4月7日 「神が受け入れるのは砕かれた心。」  詩編511019節 

51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
51:12
あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
51:13
私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
51:14
神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。
51:15
主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。
51:16
たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
51:17
神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
51:18
どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。
51:19
そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、雄の子牛があなたの祭壇にささげられましょう。

日本では、「変わる。」とか、「強くなる。」などの言葉が使われます。しかし、新約聖書には、「その大能の力によって強められ」(エペソ6・10)という言葉はありますが、「強くなる。」という言葉はありません。つまり、罪びとである人間が強くなるということは、我が強くなり、自信満々となってろくなことはないのです。ところが、クリスチャンでも、「意志が強くなる。」とか、「信仰が強くなる。」ことを願う人が多いのです。

 内から強くなれば、我欲が強くなって、神を信じ神にあって生きることよりもむしろ、自己の成功、成長を願うものになってしまいます。神によって強められれば、神への信頼が強くなり、思うとおりに行かなくても平安や喜びが深くなります。揺るがない霊」とはそういうものであり、「清い心」とは、自らのことに固執しない心です。

 「救い」とは、自分に関する絶望から始まります。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。」(17)とあります。「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12・44)。この女性の献げた150円くらいの金額は彼女の持っている全額でした。どうして生きていけるでしょう。彼女は、自分の算段で生きることを諦めるほど、絶望の中にあり、神に全てを委ね、助けを求めて献げたのです。

 教会に来る動機としては、救いを求めてという人は非常に少なく、そういう人は、そのまま主にあって信仰が成長します。それは、魂が飢え渇き、神の存在を信じ、神による魂の救いを求める願いがあるからですが、そこに至るまでに多くの人生における試練と絶望を体験したがゆえの魂の飢え渇きだと思われます。

 ところが、多くの人は、問題の解決、悩みの相談、宗教心、真理の追究、英会話や欧米の文化への興味、或は面白半分などで教会に来られます。動機はどうあれ、救われる人は救われるのですから、神の導きというものはユニークなもので、動機の良し悪しは、その後の信仰生活と相関するものではありません。つまり、事は神の選びにより、聖霊の導きによるのです。

 「あなたの救いの喜び12)は大きなもので、神を知り、魂の救いを体験すると人生は変わります。そして、「私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。」(13)と伝道の思いに燃えるのです。

 実は、この詩篇はダビデがバテ・シェバと姦淫を犯し、その夫を策略によって殺してしまった後に、預言者ナタンが神に遣わされて、その罪を責めた時のダビデの悔い改めを示したものです。神に選ばれ、忍耐の限りを尽くしてサウル王との敵対を避けようとしてきたダビデが、ようやく王となり、神に賛美して歩んでいたのに、誘惑が襲ったのです。

信仰者の人生は、実は罪との闘いの歩みです。ですから、老若男女、優劣強弱を問わず、人が神の国に行けるかどうかは、この罪との闘いに勝つか負けるかという公平な裁きなのです。誤解してはならないことは、強くなったら勝てるというものではないことです。「信仰が強い。」などというのは能力の問題ではなく、神に委ねる信頼が強く、その故に罪に惑わされないということなのです。ダビデは、「自分は強い。」と思ったとたんに罪に負けてしまいました。

 ダビデの凄さは悔い改めの潔さです。これがダビデをして信仰者として神に褒められるゆえんです。「私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。」(51・3)と自分の罪と誘惑の怖さを認めています。罪を犯さないように気を付けても、罪は、あなたの「目の前にあるのです。

 他人の罪を裁き、非難する人は、自らの前に置かれている罪の誘惑に気が付いていないのです。私は、多くの人が罪に誘惑され、罪を犯すことを見てきました。信仰者と言われる人も、未信者も実は同じように誘惑をされているのです。自ら罪に負けない人は、他人の罪の執り成しをする人です。罪からの解放に助けをする人です。そのようにして罪の恐ろしさを身に染みて悟るのです。能力で罪に打ち勝つことなどできないものです。

 なぜ、「全焼のいけにえ」が「義のいけにえ」なのでしょう。自分の存在が罪あるものとしてのどうしようもない絶望感から神に自らを差し出す覚悟をもって、身代わりにいけにえを焼き尽くすのです。「もったいない。」と思う人は、救いの尊さを理解していないのです。私は自分の収入や財産は殆ど神に献げるものとして意識しています。むろん、自分の時間や能力も神に献げるものとして用いています。

 それでもなお、私の内には罪があり、私を滅びの誘惑へといざないます。祈らなければ腹が立ち、堕落の罠が陥れようと潜んでいます。本当は、人里離れて隠遁生活でもしたい願いもあります。しかし、それこそが罠であり、私の使命は執り成しであり、神のことばの説教であることも悟っています。

 中途半端な信仰者を信頼して罠にはまった人も多く知っております。頑固な信仰で自己管理を怠ったために破綻した人も知っております。自己実現を図り、野望が強すぎて破綻して信仰者たちも知っています。その人たちもまた、神の「豊かな憐れみによって、背きの罪を拭い去って」(51・1)貰えるようにと願います。

 「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。」(17)。結局のところ、人生は自分の罪の大きさとその咎に恐れおののいて、神にすがるしかないのです。自己中心な人々の末路は、街角に立って30分も眺めていればわかります。それは、確かに救いようのないものです。私は、そのようにはなりたくありません。だからこそ、神に仕え働くのです。

 


4月14日 「罪過の生け贄としての十字架。」  イザヤ53412

イザヤ 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
53:9
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
53:10
しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。
53:11
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
53:12
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

先週、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。」(詩篇51・17)を説明しました。日本では、「御免なさい。」と謝れば許されると躾けている家庭が多いようです。そして、申し訳ないと自分の過ちを悟ることが大事だと教育しています。「ごめんで済んだら警察はいらない。」と言われるように、謝罪で済むことと済まないことの違いを教育することも大事です。聖書的には、過ちには罰を科してからの赦しが正当です。むろん、御免で赦されるようなものもあります。

 その罪が社会的なものか、人間関係のものか、神との関係(倫理的なものを含む)のものか、をしっかりとわきまえることも大事です。人の心を傷つけたのに、神に謝罪を繰り返して当人に謝らないのは問題です。社会的な犯罪をしたのに、神の赦しを求めて、それで済むことでもありません。つまり、自分の行動を日々、反芻(はんすう)することが大事です。聖書に反芻する動物は聖いとあるのは、食物を胃から戻して噛みなおすことを繰り返す、つまり、繰り返して考えるという意味合いを持ちます。自分の行動を毎日の祈りの中で思い出して神の前に吟味しないならば、それは聖くないのです。自己吟味しないと、聖くないものが生活と思考に定着して、悪に染まり、立ち返ることのできない悪人になっていきます。

 自分の悪い状態や悩みを人に相談する人が多いのですが、それは自分の正当性を人間によって確認することになる場合が殆どです。罪びとは、神の前に出て悔い改めることや、赦しを体験することができないので、問題と悩みは鬱積してきます。もし、信仰者ならば、多くの問題を神に委ね、為すべきことをコツコツとしていくだけなのです。自分の咎や罪があることが覚悟し、全てがうまくいくことなどないことを認めて生きるのです。信仰者が自らの罪を認め、悔い改めて生きるということは、思うとおりにならない人生を受け入れるということであり、むしろ、人を愛し、神に仕えて生きるのです。

