7月7日 「悪霊の惑わし。」  ヨハネ福音書84250

ヨハネ8:42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
8:43
あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
8:44
あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
8:45
しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
8:46
あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
8:47
神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」
8:48
ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
8:49
イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。
8:50
しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。

日本人は、悪魔や悪霊を「触らぬ神に祟り無し」くらいの感じでしか捉えていないようです。「空中の経緯を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいました。」(エペソ2・2)とあるので、信仰者になる前は、悪魔の影響下にあったというのに、その自覚なく、救われる前と同じような考え方をしている人がいます。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった」(2・1)状態と変わらないのです。

私たちは、神を信じて救われる前のことや、その状態を肯定して話すということは、エジプトを出たイスラエルの民が、エジプトを懐かしんでいるのと同じなのです。「今日、もし御声を聞くならば荒野での試みの日に御怒りを引き起こした時のように、心を頑なにしてはならない。」(へブル3・7.8)。自分の生まれや育ちを力説するのは、救いよりもそれを価値あるものとしているということであり、或は救われていない証拠なのです。誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました。」(Uコリント5・17)。信仰者は、新しい生き方をいつも心掛ける必要があるのです。

天使たちも、肉体はないものの、人格のあるものとして創造され、選択の能力が与えられていました。「私は神だ。」(エゼキエル28・2)と高慢になった大天使がサタンになったのですが、そのサタンに与した天使たちがおりました。「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、裁きの時まで暗闇の穴の中に閉じ込めてしまわれました。」(Uペテロ2・4)とあり、また、前述のように空中の権を握って暗躍しているのです。つまり、罪の中にある人は、サタンの惑わしの中にあり、そのようにして世は、欲望と陰謀の中に争いと混乱があるのです。

悪霊の影響下にある人の特徴は、人格的自主的な判断ができないことです。悪霊は、その為に、以下のことをします。

@  快楽の虜にします。

スマホのニュースにマンガの欄がありますが、エロとグロばかりで、これを若者達が読んでいたら、性風俗や性犯罪の虜になるだろうと思われます。週刊誌も、そのような破廉恥な写真や記事が多く、働き盛りの男女は、落ち着いた生活ができないような悪影響を受けるでしょう。

A  怒りの虜にします。

今日の聖句は、信仰の父アブラハムの子孫だから選民であり、神の国に行けるとうぬぼれる人々の怒りをイエス様が受けたところです。自尊心を傷つけられた人々はイエス様の「真理を話しているために、あなたがたは信じません。」という言葉に聞く耳を持たないのです。キリスト教国と言われた韓国の一方的な国を挙げての反日的な言動に心を痛めます。韓国では、異端と言われるキリスト教が勢力を上げています。聖書的な人格教育は教会でされてきたのでしょうか。

B  権力や名誉や富を獲得しようとする虜になります。

人々の集まる所の会話は自慢話ばかりです。能力のない者や障碍者は軽んじられ、強者には媚びて、利益を得ようとひたすら励みます。それを諦めた人々は、@やAに走ります。

C  自信を喪失し、自己管理。健康管理を放棄して、自暴自棄になります。

精神病患者の悲惨さは、自信喪失です。それなのに、精神神経科医は、安易に患者を向精神薬の虜にします。多くのうつ病患者は、この世の勝利優先の価値観の犠牲者です。

D  不適切な宗教の虜になります。

以上の虜になった人々は、その欲望を全うしようとして、偶像崇拝的儀式や迷信、洗脳、マインドコントロールの虜になっていきます。それは、信仰者や救いを得たクリスチャンでも同様です。「汚れた霊が人から出て行って。」(マタイ12・43)とあるので、救いを得たのでしょう。ところが、「帰って見ると、家はあいていて」(44)、つまり、信仰から離れていて、「自分よりも悪い霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住み着くのです。そうなるとその人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」(45)。

 「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪っていきます。」(マタイ13・19)。悪い者とは、悪霊のことです。

 生まれながらの在り方を変えようとせず、「自分は愚かだ、聖書を理解できない。」などと言い訳を言いながら、みことばに従おうとしない人は、堅い岩のようで、何かが起こると信仰に躓いてしまいます。欲望に打ち勝とうとしない人もまた、茨にふさがれて信仰が枯れてしまうのです。

 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6・11-13

 


7月14日 「信者の聖い生活。」  Tコリント5613

Tコリント 5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。
5:7
新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
5:8
ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。
5:9
私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。
5:10
それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。
5:11
私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。
5:12
外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
5:13
外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。

 日韓の政治的争いに発して、韓国では日本に対する敵意がむき出しのようです。日本人は、敵意を含めた感情を表すことを恥としますが、責められ攻撃されるばかりでは、さすがに腹が立ってきたようです。

 韓国は、「恨の国」と呼ばれ、朝鮮民族にとっての「恨」は、単なる恨みや辛みだけでなく、無念さや悲哀や無常観、(虐げる側である優越者に対する)あこがれや妬み、悲惨な境遇からの解放願望など、様々な感情をあらわすものである。恨の文化は、代々の王権や両班による苛斂誅求を極めた階級的支配に対する民衆の抵抗意識と、中国からの異民族による侵略・征服で、永続的な服従を余儀なくされた国辱を引きずり、日本による併合が「長い抑圧と屈辱の歴史」であったという事実を省みない一方的な主張の元で行われる反日教育や、内外の圧倒的な力に依存性せざるを得なかった朝鮮半島独特の文化である。

韓国では、クリスチャンでさえも、この恨によって形成された意識から脱却し、聖めと御霊による成熟を得ることは難しいような気がします。私は、韓国ではクリスチャン同士の大げんかを何回も見ています。

日本人の国民性は、「和と礼儀を大切にする。」と言われます。和とは、「自分に合った場所を見つけてその枠の中だけにいる」ことであり、その枠からはみ出るのは和を乱すために社会が許さず、逆に枠の中は「自分の分」として責任を果たすように求められる。それができないと「無能」という烙印を押されてしまうので、他人の領域には互いに手を出さないのがルールだと紹介している。

今日の説教は、日本人クリスチャンが、この日本的文化の枠から離れて成熟や聖めを獲得できるかということが要旨です。

コリントは商業の発達している大都市ですが、道徳的退廃をしており、神殿に仕える千人の巫女は売春婦であったそうです。「コリント人のように振る舞う。」とは、不品行を行うという意味であったそうです。ですから、教会に通う人々にも、習慣としての不品行から抜け出られない人は多く、パウロが激しく糾弾するのです。

使徒たちの中でパウロだけが博学であり、神学的素養をもってキリスト教を展開していた人物であり、もしパウロがいなかったなら、その後の発展はなかったろうと思われる神の選びの大使徒です。そして、その信仰と使徒としての信徒教育は、イエス様の教えに基づいた倫理的側面も確立したものでした。韓国のキリスト教は、今や一般人の魅力を失うような教理的及び道徳的退廃をもたらしています。それは、「恨」という文化を打ち破ることができずに、指導者が傲慢になってしまったからかもしれません。日本のキリスト教が当初から盛んにならないのは、キリスト教の教えが、日本の「和」を乱す者であったからかもしれません。

宗教の指導者が自らを律することができなければ、その宗教は崩壊します。「監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。実は、反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者が多くいます。」(テトス1・7-10

 信者への指導もきちんとしなければならないと反省することも長い牧会生活では多くあります。牧師に反発し、礼拝でも不遜なことを語り、何度も戒めても、自分の在り方や考えを変えようとしない人がおりました。教会員は、教会を離れた人の為に執り成しをしていますが、悔い改めるようにと祈っている人は少ないように思います。

