1月6日 「私の魂よ。目を覚ませ!」  詩編57

詩編(ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに)
57:1
神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。
57:2
私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。
57:3
神は、天からの送りで、私を救われます。神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。 セラ神は恵みとまことを送られるのです。
57:4
私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。
57:5
神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。
57:6
彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました。 セラ
57:7
神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。
57:8
私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。
57:9
主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。
57:10
あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。
57:11
神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。

 試練があった時に悩んでしまうと勝利することは殆ど難しくなります。「神の恵みによる」は真理ですが、神を信じないで悩むことを選ぶ人に神が勝利を与えることは殆どありません。試練は、嵐のようにじっと我慢して通り過ぎるのを待つようなことでは、打開できないものだからです。神は、イスラエルが荒野で過ごした40年のように、私たち自身が未熟で信仰を持てない場合には、多くの時間と経験をさせて神を信頼するように育てていくのです。

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Tペテロ5・7)とあるように、信者の時に思い煩いは、神を信じない罪びとの証拠であるように信者の時に教えられ、決して思い煩わないと決心をしたものです。

 魂とは、心と霊によってなり、神の国に行くのは、この魂です。動物は霊がないので、天国に行くことはありませんが、心があるので、それなりに考えてはいるでしょう。しかし、動物では霊がないので、悔い改めて救われることはないのです。

 「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(Uコリント7・10)とあるように、魂の救われている人は、悲しみや苦しみの時に、思い煩い悲しむよりもむしろ、悔い改め信仰を持つのです。ところが、魂の救われていない人、或は信仰によって歩んでおらず未成熟な人は、思い煩って崩壊していくのです。

この教会の理念に「状況に左右されず聖霊に聞き従い、神を信じ人を信じて」とありますが、それは私の信仰経験から来たものです。日本人は、苦労話が好きで、その労苦や愚痴を言い合い、慰め合います。しかし、それは、解決や勝利がないことを前提としたこの世の風習なのです。愚痴や弱音を吐いたら、既に神による解決を諦めている証拠なのです。私は、神を馬鹿にするような弱音は吐けません。イエス様は「あなたの信じたとおりになるように。」(マタイ8・13)と言われました。人の目を気にして妥協し、あるいは弱音を吐いたら、既に敗北を信じているのです。

理念の2には、「祈りは問題や悩みを解決し、神の御心を確認する。讃美は癒しと喜びと力を与える。」とあります。苦しい時、つらい時、祈り続けます。一日とて悩んで過ごすことはできません。霊力と言いますが、常日頃祈りをしていない人は、いざという時に祈れません。体力がないと必要な時に動けないのと同様です。

そして、讃美をして、神に訴えます。この57編を歌った「私の心は揺るぎません。主よ。私の心は揺るぎません。私は主よ。あなたに褒め歌を歌い捧げます。我が魂、目を覚ませ。十弦の琴よ、立琴よ。目を覚まして、暁を。今、呼び起こそう。」と何度も何度も歌い続けました。

 

この歌を歌った時のダビデの状況はどんなものだったのでしょうか。サウル王に命を狙われ、国内のどこに行っても追われてしまうので、隣国ガテの王アキシュの所に逃げますが、そこでも捕まりそうになり、気の狂ったふりをしたのでした(Tサムエル21)。そして、洞穴に逃げこんだのです。ダビデは、両親だけは守ろうとモアブの王に両親を預けますが、ダビデ自身はサウルの軍勢に追われ続けます。ダビデをかくまい、剣を差し出した祭司アヒメレクの一族85人は、サウルによって皆殺しにされました。

 そんな時、ダビデと部下たちの隠れている洞穴に、サウル王が一人で用を足しに入ってきました。「ダビデの部下はダビデに言った。『今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です。』そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。」(Tサムエル24・4)。

 神に従わずに自分の判断や利得で行動するならば、神の祝福を得ることはできません。ダビデは、自分のいのちを付け狙うサウル王を殺す機会を得たのに、それを実行しなかったのです。そして、サウル王にこのようにして、ダビデへの神の祝福を宣言させてしまうのです。「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた。主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ。人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように。あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。」(Tサムエル24・17-20

