4月5日 「恐れてはなりません。」  ヨハネ142631

ヨハネ 14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
14:27
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
14:28
『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。
14:29
そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。
14:30
わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。
14:31
しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行っていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。

今回のコロナウィルス災害では、教会員の結束と助け合いの姿に感動しています。ラインで示される励まし合いは、確かに魂が救われて艱難の中でも忍耐、品性、希望が与えられ、神の愛が心に注がれた人々であることを証明しています(ローマ5・3-5)。先週お話ししたように、「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を」(Tペテロ4・12)通して、「信仰が試される」(ヤコブ1・3のが終末というものなのです。

王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」(マタイ25・45.46)。魂の救いは、信仰に入るための門です。聖霊のバプテスマは、信仰をもって強く生きるための力です。そして、試練の道を辿りながら天の御国を目指して、信仰者が助け合いながら歩むのです。『天路歴程』を読んだ人ならば、その意味合いがわかるでしょう。神は、天国入国を安請け合いに保証してはおりません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10・38.39

今後、教会員にコロナウィルスに感染する者が起こるかもしれません。そしたら助け合おうではありませんか。感染が怖くて、その人を避けるようならば、神も避けた人を避けるでしょう。私たちは、防災食品や飲料水を蓄えていますが、それを感染者や自宅待機の人に提供します。私の魂を救ってくださった主イエスは、私のために命を犠牲にしてくださいました。それならば、私たちが、信仰の友であり、神の家族の教会員の為に助け合うのは当然です。

感染を恐れて礼拝をしない教会も多く現れています。当教団でも、そのような教会が起こっています。教会に来ない信者も多く出ているようです。それは自由です。でも、80年前の戦時統制で教会に来ることを禁じた時に信仰を捨てたことに似ています。当時、多くの牧師が政府に迎合して、天皇崇拝を選びました。

感染したら、他の人に迷惑をかける、そして死者がでたら、どうする、と政府も、人々も集会禁止を呼びかけます。他方、勝手な人々は街に出て、酒を飲み、無防備な生活をしています。私たちは、日常は節制を保ち、自らは感染しないように注意しましょう。

 感染を気にするなと言っているのではありません。感染を恐れて、礼拝や信仰を二の次にするなと言っているのです。私たちの信仰は病よりも大事なものです。また、そのような恐れが感染者を毛嫌いするような行動になることに注意しなければなりません。

 ペテロは、自分が捕らえられることを恐れて、イエス様を「そんな人は知らない。」(マタイ26・74)と3度も拒みました。人間の力というのは、そんなものです。能力や意思、品性などに頼ってはいけません。多くの人の信仰は、理解と心掛け程度のものです。それでは神の国に行くことはできません。復活したイエスに出会い、聖霊のバプテスマを受けたペテロは、「人に従うより、神に従うべきです。」(使徒5・29)と議会を恐れませんでした。

 人には、それぞれ弱さ、罪深さ、欠点があります。しかし、自らの弱さを見るのではなく、「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(26)という助け主に依り頼むべきなのです。

 神はあなたを決して捨てないのに、あなたの方が恐れによって信仰を捨てることがあるのです。信仰には必ず試みがあります。うまく立ち回って、自分の弱さ、罪深さを表に出さないようにしていても、いつか本性をさらけ出さなければならない時が来るのです。神はご存じであり、サタンは隙をうかがっているのです。「見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22・32

わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』(28)のは、全ての人間の本性が現れる為であり、救われている人を神の国に引き上げる為であり、さらに裁きを付ける時なのです。イエス様は「この世を支配する者が来る」(30)と言われました。確かに、首相も政治家も、医師会も、このサタンに支配されていることを悟らなければなりません。


 4月12日 「この曲がった時代から救われなさい。」  使徒22341

使徒2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
2:32
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
2:33
ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
2:34
ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。
2:35
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』
2:36
ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:40
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

感染症の広がりをエピデミックEpidemicと言いますが、コロナウイルスよりも怖いのが、インフォデミックInfodemic人々の不安や恐怖をあおる情報の氾濫と言われ始めました。不安やストレスにより他者に攻撃的になる人々や、間違った情報によって異常行動をとる人々が多くおります。皆さんはニュースを見聞きしてどのように捉えているでしょうか。

ニュースに関心を持たず、感染しないように用心していない人は間違いなく愚かな人です。また、感染を恐れて悩んでばかりいる人も、信仰者とは言えないでしょう。「空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。」(マタイ16・3)とイエス様は諭しました。

ライン祈祷会では、マタイ26章から、イエスご自身が将来のことを預言していることを語りました。「あなたがたはみな、今夜、わたしの故に躓きます。」(31)。ペテロに対して「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは3度、わたしを知らないと言います。」(34)。「人の子は罪びと達の手に渡されるのです。」(45)。さらに「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」(64)と再臨の預言まで語っておられます。

イエス様は、苦しみの十字架を覚悟し、そして復活を預言し、さらに、裁きの時となる再臨まで預言されておられるのです。そして私たちは、これまで終末の兆候を学んできました。

飢饉が起こると預言されていますが、北東アフリカから中東、インドパキスタンに至るまでのイナゴの害は、殆どの作物を食い荒らし、飢饉を起こし、その地域では人々は生き残ることが難しくなっています。オーストラリアでは、3年以上の干ばつと大火災の後に豪雨が降り、農地を崩壊させています。豚熱(豚コレラ)による豚の大量処分も起こっており、今後、鳥インフルエンザも起こって来るでしょう。平和な時代は過ぎ去ったのです。

わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」(Uコリント6・2)という時代は過ぎ去り、「目を覚ましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」(マタイ24・42)。悟らなければならないことは、今日読んだ使徒の働きの時代は「恵みの時」であったということです。罪びと達は、聖霊の働きによる「救いの日」に救われたのです。そして、この2千年間は、主人が留守だったのです。そして、今や帰ろうとされているのです。

 イエス様のお言葉は、十字架よりも終末と再臨の話の方が多いことに気が付いていますか。一タラント預かった者は、主人が帰って来た時に、その与えられたものを用いようとしていないことで「外の暗闇に追い出」(マタイ25・30)されてしまいました。

 主は、私たちの罪の身代わりに罰を受ける為に十字架にかかり、救いを成就されました。それに感動する人は多くいるでしょう。そして、死からよみがえり、滅びない身体をもって天に昇られました。それを信じる人は少ないでしょう。さらに、世の終わりに全ての人を裁くために再び来られます。それを信じる人は更に少ないでしょう。「天に上げられたこのイエスは、天に昇って行かれるのをあなた方が見たと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1・11)と天使が語りました。

 復活は再臨と深くかかわっています。復活がなければ、再臨もありません。もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(Tコリント15・17)。

