1月5日 「キリストの基準で人を知る。」  Uコリント書51521

Uコリント 5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
5:16
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
5:17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
5:18
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
5:20
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
5:21
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

中国旅行は非常に参考になりました。人口14億人は途方もなく多く、国土も広い、そして貧しさから急激に豊かになるために国家は統制し管理したのでしょう。国家の指導層は非常に優秀で、国の為に多少の犠牲や反対は当然なものとしたように見受けられます。中国用のWiFiを借りたのに、ネットも、ラインも、フェースブックも全く使えませんでした。邪魔な情報や意見を遮断し、国作りに必要なことだけを強化したように思われます。国家主席のポスターの顔に墨汁をぶちまけた女性が逮捕されて精神病院に入院させられ、1年半後に言葉を話せず反応しない状態となって解放されたという報道が2日にされていました。

中国の民衆は、逮捕されないことならば、やって良いという意識をもっているように感じました。多くの人々は、儲けること、金持ちになることに集中しています。バイクは歩道を走り回り、タバコや痰を道に吐き捨て、料理には人口調味料の味付けが強く、最先端の文化の中に、日本でも50年前にあった生活の風景があります。高齢者は非常に大事にされていて、中国の美点を見ました。

シアでは共産主義の失敗と宗教の勝利を見てきました。中国では、それを教訓に共産主義による強烈な指導がされているのを感じました。三自愛国教会の集会に参加しましたが、信者の真摯な信仰と祈りに感動しました。しかし、失礼ながら、文化の未成熟と個人の意識水準の低さを自覚していないと思いました。私が尊敬する中華の文明としての尊厳は、一部の教養ある人々にしか、保たれていないように感じました。

アメリカでも日本でも、政治指導者に対する批判やありのままの情報は、民主主義の権利として認められています。どのような情報も個人は獲得する権利が認められています。犯罪者かどうかは、公開の裁判で証拠をもって裁かれます。弱者保護は国家でも個人でも義務とされます。ハラスメントは、詫びてすむものではなく、罰則を伴います。

信教の自由とは、国家をもってしても個人の宗教に干渉してはならないということで、近代国家の基本です。宗教というものは、信仰の為に犠牲を払うことも是とし、自らの損得よりも神の戒めを重視するというものです。つまり、欲望に釣られない、というものなので、指導者にとっては人を操縦するには非常に都合の悪いものとなります。

さて、だからこそ宗教者というものは、他の人を思い通りに動かそうとしてはならないのです。信仰者は、「人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(5・16

最初の福音書を聖霊に導かれて記したマルコは、エルサレムの富裕な家に育ち、ペテロが天使によって牢から解放された時に訪ねた、敬虔な信仰者マリヤの息子でした(使徒12・12)。バルナバの従弟(コロサイ4・10)で第一次伝道旅行では本名ヨハネとも呼ばれて「助手として連れていた。」(使徒13・5)のですが、伝道の困難さの中でパウロが石打にあったりしたのを見て、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14・22)と教えられているのにも関わらず、エルサレムに逃げ帰るのです。

パウロは、パンフリアで一行から離れてしまい、仕事の為に同行しなかったような者は一緒に連れて行かない方が良いと考えた。」(使徒15・38)ので、「別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて」(39)、伝道を続けたのです。人は生まれながらの風習や考え方によって生きており、信仰自体もそのようにして形成されてしまいます。中国だけでなく、日本でも、そのようにして成熟した信仰を形成することができないのです。マルコは、成熟した信仰者バルナバ(「慰めの子」という意味、本名ヨセフ)によって、「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(5・15)ということを教えられ、「新しく造られた者」(17)となったのです。

 迫害や困難、そして状況によって歩み方を変える人は、信仰から滑り落ちます。しかし、真の信仰者は、迫害によって却って強くなります。中国におけるクリスチャンは大迫害の中で増えてきました。中国政府は、だからこそ、キリスト教を脅威と感じて迫害を、新たな方法で実行し始めているのです。