 今日は復活祭の2週間前なので受難のキリストについて語ります。

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2・6-8

 なぜ、神の子が「自分を卑しく」しなければならなかったのでしょうか。人は、すべてがうまくいき、楽をして、思い通りの人生を送りたいと願うものです。そして、人生の落後者をあざ笑い、「彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」(4)非難するのです。自分は罪がなく、神から祝福されたものだから、うまくいっているのだと自慢するのです。イエス様が、「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。人々が、あなた方をののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる時、あなたがたは幸いです。」(マタイ5・3-11)と言われた時、人々は驚きました。

あなた方は地の塩です。世界の光です。」(マタイ5・13.14)と続けられます。この世の生き方と迎合しないから、地の塩であり、世の光なのです。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義に勝るものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(5・20)。

 人がみな、思い通りに生きることを求め、自分の罪咎を覚悟することを避けて生きるので、イエス様は、自ら人となって、全ての人の罪を身に受けて生きることを選ばれたのです。「だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」(8)。

 教会は、神に召しだされ救われた者の集いです。いくら人数が多くなっても、そこに自己実現を図り、罪の欲求を満たそうとする者の集まりであるならば、神の国に行くことはできません。アメリカでは、互いの結びつきを求めて教会に来る人が多く、教会を社会的勢力にして成功しようとする人々が絶えずおります。私は、教会成長運動を批判することはしませんが、自分自身としては、その危険性を憂慮する意識の方が強いように思います。

 その危険性は次の通りです。教会員を増やそうとして、信仰決心や洗礼が安易になる。教会員教育がなおざりになり、教会活動が多くなる。教会員には活動への参加と多額の献金が求められる。教会員の関心は楽しい教会であり、自らの内面を見たり、みことばによる成熟がおざなりになる。牧師に賛同しないことが罪となり、教会活動に参加しないことが非難される。教会員の霊的な結びつきよりも、集会への参加により仲良くなることが重視される。・・・すべてがこういうものではありませんが、教会にしても信仰者個人にしても、欲望による自己実現が当然なものとされます。

 そういう姿と、イエス様の卑しめられ、痛められ、苦しめられた姿の対比はいかがでしょうか。「もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。」(10)。イエス様が、私たちの罪の身代わりに罰を受けて下さったので、私たちが魂を救われ、信仰者として今あるのです。

 イエス様は「自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」(11)。私たちも思い通りにいかない人生に満足しようではありませんか。「重くともなれが十字架、荷いゆけ笑みもて」とイエス様の後についていこうではありませんか。イエス様が罪びとの罪咎を担ったので、「多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕りものとして分かちとる。」(12)のです。自分の思い通りの人生を過ごしても、魂を救いに導くことは難しく、思い通りでない人生を喜んで生きることによって、世の光として輝くことができるのです。

 


4月21日 「復活の意味」  マタイ28110

マタイ28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
28:2
すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
28:3
その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
28:4
番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5
すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
28:6
ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
28:7
ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
28:8
そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
28:9
すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
28:10
すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです」

復活祭がキリスト教の最大のお祭りであることは知られています。でも、その意味することを悟っている人は、自称クリスチャンでさえ少ないように思われます。イエス・キリストが復活されたということを、神話やおとぎ話のように考え、或は単に凄いことと見なすならば、それは復活の主との交わりのない証明となってしまいます。

 弟子たちには、何度もイエス様は「ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(マタイ16・21)けれども、実際に十字架に掛かられても逃げてしまうし、復活の証拠を示されても信じないありさまでした。しかし、実際に復活の主が「四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒1・3)ので、命がけの伝道をし、自ら十字架に掛かるような殉教をしていったのでした。

 ところが、そのような超自然な話は、茶飲み話としては良いけれど、実際に信じるとなると現実性を欠いて、笑い者になります。そのようなことが実際には、信仰者の試金石になるのです。

 「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」(ルカ20・38)とは、この地上で肉体にあって死んだ者も、天国或は地獄で生きている、ということを意味しています。聖書は、人が死んだら無になるとは書いておりません。

日本人は、「どうせ死ぬなら。」と言いますが、それは「無になるならば、自分の満足の行く人生を送りたい。」という意味です。その満足が、立身出世であり、気ままに生きることであり、長生きをして楽しむことかもしれませんが、それは裁き主を知らない人の生き方です。「死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです。」(Tコリント15・32

義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」(使徒24・15)。私自身は、牧師として教会員が間違いなく神の国に行き、そして永遠の復活に与る者になって欲しいと願っております。しかし、確かに、偽りのクリスチャンがいるのです。「悪人も必ず復活する。」ということは、悪人には厳しい裁きが待っているということです。ところが、未信者と同様に、この裁きの厳しさに気が付かないで、誤魔化しの信仰生活を送っている人々がいるのです。ところが、魂の救われた人々は、「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしてい」るので、悪人にとっては居心地の良いのが教会なのです。

夫婦、親子でも信仰者は、救われていない家族に対してどうにか信仰をもって欲しいと願い仕えます。しかし、「妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。」(Tコリント7・16)とあるように、優しく対応することによって、信仰を見くびる人に対しては却って害になります。私の説教が厳しいのは、真の信仰者にはその真摯な信仰を貫く励ましになり、偽りの信仰者には、甘えを断ち切って悔い改める機会を提供する為です。おこがましいですが、愛に満ちたと言われるイエス様のお言葉は偽りの信仰をもつ人々に対しては、非常に厳しいものでした。

「王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』(マタイ25・41

 このように死後の裁きを厳しく何度も警告されておられたイエス様が、復活されたのです。復活は、肉体の死にも勝利されたしるしです。そして、裁きが現実のものであるしるしです。むごたらしい十字架の死が神の愛のしるしであり、喜びの復活が神の裁きの予告なのです。

 「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり」(Tコリント15・14)、「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(同15・20)、「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。」(同15・34)、

 もし、あなたが魂の救われた真の信仰者であれば、たとえ、家族が罪びとであり危害を加えようと、あなたの職場や学び舎で悪人が牛耳ていても、あなたが艱難辛苦に遭おうと、問題ではないのです。

 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。



4月28日 「いのちの道を知る。」  詩篇16111

詩篇 16:1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。
16:2
私は、【主】に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
16:3
地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。
16:4
ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。
16:5
【主】は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。
16:6
測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
16:7
私は助言を下さった【主】をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。
16:8
私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9
それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
16:10
まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
16:11
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

水曜と木曜に藤巻師の母上の葬儀がありました。仲の良い91歳と88歳の両親を中心に性格の良い、教養もある家族を形成していて感心しました。残された父上は、愛し合っていました、と涙ながらに告白していましたが、神の国の説教を良く聴いてくださり、その後は火葬場でも涙を流していませんでした。母上は死ぬ直前に罪を悔い改めて、信仰を告白されたそうで、その足跡から察するとありうると判断しました。

