「神が受け入れるのは砕かれた心。」詩編51編10~19節

日本では、「変わる。」とか、「強くなる。」などの言葉が使われます。しかし、新約聖書には、「その大能の力によって強められ」(エペソ6・10)という言葉はありますが、「強くなる。」という言葉はありません。つまり、罪びとである人間が強くなるということは、我が強くなり、自信満々となってろくなことはないのです。ところが、クリスチャンでも、「意志が強くなる。」とか、「信仰が強くなる。」ことを願う人が多いのです。

 内から強くなれば、我欲が強くなって、神を信じ神にあって生きることよりもむしろ、自己の成功、成長を願うものになってしまいます。神によって強められれば、神への信頼が強くなり、思うとおりに行かなくても平安や喜びが深くなります。「揺るがない霊」とはそういうものであり、「清い心」とは、自らのことに固執しない心です。

 「救い」とは、自分に関する絶望から始まります。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。」(17)とあります。「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12・44)。この女性の献げた150円くらいの金額は彼女の持っている全額でした。どうして生きていけるでしょう。彼女は、自分の算段で生きることを諦めるほど、絶望の中にあり、神に全てを委ね、助けを求めて献げたのです。

 教会に来る動機としては、救いを求めてという人は非常に少なく、そういう人は、そのまま主にあって信仰が成長します。それは、魂が飢え渇き、神の存在を信じ、神による魂の救いを求める願いがあるからですが、そこに至るまでに多くの人生における試練と絶望を体験したがゆえの魂の飢え渇きだと思われます。

 ところが、多くの人は、問題の解決、悩みの相談、宗教心、真理の追究、英会話や欧米の文化への興味、或は面白半分などで教会に来られます。動機はどうあれ、救われる人は救われるのですから、神の導きというものはユニークなもので、動機の良し悪しは、その後の信仰生活と相関するものではありません。つまり、事は神の選びにより、聖霊の導きによるのです。

 「あなたの救いの喜び」(12)は大きなもので、神を知り、魂の救いを体験すると人生は変わります。そして、「私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。」(13)と伝道の思いに燃えるのです。

 実は、この詩篇はダビデがバテ・シェバと姦淫を犯し、その夫を策略によって殺してしまった後に、預言者ナタンが神に遣わされて、その罪を責めた時のダビデの悔い改めを示したものです。神に選ばれ、忍耐の限りを尽くしてサウル王との敵対を避けようとしてきたダビデが、ようやく王となり、神に賛美して歩んでいたのに、誘惑が襲ったのです。

信仰者の人生は、実は罪との闘いの歩みです。ですから、老若男女、優劣強弱を問わず、人が神の国に行けるかどうかは、この罪との闘いに勝つか負けるかという公平な裁きなのです。誤解してはならないことは、強くなったら勝てるというものではないことです。「信仰が強い。」などというのは能力の問題ではなく、神に委ねる信頼が強く、その故に罪に惑わされないということなのです。ダビデは、「自分は強い。」と思ったとたんに罪に負けてしまいました。

 ダビデの凄さは悔い改めの潔さです。これがダビデをして信仰者として神に褒められるゆえんです。「私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。」(51・3)と自分の罪と誘惑の怖さを認めています。罪を犯さないように気を付けても、罪は、あなたの「目の前にあるのです。」

 他人の罪を裁き、非難する人は、自らの前に置かれている罪の誘惑に気が付いていないのです。私は、多くの人が罪に誘惑され、罪を犯すことを見てきました。信仰者と言われる人も、未信者も実は同じように誘惑をされているのです。自ら罪に負けない人は、他人の罪の執り成しをする人です。罪からの解放に助けをする人です。そのようにして罪の恐ろしさを身に染みて悟るのです。能力で罪に打ち勝つことなどできないものです。

 なぜ、「全焼のいけにえ」が「義のいけにえ」なのでしょう。自分の存在が罪あるものとしてのどうしようもない絶望感から神に自らを差し出す覚悟をもって、身代わりにいけにえを焼き尽くすのです。「もったいない。」と思う人は、救いの尊さを理解していないのです。私は自分の収入や財産は殆ど神に献げるものとして意識しています。むろん、自分の時間や能力も神に献げるものとして用いています。

 それでもなお、私の内には罪があり、私を滅びの誘惑へといざないます。祈らなければ腹が立ち、堕落の罠が陥れようと潜んでいます。本当は、人里離れて隠遁生活でもしたい願いもあります。しかし、それこそが罠であり、私の使命は執り成しであり、神のことばの説教であることも悟っています。

 中途半端な信仰者を信頼して罠にはまった人も多く知っております。頑固な信仰で自己管理を怠ったために破綻した人も知っております。自己実現を図り、野望が強すぎて破綻して信仰者たちも知っています。その人たちもまた、神の「豊かな憐れみによって、背きの罪を拭い去って」(51・1)貰えるようにと願います。

 「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。」(17)。結局のところ、人生は自分の罪の大きさとその咎に恐れおののいて、神にすがるしかないのです。自己中心な人々の末路は、街角に立って30分も眺めていればわかります。それは、確かに救いようのないものです。私は、そのようにはなりたくありません。だからこそ、神に仕え働くのです。

詩編51編10~19節

  • 51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
  • 51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
  • 51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
  • 51:14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。
  • 51:15 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。
  • 51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
  • 51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
  • 51:18 どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。
  • 51:19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、雄の子牛があなたの祭壇にささげられましょう。