「主にあって喜び、楽しめ。」詩編32編

 先週、十字架の意味をお話ししました。ところが、自らの罪深さを認めず、神を信じない人々にとって、イエス様が十字架に掛かったということは、教祖が罰を受けて死んだ、ということくらいにしか感じません。つまり、罪びとという自覚が無ければ、十字架の贖いが自分の罪の身代わりであるということの意味もわからないのです。ですから、その人が魂の救われたクリスチャンか否かのチェックには、十字架の贖いが生活や考え方に浸透しているかどうかが大事です。このことを、私たちの教団の信仰綱要では「救いの外的証明」として、「義とまことの聖を備えた生活」として位置付けています。

 キリスト教と名乗っていても、それが異端であるかどうかの識別には、この十字架の贖いを否定し、行いによる救いを強調することです。つまり、この十字架の贖いのすばらしさを体験できない人々が、批判的になって、異端と言われる宗教を始めたのです。異端とは、キリスト教ではなく、魂も救われない教えで、エホバの証人、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会、世界基督教統一神霊協会(統一協会)の有名な3つの他に、多くの惑わしの教えがあります。教理的な特徴は、聖書以外の啓示を唱えること(新旧約聖書に他の経典を加えること)や、三位一体の否定、地獄の否定などがあります。

 日曜聖研で学んだように、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1・18)なのです。「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(1・21)。

神は、知恵や推敲を凝らして分析的論理的に神を探る人は、拒否するのです。なぜなら、そのような人々は、神を自分の為に捉えようとするからです。そういう面では、鬱的に自分の中に閉じこもったり、囚われたりする人を神は拒みます。なぜなら、神を求めるのではなく、幸せや不幸を自分の行動や性格などに原因を探ろうとするからです。信仰者は、悩んではならないのです。罪を犯したり、間違ったり、失敗をしたら、言い訳をしたり、弁解をするのではなく、自分が根っからの罪びとであることを確認して神の前に自分をさらけ出し、救いと助けを求めるのです。

 罪を隠そうとすると、「一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果て」るのです。ところが、罪びとは悔い改めることを知らず、自分よりも罪深い人を探し出して批判し、自らを正当化するのです。そうすると、神の「御手が昼も夜も私の上に重くのしかか」るのです。それでも、十字架の贖いを知らないので、他人に対して攻撃的になるのです。世界中にそういう罪びとがうごめいています。罪びとの誤魔化しに騙されてはいけません。どんなハンサムも、美女も、内面は醜いのです。

罪びとは、決して神に降参しないのです。悔い改めない人の末路は地獄です。だからこそ、異端は地獄の存在を否定するのです。神を信じない人、罪の告白ができない人、それは神がその人を救いには召さなかったのです。或は、救いのチャンスを自分の愚かさによって逃してしまったのです。「あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。」そのような馬は、勝手なので主人の御用に仕えることなく、殺されてしまうのです。

神の選びや召しの尊さ、ありがたさを思うと同時に、誰でもが悔い改めるということはできない、という怖さ、神の裁きの厳格さを思います。残念ながら、あなたが恵みによって救われても、あなたの愛する人は、罪によって頑ななのです。「あなた方の召しのことを考えてごらんなさい。・・・神は、・・・この世の愚かな者を選び、・・・この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。」(Ⅰコリント1・27.28)。むろん、愚かだから、弱いからといって悔い改めることができるわけでもなく、却って頑固な人もおります。ともかく、あなたが選ばれたのです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって献げる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えに優る神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4・6.7)。むろん、私自身も思い煩いそうになる時はあります。罪とは、思い煩うように働きかけを私たちにするので、私は、思い煩いをかなぐり捨てて、主に祈り、讃美をするのです。思い煩って、良いことは何もありません。

 ともかく、本当に魂の救われた人は、「あなたは私の罪のとがめを赦されました。」ことを自ら知っているのです。「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。」もし、あなたの内に喜びがなく、救いの確信がないのであれば、その確信と救いを得るまで、「愚かに」なって神に願うのです。罪びとにはこれができないのです。そして、俗事に頭が満たされるのです。

 救われた者は、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。」(詩篇1・2)のです。そのような愚か者なのです。その人の会話を聞いていれば、魂の救われた人か否かはすぐにわかります。信仰者は、聖書のことばや讃美を喜びとして、いつもそれを口に出しているのです。不信仰者は、自分のことを口に出し、俗事に心を奪われているのです。

詩編32編

  • 32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
  • 32:2 幸いなことよ。【主】が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。
  • 32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
  • 32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。 セラ
  • 32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を【主】に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ
  • 32:6 それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。
  • 32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。 セラ
  • 32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
  • 32:9 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。
  • 32:10 悪者には心の痛みが多い。しかし、【主】に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
  • 32:11 正しい者たち。【主】にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。