 「聖徒のは威厳があり」(3)とあるように、信仰者は確信をもって生きることが大事です。偉ぶるのではなく、自分の業績を誇るのでもなく、「威厳」とは、その人の信念を持った歩みから形成されます。

自分の栄達や成功を求めた偶像の「神に走った者」(4)は、軽薄です。同様に、クリスチャンといえども、栄達や欲望を神に求める信仰者は軽薄です。聖書の教えは、如何に生きるべきかの「助言」が詳細に記されており、その「助言をくださった主をほめたたえる。」(7)のです。

 「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」(へブル4・2)とあるように、いくら説明され、教えられ、救いや奇跡を体験しても、自己中心な人々は、真実な悔い改めができないので、救われないのです。

信じた私たちは安息に入るのです。『わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。』」(へブル4・3)とあるのは、例えば聖書を良く知っているパリサイ人や律法学者に対する怒りでした。同様に、聖書を読んでも自己中心な人々は、自分をみことばによってチェックし、悔い改めて自らを聖霊の導きに委ねるということができないので、関心は自分の内面ではなく、外面的なものや人の評価などになってしまい、深みのある自己形成ができないのです。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(へブル4・12.13

 ところが、不思議なことに、罪びとは、このような聖句を読むと、神の前に恐れおののくだけで、悔い改めるということができないので、「いのちの道を知る」ことができず、神に近づくこともできないので、「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」とは言えないのです。

 木曜の朝、CTスキャンで検査すると身体の状態がよくわかりました。体調が悪くなった5年前から「悪化はしていない。」ということでしたが、「それほど良くもなっていない。」とのことでした。肝臓に液体が溜まった肝嚢胞が幾つかあり、腎臓や血管にも小さな石灰化が見られ、前立腺も少し肥大、心配した胆石は腫瘍を起こしていない、などで、尿酸値を高くしないようにとのことでした。妻の方は、順調と言われ、喜んでいます。

 まるで、裁きの座に着いたようでした。悔い改めて節制し、健康管理をしていたのですが、まだ悔い改めが足らないようです。妻の方は、相変わらずよく食べ、節制している私を誘惑するのですが、少し差別も感じます。しかし、この節制の習慣は、心身共に私を健全にしていることは事実なので、やはり、妻の誘惑には乗らないようにしようと思っています。

 罪というのも、おなじようなものです。CTが私の身体をスキャンするように、聖書のことばは、私たちの「たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」。金属があるとスキャンできないのですが、どうも罪びとは、神のスキャンを信じていないように思われます。誤魔化せるはずもないのに、誤魔化し、言い逃れもできないのに、弁解を繰り返します。

 みことばのスキャンを受けて、しっかりと自分の罪や弱点を確認したら、治そうと決心することが大事です。治療方法を教わり、毎日こつこつと薬を飲み(聖書をしっかりと読み続け)、運動を続け(伝道や証しをし、人を助ける)、健康な食生活(信仰者としての健全な生き方)を保つのです。

 子供たちは、お父さんがいなかったら、お母さんは生きていけないだろう、と皆が言います。確かに、世間知らずで注意欠陥障害、人が良くて騙されやすく、大食いで節制が苦手な妻は、私がいなかったら破綻するでしょう。私が「いのちの道」を教え導いているようです。

 教会とは、そのようなものです。「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(11)。共に歩み、手を取り、導き、教え、守り、そして、信仰の先輩が、「いのちの道を」教えていくのです。

 たとえ、悲嘆するようなことがあり、暗黒な人生を過ごしてきたとしても、神を信じ、教会に加わるならば、「あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」。見せかけの偽りの人生をかなぐり捨て、真実なる神に委ねて生きていこうではありませんか。


 

5月5日 

5月12日 「子を産まない女よ。喜び歌え。」  イザヤ54章1〜10

イザヤ54:1 「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」と【主】は仰せられる。
54:2
「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。
54:3
あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。
54:4
恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。
54:5
あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の【主】。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。
54:6
【主】は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあなたの神は仰せられる。
54:7
「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。
54:8
怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う【主】は仰せられる。
54:9
「このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。
54:10
たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ【主】は仰せられる。

動物では性は、子孫を残すためのものです。日本では進化論しかありませんから、人間でも同じものとなります。結婚というものも家の存続の為にあったので、子どもの生まれない妻は離縁されることが多くありました。そして、女性たちは男性中心社会の中で、子どもを産み、育て、そして夫に仕え、家事を果たすものとされてきたのです。いくら文化が進み、女性の権利が向上したとしても、聖書の価値観のない社会では、やはり女性蔑視であり、性というものも、生殖のためとなってしまいます。そして、適者生存や優性の法則(優秀の法則ではない。)などという論理が、今なお幅を利かせているのです。

 聖書なき社会では、女性の権利も立場も、効率や機能的に捉えて向上しているだけで、実際にはないがしろにされています。ボコハラムによって拉致された女学生のことを今でも執り成しの祈りをしています。

 夫婦別姓でも構いませんが、中国や韓国の別姓は、古来儒教思想によって、女性の地位が非常に低く、結婚しても家というものに入れず、ただ子を成す為の存在としてしか見なされていなかったことに起因しています。同様に、服従という言葉が、キリスト教においても、そういう社会では過度に絶対視されて、信仰の健全性を阻害しているように思われます。

 聖書では、「神は人をご自身のかたちとして、創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女に彼らを創造された。」(創世記1・27)とあり、人は動物ではなく、「すべての生き物を支配せよ。」(1・28)という神の似姿に造られ、男女は同権であることが語られています。

 聖書では、カレブの娘たちのように女性でも土地の相続が認められ、ルツのように異邦の女性でも権利が認められています。子供のいない夫婦でも、親類がその土地を守るようになっています。ルツ記は、ベツレヘムに土地を持っていた夫婦が飢饉のためにモアブの地に行き、そこで夫も二人の息子も死んでしまったけれど、残されたナオミとモアブ人の嫁ルツが故郷に帰ってくる記録です。異邦人でありながら信仰に篤く、優しさと思いやりに満ちたルツが、ナオミの親戚の有力者ボアズに見染められて結婚し、そのひ孫がダビデ王となるのです。

 このイザヤ54章の不妊の女とは、廃墟となったエルサレムのことと解釈されていますが、聖書は、そのまま読んでも文字通りでは問題ありません。この1節は、ルツのことそのままです。なんの財産もなくなったナオミは、その名前の意味「快い」に相応しくないので、「マラ(苦しみ)と呼んでください。」(ルツ1・20)と嘆くほどでした。「主は私を卑しくし、全能者が私を辛い目に遭わせられました。」(1・21)と、神を批判しています。しかし、実際には、飢饉だからといって、先祖の土地を捨てて逃げたのは、彼らでした。しかし、ルツは違います。夫が死んでしまったけれども、ルツは真摯な信仰の結果、真実の愛と結婚を獲得して、多くの子孫に恵まれます。

 ナオミの夫エリメレクも二人の息子も試練に耐えるような人ではなく、神の約束を信じて歩むような人ではありませんでした。ナオミは、真面目な信仰者でしきたりも知っていましたが、神の祝福を信じて歩むような人ではありません。しかし、ルツは「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(1・16)とベツレヘムまで同行し、その誠意はベツレヘムの人々にも知られ、「主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めてきたイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。(2・12)とボアズに言わせているのです。

