7月1日 戦いに立ち向かう為に。  エペソ52233

エペソ 5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
5:23
なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
5:24
教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
5:25
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
5:28
そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
5:29
だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
5:30
私たちはキリストのからだの部分だからです。
5:31
「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」
5:32
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
5:33
それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。

ワールドカップで盛り上がっています。女子サッカーもありますが、やはり男の戦いとして強靭な肉体と技術を尽くす男子サッカーは見ごたえがあります。昔は戦争によって殺戮を繰り返していた国家間の争いが、スポーツ、それもフェアプレーによって見事なショーになっていることは、素晴らしいことです。

  先週は、人間が歴史的に生き残るための戦いを繰り広げてきたこと、その為に男は強く、妻は夫をサポートし、子どもを育て上げる役割を果たしてきたことをお話ししました。社会が安定し、文化が形成されるにつれて、殺戮ではなく、能力による競争に変わってきて、その為の力を形成するために教育や制度が整ってきたのです。そこでは、女性もまた教育や能力を付けることによって、競争に参画するようになってきました。それは、参画することが目的ではなく、家族を守り、自らの貢献によって社会に寄与し、争いのない社会を作り上げることなどであったと思われます。

 神は、それらの人間の営みを見守りながら、人が神の国にしか、究極の幸せ、平和、愛は実現しないことを悟るように働きかけてきたのです。しかし、人間は罪びと、つまり自己中心ですから、容易には神に降参することはなく、神を信じ従うことはしません。

 そういう心境、不従順の姿勢は、歴史的には被征服者の苦難や迫害も原因したかもしれません。ともかく、男にとって、服従するということは生殺与奪の権を相手に与えるということであり、簡単にはできないことです。そして、それは妻や家族をも含むので、大きな決断です。

 歴史的に日本は、征服者・支配者が残虐な行為をしておらず、表面的にでも服従すれば、命は守られてきました。それが特に変わったのが、太平洋戦争の戦前、戦中です。思想統制から、生活の統制まで至るところに軍部の支配がありました。明治以降の日本は、日本ではないと、司馬遼太郎が言っておりますが、その思想統制は、世界列強の支配に対抗するための、強烈な緊張感からのものであったようです。戦前に、欧米の支配を受けなかったのは、日本とタイだけでした。

 今日の聖句は、夫婦が愛し合い、幸せな家庭を作り上げるためのように思われますが、この後の6章10節から記されている戦いに備えてのものであることを知っておかなければなりません。

主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

人は、一人で悪と戦い続けるほど強くはありません。短期間ならば可能ですが、この戦いは長期に亘り、そして日常的なものでもあります。夫婦が仲良く愛し合い、支え合っていなければ、負けてしまいます。

 夫婦仲が悪いとどうなるでしょうか。戦う気力が湧いてきません。戦う健康が維持できません。落ち着いていないので判断を誤ります。家族の支援を得られません。自暴自棄になって、自分を破滅させてしまいます。

 私は、昔からこの聖句を語られる時、夫婦だけの甘ったるい愛の姿が示されて、なにか腑に落ちないものを感じておりました。これでは、夫婦第一主義になって、夫は妻にいつも愛情を要求されることになります。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、…共に天の所に座らせてくださいました。」(エペソ2・3-6)という前提に立って、この夫婦愛が必要なのです。

 私の妻は、この日の為に何時間もピアノの練習をしていました。そして、花撒きの花を摘み、花弁をタッパーに詰めて冷蔵庫に保管していました。妻は、日本では有名な医師で、今週もわざわざ岐阜県から視察に医師が来るほどですが、そのようにして教会員を愛し、教会の為に献身をしています。私は、そのように献身的な妻を守る為に自分のいのちを掛ける覚悟はしています。

 夫婦というものは、男同士、女同士ではできない協力関係を持つことができます。それは、神が夫婦として人を働かせるからです。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女と似彼らを創造された。」(創世記1・27)。