牧師になってからの15年は、本当に辛いものでした。死にそうになったことは何回もあります。それを問題にせず、神を信頼し続けて、この世の基準ではなく、「違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちに委ねられた」(19)者として生きるように「新しく造られた」のです。

 パウロは後に、「マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」(Uテモテ4・11)と認め、牢獄でもマルコは「私の同労者たち、マルコ」(ピレモン1・24)と信頼されています。そして、マルコによる福音書を書くほどに、伝道の歩みとイエス・キリストの真理を知っていったのです。あなたもまた、マルコのように教えられ、バルナバのように教え育てる者となってください。


1月12日 「主義主張で人を殺す。」  使徒の働き9117

使徒 9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
9:2
ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3
ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4
彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
9:5
彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6
立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
9:7
同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
9:8
サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:15
しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
9:16
彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
9:17
そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

躾であるとして、子供を虐待する人々がいます。昨年はスポーツにおけるハラスメントが大きく問題になりました。主義主張が人を攻撃し、傷つけることにもなることはしばしば起こります。ハラスメントは、「嫌がらせ、いじめ」とも訳され、「他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること」を指します。社会において、パワハラ、セクハラなどがなくならない理由は、@それをする人が悪いことをしているとは思っていないこと、A相手に与えたダメージに気が付いていないこと、B受ける側に責任を転嫁していること、などにあります。先日、取引をしようと思っていた会社の社長が、講演で数人の女性の肩を叩き、顔を近づけているので、その会社との取引を止めました。

人間の心の繊細さを知るほどに、人の持つ主義主張が、他の人を傷つけることに気が付きます。結婚40年になりますが、妻との交流の年月の中で、私の何気のない言葉や行いが妻を傷つけることを悟ってきました。互いに攻撃的な夫婦を見ていると、自らの言動が相手を傷つけていることに気が付かず、相手の言動にばかり腹を立てています。基本的に、夫婦仲良く労りあっていない場合には、自分の言動に注意深くない、ということが言えます

会社や学校における規則や規律というものも、指導者側の都合によって勝手に作られたものが多くあります。それらが、指導者側には拘束にならず、部下や生徒には拘束になる、ということは神の前に違反です。

私が大事にしている聖句に、「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8・32)があります。その聖句は、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。そして、あなた方は真理を知り」31)の後に来るものです。聖書をキリストからの私たちへの言葉であると意識する者は、自らをみことばによってチェックします。日本人は、外面的な行動によって、人に責められないか、立派に見えるかと判断する習慣をもっているようです。つまり、チェックが人に見られる自分なのです。人に対する自分の心ではないのです。

神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。」(Tヨハネ2・5.6)。言動に聖書の言葉によらない人が多くおります。それはみことばを基準としていないからです。経験や習慣によってはいけません。

 パウロは、教育も家柄もあり、強い個性も人格もありました。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(Tコリント8・1)とありますが、彼の築き上げた教育は、人を攻撃するものとなり、律法を背いているとみなされるクリスチャン「に対する脅かしと殺害の意に燃えて」(使徒9・1)いました。自らの主義主張が高じると人を殺しても正しいと、信じてしまうほど、人間は愚かで罪深いのです。

人格、徳というものは、自らの罪深さに気が付くことによってこそ、形成されてくるものなのです。自らの罪深さに気が付くには、聖霊とみことばによらなければなりません。残念ながら、聖霊とみことばにより頼むことは、生身の人間ではできません。そして、人を傷つけ、ハラスメントをしても、自分の罪に気が付かないのです。自分の行為を正当化し、人を大事にする、愛するということができない人、「愛のない者に、神はわかりません。」(Tヨハネ4・8)。

 パウロには、神がかりの体験が起こりました。数日後、パウロは「イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。」(使徒9・20)。しかし、数日前までクリスチャンを迫害していたパウロの急変に、クリスチャンも、迫害者たちも、一般人も驚き、信用されず、またパウロを殺そうとする動きも起こったので、故郷のタルソに行き、祈りの日々を過ごします。

