「悪者は裁きの中に立っていられない。」詩編1編

この第一編は、詩篇全体の概論と言えます。神の統治と裁きの中で、悪人が神に逆らい、正しい者に罠を仕掛けて道から外れさせようとするということを教えます。そういう人生で、神との交わり、神の教えを喜びとすることこそが、人を正しくし、そのように神との交流を保つ人は、多くの祝福を得、そして神の国へと導かれるのです。そして、悪人は、なんとしてもそれを阻止しようと、騙したり、攻撃したりしてくるのです。

 私たちは、そのようなことの背後にあるサタンの惑わしをしっかりと把握して、罠にかからないように、惑わされないように注意しなければなりません。その罠や惑わしというものは、現実の社会において、どのようにあるのでしょうか。

1. 人は、基本的には罪びとであるということを悟る。

 「罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(Ⅰヨハネ1・8)。全ての人は、罪を悔い改めて救われる必要があるのです。「弱い者、愚かな者を神が選ばれた」(Ⅰコリント1・27)とあるのは、そういう人のほうが能力や力の限界に気が付いて、神を求めやすいからです。ところが、神のもとに来ても、悔い改め、罪を許されるために救われるということができない人が多くおります。悔い改めるということは、やり直そう、という意識がなければできず、弁解やごまかしをする人々は、その場をやり過ごせればよい、という気持ちがあるからです。つまり、救われていないのです。

 「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。」(ローマ6・20)。ところがパウロは、「私は本当にみじめな人間です。だれが、この死の身体から、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7・24)と悔い改めても、悔い改めても、罪が自らを誘惑することに苦しんでいます。つまり、救われた人でさえも、この地上にいる限りは、罪に苦しむのですが、その罪性を正当化したり、誤魔化したり、隠したりするのが、罪びとなのです。

2.悪人とはどういう人であるかを悟る。

 この1編で、新改訳は「悪人」、新共同訳は「神に逆らう者」と訳し得います。要するに、悪人とは、神に逆らう者なのです。人は、神の前では、罪を許され救われた人か、許されていない人に分かれます。ただ、救われていない人が悪人とは限らず、そのうちに魂が救われることもあるのです。パウロのように、神に逆らいクリスチャンを迫害した悪人であっても、悔い改めれば、救われて大使徒になることもあるのですが、悪人に対しては、クリスチャンは用心しなければなりません。

 イエス様は、偽善者に注意しろ、と何回も警告しています。偽使徒、偽教師、偽預言者、などと警告されるのは、教会が成長を始めてからのことです。高価な物には偽物があり、安物や価値のない物には偽物はありませんん。教会の働きに価値があり、人の人生に大きな影響を与え、教会の指導者は貴重であるからこそ、偽牧師、偽教師が現れるのです。

 ところが、真理を悟っていない人は、教会に問題があったり、変な人がいたりすると、神を信じられない、などと言って、教会を去ります。それは、その人が謙遜でなく、救われていなかった証拠となるのです。

 ですから、教会を去る人がいたり、掻き回したり、不平不満を言う人がいたら、執り成しの祈りをするだけは必要ですが、戸惑うことなく、放っておくしかないのです。魂の救われていない人を教会に無理して引き留めると、問題を起こすのです。「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。」(Ⅱコリント11・13)。彼らは間違いなく悪人です。私の若い頃の牧師としての苦難は、この悪人たちに惑わされ掻き回されたことによります。苦い経験でした。

3.信仰者が惑わされるのはなぜか。

 「神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず」(1)ということをしないからです。『天路歴程』は聖書の次に信仰者に読まれた本ですが、人生は戦いなのです。健康の管理をしない人は、たとえ素晴らしい信仰者であっても、病気になり苦しむことになります。経済や財産の管理をしない人は、未信者の前でも惨めな生活を送らなければならなくなります。家族や伴侶を大事にせず、伝道や信仰ばかりに走ると、彼らから愛されず、孤独な人生を過ごすことになります。

 つまり、神に逆らうこの世と罪びとが仕掛ける罠が、誘惑や快楽なのであり、その計らいに従ってはいけないのです。神様を信じていればすべてうまくいく、というのは、神に従うのではなく、神を従わせようとする放漫な者の生き方なのです。人を大事にする愛する、ということは、自分勝手な人間にはできないことです。信仰生活で、人との接点を持たない人がいたら、それは信仰生活ではなく、堕落した生活なのです。

 私たちが救われたのは、それで終わりなのではなく、「聖徒達を整えて奉仕の業をさせ、キリストの身体を建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するためなのです。」(エペソ4・12.13)

詩編1編

  • 1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
  • 1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
  • 1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
  • 1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
  • 1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
  • 1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。