「復活の意味」マタイ28章1~10節

復活祭がキリスト教の最大のお祭りであることは知られています。でも、その意味することを悟っている人は、自称クリスチャンでさえ少ないように思われます。イエス・キリストが復活されたということを、神話やおとぎ話のように考え、或は単に凄いことと見なすならば、それは復活の主との交わりのない証明となってしまいます。

 弟子たちには、何度もイエス様は「ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(マタイ16・21)けれども、実際に十字架に掛かられても逃げてしまうし、復活の証拠を示されても信じないありさまでした。しかし、実際に復活の主が「四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒1・3)ので、命がけの伝道をし、自ら十字架に掛かるような殉教をしていったのでした。

 ところが、そのような超自然な話は、茶飲み話としては良いけれど、実際に信じるとなると現実性を欠いて、笑い者になります。そのようなことが実際には、信仰者の試金石になるのです。

 「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」(ルカ20・38)とは、この地上で肉体にあって死んだ者も、天国或は地獄で生きている、ということを意味しています。聖書は、人が死んだら無になるとは書いておりません。

日本人は、「どうせ死ぬなら。」と言いますが、それは「無になるならば、自分の満足の行く人生を送りたい。」という意味です。その満足が、立身出世であり、気ままに生きることであり、長生きをして楽しむことかもしれませんが、それは裁き主を知らない人の生き方です。「死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです。」(Ⅰコリント15・32)

「義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」(使徒24・15)。私自身は、牧師として教会員が間違いなく神の国に行き、そして永遠の復活に与る者になって欲しいと願っております。しかし、確かに、偽りのクリスチャンがいるのです。「悪人も必ず復活する。」ということは、悪人には厳しい裁きが待っているということです。ところが、未信者と同様に、この裁きの厳しさに気が付かないで、誤魔化しの信仰生活を送っている人々がいるのです。ところが、魂の救われた人々は、「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしてい」るので、悪人にとっては居心地の良いのが教会なのです。

夫婦、親子でも信仰者は、救われていない家族に対してどうにか信仰をもって欲しいと願い仕えます。しかし、「妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。」(Ⅰコリント7・16)とあるように、優しく対応することによって、信仰を見くびる人に対しては却って害になります。私の説教が厳しいのは、真の信仰者にはその真摯な信仰を貫く励ましになり、偽りの信仰者には、甘えを断ち切って悔い改める機会を提供する為です。おこがましいですが、愛に満ちたと言われるイエス様のお言葉は偽りの信仰をもつ人々に対しては、非常に厳しいものでした。

「王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』(マタイ25・41)

 このように死後の裁きを厳しく何度も警告されておられたイエス様が、復活されたのです。復活は、肉体の死にも勝利されたしるしです。そして、裁きが現実のものであるしるしです。むごたらしい十字架の死が神の愛のしるしであり、喜びの復活が神の裁きの予告なのです。

 「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり」(Ⅰコリント15・14)、「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(同15・20)、「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。」(同15・34)、

 もし、あなたが魂の救われた真の信仰者であれば、たとえ、家族が罪びとであり危害を加えようと、あなたの職場や学び舎で悪人が牛耳ていても、あなたが艱難辛苦に遭おうと、問題ではないのです。

 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

マタイ28章1~10節

  • 28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
  • 28:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
  • 28:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
  • 28:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
  • 28:5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
  • 28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
  • 28:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
  • 28:8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
  • 28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
  • 28:10 すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです」