10月7日 「虚栄の信仰。」  使徒8924

使徒 8:9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
8:10
小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。
8:11
人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。
8:12
しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
8:13
シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。
8:14
さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
8:18
使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、
8:19
「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。
8:20
ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。
8:21
あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。
8:22
だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。
8:23
あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」
8:24
シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」

人は、なぜ宗教に入るのでしょうか。神を信じる者として、神が人を創造されたのは間違いないのですが、人間の罪がその信仰心をゆがめます。そして、「罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(サタン)に従って、歩んでいました。」(エペソ2・1)。その生き方は、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行」(2・2)うものです。

 ですから、救われたとい証拠は、自分の欲望のままに生きない、ということです。先週お話ししたように、魂が真に救われたクリスチャンは、迫害や試練に動じないのです。魂が本当に救われているのか、形式だけのクリスチャンなのかということは、キリスト教の歴史にとっても、教会にとっても、また信仰者自身にとっても、大きな問題です。

 ピリピによって伝道されたシモンは、魔術を行って人々を驚かし、それによって生きていました。人々は、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」(8・10)と信じて、彼にお金や物を貢いでいました。ところが、それが偽りであり、ごまかしであることは自分自身が知っていました。ですから、「シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。」のです。

 さらにペテロとヨハネが来て、聖霊のバプテスマを人々に受けさせると、そのすごさに驚きました。「使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、『私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい』と言った。」シモンは、これまでの生活習慣や罪によって汚された考え方から抜け出ていなかったのです。

 罪を悔い改めて洗礼を受けても、昔の考え方や生き方から抜け出られない、或は抜け出ようとしない人が多くおります。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」(ヤコブ1・23.24)。礼拝の後、スモールグループで説教を振返り、自らの感想と信仰を告白するのは、この忘れてしまうという罪びとの修正を補うためです。さらに、食事を共にするということは、旧約の「和解のいけにえ」と同じように、神の前で信仰者と共に食事をしながら分かち合うことが必要だからです。

 神のことばに従い、「みことばを実行する人」は、神の祝福を受けます。私が個人的にアドバイスをしても全く守らない人もおります。それは自由です。私は、主のしもべとしては、ただ教え、執り成し、祈ることに徹すれば良いと考えています。しかし、滅びはその人のものです。

自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」(ヤコブ1・26)。その人が自己中心であり、罪びとであるかどうかは、その人の生活で明らかになります。自分に囚われているのです。信仰者というのは、自分の利益、富、考え、立場などをいつでもみことばによって修正するのです。私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。」(Tコリント4・1-3

 思い悩む人は、自分を捨てきれず、自分を変えようとせず、周囲と神と状況を都合の良いようになるように願うからです。全てを覚悟すればノイローゼになることはありません。しかし、罪とは自己中心なので、悩むということが本来の人間性なのです。ところが、それでは救われず、解放されることはないのです。ペテロは、はっきりと悔い改めを求めています。「あなたの心が神の前に正しくないからです。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」(8・21-23)。

私は、日本には聖霊に満たされ、神に従って祝福される信仰者が少ないのは、このような神の言葉に忠実である牧師が少なく、人を配慮してしまうからだと思っています。説教者は、みことばを軽くしたり、変えたりしてはいけないのです。また、信者のほうも、みことばに忠実というよりも、ほどほどのクリスチャンであれば良いと考える傾向があるからです。私が牧師になろうとした時、未信者はもちろん、信者も、そこまで熱心にならなくてもよいのに。」と諭そうとしてきたことは事実です。これではリバイバルが日本に起こるはずがありません。

狭き門から入りなさい。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者は稀です。」(マタイ7・13.14)。信仰者は確かに喜び、平安、愛に満たされます。しかし、決して楽で楽しく無理がないとは書いてありません。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16・24-26


10月14日 「時宜に叶った行動と伝道」  使徒82639

使徒8:26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)
8:27
そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
8:28
いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
8:29
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。
8:30
そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。
8:31
すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。
8:32
彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
8:33
彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
8:34
宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
8:35
ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。  8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
8:38
そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
8:39
水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

「叶う」という文字は、十字架を口で告白すると書きますが、それは願望が実現するという意味です。不思議な奥義です。義という感じも、イエス様の下に我を置くということです。ところで「じぎにかなう」とは「その時、その場にふさわしい」という意味です。

  エチオピアではソロモン王の時以来、エルサレムへの関心があり、女王カンダケに仕える高官がエルサレムの訪問と礼拝の帰りでした。その帰り道に出会うように天使がピリポに向かって告げます。

  神が私たちに語り掛ける方法としては、聖霊によって直接に超自然な声で、聖書によっての示唆、内住の聖霊の示唆、そして天使による語りかけなどがあります。サムエルに語り掛けられた時のように、「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」(Tサムエル3・9)と神の語り掛けに耳を傾けていることも大事です。

 高官は、イザヤ書を読んでいるところでした。昔は、読むという時には音読が多かったようです。声に出さなければ、神はそれに応答しません。祈りも声を出すことが必要で、黙想の祈りというのは、神への祈りというよりも、自己吟味に用いられることがありますが、神との会話としては声に出す習慣を身につけなければなりません。異言も大事です。人前では、聞こえないような小さな祈りでも構いません。

 ピリポは行動の人ですから、その馬車に追いつき、高官に語り掛けます。「導く人がいなければ、どうしてわかりましょう。」この言葉は、私たちクリスチャンに対する戒めでもあります。

