1月6日 「私の魂よ。目を覚ませ!」  詩編57

詩編(ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに)
57:1
神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。
57:2
私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。
57:3
神は、天からの送りで、私を救われます。神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。 セラ神は恵みとまことを送られるのです。
57:4
私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。
57:5
神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。
57:6
彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました。 セラ
57:7
神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。
57:8
私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。
57:9
主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。
57:10
あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。
57:11
神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。

 試練があった時に悩んでしまうと勝利することは殆ど難しくなります。「神の恵みによる」は真理ですが、神を信じないで悩むことを選ぶ人に神が勝利を与えることは殆どありません。試練は、嵐のようにじっと我慢して通り過ぎるのを待つようなことでは、打開できないものだからです。神は、イスラエルが荒野で過ごした40年のように、私たち自身が未熟で信仰を持てない場合には、多くの時間と経験をさせて神を信頼するように育てていくのです。

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Tペテロ5・7)とあるように、信者の時に思い煩いは、神を信じない罪びとの証拠であるように信者の時に教えられ、決して思い煩わないと決心をしたものです。

 魂とは、心と霊によってなり、神の国に行くのは、この魂です。動物は霊がないので、天国に行くことはありませんが、心があるので、それなりに考えてはいるでしょう。しかし、動物では霊がないので、悔い改めて救われることはないのです。

 「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(Uコリント7・10)とあるように、魂の救われている人は、悲しみや苦しみの時に、思い煩い悲しむよりもむしろ、悔い改め信仰を持つのです。ところが、魂の救われていない人、或は信仰によって歩んでおらず未成熟な人は、思い煩って崩壊していくのです。

この教会の理念に「状況に左右されず聖霊に聞き従い、神を信じ人を信じて」とありますが、それは私の信仰経験から来たものです。日本人は、苦労話が好きで、その労苦や愚痴を言い合い、慰め合います。しかし、それは、解決や勝利がないことを前提としたこの世の風習なのです。愚痴や弱音を吐いたら、既に神による解決を諦めている証拠なのです。私は、神を馬鹿にするような弱音は吐けません。イエス様は「あなたの信じたとおりになるように。」(マタイ8・13)と言われました。人の目を気にして妥協し、あるいは弱音を吐いたら、既に敗北を信じているのです。

理念の2には、「祈りは問題や悩みを解決し、神の御心を確認する。讃美は癒しと喜びと力を与える。」とあります。苦しい時、つらい時、祈り続けます。一日とて悩んで過ごすことはできません。霊力と言いますが、常日頃祈りをしていない人は、いざという時に祈れません。体力がないと必要な時に動けないのと同様です。

そして、讃美をして、神に訴えます。この57編を歌った「私の心は揺るぎません。主よ。私の心は揺るぎません。私は主よ。あなたに褒め歌を歌い捧げます。我が魂、目を覚ませ。十弦の琴よ、立琴よ。目を覚まして、暁を。今、呼び起こそう。」と何度も何度も歌い続けました。

 

この歌を歌った時のダビデの状況はどんなものだったのでしょうか。サウル王に命を狙われ、国内のどこに行っても追われてしまうので、隣国ガテの王アキシュの所に逃げますが、そこでも捕まりそうになり、気の狂ったふりをしたのでした(Tサムエル21)。そして、洞穴に逃げこんだのです。ダビデは、両親だけは守ろうとモアブの王に両親を預けますが、ダビデ自身はサウルの軍勢に追われ続けます。ダビデをかくまい、剣を差し出した祭司アヒメレクの一族85人は、サウルによって皆殺しにされました。

 そんな時、ダビデと部下たちの隠れている洞穴に、サウル王が一人で用を足しに入ってきました。「ダビデの部下はダビデに言った。『今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です。』そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。」(Tサムエル24・4)。

 神に従わずに自分の判断や利得で行動するならば、神の祝福を得ることはできません。ダビデは、自分のいのちを付け狙うサウル王を殺す機会を得たのに、それを実行しなかったのです。そして、サウル王にこのようにして、ダビデへの神の祝福を宣言させてしまうのです。「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた。主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ。人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように。あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。」(Tサムエル24・17-20

 このような力強い真摯な信仰は、神への祈りと讃美から来るのです。

 「私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目をさませ。」と歌い続け、たとえ真夜中のような暗黒の時にあっても、「私は暁を呼びさましたい。」と告白するのです。


1月13日 「主は私の周りを囲む盾、私の栄光。」  詩編3編

詩編 < 3 > ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌
3:1
【主】よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
3:2
多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。 セラ
3:3
しかし、【主】よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
3:4
私は声をあげて、【主】に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。 セラ
3:5
私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。【主】がささえてくださるから。
3:6
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
3:7
【主】よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
3:8
救いは【主】にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。 セラ

先週に続いて私の心に浮かんできたのが、「あなたはわが盾 わが歌 わが砦 平和のきみ 力の神 とわの父 わが神 わが主よ わが神 わが主よ」という讃美です。これはユーチューブにありました。

 先週、この世の人は、知識によって生き、情報によって惑わされ、弱音を吐き、愚痴を言って挫折し敗北していくことをお話ししました。ただ、実際には、そのように生きている人々は、純真に神を信じ、信仰によって生きている人々を非難し、攻撃します。それは、私たちの存在が、神の実在を示すことになるので、不信仰者は、「神様、神様」と言って生きていけるものかと、意地になって攻撃してくるのです。

 妻が医局に居た時には、夜中も日曜も働かないし、「子どもをころころと生んで」、きちんとしたマナーもなく、勝手なことをすると非難されました。私もまた、信仰によって生きるということは、経済的保証もないし、仕事も能力もないということで、非難され、攻撃されました。人と交流しないで生きたいと思ったものです。

今でさえ、働き過ぎだ、だから病気になったのだ、と言われる始末です。そういう日本的無難な生き方は、信仰によって生きる人々を突き刺してしまうのです。「無理をするな。」というのは、「神を信じないで生きろ。」、「神を頼らないで能力と体力に応じて生きろ。」ということになるのです。実際には、ガンは二人に一人がなり、無理をしてもしなくてもガンにはなります。ガンになったのは事実ですが、無理をしたからとしたら、無理ができなくなります。

神を信じて生きるということは、無理であろうとなかろうと、神の導きと自分の果たすべき使命に生きるということです。妻の手術はうまくいき、守られました。経済的にもがん保険があり、却って祝されました。病気や入院を体験し、多くのことを学びました。今後も、養生しなければならないことは事実ですが、がんになったことで、私たちの生き方が間違っていたとは思いません。無理をしていたとも思いません。他の人には、多くのことをし、多くの業績を為してきた私たちが無理をしているように思われるかもしれませんが、私たちは楽しく充実して生きて来ました。

患難さえも喜んでいます。」(ローマ5・3という奥義は、困難や苦労を避けようとする日本的この世的生き方を排除します。牧師先生たちのフェースブックでは、妻のがんを聞いて、「癒しのためにお祈りします。」という言葉でした。人に対する言葉は、「祈ります。祈っています。」で十分なのです。私たちにとっては、無理をしないで、使命を果たすことを怠るよりも、苦しみと弱さがあっても神より与えられた導きに従って生きることの方が大事なのです。「与えなさい。」(ルカ6・38)。そうすればなくなります、ではなくて、「そうすれば、自分も与えられます。」が聖書的解答です。

