10月6日 「自らの在り方を捨て。」  ピリピ2614


ピリピ2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11
すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
2:12
そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。
2:13
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
2:14
すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

 怒ることも、悩むことも、言い訳をすることも皆、自分というものに固執するからです。能力のある人、自信のある人は、断定的にものを言い、自信のない人は、否定的・消極的にものを言い、人の目を気にする人は、相手に応じてものを言います。そして、うまくいかない時には弁解をするのです。

 罪を認めて救われていない人はそのようなものです。クリスチャンであっても、自分に囚われるということは、まだ「肉に属する人」(Tコリント3・1)なのです。私たちは、肉なる人であり、罪人です。つまり、完全でもなく、完全にもなりえません。しかし、だからといって、「御霊に属する人」になることを願わなければ、神の国への道を歩めません。

 私も多くの人と接しますが、結局のところ、クリスチャンとは、魂の聖めを目指す人、ということになるのではないかと考えています。しばしば伝道をして多くの人を救いに導くことが重視されますが、これは営業能力と同じようで賜物がなければできないように思います。私自身は、洗礼に導いた人が信者時代に50人以上、牧師になってからはそれ以上おりますが、私にはそこから離れた人々のことが痛みです。救われて多くの実を結び、聖められ、主に従っている信仰者と共に歩むことは無上の喜びです。

 妻との会話の中でたまに「あなたは未信者のような言い方をする。」と感想を伝えることがあります。それは、日常の何気ない物事に対する判断が生まれながらの習慣や風習に影響されていて、神が日常を支配し、取り計らっておられることを、つい見逃してしまうからです。私たちは、神が治めておられ、すべてを見ておられる神の国の住民であることを忘れてしまうのです。

 私たちが、神を信じたということは、自らの罪性に絶望し、またこの世の淫らさに嫌悪したからです。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」(Tヨハネ2・15.16)。この世に固執している人は、この世の人であり、神の国を待ち望む人にとって、「旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」(Tペテロ2・11)となるのです。

 確かに、私はラグビーの杯も観るし、ゴルフもするし、ガーデニングも好きです。妻と一緒に過ごすことに、神の国の心地もします。ただ、それは、あくまで寄留者としての生活なのです。

神の子キリストが、「神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」。それは、人間の罪性が死に値し、地獄に陥るものであるからです。自らを肯定する者はキリストの十字架をないがしろにするのです。

先週お話ししたロシア正教のキリル総主教は、」世界の終りが訪れるのは人間社会が存立不可能になった場合だ。社会が存在するための資源を使い果たしたときだ。どのような場合にそれが起きる可能性があるか?悪の完全な支配が訪れた場合だ」と述べた

 神がソドムとゴモラを滅ぼされた時、ロトの妻は俗悪なソドムの生活を懐かしんで振り返り、「塩の柱になってしまった。」(創世記19・26)とあります。「終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、」((Uペテロ3・3)、終末と再臨を否定します。

 つまり、現生主義か神の国主義かで、生き方が変わるのです。魂の救われていない人は、自分の歩み、考え、習慣、などを強調し、それに付け加えること、自分の成長や発展を望むのです。つまり、自分の在り方を捨てられないのです。しかし、自分をいくら成長させたところで、神の国に行くには届かないのです。十字架の死」によってしか、私たちは救われないのです。「イエス・キリストは主である」と告白するのは救われた者のみなのです。

 召天者記念礼拝において、私には、天国に召されたとは思えない人々のことが心に突き刺さります。彼らは、自分流の在り方で教会に奉仕し、自分はクリスチャンであると自認していました。しかし、聖書を日常的に読まず、聖霊に教えられず、彼らの品性は生まれつきのままでした。それでも神の愛と赦しは信じていたのです。また、教会を離れ、そのまま生きている人もいます。彼らは、教会とイエス様に熱心だったけれども、何の御利益もなかったと言うでしょう。魂の救いは、この世の道の延長にはないのです。

 「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」。歳を取るほど、忙しくなります。労苦は増えるばかりです。しかし、主にある平安と喜びは増えるばかりです。なぜなら、成果を求めず、自分が認められることも求めず、安逸も求めなければ、ただ日々、主に仕えてこの世の道を神の国まで歩むばかりだからです。現在は、教団の組織改革の為の論文を書いています。会社の消費税対策も、クリニックの人事も、人々への執り成しも日夜多くあります。自分の権利と在り方を求めなければ、何をしても、何ができなくても問題はありません。


10月13日 「メネ、メネ、テケル」  ダニエル書52128

ダニエル521そして、人の中から追い出され、心は獣と等しくなり、野ろばとともに住み、牛のように草を食べ、からだは天の露にぬれて、ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました。
5:22
その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。
5:23
それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。
5:24
それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。
5:25
その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』
5:26
そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。
5:27
『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。
5:28
『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです。」

9月1日の説教で、イザヤ及びエレミヤの預言通りに、ユダヤ人が捕囚から解放され、エルサレムの神殿建設のために財を与えられて戻されたことをお話ししました。今日はその続きです。