 宦官が読んでいたのは、イザヤ53章であり、イエス様が「私たちのすべての咎を」(イザヤ53・6)負って死なれたことでした。宦官は、短い時間でピリポの教えと聖書の真理、そしてイエス様の十字架の救いを理解し、洗礼を求めたのでした。

 伝道というのは、いろいろなパターンや方法があります。簡単な言葉を伝えただけで救われ、忠実な信仰生活を送っている人もいます。劇的な回心をした人もおります。丁寧で長期間の教えとアドバイスを経てクリスチャンになった人もおります。通りがかりの人のために祈ったら、その人が教会に来て救われたというケースもあります。

 この宦官にはいろいろと考えることがあったのでしょう。そして、神を求める心には強いものがあり、期待してエルサレムに登ったのに、解答がないので、苦しみながら聖書を朗読していたのだと思います。

 いろいろな人生があり、苦しみ楽しみ、富や貧しさ、才能や愚かさもあります。ところが、神を信じるということに関しては、差はなく、却って恵まれた人生を過ごしている人が救われることは少ないのです。

この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(Tコリント1・21)とあるように、人間の知恵や能力などは、神を信じるには妨げになることが多いのです。「金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。」(マタイ19・23)と言われているとおりです。

 ところが、クリスチャンが自分の愚かさや貧しさ、能力の無さを恥じ、賢くなろう、強くなろう、と願い、そうしたら伝道ができ、人々が自分の声を聴くと間違って考えてしまっているのです。可能性としては、金持ちや優秀な人が神を信じることは少ないかもしれませんが、それらは神の手に委ねて、私たちは、賢さの中で伝道するのではなく、祈りながら神の導きに委ねて伝道することが必要なのです。

 「神の祝福は流しそうめんのよう」と私はよく言っていますが、思い煩ったり、論理を求めたり、保証を求める人は、時宜を失います。先週の聖研で、「あなたが主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」(申命記28・2)という祝福を自分に思い描いてください、と語ったら、皆さん物質的な祝福を上げることができずに、心の中のものを上げていました。

 大人にならなければ大人のことはわかりません。結婚しなければ結婚のこともわからず、子育てもわかりません。働かなければ、仕事もわかなないでしょう。ただ、それらを祝福のものにしようという意志と願いが無かったら、大人は苦しいものであり、結婚も子育ても仕事も苦いものとなるでしょう。信仰というのは、神の祝福を求めるものなのです。

 神の祝福であって、自分の努力の成果ではないのです。例えば、幸せな家庭像を描き、その為に努力すればするほど、その実現が難しくなり、家族への不満や不平が募るものです。大事なことは、この家族を与えてくださった神を感謝することです。「神の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10・22)とあるように、自分の内面や能力を思い煩うのではなく、神の御心を絶えず求めれば、そこに祝福と伝道の時があるのです。

 しもべは主人の言葉を聞くことに集中します。主人の言葉に対して時宜を失ったら、その言葉は意味のないものとなります。そして、主の言葉の多くは、「与える」ことに結びつきます。「得ようとする」のは、この世の法則であり、「与える」ことは神の国の法則です。「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。」(ルカ6・38)。魂を得るために、必要なことも自分を犠牲にすることです。伝道とは、自己犠牲を覚悟することに他なりません。そのようにしてこそ、神の働きが進むのです。

 


10月21日 「冷たいか熱いかであって欲しい。」  使徒9116

使徒9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
9:2
ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3
ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4
彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
9:5
彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:9
彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
9:12
彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」
9:13
しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
9:14
彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
9:15
しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
9:16
彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」

わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」(黙示録3・15

  日本人は、子供の頃から、良い子であるように躾けられています。褒めて育てると言われますから、よけい人の目を意識したこじんまりとした素材となります。失敗や挫折に弱く、冒険やチャレンジなどゲームや本の上でのものとなり、一人で生きていくことなどできなくなります。

  先日、聖研で申命記28章の「主の御声を聞き従うならば、何をしても祝福される。」から、どんな祝福を望むかと質問したところ、多くの人が返事に窮していたことが、日本人教育・躾・社会規範の結果かと印象深く忘れられません。「出る釘は打たれる。」かのように、「冷たくも、熱くもない人間になるように社会教育を受けてきたのでしょう。

  ユダヤ人は、人や国などよりも神の教えと自分たちの習慣を大事にしてきた人々で、そのために歴史的にも多くの迫害や批判を受けてきましたが、それに打ち勝って富や知恵を獲得してきました。迎合しないことが民族的独立性を保つ強い要因になり、また、強い意志や忍耐力にもつながってきたと思います。勤勉であることから日本人はユダヤ人に似ているとも結われますが、ユダヤ人の独立性から比べると日本人の迎合性は、全く異なるものとなっています。私は、教会員には、他国の人々と親しく付き合ってもらいたいのですが、それができないのは、日本人の閉鎖性が大きいのです。日本人が良いと思っていることが、他国ではそうではないことを知らなければなりません。外国の人は日本人の単なる会話には同調できません。内容のある会話をしてみてください。国際性を持たない人は天国性も持てないと私は思います。日本人が普通に考えていることは、神の国からは離れているのです。信仰をもって生きるには、自分の在り方を変えないといけないのです。

  パウロは、生粋のユダヤ人であり、ユダヤ教正統派としてガマリエルの下で厳格な教育を受け、さらにローマの市民権も持つ家柄に生まれていました。彼は、自らの受けた教えからキリスト教徒が間違っており、社会を不安に陥れているとして取り締まりをしようとして、その捕縛の長としての資格を得るほどでした。

