1月5日 「キリストの基準で人を知る。」  Uコリント書51521

Uコリント 5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
5:16
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
5:17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
5:18
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
5:20
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
5:21
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

中国旅行は非常に参考になりました。人口14億人は途方もなく多く、国土も広い、そして貧しさから急激に豊かになるために国家は統制し管理したのでしょう。国家の指導層は非常に優秀で、国の為に多少の犠牲や反対は当然なものとしたように見受けられます。中国用のWiFiを借りたのに、ネットも、ラインも、フェースブックも全く使えませんでした。邪魔な情報や意見を遮断し、国作りに必要なことだけを強化したように思われます。国家主席のポスターの顔に墨汁をぶちまけた女性が逮捕されて精神病院に入院させられ、1年半後に言葉を話せず反応しない状態となって解放されたという報道が2日にされていました。

中国の民衆は、逮捕されないことならば、やって良いという意識をもっているように感じました。多くの人々は、儲けること、金持ちになることに集中しています。バイクは歩道を走り回り、タバコや痰を道に吐き捨て、料理には人口調味料の味付けが強く、最先端の文化の中に、日本でも50年前にあった生活の風景があります。高齢者は非常に大事にされていて、中国の美点を見ました。

シアでは共産主義の失敗と宗教の勝利を見てきました。中国では、それを教訓に共産主義による強烈な指導がされているのを感じました。三自愛国教会の集会に参加しましたが、信者の真摯な信仰と祈りに感動しました。しかし、失礼ながら、文化の未成熟と個人の意識水準の低さを自覚していないと思いました。私が尊敬する中華の文明としての尊厳は、一部の教養ある人々にしか、保たれていないように感じました。

アメリカでも日本でも、政治指導者に対する批判やありのままの情報は、民主主義の権利として認められています。どのような情報も個人は獲得する権利が認められています。犯罪者かどうかは、公開の裁判で証拠をもって裁かれます。弱者保護は国家でも個人でも義務とされます。ハラスメントは、詫びてすむものではなく、罰則を伴います。

信教の自由とは、国家をもってしても個人の宗教に干渉してはならないということで、近代国家の基本です。宗教というものは、信仰の為に犠牲を払うことも是とし、自らの損得よりも神の戒めを重視するというものです。つまり、欲望に釣られない、というものなので、指導者にとっては人を操縦するには非常に都合の悪いものとなります。

さて、だからこそ宗教者というものは、他の人を思い通りに動かそうとしてはならないのです。信仰者は、「人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(5・16

最初の福音書を聖霊に導かれて記したマルコは、エルサレムの富裕な家に育ち、ペテロが天使によって牢から解放された時に訪ねた、敬虔な信仰者マリヤの息子でした(使徒12・12)。バルナバの従弟(コロサイ4・10)で第一次伝道旅行では本名ヨハネとも呼ばれて「助手として連れていた。」(使徒13・5)のですが、伝道の困難さの中でパウロが石打にあったりしたのを見て、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14・22)と教えられているのにも関わらず、エルサレムに逃げ帰るのです。

パウロは、パンフリアで一行から離れてしまい、仕事の為に同行しなかったような者は一緒に連れて行かない方が良いと考えた。」(使徒15・38)ので、「別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて」(39)、伝道を続けたのです。人は生まれながらの風習や考え方によって生きており、信仰自体もそのようにして形成されてしまいます。中国だけでなく、日本でも、そのようにして成熟した信仰を形成することができないのです。マルコは、成熟した信仰者バルナバ(「慰めの子」という意味、本名ヨセフ)によって、「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(5・15)ということを教えられ、「新しく造られた者」(17)となったのです。

 迫害や困難、そして状況によって歩み方を変える人は、信仰から滑り落ちます。しかし、真の信仰者は、迫害によって却って強くなります。中国におけるクリスチャンは大迫害の中で増えてきました。中国政府は、だからこそ、キリスト教を脅威と感じて迫害を、新たな方法で実行し始めているのです。

牧師になってからの15年は、本当に辛いものでした。死にそうになったことは何回もあります。それを問題にせず、神を信頼し続けて、この世の基準ではなく、「違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちに委ねられた」(19)者として生きるように「新しく造られた」のです。

 パウロは後に、「マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」(Uテモテ4・11)と認め、牢獄でもマルコは「私の同労者たち、マルコ」(ピレモン1・24)と信頼されています。そして、マルコによる福音書を書くほどに、伝道の歩みとイエス・キリストの真理を知っていったのです。あなたもまた、マルコのように教えられ、バルナバのように教え育てる者となってください。


1月12日 「主義主張で人を殺す。」  使徒の働き9117

使徒 9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
9:2
ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3
ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4
彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
9:5
彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6
立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
9:7
同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
9:8
サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:15
しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
9:16
彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
9:17
そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

躾であるとして、子供を虐待する人々がいます。昨年はスポーツにおけるハラスメントが大きく問題になりました。主義主張が人を攻撃し、傷つけることにもなることはしばしば起こります。ハラスメントは、「嫌がらせ、いじめ」とも訳され、「他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること」を指します。社会において、パワハラ、セクハラなどがなくならない理由は、@それをする人が悪いことをしているとは思っていないこと、A相手に与えたダメージに気が付いていないこと、B受ける側に責任を転嫁していること、などにあります。先日、取引をしようと思っていた会社の社長が、講演で数人の女性の肩を叩き、顔を近づけているので、その会社との取引を止めました。

人間の心の繊細さを知るほどに、人の持つ主義主張が、他の人を傷つけることに気が付きます。結婚40年になりますが、妻との交流の年月の中で、私の何気のない言葉や行いが妻を傷つけることを悟ってきました。互いに攻撃的な夫婦を見ていると、自らの言動が相手を傷つけていることに気が付かず、相手の言動にばかり腹を立てています。基本的に、夫婦仲良く労りあっていない場合には、自分の言動に注意深くない、ということが言えます

会社や学校における規則や規律というものも、指導者側の都合によって勝手に作られたものが多くあります。それらが、指導者側には拘束にならず、部下や生徒には拘束になる、ということは神の前に違反です。

私が大事にしている聖句に、「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8・32)があります。その聖句は、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。そして、あなた方は真理を知り」31)の後に来るものです。聖書をキリストからの私たちへの言葉であると意識する者は、自らをみことばによってチェックします。日本人は、外面的な行動によって、人に責められないか、立派に見えるかと判断する習慣をもっているようです。つまり、チェックが人に見られる自分なのです。人に対する自分の心ではないのです。

神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。」(Tヨハネ2・5.6)。言動に聖書の言葉によらない人が多くおります。それはみことばを基準としていないからです。経験や習慣によってはいけません。

 パウロは、教育も家柄もあり、強い個性も人格もありました。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(Tコリント8・1)とありますが、彼の築き上げた教育は、人を攻撃するものとなり、律法を背いているとみなされるクリスチャン「に対する脅かしと殺害の意に燃えて」(使徒9・1)いました。自らの主義主張が高じると人を殺しても正しいと、信じてしまうほど、人間は愚かで罪深いのです。