 日本人は、試練があっても、嵐が過ぎ去るのをじっと待って、その後に建て直すというのが人生観のように思われます。農耕民族の特徴でしょうが、聖書信仰とは違います。クリスチャンとしては、万事を益としてくださる神信仰と、自分にとっては益ではないものを受け入れる信仰が大事なのです。多くの人が自分観点で神の御心を探り、願いが叶えられることを祈ります。御利益信仰というものはどうしてもあります。ただ、信仰というものは、個人的には神を信頼して歩み、人を愛し助け、人格が成熟・聖別されていくことが必要です。そのようなことは、聖書的歴史観や神の統御の理解がなければなりません。つまり、神の国に繋がる世界観が必要なのです。

 私には、ロシアで共産主義の下で聖職者の多くが虐殺され聖堂が壊された後、70年を経てハリストス大聖堂や多くの見事な聖堂を復興させたロシア正教の信徒の歩みが気になって仕方がありません。現在、1億4千万人の7割が敬虔な正教徒です。

 日本でも1605年に75万人のキリシタンがおり、250年の大迫害を経て数千人のキリシタンが残っていたという歴史があります。実は発見された後に明治政府による大迫害がありました。

その中でも苛烈を極めたのが、22歳の女性・岩永ツルへの拷問であった。彼女は腰巻き1枚の裸にされ、冬の寒い風の吹く中、震えながら石の上に正座させられた。夜になると裸のまま牢に帰され、昼にはまた石の上に正座させられた。1週間目には身体が埋もれるほどの大雪となったが雪の中に晒され続け、18日目には雪の中に倒れたが、それでも棄教しなかったため、役人は改宗を諦めた。彼女は1873年(明治6年)に浦上に帰った後、1925年(大正14年)12月に浦上の十字会で亡くなるまで、生涯を伝道に捧げ、赤痢天然痘の治療看護に献身し、孤児養育もおこなった。

 戦前の日本は、富国強兵の一員として満州やその他の国まで行ってしまいました。それが他国であり、その住民がいるという意識はなかったのでしょう。洗脳されてしまう人格形成の欠如が原因です。

 戦後は、経済成長こそ幸せであると洗脳されました。実際には、自然と家族が崩壊しました。私には、人間力アップを目指すような思考が、日本を洗脳しているように思われます。努力を強調する社会と思考には、互いに愛し合うということが無益になります。

 世界中が個人的にも組織的にも国家的にも豊かになろうとしています。しかし、歴史を見ると、繁栄を目指し、繁栄を得た国家と人間は間違いなく破綻しています。成果を求める人生は、たとえクリスチャンであっても、実は神以外の、自己実現、自己の幸せを求めたものです。聖書信仰をこの世の欲望の中に取り入れているのです。

 マタイ福音書の山上の垂訓を読めば、イエス様の教えが、この世の論理と全く異なることがわかります。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ6・31)という教えは驚きです。誤解してはならないことは、それを考えるなというのではなく、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(6・33)ということです。

 今日の聖句に戻りましょう。栄耀栄華を極めたネブカデネザル大王は「いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになる」ことを知りました。息子であるベルシャツァル王は、「これらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。」そして、エルサレムの神殿から略奪した金銀の器を用いて、千人の大宴会を開いたのでした。神に献げるための器で、人間が飲み食いしたのです。突然、「人間の手の指が現れ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側のところに物を書いた。」(ダニエル5・5)。「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」、この言葉を私たちに向けられたとすれば、「あなたの人生は神の国に行くには軽い。」ということになるでしょうか。

 「自分の宝は、天に蓄えなさい。」(マタイ6・20)とのお言葉は、教会に一生懸命献金しなさいということではないと思います。「自分の生き方は、天から見ておられる神に報いられるものでありなさい。」ということだと思います。

 昨日は、台風が近づく中で診察を行いました。休日医療も夜間医療もないので、熱を出したり吐いたりする患者さんを診察できました。インフルエンザも一人いました。損得から言ったら大損です。しかし、人に仕える、愛するということでは、信仰者としては当然なことです。信仰というものは、決して悟りではありません。良きサマリヤ人のように、助けを必要としている人を助けるということです。行動を起こさないで、神の国に宝を積むことはないのです。


10月20日 「主が雲に乗って来られる。」  黙示録118


黙示録 1:1 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
1:2
ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
1:3
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
1:4
ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、
1:5
また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
1:6
また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。
1:7
見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。
1:8
神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