 日本的「和」の精神では、ともかく、円満に済ませようとする傾向が強くあり、反発的な人、不道徳な人、不信仰な人に対しても、穏やかに受け入れることが多いようです。神は愛であり、寛容だから、とすることは、神よりも、人を尊重することであり、不遜な信仰姿勢です。つまり、指導者よりも、互いの和を大事にする傾向があり、団結すれば、指導者しいては神にも言い逃れができるという日本的精神の現れなのです。それは、自分ももしかしたら、罪を犯すかもしれない、その時は、皆が取り成してくれたら、裁きを免れることができる、という思考なのです。

 相対思考というものは、絶対者、全知全能の神の前では通用しないものです。佐倉惣五郎という人が、重税に苦しむ農民の為に将軍に直訴して処刑されたということを、イエス様の型であると説教する人がおりました。日本的キリスト教の典型です。無謬なる神に対して、私たちは悔い改めるしかないのです。執り成しの祈りというものは、その全知全能なる神の前で、本人が悔い改め、或は信仰を持つためのものです。神は、その人の成長の為でなければ働いて下さらないからです。それ以外には、自らの信仰で、その人のために信仰の行いをするしかありません。

 信仰者は、神を信じて行いをするのです。神に動いてもらう神頼みの祈りというのは、この世の宗教の惑わしです。私自身は、神が働いて下さる法則と導きを探り、その語り掛けにいつでも対応できるように備えています。そして、神様の名を叫んでも、神に従って生きていない人に対して、神が決して働いてくださらないことを悟りました。

 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Uテモテ3・16


7月21日 「創造主の技術。」  ローマ1章1820節 宇佐神 実 牧師

ローマ 1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
1:18
というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
1:19
それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。
1:20
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
1:21
それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。
1:22
彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
1:23
不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
1:24
それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
1:25
それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

今日の聖書箇所を見ると、創造主である「神の怒りが天から啓示されている」とあります。この「怒り」は、中国語では「憤怒」と訳され、英語では「激怒(WRATH)」と訳されています。何よりも人を愛しておられる神がなぜそれほど怒っておられるのでしょう。

 みなさんはどんな時に憤りを感じますか。受けるべき尊敬を受けない時、皆さんの手柄が他人の手柄になる時、憤りを覚えて当然です。神様は、ご自身が受けるべき尊敬を受けず、神様のなさった業が他の者の業とみなされていることに激怒されているのです。

 聖書は、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められ、弁解の余地はない」と述べています。私たちが被造物に目を向けるなら、創造主の永遠の力と神性をはっきりと知り、認めることができるというのです。ですから被造物に目を向けることが大切です。

 実は、多くの科学者や技術者が自然に目を向け、そこに隠されている素晴らしい技術を真似できないかと苦心しています。なぜなら、自然の中に隠されている技術は、人間の思いもしないようなすばらしいものだったり、とても人に真似のできないものだったりするからです。

 最近の旅客機の翼は先端部が上に曲がっているのをご存知でしょうか。これは鳥のツバサの先端部が上に曲がっているのを研究して真似したものです。これによって鳥の消費カロリーが抑えられているのがわかり、これを真似したことで飛行機も燃料の消費を抑えることができました。

 新幹線500型の先端部の形は、カワセミのくちばしの形状をそっくりそのまま真似したものです。カワセミは、魚を捕えるために時速120kmで水に飛び込むことがありますが、ほとんど水しぶきをたてません。この秘訣がくちばしの形状にあることがわかりました。これをヒントに新幹線500型が設計され、トンネル通過の際に発生する破裂音、トンネルドン現象を抑えることができたのです。

 最近の戦闘機で垂直翼が二つあるのは、ツバメの尾が2本に分かれているのをヒントに設計されました。これによって高速でも安定して急旋回できるようになりました。

 このほか、マジックテープはゴボウの実をヒントに作られ、ヨーグルトがくっつかないヨーグルトのフタは、ハスの葉をヒントに開発されました。このように、科学者や技術者は、自然の中に隠されている素晴らしい技術を教科書として、人の生活や活動に役立てています。

しかしそれでも、すべての自然の技術を人が真似できるわけではありません。なぜなら、自然の技術の方がはるかに優れていて、人には模倣不可能だからです。たとえば、ヤモリは足の裏に生えている毛と物質の間に生じるファンデルワールス力(りょく)で壁や天井などを歩きます。人は研究を重ねてヤモリの足の毛のような合成繊維の毛をテープなどにつけることでまるでヤモリの足のようにファンデルワールス力でテープを壁に貼り付けることが可能になりました。しかし、何度も繰り返し使うと毛先が磨耗して張り付く力が弱まります。ヤモリも同様に毛先が摩耗しますが、毛が生え変わるため壁を登れなくなることはありません。人はテープの毛を自動的に生えかわらせることなどとてもできません。そのことを考えると、ヤモリの足の毛のしくみは人間の技術をはるかにこえているのです。

 自然の中に見られる技術を人は真似しながら技術を発展してきました。このような技術がいつの間にか偶然に自然にできてしまうことがあるでしょうか。たとえばマジックテープが自然にいつの間にかできるでしょうか。決してそのようなことはありません。聖書は自然界に存在する動植物などを被造物、すなわち創造主によって造られたと教えています。ですから、自然界にみられる様々な技術は創造主の技術です。そしてその創造主の技術を私たち人間が真似て私たちの生活に役立てているのです。

 そういうわけで、聖書は神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められると教えているのです。創造主は私たちが生きるのに必要なすべてのものを与えてくださり、私たちは創造主の技術によって生活を豊かにさせていただいています。ですから私たちが創造主に感謝を捧げるのは当然ですよね。

 しかし人が創造主などいないと考え、無視し、感謝もしないので、創造主が激怒していると聖書は語っているのです。創造主の存在を認め、日々感謝して生きていこうではありませんか。そうするなら、創造主は私たちの感謝を喜んで受けてくださるのです。


7月28日 「神の国は義と平和と聖霊による喜び。」  ローマ14119

ロマ14:1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
14:2
何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
14:3
食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
14:7
私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
14:8
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
14:9
キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
14:16
ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。
14:17
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
14:18
このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
14:19
そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

教団の弘報で韓国のキリスト教系異端が大規模な活動を繰り広げているので注意するようにとの日本福音同盟からの通知がされました。調べてみるとこの教会のすぐ傍でもグッドニュース宣教会という教会を始めていました。そのHPには正統派の福音を宣べ伝えているとあり、他にも多くの異端が正統派らしく名乗って日本でクリスチャンを対象にして勧誘させると報告されていますから注意が必要です。

韓国ではクリスチャンが約3割と23%の仏教徒よりも多く、47%が無宗教ですが、異端が多いのが特徴です。「韓国プロテスタントはキリスト教が一般的に敵対視したり忌避する傾向があるシャーマニズムを神秘主義に引き込み、巫俗的神秘主義と韓国の風土が合致して教会の急成長をもたらした。」とウィキペディアでは説明されています。巫俗(ムーソク)とは、朝鮮土着のシャーマニズムです。神懸り的に現世の祝福や繁栄を求め、排他的にスポーツなどでも勝利を願うことが他国のクリスチャンには違和感を与えます。むろん、素晴らしい信仰者もおります。 