 洗礼を受けたり、聖書を読んだら、すぐに信仰者として成長するわけではありません。自分が正しいと信じていた過去を否定し、自分の行動や性格を否定するような認罪感を持つみことばと聖霊に照らされた日々を過ごさなければなりません。聖書を1時間以上、ゆっくりと読み、そこに教えられることを記録し、祈りの中で過去と現在を、聖霊によって吟味していくことが必要なのです。これがないと、信仰者としての成熟はあり得ません。生身の人間の能力や性格で、表面上はクリスチャンらしく見えますが、人に見せる姿に囚われることは危険です。内面を改める為には、聖霊による祈りが不可欠なのです。

 長い信仰生活を送った信者や牧師が、高齢になって節度のない、神の祝福と平安のない日々を過ごすことを見受けます。残念ながら、救いと聖めは、神の御霊の業であり、その人の内面のものです。外面を気にし、成果を求めた人生に、平安がないことを見ています。教会に長く集い、奉仕をしてきた、などの外面のことで天国を勝手に保証してはいけません。愛は、主義主張も人を愛する故に捨て去ります。人生の功績も、地位も、賞賛も、神の国を保証するものではなく、却って邪魔になります。へりくだって、神の国の姿に自らを聖めましょう


1月19日 「自由人として生きる。」  ガラテヤ51326

ガラテヤ5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
5:13
兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
5:14
律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
5:15
もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
5:16
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
5:18
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
5:19
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
5:24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

先週は主義主張が、私たちを神の御心から逸脱させる間違った価値観であることを語りました。私にとって、先週の週報の写真で示したクリスチャンたちの信仰が驚くべきことでした。情報としては統制され、監視されている中で、信者同士の名前を挙げて執り成しの祈りを公の集会で30分も祈っていることは、愚かなのか、無頓着なのか、或は信仰による自由と勇気を持っていることなのか、と祈りました。逃げることも、誤魔化すこともできない状況に際して、人はどのように行動するか、真実は明らかになるものです。

日本人が言い訳や誤魔化しを口にするのは、命や迫害のない甘えの環境にあるからだと思われます。世界的には、そのような人は、信用の置けない人として、すぐに社会でも仕事でも失墜します。言い逃れを追求しないで済むのは、それを追求しても、自分が失敗を犯した時に、言い逃れができないと困ると感じているからです。つまり、馴れ合いの社会であり、建前が通る社会なのです。

しかし、それは真実に生きることを阻む壁になります。そして、問題解決に至らない無責任になります。百人の人がいて、問題解決能力を持つのは10人くらいであり、問題を起こす人も10人くらいいて、残りは言われたことを果たす人であると言われます。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」(黙示録3・15)とありますが、悔い改めて救われるのは、冷たいか熱い人です。

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」1)のですが、「しっかり立」たないと、再び「奴隷のくびきを負わせられ」るとあります。先週、高齢になった信者の堕落や退廃を指摘しました。現在、キリスト教の歴史を振り返って論文にまとめていますが、迫害には強いのですが、「肉の欲望」(16)には、弱いのです。ここで列挙されているなかで「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」は人間関係に関するものです。

つまり、私たちが気をつけなければならない「肉の行い」というものは、なにげない人間関係に関するものが多いということです。人に腹を立てる、敵対心や対抗心を持つ、人の成功をうらやむ、人を差別し、好き嫌いをあからさまにする、・・・、このようなことが堕落の原因となるのです。先日は久しぶりに酔っ払いの人達と一緒にいました。後で、詫びてきましたが、自制できない有様とそれを面白がって赦す人々に、日本の安逸さを見ました。神なき社会です。

 ユダヤ教のタルムード関係の本を4冊ほど買って読んでいます。「神を恐れ、毎日タルムードを読み、実践すれば、罪を犯すことはない。そうすれば、必ず反映する。」とそれを家族や集落で絶えず戒めている、とのことです。確かに、ユダヤ人は権力志向が少なく、表に出ることもなく、繁栄し、力をもっています。誠実に生きることを戒めて、悪を憎み、誤魔化しを互いに認めない日々を過ごすならば神の祝福を得ます。

