10月7日 「虚栄の信仰。」  使徒8924

使徒 8:9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
8:10
小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。
8:11
人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。
8:12
しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
8:13
シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。
8:14
さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
8:18
使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、
8:19
「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。
8:20
ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。
8:21
あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。
8:22
だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。
8:23
あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」
8:24
シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」

人は、なぜ宗教に入るのでしょうか。神を信じる者として、神が人を創造されたのは間違いないのですが、人間の罪がその信仰心をゆがめます。そして、「罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(サタン)に従って、歩んでいました。」(エペソ2・1)。その生き方は、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行」(2・2)うものです。

 ですから、救われたとい証拠は、自分の欲望のままに生きない、ということです。先週お話ししたように、魂が真に救われたクリスチャンは、迫害や試練に動じないのです。魂が本当に救われているのか、形式だけのクリスチャンなのかということは、キリスト教の歴史にとっても、教会にとっても、また信仰者自身にとっても、大きな問題です。

 ピリピによって伝道されたシモンは、魔術を行って人々を驚かし、それによって生きていました。人々は、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」(8・10)と信じて、彼にお金や物を貢いでいました。ところが、それが偽りであり、ごまかしであることは自分自身が知っていました。ですから、「シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。」のです。

 さらにペテロとヨハネが来て、聖霊のバプテスマを人々に受けさせると、そのすごさに驚きました。「使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、『私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい』と言った。」シモンは、これまでの生活習慣や罪によって汚された考え方から抜け出ていなかったのです。

 罪を悔い改めて洗礼を受けても、昔の考え方や生き方から抜け出られない、或は抜け出ようとしない人が多くおります。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」(ヤコブ1・23.24)。礼拝の後、スモールグループで説教を振返り、自らの感想と信仰を告白するのは、この忘れてしまうという罪びとの修正を補うためです。さらに、食事を共にするということは、旧約の「和解のいけにえ」と同じように、神の前で信仰者と共に食事をしながら分かち合うことが必要だからです。

 神のことばに従い、「みことばを実行する人」は、神の祝福を受けます。私が個人的にアドバイスをしても全く守らない人もおります。それは自由です。私は、主のしもべとしては、ただ教え、執り成し、祈ることに徹すれば良いと考えています。しかし、滅びはその人のものです。

自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」(ヤコブ1・26)。その人が自己中心であり、罪びとであるかどうかは、その人の生活で明らかになります。自分に囚われているのです。信仰者というのは、自分の利益、富、考え、立場などをいつでもみことばによって修正するのです。私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。」(Tコリント4・1-3

 思い悩む人は、自分を捨てきれず、自分を変えようとせず、周囲と神と状況を都合の良いようになるように願うからです。全てを覚悟すればノイローゼになることはありません。しかし、罪とは自己中心なので、悩むということが本来の人間性なのです。ところが、それでは救われず、解放されることはないのです。ペテロは、はっきりと悔い改めを求めています。「あなたの心が神の前に正しくないからです。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」(8・21-23)。

私は、日本には聖霊に満たされ、神に従って祝福される信仰者が少ないのは、このような神の言葉に忠実である牧師が少なく、人を配慮してしまうからだと思っています。説教者は、みことばを軽くしたり、変えたりしてはいけないのです。また、信者のほうも、みことばに忠実というよりも、ほどほどのクリスチャンであれば良いと考える傾向があるからです。私が牧師になろうとした時、未信者はもちろん、信者も、そこまで熱心にならなくてもよいのに。」と諭そうとしてきたことは事実です。これではリバイバルが日本に起こるはずがありません。

狭き門から入りなさい。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者は稀です。」(マタイ7・13.14)。信仰者は確かに喜び、平安、愛に満たされます。しかし、決して楽で楽しく無理がないとは書いてありません。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16・24-26


10月14日 「時宜に叶った行動と伝道」  使徒82639

使徒8:26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)
8:27
そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
8:28
いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
8:29
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。
8:30
そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。
8:31
すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。
8:32
彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
8:33
彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
8:34
宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
8:35
ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。  8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
8:38
そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
8:39
水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

「叶う」という文字は、十字架を口で告白すると書きますが、それは願望が実現するという意味です。不思議な奥義です。義という感じも、イエス様の下に我を置くということです。ところで「じぎにかなう」とは「その時、その場にふさわしい」という意味です。