飲食店に行って、自然なものを丁寧に調理して作っているという宣伝が書いてあるところがあります。けれども、その値段でそんな安く作れるはずがない、という論理的な判断の下で、味わってみると、やはり人口調味料に砂糖の甘味で誤魔化しているということがあります。食べ放題の焼肉屋ではタレで味を誤魔化していたり、解凍を急いで肉が水っぽかったりすることはよくあります。能書きは良くても、実際には不味い、ということをわからないで食べているのは、やはり騙されているわけです。電話サギなどもありますが、吟味して生きる習慣を身に付けないと健康を害し、騙されたり、失敗をしたりします

 異端の特徴は、祝福と繁栄であり、また、そこから逃れられないように教育し洗脳します。日本社会は教育によって人々の能力を向上させ、問題を対処できる力と悪や犯罪に打ち勝つ力を付けさせるとしてきました。その教育は、実践を離れた知識教育でした。先週は、創造論のセミナーを持ちましたが、その知識を信じ込んで、進化論を信じている人々を攻撃してはならないとは、講演でも話されたことです。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(Tコリント8・1.2

 この信仰が本物かどうかを試そうとするのは、まだその人自身がイエス様を知らないからです。信仰について知ろうとするよりも、神ご自身との出会いを持つことが大事です。ノウハウではありません。

 「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3・20.21)。罪というものは、自己中心であり、自分の満足、自分の欲求充足、自分が幸せになることを願うことに結びついています。ローマ書は、「信仰の従順に導くため」(ローマ16・26)に書かれたとあります。従うということは、納得がいったら従うということではありません。納得がいったらそれをするのは、あたりまえのことです。信仰によって従うということが、信仰者がなす信仰の奥義なのです。その信仰の従順とは、自分の得にもならないこと、納得のいかないことがあるものです。それでも、神を愛し信じ、人を救うために自己犠牲を敢えてすることができるのです。

 自己犠牲と十字架を負って生きるということができないキリスト教は、本物ではありません。但し、指導者がそれを信者に強いて、自らは忍従の日々を送っていない場合には、異端の可能性があります。

 残念ながら、キリスト信仰というものは、自己実現ではありません。自己否定です。「信仰の弱い人」を責めて変えていこうとするのは、自己都合です。教会にも日々の生活にも、思い通りにならない厄介者はいるのが当然です。子供もなかなか面倒なものです。弱くて、世話が掛かり、強情で、勝手に泣き叫びます。その子どもを裁いたら、神に受け入れられないのです。

 病弱で健康でなく食事が細い人、或は神経質な人がいるものです。賢くなく、不器用で、注意欠陥の人もおります。改善したら、それこそ私たちにとって都合が良いわけです。しかし、聖書は、無理に良くしようとするな、と戒めています。これは凄い奥義です。

 失敗し、不器用で、或は病気やケガで死ぬことがあったとしても、信仰者にとっては問題ではありません。「健康こそ第一!」などというのは、異端か未信者です。この世の風潮に惑わされてはいけません。神を信じるということは、死のうが生きようが、うまくいこうがまずかろうが、関係ないということなのです。だから、「神の国は飲み食いのことではなく」なのです。

 「」とは、神との正しい関係です。神を想う時、神に喜ばれることを意識したら、それが義です。「平和」とは、思うとおりに行かなくても、失敗挫折続きでも、平安があることです。「聖霊による喜び」があれば、他の喜びはなくても、気になりません。自己主張など愚かなものです。

 


8月4日 「神の国は言葉ではなく力にある。」  Tコリント41020

Tコリ 4:10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。
4:11
今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。
4:12
また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、
4:13
ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。
4:14
私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。
4:15
たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
4:16
ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。
4:17
そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。
4:18
私があなたがたのところへ行くことはあるまいと、思い上がっている人たちがいます。
4:19
しかし、主のみこころであれば、すぐにもあなたがたのところへ行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう。
4:20
神の国はことばにはなく、力にあるのです。

パウロはパリサイ派の厳格な教育指導を受け、ローマ市民権を持つ有力な家柄であり、ギリシャ語も話すという、12使徒の中では群を抜いて博学であり、神学者でもありました。キリスト教徒を捕える為に奔走している途中、馬上でキリストの光に当てられ、劇的な回心をしたのでした。

 キリスト教がその後の異端から守られ、それ以前のユダヤ教の戒律から解放され、さらに異教との違いを明確に確保したのは、パウロによる以外にはないほど、偉大な貢献をしました。ところが、パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」(Uコリント10・10)と言われるように、外見は貧相で、ドモリだったという説もあります。伝説では、小柄でハゲで、背骨も足も曲がっていたという話もあります。今、私たちの中にパウロがいれば、頑固で理屈が多く、ふうさいもパッとしない、嫌な人のように見えるかもしれません。

 ところが、パウロの行動は驚くばかりに力強く、忍耐と努力の人でした。「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(Uコリント11・23-27

 「思いあがっている人たち」がすることは、理屈です。キリスト教異端は、先週語ったように、クリスチャンをターゲットにします。日本人は、知識欲が強いので、説得には弱いのです。テレビコマーシャルを見ていて、購入を促すテクニックの見事さに感嘆します。これで必要の無い物まで買って、置き場がなくなり、サプリや食べ物も摂りきれなくなるのでしょう。物を買うから幸せになるのではなく、便利になるかどうかは、本人次第です。サプリを摂るからといって健康になるのでもなく、運動したからといって筋肉が付くわけでもありません。ところが、多くの人が、それに関わることによって、自分は努力しているのだと言い訳をしているのです。愚かな人は、言い訳のために人生を費やします。昔、「キリストさんはまだお参りしたことがない。」と言って、講壇の前で祈らせてくれ、という人がいました。これで天国の保証を取ったつもりなのでしょう。

私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。」(10)。信仰を損得で考え、礼拝で信仰の極意や良き知恵を得ようとする人は多くおります。他方、多くを献げ、多くの奉仕をし、多くの祈りを積む愚かな人もおります。自分の宝は、天に貯えなさい。」(マタイ6・20)。

 「今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。」(11)。なぜなら、「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ3・20)。神を信じるからこそ、この世での報いのない働きを甘んじて行います。むしろ、損得で考え、この世の成功を考えることこそが、国籍が天にはないことの証明となります。だからといって、報いのない働きに甘んじるのではなく、報いのない働きを通して、神の国が伝わり、神を信じる者が起こることを願って、ひたむきに働くのです。

 日曜の大事な時間を教会に来て、礼拝を献げ、献金をし、奉仕をするということは、信仰者でない者にとっては愚かであり、損です。昨年まで教会に来ていた家族が、今は毎週息子の野球の応援に行っていると聞きました。全く構いません。ただ、その人は、神の前に「自分は神を信じてはいない。」という証明をしたのです。その人の信仰は偽りであったのです。そのような人が祈っても聞かれると思いません。

神の国は力にあるのです。」(20)。パウロの人生には、奇跡と癒しが付き物でした。私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Uコリント12・10)。これが神の国の奥義です。

 力のある時に人を助け、金があれば献金し、時間があれば奉仕をする、そういう生き方は、信仰者ではなく、普通の人の生き方です。そういう人は、力があれば自らの楽しみに掛け、金があれば自らに費やし、時間があれば自分の思い通りに過ごすことになります。その人生に報いはなく、幸せになれるものではありません。「無理をしない。」という信条は、「神を信じていない。神は助けてくれないと信じている。」証明でもあります。

 時間を自分の思い通りに費やすことの繰り返しは、結局のところ、何の駅にもなりません。そして、神の国の力は、その人に及ぶことはありません。私は、今日は疲れ果て、この説教は夜中の2時にできる予定です。それでも、神は私に健康を与え、明日の御業のための息吹を注いでくださるのです。


8月11日 「道を外して陥る恐怖」  Tコリント41020節 櫻井圀郎師

ヘブル 10:26 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
10:27
ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
10:28
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
10:29
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
10:30
私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。
10:31
生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。

地球の温暖化、否、地球の灼熱化、尋常ではありません。この灼熱は燃えるゲヘナの兆候であり、地獄が近づいている証左と考えますが、如何でしょう? 