 ルターの「キリスト者の自由」を読み返しました。皆さんも座右に置き、何度も読むべき本です。「肉体においてなされる全ての善行をしても、魂に何の役にも立ちません。」と語り、偽善者になるばかりだと、時の聖職者を批判しています。「神の言葉の他に、天にも地にも、自分を生かし、義とし、自由にし、かつキリスト者とするものはない。」と断言しています。そして、「行いをもって義をされようと考える人々は、訓練ということに意を用いないで、ただ行いだけを考え、多くの行いと、大業な行いをしさえすればそれで良いとし、それで義とされると考え、それが為に頭を痛め、身体を壊します。」と人の目を気にする人を皮肉っています。

 御霊によって歩みなさい。」(16)とは、自分の判断によらず、損得によらず、自分を主張せず、「肉の願うこと」(17)をせず、聖書の通りに自らが歩むことを注意することから始まります。自らの言動をいつも、チェックしてみことばに沿っているかを確認しなければなりません。決して、言い逃れをしてはいけません。神はご存知です。

 己の言動に注意深くない人は、御霊の人ということはできません。祈るということは、自らをわきまえるということです。「御霊を受けている人は、全てのことをわきまえます」(Tコリント2・15)とあるように、真実な信者というものは、御霊によってわきまえるしかないのです。しかし、「自分はだれによってもわきまえられません。」と続くように、そのような信者の敬虔さ信仰は、未信者によって理解されるものではないのです。

 私自身は信仰者として45年も経ちました。祈りなくして御霊に導かれることのない罪びとです。自己中心が祈りの中で示されます。「絶えず祈りなさい。」(Tテサロニケ5・17)は、自らのいのちと自由のために必須なことです。そして、祈りが妨げられないために、「いつも喜んでいなさい。すべてのことに感謝しなさい。」もまた、心していなければなりません。


1月26日 「無宗教者の無謀」  Uテサロニケ24

Uテサロニケ 2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
2:4
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
2:5
私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。
2:6
あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
2:7
不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
2:8
その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
2:9
不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
2:10
また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
2:11
それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
2:12
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

直 訳

神と呼ばれる凡ゆる物または礼拝の対象に対して逆らう者かつ高ぶる者は、神の神殿の中へと、神の如くに座し、彼自身、神であると宣告する。」

本日の御言葉……、世界の終末の時、基督が再臨される前に、現れる事象の一つです。こなれた訳にすれば、「どんな神であれ、神と呼ばれたり、礼拝されている全て物に敵対し、高慢に振る舞う者どもは、畏れ多くも神の社に土足で踏み入り、神の座に立って、『我こそが神なり』と宣告する。」となります。今日の日本社会の現状、世界の現実をそのまま表現しているようです。

   一 神否定の無宗教者

第一に、「どんな神であれ、神と呼ばれたり、礼拝されている全て物に敵対し、高慢に振る舞う者ども」が現れるのです。どんな宗教の神であれ、どんな種類の神であれ、神と呼ばれる一切のものに敵対します。「神」とは呼ばれていなくても、礼拝の対象とされるものに対しても逆らい、高ぶります。徹底した無神論であり、徹底した無宗教です。二千年前の世界では、パウロがこんなことを言っても、誰も信用してくれなかったでしょう。

日本が無宗教国家になったのは、敗戦後、占領軍総司令部・GHQが、日本の宗教を否定し、強引な基督教化を進めたことに端を発します。当時、GHQ総司令官は、「日本は、遅からずして基督教国になる」と歓喜していますが、現実には1%にも達していません。神道や仏教、神社や寺院を否定することは、神や宗教の否定に繋がります。結果的に、正義の神を否定する無宗教化となってしまいました。

二 神の世界にて君臨

 第二に、彼らは、神の神殿において、神の如くに、神の座に着くと言うのです。戦前の日本では、教会の礼拝の前に皇居遥拝が求められていました。現在の中国では、国家や共産党に対する忠誠が求められています。仏教でも、道教でも、基督教でも、まずは国旗を掲揚してから、礼拝を始めることが可能となっているようです。