人格、徳というものは、自らの罪深さに気が付くことによってこそ、形成されてくるものなのです。自らの罪深さに気が付くには、聖霊とみことばによらなければなりません。残念ながら、聖霊とみことばにより頼むことは、生身の人間ではできません。そして、人を傷つけ、ハラスメントをしても、自分の罪に気が付かないのです。自分の行為を正当化し、人を大事にする、愛するということができない人、「愛のない者に、神はわかりません。」(Tヨハネ4・8)。

 パウロには、神がかりの体験が起こりました。数日後、パウロは「イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。」(使徒9・20)。しかし、数日前までクリスチャンを迫害していたパウロの急変に、クリスチャンも、迫害者たちも、一般人も驚き、信用されず、またパウロを殺そうとする動きも起こったので、故郷のタルソに行き、祈りの日々を過ごします。

 洗礼を受けたり、聖書を読んだら、すぐに信仰者として成長するわけではありません。自分が正しいと信じていた過去を否定し、自分の行動や性格を否定するような認罪感を持つみことばと聖霊に照らされた日々を過ごさなければなりません。聖書を1時間以上、ゆっくりと読み、そこに教えられることを記録し、祈りの中で過去と現在を、聖霊によって吟味していくことが必要なのです。これがないと、信仰者としての成熟はあり得ません。生身の人間の能力や性格で、表面上はクリスチャンらしく見えますが、人に見せる姿に囚われることは危険です。内面を改める為には、聖霊による祈りが不可欠なのです。

 長い信仰生活を送った信者や牧師が、高齢になって節度のない、神の祝福と平安のない日々を過ごすことを見受けます。残念ながら、救いと聖めは、神の御霊の業であり、その人の内面のものです。外面を気にし、成果を求めた人生に、平安がないことを見ています。教会に長く集い、奉仕をしてきた、などの外面のことで天国を勝手に保証してはいけません。愛は、主義主張も人を愛する故に捨て去ります。人生の功績も、地位も、賞賛も、神の国を保証するものではなく、却って邪魔になります。へりくだって、神の国の姿に自らを聖めましょう


1月19日 「自由人として生きる。」  ガラテヤ51326

ガラテヤ5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
5:13
兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
5:14
律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
5:15
もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
5:16
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
5:18
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
5:19
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
5:24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

先週は主義主張が、私たちを神の御心から逸脱させる間違った価値観であることを語りました。私にとって、先週の週報の写真で示したクリスチャンたちの信仰が驚くべきことでした。情報としては統制され、監視されている中で、信者同士の名前を挙げて執り成しの祈りを公の集会で30分も祈っていることは、愚かなのか、無頓着なのか、或は信仰による自由と勇気を持っていることなのか、と祈りました。逃げることも、誤魔化すこともできない状況に際して、人はどのように行動するか、真実は明らかになるものです。

日本人が言い訳や誤魔化しを口にするのは、命や迫害のない甘えの環境にあるからだと思われます。世界的には、そのような人は、信用の置けない人として、すぐに社会でも仕事でも失墜します。言い逃れを追求しないで済むのは、それを追求しても、自分が失敗を犯した時に、言い逃れができないと困ると感じているからです。つまり、馴れ合いの社会であり、建前が通る社会なのです。

しかし、それは真実に生きることを阻む壁になります。そして、問題解決に至らない無責任になります。百人の人がいて、問題解決能力を持つのは10人くらいであり、問題を起こす人も10人くらいいて、残りは言われたことを果たす人であると言われます。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」(黙示録3・15)とありますが、悔い改めて救われるのは、冷たいか熱い人です。

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」1)のですが、「しっかり立」たないと、再び「奴隷のくびきを負わせられ」るとあります。先週、高齢になった信者の堕落や退廃を指摘しました。現在、キリスト教の歴史を振り返って論文にまとめていますが、迫害には強いのですが、「肉の欲望」(16)には、弱いのです。ここで列挙されているなかで「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」は人間関係に関するものです。

つまり、私たちが気をつけなければならない「肉の行い」というものは、なにげない人間関係に関するものが多いということです。人に腹を立てる、敵対心や対抗心を持つ、人の成功をうらやむ、人を差別し、好き嫌いをあからさまにする、・・・、このようなことが堕落の原因となるのです。先日は久しぶりに酔っ払いの人達と一緒にいました。後で、詫びてきましたが、自制できない有様とそれを面白がって赦す人々に、日本の安逸さを見ました。神なき社会です。

 ユダヤ教のタルムード関係の本を4冊ほど買って読んでいます。「神を恐れ、毎日タルムードを読み、実践すれば、罪を犯すことはない。そうすれば、必ず反映する。」とそれを家族や集落で絶えず戒めている、とのことです。確かに、ユダヤ人は権力志向が少なく、表に出ることもなく、繁栄し、力をもっています。誠実に生きることを戒めて、悪を憎み、誤魔化しを互いに認めない日々を過ごすならば神の祝福を得ます。

 ルターの「キリスト者の自由」を読み返しました。皆さんも座右に置き、何度も読むべき本です。「肉体においてなされる全ての善行をしても、魂に何の役にも立ちません。」と語り、偽善者になるばかりだと、時の聖職者を批判しています。「神の言葉の他に、天にも地にも、自分を生かし、義とし、自由にし、かつキリスト者とするものはない。」と断言しています。そして、「行いをもって義をされようと考える人々は、訓練ということに意を用いないで、ただ行いだけを考え、多くの行いと、大業な行いをしさえすればそれで良いとし、それで義とされると考え、それが為に頭を痛め、身体を壊します。」と人の目を気にする人を皮肉っています。

 御霊によって歩みなさい。」(16)とは、自分の判断によらず、損得によらず、自分を主張せず、「肉の願うこと」(17)をせず、聖書の通りに自らが歩むことを注意することから始まります。自らの言動をいつも、チェックしてみことばに沿っているかを確認しなければなりません。決して、言い逃れをしてはいけません。神はご存知です。

 己の言動に注意深くない人は、御霊の人ということはできません。祈るということは、自らをわきまえるということです。「御霊を受けている人は、全てのことをわきまえます」(Tコリント2・15)とあるように、真実な信者というものは、御霊によってわきまえるしかないのです。しかし、「自分はだれによってもわきまえられません。」と続くように、そのような信者の敬虔さ信仰は、未信者によって理解されるものではないのです。

 私自身は信仰者として45年も経ちました。祈りなくして御霊に導かれることのない罪びとです。自己中心が祈りの中で示されます。「絶えず祈りなさい。」(Tテサロニケ5・17)は、自らのいのちと自由のために必須なことです。そして、祈りが妨げられないために、「いつも喜んでいなさい。すべてのことに感謝しなさい。」もまた、心していなければなりません。