 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Uコリント12・9-10

 がんになったことで、妻は自分の身体を労わり、大事にするという医療的奥義を学びました。私は、妻を労わり、大事にするということを更に学びました。私たちは、これまで多くの試練や困難がありましたが、だからといって、妥協したり、おざなりの生き方をしたりしてはいません。困難や弱さを体験するほどに、神が直接的に「弱さのうちに完全に現れる。」ことを体験してきたのです。

 「信仰がなくては神に喜ばれることはできません。」(へブル11・6)ところが、多くの信仰者が、困難が起こるとたちまち、信仰ではなく、不信仰に陥ってしまうのです。神の業は、能力によってなるのではなく、信仰によってなるのです。だからこそ、「弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじ」ることが大事なのです。

 日常生活で日本人が普通に語っている言葉や風習が、実は不信仰と惑わしの種となることに繊細でなければなりません。善意の言葉が、人の心の奥にまで立ち入って、信仰と希望を腐らせてしまうのです。

 日々いつも祈り、自分の心をチェックする必要があります。そして、自らの魂が、次のようあることを確認しています。

@  平安と喜びに満ちているか。

A  希望をもって前進する心構えでいるか。

B  敵意や恨み、怒りや欲望に捕らわれていないか。

C  冷静な判断と状況分析をしながら知恵に満たされているか。

人生は霊の戦いです。「私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる」という主との交流を続けてください。

 


1月20日 「天国を見つける人、招かれる人」 マタイ13章4446節 櫻井 圀郎師

【新改訳改訂第3版】

マタイ13:44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

 13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。

 13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

 

直訳:

天の御国は、人が見つけると隠して、喜びのあまり引き帰り、持つ限りの全物を売却し、その畑を買おうとする、畑の中に隠された宝のようである。

天の御国は、一つの非常に高価な真珠を見つけると、立ち去り、持つ限りの全物を売却し、それを買い取る、良い真珠を探している商人である人のようである。

 一 畑に隠された宝のような天国

 天国は「畑の中に隠された宝」に喩えられています。天国は「隠されている」のですから、非公開であり、秘密なのです。隠し場所が「畑の中」というのは現代人には常識はずれでしょうが、聖書の時代には安心確実な隠し場所の一つだったようです。

 「タラントの喩え」で、1タラント(六千日=約二十年=分の労働賃金)を預かった僕は畑の中に隠しておいて自慢しているからです。勿論、自分の畑か、自分に管理が任されている畑です。でも、見つからないよう隠すのは結構大変です。夜間に、灯りも点けずに、音を立てずに、相当大きな穴を掘り、相当深い所に埋める……。

 毎日、多くの使用人や小作人が耕作に入っていますから、彼らに発見されてないように……。喩えでは、そのように隠された宝を発見した人を天国に喩えています。どんな人が宝を発見できるのか、それがイエス様の喩えの眼目です。

 次に、天国の発見者は天国を買おうとしますが、いくら全財産を投じても、天国は買えるものではありません。

   二 最高級品を探し続ける真珠商人

 天国は「良い真珠を探している商人」に喩えられています。先の「隠された宝」に対して「隠れている真珠」、「発見された宝」に対して「発見する商人」と、主体と客体が入れ替わった構図です。

 この商人は、良い真珠を探している高級真珠専門の仕入れ業者です。普段から高級真珠を目にしている業者にして、驚くような非常に高価な真珠の発見です。

 畑の使用人と似た文章ですが、二つの言葉は微妙に違っています。畑の使用人は「引き帰り」「買おうとする」のに対して、真珠商人は「立ち去り」「買い取る」です。真珠商人が発見したのは「たった一つの非常に高価な真珠」です。内容不明ですが、潤沢な資金を持っている高級真珠専門業者が全財産を投じるモノです。

 実は、それが私たちなのです。一タラントでも大変な額ですが、私たちの贖いの代価は1万タラントに喩えられています。つまり、二十万年分の収入です。私たち、たった一人のために、基督は全財産、つまりご自身の生命を投じられたのです。

三 天国を見つける人、天国に招かれる人

 この二つの喩えから、天国とは、次のように考えることができます。

 第一に、天国は、一般公開されたテーマパークのようなものではなく、しっかりと隠され、秘密保持されているのです。天国を発見する人は、自分の畑(与えられた仕事)に忠実に務める人です。

 第二に、天国は、入国審査なく、誰でも入国できる所ではありません。天国が求めている国民の条件は厳格です。企業や同好会などと同様に、良い人材を求めています。不良品はいらないのです。中でも、特に優れた人材を見つけると、全財産を投じて手に入れようとします。天国は、品質管理に徹底しているのです。

 天国を見つける人は天国に招かれる人でしょうし、天国に招かれる人は天国を見つける人でしょう。


1月27日 「私の助けはどこから来るのか。」  詩編121

詩篇  都上りの歌
121:1
私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
121:2
私の助けは、天地を造られた主から来る。
121:3
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
121:4
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
121:5
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
121:6
昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
121:7
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
121:8
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

30年ほど前、35歳くらいの時です。試練と困難が続き、嫌になってしまいました。妻子がおり、教会もあるので、逃げるわけにも負けるわけにもいきません。私は、悩むということは無意味であると若い時から分かっているので、この詩篇121編の讃美を思い出し、断食をしながら、山に向かって祈りに行きました。

 夜に出かけ、鬼怒川の祈祷院の方に向かいましたが、祈祷院では山ではないので、その近くの山を探しました。グーグルで調べると、どうも日光にある茶臼山517mのようです。ネットで映像をみると今は整備されていて登山ルートがありますが、当時はただの山道でした。何日か断食しながら祈ろうと思っていたので、人の来ない山を狙ったのです。

 持ち物は簡易テントを兼ねるポンチョと簡単な登山道具。そして水と少しの食料。午後に山頂について、火を起こし始めましたが、人の来ない所ですから、濡れた木ばかりでなかなか燃え上がりません。これが日本の伝道の現実だと思いながら、リバイバルを求めて、一生懸命燃やそうとします。5-6時間続けましたが、全く燃え上がらず、祈りに思いが集中しません。夜の10時を過ぎて、小雨が降り始め、どうにもならないとポンチョの下に隠れるのですが、雨が大降りになり、秋の寒さに危険を覚えて下山を始めました。道という道はなく、人が歩いた形跡のある登山道だけなので、夜道を懐中電灯で照らしても、草がぼうぼうでよくわかりません。

 まさかこんな低い山で遭難はないと思っていたのですが、危なさを感じ必死に祈り始めました。日本や教会のリバイバルの前に、妻子を抱えて死ぬわけにもいきません。5時間くらいかかってやっと山を下りると、車を置いた場所のすぐ脇に町営の露天風呂があり、箱にお金を入れて浸りました。本当に気持ちが良く、さっきまでの緊張が綻び、まるでエリヤを慰めたパン菓子と水のようだなと思いました(T列王記19・6)。