台風では非常に残念でした。死んでしまった方々は、自分は死なないと楽観していて、災害に備えず、或は危険な所に行った方が多いのです。被害に遭った方々も、失礼ながら対策を取っていなかったように思われます。なぜ、暮らしている場所や家の安全を確認しないのでしょう。「全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マタイ16・26)。日本人は、他の人と同じことをしていたら、いざとなったら誰かが助けてくれる、と思っているようです。だから、自分のいのちを自分で守るという意識がないのです。それでは、海外旅行も出来ないでしょうね。牧師がこんなに何回も警告しているのに、水も食料も懐中電灯の乾電池も用意していない人がいるならば、天国の備えもおそらくしていない
ことでしょう。
イエス様の教えの多くの部分が、世の終わりに対する備えです。イスラエルの人々は、これらを聞いていながら、イスラエルが滅びることの備えが出来ていなかったのです。そして、預言というものは、2重性といって、本当の預言が真実であることを示すために、事前に同じようなことが軽く起こるのです。そして、本当の預言は終末に向けられているのです。
「空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。」(マタイ16・1)とありますが、「時のしるし」を私たちは確認したいと思います。
@ 紀元70年のローマ軍の制圧、135年の崩壊でイスラエルから離散されたユダヤ人が1948年に建国し、滅びていた言語ヘブライ語を復元させました。「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ21・24
A 戦争・民族紛争・飢饉・地震・自然災害(マタイ24・6.7)。世界平和の番人であったアメリカは退廃し、国力も衰えました。ソ連は崩壊し、ロシア(エゼキエル38・2)が再生し、トルコ・イラン・スーダンなどとイスラエルを攻めるとあります。EUは経済的に崩壊し、社会的にも退廃するでしょう。自然災害はもはや対応できないものとなっています。
B 偽キリスト・偽預言者・不法・裏切り・憎しみ・愛が冷える(マタイ24・410-12)。
この夏にイギリスに行ったのは、EU離脱前の状態を見る為でしたが、全く緊張感無しに経済的繁栄を享楽していました。ロシアは、共産主義の虐待に負けずに信仰を守ってきた状態を見ることと、預言ではイスラエルに侵略するので、国家のあり様を見たいと思っています。中国では、キャッシュレス化や街頭カメラによって犯罪がなくなったと人々は喜んでいるようですが、国家の横暴と管理に対して、国民が無力になることを悟っていないようです。既に多くのクリスチャンが拘留され、迫害を受けています。中国のクリスチャンに警告し、早く日本に転居するように促したのですが、自分は平気だと思っているようです。まるで、台風に備えていないことと同じようです。「すさまじい前兆が現れます。しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。」(ルカ21・11.12)。
人間というのは、御霊によらなければ悟らないものです。ですから、備えをしていない人は御霊には導かれていないのだと思います。残念なことです。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル9・27)のに、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7・14)。
 歳をとっているから、今更何もできないと考えている人は、被災地の高齢者の惨めさや苦しさを知らなければなりません。弱さや欠点を承知している者は、それを補おうと必死になるものです。「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし、知恵のある者は忠告を聞き入れる。」(箴言12・15)。患者さんを見ていて、よくわかります。重病なものであっても、賢い人の症状は良くなり、生活習慣病と言われるように、生活を改めて健康を志さない人は、糖尿病・高血圧・がん…などになっていくのです。眠れないからと言って睡眠薬を飲み、血糖値が高いからといって血糖降下剤を飲み…、健康によくありません。私は、25年位前に通風で動けなくなり、不整脈なども起こした人間です。「それが書かれたのは、世の終わりに臨んで
いる私たちへの教訓とするためです。」(Tコリント10・11)。
 「 終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、
見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」(Uテモテ3・1-5)。神の国に迎えられるという基準は、それほど安易なものではないと私は考えています。主が来られる時に、「まずい!」と思わないようにしてください。


10月27日 「油断せずに祈る。」  マタイ福音書6513

マタイ65また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:7
また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8
だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
6:9
だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10
御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

日本ラグビーの主将リーチ・マイケルが負けた相手国の最優秀選手に日本刀を贈っています。彼は「自分達のハードな練習によって、何度も何度も火入れし、叩いて強くした刀は、世界でも負けない強度を誇る」と選手たちを励ましたそうです。

祈りについて、日本語で願いや執り成しを数分祈っただけで、自分は祈っていると自負しているとしたら間違いです。絶えず祈りなさい。」(Tテサロニケ5・17)は、間違いなく合計1時間以上です。「イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」(ルカ6・12)。預言者アンナは、「宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。」(ルカ2・37)。祈りとは、神に対して自らの全てを献げ、神に問い、神に従う意思を示すものです。シメオンもハンナも、そのような献身した信仰者であったからこそ、聖霊によって幼子が救い主であることに気が付いたのです。願いことで済ますような祈りの持ち主の祈りが叶えられるなどということはありません。皆さんの祈りが聞かれた時は、どんな時だったでしょうか。

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マルコ14・38)とあるように、祈りによってスピリットを強くしないと誘惑に負け、人生の戦いにも立ち向かうことができないのです。霊の弱い人は、耐えることができず、弱音を吐いたり、言い訳をしたり、逃げたりして、結局は人生の試練に立ち向かうことができないのです。

私自身は、霊を強くし、祈りの腰を強めるために、徹夜の祈りはもちろん、真夜中に墓場に行ったり、山頂に行ったりして祈りました。断食は21日を最長に、15日、10日など限りなくしています。同じように生きても、叩かれ練られた魂は日本刀のように簡単には折れないのです。根気よく叩き火入れすることによって刀は強くなり、素材が固いと言われる刃物とは比べられない切味を現わすのです。合理性と言われますが、物事を論理では分けられない成否を、スポーツや勝負では表わすのです。ことの勝敗はスピリットです。

