹を立てず面白がっていたのかと思ったら、妻に似ている人々であることに気が付きました。

私はきちんと仕事をする人間です。人の思惑もわかるし、為すべき仕事も瞬時に判断します。長期的展望で神の御心を探りながら、事業や仕事、教会の運営も拡大していきます。そして、為すべき家族への配慮や、人の接待もします。神への奉仕も疎かにしたものはないつもりです。

その傍らで、妻は好きなことをして楽しんでいます。結婚当初は、私がマルタのようにマリヤのような妻に腹を立てていました。イエス様は人の生活を理解されていない、そのようにしていては生きてはいけない、などと考えていました。妻を諭すと同意して改めようとしますが、決してきちんとはできず、祈らないと調子が悪くなります。仕事よりも、聖書であり、伝道です。ところが、実際には祈っても聖書も読み始めても寝てしまいます。車も運転しながら眠ってしまうし、歩いていても人や物にぶつかる、・・・。

そのうちに、妻を変えようとすることは諦めました。その代わりに、いつも私がついていて妻を守ることにしました。妻は喜んでいますが、私は気ままには生きられなくなり、先週のイエス様の弟子たちのような心境にもなりました。既成概念、自己中心という罪との戦いです。毎週、日曜や祈祷会で説教し、自分の言葉と行動に偽りのないようにチェックしています。皆さんも牧師になることをお勧めします。結婚39年、ようやく、腹を立てなくなり、自分の聖めと成熟と主の支えを感じるようになってきました。それで、ニューカレドニアの人々に親しみを感じたのです。

 先日、東京大学の卒業式の祝辞を引用した上野千鶴子さんが、2014年11月の朝日新聞で、「子どもと密室で3時間以上いると母親は子どもに対して凶器になる。」と指摘しました。きちんと子供を育てようとしたり、ミスなく仕事をしようとすると、人は攻撃的になるのです。戒めや懲罰は、決して人を成長させることはなく、成熟は祈りとみことばと御霊による以外にはないのです。

 先週は、結婚がこの世の術であり、神の国には結婚がないことを説明しました。しかし、このように罪びと同士が結婚し、聖書と御霊に従って生きれば、結婚の祝福は注がれるのです。

 さて、「どうしても必要なこと」とは、イエス様の教えを聞くことを優先し、神の国に行くに足るようになることです。人が、この世で成功しても、富と地位を獲得しても、幸せに過ごしても、神の国に行かなければ悲劇です。これを多くの人が軽んじています。

韓国のサッカーチームが中国の大会で優勝した後、そのトロフィーを足で抑えてツウィッターで流し、剥奪処分になりました。後悔しても、戻しようがありません。罪びとは、愚かなことをしている自分に気が付かないのです。この人生では、因果応報もあり、信賞必罰でもあり、艱難辛苦もあります。そのようなことを乗り越えて、賢者や賢人になる人もいるでしょう。しかし、それを超えて、神の国の基準に心を注ぐ人だけが、神の国に入るのです。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ3・5)

神の国には二重国籍は認められません。保険のように洗礼を受け、教会に来ても、生まれ変わっていない人は、神の国のパスポートを持っていないのです。私には、その違いはよく分かります。持っていない不安を、自分の努力や功績によって、或は情に訴えて、牧師や信者に埋め合わせをしようとする人がいます。見せかけの努力をしないで、真っ直ぐに神ご自身に魂の救いを求めるべきです。

 「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4・23.24)

 来週はペンテコステの日で、聖霊のバプテスマを求める時を持ちます。聖霊のバプテスマは、聖霊に満たされることを求める為に大事な局面です。ただ、異言の祈りを祈っているからといって、聖霊に満たされている保証にはなりません。真実なものには偽物が必然です。新興宗教には、異言と同じような現象が現れているという報告が出ています。聖霊のバプテスマの証明は、神を第一とした生活と、聖められた人格です。

ルカ福音書10章38~42節

  • 10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
  • 10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
  • 10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
  • 10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
  • 10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」