  エチオピアではソロモン王の時以来、エルサレムへの関心があり、女王カンダケに仕える高官がエルサレムの訪問と礼拝の帰りでした。その帰り道に出会うように天使がピリポに向かって告げます。

  神が私たちに語り掛ける方法としては、聖霊によって直接に超自然な声で、聖書によっての示唆、内住の聖霊の示唆、そして天使による語りかけなどがあります。サムエルに語り掛けられた時のように、「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」(Tサムエル3・9)と神の語り掛けに耳を傾けていることも大事です。

 高官は、イザヤ書を読んでいるところでした。昔は、読むという時には音読が多かったようです。声に出さなければ、神はそれに応答しません。祈りも声を出すことが必要で、黙想の祈りというのは、神への祈りというよりも、自己吟味に用いられることがありますが、神との会話としては声に出す習慣を身につけなければなりません。異言も大事です。人前では、聞こえないような小さな祈りでも構いません。

 ピリポは行動の人ですから、その馬車に追いつき、高官に語り掛けます。「導く人がいなければ、どうしてわかりましょう。」この言葉は、私たちクリスチャンに対する戒めでもあります。

 宦官が読んでいたのは、イザヤ53章であり、イエス様が「私たちのすべての咎を」(イザヤ53・6)負って死なれたことでした。宦官は、短い時間でピリポの教えと聖書の真理、そしてイエス様の十字架の救いを理解し、洗礼を求めたのでした。

 伝道というのは、いろいろなパターンや方法があります。簡単な言葉を伝えただけで救われ、忠実な信仰生活を送っている人もいます。劇的な回心をした人もおります。丁寧で長期間の教えとアドバイスを経てクリスチャンになった人もおります。通りがかりの人のために祈ったら、その人が教会に来て救われたというケースもあります。

 この宦官にはいろいろと考えることがあったのでしょう。そして、神を求める心には強いものがあり、期待してエルサレムに登ったのに、解答がないので、苦しみながら聖書を朗読していたのだと思います。

 いろいろな人生があり、苦しみ楽しみ、富や貧しさ、才能や愚かさもあります。ところが、神を信じるということに関しては、差はなく、却って恵まれた人生を過ごしている人が救われることは少ないのです。

この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(Tコリント1・21)とあるように、人間の知恵や能力などは、神を信じるには妨げになることが多いのです。「金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。」(マタイ19・23)と言われているとおりです。

 ところが、クリスチャンが自分の愚かさや貧しさ、能力の無さを恥じ、賢くなろう、強くなろう、と願い、そうしたら伝道ができ、人々が自分の声を聴くと間違って考えてしまっているのです。可能性としては、金持ちや優秀な人が神を信じることは少ないかもしれませんが、それらは神の手に委ねて、私たちは、賢さの中で伝道するのではなく、祈りながら神の導きに委ねて伝道することが必要なのです。

 「神の祝福は流しそうめんのよう」と私はよく言っていますが、思い煩ったり、論理を求めたり、保証を求める人は、時宜を失います。先週の聖研で、「あなたが主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」(申命記28・2)という祝福を自分に思い描いてください、と語ったら、皆さん物質的な祝福を上げることができずに、心の中のものを上げていました。

 大人にならなければ大人のことはわかりません。結婚しなければ結婚のこともわからず、子育てもわかりません。働かなければ、仕事もわかなないでしょう。ただ、それらを祝福のものにしようという意志と願いが無かったら、大人は苦しいものであり、結婚も子育ても仕事も苦いものとなるでしょう。信仰というのは、神の祝福を求めるものなのです。

 神の祝福であって、自分の努力の成果ではないのです。例えば、幸せな家庭像を描き、その為に努力すればするほど、その実現が難しくなり、家族への不満や不平が募るものです。大事なことは、この家族を与えてくださった神を感謝することです。「神の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10・22)とあるように、自分の内面や能力を思い煩うのではなく、神の御心を絶えず求めれば、そこに祝福と伝道の時があるのです。

 しもべは主人の言葉を聞くことに集中します。主人の言葉に対して時宜を失ったら、その言葉は意味のないものとなります。そして、主の言葉の多くは、「与える」ことに結びつきます。「得ようとする」のは、この世の法則であり、「与える」ことは神の国の法則です。「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。」(ルカ6・38)。魂を得るために、必要なことも自分を犠牲にすることです。伝道とは、自己犠牲を覚悟することに他なりません。そのようにしてこそ、神の働きが進むのです。