1月26日 「無宗教者の無謀」  Uテサロニケ24

Uテサロニケ 2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
2:4
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
2:5
私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。
2:6
あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
2:7
不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
2:8
その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
2:9
不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
2:10
また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
2:11
それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
2:12
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

直 訳

神と呼ばれる凡ゆる物または礼拝の対象に対して逆らう者かつ高ぶる者は、神の神殿の中へと、神の如くに座し、彼自身、神であると宣告する。」

本日の御言葉……、世界の終末の時、基督が再臨される前に、現れる事象の一つです。こなれた訳にすれば、「どんな神であれ、神と呼ばれたり、礼拝されている全て物に敵対し、高慢に振る舞う者どもは、畏れ多くも神の社に土足で踏み入り、神の座に立って、『我こそが神なり』と宣告する。」となります。今日の日本社会の現状、世界の現実をそのまま表現しているようです。

   一 神否定の無宗教者

第一に、「どんな神であれ、神と呼ばれたり、礼拝されている全て物に敵対し、高慢に振る舞う者ども」が現れるのです。どんな宗教の神であれ、どんな種類の神であれ、神と呼ばれる一切のものに敵対します。「神」とは呼ばれていなくても、礼拝の対象とされるものに対しても逆らい、高ぶります。徹底した無神論であり、徹底した無宗教です。二千年前の世界では、パウロがこんなことを言っても、誰も信用してくれなかったでしょう。

日本が無宗教国家になったのは、敗戦後、占領軍総司令部・GHQが、日本の宗教を否定し、強引な基督教化を進めたことに端を発します。当時、GHQ総司令官は、「日本は、遅からずして基督教国になる」と歓喜していますが、現実には1%にも達していません。神道や仏教、神社や寺院を否定することは、神や宗教の否定に繋がります。結果的に、正義の神を否定する無宗教化となってしまいました。

二 神の世界にて君臨

 第二に、彼らは、神の神殿において、神の如くに、神の座に着くと言うのです。戦前の日本では、教会の礼拝の前に皇居遥拝が求められていました。現在の中国では、国家や共産党に対する忠誠が求められています。仏教でも、道教でも、基督教でも、まずは国旗を掲揚してから、礼拝を始めることが可能となっているようです。

 神の神殿に、神でないものが侵入し、神の如くに、神の座に着く……、その典型のようです。

 神の神殿とは、必ずしも、何らかの宗教の神殿と呼ばれているものに限りません。この世界は神の創造した神の世界ですから、この世界は神の御座であり、神の神殿です。

 そこに、神を否定し、拝礼を禁止する者が、我が物顔に君臨しています。それが現代社会です。

  三 自己神論たる宣告

 第三に、彼らは、あれほど神を嫌い、神を否定していたのに、何と、自らが「神」であると宣言するに至るのです。

 文字通りに「神」と言うこともあれば、「皇帝」「王」「絶対者」「統治者」「大統領」などを名乗ることもあります。単に自分勝手にそれを名乗るだけではなく、法律や規制、社会制度や経済手段を用いて、強制し、制度化し、組織化します。あらゆる情報を手中に収め、その情報操作で知らず知らずに強制されるということもありです。

 「無神論」とは、英語では「atheism」。希語の「a-theos」に由来します。「theos」は「神」で、「a-」は「否定」「否」という意味です。つまり、「無神論」とは、神を否定する「否神論」ということです。

 そして、否定して空席となった神の座に自分が座るのです。つまり自らを神の座に据える「自己神論」なのです。

 今、最も危惧されるのはAIです。小説『AI崩壊』が好評で、映画化され、間も無く封切られます。AI「のぞみ」が収集した国民の膨大な個人データを基に、人類を選別し、殺戮を始めるというストーリーです。半世紀も前の手塚治虫の漫画で既に、「電子頭脳マザーによる人類統治」が描かれていました。

 誤りを犯さない機械による統治は、闘争心盛ん、嘘が平気、他人を犠牲にした自己実現、淫らな支配欲などを有する人間とは異なって、「理想的な統治」を夢見させるものですが、機械の計算で行き着くところは、結局は、人類の破局であり、破滅なのです。

 終末における現象でしょう。信仰者として、いかに終末を生きるか、真剣に考えるべき時が来ています。

 


2月2日 「弟子を作り、教える。」 マタイ2816節〜20


2月9日 「神の霊の宿っている人」  創世記412840

創世記 41:28 これは、私がパロに申し上げたとおり、神がなさろうとすることをパロに示されたのです。
41:29
今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れます。
41:30
それから、そのあと、七年間のききんが起こり、エジプトの地の豊作はみな忘れられます。ききんが地を荒れ果てさせ、
41:31
この地の豊作は後に来るききんのため、跡もわからなくなります。そのききんは、非常にきびしいからです。
41:32
夢が二度パロにくり返されたのは、このことが神によって定められ、神がすみやかにこれをなさるからです。
41:33
それゆえ、今、パロは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように。
41:34
パロは、国中に監督官を任命するよう行動を起こされ、豊作の七年間に、エジプトの地に、備えをなさいますように。
41:35
彼らにこれからの豊作の年のすべての食糧を集めさせ、パロの権威のもとに、町々に穀物をたくわえ、保管させるためです。
41:36
その食糧は、エジプトの国に起こる七年のききんのための、国のたくわえとなさいますように。この地がききんで滅びないためです。」
41:37
このことは、パロとすべての家臣たちの心にかなった。
41:38
そこでパロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」
41:39
パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。
41:40
あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」

彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」(創世記39・2)とあるように、ヨセフのすることは全て祝福されました。そのヨセフは、成人となっている兄たちから殺されそうになり、奴隷としてエジプトに売られていたのです。私たちの人生では苦難も試練もありますが、それは敵や悪人によってされることであり、自らの罪の故の試練とは区別しなければなりません。ヨセフは、人を恨んだり、憎んだりしていないのです。自分の試練を嘆いても、嫌がってもいないのです。

私は箴言を度々読みます。「愚か者」という言葉に印を付けると、自分の戒めになります。確かに、世の中に「愚か者」は多いのです。皆さんが誠実に正しく歩もうとするならば、愚か者とは親しく言葉を交わさず、相手にしない方が良いでしょう。「愚かな者の友となる者は害を受ける。」(箴言13・20)。「ヨセフは奴隷となっても、周囲の者と同化せず、心を見張り、だからこそ、「主が彼とともにおられ」たのです。力の限り見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」(箴言4・23)。

愚かな人は自分の生活をチェックしません。欲望のままにやりたいことをしているだけです。テレビの娯楽番組を観て「ワハハ」と笑っている者を愚か者と言います。ただ、時間と自分の心が消費されていくだけです。同じ一日、一年が愚か者と知恵のある者では、全く違ってくるのです。皆さんは、「主が共におられ」、自分のすること全てを祝福されるように、心を見張らなければなりません。自分の人生が、祝福されていないのならば、悔い改めなければなりません。しかし、愚か者は心を吟味することはしません。