 そのように間違いを正し、不埒な者を捕まえようとするパウロは、若いがゆえに激しく暴力的ではありましたが、正義感であり熱心でありました。このパウロに対して、神が超自然的に語り掛けたのです。これは、他の人には聞こえず、理解もできないことでした。

 ダマスコにいるクリスチャンたちは、サウロという男が、自分たちを捕まえに兵隊を連れてくるということでおののいていました。ところが、そのサウロに会いに行って、執り成しの祈りをしなさいと主の幻が語り掛けます。アナニヤはその通りに出かけて家に入り、「兄弟サウロ」と語り掛けます。これは、アナニヤもまた「聖霊に満たされ」(9・17)ていたからです。聖霊に満たされていなければ、神の業をすることはできません。

 パウロは「キリストの名のために、どんなに苦しまなければならない」神の「選びの器」です。パウロの特徴は、信念と信仰の為ならば、どんな犠牲も苦労も困難も問題としないでぶつかっていくことです。このようなパウロが12番目の使徒として、他の誰よりも功績のある働きをしていくことになります。

 私自身も多くの迫害や試練、そして戦いがあり、そして超自然的な主の祝福で守られてきました。しかし、私にとって最も大きな試練は、日本人の信者は、これまで生活してきた習慣や考え方から脱却することができず、信仰の戦いをしようとしないことです。福音という良き祝福の知らせを、単なる精神的な拠りどころとしてしか捉えていないことです。それは牧師たちにも言えることです。説教を作ること、信者を増やすことに関心を持ち、神の御心を行うこと、聖霊に満たされることをないがしろにしているように思われます。日本的な体制の維持に関心があるように思われます。

 「大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち、神のイスラエルの上に、平安と哀れみがありますように。」(ガラテヤ6・15.16

 人の考える合理的な模索や努力、計画、知恵はどれにしても、無益に過ぎ去っていくように思われます。「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなた方の持つ信仰が、人間の知恵に支えられず、神の力に支えられるためでした。」(Tコリント2・4-5

 私たちの生活が慣れるなかでぬるま湯のものになる中で堕落が始まります。そして、試練が起こり、奮起して悔い改め、神にすがる必要があるのに、もはや悔い改める力もなくなり、災いが私たちを崩壊させていくのです。ユダヤ人への試練は、民族特有なもので、逃れようがなく、彼らを孤立させ、神の民として保ちました。私たちクリスチャンは、聖霊に満たされていないと、罪に惑わされ、知識と知恵をこねくり回して、神と教会に怠惰になっていきます。そして、罪とサタンの惑わしによって、滅びの中に入っていくのです。その時には、もはや助けようがない状態になっているのです。私は、そういう人々を見てきました。積極的な反発や不従順に対して、神は助けることはしません。その苦しみの中で救いを求めることができたら、どうにかなります。神に従うというのは、ぬるま湯の状態ではできないことなのです。


10月28日 「助けを得て伝道し、聖められ。」  使徒918〜28

使徒9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
9:19
食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
9:20
そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。
9:21
これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」
9:22
しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。
9:23
多くの日数がたって後、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、
9:24
その陰謀はサウロに知られてしまった。彼らはサウロを殺してしまおうと、昼も夜も町の門を全部見張っていた。
9:25
そこで、彼の弟子たちは、夜中に彼をかごに乗せ、町の城壁伝いにつり降ろした。
9:26
サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。
9:27
ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。
9:28
それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。

パウロは劇的瞬間的回心をしました。ただ、人によっては少しずつ変えられ、新生というものを経過的に獲得する人もおります。アメリカの福音派は、救いを瞬間的なものと捉える傾向があり、そのことが信者の聖化や成熟をないがしろにするものとなったという分析もあります。

  救いは、悔い改めに基づくものですが、この悔い改めによって、人は神との正しい関係になかったことに気が付き、方向転換つまり、回心をするのです。そして、人間の能力や努力によってではなく、キリストによる罪の贖いと救いを唯一の拠りどころとして受け入れ、信じることが必要です。ところが、実際には、真に救われていないのに、救われたと誤解して、それが信仰生活だと捉える大変な過ちをしている信者もおります。

  「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」(ピリピ2・12)とあるように、救いとそれに伴う聖化は、信者の側の努力と願いが必要になっており、その実践こそが、救いの外的証明として、誰の目にもわかり、自らも品性や考え方の変化として確認しうるものとなります。

 つまり、信者になったものは、その考え方、嗜好、生活、その他、殆どの面で変化がみられるものであって、その変化がない場合には、救われてはいないという証明になるわけです。それは、形式的なものではなく、模倣ではないので、先週お話ししたように、先輩信者の真似をしたり、その教会の習慣に捕らわれるものであってはいけないわけです。

 また、罪の誘惑もあるので、聖書を読み、祈り、聖徒の交わりを保つことが信者の聖さを保つための必要条件となります。ところが、人は生まれつきの性格や環境社会による習性が影響を与えるので、それらを聖書や祈り、聖霊の導き、そして聖徒の交わりである教会で教えられながら、成熟、聖化していくことが重要なこととなってきます。

以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」(Tペテロ1・14.15

 信者にとって大事なことは、救いというもの、信仰告白は、それだけで祝福と天国が保障されるされるほど、安易なものではなく、「救いの達成」、「聖なるものとされ」ることが必要であることを常に覚えていなければ、罪の誘惑に陥るということです。

 そして、これらのすべての祝福が教会においてこそあるのです。「教会はキリストの身体であり、一切のものを一切のものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1・23)が奥義なのです。