 皆さんには何度も話した体験ですが、忘れられない信仰の悟りでした。じたばたせず、山に向かって(天に向かって)目を上げ、助けを求めれば良いのです。天には行くこともできないのですから、わざわざ山に行かなくても良いのです。まして、山頂に上って、夜通し神に訴えなくても、「イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(4)のです。今週は、次の歌を紹介します。

 「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは天と地の造り主、主なる神様から来る。君はひとり誰かを求めている。それが誰かは知らないだろう。君の心を満たしてくれる人は、君を造られたお方。」

 問題や困難が起こると思い煩う人がいます。それは、神を信じる以前の習性、考え方から抜け出ていないからです。

誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Uコリント5・17)とあるように、「古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4・22-24)。つまり、クリスチャンとして新しい人になることを信じること、そして、古い自分の考え方あり方を捨て去るのです。

 その為には、どうしたら良いのでしょうか。テレビや新聞などを見ずに、ともかく洗脳され、頭がそれ一杯になるほどに聖書を読み続けるのです。悪いものや欲望に囚われたり、悪い教えに洗脳されるのはよくありません。しかし、実は、皆さん、多くの人がこの世の教えに既に洗脳されているのです。自分の責任と努力、そして能力で生きなさいと言うのですが、実際には恵まれている人々は、すでに多くの助けを受けているのです。

 私は、奨学金で大学、大学院に行き、全て自分の力で生きてきました。失敗をしたら終わりの人生でしたが、神を信じて安心しました。救われたのは、1976年3月31日、天城山荘で行われた金沢教会の日曜学校教師研修会でした。その前の卓球で、私は負けまいとする迫力、殺気で強かったのです。ところが、救われ同時に聖霊のバプテスマを受けて1時間くらい祈り続けたでしょうか。何か光り輝いた人生に生まれ変わったことがわかりました。その後の卓球では、全く迫力がなくなり、勝つことに執念がわかなくなりました。神共にあるならば、人間の力などいくら努力しても大したことがないと思ったのでした。

 その前兆は前年の12月28日に参加した初めての礼拝の聖餐式で、神に私への招きを求めて受け入れられたことを経験した時にもありました。帰省して友人たちとマージャンをしたのですが、全く勝負に拘泥しなくなり、次々に役満を得て大勝利したのでしたが、やりながら、ギャンブルはこれで最後、タバコもこれで最後と決めていたのです。キリストにあって、新しくされたのでした。

 実は、多くの人がキリストにある救いの体験や決心をないがしろにしています。それは、この世の情報を得すぎているからです。そして、聖書をあまり読んでいないからです。そんなことで、クリスチャンとして信仰の人生を力強く生きられるはずがありません。

 あなたの助け、あなたを満たしてくださるのは、キリスト・イエスお一人なのです。

 


2月3日 「あなたは病から救い出される。」  詩編91
詩篇 91:1 いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
91:2
私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。
91:3
主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。
91:4
主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
91:5
あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
91:6
また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。
91:7
千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。
91:8
あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
91:9
それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。
91:10
わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。
91:11
まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
91:12
彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。
91:13
あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。
91:14
彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。
91:15
彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
91:16
わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。

良子師の大腸がんは、殆ど勝利におわりました。櫻井先生が、これは間違いなく主の栄光で終わると言われましたが、そのとおりでした。その理由は、以下の通りであると考えています。

@  主を信じ従っている者にとっては、全ての困難は栄光の呼び水。

A  血液検査を始め、きちんと自己管理をしていた。

B  体調の悪化や状態の変化にしっかりと対応した。

C  栄養医学や抗ガンのメガC点滴など自ら開発した医学を適用できた。

D  恐れずに正しい判断で行動できた。病院、事前事後の処理、情報など。

E  家族が協力して助け、多くの祈りがあった。

転移もなく、却って健康になり、がん保険の給付で潤い、クリニックの組織と方針も改変できました。主に感謝します。

さて、私が不整脈で動けなくなった時のことを何度もお話ししていますが、もう一度振り返ります。1987年7月2日の祈祷会でした。4月にクリニックを開業し、5月に私が正教師となり、教会員の青年を結婚に結びつけた後でした。主勢の大火傷の手術、熊谷夫妻による教会員4人の引き抜き(その後、国外逃亡)、K夫妻の掻き回しによる結婚したM夫妻の離反、義兄の死とその家族への支援、その他、多くのことが起こり、先週の山への祈りの前年のことです。私は、断食の祈りを繰り返していました。

若気の至りと言いましょうか、日本のリバイバルと教会の成長を願うあまりに無理を繰り返していましたが、挫折するばかりでした。説教中に動けなくなり、情けなくて涙を流す中で、この詩篇91編が映画の画面のように縦書きで私の目の前に流れたのでした。

 「主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出される」まさに悪意の人々が私を苦しめるばかりですが、私は腹を立てずにただ祈っていました。本当は、せっかく救われた信者を惑わして自分の都合で連れ去るのですから、断腸の思いでした。現在も、そのような牧師は多くおります。我慢しても、ストレスになり、病気になるものです。でも、「主は救い出される」、「主は、ご自分の羽で、あなたを覆われる。」との御言葉に大泣きをしてしまいました。

 「悪者への報いを見る」ということがわかったのは、数年経ってでした。伝道師としての資格もなく、行き場がなくなった熊谷夫妻をかくまったのに、自信を持ったら自分の教会を始めるために教会員を引き抜いていき、心配して訪問したら、私を見下して横柄な態度を取り、こんな人だったのかと驚きました。数年して誤魔化しがばれて破産し、アメリカへ夜逃げしていきました。K夫妻も、家族が離散しています。

ただ、私は、「あなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。」の御言葉に刺されました。「私は、神を避け所としていない。勝手に行動しているだけだ。」数日、横になりながら、祈りました。「心臓が破綻したのは、神に信頼せず動き回っているからだ。」30周年記念誌には、「これまでの成功思考と自分中心との生き方を悔い改め」と書いてあります。その後の9月に萩原姉が洗礼を受けています。

 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4・6)とあるように、病気になろうと、困難や試練に出くわそうと、「わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」(1011)と語られる主を信じて、信仰の道を歩めば良いのです。

 「無理をしないで。」という言葉を掛けるのはやめたほうが良いと言いました。むしろ、無理をしてでも、「主を愛しているか」(91・14)と問うた方が良いでしょう。妻は、病症で、フリーソフトのギデオン聖書を聞くと、すぐに寝入ってしまいました。人生で初めて、ゆっくりと過ごした2週間だったそうです。クリニックニュースの2月号に、妻自身の闘病記があります。なにもなく、1982年2月1日に家族3人で千葉に引っ越し、壮絶に生きて来ました。人から呆れられ、諫められ、馬鹿にされ、責められ、そして、今は、誉められ、頼られ、感謝されるようになりました。人の評判や意見は、流れ去っていくものです。

 「彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。」(91・14-16

 情報を得ても、参考にはなりません。すぐに変わるものです。人の意見や知識は、千差万別です。頼るわけにはいきません。神の言葉、聖書こそ、あなたの人生の指針にするべきです。人に助けを呼び求めたことはありません。神しか、助けられないと知っているからです。