 次に新約の教えに入ります。「おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。」(エペソ5・23)とあり、冒頭に述べた男尊女卑とは全く異なります。更に、アジアでは子供を大事にするあまりに、「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。・・・『あなたの父と母を敬え。』」(エペソ6・1-2)を破る人が多いのです。母の日だけに、母を尊重するというものではないのです。

 夫婦の間でも、親子の間でも、罪びとは主導権を取ろうとします。男性は、自分の劣等感を埋め合わせるために、妻や子供に主導権を握ろうとし、制度的にそういう社会にしてしまいました。女性は、子どもが産まれると、主導権を握ろうとします。聖書的信仰者であるならば、人を支配しようとする罪の誘惑を拒むべきです。勝ち負けや強弱の関係は、罪びとの論理なのです。そして、夫婦における力関係が、子どもに関わってきたので、子どもも罪の虜として成長するのです。

 Uコリント書は、パウロが終末に際して、信者に対して述べています。「結婚したのなら別れてはいけない。信者でない相手が別れたいなら別れても良い。」などと「現在の危急の時」(7・26)は、結婚生活が聖書的でないなら、相手に拘束されて信仰をないがしろにしてはいけない、というような意味合いで諭しています。さらに、独身の人は、結婚しようとしないで、信仰をしっかり保持するように勧めています。どういうことでしょうか。

 歴史があり、社会がある時には、結婚をして子供をもって相続していくことが大事だけれども、神の国という基準とは全く別であるということです。人は成人し、働いて社会に貢献し、結婚して家を守っていく、そういう歩みの中で、その人の真実が現れ、神の国の基準に適うかどうか吟味されるのです。そして、不信仰者の中でルツのような真摯な信仰者が異邦人から見いだされ、やはり誠実な信仰者ボアズと結ばれて、神の働きを為すのです。

 ところが、歴史の終わりとパウロが信じる時に至っては、そのような社会形成や家族形成はもはや将来につながるものではないので、自分の信仰を確立しなさいというのです。たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」(10

 


 

5月19日 「主は身を低くして天と地をご覧になる。」  詩篇113篇

詩篇 113:1 ハレルヤ。【主】のしもべたちよ。ほめたたえよ。【主】の御名をほめたたえよ。
113:2
今よりとこしえまで、【主】の御名はほめられよ。
113:3
日の上る所から沈む所まで、【主】の御名がほめたたえられるように。
113:4
【主】はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。
113:5
だれが、われらの神、【主】のようであろうか。主は高い御位に座し、
113:6
身を低くして天と地をご覧になる。
113:7
主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、
113:8
彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。
113:9
主は子を産まない女を、子をもって喜ぶ母として家に住まわせる。ハレルヤ。

ハレルヤ!、と主の御名を心から褒めたたえる人こそ、真の信仰者です。偽りの信仰者は、神を褒めたたえることができないし、しようともしません。しかし、今や、日の上るところから沈むところまで、つまり世界中に真の信仰者がおります。神の目にはそれがしっかりと捉えられているのです。

本屋では、多くの知的理解の本があります。宗教の全て、とか、キリスト教の神髄、とか、分かり易く説明しています。日本人は、知的欲求が強く、理解しようとする人々が多くおります。テレビのクイズ番組の多さは、不思議な気持ちがします。知識など、いくら積んでも、それで幸せになることはなく、知識を実践するスピリットが聖く健全でなければならないのに、気が付いていないのです。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならない程のことも知ってはいないのです。」(Tコリント8・1-2

偽りの信仰者は、自分が信仰に誠実のように振る舞い、その知識を開かします。しかし、人を愛するという実践はしていません。神と信仰に関する知識と論理は、実践以外にはその保持を証明することはできません。そして、神を褒めたたえるということをしないで、自分の信仰を誇るのです。人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」(同8・3)。要するに、信仰の真偽は、神を賛美するか、自分を誇るかで確認できるのです。

ルカ18章で、「自分を義人だと自認し、他の人々を見下している」(9)宗教的指導者のパリサイ人と、罪を悔いる取税人をイエス様が判別しています。「誰でも自分を高くする者が低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(14)。

先日、『妻のトリセツ』という本を読みました。聖書ではないので、それを推奨することはないのですが、女性と男性の違いを脳の働きから説明しているのが参考になりました。男の子は、生後8カ月で3m上空からの空間認識ができるそうです。男性は、空間認識力が高いので、地図も位置関係も、人間の位置関係も認識するのですが、女性は体験データを感情と共に蓄積していくので、他の人の経験も感情と共に共有するそうです。それでおしゃべりは、女性の貴重な経験であり、一つの情緒が過去の経験と結びつくのです。ともかく、男女の精神構造と認識力は全く異なっているのです。

先週お話ししたように、神が人を男と女に造られた、ということは、男女は全く違う在り方と性格であるということです。この違いを見下して、相手を劣ると判断することは、神に認められないということになります。日本的な夫婦観で、喧嘩をせずお互いに干渉しないのが良い、という在り方は、聖書に反します。

 夫婦以外でも、上から目線で、障碍者や病者、或は高齢者や幼齢者を劣ったものとみなす人は、健全な人ではありません。人をひいきしたり、おべっかを使ったりするのも同様です。

 つまり、人の違い、民族の違い、国の違いなどを基に差別してはいけないわけで、私たちの思考の中から、それらを取り除く努力をするということが、聖書信仰の実践でもあるわけです。

 それでは競争心がなくなり、努力をしなくなるのではないかと考える人もいるかもしれません。それは、真に価値ある者、神にとって役立つ者となる思考とは違っています。

 先週、「人の歩みの中で、その人の真実が現れ、神の国の基準に適うかどうか吟味される」とお話ししました。イエス様が、「神の在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2・6-7)。神が身を低くして人間の在り様をご覧になられたのです。この聖句については、いろいろな解釈があるようですが、その後の言葉からも、これで良いと思います。

 「主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ」(7)られます。同様に、私たち信仰者の働き、神の国の基準も、弱者や困っている者を助けられるかどうか、救いにつなげる努力をするかどうかにかかっているのです。

 「子を産まない女」は神に祝福されていない人であり、劣っていると人間社会では勝手に判断されていました。「子をもって喜ぶ母」とは、その人の働きで、多くの人々を励まし、助け、神の祝福につなげた人のことです。それでこそ、神を賛美し、ハレルヤ!と叫ぶことができるのです。自分の魂が救われたからハレルヤなどと自己中心的な讃美では、パリサイ人と同じになってしまいます。

 



5月26日 「神の国では男も女もない。」  マタイ福音書2223節〜33

マタイ22:23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、
22:24
言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない』と言いました。
22:25
ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。
22:26
次男も三男も、七人とも同じようになりました。
22:27
そして、最後に、その女も死にました。
22:28
すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
22:29
しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
22:30
復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
22:31
それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。
22:32
『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
22:33
群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