 二六節。「真理の知識を受けた後、自ら進んで違反するなら、もはや、贖罪されえない。」と言います。「真理の知識」とは、神に対する我らの罪が赦され、神の民とされ、神とともに歩むことが許されるという福音の真理です。しかも、基督の生命を代価にした地位であり、極めて高価であるのみならず、最高の価値ある身分です。

 それなのに、自分の意思で、自主的・自発的に、神の定めに違反するなら救い難いことです。基督を犠牲にして贖われた身分なのに、あえて捨てるなら、もはや第二の福音はありません。基督を二度も十字架につけることはできないからです。

 日本のような無神論の国では、自分の運命は自分で切り拓くべきだと教えられていますが、完全に誤っています。誰一人、自分の出自を決定できません。いつどこで生まれ、男か女か、知能技能、運動能力、配偶者や会社の同僚、学校や会社、居住環境、仕事や職業……、神が一人一人に選んで定められ、導いておられるのです。基督者の歩みとは、その道を認識し、その道をしっかりと歩むことです。

 その道を外すことが神への違反です。この世は悪魔の支配領域ですから、あらゆる面で悪魔の誘惑があります。楽して金儲けのできる話、信仰とは異なるが、社会的に認められ、良い地位や環境が与えられる話などなど。悪魔の誘惑は道を外させることです。

 道を外した者は、二七節、「裁きを待つのは何とも恐ろしい。やがて神の熱心の火が焼き尽くす」のです。神の劫火は、永遠の炎です。

 二八節・二九節、「モーセの律法を破った者は、二人・三人の証言により憐れみなく死刑。それと比べて如何に悪質かを考えよ。神の子を踏み躙り、御子の犠牲による契約の血を汚れと見做し、恵みの御霊を侮る者を罰するに、如何なる重罰が必要かを。」と言います。

 人間社会では、死刑は極刑です。殆どの日本人は「一巻の終わり」との認識です。唯物論の考え方です。実際には、地上で死刑になっても「終わり」ではなく、その先があります。私たちの主イエスも、ローマ帝国で死刑に処せられましたが、現に生きておられます。神を否定する無神論・無宗教の欺瞞です。死んで終わると思うから、殺人を企み、自殺を図るのです。

地上には万物に「終わり」がありますが、神の世界には「終わり」はありません。永遠の死、第二の死、灼熱の火、地獄の炎とは、終わりなく、延々と存在するのです。たとえ最後の審判で「地獄」と言い渡されたとしても、一瞬で終わるなら耐えられます。しかし、「終わりなく」となると、絶対に無理です。そのことを知れば、信仰は元より、人間としての行動の全般にも変化が生まれるでしょう。悪魔の誘惑はこれを無視させます。

 御言葉が言うのは、第一義的に、神の恵みにより救いを受けてからの神否定、背教ですが、背教にも色々あります。文字通りに、信仰を捨てて敵対する人もいれば、敬虔な信仰者を装いながら、基督教界の重鎮だの、大先生・指導者だのと奉られながら、本当のところで神の子を踏み躙り、契約の血を無にし、聖霊を侮る者もいます。むしろ、そういう人達の方が問題です。知らず知らずに、信者が悪魔の側に引き寄せられてしまいますから。

 御言葉は「如何なる重罰が必要か」というので、地獄は一律でないのでしょう。天国も一律ではないのですから、当然でしょうか。一旦、道を誤ったとしても、悔い改めて、元の道に引き返すなら、赦しは有効です。道を外して違う道に行ってしまった人は当然に裁きを受けますが、最も悪質なのは、道を外していないと装いながら、異なった道を示し、人々をそれに誘導する人です。これらこそ、「聖霊を侮る大悪人」でしょう。

 三〇節・三一節では、「『復讐は我にあり。我が報う。』と言い、『主が民を裁く。』と言うを我らは知る。生ける神の手に陥るは恐ろしい。」と結ばれています。

 神が「復讐は我にあり」と言うのは、民が勝手に復讐することを留めているからです。罪人の世界である人間社会においては、不法・不正が横行し、殺人・傷害・暴力、詐欺・窃盗・横領、名誉毀損・信用毀損・営業妨害など、犯罪行為や不法行為が行われ、ズルや嘘が日常茶飯事です。「やられたらやり返す」というのが、古来の法理なのですが、神は敢えて、被害を受けてもやり返すなと命じます。見苦しい復讐合戦が展開されることを望まれないからです。その代わり、その保障として、「復讐は神にあり」なのです。

 全知全能の神が落とし前をつけてくれるのです。適正妥当な報復、文句の言えない復讐です。聖書では「倍返し」が基本なので、決して軽くはありません。人間にはある遠慮や躊躇もありませんから、厳しい報復となるでしょう。道を外して陥る恐怖、計り知れません。故に、悪魔に支配された世の論理に従うのではなく、主なる神の言葉に従って、各自に定められた道を着実に歩むのです。 基督者の信仰、どうあるべきか考えていきましょう。


8月18日 「平和と繁栄の中での信仰」 Uペテロ3311

Uペテ3:3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
3:4
次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
3:5
こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
3:6
当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
3:7
しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
3:8
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11
このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

イギリスはEU離脱の不景気の怖れがあるのかと思っていたら、人々は繁栄を喜び、家族や仲間たちとの交流を楽しんでいました。レストランはロンドンでは違いが大きくありましたが、地方ではどこも美味しかったです。暑くない、ということが大きな財産でもあることがわかりました。日本に帰ると逃げ出したくなるからです。

 人気のミュージカル「ウィキッド」も見ました。肌が緑色の故にwicked(邪悪な魔女)とされた意志の強い善良な女性の物語で、「オズの魔法使いの裏話として造られたものです。肌の差別や動物虐待を取り上げ、善人が支配者によって悪人にされ、ハッピーエンドに終わらないのが特徴です。

 日韓関係も悪化する一方ですが、最近、韓国の研究所で、反日を操作・教育して都合よく国民を統制してきたと告発する本が出て話題になっています。ともかく、世界中で歴史的にも、国民を操作するために、偏見や洗脳がされているのです。

 中国では、キリスト教が国家の管理を損なうとして介入が激しくなっており、数千の公認教会から十字架が撤去され、共産主義のスローガンを礼拝の初めに唱えることが義務付けられました。非公認教会の指導者は、「政権転覆扇動罪」で拘留されています。

 日本ではどうでしょうか。謙韓意識が強くなることによって、日本人が韓国に対して敵意や偏見を持つことは、それだけで思想統制の罠に入っています。他にも、高齢者の運転、年金不安、健康志向、ニート化(職業、就学などをしていない人)、美食追求、快楽追求など、メディアと政策によって、私たちが惑わされ、適切な判断ができなくなることは多いのです。

 世界的には、政府の介入、文化の影響、快楽追求、などを嫌悪した人々は、意図的に自然志向、田舎思考、家族や仲間との交流思考、などに流れているようです。それでは、宗教はどうなのか、というと、宗教の世俗化、信者や指導者の退廃によって、信頼されなくなっていることが事実です。教会が伸び悩んでいる、ということは、伝道とか、企画とか、建物などというよりも、信者や牧師の聖さ、霊性が落ちているということが大いに関係していると思われます。つまり、この世に負けているのです。

