「天使が語り掛ける人」使徒10章30~36節

クリスマスの4つ前の日曜日からアドベントが始まり、カトリックでは教会歴はこの日から始まるそうです。それは、1月1日ということではなくて、教会の暦がアドベントから始まるのです。なお、カトリックでは受胎告知の日を9か月前の3月25日としています。イエス様の誕生日が12月25日とされたのは325年のニケヤ公会議ですが、実際にはわかっていません。

 ともかく、イエス様の誕生に関しては、何度か天使が現れています。①ザカリヤ、②マリヤ、③ヨセフ、④羊飼い、⑤博士たちが帰った後のヨセフ。皆さんの前に突然、光り輝く天使が現れたら、どうでしょうか。

 今日は同じように天使が現れた異邦人のローマの百人隊長コルネリオの話です。「彼は、敬虔な人で全家族と共に神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた。」(10・2)という人です。彼は、天使に会い、「恐ろしくなって、『主よ。何でしょうか』と答えた。すると御使いはこう言った。『あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。』」(10・4)と言われました。

 「祈りと施しが神の前に立ち上って」とあるのが印象的です。多くの人が、食事や何かの時に、短時間或は瞬間的に祈るだけで、神の前に立ち上るほどには祈っていません。また、施しをする人も、非常に少なく、人は自分の為には金銭や労力を費やすものですが、他人には金も労も取らないものです。ゴーンさんのように、たとえ50億の収入があっても、隠し収入を増やそうとし、また会社に金を出させようとします。

 エルサレムを再興しようとしたペルシャ帝国ユダヤ州の総督ネヘミヤは「私がユダの地の総督として任命された時から、すなわち、アルタシャスタ王の第二十年から第三十二年までの十二年間、私も私の親類も、総督としての手当を受けなかった。私の前任の総督たちは民の負担を重くし、民から、パンとぶどう酒のために取り立て、そのうえ、銀四十シェケルを取った。しかも、彼らに仕える若い者たちは民にいばりちらした。しかし、私は神を恐れて、そのようなことはしなかった。・・・私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください。」(ネヘミヤ5・14.15.19)と祈ったことを私は忘れられません。

 私自身の牧師給は36年間で総計二千二百九十四万四千円、年平均六十三万七千三百三十三円、60万円以下は二十二年ありました。献げたものはその数倍あります。それは、魂の救いを求める私の祈りであり、献身でした。家内に対して、父親が、「お前は久雄さんの働きを支えるのが生き甲斐のようだね。」と言ったそうです。家内も、働いたものを皆、神に捧げ、自らは週1万円以下の小遣い、それも殆どが集会献金でした。私たちの願いは、教会が営まれ、成長することです。「私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください。」神は本当に慈しんでくださいました。

天使が語り掛けるのは、神のために献身した人に対してだけです。打算で生きる人に天使が働きかけたら、神の為ではなく、その人の利益に利用されることになるからです。

 更に、天使が現れるのは、歴史的、民族的、或は非常に大事な時だけです。コルネリオを救いに導きくことによって、異邦人伝道が始まりました。世界宗教になる起点がこの時なのです。「どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」(35)

 「日本人だから、自分は能力がないから、自分は貧しいから、」などは、「神を恐れかしこみ、正義を行う」ことに関係はありません。そして、時代は、終末の様相を呈する自己利益と快楽を求めるものとなっています。

 こういう時には、天使が「神を恐れかしこみ、正義を行う人に」現れるのです。神が働かれるので、能力も富も、地位も名誉も関係ありません。一体、何を語り掛けられるのかと想像します。コルネリオには、「ヨッパに人をやってペテロを招きなさい。」(32)と言われただけで、あとは聖霊がペテロに語り掛けてくれました。

 コルネリオには天使が現れ、ペテロには聖霊が直接語り掛けられました。それは、ペテロは既に聖霊のバプテスマを受けており、「聞く耳、聞く心」があったからです。

 また、「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」(へブル1・14)とあるように、目には見えないけれども、天使は真に救われ、神の国に繋がる人々には、一人一人についているのです。

 私は、危険を感じた時や戦いの時には、「私に仕える御使いよ。私を守り、私のために働いてください。」と祈る時があります。人生は戦いの連続です。戦いに逃げていたら、神の業をすることはできません。神の業をしなければ、魂が救われず、祝福が現れないのです。

 「神様、助けてください。」と祈る人が多いようです。神は助けてくださるのですが、自ら戦い、行う気持ちがなければ、神も天使も、私たちを助けようがありません。コルネリオは、いつも神に祈り、神の代わりに施しをしていました。神がないがしろにするはずはないのです。

使徒10章30~36節

  • 10:30 するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、
  • 10:31 こう言いました。『コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。
  • 10:32 それで、ヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人は海べにある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。』
  • 10:33 それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」
  • 10:34 そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
  • 10:35 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
  • 10:36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。