 「自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」(28)とあるように、妻を愛し、女性を労わるということは、その人の総合性を現わしています。妻を愛して大事にすることができない人は、自分を認めることができず、弱さや情緒を否定して、攻撃的、感情的、局所的な行動をとることになります。妻や家族を「養い育て」(29)るという、継続性や忍耐こそが、男性を健全かつ総合的なものに成熟させていくのです。

 そして、夫婦がそのように円熟、成熟し、強く愛し合うことによってこそ、この世の霊の戦いに勝ち抜くことができるのです。


7月8日 人生の礎は祈り。  使徒の働き41121

使徒4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。
4:12
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
4:13
彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
4:14
そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。
4:15
彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。
4:16
彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。
4:17
しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」
4:18
そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。
4:19
ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。
4:20
私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
4:21
そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。

わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。」(マタイ4・24-26

 九州南部、中国地方、近畿地方などで、特別警報(50年に一度の大雨)が出され、その濁流が市街地を覆う状況が報道されています。聖書のこの箇所を見ても、洪水は頻繁に起こっていることがわかりますし、歴史が証明しています。それではなぜ、洪水に流されるような場所に家を建てたのかという疑問があります。被災地の方々には、申し訳ありませんが、聖書はそのような場所に家を建てた人を愚かと呼んでいます。皆さんの家は、どのような所にあるでしょうか。

状況によって左右される人は、砂地に家を建てるようなものです。教会員の皆さんがどのような判断によって生きているかは、自由ですが、大事なことは、惰性ではなく、判断をして生きることです。それによって、強くなるか、弱い者で留まるかが分かれてきます。

 日本人は、「しょうがない。」という言葉をしばしば用います。アメリカでは、「助けてくれ。」と言わない人は助けません。努力をしない人には、助けは来ません。失敗した人に対して、可哀そうだと思って、助けたり、励ましたり、誉めたりする人が多くおりますが、それは、相手をだめにします。神がいちいち裁くことがなくても、人生は自分の不始末で不幸になり、敗北します。神が裁くということを忘れてはなりません。

 防火管理者講習を受けました。「正常性バイアス」という災害心理学の用語を学びました。人間が予期しない事態に対峙したとき、「ありえない」という先入観や偏見(バイアス)が働き、物事を正常の範囲だと自動的に認識する心の働き(メカニズム)を指します。何か起こるたびに反応していると精神的に疲れてしまうので、人間にはそのようなストレスを回避するために自然と“脳”が働き、“心”の平安を守る作用が備わっています。ところが、この防御作用ともいえる「正常性バイアス」が度を越すと、一刻も早くその場を立ち去らなければならない非常事態であるにもかかわらず、“脳”の防御作用(=正常性バイアス)によってその認識が妨げられ、結果、生命の危険にさらされる状況を招くことになるのです。

 このことは、健康にも同様です。煙草を吸い続けたり、太っても気にしなかったり、身体に不調があっても対処をしないことなどです。私たちは健康を害した人々に日常的に接しているので、非常事態であるのに、なんの対応もせずに、障害を持ったり、死んで行ったりする人々に困惑しています。

 私たちは、「罪と死の原理」(ローマ8・2)によって惑わされ、信仰をもって「いのちの御霊の原理」によって生きられないのです。「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。・・・御霊は、神の御心に従って、聖徒の為に執り成しをしてくださるからです。」(ローマ8・26.27)。祈り、特に異言の祈りを十分にしないと、私たちは、「いのちの御霊」によって導かれずに、「罪と死」に捕らわれてしまうのです。

 今日の聖句、ペテロとヨハネは、「無学な普通の人」(4・13)でしたが、「聖霊に満たされて」(8)、議会の尋問に際して「大胆」(13)に語りました。大祭司を始め、指導者たちは、「返す言葉もなく」(14)、「あの人たちをどうしよう。」16)と困惑し、「厳しく戒めよう。」(17)とします。しかし、「ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。」(19)と反論したのです。指導者たちは、御霊にみたされていないので判断することができず、「ふたりを罰するすべがなかった。」(21

