「主は私の義に従って報いて下さる。」詩編18編20~32節

分子整合精神医学の先達アブラハム・ホッファー博士の歩みをまとめました。本来の名前はアブラムですが、その先見的かつ信念を持った指導的歩みから聖書のアブラハムのように呼ばれていったようです。敬虔なクリスチャンでユダヤ人でもあり、ユダヤ人合同墓地に埋葬されています。彼は、最初の任地で精神病院患者の悲惨さを目にし、向精神薬が全く効果がないだけでなく、身体にも精神にも悪いことを証明しましたが、医学界からは迫害され、その文献が削除されてしまいました。それでも、本を出版して啓発し、晩年はバンクーバー島で診察をしておりました。

 私たちも医学界の批判の的になることを避けて学術論文などは出さず、出版で広く人々に啓発をしてきました。今回の『新・低血糖症と精神疾患治療の手引』は非常に良い本になると思います。教会を始めた時に集まったのが精神病の患者ばかりで、一般の人々は怖がり、変に思って殆ど定着をしませんでした。他の教会を追い出され、この教会に来てトラクト撒きや奉仕をしている彼らを受け入れて歩みました。他の牧師たちが彼らを追い出したのもよく理解できました。彼らの言動は、残念ながらかなり異常でした。でも、私には同じようなことはできず、教会の成長を諦めることも覚悟しました。彼らとの会話や病院に訪問したことなどを忘れることはできません。ろれつが回らず口から泡を飛ばし、結局は薬害で早く死んでいきました。

 彼らの言動は目に余ることも多くありましたが、彼らが抱える問題の大きさを思い遣るととても怒ることはできませんでした。家族から捨てられ、それをしょうがないと受け入れる彼らは確かに自らの過ちを悔い改めた信仰者でした。彼らには教会しかなかったのです。弱い者、貧しい者、罪びととされる者の悲しみは、なかなかわからないものです。

マリヤ・クリニックの診療是は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです。」(マタイ9・12.13.ルカ5・31.32)です。生贄とは、神の前で必要なものですが、実際には形式的な信仰深さを現わす尺度となっており、人に対する配慮や愛としての憐れみを無視している状況でした。マタイ15・5には、供え物を父や母への孝行よりも優先しろというパリサイ人の教えがイエス様に否定されています。人、特に弱者、病者と掛り合わない信仰者は、いくら形式的外面的に立派でも、神の前では受け入れられないのです。

治療で向精神薬をできるだけ回避することにしたのは、その時の経験が大きくありました。「主は私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。」という御言葉は、常に私の心を諫めていました。自分一人で生きている者は、信仰深く歩んでいるように自認していても、神には義とは認められないのです。人に対する行いが大事です。

「恵み深い者には恵み深く。」は、自分の行いを恵み深いように戒めます。金や力があるから人を助けるのではなく、神が観ておられるから、力を尽くして恵み深くあろうと努力するのです。余力でおこなう慈善は、報いのあるものではありません。それは当然の義務です。

 「全き者には全くあられ」。全き者などおりません。しかし、適当で良いと思う者は、必ず罪に負け、誘惑に負けるのです。平気で欲に生きる信仰者を多く知っていますが、神の助けや守りを受けていないように思います。信仰を持っていると言いながら、神の恵みをいつも体験していないなら、それは偽りの信仰です。

 「きよい者にはきよく、曲がった者には、捻じ曲げる方。」(26)イサクやヨセフはあくまで誠実に生き、人々の強欲に対して真っ直ぐに神の目を意識して対応しました。ダビデの誠実さも、神の祝福の源です。罪を犯しても指摘されたらすぐに悔い改め、罰を覚悟する潔さです。

 罪と欲望に満ちた現代社会で誠実に生きることは難しいことです。しかし、神を知っている、信じているというだけで良しとし、この世での打算的な対応をする人に対して、神が味方するとは思えません。信仰を隠したり、人に証しをしない人は、自分を神よりも大事にしているのです。

 自分を誇り自分勝手に生きる人も、悩んで自分のことに思い煩っている人も、実は同じ自己中心です。神が救われる「悩む民」(27)は、神にあって誠実に生きようと悩み苦しむ人です。人生で多くの悪人に攻撃され、騙され、脅されてきました。しかし、悩み嘆くよりもむしろ、神を信じて耐えることを選んできました。神に嘆き、呻く日々がなんと多くあったでしょう。「主、私の神は、私の闇を照らされます。」(28)。神に祈る者だけがつかむ光です。御言葉のひかりです。「主はすべて彼に身を避ける者の盾。」(30)なのです。

 20代、30代、40代、50代、戦いの連続でした。唯一のテキストは聖書でした。この世のマニュアル書は、ずるく立ち回れと告げます。信仰者がどうして自己中心に生きられましょう。私を攻撃する者と同じレベルになど断じてできません。攻撃を自らの力で返すなどということも、神に仕える者としてしてはいけません。

 43年前の3月31日、聖霊のバプテスマを受けました。それ以来、「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え」(ヨハネ14・26)、「真理の御霊が来ると、あなたがたを全ての真理に導き入れます。」(ヨハネ16・13)。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。」(ヨハネ16・33)。

 「この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。」(32)のです。この世の知恵を誇ってはなりません。

詩編18編20~32節

  • 18:20 【主】は私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。
  • 18:21 私は【主】の道を守り、私の神に対して悪を行わなかった。
  • 18:22 主のすべてのさばきは私の前にあり、主のおきてを私は遠ざけなかった。
  • 18:23 私は主の前に全く、私の罪から身を守る。
  • 18:24 【主】は、私の義にしたがって、また、御目の前の私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。
  • 18:25 あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、
  • 18:26 きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。
  • 18:27 あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます。
  • 18:28 あなたは私のともしびをともされ、【主】、私の神は、私のやみを照らされます。
  • 18:29 あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。
  • 18:30 神、その道は完全。【主】のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。
  • 18:31 まことに、【主】のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。
  • 18:32 この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。