2月10日 「悪者は裁きの中に立っていられない。」  詩編1

【新共同訳】詩篇 1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2
主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3
その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4
神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5
神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6
神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

この第一編は、詩篇全体の概論と言えます。神の統治と裁きの中で、悪人が神に逆らい、正しい者に罠を仕掛けて道から外れさせようとするということを教えます。そういう人生で、神との交わり、神の教えを喜びとすることこそが、人を正しくし、そのように神との交流を保つ人は、多くの祝福を得、そして神の国へと導かれるのです。そして、悪人は、なんとしてもそれを阻止しようと、騙したり、攻撃したりしてくるのです。

 私たちは、そのようなことの背後にあるサタンの惑わしをしっかりと把握して、罠にかからないように、惑わされないように注意しなければなりません。その罠や惑わしというものは、現実の社会において、どのようにあるのでしょうか。

1. 人は、基本的には罪びとであるということを悟る。

 「罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(Tヨハネ1・8)。全ての人は、罪を悔い改めて救われる必要があるのです。「弱い者、愚かな者を神が選ばれた」(Tコリント1・27)とあるのは、そういう人のほうが能力や力の限界に気が付いて、神を求めやすいからです。ところが、神のもとに来ても、悔い改め、罪を許されるために救われるということができない人が多くおります。悔い改めるということは、やり直そう、という意識がなければできず、弁解やごまかしをする人々は、その場をやり過ごせればよい、という気持ちがあるからです。つまり、救われていないのです。

 「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。」(ローマ6・20)。ところがパウロは、「私は本当にみじめな人間です。だれが、この死の身体から、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7・24)と悔い改めても、悔い改めても、罪が自らを誘惑することに苦しんでいます。つまり、救われた人でさえも、この地上にいる限りは、罪に苦しむのですが、その罪性を正当化したり、誤魔化したり、隠したりするのが、罪びとなのです。

2.悪人とはどういう人であるかを悟る。

 この1編で、新改訳は「悪人」、新共同訳は「神に逆らう者」と訳し得います。要するに、悪人とは、神に逆らう者なのです。人は、神の前では、罪を許され救われた人か、許されていない人に分かれます。ただ、救われていない人が悪人とは限らず、そのうちに魂が救われることもあるのです。パウロのように、神に逆らいクリスチャンを迫害した悪人であっても、悔い改めれば、救われて大使徒になることもあるのですが、悪人に対しては、クリスチャンは用心しなければなりません。

 イエス様は、偽善者に注意しろ、と何回も警告しています。偽使徒、偽教師、偽預言者、などと警告されるのは、教会が成長を始めてからのことです。高価な物には偽物があり、安物や価値のない物には偽物はありませんん。教会の働きに価値があり、人の人生に大きな影響を与え、教会の指導者は貴重であるからこそ、偽牧師、偽教師が現れるのです。

 ところが、真理を悟っていない人は、教会に問題があったり、変な人がいたりすると、神を信じられない、などと言って、教会を去ります。それは、その人が謙遜でなく、救われていなかった証拠となるのです。

 ですから、教会を去る人がいたり、掻き回したり、不平不満を言う人がいたら、執り成しの祈りをするだけは必要ですが、戸惑うことなく、放っておくしかないのです。魂の救われていない人を教会に無理して引き留めると、問題を起こすのです。「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。」(Uコリント11・13)。彼らは間違いなく悪人です。私の若い頃の牧師としての苦難は、この悪人たちに惑わされ掻き回されたことによります。苦い経験でした。

.信仰者が惑わされるのはなぜか。

 「神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず」(1)ということをしないからです。『天路歴程』は聖書の次に信仰者に読まれた本ですが、人生は戦いなのです。健康の管理をしない人は、たとえ素晴らしい信仰者であっても、病気になり苦しむことになります。経済や財産の管理をしない人は、未信者の前でも惨めな生活を送らなければならなくなります。家族や伴侶を大事にせず、伝道や信仰ばかりに走ると、彼らから愛されず、孤独な人生を過ごすことになります。

 つまり、神に逆らうこの世と罪びとが仕掛ける罠が、誘惑や快楽なのであり、その計らいに従ってはいけないのです。神様を信じていればすべてうまくいく、というのは、神に従うのではなく、神を従わせようとする放漫な者の生き方なのです。人を大事にする愛する、ということは、自分勝手な人間にはできないことです。信仰生活で、人との接点を持たない人がいたら、それは信仰生活ではなく、堕落した生活なのです。

 私たちが救われたのは、それで終わりなのではなく、「聖徒達を整えて奉仕の業をさせ、キリストの身体を建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するためなのです。」(エペソ4・12.13


2月17日 「私は、真っ直ぐに立つ。」  詩編20編

新改訳改訂第3版】
詩篇 指揮者のために。ダビデの賛歌
20:1
苦難の日に【主】があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。
20:2
主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。
20:3
あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえを受け入れてくださいますように。 セラ
20:4
主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。
20:5
私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。【主】があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。
20:6
今こそ、私は知る。【主】は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。
20:7
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、【主】の御名を誇ろう。
20:8
彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。
20:9
【主】よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。

苦難の時、問題にぶつかった時に、どのように行動するかで、その人の実態が明らかになります。人生にやり直しはなく、言い訳もできず、自分の存在で対応するので、神の国への準備ができているかどうかも、苦難の中で明らかになります。ただ、苦難への対応の失敗や過ちを通して、自らを修正し、成熟させ、強くすることができるので、苦難というのは、神の国への入国資格の試金石ということができます。

 この20篇は、ダビデ王が戦いの準備をしながらも、戦車や馬、そして兵士が十分でない時に歌われたものらしいです。人生は戦いです。逃げるわけにも、降参するわけにもいかないのです。戦いの勇気のない人は、神の国への道を歩むことができないのです。

1.     穀物の捧げ物とは(3

 レビ記2章によれば、それは小麦に油を注ぎ、乳香と塩を添え、そのままか或は焼いて祭司に持っていき、祭司はその一部を焼き尽くし、残りは祭司のものとなります。祭司はそれを聖所の庭で食べます(レビ6・16)。これは、「主へのなだめのかおりの火による捧げ物」です。

2.     全焼のいけにえとは(3

 傷のない牛、羊、山羊、鳩などの雄であり、捧げる人はその全焼のいけにえの頭に手を置き、自分を贖うための代わりであることを告白します。

 このように、信仰者は苦難の時に、神との関係を確認し、自らの罪を悔い改め、神との交流に入るのです。しばしば苦難の時に悩んだり思い煩ったりする人がおりますが、それはこの神への誓願をしない人です。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4・6.7)。

 罪びとの特徴が思い煩いであり、信仰者の特徴が喜びと平安です。どちらも、不確定な状況における対応の違いです。願うということは、人生にとって非常に大事なことです。日々の人生で「幸せになろう!」、「人を愛そう!」と願わなければ、その人は既に不幸です。先日、横を向いて歩いていたら、向かってきた女性から3歩前くらいなのに、「どこを向いているんだよ。」と不機嫌な顔で睨まれました。思わず、祝福を祈りました。