 前にもお話ししたようにパウロの救いと働きは、教会にとって非常に大きなものであり、神はそれを計画しておられたわけです。サウロは、救われた後直ちに「イエスは神の子である。」(20)と宣べ伝え始めるのですが、これを聞いた信者も他の人々も驚きました。そして、ついにはサウロ殺害計画を持ち、門を見張ります。ところが、ここで「彼の弟子たちは、夜中に彼をかごに乗せ、町の城壁伝いにつり降ろした。」(27)とあります。既に、サウロには弟子ができていたのでしょうか。驚きです。

 エルサレムに逃げたサウロを「みなは彼を弟子だとは信じないで恐れていた。」(26)は尤もでしょう。ところが、「バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き」(27)執り成しをします。私は、この「慰めの子」という意味を持つ、バルナバという人が好きで、昔は自分のアメリカ名をBarneyと言われるようにしたのですが、自分でもよく発音できず、彼の正規な名前ヨセフから会社名にしたのです。むろん、マリヤの夫の名前でもあります。

 サウロはエルサレムでも、命を惜しむことなく伝道したのですが、彼を守り支え、教えたのが、「兄弟たち」(30)でした。パウロの書簡は新約聖書の多くの部分を占め、ギリシャ語を用いる教養ある教理と伝道は、世界宗教となることに大きな貢献をしています。ただ、それは教会の働きとして、多くの兄弟である信者に支えられてのことであり、その信者との交流こそが彼を聖め、成長、成熟させたのでした。

 聖めや成熟は、伝道と信徒との交わり、つまり教会においてなされます。伝道をし、人と交流するからこそ、執り成しや助けや奉仕をし、そして結びつきが強くなり、自ら一人では得られないこと、キリストの奥義を体得していくのです。私自身は、多くの試練、困難、闘い、失敗、挫折、未熟さを体験してきましたが、それらが全て無益な者でなかったことを知ります。

 草花や木々の世話をしていると育て方・育ち方がそれぞれ全く異なることを教えられます。皆さんがどのような品種で、どのような成長をし、どのような花を咲かせ、どのような実がなるか、自らをわきまえて祈りと御言葉、そして聖霊の感化と教会の働きの中で確認していって欲しいと願います。

 なぜ、「恐れおののいて自分の救いの達成に努め」なければならないのでしょうか。それは、「あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。」(Uテサロニケ1・4.5


11月4日 「あなたのような神が、他にあるでしょうか。」  ミカ718節 石原充江師

ミカ 7:18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。
7:19
もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。
7:20
昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。

1.創造主との正しい関係を持つ。そのために仲介者としてのイエスを受け入れること。

       2:7、ヨハネ14:6

2.ブランド意識を持つ

       エペソ2:10

3.人生の試練を乗り越えるために、神に信頼し、

    み言葉を実行する。In God We Trust

    ヨシュア1:9、イザヤ41:102コリント129


11月11日  「『神の安息』と『真の献身』」  申命記51314

申命記 5:12 安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、【主】が命じられたとおりに。
5:13
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
5:14
しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も──そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。
5:15
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。


聖書直訳 
「6日間は働き、汝の仕事の全てを為せ。しかし、7日目は汝の神ヤハウェへの安息日であり、汝の男奴隷も女奴隷も汝と同様に休息しうるために、汝も、汝の息子も、汝の娘も、汝の男奴隷も、汝の女奴隷も、汝の牛も、汝の驢馬も、汝の如何なる家畜も、汝の家にいる如何なる外国人も、如何なる仕事も為す勿れ。」

 「安息日律法」は、前半だけが強調され、後半は余り日の目を見ることなく、陰役に留まっています。本日はその部分に着目します。

 「安息日聖別」の根拠には二種あります。一つは、出エジプト記二〇章で、神の創造の業を根拠にしています。大上段の構えです。二つ目は、申命記で、エジプトの地における奴隷からの解放という事実に基づいています。つまり、「安息日」は、「神が休んだから休む」というのではなく、「神の救いの記念」なのです。従って、単に週一日だけでなく、毎日が安息です。そのような安息を覚えて、「一日だけを聖別する」というのが申命記の「安息日」です。

 

   T 救いの原点「神に仕える」

  御言葉はまず、「六日間は働き、汝の仕事の全てを為せ」と言います。一般的な日本の教会では、「仕事」や「働き」に否定的で、仕事もしないで教会に来る人を「敬虔な信者」「信仰熱心」と呼び、「良い信徒」と推奨しているように感じられます。

  「仕事をしてはいけない」という面ばかりが強調されているような気がしますが、御言葉は「六日間は働き、汝の仕事の全てを為せ」と言っています。これは軽い言葉ではありません。六日間を自由に使ってよいとのでもなく、だらだらと仕事してもよいというのではありません。「働く」という言葉「アバド」は、創世記二章五節、一五節、三章二三節、四章二節、一二節などでは「土地を耕す」と訳されています。「土地を耕す」のが基本的な人間の働きです。

 「耕す」という行為は、単に鍬で土をいじることだけではないでしょう。土を耕し、水を補給し、肥料を施し、除草し、枝を払い、植え変えし、等々、全体としてエデンを管理することでしょう。単に管理のみではなく、それを運用し、新しいものを発見し、それを発展させ、展開させることまでも期待されていたのではないでしょうか。「エデンの経営」です。「耕す」をこのように、「総合的な経営」と理解して初めて、地を治めさせるためにした人間の創造が理解できます。「地を耕す」とは、まさに神の代官として「地を治める」ことであり、神に仕えることなのです。