 世の中は、終末観をある程度意識しているかもしれません。しかし、「このイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(2・36)という罪責感、罪人としての自覚を持つ人は殆どいないでしょう。人は、自分を守るため、自分の主張を正当化するために、平気で人を裁き、殺すのです。殺すということを自覚できない不感性、鈍さが、この時代にあっては、単に自分の感染の恐れるだけという、時代認識の鈍さでもあるのです。

 好き勝手に自己主張し、感染を撒き散らす危険性をも顧みない鈍感な人々が、全てを見通す神の裁きの座に着いた時、どんな思いになるでしょうか。この曲がった時代から救われなさい」(2・40)に心打たれ、悔い改めて洗礼を受けた人が3千人もいたことは、「救いの日」だったからでしょう。今や、「裁きの日」が近づいているのです。このコロナウイルスや災害を前にして「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」(2・37)と救いを求める人々はおらず、また神を求める人は少ないのです。

 罪とは自己中心であり、自己中心だから、こんな時にインフォデミックを起こすのです。「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ25・21)と、戻って来られた主に褒められるような働きをしていこうではありませんか。

 


4月19日 「信仰の危機管理」  マタイ25113節 櫻井圀郎牧師

マタイ25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4
賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6
ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
25:7
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8
ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9
しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11
そのあとで、ほかの娘たちも来て。『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
25:12
しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
25:13
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

序  新型コロナウイルス感染症 COVID-19 の感染拡大で深刻な影響。神を知らない人々は怖じ惑い、歪んだ宗教者は医学的・疫学的・科学的な見地を省みない暴挙に。

世界は神の支配下にあり、一切の物質と現象は神の法に従っています。神学と科学は、夫々の領域から神の意思を探究していますが、一方だけでは歪です。両者の知見を根本に据え、十分な知識と正確なデータに基づいて対応することが、我々人間に求められている道です。

   一 十人の処女

主イエスは、「天の御国」を、婚礼を前に、新郎を迎えに出た、松明を持った「十人の処女」に喩えています。「十人の処女」は、希語では「デカ・パルテノイス」。「デカ」は「十」、「パルテノス」は「処女」「清い」「汚れがない」という意味。

「信者を、清純な処女として、基督の花嫁に定めた」(第二コリント十一2)。信者は清純な処女、基督の婚約者です。「十人の処女」も「処女」なので、十人全員が信者です。

エバのように、蛇に欺かれて貞潔を失うことがないように」(第二コリント十一3)。悪魔に従い、神を否定する罪人は、汚れた非処女。天国は基督との婚礼の場ですから、非処女は入れません。

ただし、基督の贖いにより、汚れの罪に死んで、清くに蘇った者も天国に入ります。基督の信者です。基督と結婚すべく花嫁修行中の婚約者です。

   二 五人の否定

十人とも「処女」で、婚約者の筈ですが、婚礼に入ったのは五人だけ。そして、屋敷は閉門。遅れた残り五人は入れず、「お前たちは知らない」と否定されます。

 この屋敷は天国ですが、拒絶された五人も信者。信仰があったはずなのに、なぜ否定?。天国と地獄の間に中間領域はありませんから、「天国に入れない」は「地獄に落ちる」を意味。

その原因として二点。一つは「信仰の有無」、もう一つは「中保者」。

一点目。「ただ信仰のみ」「信仰があれば天国」と教えられてきたのに、「信仰があっても地獄」とは?。

 「信仰がある」と言いながら「信仰がなかった」ということ。「実のある信仰」ではなかった。「形式上の信仰」「見せかけの信仰」「名目的な信仰」など。

形式的には、信仰告白さえすれば信者とされます。神学的には「義化」の段階。義人となったので、天国の住人資格は取得しています。しかし、心が汚れたままでは入国許可は下りません。

 単なる形式的な信仰者と「真の信仰者」とが区別されます。先の五人と後の五人とを分けたものこそ、「真の信仰」「本当の信仰」「本物の信仰」です。

 二点目は、「中保者」。花婿と一緒の花嫁は屋敷に入れられましたが、一人では入れません。婚礼の席に花婿なしの花嫁だけでは無理です。

   V 油断大敵!

 この10人は、松明を持って、早婿を迎えに行きます。「松明」は、希語では「ラムパス」(英語の「ランプ」の語源)。古代ギリシャでは、松明が太陽を象徴し、神事として「松明運び」「松明競争」。五輪の聖火リレーの由来。

 この「松明」とは何を意味? 夜道の照明用と考えるのが単純明解ですが、夜間照明なら五人分の松明があれば、十人が揃って迎えたでしょう。

 五輪聖火のように、自分の婚礼のための火を灯す松明であったのかも。五人の処女が準備した「油」は「エライオン」。希語では「オリーブオイル」「聖油」を意味。聖油を燃料とする松明なので「聖火」という意味も。

 「松明」は基督と婚礼しうる「信仰の火」の喩え。「口先だけの信仰でない信仰」とも。「油」は信仰の火を燃やし続ける燃料。普段の努力であり、信仰生活です。

 基督者の信仰は自己に求められる最大限を尽くすこと。百%のみが合格です。それが「信仰」というもの。

 油を絶やせば即地獄です。油断大敵! 「油断」とは仏教の「涅槃経」の一節「王勅一臣、持一油鉢経由中過、莫令傾覆、若棄一滯、当断汝命」に由来。

 仏教の「油断」は運ぶ油を溢したら命を絶たれることですが、福音書の「油断」は油の予備を怠ることです。怠惰、努力の欠如、信仰の欠如です。信仰の欠如が生命の危機を招きます。

 


4月26日 「土の器の中に」  Uコリント4615

Uコリ4:6 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
4:7
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
4:8
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9
迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
4:11
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
4:12
こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。
4:13
「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。
4:14
それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
4:15
すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。

人々はコロナウィルスを恐れています。興味深いことは、がんの末期の人がコロナウィルス感染を恐れて、治療を進めないでいることです。末期でそのままでは死ぬと宣言されていても、コロナウィルスを恐れているということは、ウィルス感染で死ぬことを嫌がるのか、がんでは死なないと考えているのか、ともかく人間とは不可解な思考をします。漠然とした恐怖感におののき、死の現実に耐えられないのです。

人間は単なる土の器に過ぎません。「あなたは顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。」(創世記3・19)。私は、中一の春に、方丈記(1212年)を読み、「よどみの水面に浮かぶ泡は消えては生じ、そのままの姿で長くとどまっているというためしはない。世の中の人と住まいも、これと同じなのだ。」という一節に涙を流しました。

方丈記は、縦横一丈の小さな庵に住んだ鴨長明が戦乱の世に生まれ、災害も続いた末法思想の無常観を詠ったものです。私は人生とははかないものだと長い時間泣いていましたが、突然、どうせ泡と消えるならば、自らの満足の行く人生を歩もうと決心したのでした。12歳の春、今から54年も前のことですが、その思いは私の主キリスト・イエスによる救いを得て、確固たるものとなりました。