3.     主の御名を誇ろう(7

 私自身の救われた時からのこれまでの歩みを振り返ると、主の恵みと導きばかりを思います。自らの判断でしたこと、自らの力で為そうとしたことは、困難の中で祈りに導かれ、そして忍耐を与えられ、勝利してきました。信仰とは忍耐ですが、その忍耐は主がおられ守ってくださっているという希望の中で生み出されたものです。

先日、長柄で作業していたら、恰幅の良い高齢者から声を掛けられました。紙面では書けませんが、大変な実力者でした。私が一生懸命働いて、一人で庭を作り上げていることに気が付いたので、うれしく思ったようです。つましく生活しているだけでなく、庭を作り上げようと努力していることに喜んだのです。村の建設の理念は、自然と人間が共生するふる里村憲章として表され、世界遺産のスイス・レマン湖周辺のグランボー村と国際姉妹村を締結したのでした。それが、ただの住宅地になりつつあることに失望していたようでした。高齢でありながら、かくしゃくとして希望をもって歩んでおられる姿に私もうれしく思いました。

 「いくさ車を誇り、馬を誇る」とは、現代ではどんなことでしょう。この時代の戦いにおいて、戦車や馬は恐ろしく強力な武器でした。敵の強大な兵器を前にして、味方は怖気づいています。多くのクリスチャンが、この社会における自らの弱さに怖気ついているのと同様です。

 実は、富や権力を握っている人々は、その不安定さに恐れているのです。戦車があっても、会社が強大であっても、その操縦する人、社員が弱ければ脆くも破れてしまうのです。だから、ゴーン氏のように強大な権力と財産があっても、さらに増やしたく願い、不正をしてしまうのです。「彼らは、ひざをつき、そして倒れた。

4.私たちは、立ち上がり、真っ直ぐに立つ(8

 その方は、私がいろいろな話を聞いても動じないでいることを不思議に思ったようでした。私の特徴は、人に動ぜず、物に驕らず、欲望に囚われないことのようです。15年くらい前、クラブメッドの外国人スタッフから「あなたはシリアスだ。」と言われ、子供たちから「どういう意味」と尋ねられたことがありました。私は、外国人だからといって迎合はしません。有名人にあっても卑屈にもなりません。

 自分の人生です。自分の容貌、体格、健康、能力、職業、地位、学歴、財産、家柄、そんなものにこだわってはいけません。自分の生き方を選ぶのです。時代にも、慣習にも、家にも、家族にも、囚われないで、真っ直ぐに立ちあがるのです。そして、「主よ。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。」と祈りの声を叫びあげ、人生の戦いを勝ち抜くのです。

私は、そのようにして教会の牧師、会社の経営者、医療法人の経営、治療の会の理事長として生き抜いてきました。いまだ、気力も体力も衰えてはいません。82歳のその方も、人生の戦いを生き抜いてきた気概を強く保持していました。世の中でも、強く生きてきた人は、やはり違うものです。そして、強く生きてきた者同士が感じる気概があるものです。

神の国で、あなたと会った時、「同士よ。よく戦い抜いてきたね。」と語り合うものでありたいと願います。

 


2月24日 「十字架の苦しみ。」  詩編22

詩篇22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
22:2
わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
22:3
けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
22:4
私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
22:5
彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
22:6
しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
22:7
私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
22:8
「【主】に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
22:9
しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
22:10
生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。
22:11
どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。

十字架刑というのは、史上最も残酷な死刑です。手のひらに釘を打たれ、足も脛に釘を打たれるので支えることはできません。全身の重みが手のひらに掛かるので、手の肉は裂け、肩は脱臼し、そして次第に血が流れて死んでいくのですが、あまりの痛みに失神することもありません。「イエスを十字架に付けたのは午前9時であった。」(マルコ15・25)。「十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声でエロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと、『我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコ15・33.34)。なんと六時間以上、手に打ち付けられた二本の釘と足の脛の一本の釘で磔になっていたのです。「ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて」(15・44)とあるので、普通はもっと時間が掛かるのでしょう。時間が掛かり夜になるといけないので、他の二人は脛を折られました。

なんと惨い、と苦しくなるような残虐な刑でしょう。なぜ、神の子がこのような苦しみを受けられたのかということは、なかなか理解できないことです。岩淵まことさんの讃美が浮かんできました。

心に迫る 父の悲しみ 愛する一人子を十字架に付けた

  人の罪は 燃える火のよう 愛を知らずに 今日も過ぎていく

  十字架から 溢れ流れる泉 それは 父の涙

  十字架から 溢れ流れる泉 それは イエスの愛

   父が静かに見つめていたのは 愛する一人子の傷ついた姿

  人の罪を その身に背負い 父よ、彼らを赦してほしいと

 人間は、本当に罪深い存在です。ニュースを見ればすぐにわかります。ところが、日本は性善説に立っています。「話せばわかる。信じているよ。本当は良い人なんだ。」などという言葉が飛び交いますが、それは自らの罪深さを隠そうとする人々の言い逃れです。そして、自分の罪深さを棚に上げて人を責めるのです。

 クリスチャンが、罪を悔い改めるということは、「自らの罪が燃える火のよう」であることを認めることです。自らは何の正当性もなく、罪に捕らわれるということを悟って、自らの力ではこの罪に対して全く無力であるので神に全面降伏をするということです。

 なぜ、父なる神は、子なる神の人としての十字架の苦しみを聖定したのでしょうか。言い訳や言い逃れをする人がいますが、罪を認めた人は、罰を受けようとします。罪というものは、謝れば赦されるというものではありません。罰を受けてこそ赦されるのです。罰や犠牲を逃れようとする人は、救いという大きな恵みを受けていないか、わかっていないのです。「イエス様を信じれば、全ての罪が赦される。」と簡単に救いを伝える人は、自分がそのようであれば良いと安易に捉える偽教師です。

誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16・24)とイエス様は言われました。救いを求める人々は、この苦難を敢えて選び、神の国への道を進むのです。自分を捨てないで好き勝手なことをし、「外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱい」(マタイ23・28)の人を相手にしてはいけません。イエス様は、教会の中にはびこる偽善者への注意を繰り返しています。人間は、魂が救われなければ、必ずそのようになるのです。救われていない人は、常に自分のことばかり考えているのです。

 「十字架を負う」とは、他人の救いと助けになるために自分が犠牲になることを意味します。私自身も「やってられない」と嫌になることが正直言ってあるのですが、このイエス様の十字架の姿を思いみると、とても勝手なことはできません。そのような生き方こそが、自己中心という罪との闘いそのものなのです。

 マタイ一九章で金持ちの青年が、自分は十戒を守っていると誇らしげにイエス様に伝えながらも、神の国への確信をもっていないことで教えを乞います。イエス様が「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」(21)と言うと、それはできないと去っていきます。皆さんは、どうでしょうか。私自身は、いつでもその心構えはできています。なぜなら、神に従うしか、神の国への道はないと、43年のクリスチャン人生の中で悟ったからです。