 その意味で、「アバド」という言葉は、「仕える」という意味を帯びてきます。創世記一五章一三・一四節、二五章二三節、二七章四〇節などです。その上で、「六日間、働き」を読めば、全く意味が異なってきます。六日間、神に仕えるのです。一日だけ神に仕え、六日間は、自分勝手に好き放題、気ままな生き方をしてよいというのではありません。

日常生活において、私たちはヨコを見てしまいがちです。ヨコを見たら、ズルをする人が得に見えます。仕事をサボり、だらだらとして、他人に負わせて、自分は楽をする、それが賢い生き方のように見えます。自分はあの人の何倍も働いているのに、との思いに苛まれ、真面目にやるのが損に思えてきます。ヨコを見ることから起こります。肝心なタテを見ていないのです。「仕事を為せ」とは、神と自分との契約ですから、他人には関りがないことです。私たちの信仰の姿勢が問われます。

II 安息から仕事へ、仕事から安息へ

 安息日律法を禁令と解すると、仕事に対する歪な思想が生まれます。「仕事をするのが権利」で、「仕事を休むのが義務」のようにです。しかし、逆です。「仕事をするのは神への義務」であり、「仕事を休むのは神から与えられた権利」なのです。

 「安息」とは、神による救いの境地、基督者の権利です。救われた今は、全ての日が安息日です。安息の中から初めて、心からなる「神への奉仕」つまり「仕事」が始まります。安息にない者に、いくら神への奉仕を説いても、強制労働になるだけです。さもなくば、神なしの物質主義に堕してしまいます。結局、聖書の神の偶像化です。「安息から仕事へ」は、翻って「仕事から安息へ」ともなります。「安息なくして仕事なし」ですが、「仕事なくして安息もなし」です。

 「神の安息」は、「救いの体験」によって初めて知ることができます。救いは悪魔の奴隷からの解放であり、安息は奴隷からの解放です。だから、奴隷からの解放なしの仕事は「新たな奴隷化」に過ぎないのです。


   III 主の栄光の安息日

 その結果、主こそが「安息日の主」であることを宣明します。一四節の「主の安息」の「の」は、場所、時間、目的などの方向を示す前置詞ですから、「主からの安息」ではなく、「主に向かった安息」、「主への安息」です。 主の栄光こそが、安息の原点であり、安息日の印です。主の栄光のない安息日は、パリサイ的な形式主義であり、人間的な宗教です。

 「日本宣教における緊急の課題」は、この点から、主の栄光を主の栄光として語ることででしょう。あまりにも、この国においては主の栄光がないがしろにされ、基督教といえども、神抜きの、人間的な宗教への傾きを強く持っているように思われます。日本宣教のために緊急に何をしなければならないかといえば、基督者が基督者として生きることではないかと思うのです。安息を本当に体験しているでしょうか。安息に基づき、神に向かって仕事をしているでしょうか。

 基督者が、神の召命を受け、神の言葉に基づき、信仰を基礎として、神に仕える「仕事」を行う「信仰経営(クリスチャン・ビジネス)」が求められます。それこそが、「真の献身」だからです。

 


11月18日 「受けるよりも与えるほうが幸いです。」  使徒93643

使徒 9:36 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。
9:37
ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。
9:38
ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください」と頼んだ。
9:39
そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。
9:40
ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。
9:41
そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。
9:42
このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。
9:43
そして、ペテロはしばらくの間、ヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に泊まっていた。
使徒2035 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われた。

クリスチャンでなくても気前の良い人はおります。気前が良い人の周りには人が集まり、人に好かれます。ケチでなくても、損得勘定の人には、親友はできず、部下もついて来ません。子供でも、自分の親が自分の為に犠牲を払ってくれた経験がないと、親を慕うという意識は育たないものです。

ネットで人がケチになる理由を探ると、過去のトラウマや、自己中心、他人を気にしない、などが出てきます。母親が嫌いな子どもの感想も同じようなものになっています。自分のことに囚われている人は、自己顕示欲が強いのですが、人には好かれないようです。

  イエス様は、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16・24)と言われました。続けて、「たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(26)と忠告しています。つまり、自分を捨てられない人は、神の国に行くことは難しいという警告です。ところが、実際には、生まれつきの人間が、自我を捨てるということはできないもので、クリスチャンになったからといって、簡単に十字架を負う人生は生きられないものです。

  しかし、実は自己否定こそ、その人がこの世の生き方を厭い、神の国を求めたかどうかの試金石なのです。罪というのは、自己中心であり、神に目を向けない的外れな在り方であることはお話ししてきました。つまり、私たちの日々の関心が、自己実現であるならば、この世での成功や金持ちになることを願うものとなり、自己否定ならば、この世での働きは、愛の実践のものとなるのです。

私がつくづく思うことは、夫婦の在り方こそ、自己否定と愛の試金石であるということです。自分の十字架を負い」という意味は、「自分の周囲の人の罪深さを背負って生きる。」という意味であると説明しています。最も身近な伴侶もまた、罪びとであり、自己中心です。自己中心な者同士が毎日一緒に生活し、言葉を交わし、利害を対立させます。もし、家族に対して、自己主張と自己利益を繰り返していたら、決して、自分の十字架を負った生き方とは言えません。

「他人には優しいけれども、家族や伴侶には厳しい。」という人がおります。残念ながら、偽善者です。他人に優しくするからといって、伴侶に対して愛の実践をしていない言い訳にはならないからです。日本人には言い訳が多く、そういう人は、「本当の自分はわかっている。良い人間だ。」などと考えている人が多いことを感じています。そういう人は、日々の自分を変えていく努力を怠っているのです。知識偏重(へんちょう)教育の災いでしょうか、知っていたら自分のものになっていると誤解しているのです。夫婦の愛がどんなものかを知っていても、実践していなかったら、伴侶から愛されることはありません。