土の器に過ぎない人間が、自らの中に何を入れるかによって、その器の意味が違ってきます。食べ物を入れる器でしょうか。日々、労苦して食事をすることで満足するならば、動物のようです。聖書は、人間は動物ではなく、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地をはうすべてのものを支配するように。」(創世記1・26)と、神に似た支配者として人間を造られたのです。

土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。」(2・7)ので、霊を持つのは人間だけなのです。動物にも心があるので考え判断するけれども、霊が無いので、人格がなく、愛することも神を礼拝することもできないのです。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手の業を告げ知らせる。」(詩篇19・1)と悟り、人格をもって神を褒めたたえるのは、人間だけなのです。そして、この礼拝心、信仰心を失えば、人間は単なる土の器に過ぎないのです。先週はラインで、見事なシャクヤク、オオデマリの花を見せました。神に創造されたものは、神を讃美するのが使命なのです。私は、その讃美の中に加われる感動を被造物と共有するのです。そして、それが被造物の喜びなのです。

7節の宝とは、「福音の光」(4)であり、「いのちの御霊」(ローマ8・2)です。「もし、神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8・9)。

 この宝を私たちの内に保持してれば、外からの迫害、攻撃にもびくともしません。8節から10節にあるようです。「いのちの御霊」が内在すれば、私たちは「いのち」ある存在となるのです。人々は、たかがコロナウイルスによって怯えて暮らしていますが、本当に恐れるべきものは、「たましいに戦いを挑む肉の欲」(Tペテロ2・11)なのです。罪は、私たちを永遠の滅びに導くからです。「主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」(Uテサロニケ1・7-9)。

 数週間に亘って語っていますが、今や「恵みの時、救いの日」(Uコリント6・2)は過ぎようとしており、裁きの時が近づいているのです。「人はその口にするあらゆる無駄なことばについて、裁きの日に言い開きをしなければなりません。」(マタイ12・36)。

 自らの言動について反省せず、自我の主張と欲望を繰り返す。神を賛美することなく、自己の繁栄と欲望を求める。このような生き様が、その人に喜びや感謝、平安やいのちをもたらすことはありません。

 私自身は、12歳の春の決心も、大学に入り、この世の荒波と欲望の中で埋没しそうになりました。確かに、他の人と比べたら成功者の道を歩んでいましたが、心の中は虚しさで一杯でした。リーダーとなり、人々が私を褒め、私についてきたり、尊敬されたりするほどに、困り果てたものでした。

 導かれた教会は、平凡な人々の集まりでした。いちいち、ハレルヤ、感謝、という言葉と、愚かなほどに素直な人々に呆れました。論理思考をしっかりと持ち、意思や努力で成功を目指す私には、おかしな、この世離れした気のいい人々の集まりでした。「こんな人々と一緒にいたら、緊張感がなくなり、ダメな人間になる。」と考えて、教会生活は熱心にならず、教養の段階に保とうと考えたのでした。そして、最後と思い参加した二泊三日の研修会で救いと同時に聖霊のバプテスマを受けたのでした。その後、自らが平安と喜びに満たされていることに気が付き、ハレルヤ、と讃美していたのです。私は、自らの内に「いのちの御霊」を得たのでした。今も、この宝は私の内に輝いているのです。

 


5月3日 「岩の上に立つ教会」  マタイ161319

マタイ16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14
彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17
するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18
ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

イエス様は、日常接している者にとって、まぎれもなく「人の子」であり、外見では普通の人です。私たち、後世になって聖書を読む者にとって、救われた者にとっては、救い主イエス・キリストですが、実際に共に生きた人々にとっては、神の子であるという思いにはならなくて当然だと思います。

「バプテスマのヨハネ」と言われるのは、従弟であるので、そっくりであったからであると思われます。「エリヤ」は預言者としては代表的な人物であり、「主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(マラキ4・5)の預言の成就として、イエス様は「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」とバプテスマのヨハネが神の到来を預言する「エリヤ」なのだと語っています。しかし、人々は、到来する神が、イエス様のような普通の人であるとは全く考えていないのです。

エレミヤ」については、3月に語ったように、神の裁きを預言し迫害された預言者として理解されています。「預言者のひとり」とは、新しく遣わされた預言者であるという理解です。人々は、イエス様が奇跡を為し、神の言葉を解き明かし、悔い改めを迫るという面で、確かに預言者の一人であると確認していました。しかし、それは神についての誤解が強いのでした。

この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。」(マタイ11・10)という人がバプテスマのヨハネですから、「あなた」とはイエス様のことなのです。そのような中で、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白したペテロは、どこまでその告白の意味を知っていたかは疑問ですが、やはり聖霊に導かれた告白であることに間違いはありません。救われていなくても、聖霊のバプテスマを受けていなくても、聖霊に導かれることは当然あるのです。ザカリヤもエリザベツも、母マリヤもそうでした。

信仰の基本は知的理解や納得ではありません。聖霊による感化を受け入れるということです。救いは、いのちの御霊によるからです。ペテロの信仰告白は、その後には、イエス様を3度も否むような浅薄なものでした。しかし、教会の基礎は、そのような信仰告白の上に立つのです。

  日本人は、しばしば「約束を守れ。」、「自分に責任を持て。」、「嘘偽りなく生きろ。」などと言いますが、そういう人間性の確実さに重きを置いていないのが、聖書の教えです。人間は、ペテロのように罪深く、いざという時には自分を守るためには、嘘もいい、誤魔化しをするのです。私はしばしば、「言い訳を言うな。」と言いますが、それでも言い訳をするのが人間なのです。つまり、大事なことは、その時、その時に、聖霊に導かれて信仰告白をするということです。そして、御霊によって石の器でありながら、神に用いられる尊い器になり、その信仰者によって神の教会が築き上げられるのです。「教会はキリストのからだであり」(エペソ1・23)、「聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」(エペソ4・13)ます。

 先週は、礼拝に来られない兄姉の為に祈り、昨日はアグネスさんの出産のために祈り、いろいろと助け合っていました。それが教会なのです。プロテスタントの信仰は、知的理解とされるところがありますが、それならばサタンのほうが私たちよりも遥かに知識豊富です。大事なことは、「信じて行う。」ということです。「ハデスの門」、つまり誘惑の道に打ち勝つのは、信仰者の互いを愛する行いなのです

 天の御国のかぎ」とは、神の国の祝福を受け取るための鍵です。神の国の祝福を自分のために求める者には、その門は閉じます。教会の他の人の祝福を求め、神の栄光を現わすために求めるためには繋がって、豊かな祝福をもたらします。

 鍵を持つということは、神の家の運営を司り、その鍵の用い方を知っている執事でなければなりません。私は牧師ですから、その運営を任せられていますが、他の人でも、その使い方を知れば、自由に「天の御国のかぎを上げます。」と言われるのです。