ともかくは、長く祈る習慣を訓練して身に着けることです。30分以上祈ることから始めてください。信仰は武道のようなものです。根気よく修練を積めば強くなるように、努力して祈れば、試練にも負けないスピリットが練りだされるのです。そのためには、聖霊のバプテスマを受け、異言の祈りをすることです。パウロは、「私は、あなたがたの誰よりも多くの異言を話す」(Tコリント14・18)と諭しています。

  一人だけで祈ることが大事です。「祈るために、ひとりで山に登られた。」(マタイ14・23)。「イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1・35)。「群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。」(マルコ6・46)。

また、異言の祈りをしながら、自らの心の底まで神に明け渡し、神に委ねることが必要です。祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6・6)。人の心を意識したり、この世の習いに合わせたり、自分の欲望が叶うような祈りではいけません(マタイ6・5)。

 祈りの中で、自分の心を点検し、恨みや憎しみを持っていることに気が付いたら、それをイエスの十字架を覚えて赦さなければなりません。「祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(マルコ11・25)。「あなたを呪う者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6・28)。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」(6・12)。人を赦さない人に救いの喜びはないのです。

 「御名があがめられますように。」とは、他の人はもちろんのこと、自らが全てのこと、悪いことも苦しいことも、神の御手にあることとして感謝することです。そのようにしてこそ、あなたの内に神の国が現れるのです。つまり、「みこころが地でも行われ」ることなのです。

 サタンや悪人はおり、人々を騙し攻撃してきます。「 見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。」(詩11・2)。しかし、神により頼んでいる人を攻撃することはできません。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」と祈ることができる人は幸いです。

 神を信じている人は、サタンも悪人もいることも知っています。罪にも悪にも鈍いのが、罪人のしるしです。自らが罪を犯すことを知っており、その罪の代価が十字架という尊い犠牲が必要であることを悟らない人たちが、却って悪に寛容なのです。政治家でも、汚職をする人でも、お互いに馴れ合いで生きているのです。「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(ルカ21・36


11月3日 「陶器師の御手の中で」  エレミヤ18111節 岡山志伸師

エレミヤ18:1 【主】からエレミヤにあったみことばは、こうである。
18:2
「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」
18:3
私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。
18:4
陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。
18:5
それから、私に次のような【主】のことばがあった。
18:6
「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。──【主】の御告げ──見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。
18:7
わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、
18:8
もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。
18:9
わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、
18:10
もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行うなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。
18:11
さあ、今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『【主】はこう仰せられる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。さあ、おのおの悪の道から立ち返り、あなたがたの行いとわざとを改めよ。』

救いと献身の証し
 私は徳島市の出身ですが、東京の美術大学に入学し、卒業後は、婦人靴メーカーでシューズデザインの仕事に就きました。数年経って、人間関係で悩むようになり、そんな時にある牧師が書いた本を読んでいて、イエス・キリストに興味が沸いてきて、教会を探そうとしたところ、東京の新中野キリスト教会からの葉書が届きました。そこには「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」というマタイ11:28の御言葉があり、この言葉は私の心を掴んで放しませんでした。人がうなだれた暗い葉書でしたが、私には「希望に輝いた一枚の暗い葉書」でした。すぐに教会に通い始め、半年後にイエス様を信じて洗礼を受けました。

 それから10年ほど経って、主との交わりの中で、神様の召しに入るようにという語りかけを受けました。最初は何かの間違いかと思いましたが、その語りかけが増してきて、牧師に相談しましたが、まだ神学校に行く思いには至らず、3年後に「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」との御言葉を頂き、神学校に行く決心をしました。その頃、教会では村上師のお体に膵臓癌が発見され、先生も教会も大変な痛みを通っていました。入退院を繰り返される病床の村上知子師の傍らで神学校の相談をした時、先生は「やっと観念したのね。」と笑っていました。そして、フリーのシューズデザイナーに転身し、仕事をしながら夜間の関東分校に通いました。卒業後は母教会の要請により新中野キリスト教会に派遣され、さらに5年後、あすみが丘福音キリスト教会に転任して参りました。家族の中では弟がすでにクリスチャンとなっていましたが、その後、両親がキリストを受け入れ、洗礼を申し出て、あすみが丘教会の教会員となりました。家族が主によって新しく造りかえられる様は圧巻でした。主はまさに完璧な陶器師です。

一、陶器師の意のままに〜壊され、煉()られて

 預言者エレミヤは、主から語られエルサレムのヒノムの谷の陶器師の家へ行くように命じられます。そこでエレミヤは、陶器師の作業を見つめています「粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」(18:4)陶器師は一度、器を自分の手で壊しています。この陶器師は、製作中のものが自分の意にそぐわないものとなり、再びそれを陶器師自身の氣に入った器に作り替えています。このたとえは、神が陶器師で、器として使われている粘土がイスラエルです。イスラエルの民には頑なな心がありました。その堅い部分が煉り壊され再生されようとしています。私たちもまた、神の民として新しい器にされるために、以前のかたちは壊されて跡形もない状態にされます。神様は、その愛の御手の圧力をもって私たちの生涯をご自身の計画と目的に沿ってこね上げ、新しく作り替える方です。私もまた、神の存在など信じずに育ちましたが、イエス・キリストが介入されたときには、神なき人生観を上からたたき壊され、そこから聖書の神の価値観が見えてきました。キリストを心に迎えると、それまで知らなかった神の創造された世界と人生が目の前に広がりました。

