「十字架の苦しみ。」詩編22編

十字架刑というのは、史上最も残酷な死刑です。手のひらに釘を打たれ、足も脛に釘を打たれるので支えることはできません。全身の重みが手のひらに掛かるので、手の肉は裂け、肩は脱臼し、そして次第に血が流れて死んでいくのですが、あまりの痛みに失神することもありません。「イエスを十字架に付けたのは午前9時であった。」(マルコ15・25)。「十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声でエロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと、『我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコ15・33.34)。なんと六時間以上、手に打ち付けられた二本の釘と足の脛の一本の釘で磔になっていたのです。「ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて」(15・44)とあるので、普通はもっと時間が掛かるのでしょう。時間が掛かり夜になるといけないので、他の二人は脛を折られました。

なんと惨い、と苦しくなるような残虐な刑でしょう。なぜ、神の子がこのような苦しみを受けられたのかということは、なかなか理解できないことです。岩淵まことさんの讃美が浮かんできました。

心に迫る 父の悲しみ 愛する一人子を十字架に付けた

  人の罪は 燃える火のよう 愛を知らずに 今日も過ぎていく

  十字架から 溢れ流れる泉 それは 父の涙

  十字架から 溢れ流れる泉 それは イエスの愛

  父が静かに見つめていたのは 愛する一人子の傷ついた姿

  人の罪を その身に背負い 父よ、彼らを赦してほしいと

人間は、本当に罪深い存在です。ニュースを見ればすぐにわかります。ところが、日本は性善説に立っています。「話せばわかる。信じているよ。本当は良い人なんだ。」などという言葉が飛び交いますが、それは自らの罪深さを隠そうとする人々の言い逃れです。そして、自分の罪深さを棚に上げて人を責めるのです。

 クリスチャンが、罪を悔い改めるということは、「自らの罪が燃える火のよう」であることを認めることです。自らは何の正当性もなく、罪に捕らわれるということを悟って、自らの力ではこの罪に対して全く無力であるので神に全面降伏をするということです。

 なぜ、父なる神は、子なる神の人としての十字架の苦しみを聖定したのでしょうか。言い訳や言い逃れをする人がいますが、罪を認めた人は、罰を受けようとします。罪というものは、謝れば赦されるというものではありません。罰を受けてこそ赦されるのです。罰や犠牲を逃れようとする人は、救いという大きな恵みを受けていないか、わかっていないのです。「イエス様を信じれば、全ての罪が赦される。」と簡単に救いを伝える人は、自分がそのようであれば良いと安易に捉える偽教師です。

「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16・24)とイエス様は言われました。救いを求める人々は、この苦難を敢えて選び、神の国への道を進むのです。自分を捨てないで好き勝手なことをし、「外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱい」(マタイ23・28)の人を相手にしてはいけません。イエス様は、教会の中にはびこる偽善者への注意を繰り返しています。人間は、魂が救われなければ、必ずそのようになるのです。救われていない人は、常に自分のことばかり考えているのです。

 「十字架を負う」とは、他人の救いと助けになるために自分が犠牲になることを意味します。私自身も「やってられない」と嫌になることが正直言ってあるのですが、このイエス様の十字架の姿を思いみると、とても勝手なことはできません。そのような生き方こそが、自己中心という罪との闘いそのものなのです。

 マタイ一九章で金持ちの青年が、自分は十戒を守っていると誇らしげにイエス様に伝えながらも、神の国への確信をもっていないことで教えを乞います。イエス様が「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」(21)と言うと、それはできないと去っていきます。皆さんは、どうでしょうか。私自身は、いつでもその心構えはできています。なぜなら、神に従うしか、神の国への道はないと、43年のクリスチャン人生の中で悟ったからです。

 「わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。」(2)とダビデは叫び続けます。「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(3)。神は聖(この世とは超然として離れておられる。)であって、私たちは、神の摂理に信頼して、ただ讃美を献げるだけなのだ、ということです。

 人々は、私たちが試練と苦しみの中にあっても感謝しているのを見て「神に救い出させよ。」とあざ笑います。しかし、信仰の奥義とは、信仰と神に富や成功を求めることではなくて、神との人格的交流なのです。「母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。」(10.11)。凄まじい神への信頼です。うまくいかなかろうと、助ける者がいなかろうと、神を信頼しているのです。

 イエス様の十字架での叫びは、私の魂を揺さぶります。そして、どこまでも主に従い、主のしもべとして十字架を負って生きようと決意を固めさせます。私には、とても十字架の苦しみは無理です。それならば、クレネ人シモンのように、「イエスの十字架をむりやり背負わせた」(マタイ27・32)人生を生きていきたいと覚悟を決めるのです。

詩編22編

  • 22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
  • 22:2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
  • 22:3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
  • 22:4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
  • 22:5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
  • 22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
  • 22:7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
  • 22:8 「【主】に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
  • 22:9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
  • 22:10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。
  • 22:11 どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。