 神の神殿に、神でないものが侵入し、神の如くに、神の座に着く……、その典型のようです。

 神の神殿とは、必ずしも、何らかの宗教の神殿と呼ばれているものに限りません。この世界は神の創造した神の世界ですから、この世界は神の御座であり、神の神殿です。

 そこに、神を否定し、拝礼を禁止する者が、我が物顔に君臨しています。それが現代社会です。

  三 自己神論たる宣告

 第三に、彼らは、あれほど神を嫌い、神を否定していたのに、何と、自らが「神」であると宣言するに至るのです。

 文字通りに「神」と言うこともあれば、「皇帝」「王」「絶対者」「統治者」「大統領」などを名乗ることもあります。単に自分勝手にそれを名乗るだけではなく、法律や規制、社会制度や経済手段を用いて、強制し、制度化し、組織化します。あらゆる情報を手中に収め、その情報操作で知らず知らずに強制されるということもありです。

 「無神論」とは、英語では「atheism」。希語の「a-theos」に由来します。「theos」は「神」で、「a-」は「否定」「否」という意味です。つまり、「無神論」とは、神を否定する「否神論」ということです。

 そして、否定して空席となった神の座に自分が座るのです。つまり自らを神の座に据える「自己神論」なのです。

 今、最も危惧されるのはAIです。小説『AI崩壊』が好評で、映画化され、間も無く封切られます。AI「のぞみ」が収集した国民の膨大な個人データを基に、人類を選別し、殺戮を始めるというストーリーです。半世紀も前の手塚治虫の漫画で既に、「電子頭脳マザーによる人類統治」が描かれていました。

 誤りを犯さない機械による統治は、闘争心盛ん、嘘が平気、他人を犠牲にした自己実現、淫らな支配欲などを有する人間とは異なって、「理想的な統治」を夢見させるものですが、機械の計算で行き着くところは、結局は、人類の破局であり、破滅なのです。

 終末における現象でしょう。信仰者として、いかに終末を生きるか、真剣に考えるべき時が来ています。

 


2月2日 「弟子を作り、教える。」 マタイ2816節〜20


2月9日 「神の霊の宿っている人」  創世記412840

創世記 41:28 これは、私がパロに申し上げたとおり、神がなさろうとすることをパロに示されたのです。
41:29
今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れます。
41:30
それから、そのあと、七年間のききんが起こり、エジプトの地の豊作はみな忘れられます。ききんが地を荒れ果てさせ、
41:31
この地の豊作は後に来るききんのため、跡もわからなくなります。そのききんは、非常にきびしいからです。
41:32
夢が二度パロにくり返されたのは、このことが神によって定められ、神がすみやかにこれをなさるからです。
41:33
それゆえ、今、パロは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように。
41:34
パロは、国中に監督官を任命するよう行動を起こされ、豊作の七年間に、エジプトの地に、備えをなさいますように。
41:35
彼らにこれからの豊作の年のすべての食糧を集めさせ、パロの権威のもとに、町々に穀物をたくわえ、保管させるためです。
41:36
その食糧は、エジプトの国に起こる七年のききんのための、国のたくわえとなさいますように。この地がききんで滅びないためです。」
41:37
このことは、パロとすべての家臣たちの心にかなった。
41:38
そこでパロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」
41:39
パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。
41:40
あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」

彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」(創世記39・2)とあるように、ヨセフのすることは全て祝福されました。そのヨセフは、成人となっている兄たちから殺されそうになり、奴隷としてエジプトに売られていたのです。私たちの人生では苦難も試練もありますが、それは敵や悪人によってされることであり、自らの罪の故の試練とは区別しなければなりません。ヨセフは、人を恨んだり、憎んだりしていないのです。自分の試練を嘆いても、嫌がってもいないのです。