二、器となる粘土への集中力〜削られ、整えられ

また、私たちは壊され、煉られるだけでは終わらないのだという事です。器は陶器師の気に入る形になるまで、陶器師の並々ならぬ集中力をもって、ろくろを回しながらその粘土を細部まで見つめ、手直しし、形を整えられていきます。神様はそれほどまでに私たち一人ひとりに大きな関心を寄せて、日々の生活の中で、我々に向かって取り組んでくださっているのです。私たちは鈍い者ですが、神様のその真剣な眼差しを知らなければならないのです。そして主のその技術力は最高のものです。

 私が美大生の頃、彫刻の時間にモデルを見ながら粘土で創作をしました。しばらくすると彫刻家の先生がやってきて、作品をじっくりながめて不必要なところザっと削ぎ落としたりします。すると不思議です。モデルの人格が表れ息付くような作風になります。こういう達人の手を世間では信仰もなくゴッドハンドと言ったりしますが、私たちは、本物のゴッドハンド、生ける神の御手で取り扱われるのです。内なる聖霊は、生ける神の御手として不要な肉の性質を削り落としたり、霊的に必要なものを与えます。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Uコリント 4:7)とありますが、土の器でしか過ぎない私たちの内に、宝なる神が住まわれ、神の力が発揮されるのです。聖霊は、教会生活における期待と喜びや、祈りと御言葉を通して、更なる成長への飢え渇きを私たちに与えます。肉の性質が削がれると、そのところに聖霊が豊かに働かれ、私たちの霊性はキリストに似せられていくのです。

三、完成を目指して〜火で焼かれ、麗しい器に

陶器師によって巧みに形造られたそれぞれの器は、最後の仕上げとして、完成させるため窯に入れて焼き上げられます。粘土自体は本当に価値のないものですが、焼き上げる火により、粘土は陶器として変えられます。神様は火を通して完成させる主権者です。そして陶器師は、名品ができるまで何度も破棄と作業を繰り返していくのです。失敗作になりかけた粘土のような自分を見ても、希望を捨てることはありません。

私たちの信仰の生涯は、主にあって名品として作り替えられていく過程と言えます。この過程を通してやっと強く輝く麗しい器になるのです。人間は自分の意のままに自分自身を作り上げようとしますが、私たちは、陶器を作る方の手に置かれて、その手に委ねて信仰の完成を目指していきましょう。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするために キリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)私たちは神の作品です。主は土のような私たちに、限りない可能性を見出される方です。この方の願う器とされて、神の栄光を現していきましょう。


11月10日 「神に仕える者との違いを見る。」  マラキ書31418

マラキ 3:14 あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の【主】の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。
3:15
今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる」と。
3:16
そのとき、【主】を恐れる者たちが、互いに語り合った。【主】は耳を傾けて、これを聞かれた。【主】を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。
3:17
「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の【主】は仰せられる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
3:18
あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。

ロシアでは、1918年からの2年間で数千人の聖職者と数万人の信徒が殺害され、聖堂も破壊されました。反対した市民の宗教行進には銃撃が浴びせられました。それでも1930年に、ロシア正教会は、3万の教会、数千万人の信徒を擁しておりました。迫害は更に激しくなり、1932年には修道院は殆ど破壊され、殆どの聖職者は殺害されました。家庭に信仰の印であるイコンを所有していても投獄され、教会の財産は完全に没収されました。1960年代のフルシチョフ時代も徹底的な迫害は続き、信徒は亡命したりして信仰を守りました。救世主ハリストス大聖堂は、ソビエト大宮殿に作り替える為に爆破されましたが、結局は屋外市営温水プールになりました。

1991年のソ連崩壊後、ロシア正教会は急激に教勢を回復し、人口1億4600万人のうち9000万人の信徒を擁しています。ハリストス大聖堂の再建は復興の第一とされ、2000年には完成しました。私たちが訪問した総主教庁も汚され、トイレや倉庫、少年院などに使われたのです。ソ連領であったウズベキスタンでも、訪問した宗教施設は倉庫やスポーツセンターなどにされていました。

歴史上、このような迫害は繰り返されています。バビロン捕囚から帰った人々は、「最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。」(エズラ3・12)とあります。ハリストス大聖堂が再建された時に、信者たちは同じような状況だったことでしょう。

エルサレム神殿の破壊は、旧約聖書最後のネヘミヤ記やマラキ書の紀元前4百数十年の時代からマタイ福音書の紀元前十年頃の間に、セレウコス朝シリアのアンティオコス・エピファネスによって為されています。そのことはダニエル書に預言されています。「彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行い、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。」(ダニエル8・23.24)。この8章には、メディアとペルシャを破るギリシャのアレキサンダー大王のことが記されています。