祝福されたヨセフを見て、主人の妻が強引に姦淫に引き入れようとしました。それがかなわぬと、偽証をしてヨセフを監獄に入れました。「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」(創世記39・23)。妻は大腸がんになり、脊柱管狭窄症になりましたが、今は全く治っています。私も不整脈や通風で苦しみ、肝臓を悪くしましたが、今は元気です。治そうと決心しているからです。「病気です。」と自分の弱さを訴え、仕事を減らそうとはしていません。医者任せにもしていません。治るために自分をチェックしているのです。愚か者や不信仰者と親しく言葉を交わし、心を許してはいけません。堕落や不信仰、正当化は、手の届く所にあるのです。神の霊が宿る為には言葉遊びしている者と親しくしてはいけません。

ヨセフが17歳の時に奴隷として売られ、王に取り立てられたのは30歳です。13年間の奴隷や囚人生活が続き、夢を解き明かした献酌官長にも忘れられて2年、ヨセフは決して自らの心を貶めなかったのです。多くの人が心を欲望に捕らえられています。悩み、苦しみ、悲しみ、怒り、に囚われている人もいます。祈ることができない人も多いのです。祈っているふりをして、実際には神に心を注いでいない場合が多いのです。「神の霊が宿る」ためには、思い煩いを振り捨てなければできません。自己主張も、神の前には僭越です。謙虚でなければ、神は私たちを導き祝福してはくださいません。

 パロの前に出たヨセフは、「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」(41・16)と媚びることも、驕ることもなく、謙遜に神に栄光を帰して話します。そして、夢を解き明かし、「それゆえ、今、パロは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように。」(33)と対策まで助言します。

 苦難に対して、具体的に対策のできる人は優秀です。多くの人は、災害や問題が起こることがわかっていても、周りがやらないなら自分もしなくても良いと考えています。都合の良い夢ばかり描いて、何もしないのです。ご自分の人生を振り返って、何もしていない、何もなっていない、神の国に繋がっていないことに気が付き、悔い改めるなら遅くはありません。実は、そのような自称クリスチャンは多いのです。それは、神の責任ではなく、その人の怠慢と罪の結果なのです。人生最大の苦難は、神の国に入れないことです。ところが、愚か者はその裁きの座に立つまで、自分が神の御霊に導かれていないことに気が付かないのです。

 「神の霊の宿っている人」は、聖霊の時代では、それほど稀ではありません。ヨセフは、父ヤコブと兄弟を呼び寄せて苦難から救い出しました。神の警告を聞き留め、災いに備える人は幸いです。7年の飢饉の前に7年の豊作がありました。豊かな時に使ってしまい、貯えていない人は悲劇です。その人は知恵を放棄したからです。神に全てを委ねているというのは、無責任であるという言い訳です。私たちの能力も時間も富も神から預かったものです。愚か者は、この管理責任を放棄するのです。家族を大事にするためには、時間も知恵も尽くさなければなりません。神の国を大事にするのも同様です。毎日の生活を神の御霊に委ね、愚か者にならないように知恵を持って過ごし、使命を果たしていくのです。

 


2月16日 「大いなる救いのため」  創世記4518

創世記 45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを、私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。
45:2
しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。
45:3
ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。
45:4
ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
45:5
今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。
45:6
この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。
45:7
それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。
45:8
だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

創世記42章から45章までのヨセフの兄弟たちへの仕打ちを読むと、なぜこんなにしつこく責め立てるのかと疑問を感じることも多いかと思います。私自身も当初は、そんな思いを抱きましたが、牧師となって人の罪の深さ、悔い改めの難しさを悟るほどにわかってきました。例えば、説教を聞いてわかったと思う人は多いのですが、その積み重ねがあったとしても、悟りでは魂は救われないのです。

彼らは「私たちは正直者でございます。」(2・11)と言います。へつらいながら、自分をよく見せようとするのです。「もう一人はいなくなりました。」(13)ではなくて、自分たちが殺そうとしたのです。彼らは、試練を受けて初めて、「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」(42・21)と後悔するのです。

「ルベンが彼らに答えて言った。『私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。』」(22)。罪を犯した罰を受け入れられない人は、多くおります。自分の過ちや誤魔化しがばれた時に、謝って罰を受けようとする人と、何とかして罰を逃れようとする人がおります。はっきりと言っておきますが、罰を逃れようとする人は、赦しを受けることはできませんし、救われたクリスチャンではありません。

ヨセフは、最も残虐であったシメオンを縛り牢に入れて、他の兄弟を返しました。乱暴者のシメオンですが、他の兄弟が彼を見捨てるかどうかを見守ろうとしたのです。飢饉は続き、再びエジプトへ食料の調達に行かなければならなくなりました。父イスラエルにとって正妻の子は残るベニヤミンだけですが、ユダはベニヤミンをヨセフの命令の通りに連れていくために、「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。」(43・9)として「保証人」「罪ある者」という信仰の奥義を告白します。

再びヨセフの前に出た兄弟たちは、エジプトの絶対者の前に恐れおののきます。そして、袋の中に返されていた銀についても、言われる前に告白します。絶対神を信じている人は、不平や不満、嘘偽り、誤魔化しや言い逃れはしないものです。皆さんも、自分の日々の言動を振り返ってください。もし、あなたがそのようであるならば、神の裁きを逃れることはできません。

兄弟たちは歳の順に座らされ、ヨセフの超能力に驚くのでした。帰ってゆく彼らの袋には再び銀が戻され、ベニヤミンの袋にはヨセフの盃が入れられます。そしてしばらくして追いつかれ、ベニヤミンだけが奴隷とされることになります。しかし、兄弟たちは、着物を引き裂き、末の弟だけを残すことを良しとせず、ヨセフの前にひれ伏すのでした。

 ユダは言います。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」(44・16)。正直者を装っていたのが、「神がしもべどもの咎を暴かれた」と告白するようになったのです。クリスチャンになって、立派さを装うことはやめた方が良いでしょう。そのうちに罪も咎も暴かれます。「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Tテモテ1・15)が救われたクリスチャンの告白です。善人を装い、立派さを競う人は、化けの皮が剥がれないように、誤魔化しをするのです。

 4男のユダの告白、身代わりは真摯なものでした。ヨセフはこれ以上、兄たちの悔い改めを迫ることはできず、ユダの言葉に感動して泣きだしてしまったのです。

 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ」(へブル9・27)とありますが、ユダ以外の人が真に悔い改めたようには思えません。父イスラエルの死後に、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」(50・15)と言っているように、罪の赦しを信じていないからです。そして、確かに、現在ユダヤ人と言われるように、イスラエル民族で残っているのは、ユダの子孫だけなのです。