皆さんが他教会のクリスチャンと会うと、その信仰が情緒的で愛や優しさを求める者が多く、神の御心任せという信仰が多いことに気が付くと思います。私たちの教会では、教会員教育を重視し、信仰とは理論的・人格的に形成するものであって、神は聖書の教えに人格的に従っている者を選んで祝福をするということを教えています。日本人の信仰というものは、やはり鬼神信仰的なものが多く、神の怒りに遭わないように、目立たないように、要求をせずに、おこぼれ的な御利益を願うものになる傾向があります。つまり、信仰と言っても、人間の宗教指導者のご機嫌伺い的なものになる、実際には神なき宗教です。キリスト教でさえ、このような傾向になります。

 イエス様は、そのような律法学者やパリサイ人による宗教的統制を排除し、目には見えないからこそ、人格的な信仰の目によってこそ見える神を見つめた信仰を教えるのです。そして、それは礼拝における態度、讃美の姿勢、日常生活などに現れてくるのです。怠惰な信仰生活で、神の祝福が得られることはなく、神の国に行けないのは当然なことです。このことに気が付かないのが、宗教的指導者と言われた人々なのです。

 さて、今日は、キリスト教徒でも男尊女卑を唱える過ちを指摘します。彼らは男のあばら骨から女が造られたのだから男の付属物のように考えます。さらに、「夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」(創世3・16)と主張します。しかし、それは罪を犯したからの罰であり、その前は「私の肉からの肉、骨からの骨」(2・23)と「二人は一体となる」(2・24)と本来の関係が記されています。

 弟子たちでさえイエス様に「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」(マタイ19・10)と、離婚は罪びとだからしてしまうので、そういう仲違いは本来あるべき姿ではないと教わった時に反論します。人間の罪の歴史というものは、男女関係、結婚の状態によって示されるのです。そういう面で、「独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。・・・独身の女や処女は、身も魂も聖くなるため、主のことに心を配ります。」(Tコリント7・32.34)とあるように、結婚しないことも一つの選択肢であるとパウロは言いますが、「情の燃えるよりは、結婚する方が良い」(7・9)と、独身で過ごすことは、難しいと諭しています。

 これらのことからわかることは、男女の性の違いは、罪と非常に密接な関係があるということです。人は「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ。」(創世記1・28)という地上における神から与えられた使命を果たすために子を産むということが重視されます。ところが、それが罪の故に、性の放縦(規律もなく勝手になること)に陥っています。子供や青年に人気のある漫画を調べてみると、そのようなものばかりでした。若いほど、愚かな者ほど、性的欲求を制御できなくなるのです。聖書的な夫婦における愛というものがわからない世界の現実です。

 今日の聖句は意味深いものです。神の国では、夫も妻もなく、子どもも親もないのです。男として女性を見下げていた者は、神の国では威張ることもできなくなって存在を確認できません。ですから、そのような者は神の国に入ることはないのです。血縁や家柄、財産や功績も神の国には持っていけません。ですから、そのようなものに依存して生きている者もまた、神の国には入れません。容姿や運動神経も、神の国の基準ではありません。

 「神は、御心に従って、それに身体を与え、各々の種にそれぞれの身体をお与えになります。・・・太陽の栄光もあり、月の栄光もあり」(Tコリント15・38.41)として、地上の人生の歩み方によって神の国に行くかどうかだけでなく、神の国の栄光も違うと語られています。

 「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちは、この神に対して弁明をするのです。」(へブル4・13

 男に備えられているものは、戦いや攻撃に有利であり、猟や生活の糧を得る為に重要なものです。そして、人生は全て戦いであり、男性のタフさが必要なことは多いものです。しかし、継続的な家事、料理、育児は女性がいなければ男性にはとてもできるものではなく、生活は破綻してしまいます。その生活の困難、人生の戦いを切り抜けるために、どうしても夫婦、そして家族が必要でした。互いに依存することが必要だったのです。

 ところが、現代社会、特に日本では、一人でもどうにか生きられるような社会になっています。そして、人間の罪性というものは、神でも、人でも、依存し、従うということに反発します。このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、皆のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順にもたらす為です。」(ローマ1・5)。

 あなたがもし、妻の上に君臨し、愛することができていないならば、神の国の基準からは逸脱しています。あなたが夫の上に君臨し、非難を繰り返しているならば、やはり神の国に入ることはできません。この世の夫婦の在り方に習ってはいけません。それを普通と見なしてはいけません。あなたは、心から悔い改める以外ないのです。

 最も身近な人に対する行動と態度で、神の国とその義を全うしているかどうかがすぐにわかるのです。神の計らいは、なかなか逃げようがないものです。



6月2日 「どうしても必要なことは一つ。」  ルカ福音書103842

ルカ 10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40
ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 クリニックニュースにも書いたのですが、ニューカレドニアの旅は心に残るものがありました。日本人では、腹を立てる人がかなりいると思います。約束していたのに来ないし、聞いたことは間違っているし、お知らせもなく休んでいる。車のスピードはとてつもなく速い。勝手に生きているけれども迷惑を掛けているわけではない。客の八割五分が日本人というホテルの日本人ガイドだけが擦れていて日本人的でしたが、彼女が他のスタッフに干渉しようとしても、相手にはされないことが面白かったですね。

 町の駐車場でコインがなく困っていたら、相談した女性が代わりに入れてくれました。英語が通じないだけでなく、公用語のフランス語も話さない人がかなりおりました。一人当たりGDPは日本と変わらないけれども、人口が500分の一なので、所得は偏っているのでしょう。豊かではない人が殆どですが、関係なく楽しんでいます。確かに、「天国に一番近い島」だと思いました。

 そして、祈りの中で今日の聖句が思い出されました。さらに、なぜ私がこの島の人々に対して腹を立てず面白がっていたのかと思ったら、妻に似ている人々であることに気が付きました。

私はきちんと仕事をする人間です。人の思惑もわかるし、為すべき仕事も瞬時に判断します。長期的展望で神の御心を探りながら、事業や仕事、教会の運営も拡大していきます。そして、為すべき家族への配慮や、人の接待もします。神への奉仕も疎かにしたものはないつもりです。

その傍らで、妻は好きなことをして楽しんでいます。結婚当初は、私がマルタのようにマリヤのような妻に腹を立てていました。イエス様は人の生活を理解されていない、そのようにしていては生きてはいけない、などと考えていました。妻を諭すと同意して改めようとしますが、決してきちんとはできず、祈らないと調子が悪くなります。仕事よりも、聖書であり、伝道です。ところが、実際には祈っても聖書も読み始めても寝てしまいます。車も運転しながら眠ってしまうし、歩いていても人や物にぶつかる、・・・。

そのうちに、妻を変えようとすることは諦めました。その代わりに、いつも私がついていて妻を守ることにしました。妻は喜んでいますが、私は気ままには生きられなくなり、先週のイエス様の弟子たちのような心境にもなりました。既成概念、自己中心という罪との戦いです。毎週、日曜や祈祷会で説教し、自分の言葉と行動に偽りのないようにチェックしています。皆さんも牧師になることをお勧めします。結婚39年、ようやく、腹を立てなくなり、自分の聖めと成熟と主の支えを感じるようになってきました。それで、ニューカレドニアの人々に親しみを感じたのです。