 祈り、異言の祈りというのは、どのような考え、常識、知恵、判断よりも勝った、神からの執り成しです、教えの手段です。全ての判断、全ての行動、暮らしのすべてにおいて、この祈りなくして行うことは、虚しく、「罪と死の原理」に左右されてしまいます。

 祈りというものは、「〜時間祈った。」などという儀式ではありません。念仏のようなものでもありません。その問題について、神に求めながら異言の祈りを、長く祈り続けると、聖霊が私たちに教えてくれるものです。聖霊が教えてくれるということを信じない、多くのクリスチャンが過ちを犯しています。人生の礎というのは、祈りを基盤に築き上げることなのです。神に聴くということが、生活の基本なのです。

 ある場合には、自分が聖書信仰だと思っているものが、謝って自分を導くことがあります。信仰は知識ではありません。聖書を読みながら、まさに、祈る、ということが大事なのです。チェックポイントは、以下の通りだと私は考えています。

@  否定的・攻撃的・排他的なものではない。

A  自らにとって十字架を負うような犠牲を強いられるものである。

B  自らを聖め、強くし、変えるものである。

これらのことを導かれながら、バイアス無しに信仰に生きる人生は、強き土台に築き上げられた人生となるでしょう。そうでなければ、やはり時代と社会に流されていくことになるでしょう。


7月15日 罪は戸口で待ち伏せている。  使徒の働き43459

使徒の働き4:34彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
4:35
使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
4:36
キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
4:37
畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
5:1
ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
5:2
妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
5:3
そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
5:4
それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5:5
アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
5:8
ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です」と言った。
5:9
そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」

あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4・7

 カインは、この神の警告を聞きながら、怒りと妬みに囚われ、弟のアベルを殺してしまいました。人生に、多くの誘惑、多くの失敗、多くの恥、多くの選択があります。いくら有能で環境や育ちで恵まれていても、必ず罪の誘惑はあり、選択の機会はあり、そして、人は罪を犯すのです。

 神は、その人間の選択を見つめています。ノアは、「地上に悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」(創世記6・5)時に、人々から離れ、箱舟を作り出しました。ニューカレドニアで私の娘たちが世話になった方は、世界が滅びていくのを悟り、自給自足の生活作りに勤しんでいるそうです。私は、自分と同じような考え方をもった人が、フランスにもいたことに感銘を受けました。

 ノアの3人の子のうち、ハムは父の裸を見てあざ笑い、父から呪いを受けました。(創世記9・25)。エサウは神からの祝福を軽んじ、ヤコブはそれを命がけで求めました。その結果は、人生の祝福の違いとして現れています。「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」(へブル12・16)。遊女でありながら、ラハブはイスラエルの民に加わりたいと願い、命がけで斥候を助け、イエス様の先祖となりました(マタイ1・5)。

 ダビデは、主の箱が運び込まれた時に、力の限り踊り喜びました(Uサムエル6・14)。それをあざ笑った妻のミカルは、子どもが与えられず、また、妻の愛を得られないダビデは、不倫を犯し、神の罰を受けます。しかし、ダビデは悔い改め、罰や災いを受け入れ、ひたすら神の赦しを求めます。それでもダビデには不幸が続き、シムイから呪いを受け、あざ笑いを受けます。「主は私の心をご覧になり、主は彼の呪いに代えて、私に幸せを報いてくださるだろう。」(Uサム16・12)。これが、ダビデの信仰者としての真骨頂です。彼は、いつも神を見て生きるのです。