 「わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。」(2)とダビデは叫び続けます。「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(3)。神は聖(この世とは超然として離れておられる。)であって、私たちは、神の摂理に信頼して、ただ讃美を献げるだけなのだ、ということです。

 人々は、私たちが試練と苦しみの中にあっても感謝しているのを見て「神に救い出させよ。」とあざ笑います。しかし、信仰の奥義とは、信仰と神に富や成功を求めることではなくて、神との人格的交流なのです。「母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。」(10.11)。凄まじい神への信頼です。うまくいかなかろうと、助ける者がいなかろうと、神を信頼しているのです。

 イエス様の十字架での叫びは、私の魂を揺さぶります。そして、どこまでも主に従い、主のしもべとして十字架を負って生きようと決意を固めさせます。私には、とても十字架の苦しみは無理です。それならば、クレネ人シモンのように、「イエスの十字架をむりやり背負わせた」(マタイ27・32)人生を生きていきたいと覚悟を決めるのです。

 


3月3日 「主にあって喜び、楽しめ。」  詩編32

詩篇 32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2
幸いなことよ。【主】が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。
32:3
私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
32:4
それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。 セラ
32:5
私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を【主】に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ
32:6
それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。
32:7
あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。 セラ
32:8
わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
32:9
あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。
32:10
悪者には心の痛みが多い。しかし、【主】に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
32:11
正しい者たち。【主】にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

 先週、十字架の意味をお話ししました。ところが、自らの罪深さを認めず、神を信じない人々にとって、イエス様が十字架に掛かったということは、教祖が罰を受けて死んだ、ということくらいにしか感じません。つまり、罪びとという自覚が無ければ、十字架の贖いが自分の罪の身代わりであるということの意味もわからないのです。ですから、その人が魂の救われたクリスチャンか否かのチェックには、十字架の贖いが生活や考え方に浸透しているかどうかが大事です。このことを、私たちの教団の信仰綱要では「救いの外的証明」として、「義とまことの聖を備えた生活」として位置付けています。

 キリスト教と名乗っていても、それが異端であるかどうかの識別には、この十字架の贖いを否定し、行いによる救いを強調することです。つまり、この十字架の贖いのすばらしさを体験できない人々が、批判的になって、異端と言われる宗教を始めたのです。異端とは、キリスト教ではなく、魂も救われない教えで、エホバの証人、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会、世界基督教統一神霊協会(統一協会)の有名な3つの他に、多くの惑わしの教えがあります。教理的な特徴は、聖書以外の啓示を唱えること(新旧約聖書に他の経典を加えること)や、三位一体の否定、地獄の否定などがあります。

 日曜聖研で学んだように、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Tコリント1・18)なのです。「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(1・21)。

神は、知恵や推敲を凝らして分析的論理的に神を探る人は、拒否するのです。なぜなら、そのような人々は、神を自分の為に捉えようとするからです。そういう面では、鬱的に自分の中に閉じこもったり、囚われたりする人を神は拒みます。なぜなら、神を求めるのではなく、幸せや不幸を自分の行動や性格などに原因を探ろうとするからです。信仰者は、悩んではならないのです。罪を犯したり、間違ったり、失敗をしたら、言い訳をしたり、弁解をするのではなく、自分が根っからの罪びとであることを確認して神の前に自分をさらけ出し、救いと助けを求めるのです。

 罪を隠そうとすると、「一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果て」るのです。ところが、罪びとは悔い改めることを知らず、自分よりも罪深い人を探し出して批判し、自らを正当化するのです。そうすると、神の「御手が昼も夜も私の上に重くのしかか」るのです。それでも、十字架の贖いを知らないので、他人に対して攻撃的になるのです。世界中にそういう罪びとがうごめいています。罪びとの誤魔化しに騙されてはいけません。どんなハンサムも、美女も、内面は醜いのです。

 

罪びとは、決して神に降参しないのです。悔い改めない人の末路は地獄です。だからこそ、異端は地獄の存在を否定するのです。神を信じない人、罪の告白ができない人、それは神がその人を救いには召さなかったのです。或は、救いのチャンスを自分の愚かさによって逃してしまったのです。「あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。」そのような馬は、勝手なので主人の御用に仕えることなく、殺されてしまうのです。

神の選びや召しの尊さ、ありがたさを思うと同時に、誰でもが悔い改めるということはできない、という怖さ、神の裁きの厳格さを思います。残念ながら、あなたが恵みによって救われても、あなたの愛する人は、罪によって頑ななのです。「あなた方の召しのことを考えてごらんなさい。・・・神は、・・・この世の愚かな者を選び、・・・この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。」(Tコリント1・27.28)。むろん、愚かだから、弱いからといって悔い改めることができるわけでもなく、却って頑固な人もおります。ともかく、あなたが選ばれたのです。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって献げる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えに優る神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4・6.7)。むろん、私自身も思い煩いそうになる時はあります。罪とは、思い煩うように働きかけを私たちにするので、私は、思い煩いをかなぐり捨てて、主に祈り、讃美をするのです。思い煩って、良いことは何もありません。

 ともかく、本当に魂の救われた人は、「あなたは私の罪のとがめを赦されました。」ことを自ら知っているのです。「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。」もし、あなたの内に喜びがなく、救いの確信がないのであれば、その確信と救いを得るまで、「愚かに」なって神に願うのです。罪びとにはこれができないのです。そして、俗事に頭が満たされるのです。

 救われた者は、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。(詩篇1・2)のです。そのような愚か者なのです。その人の会話を聞いていれば、魂の救われた人か否かはすぐにわかります。信仰者は、聖書のことばや讃美を喜びとして、いつもそれを口に出しているのです。不信仰者は、自分のことを口に出し、俗事に心を奪われているのです。


3月10日 「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。」  詩編37編

詩篇 37:1 悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。
37:2
彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
37:3
【主】に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。
37:4
【主】をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
37:5
あなたの道を【主】にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
37:6
主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
37:7
【主】の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
37:8
怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
37:9
悪を行う者は断ち切られる。しかし【主】を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。
37:10
ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。
37:11
しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。
37:12
悪者は正しい者に敵対して事を図り、歯ぎしりして彼に向かう。
37:13
主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。

東日本大震災から8年が経ちました。津波の被害の甚大さは、湾に積もったヘドロが巻き上げられて真っ黒な比重の重い海水となったことが原因でもあることがわかってきました。原発事故も未だに多くの住民が帰れない程の多くの被害を起こしました。被災者の苦しみ悲しみ、そして犠牲的な生活は、私達にも深い葛藤をもたらしました。自然災害には諦めも付くのですが、政府・企業の利益追求の災いが公害や事故につながっている現状には痛みだけでなく、怒りもこみ上げるものがあります。

 私たちは、そのような時に感情的になったり、攻撃的になったりするよりも、むしろ聖書を読み、祈ることによって、神の御心を伺い、神にある判断をするのです。この聖句には、そういう時に「腹を立てるな。不正を行う者に対して妬みを起こすな。」とあります。それは、彼らは「草のようにたちまちしおれ」るからですが、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(Uペテロ3・8)とあり、神の国で永遠に生きる約束を握った者にとって、この世の栄耀栄華も露の輝きのようにはかないものなのです。

