「受けるよりも与えるほうが幸いです。」使徒9章36~43節

クリスチャンでなくても気前の良い人はおります。気前が良い人の周りには人が集まり、人に好かれます。ケチでなくても、損得勘定の人には、親友はできず、部下もついて来ません。子供でも、自分の親が自分の為に犠牲を払ってくれた経験がないと、親を慕うという意識は育たないものです。

ネットで人がケチになる理由を探ると、過去のトラウマや、自己中心、他人を気にしない、などが出てきます。母親が嫌いな子どもの感想も同じようなものになっています。自分のことに囚われている人は、自己顕示欲が強いのですが、人には好かれないようです。

  イエス様は、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16・24)と言われました。続けて、「たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(26)と忠告しています。つまり、自分を捨てられない人は、神の国に行くことは難しいという警告です。ところが、実際には、生まれつきの人間が、自我を捨てるということはできないもので、クリスチャンになったからといって、簡単に十字架を負う人生は生きられないものです。

  しかし、実は自己否定こそ、その人がこの世の生き方を厭い、神の国を求めたかどうかの試金石なのです。罪というのは、自己中心であり、神に目を向けない的外れな在り方であることはお話ししてきました。つまり、私たちの日々の関心が、自己実現であるならば、この世での成功や金持ちになることを願うものとなり、自己否定ならば、この世での働きは、愛の実践のものとなるのです。

私がつくづく思うことは、夫婦の在り方こそ、自己否定と愛の試金石であるということです。「自分の十字架を負い」という意味は、「自分の周囲の人の罪深さを背負って生きる。」という意味であると説明しています。最も身近な伴侶もまた、罪びとであり、自己中心です。自己中心な者同士が毎日一緒に生活し、言葉を交わし、利害を対立させます。もし、家族に対して、自己主張と自己利益を繰り返していたら、決して、自分の十字架を負った生き方とは言えません。

「他人には優しいけれども、家族や伴侶には厳しい。」という人がおります。残念ながら、偽善者です。他人に優しくするからといって、伴侶に対して愛の実践をしていない言い訳にはならないからです。日本人には言い訳が多く、そういう人は、「本当の自分はわかっている。良い人間だ。」などと考えている人が多いことを感じています。そういう人は、日々の自分を変えていく努力を怠っているのです。知識偏重(へんちょう)教育の災いでしょうか、知っていたら自分のものになっていると誤解しているのです。夫婦の愛がどんなものかを知っていても、実践していなかったら、伴侶から愛されることはありません。

最も身近な人こそ、最後の審判の時の証人なのです。ところが、日本には真に敬虔なクリスチャンが殆どいないので、基準が低くなっています。外国人を車に載せると、皆が平気で速度制限を破っているのに驚かれます。同じように、多くのクリスチャンが神の国の基準が聖書に記されているのに、勝手に基準を下げているのです。皆の水準が低いので、裁かれることはないと踏んでいるのでしょうか。聖書をよく読むと、そのように誤解しているパリサイ人に対するイエス様の言葉の厳しさに身につまされる思いです。

 ドルカスが神の国の基準に合致していることは、神ご自身が証明されました。人々に、いろいろなものを施していながら、自分のことには構わず質素な暮らしをしていたことと思われます。そして病気になって死んでしまいましたが、人々の落胆はひどく、このままでは福音の名折れになるとして、ペテロは蘇りを祈りました。

「もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(Ⅰコリント15・16.17)

 知識偏重の日本にあって、良い教え、知識を求めて教会に来る人は多いようです。しかし、聖書の教えは、神を信じ救われた者は、死んでもまた、終わりに日にこの地上に蘇るという、異常な教えです。「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです。」(Ⅰコリント15・32)。神の国が死んだ先にあるという安易な教えではなく、全ての者が裁かれ、永遠のいのちか、永遠の滅びのどちらかに決められるという怖い教えです。その証拠が魂の救いです。

 聖書をよく読み、信仰の偉人伝を読み、またすばらしい敬虔なクリスチャン達に接すると、自らの罪深さ、聖めの足りなさを思い知ります。先週、櫻井先生が、「クリスチャンは義人です。」と説明されました。大事なことは、義人らしく生きる願いと歩みをしないと、罪や誘惑に惑わされてしまうということです。

 日本には、ドルカスのような歩みをするクリスチャンが少ないのです。だから、多くのクリスチャンの信仰水準が下がり、信仰において事故を起こすのです。仲の良い夫婦関係を作り出す努力をしなければなりません。みせかけではなく、真に愛し合う信仰の家族を作り出さなければなりません。それは、人に要求することではなく、自らに課すことなのです。

使徒9章36~43節

  • 9:36 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。
  • 9:37 ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。
  • 9:38 ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください」と頼んだ。
  • 9:39 そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。
  • 9:40 ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。
  • 9:41 そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。
  • 9:42 このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。
  • 9:43 そして、ペテロはしばらくの間、ヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に泊まっていた。
  • 使徒20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われた。