 今日の聖句は、聖霊のバプテスマを受けた使徒たちが、力強い歩みをして信者が数千人に急激に増えた後のことです。信者は、「心を一つにして、全てを共有にしていた」(使徒4・32)ということですが、歴史的に急成長の時や順調になると、必ず、未だ魂の救われていない人々が教会に加わってくるのです。子供の急成長や優等を望む親は、必ず多くの問題を余計に抱えなければならないように、教会も成長や増加を急いで望み、図ろうとすると多くの問題を抱えることになります。その原因の多くは、魂の救われていない信者が、敬虔な信仰者を装い、教会の指導者になることを計ろうとするからです。

まず、信仰者は全て試練によって聖められ、選別されるのです。「信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊い(Tペテロ1・7)のであって、信仰者には必ず試練があるのです。「魂の救いを得て」(Tペテロ1・9)いない未信者や偽信者には試練がありません。なぜなら、彼らは、試練に挑戦し、信仰を守ろうなどと、考えないからです。

 アナニヤとサッピラは、目先の良く、子知恵のある夫婦でした。クリスチャンの力強さと結びつきの深さを知って、いち早くその一員になろうとしました。信者たちが、惜しむことなく、自分の財産を教会に献げているのを知り、自分たちも多額な献金によって教会で地歩を占めようとしました。

 献金や奉仕は、信仰の尺度ではあります。それらは必要条件であり、自ら信仰があるといっても、献金や奉仕をしない人は、神も人も教会も、その人を信仰者として認めることはありません。ところが、それは十分条件ではないのです。献金や奉仕をしているからといって、神も教会もその人を信仰者として認めるわけではないのです。つまり、本人は、自分を信者であると思っても、聖めがなく、自己犠牲ができない人は、神が信仰者としては認めないのです。その人々は、問題が起こった時に、必ず躓きます。不満やつぶやきを言い、教会や牧師を攻撃します。

 ところが、教会や牧師にとっては、そのような人を攻撃したり、批判したら、聖めや自己犠牲がないので、神の祝福を得られず、またつまずいていき、ある場合には信仰の破船に遭います。「自分を捨て、自分の十字架を負わない」(マタイ16・24)人は、主の弟子とは言えないからです。

 信仰というものは容易いものではありません。無代価で天国に行けるのですから、そう易々と信仰者にはなれないのです。「罪は戸口で待ち伏せして」います。毎日の生活で、自らが罪を犯すと、他人の罪を責め立てたくなります。批判的な人が敬虔なクリスチャンになれるはずはありません。自分の思い通りにならないからといって、不満を言い、放棄する人が、信仰者として認められることはありません。

先週、「罪と死の原理」(ローマ8・2)によって惑わされ、信仰をもって「いのちの御霊の原理」によって生きられないクリスチャンが多いことをお話ししました。先々週は、霊の戦いに勝ち抜くためには、夫婦が愛し合い、祈りあわなければならないことをお話ししました。ダビデは、多重婚をしたために、妻の愛と支えを得られず、試練と艱難と不幸の中を歩みましたが、それでも信仰を失いませんでした。アナニヤとサッピラは、夫婦が互いに偽りを言って、不誠実に生きたので、どんなに長生きをしても、害になっただけでしょう。「主を恐れることが知識の初めである。愚か者は、知恵と訓戒を蔑む。」(箴言1・77


7月22日 「節目のある信仰生活」-神に出会ったヤコブの事例から‐ 創世記281019節 北野耕一師

創世記 28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。
28:11
ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
28:12
そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
28:13
そして、見よ。【主】が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
28:14
あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
28:15
見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
28:16
ヤコブは眠りからさめて、「まことに【主】がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。
28:17
彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
28:18
翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。
28:19
そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。

はじめに:

  人は”通過儀礼”と呼ばれる人生の節目を通って成長します。誕生、成人式、入学式、卒業式、結婚式、入社式.等々です。その中でも最も悲しいのは、愛する者を失うという葬りの儀式です。今日も西日本では、その痛みの通過儀礼を通らせられている方々もおられましょう。