 先日、東京大学の卒業式の祝辞を引用した上野千鶴子さんが、2014年11月の朝日新聞で、「子どもと密室で3時間以上いると母親は子どもに対して凶器になる。」と指摘しました。きちんと子供を育てようとしたり、ミスなく仕事をしようとすると、人は攻撃的になるのです。戒めや懲罰は、決して人を成長させることはなく、成熟は祈りとみことばと御霊による以外にはないのです。

 先週は、結婚がこの世の術であり、神の国には結婚がないことを説明しました。しかし、このように罪びと同士が結婚し、聖書と御霊に従って生きれば、結婚の祝福は注がれるのです。

 さて、どうしても必要なこと」とは、イエス様の教えを聞くことを優先し、神の国に行くに足るようになることです。人が、この世で成功しても、富と地位を獲得しても、幸せに過ごしても、神の国に行かなければ悲劇です。これを多くの人が軽んじています。

韓国のサッカーチームが中国の大会で優勝した後、そのトロフィーを足で抑えてツウィッターで流し、剥奪処分になりました。後悔しても、戻しようがありません。罪びとは、愚かなことをしている自分に気が付かないのです。この人生では、因果応報もあり、信賞必罰でもあり、艱難辛苦もあります。そのようなことを乗り越えて、賢者や賢人になる人もいるでしょう。しかし、それを超えて、神の国の基準に心を注ぐ人だけが、神の国に入るのです。まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ3・5

神の国には二重国籍は認められません。保険のように洗礼を受け、教会に来ても、生まれ変わっていない人は、神の国のパスポートを持っていないのです。私には、その違いはよく分かります。持っていない不安を、自分の努力や功績によって、或は情に訴えて、牧師や信者に埋め合わせをしようとする人がいます。見せかけの努力をしないで、真っ直ぐに神ご自身に魂の救いを求めるべきです。

 「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4・23.24

 来週はペンテコステの日で、聖霊のバプテスマを求める時を持ちます。聖霊のバプテスマは、聖霊に満たされることを求める為に大事な局面です。ただ、異言の祈りを祈っているからといって、聖霊に満たされている保証にはなりません。真実なものには偽物が必然です。新興宗教には、異言と同じような現象が現れているという報告が出ています。聖霊のバプテスマの証明は、神を第一とした生活と、聖められた人格です。



6月9日 「神に受け入れられた印。」  使徒の働き103447

使徒 10:34 そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
10:35
どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
10:36
神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
10:37
あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。 10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。 10:39 私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。  10:40 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
10:41
しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。
10:42
イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。
10:43
イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」 10:44 ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。
10:45
割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。
10:46
彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。
10:47
「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」
 

 神の国に男女の違いはないということをお話ししました。当然ながら、地上の国籍も関係ありません。文化や風習も引きずりません。国家の違い、民族や人種の違いに拘泥する人は、神の国の基準を満たしていない証拠となります。

 今日の聖句は9節から始まります。聖くない物、汚れた物を食べず、律法を守ることを重視してきたユダヤ人にとって、他民族との交流は忌みされることでした。そんな中でローマ軍の100人隊長が幻を見て、神からペテロを招いて福音を聞くように告げられます。

 ペテロもまた幻によって神に諭されており、100人隊長コルネリオの招きを受け入れてヨッパからカイザリアに行き、彼の家に訪れました。

お立ちなさい。私もひとりの人間です」と言った。それから、コルネリオとことばをかわしながら家に入り、多くの人が集まっているのを見て、彼らにこう言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私をお招きになったのですか。」10・26-29

 人は生まれ育った所の風俗・習慣・考え方に影響されています。私たちが、クリスチャンとして成熟するためには、当然と考えている詳細まで、聖書の言葉と教会生活で再形成されなければなりません。ところが、多くの方が、それを論理的理解の中で追加して考え方の中に取り入れようとするのです。聖書を理解し、クリスチャンとキリスト教のすばらしさを知って、教会に来て、洗礼を受けたとしても、「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ3・5)とあるのに、神の国に土足で入ろうとするのです。

 私自身は、聖書を3ヵ月で読破し、いろいろな奇跡や神の導きを体験しましたが、自分が他のクリスチャン達と違うことに気が付きました。そして、祈祷会で聖霊のバプテスマを受けて、確かに自分が生まれ変わったこと、人生観が変わったことに気が付きました。それは、考えを変えたとか、悟りを得たなどということとは全く違い、神の国の人になったことが分かったのです。そして、私の人生は確かに全く変わり、「神の国とその義を最優先するように生まれ変わったのです。

 むろん、信仰の当初は、「神はいるのかいないのか。」、「私はクリスチャンとしてどのように歩めば良いのか。」、「聖書は何を教えているのか。」などということも学ばなければなりません。しかし、それは神の子として生まれてからのことで、神の子として生まれていないのに、神の国の歩み方を教えられても全くわからないのです。

 人々は、60キロも離れたヨッパから神のお告げ通りに訪れてきたペテロに驚きました。ユダヤ人が異邦人の家に入るだけでもかつてなかったことです。そのことが、神ご自身が示した幻によるということも奇跡でした。そして、「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」という言葉に、涙を流して感動したことでしょう。そして、「この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる」(43)と聞いて、直ちに悔い改めたのです。聖霊のバプテスマは、罪を悔い改め、魂が救われて神の国の子となった者だけが与えられる聖霊の賜物なのです。

 聖霊のバプテスマは、聖霊に満たされることを求める為に大事な局面です。ただ、異言の祈りを祈っているからといって、聖霊に満たされている保証にはなりません。真実なものには偽物が必然です。新興宗教には、異言と同じような現象が現れているという報告が出ています。聖霊のバプテスマの証明は、神を第一とした生活と、聖められた人格です。

 むろん聖霊のバプテスマを受けていなくても魂の救われたクリスチャンは多くおります。しかし、だからといって、聖めと御霊による喜びと平安を受けていない人をクリスチャンとは、神は決してしません。ところが、魂の救われていないクリスチャンは、悔い改めることがなく、反省もすることがないので、変わることも成熟することもなく、自分をクリスチャンであると誤解しているのです。

 現代社会では、「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(Tテモテ6・9.10)に注意しなければなりません。私は多くの教会員が、「人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与える」(Tテモテ6・18)真の信仰者であることを喜んでいます。

 牧師をして36年ですが、これらのことを当たり前にしないで、自分のことばかりを求め、教会員との交流や奉仕をしない人々が信仰から離れていくことを知っています。打算や利益を求める人々、自分が目立つことや思い通りに生きようとする人は、教会に来続けることはできないのです。彼らは、もっともな理屈を述べますが、実は神が偽信仰者を排除したのです。そして、多くの教会でこれらの偽信仰者が教会を混乱させているのを、皆さんも悟らなければなりません。

 ペテロの同行者は、これまで軽蔑していた「異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」(45.46)。



6月16日 「父の立場は機能的なもの。」  へブル書12411

ヘブル12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
12:5
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
12:8
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
12:9
さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
12:10
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
12:11
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