その後ヘロデ大王による第三神殿ができますが、ご存知のようにイエス・キリストの神殿破壊預言があるのです(マタイ26・61)。紀元70年ローマ軍によってエルサレム神殿は破壊され、ユダヤ人はその地域の居住と出入りを禁じられ、ディアスポラ(離散民族)となったのです。

1948年5月14日、イスラエル独立宣言が読み上げられた時のユダヤ人の喜びは、1878年間の苦労と忍耐、そして神への信頼が勝利したものでした。

 ロシア正教会の礼拝は、式次第では3時間、私たちが参加したものでは2時間10分間、立ちっぱなしで讃美と祈り、応答、朗読、訓戒、などが続けられるものでした。シナゴーグも訪問しましたが、敬虔なユダヤ人は、今でも安息日には全く作業せず、日に三回の祈り、聖書の暗唱などを身に着けています。むろん、イスラム教の戒めも強固なものです。

 これらの宗教と迫害にも関わらず信仰を保ち、利得や思惑よりも神の戒めを大事にする姿勢に、私は強く打たれました。現代日本及びアメリカのキリスト教は、祝福と繁栄を強調します。それは、幸せを求める人の欲望を叶えるものとして人々を魅了します。また、キリスト教の神学は、どのような論理にも対抗しうる弁証論をもっています。しかし、理屈や論理や、迫害に際して、合理的に対処することを正当化します。ソ連の迫害下において、信者と教会を守るという名目で政府や共産主義に協力した聖職者が、後に糾弾され、立場を追われています。なぜなら殆どの信者が、60年もの間、迫害に耐えて信仰を守ってきたからです。

 「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の【主】の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。」(3・14)とユダヤ人やロシア人は思ったのでしょうか。

 山上の垂訓(マタイ5〜7章)の教えは、神の国に生きる為には、この世の価値観は捨てなさい、ということです。自分の幸せや繁栄を求める者は神の国にふさわしくない、という極論です。確かに、現代の人々の悩みは、これらに結び付いています。「主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。」(3・16)。私たちが語り合うことは、そして迫害下の信仰者の語り合ったことは、「神に仕え、神の戒めを守ろう。」ということです。言い訳は無しです。

 私にとって牧師になる決心をしてから20年は暗黒の時でした。これでもか、これでもかと試練が続き、忍耐も尽き、ただ神に祈る日々でした。そして、自分の思い通りになることを全て諦め、主の前に悔い改めた後、「ただ、いのちの日の限り主に仕えるだけだ。」と腹を据えたのでした。今、確かに私は、「正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。」(18)ことを実感しています。


11月17日 「黙って神に付いて来い。」  ローマ書112533

ロマ 11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
11:26
こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
11:27
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」
11:28
彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。
11:29
神の賜物と召命とは変わることがありません。
11:30
ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、
11:31
彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
11:32
なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
11:33
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

夢を見ました。困難が続き奮闘しても解決せず、困惑しているのですが、妻はニコニコして、子供たちに「黙ってお父さんを信頼していればいいのよ。」と言っているのです。

結婚した時、妻は重度の鬱で、動きも止まり、異常な様子がはっきりとしていました。体調も悪く、卒業もできず、私たちの将来も見えない状況でした。私は、結婚して仲良く過ごしたら治るのではないかとも考えていましたが、改善しない様子を見て途方に暮れたものでした。結婚に関しては神の明確な印も幾つかあり、信仰と確信を持っていたのですが、次々に起こる不安要因と困難もあり、私自身も蕁麻疹や不整脈が現れてきました。

最近は、妻の笑顔に慰められ、喜びを感じています。妻は私がいれば、どんなことがあっても平気だと信じているようです。まるで神様のようです。実際には、罪深さや弱さ、欠点を強く感じるこの頃ですが、私もまた、私の背後におられる神に強い信頼を抱くようになりました。

イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり」(25)。先週お話ししたように、ユダヤ人の離散(ディアスポラ)は1878年続いたのです。「パウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。『神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。』」(使徒13・46)と、福音に対して最も攻撃的だったのがユダヤ人だからでした。

ユダヤ帰還法では、「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」をユダヤ人と定義していますが、実際には多様なユダヤ人が世界中におります。ユダヤ人は、「神に選ばれた選民」と自負して異邦人を汚れたものとみなしていたのですが、キリスト教社会からは「神を殺した賤民」と差別され、迫害が続いてきました。しかし、迫害差別されながらも、民族性を残し、シナゴーグを中心として律法を守る宗教民族として存続してきたことは、神の導きと選びであったとしか説明できません。また、その宗教性故に迫害されても、棄教しないで団結してきたことは確かに選民であると証明されます。

ユダヤ人は1340万人で世界人口の0.2%ですが、ノーベル賞受賞者の2割がユダヤ人であり、世界の富豪8人のうち4人がユダヤ人です。ユダヤ企業は、ロックフェラー、ロスチャイルド、マイクロソフト、アップル、フェイスブック、インテル、ディズニー、多数であり、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。」(33)とあるように、世界の富と知恵を支配しているのです。だからこそ、イスラム圏のど真ん中にイスラエルが存続しているのです。神の祝福は間違いありません。聖書は、そのユダヤ人が民族的にキリストの福音に従うと預言しているのです。「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。』」(26