  信仰生活の成熟に大切なことは信仰の歩みに節目をつけるということです。イスラエル民族には出エジプトという奇蹟的な節目がありました。そして事ある毎にそれを記念しました。私たちも個人的に主キリストに出会った経験や、教会の顕された神の業を節目として思い起こすことが大切です。今日の創立34周年祈念礼拝もその節目の一つです。

 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(103:2)

信仰体験に節目を付けたヤコブ(創28:10-19)

  兄エサウが受けるはずの祝福をだまし取ったヤコブは、家族と生活を共にすることができず逃げ出し、荒野で一夜を明かすことになりました。そこで主なる神と出会い、罪深いヤコブではありましたが、驚くべき神の啓示と祝福の契約をいただいたのです。その貴い経験を彼は心に刻みつけるために、枕していた石を立て、その上に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けました。すばらしい信仰体験に節目をつけたヤコブの行為であるといえましょう。それだけではなく30数年後裕福になって実家に帰る途中、かつての出来事を忘れず、再びベテルに帰って、祭壇を築き、神を礼拝しています(35:3,7)。今日は千葉福音キリスト教会が柏崎久雄師ご夫妻によって1984年7月に伝道活動が始められてから34年経った記念の礼拝式なのです。

 このヤコブから学ぶこと:

@     ????「あるところ」で神に出会った意義

・神に出会えるような場所でない「あるところ」

・石を枕にしなければならなかった「あるところ」

・神の気配すら感じないような「あるところ」、荒野

・人生の荒野、孤独な荒野であても、そういうところにも顕れる神

A     ????「あるところ」で記念の石の柱を立てた意義

・ヤコブの最初の信仰告白

・神体験を言葉に表現したヤコブ

・神体験を行動に移したヤコブ

・危険な旅に必要な油を神の前に惜しげもなく注ぐヤコブ

・隠された神の恵みを見出し、言葉と行動で応答した(節目を付けた)ヤコブ

B     ????ベテルに帰って祭壇を築いた意義

・かつての「あるところ」をエル・ベテル(ベテルの神)と名付けたヤコブ

・神の啓示と祝福の契約を風化させなかったヤコブ

おわりに:

私たちのエル・ベテルは、自らを献げられた主イエス・キリストの十字架です。主キリストに出会い、救いに与った私たちのベテルを思い起こしましよう。そして、改めて今日私たちの祭壇を築き、私たちの自身を献げ、一人ひとりに応じた献身を主に誓おうではありませんか。(ガラ2:19-20)

 


7月29日 「世の作為を超えて忠実に生きる。」  使徒51221

使徒の働き5:12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。
5:13
ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。
5:14
そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。
5:15
ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。
5:16
また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。
5:17
そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、
5:18
使徒たちを捕らえ、留置場に入れた。
5:19
ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、
5:20
「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と言った。
5:21
彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間たちは集まって来て、議会とイスラエル人のすべての長老を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を獄舎にやった。

偽信者への天罰があった後も、教会には奇跡や祝福が絶えず起こり、信者は心を一つにして交わりを深めていきました。神を信じない人々も多くおりましたが、信者たちは彼らにも尊敬されていました。そして、信者は増え続け、また奇跡も癒しも続いていました。

 私は、このような姿勢こそ大事だと思っております。無理な伝道をし、極端な言動で教会に人々を誘う教会や信者も、他所にはおりますが、大事なことは自分たちの信仰を深め、交流を深くし、祝福としての奇跡や癒しが続いて起こることです。そして、信仰者としての健全性や社会性が、外の人々の尊敬を得ていることです。極端な信仰や人間性は、教会に集う中で穏健なものへと変えられていくものです。自分の考え方が否定されるからといって、負け惜しみ的な言動をするものではありません。

 今日の聖句は、世の指導者たちが、このみっともない言動をします。教会が繁栄し、自分たちの指導が否定され、「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。」(使徒4・19)と逆に諫められて、大祭司たちは、妬みと怒りに燃えたのです。そして、権力を行使して、使徒たちを捕まえ、獄舎に入れます。