 教会にも外面を装い、立派な教会員らしく振る舞っている人がおります。その人は、神を見るよりも、人にどのように映るかに関心があり、自分の成長や願いの達成を神に求めているのです。或は、自分の内面や行いに関心があります。クリスチャンは、そのような罪びとの中に、平然と罪びとであることを自ら告白して生きるのです。罪びとは、罪人でないように生きるのです。神の裁きは、奇妙なものです。


2月23日 「試練に備える配慮。」  創世記4719

創世記 47:1 ヨセフはパロのところに行き、告げて言った。「私の父と兄弟たちと、羊の群れ、牛の群れ、そして彼らのものすべてがカナンの地からまいりました。そして今ゴシェンの地におります。」
47:2
彼は兄弟の中から五人を連れて、パロに引き合わせた。
47:3
パロはヨセフの兄弟たちに尋ねた。「あなたがたの職業は何か。」彼らはパロに答えた。「あなたのしもべどもは羊を飼う者で、私たちも、また私たちの先祖もそうでございます。」
47:4
彼らはまたパロに言った。「この地に寄留しようとして私たちはまいりました。カナンの地はききんが激しくて、しもべどもの羊のための牧草がございませんので。それでどうか、あなたのしもべどもをゴシェンの地に住ませてください。」
47:5
その後、パロはヨセフに言った。「あなたの父と兄弟たちとがあなたのところに来た。
47:6
エジプトの地はあなたの前にある。最も良い地にあなたの父と兄弟たちとを住ませなさい。彼らはゴシェンの地に住むようにしなさい。もし彼らの中に力のある者がいるのを知っていたら、その者を私の家畜の係長としなさい。」
47:7
それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした(祝福した)。
47:8
パロはヤコブに尋ねた。「あなたの年は、幾つになりますか。」
47:9
ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」

ここは、ヤコブがエジプトのパロを祝福した、というので知られた箇所です。その外にもヨセフの知恵と配慮がふんだんにあります。まず、兄弟十一人の中から五人を選んでいます。四九章を読むとヤコブがそれぞれの性格と行いに従って、預言をしています。ルベンユダは間違いなく選ぶでしょう。ゼブルンは海上貿易で祝されます(13)。ガドも攻撃に備えていて強いことがわかります(19)。アシュルは農業を営み、美味しい作物を得ることができます(20)。この五人であろうと私は推測します。失格は、乱暴なシメオンとレビ、ベニヤミンも喧嘩早いことがわかります。イッサカルは「ろば」(14)と呼ばれるので、意思も努力ものない体力だけの人間です。ダンは勝手に歩むので人との協力はできないように記されます(17)。ナフタリは自ら楽しく生きることを選ぶ人でしょう(21)。父ヤコブは、十二人の子どもたちことをよく知っており、そのことが将来の神の祝福や子孫の歩みにも繋がることを祈りの中で教えられるのです。「彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。」(49・28

次の配慮は、エジプト人とは一緒に住まないようにしたことです。羊を飼う者」3)と彼らの職業を強調し、「そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住むことができるでしょう。羊を飼う者はすべて、エジプト人に忌みきらわれているからです。」(46・34)。現代ユダヤ人の信仰と生活の指導書となっているタルムードには、政治とはなるべく関わらないようにとありますが、大事なことです。多くの男性は、権力を握ろうとして政治や権力者と結びつこうとしますが、愚かなことです。信仰者は、思い通りの人生を生きようとしてはなりません。

ヨセフの配慮は、牧畜をするのに適し、都会から離れたゴシュンの地に、家族を住まわせたことでもありました。喧嘩早い田舎者の兄たちが、エジプト人と一緒に住むならば、争いが起こることは予想されます。先祖アブラハムから受け継いだ信仰を教え、生活に浸透させるには隔離された場所の方が都合が良いのです。

アブラハムへの預言「あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。」(創世記15・13.14)の通りになることを、御霊の人ヨセフは悟っていたかと思います。つまり、パロへの預言を家族と民族の守りの為に、取り計らったのです。神は、ロトの家族への執り成しを、アブラハムにさせていたように、ヨセフにさせていたことはありうるのです。(創世記18・17

宗教迫害について警告した信徒伝道者が、「死んでも天国」と覚悟を決めていましたが、指導者としては愚かな人の分類に入ります。指導者は、自らが指導する人々を教え、助け、たとえ聞き入れない愚かな人がいようと丁寧に教導しなければならないのです。人を教えても、聞き入れて直ぐに成長する人は僅かです。「愚かな人が滅びるのは自業自得だ。」としたら、イエス様は地上に生まれなかったし、まして十字架の死を遂げることはありませんでした。十二弟子と言えども、成長は遅く、一人は裏切りました。

 今回のコロナウィルスは、感染を恐れた海外渡航禁止や集会などの自粛によって、未曽有の経済不況を引き起こします。特に中国は、ウィルスの発症及び死者が膨大な数に上り、経済活動が崩壊しています。野菜を含めた食料が流入しなくなり、一〇倍の値段が出たところもあるそうです。市場経済の七割以上が止まっていると言われ、経済不況は世界大のものとなります。

 七年の豊作の時は既に過ぎたのです。七年分の貯えや備えはしてあるでしょうか。エジプトの人々は、飢饉によって、銀を失い、家畜を失い、土地を失い、そして、奴隷となったのです。家の長、組織の長、国や地域の長は、苦難の時に備えていなければならないのです。

 いろいろな分野の工場である中国が機能しなければ、物価は高くなります。飛行機が飛ばない、船が動かない、ということは、輸出入がかなり減るということで、物がなくなり、物価は急上昇します。

 終末というものは、年金で暮らせる、という時代ではないのです。かといって、打算で動き、自分だけの生活を守ろうとする人はいざという時の助けも、神の祝福もなくなります。真摯に信仰に生き。知恵の限りを尽くし、自らを戒めることが、私たちの命綱なのです。


3月1日 「神に私は訴える。」  エレミヤ20712

エレミヤ 20:7 【主】よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。
20:8
私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません。私への【主】のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。
20:9
私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。
20:10
私が多くの人のささやきを聞いたからです。「恐れが回りにあるぞ。訴えよ。われわれもあいつを訴えよう。」私の親しい者もみな、私のつまずくのを待ちもうけています。「たぶん、彼は惑わされるから、われわれが彼に勝って、復讐してやろう」と。
20:11
しかし、【主】は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。
20:12
正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の【主】よ。あなたが彼らに復讐されるのを私に見せてください。あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。

誰にも試練はありますが、試練によってその人の本性が現れます。うまくいかないことに不満や不平をもらし、攻撃的になったり、悲観的になったりすることによって、自らが軽薄な人間であることを示してしまいます。逆に、どんな時にも柔和であり、苦難や災いを受け留め、耐えて生きる人は、幸せに生きることができます。