 「終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し」(3)とあるのは、神を信じているという私たちが堕落しているから、未信者は安心して「欲望に従って生活」するのです。韓国批判や日本批判、或は文明批判を通して、「聖い生き方をする敬虔な人」(11)であろうとする敬虔さを失ってしまうのです。

先週、櫻井先生が、「自分の運命は自分で切り拓くべきだと教えられていますが、完全に誤っています。」と語られました。その通りです。自分の判断で生きていると思い込んでいますが、実は、この世の洗脳の中で生きているのです。肉の欲とサタンの惑わしに操られているのです。

 それではどうしたら良いのでしょうか。日々、多くの時間を御言葉である聖書に聞き、祈り、聖霊に満たされることを求める以外にはないのです。

 イギリスをはじめ世界中で家族の愛と交流が大事にされています。それは、信仰者でなければ家族以外には拠りどころがないからです。仕事や地位、そして富も、幸せには大きく影響しないことがわかってきました。ところが、家族が大事だと思えば思う程、家族に対する期待や要求も強くなり、愛し合うことができなくなってしまうのです。

 それでは、その限界に至って、神を求めるでしょうか。神は「あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(9

 ところが、人は簡単には悔い改めるものではありません。「悪いことをする者は、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、光の方に来る。」(ヨハネ3・20)。「あざける者」は、「教会が聖められていない、正しくない。」などと言って、自分の不信仰を正当化します。それは、神の裁きが相対的ではなく、絶対的なものであることを知らないからです。そして、教会の中にいる聖められていない人々も、神の基準を相対的なものとみなす傾向があります。それを「不敬虔」(7)と言うのです。

 イギリスの牧師は30代前半で、教会員が少ないことを気にしていました。司会から全て自ら取り仕切り、説教は1時間以上でした。礼拝後、教会員は、私の娘たちに、「説教はわかった? 難しくなかった?」と気遣っていました。まだ牧会4年ほどの牧師を取り巻く二人の温厚な長老と優しい教会員に、神の教会の優しさを感じました。あのしつこく長い説教を、私も若い時に語っていたように思います。間違ってはいませんが、もう少し穏やかに、例話を入れて話せば良いのにと思いながら、周りを眺めると一生懸命理解しようとしています。教会員は、未熟な牧師を「あざけっていません。」確かに、福音的な教会です。非難批判する人は、神の裁きに立ちおおせません。


8月25日 「神の国の中に生きる。」  ルカ172033

ルカ17:20 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
17:21
『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
17:25
しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。
17:26
人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
17:27
ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
17:28
また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、
17:29
ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
17:30
人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。
17:31
その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。
17:32
ロトの妻を思い出しなさい。
17:33
自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。

終末には、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉と地震が起こります。」(マタイ24・7)とあるように、生活レベルや文化水準が向上しても、争いは激しくなる一方です。豊かになれば争いはなくなると考えられていましたが、平均レベルは上がっても、富の格差は広がるばかりです。自給自足経済の崩壊と情報の収集により、落ち着いた暮らしは難しくなり、人々は、政府や大企業の援助なしには暮らせなくなり、不満が蔓延するようになりました。

 モバイル端末を持つ人は50億人を超え、欧米では80%くらいの人々が保有しています。スマホは、連絡・情報・決済だけでなく、娯楽にもなり、誘惑や犯罪の元にもなっています。偽情報、作為的な情報統制により、人々を操ることも容易になってくるわけです。

 自給自足経済の崩壊ということは、物を購入し、更に輸入輸出がなければ生きていけない人々が多くなり、会社や産業の崩壊によって直ちに生活困難になるということです。

 飢饉は、温暖化により激しくなる一方であり、砂漠化が進み、食料生産が間に合わなくなるからです。過去の飢饉とは全く別物であり、化学合成で食料を生産するなどということは、商品経済の観点であり、貧者には関係ないものなのです。

国家間、民族間、貧富の差、条件の差などによる争いは、間違いなく大きくなります。つまり、社会は崩壊の一途を辿っているということです。

 「そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24・10.11)。家族が核家族化し、さらに団らんもなくなって、人が成長する間に、愛され愛するという経験が無くなっていきます。最近は、情報ばかりが錯綜し、実際に人と接し、交流するということができなくなっている人が多くなっています。ファッションやマナーを身に着けても、赦し合い、助け合い、話し合うという単純な人としての交流ができなくなるのです。だから、簡単に裏切り、憎むということが起こるのです。

 「にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」(マタイ24・11.)。人との交流がなく、体験もアドバイスもなくなると、理想を追い、簡単に騙されるようになります。ある国の王女が霊媒師と恋人関係になったそうです。宗教も、商売も、学校も、経験の少ない人々を簡単に騙せるようになるのです。

今日の聖句は、それらがノアやロトの時と似ていると言います。ノアの時も、ロトの時も、「人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていた」のです。つまり、普通に生きていて、神のこと、誠実に生きること、神の国に備えることなどは、無視していたのです。

信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、」(へブル11・7)とありますから、私たちも聖書を読んで警告を受けたら、箱舟である教会を作り上げることに専念することが必要です。ロトは、神の恵みの故にソドムの裁きから救われました。しかし、ロトの妻は、恥ずべき生活を忘れがたく振り返り、塩の柱となりました。ロト自身も、聖書的な生き方を身に着けていないために、恥ずべき人生を歩むことになります。

 私たちは、信仰者として日々の生活をチェックしなければなりません。

 例えば、夫婦で言い争いがあるとしたら、祈りも御言葉も聖霊の導きも求めていない証拠です。赦せない人がいても同様です。思い煩いや苦しみは、残念ながら、神にある歩みをしていないからです。

 責めるわけではありません。人間が罪深いということは、元来人間は、そういうものであるということです。但し、それを当然なものだと思ったら、神の国は、あなたの中にはないのです。罪深く、自己中心で、悩みも苦しみも多い、この世からの助けを求めるならば、あなたは神の国に入るのです。

 中途半端ではいけません。その国を出て、他の国に入るには、パスポートが必要です。最低限、洗礼を受けていない人は、神の国に入ることはできません。パスポートを持ったら、実際に国を出る行動を起こし、手続きを踏んで出国し、飛行機などに乗らなければなりません。この世を出ることを望まなくて、神の国に入ることはできないのです。

 人・組織・国に期待して不平や不満を漏らすのは、この世に固執しているからです。クリスチャンならば、この世での成功や栄華など、神の国に生きる為ならば、金繰り捨てる意識が無ければなりません。この世での幸せさえも、神の国よりも求めると罠に陥ります。それが欲望というものです。

 私自身は、多くの面でうまくいっていると思われるでしょう。ただ、それは年月を経た神のしもべとしての自己訓練と、神の栄光の為にという意識の中での積み重ねであることを知っていただきたいのです。いつでも、神に従い、殉教することも、富を献げることも覚悟しております。


9月1日 「主は慈しみ深く、恵みはとこしえまで」  エズラ記3713

エズ3:7 彼らは石切り工や木工には金を与え、シドンとツロの人々には食べ物や飲み物や油を与えた。それはペルシヤの王クロスが与えた許可によって、レバノンから海路、ヤフォに杉材を運ぶためであった。
3:8
彼らがエルサレムにある神の宮のところに着いた翌年の第二の月に、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアと、その他の兄弟たちの祭司とレビ人たち、および捕囚からエルサレムに帰って来たすべての人々は、【主】の宮の工事を指揮するために二十歳以上のレビ人を立てて工事を始めた。
3:9
こうして、ユダヤ人ヨシュアと、その子、その兄弟たち、カデミエルと、その子たちは、一致して立ち、神の宮の工事をする者を指揮した。レビ人ヘナダデの一族と、その子、その兄弟たちもそうした。
3:10
建築師たちが【主】の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって【主】を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。
3:11
そして、彼らは【主】を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、【主】の宮の礎が据えられたので、民はみな、【主】を賛美して大声で喜び叫んだ。
3:12
しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。
3:13
そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。