 権威や支配というものは、秩序を与え、組織をまとめるためには必須なものです。ところが、だからこそ、その権限の範疇を超えたり、悪用したりすると、人々が苦しみ、組織が崩壊するものとなります。

そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ2・2)とあり、サタン配下の悪霊の権威が、私たちの社会に規制を加えていることを示しています。私たちが「常識」、「忠誠」、「従順」‥という社会への迎合が、私たちをむしばんでしまうのです。つまり、社会における権威の背後には、サタンの働きがあり、それらを通じて、私たちの自由を拘束し、信仰生活に制限を与えているのです。ですから、権威に対して服従を当然とする人々が、信仰者の自由を獲得することはできないのです。

 「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。」(Tコリント15・24)とは、この世を支配している悪の権威を亡ぼすということです。信仰者は、この悪の勢力との闘いという現実を意識しないと、権威におびえ、自由に判断することをできなくなってしまうのです。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6・12)とあり、「悪魔の策略に対して立ち向かう為に、神のすべての武具を身に着け」(同11)ることが必要なのです。その中でも祈らない人は、霊的に眠ってしまっているので、戦うことも意識せずに、惑わされるのです18)。

 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。」(ローマ13・1-3)という戒めがあります。実際には、支配者は神ではなく、人間なので、暴君のこともあり、悪の顕現である場合もあります。ここでは、「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。」という言葉に注意するべきです。つまり、「良い行いをしようとすると、支配者が恐ろしい」時には、この教えは適用しないということです。

 このようにして、サタンの企みの中にいるということは、判断せずに絶対服従を命じる組織や風習に従っているということが理解できます。妻も、全てのことにおいて、夫に従うべきです。」(エペソ5・24)という聖句におって、歴史的に多くの敬虔な女性信徒が夫に仕えてきました。それはそれですばらしいことですが、「夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。」(28)という夫婦の相互の愛が前提となっています。

今日の聖句は、父の日のためのものです。神の国では、父親も母親も子供もありません。全ての人が、独立した存在であり、従属的な関係はありません。ということは、父や母は、地上での生活のための機能的なものだということになります。つまり、父や母は、子どもたちにその役割を果たす使命があり、そのために「父と母を敬え。」(マタイ19・19)、「両親に従いなさい。」(エペソ6・1)とあるのです。

 「父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」(12・7.8)とは、「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(11)ということのためです。つまり、父親の役割は、子どもたちに従順を教え、社会の規範を損なわないように厳しくし躾けることです。ですから、父親不在であったり、父親がその厳しく躾けるという役割を果たさないと、その子は、社会の規範を守ることができず、犯罪や偽りを言いながら、言い訳や正当化で反逆的な行動を取ることようになってしまうということです。

 ルカ15章に、父親に背いて放蕩三昧をした息子の話があります。親に反逆するのも、放蕩も自己責任であり、親の責任ではありません。親は親で、子どもに対する父親の役割を果たしたかが神の前で問われます。ただ、親も子どもも、神の植え付けた罪責感があり、その罪責感というものは、取り返しのつかない、人に責任を転嫁できないような状況に陥った時に、現実の罰となって現れるのです。人生というものは、その現実生活の中で悔い改め、神の前に立つかどうかを問われるものなのです。

 父親は、息子が放蕩した責任を恥じ、日夜息子の為に祈ります。これが父親の責任であり、決して息子をなだめに探し回ってはならないのです。悔い改めなければ赦さない、という神の在り方を、模さなければならないのです。悔い改めないで放蕩を続け、父に詫びない息子は破滅するのです。親は、断腸の苦しみを受けるのです。

 父親がその厳しさの働きをしなかった子どもの特徴は、罰や挫折があっても、規範を守らない、という特徴があります。最近は、そういう親が多いですが、未成年の時代に子どもを躾けられなかった父親は、生涯の苦しみを背負うことになります。父の人生における生き甲斐は、子どもの成熟とその「平安な義の実」だからです。

 私自身は、明治生まれの非常に厳しい父の下で育ちました。勝手気ままに生きることや誤魔化すことを恥じ、社会規範は守り、罰は当然のものとして受け、人を攻撃したり侮辱することなど決して行いません。父によって訓練されて「平安な義の実を結」んだと感謝しております。


 

 6月23日 「父は孤独。」  ルカ福音書151724

【新改訳改訂第3版】ルカ 15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18
立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21
息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23
そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

 岩淵まことさんの「父の涙」の歌詞は以下の通りです。

心に迫る 父の悲しみ 愛する一人子を十字架に付けた 人の罪は 燃える緋のよう 愛を知らずに 今日も過ぎていく 十字架から 溢れ流れる泉 それは 父の涙 十字架から 溢れ流れる泉 それは イエスの愛

 父が静かに見つめていたのは愛する一人子の傷ついた姿 人の罪を その身に背負い 父よ 彼らを赦してほしいと

 これは、魂の救いというものを知らない人には意味の分からないことです。なぜ、一人息子を十字架に付けるのでしょう。それが人の罪を許すためだとしても、なぜわざわざ十字架の刑を受けなければならないのでしょうか。そして、それをなぜ、父なる神は黙認するのでしょうか。

 先週は、「父の立場は機能的なもの」とお話ししました。昔から、男たちは家族を守るため、国を愛するため、信念を果たすため、戦い、そして死んでいきました。実際、男の役割と女の役割は全く異なります。この世は罪の社会であり、弱肉強食、むしろ、戦うための体力、根性、知恵が必要であり、組織に対する忠義が求められました。

 7月には、婦人会でコミュニケーション講座を持ちますが、大変失礼ながら、男性にはコミュニケーションも優しさも歴史的には二次的なものであったのです。コミュニケーションは女性には必須なものですが、男性は不得意です。もし、男が交流を身に着けても、強い者には従わなければならず、よこしまな者には騙され利用されるだけでした。男の子を観察すると、勝つことや自尊心に関心があり、女のことは全く違うことに気が付きます。

 日本は平和な国です。もはや頑固や口下手な男は、女性だけでなく男性にも社会にも評価されません。しかし、実際には、権力闘争や争いは表面化では、相も変わらず激しいのですが、それは肉体による戦いではないので、策略や知恵が必要になってきています。

 そのような男性の虚弱化と共に、家庭や躾の基準があいまいになってきました。社会での仕事や規律も、真実よりも言い逃れや建前が通るようになってきました。北朝鮮の船が国境から100キロも入った港で住民によって発見された時の海軍の誤魔化しや隠蔽が非難されています。日本の自衛隊機への隠蔽やごまかしは強気で乗り切ろうとしましたが、韓国住民の目撃の前では誤魔化しきれません。全ての大統領が殺されたり、犯罪者となる韓国では、もはや権威も信義もうつろなものとなっています。間違いを認めないで白を切るということは、社会正義の崩壊であり、それは女性に対する暴力が蔓延する50歳以上の男性たちの責任です。