 「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。」(28)。父祖というのは、主に忠実に歩み、子孫への祝福を約束されたアブラハムたちです。「主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のために、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、今日まで彼らから御顔をそむけられなかった。」(U列王13・23

 最近はスポーツ指導者の横暴や暴力が問題となっていますが、本来、武道やスポーツでは指導者は絶対であり、服従は当然なことでした。それは、指導者の技量や人格が卓越したものであり、知的な理解や努力では身に付かないものだからだったでしょう。家庭でも、親や年長者への服従は当然なものでした。私は明治の両親に反抗や意見を言ったことはありません。自分の子供たちから反抗を受けた時、義を身につけさせなかったことに気が付きました。時代の趨勢かもしれませんが、逆らったり疑ったら、祝福はなくなることが義というものです。

 同様なことが信仰の世界でも起こっています。神の戒めを守るということは、自分の判断を差し入れないで、どこまでも守るということです。「伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」(ローマ6・17.18)。救いの確信に悩んでいるのは、どこまでも神に従うというよりも、自分の基準でごまかしているからです。

 多くの困難がありましたが、妻を裏切ったことはなく、妻の悪口も他人に言った覚えがありません。多くの夫婦が、お互いの非難を他人にしています。明らかに不義です。そんなことで、信頼が確立するはずがありません。まして、神への不満や不信仰は、神の側ではなく、私たちの側の不義です。神の祝福があるはずがありません。それでも、神はあなたを捨てません。神の賜物と召命とは変わることがありません。」(29)。神が捨てるのではなく、人間が神を捨てるのです。私は、そういう背信者を多く見てきました。キリストの嘆きであり、私もまた、悲しく思います。私でさえ、それらの人の執り成しをしているのですから。


11月24日 「救い、栄光、力は神のもの。」  黙示録1919

黙示録 19:1 この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。
19:2
神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」
19:3
彼らは再び言った。「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」
19:4
すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ」と言った。
19:5
また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」
19:6
また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
19:7
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
19:8
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
19:9
御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

私が讃美した『御顔を見ぬ時』は、『アメージンググレース』と同じくジョン・ニュートンの作詞です。彼は奴隷貿易に従事し船長にもなりましたが、嵐の中で回心し、牧師になります。そして奴隷貿易反対運動を始め、1807年、彼が81歳の時に英国で奴隷貿易が廃止されます。1779年に出版した『オウルニィの讃美集』にこれらの讃美が載せられているのですが、これらの讃美を聞く時、彼の生涯の困難さと、その真摯な信仰を知るのです。これは、彼の母の熱心な信仰と祈りによるものでもありました。

さて、今日の聖句は、終末における天国の大讃美です。大患難の後、信仰者の敵は滅ぼされ、神の裁きと主の王としての着座が行われます。教会は、花嫁としてたとえられ、「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(8)とあります。

マタイ25章には、キリストと花嫁なる教会の婚礼の時に、油を用意していた5人の賢い乙女と、用意していなかった愚かな乙女のたとえがあります。愚かな乙女とは、キリストを救い主と信じてはいたけれど、聖霊に満たされて歩んでいなかった信仰者を意味します。イエス様の教えですから、信者は注意して聞かなければならないのですが、花婿なるキリストは、言い訳ばかりを言う信者に対して「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」(マタイ25・12)と拒まれるのです。

マタイ22章には、王子の婚礼の披露宴に招待した人で「婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。」(22・11)。その人に対して「あれの手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。」(13)と王が言ったという話をイエス様がされています。つまり、礼服というのは、神の国に行くための救いという義の衣のことです。

キリストと教会の婚礼という意味合いは、教会がキリストを愛し、実際にキリストとの日々を過ごしたいという思いから例示されるのでしょう。エペソ書には、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」と記されています。主キリストが、教会をそこまで愛されておられるということを、私たちはどこまで気が付いているでしょうか。夫婦で互いにあまり愛し合っていないならば、そういうことはわからないでしょう。妻を愛するということは、要求するということではなく、受け入れるということです。イエス様は、私たちを愛し、不十分不完全な私たちを受け入れてくださっているのです。

 ここで、教会は「キリストに従う。」(エペソ5・24)ことが当然なものとして要求されます。つまり、妻もまた夫に不満を漏らさずに、従順であることが必要になってきます。そして、黙示録19・8にあるように、「教会の正しい行い。」こそが、花嫁に相応しい「光り輝く、きよい麻布」なのです。愛されているからといって、夫に不満を漏らし、さらに逆らっているならば、それは「光輝くきよい衣」ではないのです。

 教会は、それほどキリストを求めて、自己犠牲的に従順を為し、愛しているのでしょうか。実は、それが教会を構成する信徒の真実性が問われるゆえんなのです。つまり、適当に信仰生活を過ごすということは、「油が切れている。」聖霊に満たされていないという証拠であって、その人は、愚かな乙女であるということなのです。なかなか厳しいことです。