信仰者に政治は無関係だという人は愚かな人です。賢明に生きる為には、社会の推移を分析し、愚か者の罠や攻撃に陥らないように注意していなければなりません。争いごとや難しいことには関わらないようにしたいと逃げている人こそが、操られるのです。時代は、既に終末に入っています。愚かな人はパニックを起こします。信仰者は、全ての不幸と不具合を覚悟すれば恐れることはありません。

エレミヤの時代は、幼い8歳で王となり、周囲の信仰者の支えによって父アモンや祖父マナセの悪政と偶像崇拝の退廃から回復させたヨシヤ王の時代です。アッシリヤの弱体の幸運に恵まれて束の間の平和を得た人々は直ぐに堕落し、「この時代の人々よ。主のことばに心せよ。」(2・31)とのエレミヤの預言に耳を貸しません。「『私は罪を犯さなかった』というから、今、わたしはあなたをさばく。」(2・35)と警告します。

ヨシヤ王は調子に乗り、エジプトの王ネコがアッシリヤを打ちに出てきた時に迎え撃ち簡単に殺されてしまいます(U歴代35・21)。この為に南ユダは独立を失い、次に王となったエホアハズをエジプトに捕虜とします。次の王エホヤキンは「主の前に悪を行った。」(36・5)。「ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。」(エレミヤ25・3)とエレミヤは嘆いています。

その原因は、都合の良いことを言う偽預言者でした。見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる。──主の御告げ──彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。」(エレミヤ23・32)。

そればかりでなく、「祭司であり、主の宮のつかさ、監督者であるイメルの子パシュフルは、…預言者エレミヤを打ち、彼を主の宮にある上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。」(20・1.2)のです。同じように主のことばを預言したウリヤは、エジプトに逃げたのに連れ帰らされ、エホヤキム王によって剣で殺されます(26・20-23

エレミヤは嘆きます。しかし、預言しないでいることはできないのです。「私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。私は、『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」(20・8.9)。

 人間は消極的になると罪を犯します。恐れは、黙ってもいろいろな情報から心に入りこんで、それを放置すると感染症のように蔓延して信仰を失います。エレミヤを足かせに繋いだパシュルに対して、「翌日になって、パシュフルがエレミヤを足かせから解いたとき、エレミヤは彼に言った。「【主】はあなたの名をパシュフルではなくて、『恐れが回りにある』と呼ばれる。」(20・3)として、恐れがあるからエレミヤに対して攻撃的になるのだと指摘します。

 聖書を読むとか祈るとか、自分の心に信仰を偽る行為をしても、心を吟味して、恐れや否定的な気持ちを除いて、神への希望に置き換えない人は、パシュフルのように人生を滅ぼします。

 終末の艱難は、まだ序の口です。病気を恐れた人は病気になるでしょう。お金の心配をした人は、貧しさに苦しむでしょう。職を失うことを恐れた人は、仕事もできなくなり、生活を破綻させていくでしょう。確かに、経済は世界恐慌のようになって、企業は破産していくでしょう。今回のウィルス対策のようなことをしていたら、政府も地方も財政が破綻し、福祉はおざなりになります。税金は上がり、物価も上がり、収入はなくなり、天災、人災、疫病は人々を苦しめます。

 エレミヤを泥の穴に投げ込んだ(38・6)ゼデキヤ王は目を潰されて奴隷となり、「おもだった人たちもみな虐殺」(39・6.7)され、エレミヤはバビロンのネブカデネザル王によって「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ。」(39・12)と慰められるのでした。

 確かに、「正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主よ。あなたが彼らに復讐されるのを私に見せてください。あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。」(12)となるのです。信仰をなおざりにする者は、神に守られることはないのです。


3月8日 「恐れてはならない。」  ヨシュア1511

ヨシュア 1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
1:6
強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
1:7
ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
1:8
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
1:9
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」
1:10
そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。
1:11
「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、【主】があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから』と言いなさい。」

コロナウィルスにまみれている武漢市の牧師が手紙を出しました。

危機的な状況ではありますが、私たちは主の約束に信頼しています。私たちに対する主の思いは災いではなく平安であり(エレミヤ2911、私たちに試練の時を許し、滅ぼすのではなく私たちを建て上げてくださいます。ですからクリスチャンは、町の人と共に苦しむだけでなく、恐れている人々のために祈り、イエス・キリストの平安をもたらす役目があるのです。

まず、キリストの平安が私たちの心を支配しますように(コロサイ315。キリストはすでに私たちに平安を与えてくださっていますが、それは災いと死を免れることを意味するのではなく、むしろその真ん中にあっても平安だということです。キリストが既に病や死に勝利してくださいましたから(ヨハネ14:2716:33。もしこの平安がなかったなら、疫病を恐れ、死に直面して希望を失うことでしょう。

なぜ私たちは平安を持つことができるのでしょう。主は「悪しき者には平安がない」(イザヤ4822と言われました。私たちはかつてみな罪人で、平安がありませんでした。しかしキリストが、私たちの罰を身代わりに受けてくださり、ご自身の平安を与えてくださったのです。クリスチャンは地上において苦しみに直面するかもしれませんが、その苦難は罰ではありません。むしろ全能者なる神の御そば近くで成長し、たましいの不純物を除き、福音を宣言する新しいチャンスなのです。

言い換えれば、災害に遭ったとしても、それは神の愛の現れに過ぎません。パウロが固く信じていたように、「誰がキリストの愛から私たちを引き離すでしょうか。苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣ですか……これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。死も、命も、御使いも、支配者も、今あるもの、後に来るもの、力も、高さも、深さも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません」(ローマ835?39)。私は彼らに頼みました。特に、「キリストに目を向けてください」と。私の幸せを心配したり、動揺したり、恐れたりしないで、イエス・キリストの名によって祈ってください。

歴史上、疫病は社会も文化も変えるものとして恐れられてきました。6世紀のペストは、東ローマ帝国の人口の半分を失わさせ、14世紀のペストは中国で流行ったものが中東からヨーロッパまで移り、当時の世界人口の半分以上が死んだと言われています。17世紀の中国のペストは1000万人以上が死にました。スペインの侵略と共に侵入した天然痘でインカ帝国の94%が死亡したともいわれています。

その他、チフス、結核、インフルエンザ、致死率の高いエボラ出血熱などが多くの死者を出しています。エイズ、マラリア、もあり、sarsはコロナウィルスです。このような疫病に対するものとして公衆衛生学が発生し、医学の上位に位置するものとされています。

 医学も、科学も、文化も発達したのに、次々に未知の疫病が発生し、未だ治療法が確立していないものもあります。旧約聖書には、疫病という言葉が55か所あり、新薬は一か所です。「大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。」(ルカ21・11)。つまり、終末の兆候ということです。

 人々は、対処し得ない疫病の蔓延に際して、神の国を求め、信仰をもって死んでいったということが歴史的事実です。実際には全ての人はいつかは死ぬのですが、対応できない疫病に対しては、大きな恐怖を覚えるのです。