 日本でも、損得や見栄が基準となって行動する人々が多くなりました。苦労や困難があるとすぐに逃げ出すのです。先週、「父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」(へブル12・7)と語りましたが、現代では「父に懲らしめられた子がいるでしょうか。」と逆になっています。懲らしめられるどころか、親に暴力を振るったり反抗したりする子や大人が多くなっております。「愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。」(箴言1・7.8)父が訓戒をし、母が教えることがなされない家庭が増えているのです。子どもが反抗しても、何の指導もせずにご機嫌を取ったり、甘やかす親が増えているのです。そんな子が後になって「彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。」(箴言1・28)。

 父親や指導者はご機嫌取りでは、子どもや部下の放蕩を生み出すという結果をもたらします。箴言を読むと父親は、子を戒めるということが当然なこととして書いてあります。だからこそ、「父と母を敬え。」(申命記5・16)とあり、そのことによって子は「幸せになる」のです。

 しかし、現実の生活では、それほどうまくはいきません。この聖句の放蕩息子の話のようです。「父のところには、パンの有り余っている雇人が大勢いる。」(17)とあるので、父親はよく働き有能で配慮のある主人であったようです。母親のことは出てきませんが、父親は息子たちを妻に任せて仕事を一所懸命していたのでしょう。父の教育と訓戒が足りなかったようです。母親は、息子たちを男として尊重していたので、息子たちは頭に乗って育ったのでしょう。それでも、「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」(18.19)と告白するのですから、信仰は母によって植え付けられていたようです。そして、愛情もって育てられていたのでしょうが、やはり甘やかされていたことに間違いありません。

 次男は、大金を持って遠い国に行き、すぐに騙されて放蕩を身に着け、財産を使い果たしてしまいました。そして、働くと豚の世話をさせられ、十分な食事も与えられないので、豚の餌であるイナゴマメを食べようとしました。金のある時はチヤホヤされたのに、使用人となると無慈悲に酷使され、だれも相手をしてくれません。まさに弱肉強食の現実を悟り、悲嘆に暮れた時に、経営者としての父の優しさ気前の良さに気が付きました。父は、強く優秀だからこそ、人に優しく出来たのです。その父の下で働きたい、父の仕事と教えを学びたいと願ったのです。

 現実は、イエス様のたとえ話のようにいくとは限りません。それでも、父が覚悟して、厳しい戒めをしなければ、子どもは社会で生き抜けないのです。「話せばわかる。」というのは、日本社会の建前です。罪びとに対して、話してわかるほど、世の中は容易くはありません。むろん、コミュニケーションは学ばなければならず、交流を多くの人と深めなければなりません。しかし、その前提は、神の戒めを身に着けているということを忘れてはいけないのです。残念ながら、ノウハウだけを身に着けようとする人が多いようです。

 


6月30日 「真の父の下で安らぎを得る。」  マタイ福音書112530

マタイ 11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
11:26
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27
すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
11:28
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

先々週、父親が父なる神に代わって子どもに善悪の基準を身に付けさせる使命と機能を委ねられていることをお話ししました。先週、それは理屈や正当化を超えたものであるが故に、いかなる言い訳や自己弁護をも許さない厳しい躾けとして父自身を恐れさせることが大事であると話し、だからこそ、父は孤独なのだと説明しました。但し、孤独を覚悟しなければならないとしても、孤立はいけません。そして、人には明かせないものがあることを身に着けるからこそ、私たちの背後におられる父なる神に寄り頼むのです。

他人のプライバシー(他人に知られたくない私事)や情報を、安易に話してしまうことは、事業者では刑罰になり、個人でも損害賠償を受けることになるでしょう。夫婦間の問題や親子間の問題を安易に他人に話す人がおりますが、そういう人は見えない神に祈る習慣がない人でしょう。

或は、夫婦の間でも、親子の間でも、言ってはいけない種類の話があります。人を見下げる言葉、不幸を仮定する言葉、みだらな言葉、暴力的な言葉、人生に関する絶対的な判断、自己卑下、そういう類な言葉は、信仰者としての未成熟を現わすものであって、決して言わないようにすることが品性の成熟には必要です。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16・8)とあるように、魂の救いを得て、聖霊なる神が内住すると、愚かな言動はできなくなるものです。

もし、愚かな言動が変わらない人がいるならば、真剣に聖書を読み、祈り、聖霊の導きを求めることです。この世の人々と同じような人、「正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。」(Tコリント6・9)。神の国に行く人か、どうかは、神の国の人は区別できますが、この世の人は、その違いがわからず、あたかも神の国の人のようにふるまっています。私たちの教団の教理では、「救いの証明」として、「義とまことの聖を備えた生活である。」と語っています。クリスチャンらしくない言動をする人は、クリスチャンではないのです。

厳しいことを言っているのでしょうか。残念ながら、これらのことを無理だとか、否定するならば、あなたには聖霊は内住していないのです。しかし、実際には厳しいことであり、父親の在り方と通じる厳しいことです。

 「賢い者や知恵のある者には、隠して」(25)とあるように、この世の知恵で生きる者は、自分の都合の良いように人生をやり繰りして生きようとします。お金が溜まるかもしれません。地位も名誉もあるかもしれません。自分の好き勝手に美味しい物を食べ、好きな所に行き、好きなことができるかもしれません。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12・15)。「愚か者。お前の魂は今夜おまえから取られる。・・・自分の為に貯えても、神の前に富まない者はこの通りです。」(12・20.21

 私は自分の人生は神に捧げたものと考えています。むろん、それほど聖くはなく、それほど成熟した者でもなく、それほど能力のある者ではないことは、自らわきまえております。しかし、意識としては、できる限り、神に捧げて生きたいと努力しています。牧師給以上のものを献金し、什一献金の額以上のものを神の働きに献げています。そうすると、神が更に私を豊かにして下さり、神の働きをするために力も知恵も富も与えてくださいます。現在の私の働きや仕事は、普通の人の数倍はあります。意識としては、全て神の栄光の為にという思いが私の心には強くあります。だからこそ、私は神に祝福されているのであって、自らの能力や知恵によるものであるとは考えられません。

 昔、自分の思いと努力でひたすら頑張った時に、疲れ果て、ストレスで怒りやすくなり、不整脈で死にそうになりました。なんで、神様のために働いているのに、こんなに苦労ばかりするのかと病の床で神に文句を言いました。そんな時に、この言葉が私に語り掛けてくださったのです。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

 自分の思い通りではなく、イエス様に委ねて生きることを少しずつ学んで身に着けてきました。イエス様は頑固ではありません。私が頑固だったのです。イエス様は、私に叱咤激励して働かせようとはなさいません。祈りの中でしなければならないことを、しなくても良いこと、他の人に任せたほうが良いことを知るようになりました。祈りと聖霊に導かれると、あり得ない程祝福されます。

 牧師であり、社長であり、事務長であり、患者の会の理事長であり、教団の監事であり、4つの教会の主管者であり、親であり、夫であり、ガーデンの管理者として将来にも備えています。多くの人々への責任と配慮があり、その重荷は凄いものです。しかし、私の主キリストが、心優しく私のくびきを負ってくださいます。なぜなら、私のこのようなくびきは、主イエスを愛し、従う者としてのくびきだからです。私は、「魂に安らぎ」を得ています。

 「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩篇23・1)。

まことに、私のいのちの日の限り、慈しみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。」(23・6