 このような力強い真摯な信仰は、神への祈りと讃美から来るのです。

 「私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目をさませ。」と歌い続け、たとえ真夜中のような暗黒の時にあっても、「私は暁を呼びさましたい。」と告白するのです。


1月13日 「主は私の周りを囲む盾、私の栄光。」  詩編3編

詩編 < 3 > ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌
3:1
【主】よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
3:2
多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。 セラ
3:3
しかし、【主】よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
3:4
私は声をあげて、【主】に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。 セラ
3:5
私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。【主】がささえてくださるから。
3:6
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
3:7
【主】よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
3:8
救いは【主】にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。 セラ

先週に続いて私の心に浮かんできたのが、「あなたはわが盾 わが歌 わが砦 平和のきみ 力の神 とわの父 わが神 わが主よ わが神 わが主よ」という讃美です。これはユーチューブにありました。

 先週、この世の人は、知識によって生き、情報によって惑わされ、弱音を吐き、愚痴を言って挫折し敗北していくことをお話ししました。ただ、実際には、そのように生きている人々は、純真に神を信じ、信仰によって生きている人々を非難し、攻撃します。それは、私たちの存在が、神の実在を示すことになるので、不信仰者は、「神様、神様」と言って生きていけるものかと、意地になって攻撃してくるのです。

 妻が医局に居た時には、夜中も日曜も働かないし、「子どもをころころと生んで」、きちんとしたマナーもなく、勝手なことをすると非難されました。私もまた、信仰によって生きるということは、経済的保証もないし、仕事も能力もないということで、非難され、攻撃されました。人と交流しないで生きたいと思ったものです。

今でさえ、働き過ぎだ、だから病気になったのだ、と言われる始末です。そういう日本的無難な生き方は、信仰によって生きる人々を突き刺してしまうのです。「無理をするな。」というのは、「神を信じないで生きろ。」、「神を頼らないで能力と体力に応じて生きろ。」ということになるのです。実際には、ガンは二人に一人がなり、無理をしてもしなくてもガンにはなります。ガンになったのは事実ですが、無理をしたからとしたら、無理ができなくなります。

神を信じて生きるということは、無理であろうとなかろうと、神の導きと自分の果たすべき使命に生きるということです。妻の手術はうまくいき、守られました。経済的にもがん保険があり、却って祝されました。病気や入院を体験し、多くのことを学びました。今後も、養生しなければならないことは事実ですが、がんになったことで、私たちの生き方が間違っていたとは思いません。無理をしていたとも思いません。他の人には、多くのことをし、多くの業績を為してきた私たちが無理をしているように思われるかもしれませんが、私たちは楽しく充実して生きて来ました。

患難さえも喜んでいます。」(ローマ5・3という奥義は、困難や苦労を避けようとする日本的この世的生き方を排除します。牧師先生たちのフェースブックでは、妻のがんを聞いて、「癒しのためにお祈りします。」という言葉でした。人に対する言葉は、「祈ります。祈っています。」で十分なのです。私たちにとっては、無理をしないで、使命を果たすことを怠るよりも、苦しみと弱さがあっても神より与えられた導きに従って生きることの方が大事なのです。「与えなさい。」(ルカ6・38)。そうすればなくなります、ではなくて、「そうすれば、自分も与えられます。」が聖書的解答です。

 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Uコリント12・9-10

 がんになったことで、妻は自分の身体を労わり、大事にするという医療的奥義を学びました。私は、妻を労わり、大事にするということを更に学びました。私たちは、これまで多くの試練や困難がありましたが、だからといって、妥協したり、おざなりの生き方をしたりしてはいません。困難や弱さを体験するほどに、神が直接的に「弱さのうちに完全に現れる。」ことを体験してきたのです。

 「信仰がなくては神に喜ばれることはできません。」(へブル11・6)ところが、多くの信仰者が、困難が起こるとたちまち、信仰ではなく、不信仰に陥ってしまうのです。神の業は、能力によってなるのではなく、信仰によってなるのです。だからこそ、「弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじ」ることが大事なのです。