私は箴言を度々読みます。「愚か者」という言葉に印を付けると、自分の戒めになります。確かに、世の中に「愚か者」は多いのです。皆さんが誠実に正しく歩もうとするならば、愚か者とは親しく言葉を交わさず、相手にしない方が良いでしょう。「愚かな者の友となる者は害を受ける。」(箴言13・20)。「ヨセフは奴隷となっても、周囲の者と同化せず、心を見張り、だからこそ、「主が彼とともにおられ」たのです。力の限り見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」(箴言4・23)。

愚かな人は自分の生活をチェックしません。欲望のままにやりたいことをしているだけです。テレビの娯楽番組を観て「ワハハ」と笑っている者を愚か者と言います。ただ、時間と自分の心が消費されていくだけです。同じ一日、一年が愚か者と知恵のある者では、全く違ってくるのです。皆さんは、「主が共におられ」、自分のすること全てを祝福されるように、心を見張らなければなりません。自分の人生が、祝福されていないのならば、悔い改めなければなりません。しかし、愚か者は心を吟味することはしません。

祝福されたヨセフを見て、主人の妻が強引に姦淫に引き入れようとしました。それがかなわぬと、偽証をしてヨセフを監獄に入れました。「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」(創世記39・23)。妻は大腸がんになり、脊柱管狭窄症になりましたが、今は全く治っています。私も不整脈や通風で苦しみ、肝臓を悪くしましたが、今は元気です。治そうと決心しているからです。「病気です。」と自分の弱さを訴え、仕事を減らそうとはしていません。医者任せにもしていません。治るために自分をチェックしているのです。愚か者や不信仰者と親しく言葉を交わし、心を許してはいけません。堕落や不信仰、正当化は、手の届く所にあるのです。神の霊が宿る為には言葉遊びしている者と親しくしてはいけません。

ヨセフが17歳の時に奴隷として売られ、王に取り立てられたのは30歳です。13年間の奴隷や囚人生活が続き、夢を解き明かした献酌官長にも忘れられて2年、ヨセフは決して自らの心を貶めなかったのです。多くの人が心を欲望に捕らえられています。悩み、苦しみ、悲しみ、怒り、に囚われている人もいます。祈ることができない人も多いのです。祈っているふりをして、実際には神に心を注いでいない場合が多いのです。「神の霊が宿る」ためには、思い煩いを振り捨てなければできません。自己主張も、神の前には僭越です。謙虚でなければ、神は私たちを導き祝福してはくださいません。

 パロの前に出たヨセフは、「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」(41・16)と媚びることも、驕ることもなく、謙遜に神に栄光を帰して話します。そして、夢を解き明かし、「それゆえ、今、パロは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように。」(33)と対策まで助言します。

 苦難に対して、具体的に対策のできる人は優秀です。多くの人は、災害や問題が起こることがわかっていても、周りがやらないなら自分もしなくても良いと考えています。都合の良い夢ばかり描いて、何もしないのです。ご自分の人生を振り返って、何もしていない、何もなっていない、神の国に繋がっていないことに気が付き、悔い改めるなら遅くはありません。実は、そのような自称クリスチャンは多いのです。それは、神の責任ではなく、その人の怠慢と罪の結果なのです。人生最大の苦難は、神の国に入れないことです。ところが、愚か者はその裁きの座に立つまで、自分が神の御霊に導かれていないことに気が付かないのです。

 「神の霊の宿っている人」は、聖霊の時代では、それほど稀ではありません。ヨセフは、父ヤコブと兄弟を呼び寄せて苦難から救い出しました。神の警告を聞き留め、災いに備える人は幸いです。7年の飢饉の前に7年の豊作がありました。豊かな時に使ってしまい、貯えていない人は悲劇です。その人は知恵を放棄したからです。神に全てを委ねているというのは、無責任であるという言い訳です。私たちの能力も時間も富も神から預かったものです。愚か者は、この管理責任を放棄するのです。家族を大事にするためには、時間も知恵も尽くさなければなりません。神の国を大事にするのも同様です。毎日の生活を神の御霊に委ね、愚か者にならないように知恵を持って過ごし、使命を果たしていくのです。

 


