「虚栄の信仰。」使徒8章9~24節

人は、なぜ宗教に入るのでしょうか。神を信じる者として、神が人を創造されたのは間違いないのですが、人間の罪がその信仰心をゆがめます。そして、「罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(サタン)に従って、歩んでいました。」(エペソ2・1)。その生き方は、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行」(2・2)うものです。

 ですから、救われたとい証拠は、自分の欲望のままに生きない、ということです。先週お話ししたように、魂が真に救われたクリスチャンは、迫害や試練に動じないのです。魂が本当に救われているのか、形式だけのクリスチャンなのかということは、キリスト教の歴史にとっても、教会にとっても、また信仰者自身にとっても、大きな問題です。

 ピリピによって伝道されたシモンは、魔術を行って人々を驚かし、それによって生きていました。人々は、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」(8・10)と信じて、彼にお金や物を貢いでいました。ところが、それが偽りであり、ごまかしであることは自分自身が知っていました。ですから、「シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。」のです。

 さらにペテロとヨハネが来て、聖霊のバプテスマを人々に受けさせると、そのすごさに驚きました。「使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、『私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい』と言った。」シモンは、これまでの生活習慣や罪によって汚された考え方から抜け出ていなかったのです。

 罪を悔い改めて洗礼を受けても、昔の考え方や生き方から抜け出られない、或は抜け出ようとしない人が多くおります。「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」(ヤコブ1・23.24)。礼拝の後、スモールグループで説教を振返り、自らの感想と信仰を告白するのは、この忘れてしまうという罪びとの修正を補うためです。さらに、食事を共にするということは、旧約の「和解のいけにえ」と同じように、神の前で信仰者と共に食事をしながら分かち合うことが必要だからです。

 神のことばに従い、「みことばを実行する人」は、神の祝福を受けます。私が個人的にアドバイスをしても全く守らない人もおります。それは自由です。私は、主のしもべとしては、ただ教え、執り成し、祈ることに徹すれば良いと考えています。しかし、滅びはその人のものです。

「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」(ヤコブ1・26)。その人が自己中心であり、罪びとであるかどうかは、その人の生活で明らかになります。自分に囚われているのです。信仰者というのは、自分の利益、富、考え、立場などをいつでもみことばによって修正するのです。「私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。」(Ⅰコリント4・1-3)

 思い悩む人は、自分を捨てきれず、自分を変えようとせず、周囲と神と状況を都合の良いようになるように願うからです。全てを覚悟すればノイローゼになることはありません。しかし、罪とは自己中心なので、悩むということが本来の人間性なのです。ところが、それでは救われず、解放されることはないのです。ペテロは、はっきりと悔い改めを求めています。「あなたの心が神の前に正しくないからです。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」(8・21-23)。

私は、日本には聖霊に満たされ、神に従って祝福される信仰者が少ないのは、このような神の言葉に忠実である牧師が少なく、人を配慮してしまうからだと思っています。説教者は、みことばを軽くしたり、変えたりしてはいけないのです。また、信者のほうも、みことばに忠実というよりも、ほどほどのクリスチャンであれば良いと考える傾向があるからです。私が牧師になろうとした時、未信者はもちろん、信者も、そこまで熱心にならなくてもよいのに。」と諭そうとしてきたことは事実です。これではリバイバルが日本に起こるはずがありません。

「狭き門から入りなさい。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者は稀です。」(マタイ7・13.14)。信仰者は確かに喜び、平安、愛に満たされます。しかし、決して楽で楽しく無理がないとは書いてありません。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16・24-26)

使徒8章9~24節

  • 8:9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
  • 8:10 小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。
  • 8:11 人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。
  • 8:12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
  • 8:13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。
  • 8:14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
  • 8:18 使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、
  • 8:19 「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。
  • 8:20 ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。
  • 8:21 あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。
  • 8:22 だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。
  • 8:23 あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」
  • 8:24 シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」