 他宗教や寺社を攻撃して、「サタンよ。出ていけ。」などと祈る過激で異常なカリスマ派の人々がおります。信仰は人を攻撃するものではありません。

 信仰者に躓く人がおります。自分の信仰の愚かさ、浅さを恥じる人もおります。一生懸命努力して、知的理解に努める人がおります。そういうことも青春期には大事です。しかし、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22・37-39)であり、大事なことは知的理解ではなく、愛することです。


5月10日 「いつまでも主の家に住まいましょう。」  詩篇23篇16

詩篇 < 23 > ダビデの賛歌
23:1
【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。

4月末から6日間の休みを長柄で過ごしました。日陰には生姜やミョウガを植え、サツマイモ、カボチャ、スイカ、キュウリ、ナス、ミニトマト、ピーマン、唐辛子、ニガウリ、オクラを植えました。既にブルーベリーやイチジクは実が育っています。ミカンの木に陽が当たるように白樫の選定をしました。花々も見事に咲いています。私は飽きずに庭の管理をしていました。

主は我が牧者」その思いが湧いてきました。果樹野菜が実るように世話をし、心に掛ける中で、私を見つめる主の眼差しを感じました。主に見守られ、育てられてきました。祈りの中で、主の御心の中を歩めたかどうかを振り返り、吟味しました。

確かに、愚かな羊のように勝手気ままな歩みをしてきました。主が私の牧者でなければ、私はどうなってしまっていたでしょうか。自らを正しいとし、いろいろとぶつかり、人にも組織にも反抗してきました。よく守られたと振り返ります。病気で夫婦ともに絶望の時が何度もありました。全身蕁麻疹の時、切迫流産の時、不整脈で動けなくなった時、説教中に心臓の異常で動けなくなった時、低血糖症、出産前後の遠方での勤務や診療、大腸がん、脊柱管狭窄症、他にも幾多ありますが、主の守り以外には説明がつきません。

経済的困窮も長らく続きました。教会の経済を支える為に什一献金や会堂献金を多額にしてきて、生活費は殆どなく、子供達にも迷惑を掛け、また人々からも馬鹿にされました。破産の危機も数え切れぬほどあり、保険の解約や借金もありました。生きていくことが辛いのに、それを告白したら、信者にも周囲の人々にも証しが付かないと耐えてきたので、心身がボロボロになっていました。神を信頼するよりも、根性で生きてきた私を、主が一方的に守ってくださいました。

そのような歩みをする牧師ですから、多くの人が教会を去っていきました。祈りの中で未熟さ、至らなさを悟りながらも、強くならなければならないと信じていました。そして、試練は続き、これでもかこれでもかとぶん殴られているような感じでした。

従業員が失敗をして、「今後は2度と同じようなことはしない。」というから、「そういう日本人的思考はやめた方が良い。人間は失敗をするものだ。失敗を覚悟して、他の人にも優しく思いやる人になるほうが、はるかに幸せになる。」と伝えました。語りながら、私は変わった、と思いました。この日本人的思考から抜け出すのに、何年掛かったでしょう。

死の陰の谷」も、「災い」も、「」も多くありました。よくぞ、守られたと、感謝するだけです。自分で戦おう、自分の力や能力を上げようと考える人は多くおります。特に、日本人はそのように教えられてきました。神なき社会の考え方です。

 コロナウイルス対策では、神なき社会の脆さをクリスチャンでさえ、気が付いていないようです。彼らにとって、死は敗北です。現世での繁栄と享楽が彼らの望みだからです。死という現実は、誰にもあるのに、日常は無視しているのです。しかし、人間の力で対応、解決出来ないものが現れた時に慌てるのです。魂の救われたクリスチャンにとって「『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』」(Tコリント15・54.55)。

 次女のマリヤがウイルスの蔓延しているアメリカに旅立ちます。「罹ってしまうかもしれない。」と恐れながらも、旅立ちます。結婚相手とその母の悲しみを共に慰めたい、との気持ちを大事にしなさい、と伝えました。

 「私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」人間の能力で出来ることなど大したものではありません。「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。」(伝道者11・4)。自分の損得で考える人は、災害の時にも何もしない人です。神を信じるということは行動を取るということです。朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」(同11・6)。人生を神に委ねて、為すべきことを日々行えば良いのです。

 「災いを避けて生きることが大事だ、と人々は言います。感染を避ける為に、教会に来ないようにと諭す牧師は、神の前に出た時に、どのように弁明するのでしょうか。「私は災いを恐れません。」とは、災いが自分の身に及んでも恐れません、ということです。

 危険を恐れ用心していることを自慢している人がいます。彼らは、その先に誰もが行く死後の世界を恐れていないのです。愚かな人です。過去において、災害は人々に信仰を促してきました。しかし、現代の教会は、このコロナ災害によって総崩れを起こすでしょう。

 ニュースは批判的なことにまみれています。互いにいがみ合っているのです。「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」と告白、讃美できる信仰者は幸せです。


5月17日 「決して悟らない人々」  使徒282331

使徒 28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
28:24
ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。
28:25
こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。
28:26
『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
28:27
この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
28:28
ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」
28:30
こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
28:31
大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

「正常性バイアス」という言葉があります。自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のことです。自然災害や火事、事故、事件などといった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい、都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、逃げ遅れの原因となるのです。「バイアス」とは、偏り、偏見という意味です。

更に、意思決定バイアスの一環として思い込みによって正しく判断できないことを是正して判断するために、『ファクトフルネス』(事実を基に判断する)ことが重要視されています。その本の著者たちは、10の思い込みによって正しく判断ができないと指摘します。

@   世界は分断されている(分断本能)

A   世界はどんどん悪くなっている(ネガティブ本能)

B   世界の人口はひたすら増え続ける(直線本能)

C   危険でないことを、恐ろしいと考えてしまう(恐怖本能)

D   目の前の数字がいちばん重要だ(過大視本能)

E   ひとつの例がすべてに当てはまる(パターン化本能)

F   すべてはあらかじめ決まっている(宿命本能)

G   世界は一つの切り口で理解できる(単純化本能)

H   誰かを責めれば物事は解決する(犯人捜し本能)

I   いますぐ手を打たないと大変なことになる(焦り本能)

信仰というものを、このような偏見である考えている信仰者自身が多くいることを悟らないといけません。祈祷会では、自らの十字架の死を何度も弟子たちに告げているイエス様の話をまともに受け留めたのがマリヤだけであったことを語りました。聖書の預言というものは、何度も語られ、多方面からその確実性が保障されているものなのです。ところが、信仰を「イワシの頭も信心次第」のような非理性的に信じ、行動することと捉えていると、正しい信仰を持てないことになるのです。

あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。」(26)と断罪するのは、神を否定する人々ですが、私たち信者もまた、「事実を聞き見て、悟り、わかる」ということが必要なのです。マタイ13・14からも同じ言葉が引用されていますが、イエス様は、「耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13・9)と警告されているのです。