紀元前742年頃、名君ウジヤ王が死んだ年に、イザヤは神殿に満ちている神の幻を見て「誰を遣わそう。」という主の声に応じ、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6・8)と預言者に任命されました。この後、北イスラエルへのアッシリヤの征服と捕囚が始まり、紀元前721年には殆どのイスラエル人が捕囚され国は滅びました(U列王記17・6)。

 イザヤは紀元前690年頃に死んでいますが、イザヤ書44・28〜45・1に「主は、油注がれた者クロス」と紀元前539年にバビロニア帝国を征服したペルシャの王クロスを名指しで預言しています。それ以前、紀元前586年頃、エルサレムはバビロニア帝国のネブカドネザルによって占領されて南ユダ王国も滅び、ユダ人もバビロンに捕囚されています(U列王記25章)。

 ペルシャの王クロスには、バビロニア帝国から引き続いてダニエルが宰相を務めていました。ダニエルは、「ユダからの捕虜のひとり、あのダニエルか。あなたの内には神の霊が宿り、また、あなたのうちに、光と理解力と、優れた知恵のあることがわかった、と聞いている。」(ダニエル5・13.14)とバビロニア帝国のベルシャツァル王に言わせています。ところが、ダニエルは、その父ネブカデネザル王が高慢になったが故に狂人となり、「ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころに適う者をその上にお立てになることを知るようになりました。その子であるベルシャツァル。あなたはこれらのことをすべて知っていながら、心を低くしませんでした。」(ダニエル5・21.22)と王を戒めています。そして、その夜、一夜にしてバビロニア帝国は滅び、メド・ペルシャ帝国がバビロンを支配し、そのままダニエルは宰相に留まったのでした。

 「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。 1:3 あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、【主】の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」(エズラ1・1-3

 エレミヤも捕囚前後の紀元前627年頃から583年頃まで活躍した預言者ですが、バビロンからの解放を預言したのです(エレミヤ25・11.12)。

クロス王は、170年以上前の聖書に自分の名前と果たすべき使命が記されているのに感動して、このユダヤ人解放令とエルサレム再建命令を出すのです。但し、これはダビデ王の子孫と南ユダ王国に関してであって、信仰を捨てた北イスラエル王国は、世界中に離散したままになっているのです。その一部が中国に辿り着いたとか、アフリカに移住したとか、日本にも来たなどという伝説はあります。

 このようにして、奴隷から解放されただけでなく、十分な資金と援助をされてエルサレム再建を始めたのです。老人たちは、約50年前に破壊された神殿の栄華を知っているので、その廃墟とこれまでの苦労を思い「大声をあげて泣いた。」他の人々は、新しく始める祝福の歩みを思い、「喜びにあふれて声を張り上げた。」(12)のです。

 エレミヤの預言には、「70年」とありますが、それは第一回捕囚の紀元前605年から解放令の出た536年までですが、その意味合いは王政によって税金を払うためにイスラエルの土地に7年に1年の安息年が無くなったことの強制安息であると、U歴代誌36・21に書いてあります。それは、律法的には安息日を守らず、礼拝を守らない人には、強制安息の病気や動けなくなる日々があるという意味にも取れます。また、什一献金をきちんとしていない人に対する罰則的な損失があるとも受け取れます。恵みと福音の時代に、そのようなことは気にすることはないという教えもあります。

 私自身は、そういうことは自分で判断するしかないと考えております。ただ、信仰というものは、自分勝手に思惑をもって生きる人には、神の祝福は注がれないのです。「慈しみ深く恵み深い」神を体験するのは、信仰によって生き、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、苦労を逃れて安易な人生を生きるということをしなかった人であると思います。

 楽な信仰生活を願い、子育てを重視して教会を離れた人が、安易なネット情報をもとにカルトの教会に行っていることがわかりました。いろいろな理屈を付けて教会を離れた人々の為に執り成しの祈りは尽くしていますが、うまくいっているという情報を受けたことがありません。

 今なお、多くの願いがあり、祈りがあります。魂の救いに導くために、嘆きと苦しみの日々が続きます。しかしなお、「慈しみと恵み」は、常に頂いており、主にある信仰を喜んでおります。打算の信仰には、喜びはありません。神は全てをご存知です。


9月8日 「麗しく老いる為に」  創世記245867

創世記 24:58 それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります」と答えた。
24:59
そこで彼らは、妹リベカとそのうばを、アブラハムのしもべとその従者たちといっしょに送り出した。
24:60
彼らはリベカを祝福して言った。「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」
24:61
リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人のあとについて行った。こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。
24:62
そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのである。
24:63
イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。
24:64
リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、
24:65
そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。
24:66
しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。
24:67
イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。

今日の聖句は、聖書の中でも最も麗しい夫婦となる男女の出会いの場面です。大事なことは、どのようにして、この麗しい出会いとなったのか、そして、この後はどうなったのか、ということです。

 さて、日本の人間関係は、外側重視であり内側に対して、締め付けや拘束、そして要求が強くなるように思われます。レストランや店の従業員に対しては愛想が良く、家族に対しては厳しい夫婦をよく見かけます。熟年離婚の原因をネットで見ますと、女性側は毎日家に居る夫の嫌な所、家事ができず、要求ばかりすることに嫌になるようです。最近は、夫の側からの離婚の申し出もあり、妻が自分を大切にしていない、文句ばかり言うなどということがあるようです。

 離婚の決心は、子どもが成人したから、離婚しても経済的にやっていけるから、老齢の親の世話が大変だから、などということもあります。他に好きな人ができたから、などということもありますが、結婚した人と仲良くできなかったのに、次の人ともうまくいくはずもないようです。離婚後は、男性では料理ができなかったり、面倒くさがったりして早死にする率が多いようですが、女性ではあまり関係ないようです。そして、世界的に見て、家事をしない夫との離婚率が高く、夫婦で家事を分担する場合には、あまり離婚をしないようです。

 昨日は、大学の同窓会に行きました。語ることは仕事の話ばかりで、退職したのに過去の仕事や酒飲みのこと、遊びのことです。これでは男同士集まるのは楽しいだろうけれど、妻たちはどうしているのかと心配になりました。感想を言うと、男は自分勝手な存在だ、ということです。それでは、女性はどうかというと、結婚当座は夫やその仕事のことを気遣い、子育てにも専念したけれども、そのうちに愛の無い現実に気が付き、やはり、自分勝手になっていったというところでしょう。

 このようなことは、誰でも気が付いています。私は、それが聖書的ではない考え方や風習に基づいているということを指摘するのです。アジアでは男尊女卑が強いですが、その他にも尊卑や上下関係などを強調することが多いです。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マタイ20・26)とイエス様は言われました。韓国を見ていると「指導者は何を言っても下の者は従わなければならない。」という儒教的な尊卑の考え方が強いように見受けられます。それでは、指導者は堕落してしまいます。夫も、親も、先生も、上司も、話し合いや交流の中で物事を為していこうというものがなければ、苛立ちや不満が残ります。夫婦の不仲も勝敗思考が大きいように思います。