最も身近な人こそ、最後の審判の時の証人なのです。ところが、日本には真に敬虔なクリスチャンが殆どいないので、基準が低くなっています。外国人を車に載せると、皆が平気で速度制限を破っているのに驚かれます。同じように、多くのクリスチャンが神の国の基準が聖書に記されているのに、勝手に基準を下げているのです。皆の水準が低いので、裁かれることはないと踏んでいるのでしょうか。聖書をよく読むと、そのように誤解しているパリサイ人に対するイエス様の言葉の厳しさに身につまされる思いです。

 ドルカスが神の国の基準に合致していることは、神ご自身が証明されました。人々に、いろいろなものを施していながら、自分のことには構わず質素な暮らしをしていたことと思われます。そして病気になって死んでしまいましたが、人々の落胆はひどく、このままでは福音の名折れになるとして、ペテロは蘇りを祈りました。

もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(Tコリント15・16.17

 知識偏重の日本にあって、良い教え、知識を求めて教会に来る人は多いようです。しかし、聖書の教えは、神を信じ救われた者は、死んでもまた、終わりに日にこの地上に蘇るという、異常な教えです。もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです。」(Tコリント15・32)。神の国が死んだ先にあるという安易な教えではなく、全ての者が裁かれ、永遠のいのちか、永遠の滅びのどちらかに決められるという怖い教えです。その証拠が魂の救いです。

 聖書をよく読み、信仰の偉人伝を読み、またすばらしい敬虔なクリスチャン達に接すると、自らの罪深さ、聖めの足りなさを思い知ります。先週、櫻井先生が、「クリスチャンは義人です。」と説明されました。大事なことは、義人らしく生きる願いと歩みをしないと、罪や誘惑に惑わされてしまうということです。

 日本には、ドルカスのような歩みをするクリスチャンが少ないのです。だから、多くのクリスチャンの信仰水準が下がり、信仰において事故を起こすのです。仲の良い夫婦関係を作り出す努力をしなければなりません。みせかけではなく、真に愛し合う信仰の家族を作り出さなければなりません。それは、人に要求することではなく、自らに課すことなのです。

 


11月25日 「信仰の偏見からの解放」  使徒101122

使徒 10:11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
10:12
その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
10:13
そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。
10:14
しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
10:15
すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
10:16
こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
10:17
ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。
10:18
そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。
10:19
ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。
10:20
さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」
10:21
そこでペテロは、その人たちのところへ降りて行って、こう言った。「あなたがたのたずねているペテロは、私です。どんなご用でおいでになったのですか。」
10:22
すると彼らはこう言った。「百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話を聞くように、聖なる御使いによって示されました。」

信仰の基準は聖書に記されています。聖書を知らない人に対しても、「律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法です。・・・律法の命じる行いが彼らの心に書かれている」(ローマ2・14.15)として、良心が、神の人に対する裁きの基準であるのです。

 ところが、律法を知っていることが、言い換えれば、聖書を知っているクリスチャン自身が律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して神を侮るのですか。」(ローマ2・23)というように、聖書の教えから離れて、パリサイ人のように人を裁いてしまう傾向があるのです。人は、信仰に熱心になるほどに、信仰を持っていない人ばかりでなく、信仰から外れていると思う人に対して厳しく当たることがあります。先週、お話ししたように、伴侶に対して厳しく当たる傾向があることは、その顕著な例です。

 聖書の中には、律法の教えや通常の感覚からは、外れている事柄があります。アブラハムは妻サライを妹と偽って王に召し入れさせました(創世記20・2)。息子イサクも妻リベカに対して同様のことをしました(26・9)。イエス様の先祖には、カナン人の遊女ラハブ、モアブ人のルツ、ダビデが不倫と殺人によって得た妻バテシェバがおります。

 戦争の最中に食事をした者は呪われると愚かな誓いをした王サウルは、息子ヨナタンを危うく死刑にするところでした(Tサムエル14・39)。士師記のテーマは「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。(士師記21・25)であり、民族間紛争でベニヤミン族を殆ど皆殺しにしたりしたものです。

 聖書というものは「理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」(Uペテロ3・16)というように、誠実でない人が勝手に解釈して破滅してしまうのです。それで、Tヨハネから、信仰を成長させるためのコツをお話します。

1.「罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(1・8-10)。自らの罪深さ、愚かさを自覚して神の教えに従って生きることを願う。

2.「みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。」(2・5)「キリストが歩まれたように歩む。」

3.「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。」(2・15

4.「義を行う者がみな、神から生まれた」(2・29

5.「行いと真実をもって愛する。」(3・18

6.「神によって生まれた者は皆、世に勝つからです。」(5・4)。世を恐れたり、迎合しようとしてはいけないのです。

7.「神の御心にかなう願いをする。」(5・14

聖書は愛と義の神が、人に真理を教えるものであって、大事なことは生ける神に従う信仰姿勢です。勝手に、神の教えを解釈して都合の良いような生き方をするならば、神の祝福が得られないだけでなく、罪と悪の誘惑に陥ります。

 今日の聖句に戻ります。ペテロは、幻を見て、その意味するところを探り、聖霊にも聞いて、すぐに自分の固執していた偏見を改めて、これまで交流することを禁じられていたと考えていた異邦人を家に泊めました。反応と従順の速さに驚きます。自分の過去や考え方に囚われている人は、悩んだり、正当性を確認したり、ともかく行動しないのです。