 判断を誤ると命取りです。コロナウイルスを警戒して、礼拝を中止し、ネット礼拝などの準備や知識を持っていなかった教会は、現在存続を危ぶまれています。「コンピューターやITは苦手だ。」と避けていた教会や牧師は、何らかの手立てを打つべきだったのに、ただ困っていて、神頼みの祈りをしていたら、必死に働いてきた教会が崩壊してしまうのです。助けやアドバイスをしていたのに、もはや助けを求めるだけの力も残っていなかったのかもしれません。執り成しの祈りをしながら、涙がにじんできます。実際には、それだけでは済まないでしょう。スマホやPCを使えない人々は、満足のいく暮らしもできなくなるでしょう。神頼みは、聖書信仰ではありません。

 「御国のことばを聞いても悟らないと」(マタイ13章・19)とは、怖い言葉です。「持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまう。」(13・12)と書いてあるとおりなのです。キリストが「神の在り方を捨てられないとは考えず」(ピリピ2・6)に仕える者となったのに、「私は、〜が苦手だ。わからない。」などと言っていては、取り上げられるばかりなのです。神の前には言い訳は通らず、「悪い怠け者のしもべだ。」(マタイ25・26)として罰せられてしまうのです。「自分は、大してやることもない平凡な人間だ。」と安んじている人こそが、「持たない者」であり、「悪い怠け者」なのです。終末というのは、そのような人々が悲惨な目に遭うと、警告されている時なのです。

 毎日、情報を収集し、本を読み、判断を模索し、祈っています。日々の雑役をこなす能力も増え、10年前の2倍近くの仕事をしているでしょう。指導者としての責任を果たす為には、言い逃れはできません。形式的な仕事や働きをする人が多く、何の成果が無くても、忙しがるのです。「この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。」(27)とある通りです。

 「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです。『わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。』と神が言われたとおりです。」(へブル4・2-3)。


5月24日 「信仰か、欲望か。」  Uペテロ337節  櫻井圀郎牧師

Uペテ 3:3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
3:4
次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
3:5
こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
3:6
当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
3:7
しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

新型コロナウイルス感染症による深刻な影響が社会のあらゆる側面に現れています。単なる疫病の流行に過ぎず、災害の一つと考えるのか、万物が神の被造物であると捉え、その深淵にある神の御心を窺おうとするのかによって対応が全く異なります。

非常時に要となるのは指導者です。情報の活用、先見の明、決断実行、責任体勢が指導者の責務です。時代は指導者を欠きます。大局を鳥瞰できず、目先の日銭政策に終始しています。

 

   T 信仰を嘲る者出現

3節。終末の前兆です。「嘲る者(エムパイクテース)が出現し、自分の欲望(エピスミア)従って歩む(ポリュオウ)」。「嘲る者(エムパイクテース)」とは、「愚弄する」「なぶる」「からかう」「いじめる」「馬鹿にする」という意味の「嘲る(エムパイゾウ)」に由来します。神や信仰者を嘲笑し、教会や教職者を嘲弄する者、神や信仰を否定する者、宗教に無関心な者も。現代日本人の8割、9割が嘲る者に当たるでしょう。

 彼らは「自分の欲望(エピスミア)に従って歩む(ポリュオウ)」。自分の欲望のままに行動し、自分の好き勝手に生きるのです。基督者は、「神の意思」に従って歩みますが、彼らが拠り所とするのは「自分の欲望」です。自分を神とする「自己神論」です。

 「歩む(ポリュオウ)」とは、「行く」「逝く」、「逝去する」という意味もあります。彼らは、自分の欲望のままに生き、自分の欲望のままに死んで行くのです。

 彼らが口にする言葉が4節。「彼(基督)の来臨(パリュウシア)の告知(エパンゲリア)(約束(エパンゲリア)はどこだ。父祖ら(パテール)の永眠(コイマオウ)以来、万事(パンタ)が創造(クティシス)の初め(アルケー)からの儘である(ディアメノウ)」。「儘である(ディアメノウ)」とは、「全く変化がない」という意味ではなく、「自然の儘」「神の意思に無関係な自然法則の儘」ということです。

U 水による原状回復

 5節・6節。ペテロは「天が先ず存在し、地は水の中から、水を通して、神の言葉によって存在したが、当時の世界は、水没したという事実を、彼らは意図的に隠している」と言います。

 「天が先ず存在した」とは、天の被造物性の否定ではありません。創世記六章1節、日本語的には「神は天と地を創造した」となりますが、ヘブライ語的には「神は天を創造した。そして地を」となります。ペテロはそのことを踏まえています。

 嘲る者の言い分を否定します、「何の変化もないどころか、一旦、完全に滅亡している」と。「地上に人間の悪が増大した」ためです(創世記六章)。神によって水から出され、神によって水没したのです。出エジプト記一四章。神が分けた海底を通って逃走したイスラエルを、エジプトの大軍が追跡しますが、水が元に戻り、水没しています。

 「水による原状回復」です。自然現象ではなく、神の意思による悪の完全抹消です。「水による原状回復」には、肯定的・積極的な面もあります。水の洗礼・バプテスマです。

 

   V 火に焼かれる裁き

 7節。ペテロの最終回答です。今の世界がそのまま存続しているのは、神の言葉によるのです。そのことを失念すると、自分の意思、自己の欲望が顔を出してきます。今の世界の存在自体が、神の言葉に従って生きることを選ぶのか、自己の欲望に従って生き、自己の欲望のままに死んで行くことを選ぶのか、二者選択を迫っています。

 定められた日には、水ではなく、火が備えられているのです。人間の一切の行為を裁き、人間の不敬虔を破壊する火です。

 「」は、最終的な裁きだけではなく、逐次的な裁きにも用いられています。創世記一九章のソドムとゴモラへの「硫黄の火」、民数記一一章では、民の不平・不満への「主の火」など。「我らの神は燃え尽くす火である」(ヘブル一二章29節)。

 

 信仰か、欲望か……、今、私たちに強く迫られています。口先だけの告白だけではなく、頭の中の理解だけでもなく、行動としての信仰でなければなりません。どう考え、どう行動するか、信仰者の真価が試されています。


5月31日 「皆が聖霊に満たされ。」  使徒2113

使徒 2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2
すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3
また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5
さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6
この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
2:7
彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
2:8
それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
2:9
私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10
フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
2:11
ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
2:12
人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。
2:13
しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。

イエス様が昇天され、残された弟子たちは自分たちへの迫害が予想される状況で、普段の生活をすることもできず、エルサレムで一部屋に集まって「心を合わせ、祈りに専念していた。」(使徒1・14)。「120名ほどの兄弟たちが集まっていた」(15)というから大人数です。