 小学校時代に中国の古典『聊斎志異』を読んで、荒唐無稽な話に驚きながらも、「人間万事塞翁が馬」(人生は何が起こるかわからない。別な古典からの格言)と思ったことを覚えています。小6の時に読んだ『方丈記』の「朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。」に涙して、仏教の世界観に抵抗すべく満足のいく人生を歩む決心をしたのは中1の春でした。高校時代は、武者小路実篤の理想郷建設思想に感銘をうけたのですが、その「新しき村」に生きる人々の弱さ浅ましさを知り、見切りをつけて、社会の成功者となるべく志を持ったのが高3でした。大学では生協を中心とした学生運動の委員長になりましたが、政治闘争の虚しさを悟り、ジャズや絵画にも凝り始めました。マージャンやパチンコそして、酒やタバコにふけりましたが、心の底には絶望感があり、苦しんでおりました。

 そして、神のことばである聖書を知り、キリストイエスを信じて生きるに至ったのですが、その後の人生に惑いはありません。確かに、真っ直ぐに生きるので、試練や艱難は多かったのですが、これぞ十字架の道と覚悟を決めて生きて来ました。

 神を信じない人々の悪行や攻撃、奸計は多くありましたが、腹を立てないで落ち着いて対処してきたつもりです。自称クリスチャンの罠や企みにも辟易してきましたが、怒って攻撃を返したことはありません。それは、聖書にそのような戦いや争いが多く書いてあるからです。「あなたがたは、自分自身を試し、また吟味しなさい。」(Uコリント13・5)とあるように、自らをチェックすれば、未だ多くの罪深さや弱さ、未熟さがあります。それならば、他の人もまた、弱さや罪深さが十分にあるのです。

私は、感情に囚われるよりも意志をもって生きるタイプです。何よりも大事なことは、神の国への道を着実に歩むことです。途中には、山あり谷ありであり、正規な道が遠回りなこともあります。強盗もいれば、獣もおり、誘惑の道もあることでしょう。そういうものを眺め、様子を見ることを楽しんでおりますが、私は道を外したことはないつもりです。でも、多くの人は、道を外したり、歩もうとしないことが多いように見受けられます。愚痴を言ったり、弱音を吐いたりすると先に進めません。山歩きは、計画的に無理なく、しかし、着実に目的を目指して進まなければ遭難するのです。

 「あなたのみことばは、私の足の灯、私の道の光です。(詩篇119・105)とあるので、聖書を読み教えられながら、「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(5)ことを体験してきました。大事なことは、悪人がどのようにしようと、政府や会社や組織が不誠実であろうと、「主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。」3.4)ということです。

 自分のミスや罪深さに関してさえ、寛容であるべきです。なぜなら、主が罪を許して下さったのであり、それは正しいが故ではなく、罪びとであることを認めたからです。他人に対して厳しい人は、自らの赦しを確認していないからです。或は、救われていないからです。

 東北の被災地への何度も行き、ごみ焼却場の灰の放射能鑑定を10万円もかけてしました。イスラエルにも3人で行き、放射能清浄器を輸入しようとしたり、放射能汚染物質のガラス固化を政府に働きかけたりしました。子供の甲状腺がん対策のためにヨウ化カリウムを無料で贈呈しました。これらの働きに五百万円以上を掛けましたが、徒労に終わりました。

 いろいろなことをしてきましたが、確かに終末が近づいているという実感を強く感じております。そして「主を待ち望む者」(9)であることを強く認識しています。もはや、人の働きは、主のはかりごとを止めるものではありません。主が来られた時、「主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」(6)のです。




3月17日 


3月24日 「誰が自らの過ちを悟れるでしょう。」  詩編19編7〜14

19:7 【主】のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、【主】のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
19:8
【主】の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、【主】の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
19:9
【主】への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。【主】のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
19:10
それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11
また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
19:12
だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。
19:13
あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
19:14
私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主

この詩篇の6節までは自然啓示として、神の栄光を褒め称える自然を語りますが、実は多くの人がそのような神の存在と一般的な罪の確認だけで済ませています。神の言葉である聖書によらずして、神の前の罪を教えられることはなく、聖書を読まずして謙遜にも聖められることもないのです。そして、一般的な罪認識だけで過ごし、誰もが罪を犯しているのだからしょうがないだろう、という考えで生きているのです。

【主】を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1・7)とありますが、全地を造られ、裁きをされる神を恐れることは、普通の人にはできないのです。そして、聖書を読むことや祈りをすることを「さげすむ」のです。ですから自称クリスチャンでも、毎日みことばを読まずにいられる人は、聖霊に導かれた人ではないのです。聖霊に導かれた人は聖めを求めずにはいられないのです。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい。」(ヨハネ15・7)とあるように、神の国の人は過去の洗礼を受けたとか、教会に通っているということではなくて、神のことば聖書を慕い求め、神の国に生きることを熱心に求めている人なのです。

このように生きる人は、「神の国とその義とをまず第一に求め」(マタイ6・33)ます。この世の人は、そうではなくて、欲望を求めます。富、快楽、自己実現など、世の中に溢れています。イチロー選手が引退しましたが、なぜあのように尊敬されたのでしょうか。それは、手を抜いて自堕落に生きるのではなく、どのような時も節制と自己訓練に励み、自らの向上に努めていたからです。彼はクリスチャンではないでしょうが、自制を身に着け否定的な言葉を吐かなかったことは見事なことです。

あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4・と神はカインに忠告をしているのですが、彼は憤ったままに弟のアベルを殺してしまいます。ピエール滝という芸人が20代からコカインを吸っていて逮捕されました。犯罪であることを知りながらも20年以上やめられずに偽りの人生を過ごしていたのです。ただ、恐ろしいことは、麻薬を使っている人を罰しても更生させることができないので、それを犯罪とせずに医療でケアすることを義務化させるだけで、麻薬の売買だけを犯罪とする国があるそうです。つまり、罪を相対的なものにしているのです。神なき社会の特徴です。

認知症の高齢者を殺したり、多くの障害者を殺した人が、その方が社会には益であるからと言っています。ナチス・ヒットラーが障害者や劣等民族を皆殺しにしようとしたことと同次元です。正当性があるならば人を殺しても良いとして、証拠をねつ造する事件も起こっています。

魂が救われ、神の国に行くということは、保証された立場ではありません。「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。」(Uペテロ2・20)とあるように、教会や信仰に躓いた人々が、堕落していったことを多く見ています。躓いたというならば、もっと信仰を深め、聖く謙遜に歩めば良いのですが、人に躓くというのは、自らの罪を認めていないからです。偽りのクリスチャンの特徴が批判的になるということです。 

その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16・8)とあるように、聖霊の介在なしには、神の前の罪というものはわからないものです。そして、神を信じていると言いながら魂の救われていない人々は、これら「罪、義、裁き」について異議を唱えるのです。なぜなら、わからないからです。ところが、救われている人々は、人の罪についても、自らの罪についても、ただ悔い改めるだけで人を批判する思いは起こらないのです。

