10月4日 「キリストはWonderful Counselor。」 イザヤ91〜7節

イザヤ9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
9:3
あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
9:4
あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
9:5
戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
9:6
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

イエス様は、「ワンダフル カウンセラー」と預言されています。どのように素晴らしいカウンセラーなのか確認してみましょう。

中風の人が4人の人に戸板のような寝床に担がれ、イエス様が説教されている家の屋根を剥がしてイエス様の前に釣り降ろされました(マルコ2・3-4)。中風とは、現代では、脳梗塞や脳出血によっておこる半身不随や手足のマヒとされていますが、昔は、身体が動かないこと全般に言われていたのではないかと思います。戸板に載せて運んできたことは、むやみに動かさないので正しい判断でしょう。この4人の強引さには驚きます。よほど、この病人を大事に思っていたのでしょうが、説教中に屋根を剥がして降すのは、すごい執念です。命の危険をも差し迫った状態だったのでしょう。

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました』と言われた。」(マルコ2・5)とあり、その4人の信仰が記されます。その信仰とは、友を救うためにガムシャラになったことでした。そして、病人には、癒しを祈ったのではなく、罪の赦しを宣言されました。律法学者は、それを見て、赦しを宣言することを非難します。イエス様は、「中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。」(マルコ2・9)と彼らを指導します。人は、病を癒されても心の悩みは解決されないものです。イエス様は彼の根本的問題を見抜いたのです。

律法の順守を重視して人を批判する人々に「『安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか』と言われた。彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。」(マルコ3・4.5)。このことを何故、安息日順守と結びつけてされたのか。それは萎えた手を癒しただけでは、この人の罪責感は癒されず、自分は罪を犯したから手が萎えてしまったという劣等感・認罪感が癒されなかったからであると思います。神は、良いことをすることを喜ばれる情愛に満ちた神であるという意識こそ、人間が強く生きるためには必要なのです。

サマリヤでは、女性に水を飲ませてくれと井戸で頼んでいます。「サマリヤを通っていかなければならなかった。」(ヨハネ4・4)とありますが、この女性に会い救いに導くのが目的であったようです。ユダヤ人が見下しているサマリヤ人、それも女性に対して話しかけ、水を求めることは、慣習からはあり得ないことです。そして、会話に入り、飢え渇きを癒す「永遠のいのちへの水」(14)を与えるという信仰論議になり、更に女性が正午に水を汲みに来る、つまり、人に会いたくない恥を負っていることの追求に入ります。この女性の夫は次々に死ぬか分かれたかで5人もいました。そして現在は、妾として養われているのでしょう。イエス様がそのことを知っていることを聞いて女性は驚きます。「先生。あなたは預言者だと思います。」(4・19)とは、同胞のサマリヤ人からも蔑視されていた自分に、神に仕える預言者が語り掛けたという喜びもあります。

 「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(4・23.24)とは、蔑まれていたこの女性の祈りへの神の応答です。そして、町に戻り、「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」(4・29)。既に隠れひがんで生きる女性ではなくなっているのを見て、「その町のサマリヤ人のうち多くの者が、『あの方は、私がしたこと全部を私に言った』と証言したその女のことばによってイエスを信じた。」(39)のです。

 姦淫の現場で捕らえられた女性をイエス様の前に連れてきました。律法では石打の刑であり、逃れられないと皆が考えておりました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8・7)。そして、イエス様は、地面に何かを書き続けられました。そして、「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。」(9)。「『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」(10.11)。

 誰にも悩む問題はあります。それに対して、躁うつ病になる人は、人一倍優しい人かもしれません。統合失調症になる人は、どうにかして解決しようとして必死になり過ぎるのかもしれません。ともかく、主は心を癒してくださいます。自分の過去や失敗をどうにもすることができません。祈り、主に叫び、主に聞くことです。主イエスだけが、私たちを赦し、癒してくださいます。

 人間が罪深いということは、神に依り頼まないで自分の力で解決しようとすることです。そして、人の罪に対しては、許さず責めることです。信仰者は、自らの過ちも、弱点も、罪も、神に委ねて生きるのです。


