「信仰の偏見からの解放」使徒10章11~22節

信仰の基準は聖書に記されています。聖書を知らない人に対しても、「律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法です。・・・律法の命じる行いが彼らの心に書かれている」(ローマ2・14.15)として、良心が、神の人に対する裁きの基準であるのです。

 ところが、律法を知っていることが、言い換えれば、聖書を知っているクリスチャン自身が「律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して神を侮るのですか。」(ローマ2・23)というように、聖書の教えから離れて、パリサイ人のように人を裁いてしまう傾向があるのです。人は、信仰に熱心になるほどに、信仰を持っていない人ばかりでなく、信仰から外れていると思う人に対して厳しく当たることがあります。先週、お話ししたように、伴侶に対して厳しく当たる傾向があることは、その顕著な例です。

 聖書の中には、律法の教えや通常の感覚からは、外れている事柄があります。アブラハムは妻サライを妹と偽って王に召し入れさせました(創世記20・2)。息子イサクも妻リベカに対して同様のことをしました(26・9)。イエス様の先祖には、カナン人の遊女ラハブ、モアブ人のルツ、ダビデが不倫と殺人によって得た妻バテシェバがおります。

 戦争の最中に食事をした者は呪われると愚かな誓いをした王サウルは、息子ヨナタンを危うく死刑にするところでした(Ⅰサムエル14・39)。士師記のテーマは「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(士師記21・25)であり、民族間紛争でベニヤミン族を殆ど皆殺しにしたりしたものです。

 聖書というものは「理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」(Ⅱペテロ3・16)というように、誠実でない人が勝手に解釈して破滅してしまうのです。それで、Ⅰヨハネから、信仰を成長させるためのコツをお話します。

1.「罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(1・8-10)。自らの罪深さ、愚かさを自覚して神の教えに従って生きることを願う。

2.「みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。」(2・5)「キリストが歩まれたように歩む。」

3.「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。」(2・15)

4.「義を行う者がみな、神から生まれた」(2・29)

5.「行いと真実をもって愛する。」(3・18)

6.「神によって生まれた者は皆、世に勝つからです。」(5・4)。世を恐れたり、迎合しようとしてはいけないのです。

7.「神の御心にかなう願いをする。」(5・14)

聖書は愛と義の神が、人に真理を教えるものであって、大事なことは生ける神に従う信仰姿勢です。勝手に、神の教えを解釈して都合の良いような生き方をするならば、神の祝福が得られないだけでなく、罪と悪の誘惑に陥ります。

 今日の聖句に戻ります。ペテロは、幻を見て、その意味するところを探り、聖霊にも聞いて、すぐに自分の固執していた偏見を改めて、これまで交流することを禁じられていたと考えていた異邦人を家に泊めました。反応と従順の速さに驚きます。自分の過去や考え方に囚われている人は、悩んだり、正当性を確認したり、ともかく行動しないのです。

 冒頭の異常行動について、お話ししましょう。アブラハムとイサクは、異邦人の王を恐れたのです。それに対して、神は、神を信じない権力者にも負けないことを教えました。3人の女性は、神が人を差別せず、たとえ夫を殺され無理に妻にされたとしても、心を見ておられることを、私たちに教えます。馬鹿な戒めをしたサウル王は、その罰を受けそうなところでしたが、人の命は、王の命令よりも尊いことを教えられました。しかし、悔い改めないでダビデを殺そうとして滅びました。士師記のいろいろな事件は、指導者がいないと、民は勝手に正義を振りかざして、愚かなことをしてしまうものだと教えられます。

 なぜ、信仰の偏見を持つのでしょうか。神を怖い方であると誤解しているからです。うまくいかないことがあると、神の罰であると考えるようなことをしてはいけません。神は、そんな愚かな神ではありません。「無知で心の定まらない人が」勝手に神の裁きを考えているのです。神の裁きは、世の終わりの永遠の裁きしかありません。それまで、神は慈愛をもって、私たちの罪深さ愚かさを忍んで「救おう」とされているのです。

 生まれてからずっと食べてはならない、と教えられてきたものを食べることは難しいことでしょう。それには、人格的成長と決断力が必要です。ペテロのこの行動から、異邦人伝道が始まり、キリスト教は世界宗教になっていきます。

 家内がガンになりました。未信者である子供たちは動揺しています。私の願いは、祈りと栄養療法によって、手術までに完全に癒されていることです。次の願いは、家内の信仰が「生きることはキリスト、死ぬことも益です。」(ピリピ1・21)という信仰の境地を得ることです。私も死の体験を経て、覚悟を得ました。病が、罰であるとか、越えられないものだとかは考えたことはありません。多くの危機を乗り越えてきました。家内にとって初めての自らの試練です。私自身は、全てが益になると信じております。

使徒10章11~22節

  • 10:11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
  • 10:12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
  • 10:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。
  • 10:14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
  • 10:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
  • 10:16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
  • 10:17 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。
  • 10:18 そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。
  • 10:19 ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。
  • 10:20 さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」
  • 10:21 そこでペテロは、その人たちのところへ降りて行って、こう言った。「あなたがたのたずねているペテロは、私です。どんなご用でおいでになったのですか。」
  • 10:22 すると彼らはこう言った。「百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話を聞くように、聖なる御使いによって示されました。」