「助けを得て伝道し、聖められ。」使徒9章18~28節

パウロは劇的瞬間的回心をしました。ただ、人によっては少しずつ変えられ、新生というものを経過的に獲得する人もおります。アメリカの福音派は、救いを瞬間的なものと捉える傾向があり、そのことが信者の聖化や成熟をないがしろにするものとなったという分析もあります。

  救いは、悔い改めに基づくものですが、この悔い改めによって、人は神との正しい関係になかったことに気が付き、方向転換つまり、回心をするのです。そして、人間の能力や努力によってではなく、キリストによる罪の贖いと救いを唯一の拠りどころとして受け入れ、信じることが必要です。ところが、実際には、真に救われていないのに、救われたと誤解して、それが信仰生活だと捉える大変な過ちをしている信者もおります。

  「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」(ピリピ2・12)とあるように、救いとそれに伴う聖化は、信者の側の努力と願いが必要になっており、その実践こそが、救いの外的証明として、誰の目にもわかり、自らも品性や考え方の変化として確認しうるものとなります。

 つまり、信者になったものは、その考え方、嗜好、生活、その他、殆どの面で変化がみられるものであって、その変化がない場合には、救われてはいないという証明になるわけです。それは、形式的なものではなく、模倣ではないので、先週お話ししたように、先輩信者の真似をしたり、その教会の習慣に捕らわれるものであってはいけないわけです。

 また、罪の誘惑もあるので、聖書を読み、祈り、聖徒の交わりを保つことが信者の聖さを保つための必要条件となります。ところが、人は生まれつきの性格や環境社会による習性が影響を与えるので、それらを聖書や祈り、聖霊の導き、そして聖徒の交わりである教会で教えられながら、成熟、聖化していくことが重要なこととなってきます。

「以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」(Ⅰペテロ1・14.15)

 信者にとって大事なことは、救いというもの、信仰告白は、それだけで祝福と天国が保障されるされるほど、安易なものではなく、「救いの達成」、「聖なるものとされ」ることが必要であることを常に覚えていなければ、罪の誘惑に陥るということです。

 そして、これらのすべての祝福が教会においてこそあるのです。「教会はキリストの身体であり、一切のものを一切のものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1・23)が奥義なのです。

 前にもお話ししたようにパウロの救いと働きは、教会にとって非常に大きなものであり、神はそれを計画しておられたわけです。サウロは、救われた後直ちに「イエスは神の子である。」(20)と宣べ伝え始めるのですが、これを聞いた信者も他の人々も驚きました。そして、ついにはサウロ殺害計画を持ち、門を見張ります。ところが、ここで「彼の弟子たちは、夜中に彼をかごに乗せ、町の城壁伝いにつり降ろした。」(27)とあります。既に、サウロには弟子ができていたのでしょうか。驚きです。

 エルサレムに逃げたサウロを「みなは彼を弟子だとは信じないで恐れていた。」(26)は尤もでしょう。ところが、「バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き」(27)執り成しをします。私は、この「慰めの子」という意味を持つ、バルナバという人が好きで、昔は自分のアメリカ名をBarneyと言われるようにしたのですが、自分でもよく発音できず、彼の正規な名前ヨセフから会社名にしたのです。むろん、マリヤの夫の名前でもあります。

 サウロはエルサレムでも、命を惜しむことなく伝道したのですが、彼を守り支え、教えたのが、「兄弟たち」(30)でした。パウロの書簡は新約聖書の多くの部分を占め、ギリシャ語を用いる教養ある教理と伝道は、世界宗教となることに大きな貢献をしています。ただ、それは教会の働きとして、多くの兄弟である信者に支えられてのことであり、その信者との交流こそが彼を聖め、成長、成熟させたのでした。

 聖めや成熟は、伝道と信徒との交わり、つまり教会においてなされます。伝道をし、人と交流するからこそ、執り成しや助けや奉仕をし、そして結びつきが強くなり、自ら一人では得られないこと、キリストの奥義を体得していくのです。私自身は、多くの試練、困難、闘い、失敗、挫折、未熟さを体験してきましたが、それらが全て無益な者でなかったことを知ります。

 草花や木々の世話をしていると育て方・育ち方がそれぞれ全く異なることを教えられます。皆さんがどのような品種で、どのような成長をし、どのような花を咲かせ、どのような実がなるか、自らをわきまえて祈りと御言葉、そして聖霊の感化と教会の働きの中で確認していって欲しいと願います。

 なぜ、「恐れおののいて自分の救いの達成に努め」なければならないのでしょうか。それは、「あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。」(Ⅱテサロニケ1・4.5)

使徒9章18~28節

  • 9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
  • 9:19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
  • 9:20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。
  • 9:21 これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」
  • 9:22 しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。
  • 9:23 多くの日数がたって後、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、
  • 9:24 その陰謀はサウロに知られてしまった。彼らはサウロを殺してしまおうと、昼も夜も町の門を全部見張っていた。
  • 9:25 そこで、彼の弟子たちは、夜中に彼をかごに乗せ、町の城壁伝いにつり降ろした。
  • 9:26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。
  • 9:27 ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。
  • 9:28 それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。