 冒頭の異常行動について、お話ししましょう。アブラハムとイサクは、異邦人の王を恐れたのです。それに対して、神は、神を信じない権力者にも負けないことを教えました。3人の女性は、神が人を差別せず、たとえ夫を殺され無理に妻にされたとしても、心を見ておられることを、私たちに教えます。馬鹿な戒めをしたサウル王は、その罰を受けそうなところでしたが、人の命は、王の命令よりも尊いことを教えられました。しかし、悔い改めないでダビデを殺そうとして滅びました。士師記のいろいろな事件は、指導者がいないと、民は勝手に正義を振りかざして、愚かなことをしてしまうものだと教えられます。

 なぜ、信仰の偏見を持つのでしょうか。神を怖い方であると誤解しているからです。うまくいかないことがあると、神の罰であると考えるようなことをしてはいけません。神は、そんな愚かな神ではありません。「無知で心の定まらない人が」勝手に神の裁きを考えているのです。神の裁きは、世の終わりの永遠の裁きしかありません。それまで、神は慈愛をもって、私たちの罪深さ愚かさを忍んで「救おう」とされているのです。

 生まれてからずっと食べてはならない、と教えられてきたものを食べることは難しいことでしょう。それには、人格的成長と決断力が必要です。ペテロのこの行動から、異邦人伝道が始まり、キリスト教は世界宗教になっていきます。

 家内がガンになりました。未信者である子供たちは動揺しています。私の願いは、祈りと栄養療法によって、手術までに完全に癒されていることです。次の願いは、家内の信仰が「生きることはキリスト、死ぬことも益です。」(ピリピ1・21)という信仰の境地を得ることです。私も死の体験を経て、覚悟を得ました。病が、罰であるとか、越えられないものだとかは考えたことはありません。多くの危機を乗り越えてきました。家内にとって初めての自らの試練です。私自身は、全てが益になると信じております。


12月2日 「天使が語り掛ける人」  使徒103036

使徒 10:30 するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、
10:31
こう言いました。『コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。
10:32
それで、ヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人は海べにある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。』
10:33
それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」
10:34
そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
10:35
どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
10:36
神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。

クリスマスの4つ前の日曜日からアドベントが始まり、カトリックでは教会歴はこの日から始まるそうです。それは、1月1日ということではなくて、教会の暦がアドベントから始まるのです。なお、カトリックでは受胎告知の日を9か月前の3月25日としています。イエス様の誕生日が12月25日とされたのは325年のニケヤ公会議ですが、実際にはわかっていません。

 ともかく、イエス様の誕生に関しては、何度か天使が現れています。@ザカリヤ、Aマリヤ、Bヨセフ、C羊飼い、D博士たちが帰った後のヨセフ。皆さんの前に突然、光り輝く天使が現れたら、どうでしょうか。

 今日は同じように天使が現れた異邦人のローマの百人隊長コルネリオの話です。「彼は、敬虔な人で全家族と共に神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた。」(10・2)という人です。彼は、天使に会い、「恐ろしくなって、『主よ。何でしょうか』と答えた。すると御使いはこう言った。『あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。』」(10・4)と言われました。

 「祈りと施しが神の前に立ち上って」とあるのが印象的です。多くの人が、食事や何かの時に、短時間或は瞬間的に祈るだけで、神の前に立ち上るほどには祈っていません。また、施しをする人も、非常に少なく、人は自分の為には金銭や労力を費やすものですが、他人には金も労も取らないものです。ゴーンさんのように、たとえ50億の収入があっても、隠し収入を増やそうとし、また会社に金を出させようとします。

 エルサレムを再興しようとしたペルシャ帝国ユダヤ州の総督ネヘミヤは「私がユダの地の総督として任命された時から、すなわち、アルタシャスタ王の第二十年から第三十二年までの十二年間、私も私の親類も、総督としての手当を受けなかった。私の前任の総督たちは民の負担を重くし、民から、パンとぶどう酒のために取り立て、そのうえ、銀四十シェケルを取った。しかも、彼らに仕える若い者たちは民にいばりちらした。しかし、私は神を恐れて、そのようなことはしなかった。・・・私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください。(ネヘミヤ5・14.15.19)と祈ったことを私は忘れられません。

 私自身の牧師給は36年間で総計二千二百九十四万四千円、年平均六十三万七千三百三十三円、60万円以下は二十二年ありました。献げたものはその数倍あります。それは、魂の救いを求める私の祈りであり、献身でした。家内に対して、父親が、「お前は久雄さんの働きを支えるのが生き甲斐のようだね。」と言ったそうです。家内も、働いたものを皆、神に捧げ、自らは週1万円以下の小遣い、それも殆どが集会献金でした。私たちの願いは、教会が営まれ、成長することです。「私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください。」神は本当に慈しんでくださいました。

天使が語り掛けるのは、神のために献身した人に対してだけです。打算で生きる人に天使が働きかけたら、神の為ではなく、その人の利益に利用されることになるからです。

 更に、天使が現れるのは、歴史的、民族的、或は非常に大事な時だけです。コルネリオを救いに導きくことによって、異邦人伝道が始まりました。世界宗教になる起点がこの時なのです。「どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」(35

 「日本人だから、自分は能力がないから、自分は貧しいから、」などは、「神を恐れかしこみ、正義を行う」ことに関係はありません。そして、時代は、終末の様相を呈する自己利益と快楽を求めるものとなっています。