 「罪が死によって支配した」(ローマ5・21)というように、人は死の恐怖の中で罪を犯すのです。信仰者は、死の恐怖に対して救いによって平安を得、不信仰者や偽の信仰者は死の恐怖によって逃げ惑うのです。

 世界中が感染を恐れています。そして、仕事も生活も破綻させて、浸すらおびえています。クリスチャンは、未信者のように怯えてはなりません。「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」9)。

 「糧食の準備をしなさい。」(11)。今までは、マナとウズラによって恵みによって食を得ていたイスラエルの人々ですが、これからは自らの戦いと労働で食を得ろと、主は言われます。恐れている人は働きません。そして、自らを滅ぼしていくのです。

 働くということは、疫病に対しても、しっかりと対処して映らないようにするということはもちろんです。それだけでなく、試練の後に続く戦いにも備えていくということです。


3月15日 「主が遣わす預言者。」  エレミヤ2725節、28813

エレミヤ27:2 【主】は私にこう仰せられる。「あなたはなわとかせとを作り、それをあなたの首につけよ。
27:3
そうして、エルサレムのユダの王ゼデキヤのところに来る使者たちによって、エドムの王、モアブの王、アモン人の王、ツロの王、シドンの王に伝言を送り、
27:4
彼らがそれぞれの主君に次のことを言うように命じよ。『イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。あなたがたは主君にこう言え。
27:5
わたしは、大いなる力と、伸ばした腕とをもって、地と、地の面にいる人間と獣を造った。それで、わたしの見る目にかなった者に、この地を与えるのだ。
28:8
昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの国と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病とを預言した。
28:9
平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」
28:10
しかし預言者ハナヌヤは、預言者エレミヤの首から例のかせを取り、それを砕いた。
28:11
そしてハナヌヤは、すべての民の前でこう言った。「主はこう仰せられる。『このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカデネザルのくびきを、すべての国の首から砕く。』」そこで、預言者エレミヤは立ち去った。
28:12
預言者ハナヌヤが預言者エレミヤの首からかせを取ってこれを砕いて後、エレミヤに次のような主のことばがあった。
28:13
「行って、ハナヌヤに次のように言え。『主はこう仰せられる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる。

多くの人は、「宗教にはまる」ことを恐れ、ある程度の距離感をもって宗教と接しようとします。新宗教への入信の動機は、貧・病・争と言って、問題の解決を求めてのことが多く、現世利得となります。教えは、「心なおし」と言われ、何らかの方法によって心の持ち方を変えたり、教祖の教えに従うものとなります。日本には人口の2倍の信者がおり、葬儀などには新宗教の信者も伝統仏教に依頼することがあるようです。

キリスト教をそのような宗教と同一視することを嫌い、「道」であるとして、他の宗教批判や区別をする牧師も多くおります。私は、人を攻撃したり、批判したりするのが好きではないので、他宗教批判はしません。宗教を持たない人々よりも、何らかの宗教を持っている人を信用するべきだと考えております。神なき人生観を持っている人は、平気で嘘を言い、誤魔化しをすることを経験してきました。実は、クリスチャンでもそういう人はおり、昔は心を痛めてきました。

「救い」の体験がクリスチャンと他との違いを明らかにするものですが、この「救い」も人によって濃淡があります。

@   義認
罪を悔い改めた者が、罪赦され、義とされることです。この義認を得た者が罪に苦しむことはありません。

A   新生及び神の子とされること
神からの新しい命を受け、神の子として生きる。

B   聖化
自らの為の生活をやめ、神への献身として生き方を変える。

このような「救い」を得て、クリスチャン(キリストに似た者)となることができ、私自身はそのような生涯を歩んでいるつもりです。ところが、中途半端なクリスチャンが現代社会には多いような気がします。周りは未信者であり、クリスチャンではないので、クリスチャンらしく生きることがわからないのでしょうか。私自身は、サンプルなく、ただ、神を信じ、神に仕える人生を心掛けてきただけです。

エレミヤは「あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。彼らを絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けようともしませんでした。彼らは顔を岩よりも堅くし、悔い改めようともしませんでした。そこで、私は思いました。『彼らは、実に卑しい愚か者だ。主の道も、神のさばきも知りもしない。』」(5・3.4)と嘆くのです。

主はこう仰せられる。「倒れたら、起き上がらないのだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか。」(エレミヤ8・4)。救われて神の子になるということは、神の選びによるものです。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり」(ヨハネ15・16)とあるように、もし、自称クリスチャンが献身もせず、実を結ばないのであるならば、選ばれていないのだと思います。そういうことは、私の関われないことです。

牧師は、神の子として選ばれ、神に仕えるという聖化の道を心掛ける「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」(エペソ4・12)る職務だからです。そして、選ばれているかどうかは、その人自身が、そのような歩みをするかどうかで外面的に証明されます。この世の義理や能力でやっているかどうかは、試練によって試されます。「信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに賞賛と光栄と栄誉になることがわかります。」(Tペテロ1・7)。そして、「魂の救いを得ているから」(1・9)、信者は、試練の中にあっても、「栄えに満ちた喜びに踊っています。」(1・8)。

 エレミヤは、神に命令されて牛につけるくびきを首につけ(27・2)、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。」(マタイ11・29)を実践したのです。「しかし預言者ハナヌヤは、預言者エレミヤの首から例のかせを取り、それを砕いた。」(28・10)。自分の都合の良いように生き、神はその自分を守ってくださるはずだと考えるハナヌヤは、エレミヤを馬鹿にして、そのようなくびきを砕いたのです。しかし、ハナヌヤは「今年あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。」(28・16)となるのです。

 奇跡を体験した、聖霊のバプテスマを受けた、として自分を「救われた」と証明したい人もいるものですが、「救い」の証明は、体験ではありません。そして、「救われた」者は、聖めへの道を歩むものです。終末の試練や困難や迫害の前に自らの「救い」を確認しておいてください。


3月22日 「自らの堅実さを失わないように。」  Uペテロ31018

Uペテ 3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

 3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

 3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

 3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

 3:14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

 3:15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。

 3:16 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。

 3:17 愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。

 3:18 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。

 

2月26日から今年の受難節が始まっています。この受難節は、325年のニカイア公会議で決まったようですが、キリストの十字架を偲び復活を喜ぶためのもので、この期間はレントと呼ばれ、日没後に食事をとるだけでした。肉や乳や卵を取らず、節制を保つのですが、日曜日は祝いの日なので、この日曜を除いた40日間つまり46日間がレントです。カトリックでは四旬節というそうです。

日本では、殆どこの習慣はありません。信仰について御利益を求めるものという意識が強く、人間中心思考が根本にあります。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。・・・人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6・2.5)。これは他の人の弱さや愚かさを助けて生きることが、その人への律法であり(個人的な命令)、自分の利益を求めて生きることは、罪人の証明となるのです。わざわざ、断食をし、自分に負荷や犠牲を強いることは、キリストがそうされたことを覚えての克己であり、戒めです。