 日常生活で日本人が普通に語っている言葉や風習が、実は不信仰と惑わしの種となることに繊細でなければなりません。善意の言葉が、人の心の奥にまで立ち入って、信仰と希望を腐らせてしまうのです。

 日々いつも祈り、自分の心をチェックする必要があります。そして、自らの魂が、次のようあることを確認しています。

@  平安と喜びに満ちているか。

A  希望をもって前進する心構えでいるか。

B  敵意や恨み、怒りや欲望に捕らわれていないか。

C  冷静な判断と状況分析をしながら知恵に満たされているか。

人生は霊の戦いです。「私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる」という主との交流を続けてください。

 


1月20日 「天国を見つける人、招かれる人」 マタイ13章4446節 櫻井 圀郎師

【新改訳改訂第3版】

マタイ13:44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

 13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。

 13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

 

直訳:

天の御国は、人が見つけると隠して、喜びのあまり引き帰り、持つ限りの全物を売却し、その畑を買おうとする、畑の中に隠された宝のようである。

天の御国は、一つの非常に高価な真珠を見つけると、立ち去り、持つ限りの全物を売却し、それを買い取る、良い真珠を探している商人である人のようである。

 一 畑に隠された宝のような天国

 天国は「畑の中に隠された宝」に喩えられています。天国は「隠されている」のですから、非公開であり、秘密なのです。隠し場所が「畑の中」というのは現代人には常識はずれでしょうが、聖書の時代には安心確実な隠し場所の一つだったようです。

 「タラントの喩え」で、1タラント(六千日=約二十年=分の労働賃金)を預かった僕は畑の中に隠しておいて自慢しているからです。勿論、自分の畑か、自分に管理が任されている畑です。でも、見つからないよう隠すのは結構大変です。夜間に、灯りも点けずに、音を立てずに、相当大きな穴を掘り、相当深い所に埋める……。

 毎日、多くの使用人や小作人が耕作に入っていますから、彼らに発見されてないように……。喩えでは、そのように隠された宝を発見した人を天国に喩えています。どんな人が宝を発見できるのか、それがイエス様の喩えの眼目です。

 次に、天国の発見者は天国を買おうとしますが、いくら全財産を投じても、天国は買えるものではありません。

   二 最高級品を探し続ける真珠商人

 天国は「良い真珠を探している商人」に喩えられています。先の「隠された宝」に対して「隠れている真珠」、「発見された宝」に対して「発見する商人」と、主体と客体が入れ替わった構図です。

 この商人は、良い真珠を探している高級真珠専門の仕入れ業者です。普段から高級真珠を目にしている業者にして、驚くような非常に高価な真珠の発見です。

 畑の使用人と似た文章ですが、二つの言葉は微妙に違っています。畑の使用人は「引き帰り」「買おうとする」のに対して、真珠商人は「立ち去り」「買い取る」です。真珠商人が発見したのは「たった一つの非常に高価な真珠」です。内容不明ですが、潤沢な資金を持っている高級真珠専門業者が全財産を投じるモノです。

 実は、それが私たちなのです。一タラントでも大変な額ですが、私たちの贖いの代価は1万タラントに喩えられています。つまり、二十万年分の収入です。私たち、たった一人のために、基督は全財産、つまりご自身の生命を投じられたのです。

三 天国を見つける人、天国に招かれる人

 この二つの喩えから、天国とは、次のように考えることができます。

 第一に、天国は、一般公開されたテーマパークのようなものではなく、しっかりと隠され、秘密保持されているのです。天国を発見する人は、自分の畑(与えられた仕事)に忠実に務める人です。

 第二に、天国は、入国審査なく、誰でも入国できる所ではありません。天国が求めている国民の条件は厳格です。企業や同好会などと同様に、良い人材を求めています。不良品はいらないのです。中でも、特に優れた人材を見つけると、全財産を投じて手に入れようとします。天国は、品質管理に徹底しているのです。

 天国を見つける人は天国に招かれる人でしょうし、天国に招かれる人は天国を見つける人でしょう。