祈祷会でも話しましたが、人間は艱難や戦い、人の非難は嫌がるもので、できるだけ無難な道を通ろうとします。無難な道を通ることと、正しい道を通ることは、多くの場合違っています。恐れないで、ただ信じていなさい。」(マルコ5・36)ということが、人生では非常に大事なものなのです。今日のテーマ「聖霊に満たされの逆が、恐れることなのです。ですから、祈りに専念するということは、恐れへの対抗手段なのです。

また、「心を合わせ」という心の交流が大事です。黙っていたり、我慢したり、孤立すると、サタンや人の攻撃に負けてしまいます。ですから、「集まっていた」、「皆が一つ所に集まっていた。」(2・1)ということが大事なのです。祈りは神との語り合いであり、神への訴えです。人と語り合い、聞く耳の持っていない人が、祈りの中で神に聞き、神への願いを十分に深いものにできるとは思えません。

助けを求めない、助け合わない、自分一人で解決しようとする、という孤立的なことが人生の戦いでは勝負の分かれ目となります。教会というのは、建物のようなものであり、「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4・16)。「人の世話になりたくない。」、「人に迷惑を掛けたくない。」という考えは、多くの日本人のタイプですが、教会の考え方とは相いれません。

コロナ災害で、多くの教会が「集まる」ことを止めていました。宗教は緊急事態宣言の対象ではないのに、勝手に自主規制をして礼拝を止め、ラインやユーチューブのない教会は礼拝自体がないので崩壊をしています。医療機関が活動しているのは、命と健康に関わるからで当然なことと受け留められているのに、教会が魂と人生に関わる重大なものであるということを自己放棄していては、これからの活動に支障が来るのも当然でしょう。

試練や災害の時は、このように組織や個人の実態が現れるのです。1タラント与えられたしもべは、率直に悔い改めないで、「ご主人様、あなたは、…ひどい方だとわかっていました。」(マタイ25・24)、と批判するのです。悔い改めないで言い逆らうようなことでは、「外の暗闇に追い出しなさい。泣いて歯ぎしりするのです。」(25・30)となります。

 「恐れないで信じ」、「心を合わせ」、「共に集まり」、「祈りに専念する」ことが、試練の時には何よりも必要です。娘を成田に迎えに行く時に、もし娘が感染していたら、今日の礼拝は私がラインで皆さんに会堂の画像で説教を送る可能性を覚悟していました。更に、私や妻が感染したら、クリニックも休診にするしかないことを覚悟しました。「恐れない」ということは、全ての犠牲を覚悟することです。覚悟したら、恐れも心配も不満もありません。

 信仰というものは、感染しないように祈る、という神頼みではありません。たとえ、感染しても、神を信じ、恐れないというものです。弟子たちは、恐れることばっかりで、神に頼むしかないので共に集まり、必死に祈ったのです。ペンテコステの日の奇跡的出来事は、命がけの必死な祈りから起こったのです。

 間違いなく、日本にリバイバルは起こりません。リバイバルをと祈っていた教会や牧師たちが、簡単に礼拝を中止しているようでは無理でしょう。教会から感染者を起こしてはならないことは当然です。皆さんの一人が感染していて、この教会がクラスターとなったら、この教会の評判は日本社会では地に落ち、けなされ、攻撃されるでしょう。そういう危険を冒して、私たちは礼拝を保っているのです。そういう意味では、私は牧師職というものに、命がけです。皆さんは、ご自分の健康状態に気を付けて管理してください。教会を破滅させる可能性もあるのです。

 イエス様が、十字架に掛かったのは、誰もがイエス様を否定した時でした。イエス様は、その愚かな信者にご自分の生涯と、世界の福音を掛けたのです。そういう勝つか負けるかわからないことを信じて犠牲を覚悟するから戦いなのです。神は、その義を人間という罪びとに掛けたのです。もし、信仰者が、自分の死を惜しみ、損得を考えて行動していたら、キリストの十字架は敗北なのです。

 あなたにも人間としての弱さ、欠点、愚かさがあります。神はご存知です。しかし、そのことを不信仰の理由として正当化することはできません。神は、信仰者に信仰以外のことを要求していないのですから。不信仰とは、信仰以外のものを頼ることです。

 今日は聖霊待望会です。体調の悪い方は、お帰りください。配慮や注意深さは、教会を守る為に大事です。感情的にならずに、なすべきことをし、祈ってください。孤立してはいけません。

 


6月7日 「耐え忍んだ人たちは幸いである。」  ヤコブ5111

ヤコブ 5:1 聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。
5:2
あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、
5:3
あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
5:4
見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。
5:5
あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。
5:6
あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。
5:7
こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
5:8
あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
5:9
兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。
5:10
苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
5:11
見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

先週はペンテコステ、教会発祥の出来事が起こった日です。「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(使徒2・17)ことによって、信者たちは聖霊のバプテスマを受け、教会が始まったのです。ところが、その預言の後半「上は天に不思議な技を示し」から始まる19節から21節は成就していません。これは終末預言です。

キリストの来臨と共に2000年前に「神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(マタイ12・28)が、「この世であろうと次の世であろうと」(12・32)とイエス様が語られる「次の世」である完成した神の国ではありません。神の国はイエス様の再臨後に実現するのです。

キリストが人として生まれたのが初臨であるからこそ、イエス様ご自身が、「地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」マタイ24・30)という再臨を何度も強調されるのです。そして、もう一度来られる時には、5節からの偽キリスト、戦争、民族紛争、飢饉、地震、などが起こることが語られ、「ユダヤにいる人々」の苦難(15-28)、「これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。」(29.30.)ということが預言されたのです。

イエス様が復活後に昇天されたのは、「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出ていく人のようです。」(マタイ25・14)。「よほど経ってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。」(25・19)、つまり、再臨の時に、信者たちの働きを確認するのです。「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」(25・46

さて、イエス様が昇天した後の時代に語られた教えを福音と言います。「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(Uコリント5・19.20)。人間の罪、違反行為の罰をイエス様が身代わりに受けたことによって、私たちが罪無き者とみなされることを福音というのです。このことが、私たちの功績によらないので、恵みというのです。わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」(Uコリント6・2

 この恵みの時代を教会時代と言います。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会の為にご自身をささげられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。」(エペソ5・25)とあるように、教会はキリストの花嫁と例えられます。黙示録19章には、この子羊(イエス様)と花嫁(教会)の婚姻が描かれています。なぜ、婚姻と比喩されるかというと、愛し合い親しく交わる例として一番適切だからです。皆さんの結婚生活は如何でしょうか。

 終末預言をイエス様は繰り返しておられるのは、「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。」(マタイ12・36)という厳しさからです。「あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」(ローマ2・5

 終末については、イエス様は人類全体の破局の時であり、愛が冷え、金銭に目がくらみ、道徳的にも堕落が極まる時であると預言しています。「今は恵みの時、今は救いの日」(Uコリント6・2)は過ぎ去ろうとしています。