10月11日 「癒しは信仰者のパン。」 マタイ152131

マタイ15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
15:22
すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
15:23
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。
15:24
しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。
15:25
しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
15:26
すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。
15:27
しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
15:28
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
15:29
それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。
15:30
すると大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。
15:31
それで群衆は、口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そして彼らはイスラエルの神をあがめた。

先週のサマリヤの女性の救いの後、昼食を食べていないイエス様に「食事をしてください。」(ヨハネ4・31)と勧めると、「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(32)と断り、「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(34)と語られています。このことは、神の業を行うと、つまり霊的に満たされると肉体的にも満たされるということの教えですが、長い断食をした時の満足感と同じような気がします。その後に、「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。」(ヨハネ4・36)と宣教の結果として永遠のいのちに至る救いを得た人々がいるということを語られています。注意するべきは、ここで救われたのは「その町の多くのサマリヤ人」(ヨハネ4・39)であるということです。サマリヤ人は、律法によれば選ばれた民族ではありません。

今日の聖句で、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」(26)とイエス様が語られているのは、神の業をするのは、救いに選ばれたイスラエルの人々が対象であるということです。ところが、選ばれていないはずのカナンの女性が「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」という信仰を現わしたので、イエス様は癒しの業をされたのです。そして、この時も、「ツロとシドンの地方に立ちのかれた。」(21)とあるように、それらはフェニキアの領土なのです。

このようにイエス様は、わざわざ異邦の地に行くのですが、その時の癒しや奇跡は、出し渋っておられるのです。むろん、人の心を見抜く方ですから、それは彼女たち自らの強い信仰の発言を促し、癒しや奇跡に終わらない信仰に留まらせるものであることを、私たちは心得ておかなければなりません。

さて、「子どもたちのパン」と語られたことが癒しや奇跡であるのですから、信仰者にとって、癒しや奇跡は、信仰者を養う糧であることを意味しています。そして、新約聖書全般を読むと、以下のポイントがあることがわかります。

1. 未信者への神の現われ、福音としての奇跡や癒し。

この30節からの大勢が癒されたことは、その例です。人々は、自らの癒しや不具合の回復を通して神の真実さを悟り、神を崇めるのです。そして、信仰が単なる病の癒しに留まらず、神の国への渇望に至るようにイエス様は語り掛けるのです。そして、信仰者もまた、それらの奇跡によって、信仰を成長させるのです。

2 信仰者には、信仰を養うパンとしての奇跡や癒し。

 私たちは、食物が無ければ生きていくことはできません。多くの場合、肉体的な命と食物への関心で満ちていて、永遠のいのちへの関心は、信者と言えども、継続的に保持して霊的な食物を求め続けるということは、なかなかないのが現実です。このことは、「私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。」(Tコリント3・1-2)という未だ未成熟な信仰の状態です。

 信仰は神の国への確信であり、そういう面では、地上での病気や怪我、障害や不幸というものは、信仰者にとってはあまり問題ではないものです。しかし、実際には、病気になると生活や身体に支障があり、私たちはそれによって信仰が揺らぐものです。そういう時に、神に癒しを求めるということが、神への依存であり、癒しや奇跡によって神の助けを得ることができるのです。そういう面で、私たちが思い悩むか、神に求めるかどうかで、信仰が成長するか、停滞するかが具体的に明らかになるのです。

 「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(へブル5・113.14)とあるように、義とは、保証もないのに正しい行動を取ることです。甘やかされて育つと、病気や困難に出会うと、ただ怯えるばかりで正しい行動が取れないのです。堅い食物とは、よく噛まなければ消化できないものです。そして、よく吟味し、よく準備して信仰の行動に出るからこそ、良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練され」るのです。

 パウロは、前に述べたように石打の刑にあった後遺症で背骨が曲がり、障害を持っていたのですが、伝道旅行に明け暮れました。「私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Uコリント12・10)。つまり、パウロは、奇跡や癒しが無くても、イエス様のように固い食物である強い信仰をもって神の業を為し続けたのでした。

 神からの恵みである癒しや奇跡を通して成長するということは、大事な柔らかいパンであり、未信者や初信者には必要なことです。そして、奇跡や癒しがなくても、他人が理解しなくても神のために働くということが、堅いパンを食べながら働く成熟した信仰者なのです。柔らかいパンでも食べられないのは、自らが食べようとしないからです。カナンの女性を見習わなければなりません。