 こういう時には、天使が「神を恐れかしこみ、正義を行う人に」現れるのです。神が働かれるので、能力も富も、地位も名誉も関係ありません。一体、何を語り掛けられるのかと想像します。コルネリオには、「ヨッパに人をやってペテロを招きなさい。」(32)と言われただけで、あとは聖霊がペテロに語り掛けてくれました。

 コルネリオには天使が現れ、ペテロには聖霊が直接語り掛けられました。それは、ペテロは既に聖霊のバプテスマを受けており、「聞く耳、聞く心」があったからです。

 また、「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」(へブル1・14)とあるように、目には見えないけれども、天使は真に救われ、神の国に繋がる人々には、一人一人についているのです。

 私は、危険を感じた時や戦いの時には、「私に仕える御使いよ。私を守り、私のために働いてください。」と祈る時があります。人生は戦いの連続です。戦いに逃げていたら、神の業をすることはできません。神の業をしなければ、魂が救われず、祝福が現れないのです。

 「神様、助けてください。」と祈る人が多いようです。神は助けてくださるのですが、自ら戦い、行う気持ちがなければ、神も天使も、私たちを助けようがありません。コルネリオは、いつも神に祈り、神の代わりに施しをしていました。神がないがしろにするはずはないのです。

 


12月9日 「主はマリヤに目を留められた。」  ルカ1章4155

ルカ1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42
そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43
私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
1:44
ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
1:45
主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
1:46
マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47
わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48
主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49
力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50
そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51
主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52
権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53
飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54
主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55
私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

先週は、「天使が語り掛ける人」についてお話ししました。今日のマリヤとコルネリオの決定的な違いは、コルネリオは確かに、祈りと施しが神の前に立ち上って」(使徒10・4)おりましたが、マリヤには命と人生が掛かっていたということです。

 マリヤは、「ダビデの家系のヨセフという人のいいなづけ」(1・27)だったので、聖霊の働きで胎がはらむ(これは神との結婚ではなく、聖霊によって細胞分裂が始まるということ)ことは、死刑を覚悟しなければならないことだったのです。これに対して御使いは、「怖がることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。」(1・30)と語りますが、厳しい律法の掟に支配されているユダヤ人にとって、これは大問題であり、驚き怪しみ、拒んでも、恐れても、当然なことでした。「神にとって不可能なことは一つもありません。」(1・37)といっても、本人にとっては不都合なことなのです。

 聖書を読むと、神の命令であり、御心であっても、本人にとっては晴天のへきれき、仰天なことが多くあります。ある場合には、不道徳なこともあり、犯罪と思われることもあります。

 アブラハムは神に、「全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22・2)と言われた翌朝、すぐにそれを実行しに出かけます。神は、寸前に息子を殺そうとするアブラハムを止め、「あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに捧げた。」(22・12)として、神の声にどこまでも従うアブラハムへの大いなる祝福を約束されたのでした。

リベカは、夫イサクをだまして、神の祝福を次男ヤコブに受けさせます。その時、「我が子よ。あなたの呪いは私が受けます。(創世記27・13)と言ってのけます。間違いなく夫の繁栄は神の祝福によるものだと信じているリベカは、信仰のないエサウとその妻たちには受け継がせるべきではないと腹をくくったのです。

 ヤコブは義父ラバンに告げずに全家族と全財産を持って、その地から脱出しました。ラバンが策謀家であり、誤魔化したり欺いたりする人であることを用心して無断で大胆な行動を取ったのです。その前に神はラバンに「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気を付けよ。」(創世記31・24)と警告しています。

 神がことを起こす時、事の善悪、人の目、倫理などの人間的基準を無視する時は多くあるのです。そして、聖書の中でも最も重大な事件、ことの善悪などが問題にならないことが、処女マリヤの聖霊による懐妊なのです。これに対するマリヤの回答が見事です。「本当に、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1・38

常識や慣習、社会的規範などによって行動をする人が多いのですが、聖書の教えを優先する人を信仰深い人と言います。このことを殆どの日本人クリスチャンは信仰の壁あるいは、課題として持っています。もし、マリヤが常識の人だったら、イエス様は生まれておらず、救いはないのです。私たち日本人が何よりも大事にする人の目や常識は、世界的に見れば、人間的処世術なのです。そのようなものに囚われたら、世界で生きていくこともビジネスの社会でも敗北者あるいは、歯車の一部になるだけなのです。

 マリヤは、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださった。」と言います。それは、マリヤが魂の救いこそ、全ての解決のカギであることを知っていたからです。神に人々の魂の救い、苦しんでいる者の助けを切実に求めていたことを現わしています。

マリヤは、「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。」(49)。と平然と讃美しています。皆さんは、伝道をしたことがあるでしょうか。自分が悪く思われないように考えたり、評判の良い人間であろうとしたら、伝道はできないものです。少なくとも、この一年で伝道を一度もしていない人は、神の目を恐れず、この世を恐れている人です。そして、神の国の門で、わたしはあなたがたを全然知らない。(マタイ7・23)と言われるのがおちです。

 「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」と讃美しています。愚かな者でもか弱き者でもありません。戦う勇気のある賢明な女性です。 

 社会や経済、スポーツやゴシップなどを論じ、自分は知恵ある者だと覚えたとしても、神の前では何の価値もありません。大事なことは、飢えた者、弱い者、悲しんでいる者、苦しんでいる者に対して、自分を犠牲にして助けることです。さらに、究極的な助けは、魂の救いです。主イエスを救い主として信じることです。

 もし、あなたが伝道することが苦手ならば、このクリスマスシーズンに教会に来ることを誘ってみてください。あなたが行動を起こす人であることを願います。