 世界経済は、コロナウイルスによって回復不能な破綻をしまいました。対策費は世界では1千兆円を下らないでしょう。産業も文化も社会も変わります。犯罪も増え、仕事もなくなり、年金や株価も下がります。生きていくことが厳しい時代になるのです。その上で預言通りに、天災や飢饉が起こり、生活は破綻します。サタンの思うつぼです。

 信仰者は、「主が来られる時まで耐え忍びなさい。」(7)。「互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」(9)。「耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」(11

 

6月14日 努力して狭い門から入りなさい。」  ルカ132230

ルカ13:22 イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。
13:23
すると、「主よ。救われる者は少ないのですか」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
13:24
「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。
13:25
家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。
13:26
すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
13:27
だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』
13:28
神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
13:29
人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
13:30
いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」

祈祷会の祈りでもお分かりになるとおりに、私は教会員の為にお祈りをしています。教会員番号は144まであり、現在の正会員は51名です。亡くなった方16名の内、召天であったと確信する人は7名、転籍不明者46名の内、間違いのない信仰者はわずか2名、別帳会員は殆ど信仰は確認できません。今でも執り成しの祈りはしておりますが、「主よ。救われる者は少ないのですか」(23)、と私自身苦しみを感じます。

牧会や教えが未熟だったと反省をしながらも、残念ながら彼らに共通することは、神への信仰心、悔い改めが殆どない、ということです。まるで、「教会に来てあげている。」かのような言動が特徴でした。「献金を払って教会を助けている。」という意識もあったような気がします。「あなたがたも悔い改めないなら、みなおなじように滅びます。」(13・5)とあるとおりに、確かに彼らは傲慢でした。

信仰45年になりますが、なんでもないことでつまずく人々がおります。イエス様が、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。」(ヨハネ6・56)と言われた時に、「弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』」(ヨハネ6・60)とつまずいた時、「イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。」とあります。

納得がいく時に信仰生活をして、自分にとって都合が悪い時、納得がいかなくなった時、飽きた時、問題が起きた時に、信仰を捨てるのは、本人の判断によるものではないことに気が付いてきました。「努力して狭い門から入りなさい。入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」(24)。信仰とは、趣味や好みではありません。信仰を守るために努力をしない人は、サタンの惑わしを受け、信仰の門から入ることができないのです。神も、真実の信仰者ではない人々を受け入れないのです。

さらに、努力をして他の信仰者を見習い、それらしく振る舞っても、信仰者の仲間になれない人々がいることに気が付いてきました。「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(Tコリント1・21)。クリスチャン同士の会話に加わることができず、この世の会話、世間話しかできない人は、自らが救われていないこと、神の国の民ではないことに気がついて欲しいのです。

 「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。」(マタイ13・14)。教会員同士の会話は聖いものでなければなりません。そして、もし教会での会話が世の中と同じものであるならば、それは魂の救われていない者の集まりなのです。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』(26)。教会に来ているからといって、それで神の国の仲間になったと思い込んではいけないのです。

私には、救われていない者の会話はわかります。塩気がないからです。教会に長くいても、教会員と親しくても、塩気が無い人には注意して、同化しないように気を付けてください。「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」(コロサイ4・6

 主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』」(27)。残念ながら、苦しいことに、教会に来なくなった人々は、教会に来れなくなったのです。私は、教会に来なくなった人々が、尤もらしい教会や牧師に対する批判を聞いてきました。自分にとって都合の良い教会を求めて渡り歩いている人々も多くおります。

 教会から、嫌な人、救われていないような人を追い出そうとしてはいけません。神の御霊が、聖くない人を追い出すのです。それは、「狭き門」を通ることができるのは、努力して聖めの道を求める人だけだからです。うまくごまかして、教会の中ではクリスチャンらしく装う人々がおります。終末だけでなく、いつの時代にも偽の信者は教会に入り込んで教会をかき回し、混乱させ、互いを争わさせようとするのです。

 ですから、聖徒たちは、「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」(エペソ6・11)と命じられるのです。今回はコロナ災害によって、多くの教会が壊滅的な攻撃を受けてしまいました。努力して、聖めと謙遜の道を歩まない人々は、欲に惑わされ、道を踏み外してしまいます。どうも、他の人に手を差し出す余裕さえなくなる時代がくるようです。祝福を祈ります。

 


6月21日 「父は己に厳しくあれ。」  Uサムエル153037

Uサムエル 15:30 ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。
15:31
ダビデは、「アヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担している」という知らせを受けたが、そのとき、ダビデは言った。「【主】よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。」
15:32
ダビデが、神を礼拝する場所になっていた山の頂に来た、ちょうどその時、アルキ人フシャイが上着を裂き、頭に土をかぶってダビデに会いに来た。
15:33
ダビデは彼に言った。「もしあなたが、私といっしょに行くなら、あなたは私の重荷になる。
15:34
しかしもし、あなたが町に戻って、アブシャロムに、『王よ。私はあなたのしもべになります。これまであなたの父上のしもべであったように、今、私はあなたのしもべになります』と言うなら、あなたは、私のために、アヒトフェルの助言を打ちこわすことになる。
15:35
あそこには祭司のツァドクとエブヤタルも、あなたといっしょにいるではないか。あなたは王の家から聞くことは何でも、祭司のツァドクとエブヤタルに告げなければならない。
15:36
それにあそこには、彼らのふたりの息子、ツァドクの子アヒマアツとエブヤタルの子ヨナタンがいる。彼らをよこして、あなたがたが聞いたことを残らず私に伝えてくれ。」
15:37
それで、ダビデの友フシャイは町へ帰った。そのころ、アブシャロムもエルサレムに着いた。

T歴代誌3章によれば、ダビデの子は、アヒノアムの子アムノン、アビガイルの子ダニエル、ゲシェルの王の娘マアカの子アブシャロム、違う妻の子たち、アドニヤ、シェファテヤ、イテレアムの6人がヘブロンで生まれ、エルサレムでバテ・シェバによりシャムア、ショバブ、ナタン、ソロモンの4人が生まれました。その他に9人、更に側女の子がいました。王として戦いに明け暮れていたダビデは、愛情深かったけれども、この多くの男の子を育てることには十分な時間もなく、また不慣れだったと思われます。

仕事熱心でスケベな男性達の特徴を備えていますが、仕事ばかりをしている人はレジリエンス(回復力)が低いそうです。ダビデは、息子の反抗に対しては泣いてばかりいて「その頭をおおい、裸足で登った。」(30)というようにだらしがありません。仕事一途な男性というのは脆いのです。ところが、殆どの男性の価値観は、「仕事ができる。」というものです。男性の価値観は、単一或は単純なもののような気がします。