2月16日 「大いなる救いのため」  創世記4518

創世記 45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを、私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。
45:2
しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。
45:3
ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。
45:4
ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
45:5
今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。
45:6
この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。
45:7
それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。
45:8
だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

創世記42章から45章までのヨセフの兄弟たちへの仕打ちを読むと、なぜこんなにしつこく責め立てるのかと疑問を感じることも多いかと思います。私自身も当初は、そんな思いを抱きましたが、牧師となって人の罪の深さ、悔い改めの難しさを悟るほどにわかってきました。例えば、説教を聞いてわかったと思う人は多いのですが、その積み重ねがあったとしても、悟りでは魂は救われないのです。

彼らは「私たちは正直者でございます。」(2・11)と言います。へつらいながら、自分をよく見せようとするのです。「もう一人はいなくなりました。」(13)ではなくて、自分たちが殺そうとしたのです。彼らは、試練を受けて初めて、「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」(42・21)と後悔するのです。

「ルベンが彼らに答えて言った。『私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。』」(22)。罪を犯した罰を受け入れられない人は、多くおります。自分の過ちや誤魔化しがばれた時に、謝って罰を受けようとする人と、何とかして罰を逃れようとする人がおります。はっきりと言っておきますが、罰を逃れようとする人は、赦しを受けることはできませんし、救われたクリスチャンではありません。

ヨセフは、最も残虐であったシメオンを縛り牢に入れて、他の兄弟を返しました。乱暴者のシメオンですが、他の兄弟が彼を見捨てるかどうかを見守ろうとしたのです。飢饉は続き、再びエジプトへ食料の調達に行かなければならなくなりました。父イスラエルにとって正妻の子は残るベニヤミンだけですが、ユダはベニヤミンをヨセフの命令の通りに連れていくために、「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。」(43・9)として「保証人」「罪ある者」という信仰の奥義を告白します。

再びヨセフの前に出た兄弟たちは、エジプトの絶対者の前に恐れおののきます。そして、袋の中に返されていた銀についても、言われる前に告白します。絶対神を信じている人は、不平や不満、嘘偽り、誤魔化しや言い逃れはしないものです。皆さんも、自分の日々の言動を振り返ってください。もし、あなたがそのようであるならば、神の裁きを逃れることはできません。

兄弟たちは歳の順に座らされ、ヨセフの超能力に驚くのでした。帰ってゆく彼らの袋には再び銀が戻され、ベニヤミンの袋にはヨセフの盃が入れられます。そしてしばらくして追いつかれ、ベニヤミンだけが奴隷とされることになります。しかし、兄弟たちは、着物を引き裂き、末の弟だけを残すことを良しとせず、ヨセフの前にひれ伏すのでした。

 ユダは言います。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」(44・16)。正直者を装っていたのが、「神がしもべどもの咎を暴かれた」と告白するようになったのです。クリスチャンになって、立派さを装うことはやめた方が良いでしょう。そのうちに罪も咎も暴かれます。「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Tテモテ1・15)が救われたクリスチャンの告白です。善人を装い、立派さを競う人は、化けの皮が剥がれないように、誤魔化しをするのです。

 4男のユダの告白、身代わりは真摯なものでした。ヨセフはこれ以上、兄たちの悔い改めを迫ることはできず、ユダの言葉に感動して泣きだしてしまったのです。

 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ」(へブル9・27)とありますが、ユダ以外の人が真に悔い改めたようには思えません。父イスラエルの死後に、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」(50・15)と言っているように、罪の赦しを信じていないからです。そして、確かに、現在ユダヤ人と言われるように、イスラエル民族で残っているのは、ユダの子孫だけなのです。

 教会にも外面を装い、立派な教会員らしく振る舞っている人がおります。その人は、神を見るよりも、人にどのように映るかに関心があり、自分の成長や願いの達成を神に求めているのです。或は、自分の内面や行いに関心があります。クリスチャンは、そのような罪びとの中に、平然と罪びとであることを自ら告白して生きるのです。罪びとは、罪人でないように生きるのです。神の裁きは、奇妙なものです。