7節から9節にあるように、救われている者にとって聖書は、「たましいを生き返らせ」、「わきまえのない者を賢くし」、「人の心を喜ばせ」、「人の目を明るくし」、「主への恐れはきよく」、「主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」のです。だから聖書を読むことが何よりも喜びであり、救われていない者にとって聖書を読むことは人生訓であり、自らの教養のためなので、義務的に読むのです。

 聖書の言葉は厳しいこともあり、わかりにくいこともあるのに、信仰者にとっては「多くの純金よりも好ましい。蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」のです。「戒めを受ける。」のに、嫌がったり、恐れたりするのではなく、「それを守れば、報いは大きい。」と受け取るのです。そして、「数々のあやまちを悟る」、「隠れている私の罪」、「傲慢の罪から守ってください。」と「全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなる」ことを願うのです。

 このような人々が神の国への道を進む人なのです。「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。」神の国への巡礼の道を進んでいくのです。

 私は経営者ですから、多くの人と会い、接し、世話をしたり、雇ったりしなければなりません。正直言って罪びとばかりであり、自分の関心、自分の利益を求める人ばかりです。しかし、だからこそ、自分が救われていることの喜びと感謝が溢れ、そのような人々を取り成しながら、仕えていく方途を探って生きるのです。この罪の世において、自分の魂が救われているという事実は、「金よりも、純金よりも好ましい」ことなのです。

 


3月31日  「主は私の義に従って報いて下さる。」  詩編182032

詩篇18:20 【主】は私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。
18:21
私は【主】の道を守り、私の神に対して悪を行わなかった。
18:22
主のすべてのさばきは私の前にあり、主のおきてを私は遠ざけなかった。
18:23
私は主の前に全く、私の罪から身を守る。
18:24
【主】は、私の義にしたがって、また、御目の前の私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。
18:25
あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、
18:26
きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。
18:27
あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます。
18:28
あなたは私のともしびをともされ、【主】、私の神は、私のやみを照らされます。
18:29
あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。
18:30
神、その道は完全。【主】のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。
18:31
まことに、【主】のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。
18:32
この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。

分子整合精神医学の先達アブラハム・ホッファー博士の歩みをまとめました。本来の名前はアブラムですが、その先見的かつ信念を持った指導的歩みから聖書のアブラハムのように呼ばれていったようです。敬虔なクリスチャンでユダヤ人でもあり、ユダヤ人合同墓地に埋葬されています。彼は、最初の任地で精神病院患者の悲惨さを目にし、向精神薬が全く効果がないだけでなく、身体にも精神にも悪いことを証明しましたが、医学界からは迫害され、その文献が削除されてしまいました。それでも、本を出版して啓発し、晩年はバンクーバー島で診察をしておりました。

 私たちも医学界の批判の的になることを避けて学術論文などは出さず、出版で広く人々に啓発をしてきました。今回の『新・低血糖症と精神疾患治療の手引』は非常に良い本になると思います。教会を始めた時に集まったのが精神病の患者ばかりで、一般の人々は怖がり、変に思って殆ど定着をしませんでした。他の教会を追い出され、この教会に来てトラクト撒きや奉仕をしている彼らを受け入れて歩みました。他の牧師たちが彼らを追い出したのもよく理解できました。彼らの言動は、残念ながらかなり異常でした。でも、私には同じようなことはできず、教会の成長を諦めることも覚悟しました。彼らとの会話や病院に訪問したことなどを忘れることはできません。ろれつが回らず口から泡を飛ばし、結局は薬害で早く死んでいきました。

 彼らの言動は目に余ることも多くありましたが、彼らが抱える問題の大きさを思い遣るととても怒ることはできませんでした。家族から捨てられ、それをしょうがないと受け入れる彼らは確かに自らの過ちを悔い改めた信仰者でした。彼らには教会しかなかったのです。弱い者、貧しい者、罪びととされる者の悲しみは、なかなかわからないものです。

マリヤ・クリニックの診療是は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです。」(マタイ9・12.13.ルカ5・31.32)です。生贄とは、神の前で必要なものですが、実際には形式的な信仰深さを現わす尺度となっており、人に対する配慮や愛としての憐れみを無視している状況でした。マタイ15・5には、供え物を父や母への孝行よりも優先しろというパリサイ人の教えがイエス様に否定されています。人、特に弱者、病者と掛り合わない信仰者は、いくら形式的外面的に立派でも、神の前では受け入れられないのです。

治療で向精神薬をできるだけ回避することにしたのは、その時の経験が大きくありました。「主は私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。」という御言葉は、常に私の心を諫めていました。自分一人で生きている者は、信仰深く歩んでいるように自認していても、神には義とは認められないのです。人に対する行いが大事です。

恵み深い者には恵み深く。」は、自分の行いを恵み深いように戒めます。金や力があるから人を助けるのではなく、神が観ておられるから、力を尽くして恵み深くあろうと努力するのです。余力でおこなう慈善は、報いのあるものではありません。それは当然の義務です。

 「全き者には全くあられ」。全き者などおりません。しかし、適当で良いと思う者は、必ず罪に負け、誘惑に負けるのです。平気で欲に生きる信仰者を多く知っていますが、神の助けや守りを受けていないように思います。信仰を持っていると言いながら、神の恵みをいつも体験していないなら、それは偽りの信仰です。

 「きよい者にはきよく、曲がった者には、捻じ曲げる方。」(26イサクやヨセフはあくまで誠実に生き、人々の強欲に対して真っ直ぐに神の目を意識して対応しました。ダビデの誠実さも、神の祝福の源です。罪を犯しても指摘されたらすぐに悔い改め、罰を覚悟する潔さです。

 罪と欲望に満ちた現代社会で誠実に生きることは難しいことです。しかし、神を知っている、信じているというだけで良しとし、この世での打算的な対応をする人に対して、神が味方するとは思えません。信仰を隠したり、人に証しをしない人は、自分を神よりも大事にしているのです。

 自分を誇り自分勝手に生きる人も、悩んで自分のことに思い煩っている人も、実は同じ自己中心です。神が救われる「悩む民」(27)は、神にあって誠実に生きようと悩み苦しむ人です。人生で多くの悪人に攻撃され、騙され、脅されてきました。しかし、悩み嘆くよりもむしろ、神を信じて耐えることを選んできました。神に嘆き、呻く日々がなんと多くあったでしょう。「主、私の神は、私の闇を照らされます。」(28)。神に祈る者だけがつかむ光です。御言葉のひかりです。「主はすべて彼に身を避ける者の盾。」(30)なのです。

 20代、30代、40代、50代、戦いの連続でした。唯一のテキストは聖書でした。この世のマニュアル書は、ずるく立ち回れと告げます。信仰者がどうして自己中心に生きられましょう。私を攻撃する者と同じレベルになど断じてできません。攻撃を自らの力で返すなどということも、神に仕える者としてしてはいけません。

 43年前の3月31日、聖霊のバプテスマを受けました。それ以来、「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え」(ヨハネ14・26)、「真理の御霊が来ると、あなたがたを全ての真理に導き入れます。」(ヨハネ16・13)。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。」(ヨハネ16・33)。

 「この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。」(32)のです。この世の知恵を誇ってはなりません。