 聖書の教えは、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会の為にご自身を捧げられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5・25)とあるのに、日本の風習に従って、威張り、命令し、妻を労わり愛することをしない夫たちが多いのです。「妻もまた、自分の夫を敬いなさい。」(5・33)をしないのです。

私自身は、結婚以来39年、神の命令として、妻を労わり愛するように努めてきました。多くの人が愛を感情的なものであると誤解しています。聖書における愛は、状況や相手に左右されず、感情や損得に基づかず、相手を聖書の教えに基づいて愛することを意味します。私は、毎日の祈りの中で、妻を愛しているか、傷つけてはいないかをチェックします。そして、聖霊によって導かれながら、自分の行動を吟味し、変えていくのです。そして、自分でもすっかり人格が変わり、行動も変わってきたことを感じます。「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」(Uコリント5・17

他人を変えようとすることは傲慢なことです。妻もまた他人ですが、聖書は、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。」(エペソ5・28)とありますから、変えようとせずに愛すれば良いのです。愛の報いを求めることが、愛とは言いません。

老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。」(テトス2・2-5

 高齢者の方々が、この聖句のように自らを戒めれば、間違いなく平安を確保し、神と人から祝福を受けます。他人に対する要求を繰り返すならば、それは罪びとの報いを受けます。「罪の奴隷であった時には、あなたがたは義については、自由に振る舞っていました。」(ローマ6・20)。この世の人々のように不平や不満を漏らしてはいけません。遠い人、関係の無い人に優しくするのは簡単です。最も身近な人を愛することができるならば、どんな人も愛せるようになります。イサクとリベカは一夫一妻制を守り、二人仲良く信仰生活を守り、豊かな人生を過ごしました。出会いの時は未熟であっても、その後も罪びとであっても、或は、伴侶がいなくても、自らを戒めて生きるならば、神のことばがそしられることはなく、幸せになるでしょう。


9月15日 人々の為に労苦しています。」  コロサイ4213

コロサイ4:2 目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。
4:3
同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。
4:4
また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。
4:5
外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。
4:6
あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。
4:7
私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう。
4:8
私がテキコをあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためにほかなりません。
4:9
また彼は、あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモといっしょに行きます。このふたりが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう。
4:10
私といっしょに囚人となっているアリスタルコが、あなたがたによろしくと言っています。バルナバのいとこであるマルコも同じです──この人については、もし彼があなたがたのところに行ったなら、歓迎するようにという指示をあなたがたは受けています。──
4:11
ユストと呼ばれるイエスもよろしくと言っています。割礼を受けた人では、この人たちだけが、神の国のために働く私の同労者です。また、彼らは私を激励する者となってくれました。
4:12
あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。
4:13
私はあかしします。彼はあなたがたのために、またラオデキヤとヒエラポリスにいる人々のために、非常に苦労しています。

台風15号は凄いものでした。風速57.5mは、木も電柱もなぎ倒しました。7月に作った櫓に太陽光発電システムを付けたので、隣の家に電気を通したり、クリニックの発電機を2台持っていきましたが、6日経っても電気は繋がらず、道路は不通が多くあります。

 災害の時に感じることは、自ら災害に対処する人が少なく我慢を続ける人が多いということです。政府や東電の対応の遅さを非難する人もおりますが、日本の企業の優秀さと働いている人々の勤勉さに感心します。日本は平和であり、社会基盤がしっかりしているわけです。外国に行くと駅員はおらず、サービスも悪く、機械化・IT化が進んでいて、自らよく考え準備しないと目的地に着くこともできません。日本のサービスの過剰化が、世界水準では不合理な組織や働きとなり、却って設備の維持ができなくなってしまい、人が弱くなるのです。

 自らの判断で生きる、仕事をする人が少ないことも気になります。災害や事件事故の時、敵や悪人と遭遇した時に、何もできないで被害者となるのです。組織や上司の判断に任せていたら、確実に支配され、敗北します。社会は危険なものへと悪化しているのに、無防備です。

 聖書が終末を預言します。自然災害も悪化の一途を辿るでしょう。今回の台風についても、備えていなかった人は多くの被害を今後の災害で受けることになるでしょう。人の安否を気にせず救援もなにもせず、興味としてテレビを見ていただけの人は、災害の時に自らは助けを受けられると信じているのでしょうか。まさに、自己中心です。

 「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」(ルカ10・25)。『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」(10・27.28)人々はこの教えを実行しようとしていないので、イエス様は良きサマリヤ人のたとえ話をされました。(ルカ10・30-37

 強盗に襲われ、着物をはぎ取られ半殺しの目に遭わされて倒れている人がいました。通りがかった祭司もレビ人も、関わり合いを避け、助けもせずに反対側を通り過ぎていきました。ところが、見下され、罪びとであると非難されているサマリヤ人は、「彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。

 

 イエス様の言われる「隣人」とは、決して家族でも近所の人でも知り合いでもありません。この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」(10・36.37)。面白いことに、「憐れみ」の心篇をこざと篇に変えると「隣り」になるのです。こざと篇は、丘を意味し、豊かな地形を示したそうですが、心が伴わないと隣人にはならないわけです。

 クリニックには発電機だけではなく、救援用の食料や水、その他が備えられており、いつでも災害救助できるようにしており、今回も被災者に教会の3階の提供を申し出ています。自らの得た収入の一部をそのようなものに備えるのはクリスチャンの義務であると考えております。妻もまた、木曜には無料診療をしに長柄に行きました。人が労苦に遭っているのを知ったら直ちに救援に動く準備をしておく、ということをすることこそ、「永遠のいのちを自分のものとして受ける」のです。そして、そのような愛と憐れみを保持していることこそが、信仰者の真実のしるしなのです。その為には、目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」(4・2)が必要です。

 「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。」(5)ということは、伝道を心掛けていたら当然なことです。愛があれば、そのことは当然な行為として人を助けようとするのです。

 「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。」(6自分の言動について、御霊に導かれ満たされていたら、不注意な、或は無関心・無感動な言動はなくなるのです。

 7節からの忠実かつ献身的な信者への賞賛は、教会の奥義である愛による助け合いを示しています。教会というものは、この世の付き合いの場ではないのです。神の家族であり、その愛による非常な労苦」によってこそ、「完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができる」(12)ようになるのです。


9月22日 「慈しみ深い神」  Tペテロ2311

Tペテロ 2:3 あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
2:4
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
2:6
なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
2:7
したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、
2:8
「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
2:9
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
2:10
あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。
2:11
愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

 慈しみ深き 友なるイエスは、罪咎憂いを 取り去りたもう 

  心の嘆きを 包まず述べて などかは下ろさぬ 負える重荷を

慈しみ深き 友なるイエスは われらの弱きを 知りて憐れむ

  悩み悲しみに 沈めるときも 祈りにこたえて 慰めたもう 

慈しみ深き 友なるイエスは 変わらぬ愛もて 導きたもう

  世の友われらを 棄て去るときも 祈りにこたえて 労りたまわん
                   讃美歌312番(聖歌607番)

 ウィリアム・ウッド先生の機関誌にこの讃美歌の由来が書いてありました。アイルランドの牧師ジョセフ・スクライヴェンが1855年に書いた詩に1868年アメリカ人チャールズ・コンヴァースが曲を付けました。1844年、ジョセフが牧師に就任してすぐ、結婚式の前日に彼の婚約者が落馬して川に落ち溺死しました。1954年にも結婚式の数週間前に婚約者が肺炎で死んでしまいました。失意の中にある母親を慰めるために一年後に書いたのがこの詩です。その後、彼は環境を変える必要があると考えて、自然豊かなカナダのオンタリオ州に移り、病人・未亡人・貧困者に仕え、「人から助けを求められて一度も断らなかった」という「ポート・ホープの良きサマリヤ人」と呼ばれたそうです。

