「主はマリヤに目を留められた。」ルカ1章41~55節

先週は、「天使が語り掛ける人」についてお話ししました。今日のマリヤとコルネリオの決定的な違いは、コルネリオは確かに、「祈りと施しが神の前に立ち上って」(使徒10・4)おりましたが、マリヤには命と人生が掛かっていたということです。

 マリヤは、「ダビデの家系のヨセフという人のいいなづけ」(1・27)だったので、聖霊の働きで胎がはらむ(これは神との結婚ではなく、聖霊によって細胞分裂が始まるということ)ことは、死刑を覚悟しなければならないことだったのです。これに対して御使いは、「怖がることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。」(1・30)と語りますが、厳しい律法の掟に支配されているユダヤ人にとって、これは大問題であり、驚き怪しみ、拒んでも、恐れても、当然なことでした。「神にとって不可能なことは一つもありません。」(1・37)といっても、本人にとっては不都合なことなのです。

 聖書を読むと、神の命令であり、御心であっても、本人にとっては晴天のへきれき、仰天なことが多くあります。ある場合には、不道徳なこともあり、犯罪と思われることもあります。

 アブラハムは神に、「全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22・2)と言われた翌朝、すぐにそれを実行しに出かけます。神は、寸前に息子を殺そうとするアブラハムを止め、「あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに捧げた。」(22・12)として、神の声にどこまでも従うアブラハムへの大いなる祝福を約束されたのでした。

リベカは、夫イサクをだまして、神の祝福を次男ヤコブに受けさせます。その時、「我が子よ。あなたの呪いは私が受けます。」(創世記27・13)と言ってのけます。間違いなく夫の繁栄は神の祝福によるものだと信じているリベカは、信仰のないエサウとその妻たちには受け継がせるべきではないと腹をくくったのです。

 ヤコブは義父ラバンに告げずに全家族と全財産を持って、その地から脱出しました。ラバンが策謀家であり、誤魔化したり欺いたりする人であることを用心して無断で大胆な行動を取ったのです。その前に神はラバンに「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気を付けよ。」(創世記31・24)と警告しています。

 神がことを起こす時、事の善悪、人の目、倫理などの人間的基準を無視する時は多くあるのです。そして、聖書の中でも最も重大な事件、ことの善悪などが問題にならないことが、処女マリヤの聖霊による懐妊なのです。これに対するマリヤの回答が見事です。「本当に、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1・38)

常識や慣習、社会的規範などによって行動をする人が多いのですが、聖書の教えを優先する人を信仰深い人と言います。このことを殆どの日本人クリスチャンは信仰の壁あるいは、課題として持っています。もし、マリヤが常識の人だったら、イエス様は生まれておらず、救いはないのです。私たち日本人が何よりも大事にする人の目や常識は、世界的に見れば、人間的処世術なのです。そのようなものに囚われたら、世界で生きていくこともビジネスの社会でも敗北者あるいは、歯車の一部になるだけなのです。

 マリヤは、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださった。」と言います。それは、マリヤが魂の救いこそ、全ての解決のカギであることを知っていたからです。神に人々の魂の救い、苦しんでいる者の助けを切実に求めていたことを現わしています。

マリヤは、「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。」(49)。と平然と讃美しています。皆さんは、伝道をしたことがあるでしょうか。自分が悪く思われないように考えたり、評判の良い人間であろうとしたら、伝道はできないものです。少なくとも、この一年で伝道を一度もしていない人は、神の目を恐れず、この世を恐れている人です。そして、神の国の門で、「わたしはあなたがたを全然知らない。」(マタイ7・23)と言われるのがおちです。

 「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」と讃美しています。愚かな者でもか弱き者でもありません。戦う勇気のある賢明な女性です。 

 社会や経済、スポーツやゴシップなどを論じ、自分は知恵ある者だと覚えたとしても、神の前では何の価値もありません。大事なことは、飢えた者、弱い者、悲しんでいる者、苦しんでいる者に対して、自分を犠牲にして助けることです。さらに、究極的な助けは、魂の救いです。主イエスを救い主として信じることです。

 もし、あなたが伝道することが苦手ならば、このクリスマスシーズンに教会に来ることを誘ってみてください。あなたが行動を起こす人であることを願います。

ルカ1章41~55節

  • 1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
  • 1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
  • 1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
  • 1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
  • 1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
  • 1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
  • 1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
  • 1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
  • 1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
  • 1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
  • 1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
  • 1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
  • 1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
  • 1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
  • 1:55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」