長男のアムノンは異母妹に罪を犯して、その兄アブシャロムの怒りを買い殺されます。アブシャロムは王の娘である母親の影響で自尊心も体格も知恵も秀でた優秀な息子ですが、道徳的・人格的ではなく、浅知恵によって身を滅ぼしていきます。

ともかく、息子アブシャロムとは戦いたくないダビデは、「さあ、逃げよう。」(15・14)と王宮を去ります。祭司ツァドクがレビ人と共に神の箱を担いで来ると、「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が【主】の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいとを見せてくださろう。もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。」(15.25.26)と災いも罰も神に委ねる覚悟をします。私は、ダビデのこのようなところが大好きなのですが、女性と息子には愚かな人です。

祭司ツァドクと二人の息子をアブシャロムの監視の為に残し、アブシャロムを惑わす「アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。」(31)と祈り、知恵のあるフシャイを「アヒトフェルの助言を打ちこわす」34)ために残すなど、ダビデは賢明な判断を忘れていません。ダビデとしては、息子をあくまで赦し、惑わしたアヒトフェルを失敗させれば方が付くと読んだのでしょう。歴戦の勇士ダビデは、経験も知恵も勇気もない人々がいくら掛かってきても負けるとは思わなかったのでしょう。

アヒトフェルは、自分の助言が実行されないのを見ると、家を整理して首をくくって死んだ。」(17・23)。信仰者は、決して脆くあってはなりません。大事なことは負けないことであって、勝つことではありません。コロナウイルスに対しても、新しい情報が入ってきました。慌てて恐れ、巨額をつぎ込んだ政府は破綻することになります。

 ダビデの将軍ヨアブは冷酷な人で、アブシャロムが木に引っかかってもがいているのを見て、すぐに殺しますが、自分が殺したことはダビデには伝えません。そして、息子の死を悲しんでいるダビデに対して、めそめそするなと伝え、その後自分に代わってダビデの腹心になろうとするアマサを騙して殺します。

 ダビデは、自分の命を狙い続けた息子アブシャロムの死を嘆き、「我が子、アブシャロムよ。」と大声で泣き叫びます。皆さんならば、どのような感想を持つでしょうか。王位を継いだソロモンに対しても、甘さがあり、ソロモンは金と女で失敗をし、その知恵や能力を無駄にして、子孫を滅ぼしていきます。

 「我が神よ。あなたは心を試される方で、真っ直ぐなことを愛されるのを私は良く知っています。私は、直ぐな心で、これらすべてを自ら進んで献げました。」(29・17)と祈り、「我が子ソロモンに全き心を与え、あなたの命令とさとしと掟を守らせて」(19)と息子に対する願いを祈りました。

 ただ、私には、ダビデは息子に直接に訓戒を与え、厳しく指導し戒めるということはできなかったように思われます。戒めるということは、父親の役割です。自らが罪に対して甘かったら、子どもを戒めることはできません。母親は無条件の愛を現わし実践することが大事です。条件付けで、頑張ったら褒めるとか、良い子だったら褒める、ということは母には相応しくありません。父親は良い子でなかったら罰するという厳しさがなければなりません。夫婦は、共に相手とは違う役割を果たすことが大事なのです。

 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。(へブル12・4-7


6月28日 「キリストに留まる。」  ヨハネ1519

ヨハネ 15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
15:9
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

農業は自然との戦いであり、働かなければ収穫はありません。「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」(伝道者11・6)。「風を警戒している人は種を蒔かない。」(11・6)というのは、考え過ぎている人への警告でしょう。その前には、「あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。」(11・2)とあり、他の人を助けておかなければ、自らが助けられることはないと警告しています。

人との関わりを避ける人が増えていますが、そういう人は災いの時に助けを受けることはできません。自分の都合の良い物を都合の良い時に求める人がいますが、そういう人が苦しい時に助けられるほど世の中も神も甘くはありません。レジリエンスの強い人は、古い物や壊れた物を修理する人、他の用途に使おうとする人でもあるそうです。「終活」を身辺整理と考えて処分して金銭に変えようすると、騙されて何もなくなる人が多いようです。人と関わることを厭う現代の風潮に流されてはいけません。自分のために蓄えても、神に対して富まない者」(ルカ12・21)は「愚か者。・・・おまえが用意した物は、いったい誰のものになるのか。」(20)ということになるのです。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(15・5)という木と枝の区分はどこなのか、と考えたことがあり、葡萄の木を調べました。苗木を3年は掛けて、幹を大きくします。幹が大事なのです。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(2)は、怖い言葉です。実を結ばない枝というのは、その年に延びたつるで幹からではなく、枝から伸びたものです。イエス様がぶどうの木であり、そのイエス様と直接繋がっていないと実を結ばないということがわかると納得しました。

私は怠け者の畑のそばを、良識のない者のぶどう畑のそばを通った。」(箴言24・30)。茨が一面に生え雑草だらけで、剪定もしていないので、幹と枝の区別もつかずに散らかっており、実も大きく育っていないのです。ぶどうの幹と枝がごちゃごちゃになっており、区別がつかないということは、手入れが悪いということです。幹を大事にしていないのです。根元に雑草が生えると病原菌が繁殖して、実はつかずにおちてしまい、かびてしまいます。

しかし、手入れをして、枝が成長すると幹と区別がつかなくなり、幹になっていきます。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2・20)。自己主張していると実を結ばず、「父がそれを取り除き」、信仰から教会から離れさせられてしまうのです。自分の意志で教会批判をして去ったように思う人が多いのですが、実際には、神がその人を拒んだのです。

 ぶどうの木には、虫も付き、病原菌も付き、栄養や水も必要です。水も肥料も要らない、という極端なことは決してありません。世話をしないで収穫できる果実などはありません。驚くべきことに、ぶどうの木である教会の世話は、父なる神がなさるのです。

 ぶどうの枝は実を実らせるために働いているのでしょうか。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」。大事なことは、意思と決意と根性をもって、キリストに繋がることなのです。そしてら、実を結ぶのです。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5・22.23)。ご自分を点検してください。この実が実っていないならば、あなたはキリストに繋がってはいないのです。

愛の反対は憎しみ、悪、孤独。喜びの反対は憂い、悲しみ。平安の反対は不安。寛容の反対は過酷、偏狭、厳格。親切の反対は薄情、冷淡、邪険。善意の反対は悪意。誠実の反対は不誠実、不実。柔和の反対は乱暴、凶悪。自制の反対は放縦。辞書で調べましたが、こういう反対の要素を持っていたら、心から悔い改めなければなりません。「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」感情のままに怒り、人を攻撃し、批判を繰り返す人がいますが、神の裁きを知らないのです。

祝福は御霊の実を結ぶだけではありません。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」。ぶどうの実としての祝福だけでなく、神の子としての多くの祝福を与えられるのです。それは、人間としての努力の結果としてのものではありません。私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、(救いという)恵みの上にさらに(多くの)恵みをうけたのである。」(ヨハネ1・16)。