 ダビデに対して謀反をして神罰で地に飲み込まれたコラの子孫が、ダビデ王の時に「天幕の入り口を守る者となった。」(T歴代9・19)とあり、どうも家系としては讃美の奉仕は割り当てられていなかったようです。そして、ダビデの30人の勇士の内に5人の「コラ人」(T歴代12・6)がおり、詩篇の第2巻42篇から49篇は、その説明に「コラの子たちのマスキール」(教訓詩?)と書いてあります。U歴代誌20章には、多くの敵の前で恐れるヨシャパテ王と住民の前で、「コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を讃美した。」(19)とあります。彼らは、自らの罪深さを悟っており、だからこそ、恐れや勝敗に関わらず、救いと神の恵みを感謝して、讃美の声を上げたのでした。

 イエス・キリストとその教えは、「人には捨てられたが」(4・3)、「家を建てる者たちが捨てた石」((7)とあるように、処世術で生きる人や損得で人生を考える人には愚かな教えであり生き方です。「つまずきの石、妨げの岩」(8)なのです。世の中の人の価値観で生き、「それはできなくてもしょうがない。」などと悟っている人は救われていない人なのです。「彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるよう定められていたのです。」(8)。十字架を負わない人に腹を立ててはいけません。神は救われていない人に十字架は負わせないのです。

 今日は、この教会の召天者を記念しましたが、教会やキリスト教式で葬儀を挙げられた人は、教会に最後までつながっていた人です。奈良幸子姉の突然の事故による召天は、私達には衝撃でしたが、後になって、あの葬儀を通じて救われ敬虔なクリスチャンになっている人がいたことを知り、感謝でした。田中兄の死も残念でしたが、母教会からの問い合わせで詳細がわかり記念会をすることになりました。ある人は、教会を離れ、酒を飲んで酔っ払っては集会来て、後ろの席で寝ていました。死んだ後、遺体が教会に運ばれて翌日葬儀という真夜中に葬儀社が来て、教会ではしたくないという母親の指示で遺体を引き取って生きました。私は、告別説教をどのようにしたらよいのか苦しんでいたのでホッとしました。

 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル9・27)とありますが、私は死ぬ前と死にざまにも裁きがあるように思います。「しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカ12・20-21)。

 私が感じることは、魂の救われていない人は、生き様が処世術で判断したものであり、教会に対しても損得で考えています。「つまずきの石」につまずくようになっています。特に、礼拝出席と献金で、その人の信仰姿勢はよくわかります。裁くのは神ですから、私はそういうことにはとやかく言わないことにしていますが、根本的には魂が救われているかどうかが、生きているうちにわかります。救われていない人は、必ず教会に来なくなり、言い訳をするのです。「たましいに戦いをいどむ肉の欲」に負けるのです。

 そういう躓きの石は、誰にも感じることです。しかし、信仰者はそれを乗り越え、むしろ積極的自発的に献身的な人生を送ります。それは、罪、つまり自己中心な存在である人間に、神の救いが現れた印であり、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざ」(9)以外のなにものでもありません。

 忍耐をもって信仰生活を送る人以外には、「主は慈しみ深い。恵み深い。」とは言えるものではありません。大事なことは、無理して信仰者らしく振る舞うことではなく、実際に神の前に自己中心の罪を悔い改め、救いを体験することです。


9月29日 「尽くさなければ自我は破れない。」  マルコ122734

マルコ12:27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」
12:28
律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
12:29
イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
12:30
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
12:31
次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
12:32
そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。
12:33
また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
12:34
イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。

私が信仰者として最も注意していることが「尽くしているかどうか。」です。人は安逸を貪りたく、また無理をしたくないものですから、それを自己中心と呼び、そして、余裕があると人は堕落するものです。

 昔、ノミの実験を見たことが忘れられません。ノミは数ミリしかないのに、1mもジャンプできるそうです。しかし、透明なガラスの瓶にノミを飼い、ノミが高く飛び上がるとガラスの蓋にぶつかるようにします。何度も痛い思いをしたノミは、蓋を開けても高く飛び上がることをしなくなります。私は、貧しく文化的な環境ではない家庭に育ったので、潜在的な劣等感があることに気が付いていました。中学の時に、どんな恥をかいても、それで心が委縮したら一生後悔するだろうと悟り、自己の改造を決心したのでした。そんな私が、大学受験に失敗し、遊びを覚えた頃から、人生の希望と向上心を失いつつありました。

教会に導かれ、この「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛しなさい。」という聖句を読んで、「尽くすべき人生を見つけた。」と感動したのです。能力の限界、時間の制限、貧しさ、人々の反対、常識や慣習に囚われる人の無気力、そのようなものがいつも、私の行く手を遮りました。そんな時、祈りの中で自問しました。「この行動、この働き、この思いは、私の欲なのだろうか。」

その答えは、「忍耐できるかどうか。」であることに気が付きました。試練の中で私が燃え尽きてしまうならば、私の行動は我欲、罪に基づいてのものです。「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」(Tペテロ1・7)。

 最初の会堂を借りる為に不動産屋を50軒ほど回りました。次の会堂は10日間断食しました。次は、生活費がなくなるほどの献金を続けました。次の会堂は、殉教を覚悟して後任の牧師が来られる家賃のものでした。この会堂は、7か月の間、朝夕に祈りに来て与えられました。次の会堂がないとは考えておりません。

 次男の非行の解決には5年の忍耐がありました。その他、いつも尽くして生きています。それは、祈りの中で、人の堕落の原因は、殆ど「尽くすことを止めるから」であることに気が付くからです。私は、堕落した人を責めたり怒ったりすることはありません。終わりのない執り成しと苦しみの祈りが続きます。「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(ローマ15・30

「時間があったら祈る。」「導かれたら伝道する。」「お金があったら献金する。」「人助けをするほどの余裕はない。」「人には干渉するものではない。」・・・、すべて罪びとの論理です。そんな人は、「神の国から遠い。」のです。罪びとというものは、自分の人生を気ままに生きることが願いなのです。神が、そのような人を神の国に招き入れることは決してありません。

 安逸をむさぼるということは、罪であり、それでは心を尽くして神を愛することも、隣人を愛することもできないのです。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。」(ローマ13・9

 パウロは告白します。「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。」(使徒20・19)。「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」(使徒24・16)。

神の祝福、神による奇跡、それは人間の力の限界を尽くして、神を愛し、人を愛している人に十分に注がれるのです。使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で行われた、しるしと不思議と力あるわざです。」(Uコリント12・12

 「そこまで無理をしなくても」、「平安と恵みの中に生きれば、それで良いのでは」、「自分は密かに神に仕え、神を愛していきたい」、・・・などと考える人は、それで構いません。おそらく、そういう人は、台風や災害の中でも、平静に生きていくのでしょう。終末の様相がさらに激しく呈してきても、そのように生きるのでしょう。

 マタイ25章には、主人が来る時、備えをしていなかった愚かな娘たちは「私はあなたがたを知りません。」(マタイ25・12)と言われました。忠実に働かなかったしもべは、「役に立たなかったしもべは、外の暗闇に追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(25・30)。ということになります。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」(マタイ25・44-46