終末の特徴は、「あざける者どもがやって来て嘲り、自分たちの欲望に従って生活し」(Uペテロ3・3)、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。」(3・4)と敬虔に歩んでいる信仰者をあざ笑うのです。それに対して、私たちは、「よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。」(3・17。信仰の戦いとは、力自慢や奇跡競争ではなく、敬虔であり続けられるか否かなのです。

新型コロナウィルスは、2月1日に「指定感染症」となり、感染流行を抑える為として、集会や行動が自粛され、感染者は隔離されました。これらは正当なことであると思います。しかし、3月13日に特措法が成立して政府が「緊急事態宣言」をすれば、移動や集会が制限されることになりました。公衆衛生を根拠に私権を制限することが超法規的にできるということで、施政者の判断で個人も社会も統制されるということです。1995年に制作された『アウトブレイク』(爆発的な感染)という映画は、エボラ出血熱に似た空気感染するウィルス感染症を防ぐために、アメリカ政府が強力な爆弾を感染地に投下して多くの住民を殺害しようとするものです。ウィルスは、細菌の100分の1、細胞の千分の1くらいで小さく、細胞膜も持たないので、治療薬は作れず、その増殖を防ぐくらいのことしかできません。ワクチンによる疑似感染で免疫力をつけるしかないのです。つまり、間違いなく「方々に疫病や飢饉が起こり」(ルカ21・11)という終末の兆候は続き、「人々はあなた方を捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し」(21・12)となるのです。

なぜ、信仰者が迫害されるのでしょうか。中国で武漢市の患者隔離施設の医師が、新規感染者ゼロは習近平国家主席の視察に合わせた嘘であると告発しました。新型コロナウィルスを告発して処分された34歳の医師は2月7日に自ら感染して死にました。同僚たちも次々に死んでいます。それらに関する事実の解明はされず、報道もされていません。おそらく中国政府による情報統制でしょう。迫害によって私たちの信仰の真偽が明らかになります。

 今回のウィルス事件で経済はかなり悪化し、倒産や破産、不況は世界大恐慌以来のものとなるでしょう。森友事件で真実を告発した職員が自殺に追い込まれ、最近その手記が明らかになりましたが、政府は再調査もせず隠しています。今後、このような政府や指導者による専横や汚職は悪化していくでしょう。それが終末預言です。恐慌の後は戦争がお決まりです。戦時下に、自由や言論が統制されるのは歴史が証明しています。

 「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」(3・10)。終末や主の再臨を信じるか否かは個人の自由です。「神の日の来るのを待ち望み」この世の行く末を案じない人は、「正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

 コロナウィルスを恐れるなとか、神を信じていれば感染することはない、などと言っているのではありません。十分注意するべきですが、大事なことは、私たちの信仰を揺らがせてはならないということです。「無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」(3・16)とは、そのような人々のことです。信仰者にも同じような試練はあります。むしろ、他の人以上に迫害されると書いてあるのです。そして、聖書信仰を自分の都合の良いように捉え、試練や迫害や困難な時に、この世に迎合する人々が信仰の破船に遭うと聖書は警告するのです。

 コロナウィルスの困難は終末の序の口です。まだまだ、困難は深入りしていきます。目先の言い訳は神には通じません。ウィルス感染者でなくても入国が禁止されています。神の国の入国には、もっと厳しい検査があります。聖さこそ、その基準です。神を心から信じていなければ、聖さは持てず保たれません。


3月29日 「心を整え身を慎む。」  Tペテロ4715

Tペテロ 4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

 4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

 4:9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。

 4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

 4:11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

 4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、

 4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。

 4:14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

 4:15 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。

 

現在、教会の防災規程を作成中です。牧師を最高責任者として防災管理者は総務部長、救護班は厚生部長、備蓄品は管理部長、収支管理は会計部長、炊事班は婦人会、救援復旧班は壮年会、被災者支援は青年会などで、被災した場合には備蓄食品や飲料水を給付することになります。私は、災害や緊急の時こそ教会の働きが意義あるものとなると思います。むろん、これは教会員及びその家族に限定されます。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(4・10)。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」(12)、試練の時こそ、神の家族としての支え合い、助け合いをするのです。

備蓄食品と水については、潟ーゼフで食品の小売を始めたので、卸価格で仕入れることができるようになりました。これら備蓄品を被災者、今回の場合は感染者に提供するようにします。そして、もし被災したら、どうにかして支援するような体制づくりを目指します。「思いがけないことが起こったかのように準備をしないでいてはなりません。間違いなく、聖書が預言するように終末の災害は来るのです。もっと悪くなります。

日本経済は、もはや繁栄を取り戻すことはできなくなります。多くの店はつぶれ、会社の半数は倒産するでしょう。それに追い打ちをかけて、地震、噴火、大雨、洪水、飢饉、もはや生き残ることも困難な時代になります。それは私の推測ではなく、「また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。」(マルコ13・7.8)と書いてあるのです。

つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」(9)という言葉は、この「万物の終わりが近づきました。」時のお勧めです。世の中の人、神を信じない人は、「それどころではない。自分の身を守ることが大事だ。」と考えているでしょう。はっきり言います。教会に来ず、礼拝を守らなくても感染する人は感染し、感染しない人は感染しません。ただ、信仰が試されていることは事実です。未信者の安倍首相やマスコミに踊らされてはいけません。

 こういう時に大事なことは、「祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」(7)です。私は、本当に多くの仕事をしています。牧師、社長、事務長、監事、教授としての論文作成、自治会役員、その他に、3月は新しく事業をし、またコロナ対策でいろいろなことをし、さらに外部の問題対処に動き、また長柄ではレンガで駐車場造りもしています。皆さんもご存知でしょう。忙しいからこそ、祈るのです。御霊に満たされ導かれたら、普通の人の何倍もの仕事ができます。ところが、多くの人が「忙しくて教会に行く暇もない。」などと不謹慎な言葉を言います。


 祈るためには、「心を整え」なければなりません。この世の思い煩いは何の役にも立たないことを悟る必要があります。コロナウィルスに感染したら、どうなるのでしょうか。「身を慎む」生活をしていた人は、感染しても殆ど問題なく実証されています。たとえ、感染して死んだとしても、天国ではありませんか。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」(ピリピ1・21)。感染すること、死ぬことを恐れること自体が、その人の救いが不確実であり、天国を確信していないことを証明しています。そのことを悟って悔い改めないならば、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」(Tペテロ4・17)という裁きに立ちおおせないのです。

 「義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」(4・18.19)。

 試練や災害を前にして、自分の魂や天国のことを思い見ない人については、私は責任を負いません。むろん、救われるように祈り、配慮し、助けますが、それ以上のことは、本人の問題です。他人ではどうしようもないのです。「見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22・31