「冷たいか熱いかであって欲しい。」使徒9章1~16節

「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」(黙示録3・15)

  日本人は、子供の頃から、良い子であるように躾けられています。褒めて育てると言われますから、よけい人の目を意識したこじんまりとした素材となります。失敗や挫折に弱く、冒険やチャレンジなどゲームや本の上でのものとなり、一人で生きていくことなどできなくなります。

  先日、聖研で申命記28章の「主の御声を聞き従うならば、何をしても祝福される。」から、どんな祝福を望むかと質問したところ、多くの人が返事に窮していたことが、日本人教育・躾・社会規範の結果かと印象深く忘れられません。「出る釘は打たれる。」かのように、「冷たくも、熱くもない人間になるように社会教育を受けてきたのでしょう。

  ユダヤ人は、人や国などよりも神の教えと自分たちの習慣を大事にしてきた人々で、そのために歴史的にも多くの迫害や批判を受けてきましたが、それに打ち勝って富や知恵を獲得してきました。迎合しないことが民族的独立性を保つ強い要因になり、また、強い意志や忍耐力にもつながってきたと思います。勤勉であることから日本人はユダヤ人に似ているとも結われますが、ユダヤ人の独立性から比べると日本人の迎合性は、全く異なるものとなっています。私は、教会員には、他国の人々と親しく付き合ってもらいたいのですが、それができないのは、日本人の閉鎖性が大きいのです。日本人が良いと思っていることが、他国ではそうではないことを知らなければなりません。外国の人は日本人の単なる会話には同調できません。内容のある会話をしてみてください。国際性を持たない人は天国性も持てないと私は思います。日本人が普通に考えていることは、神の国からは離れているのです。信仰をもって生きるには、自分の在り方を変えないといけないのです。

  パウロは、生粋のユダヤ人であり、ユダヤ教正統派としてガマリエルの下で厳格な教育を受け、さらにローマの市民権も持つ家柄に生まれていました。彼は、自らの受けた教えからキリスト教徒が間違っており、社会を不安に陥れているとして取り締まりをしようとして、その捕縛の長としての資格を得るほどでした。

 そのように間違いを正し、不埒な者を捕まえようとするパウロは、若いがゆえに激しく暴力的ではありましたが、正義感であり熱心でありました。このパウロに対して、神が超自然的に語り掛けたのです。これは、他の人には聞こえず、理解もできないことでした。

 ダマスコにいるクリスチャンたちは、サウロという男が、自分たちを捕まえに兵隊を連れてくるということでおののいていました。ところが、そのサウロに会いに行って、執り成しの祈りをしなさいと主の幻が語り掛けます。アナニヤはその通りに出かけて家に入り、「兄弟サウロ」と語り掛けます。これは、アナニヤもまた「聖霊に満たされ」(9・17)ていたからです。聖霊に満たされていなければ、神の業をすることはできません。

 パウロは「キリストの名のために、どんなに苦しまなければならない」神の「選びの器」です。パウロの特徴は、信念と信仰の為ならば、どんな犠牲も苦労も困難も問題としないでぶつかっていくことです。このようなパウロが12番目の使徒として、他の誰よりも功績のある働きをしていくことになります。

 私自身も多くの迫害や試練、そして戦いがあり、そして超自然的な主の祝福で守られてきました。しかし、私にとって最も大きな試練は、日本人の信者は、これまで生活してきた習慣や考え方から脱却することができず、信仰の戦いをしようとしないことです。福音という良き祝福の知らせを、単なる精神的な拠りどころとしてしか捉えていないことです。それは牧師たちにも言えることです。説教を作ること、信者を増やすことに関心を持ち、神の御心を行うこと、聖霊に満たされることをないがしろにしているように思われます。日本的な体制の維持に関心があるように思われます。

 「大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち、神のイスラエルの上に、平安と哀れみがありますように。」(ガラテヤ6・15.16)

 人の考える合理的な模索や努力、計画、知恵はどれにしても、無益に過ぎ去っていくように思われます。「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなた方の持つ信仰が、人間の知恵に支えられず、神の力に支えられるためでした。」(Ⅰコリント2・4-5)

 私たちの生活が慣れるなかでぬるま湯のものになる中で堕落が始まります。そして、試練が起こり、奮起して悔い改め、神にすがる必要があるのに、もはや悔い改める力もなくなり、災いが私たちを崩壊させていくのです。ユダヤ人への試練は、民族特有なもので、逃れようがなく、彼らを孤立させ、神の民として保ちました。私たちクリスチャンは、聖霊に満たされていないと、罪に惑わされ、知識と知恵をこねくり回して、神と教会に怠惰になっていきます。そして、罪とサタンの惑わしによって、滅びの中に入っていくのです。その時には、もはや助けようがない状態になっているのです。私は、そういう人々を見てきました。積極的な反発や不従順に対して、神は助けることはしません。その苦しみの中で救いを求めることができたら、どうにかなります。神に従うというのは、ぬるま湯の状態ではできないことなのです。

使徒9章1~16節

  • 9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
  • 9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
  • 9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
  • 9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
  • 9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
  • 9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
  • 9:12 彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」
  • 9:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
  • 9:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
  • 9:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
  • 9:16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」