「『神の安息』と『真の献身』」申命記5章13~14節

聖書直訳 
「6日間は働き、汝の仕事の全てを為せ。しかし、7日目は汝の神ヤハウェへの安息日であり、汝の男奴隷も女奴隷も汝と同様に休息しうるために、汝も、汝の息子も、汝の娘も、汝の男奴隷も、汝の女奴隷も、汝の牛も、汝の驢馬も、汝の如何なる家畜も、汝の家にいる如何なる外国人も、如何なる仕事も為す勿れ。」

 「安息日律法」は、前半だけが強調され、後半は余り日の目を見ることなく、陰役に留まっています。本日はその部分に着目します。

 「安息日聖別」の根拠には二種あります。一つは、出エジプト記二〇章で、神の創造の業を根拠にしています。大上段の構えです。二つ目は、申命記で、エジプトの地における奴隷からの解放という事実に基づいています。つまり、「安息日」は、「神が休んだから休む」というのではなく、「神の救いの記念」なのです。従って、単に週一日だけでなく、毎日が安息です。そのような安息を覚えて、「一日だけを聖別する」というのが申命記の「安息日」です。

   Ⅰ 救いの原点「神に仕える」

  御言葉はまず、「六日間は働き、汝の仕事の全てを為せ」と言います。一般的な日本の教会では、「仕事」や「働き」に否定的で、仕事もしないで教会に来る人を「敬虔な信者」「信仰熱心」と呼び、「良い信徒」と推奨しているように感じられます。

  「仕事をしてはいけない」という面ばかりが強調されているような気がしますが、御言葉は「六日間は働き、汝の仕事の全てを為せ」と言っています。これは軽い言葉ではありません。六日間を自由に使ってよいとのでもなく、だらだらと仕事してもよいというのではありません。「働く」という言葉「アバド」は、創世記二章五節、一五節、三章二三節、四章二節、一二節などでは「土地を耕す」と訳されています。「土地を耕す」のが基本的な人間の働きです。

 「耕す」という行為は、単に鍬で土をいじることだけではないでしょう。土を耕し、水を補給し、肥料を施し、除草し、枝を払い、植え変えし、等々、全体としてエデンを管理することでしょう。単に管理のみではなく、それを運用し、新しいものを発見し、それを発展させ、展開させることまでも期待されていたのではないでしょうか。「エデンの経営」です。「耕す」をこのように、「総合的な経営」と理解して初めて、地を治めさせるためにした人間の創造が理解できます。「地を耕す」とは、まさに神の代官として「地を治める」ことであり、神に仕えることなのです。

 その意味で、「アバド」という言葉は、「仕える」という意味を帯びてきます。創世記一五章一三・一四節、二五章二三節、二七章四〇節などです。その上で、「六日間、働き」を読めば、全く意味が異なってきます。六日間、神に仕えるのです。一日だけ神に仕え、六日間は、自分勝手に好き放題、気ままな生き方をしてよいというのではありません。

日常生活において、私たちはヨコを見てしまいがちです。ヨコを見たら、ズルをする人が得に見えます。仕事をサボり、だらだらとして、他人に負わせて、自分は楽をする、それが賢い生き方のように見えます。自分はあの人の何倍も働いているのに、との思いに苛まれ、真面目にやるのが損に思えてきます。ヨコを見ることから起こります。肝心なタテを見ていないのです。「仕事を為せ」とは、神と自分との契約ですから、他人には関りがないことです。私たちの信仰の姿勢が問われます。

II 安息から仕事へ、仕事から安息へ

 安息日律法を禁令と解すると、仕事に対する歪な思想が生まれます。「仕事をするのが権利」で、「仕事を休むのが義務」のようにです。しかし、逆です。「仕事をするのは神への義務」であり、「仕事を休むのは神から与えられた権利」なのです。

 「安息」とは、神による救いの境地、基督者の権利です。救われた今は、全ての日が安息日です。安息の中から初めて、心からなる「神への奉仕」つまり「仕事」が始まります。安息にない者に、いくら神への奉仕を説いても、強制労働になるだけです。さもなくば、神なしの物質主義に堕してしまいます。結局、聖書の神の偶像化です。「安息から仕事へ」は、翻って「仕事から安息へ」ともなります。「安息なくして仕事なし」ですが、「仕事なくして安息もなし」です。

 「神の安息」は、「救いの体験」によって初めて知ることができます。救いは悪魔の奴隷からの解放であり、安息は奴隷からの解放です。だから、奴隷からの解放なしの仕事は「新たな奴隷化」に過ぎないのです。

   III 主の栄光の安息日

 その結果、主こそが「安息日の主」であることを宣明します。一四節の「主の安息」の「の」は、場所、時間、目的などの方向を示す前置詞ですから、「主からの安息」ではなく、「主に向かった安息」、「主への安息」です。 主の栄光こそが、安息の原点であり、安息日の印です。主の栄光のない安息日は、パリサイ的な形式主義であり、人間的な宗教です。

 「日本宣教における緊急の課題」は、この点から、主の栄光を主の栄光として語ることででしょう。あまりにも、この国においては主の栄光がないがしろにされ、基督教といえども、神抜きの、人間的な宗教への傾きを強く持っているように思われます。日本宣教のために緊急に何をしなければならないかといえば、基督者が基督者として生きることではないかと思うのです。安息を本当に体験しているでしょうか。安息に基づき、神に向かって仕事をしているでしょうか。

 基督者が、神の召命を受け、神の言葉に基づき、信仰を基礎として、神に仕える「仕事」を行う「信仰経営(クリスチャン・ビジネス)」が求められます。それこそが、「真の献身」だからです。

申命記5章13~14節

  • 5:12 安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、【主】が命じられたとおりに。
  • 5:13 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
  • 5:14 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も──そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。
  • 5:15 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。