 私は、ロシアに行ってみて、確かにそういう賢い乙女が多くいることを体験してきました。しかし、日本では難しいというか、少ないという実感があります。働く、稼ぐ、ということが、信仰よりも重視されています。世界中で、仕事や信条さらには命よりも大事に守られているのが信仰であるということは、現世思考の強い日本人にはあり得ないようなことです。日本だけでなく、経済社会の共通項です。

 終末の危機や熱心な信仰を強調することは、胡散臭い宗教のように思われ、日本では無理のない信仰生活を重視する傾向が強くなってきました。私自身は、「寛容を旨とする」ことを心掛けています。それは妻子に対しても同様です。しかし、自らに関しては、「主の御旨に損なわない。」ことに注意を注いでいます。それは、信仰や誠実な生き方というものは、本人の人格に依存するものであり、或は聖霊に触れてこそ変えられ、聖められるものであると悟ってきたからであります。

 罪とは自己義でもあります。神の義は、自らを義としては得られないものです。残念ながら、救われていない人々の自己義を打ち破ることは誰にもできるものでもありません。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。」(19・1.2)と、判断を神に委ね、自ら為しうることを行うことこそが、キリスト者としての生活です。そのように生きる者によって、超自然的に教会が形成され、営まれているのです。ジョン・ニュートンの「御顔を見ぬ時、全ては意味なし。」は真摯な信仰者の信条かと思い、またそのような人々によってこそ、真の讃美が為されるのです。


12月1日 「神の国に全的信託する」  マルコ1章15節

マルコ1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2
預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。
1:3
荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4
バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
1:5
そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6
ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7
彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。
1:8
私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
1:9
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
1:10
そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
1:11
そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
1:12
そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
1:13
イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
1:14
ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
1:15
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

聖書直訳:「(そして言う)時が成就した。神の国が近い。改心して福音に身を委ねよ。」

アドベント(待降節)第1週に入りました。基督の御降誕を待望する期間ですが、単に待ち望むだけではありません。一年間の信仰、行い、生活その他一切を吟味し、悪しきを悔い改め、新たな年に向かって決意を新たにする時です。

   一 時が成就した

「時が成就した」とは、「時で定められた神の言葉が成就した」という意味です。その「時」とは、「時」を表示してなされた神の言葉という意味です。「その時」とは、基督の来臨の時です。

新改訳は「時が満ちた」と訳します。「時」を「期間」と解し、基督来臨の待ち期間が漸く満ちたという待降節に相応しい表現です。

しかし、私は、「時」は「時」と理解します。「基督来臨の預言が成就した」「基督の来臨が成就した」という意味です。

ところで、主イエスの言う「神の福音」とは何でしょうか。主はご自身が来られたことを「時が成就した」と言われたのでしょうか。

   二 神の国が近い

当教会では、今年は、「神の国」をテーマに学んできましたが、その「神の国」は、遠い将来のことと思っていませんか。日本語の「近い」はまだ遠い感じがします。この「近い」とは、手の届く範囲の近さです。いや、手の内と言っても良いくらいです。

ロシアの空港に着くと、そこはロシアですが、ロシアには入国していません。既にロシアなのにロシアではない、そんな感じが、神の国だと考えます。

入国審査が通らなければ入国は認められず、強制退去処分となります。今、チェックが必要です。有効な旅券を持っていますか。査証はありますか。健康に問題ないですか。有害物・禁制品を持ってはいませんか。

神の国にも、極めて厳しい入国審査があります。旅券は、地上の教会での信仰告白、洗礼、教会員、信仰生活の記録です。査証が必要です。査証免除協定はありません。聖霊の証印が、私たちの旅券に押された査証です。

 健康は大丈夫ですか。神の国の検疫所を通過できますか。犯罪はありませんか。誰かから訴追されてはいませんか。禁制品は持っていませんか。偶像です。金銭欲、世の欲は、偶像崇拝です。

   三 改心と信託

 新改訳は「悔い改めて、信仰せよ」と訳します。それは未信者向けです。信者なら、もう必要ない」となるでしょう。

 そもそも「信仰」の意味がわかっていない人が多くいます。英語では、「信仰」に当たる語が、「Belief」「Faith」「Trust」の3つあります。夫々、私は「信心」「信仰」「信託」と訳し分けています。

 Belief 信心は、自分から一方的に信じること、Faith 信仰は、契約関係にて互いに信頼し合うこと、Trust 信託は、自己の所有権を相手方に移転し、相手方の運用に委ねることです。

 日本人的には「信心」という感覚ですが、聖書の信仰は「神と私の一対一の契約の信仰」であり、「基督に全的に献身した信託」です。

 私たちは、自分が自分のものではなく、基督のものです。私たちの体も、知恵も、能力も、体力も、お金も、持ち物も、全て基督のものです。それが、私たちの信仰です。

 「改心して福音に身を委ねよ」とは、今までの誤った考え方を改めて、福音そのものである基督に身を委ねることのススメです。神の国が近いのです。猶予はなりません。唯物論者の生き方、聖書で偶像礼拝と言われている金銭中心の生き方、日本人の基準である損得勘定ではなく、福音に身を委ねた生き方が求められます。自分中心の生き方ではなく、基督中心の生き方です。