 しかし、その「夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し」(19)、人々に「いのちのことばをことごとく語りなさい。」と言われます。リバイバルの時、神の導きの時というのは、そういうもので、何をしても、大胆な行動を取っても、神が働き、人々が悔い改めます。教会が始まったこの時は、まさに超自然的なリバイバルの時でした。

 さて、今日は、聖書の状況的解釈、時代的理解についても、お話しします。聖研では、聖絶と言う言葉が神によって命令されている申命記20章を学んでいます。聖絶とは、皆殺しにするということですが、これは、エジプトを出て荒野からカナンに入り、そこを定住地として住むために、特定の先住民族を殺すということです。これらの民族は、退廃した文化と宗教を持った人々であり、実際には聖絶しきれないので、イスラエル民族は長年に亘って、被害と誘惑に遭います。しかし、この聖絶と言う言葉は、後年には使われなくなり、イエス様の解釈は、全く逆な博愛精神になっています。

 Uコリント11章には、「女がかぶり物をつけないなら、髪も切ってしまいなさい。」と厳しく書いてありますが、プロテスタントの教会では、そのようなことはしていません。つまり、この命令は時代的、文化的なマナーを守りなさい、ということであって、変わっていくということです。

 使徒11章には、旧約聖書に食することを禁じられた「地の四つ足の獣、野獣、這うもの、空の鳥」(11・6)を、ペテロが神に食べるように命じられ、そして、交流を禁じられていた異邦人伝道が始まるのです。

クリスチャンとして、道を誤る人、過激な信仰を持つ人の特徴は、神の人格を知り、愛を知り、神と人との交流に生きるよりも、むしろ、聖書の教条主義に陥って、極端な言葉を排他的に用い、それを伝道に使うことです。日本のような文化社会では、このような宗教と信仰者は警戒され、また健全な教会を形成することはできません。私は、それを牧会理念とし、信仰者としてのあるべき姿と考えております。

 聖句に戻ります。ペテロたちは、この解放の後、もう一度、「人に従うより、神に従うべきです。」(5・29)と大祭司に語っています。つまり、迎合も敵対もせず、大胆に神を信じて生き、語るということです。

 私は、自分の教団を愛しており、生涯仕えて生きようと考えておりますが、昔は聖職ということばが嫌いでした。それは牧師という職業を、一般信徒から区別する用語でした。ところが、アメリカの教団がそれを修正したのに伴い、日本も単に「奉仕の務め」と改めました。更に、嫌なものに「任命制」極端な「聖別」意識、その他があります。私は、社会で株式会社の社長、一般社団法人の理事長、医療法人の事務長をしています。法的制約や義務は多く、違反すればペナルティーがあります。それらを果たしている者からすれば、教団や教会には、かなり未整備、不十分、ハラスメント、いろいろなものを感じます。

 日本社会についても、その文化、慣習、教育、その他いろいろなものに関しても、違和感、不合理性、聖書的規範のなさ、利益と妥協の優先、など修正の余地を感じます。しかし、また、自分の主張を振りかざす者の、愚かさ、非社会性、人格のなさをも感じます。

 それでは如何に生きるべきか。世界を統御する神に信頼し、人の愚かさ罪深さにつまずくことなく、愛し、慈しみ、仕え、社会に敵対することなく貢献し、不合理に怒らず、聖書の理念を全うする生涯を歩もうとするばかりです。自らには厳しく、人には優しく、組織には仕え、その働きや犠牲が報われなくても、キリストの十字架を想い、その苦しみの欠けたところを補えれば、幸いとして生きるのが理想です。

 人に期待したり、怒ったりしなくなってから、キリストを身近に感じることが多くなりました。未だ不十分な自らを覚えますが、あと30年は神に仕え、成長する余地はあると思っております。

 主人は彼に言った。「よくやった。良いしもべだ。あなたは、ほんの小さなことにも忠実だった」(ルカ19・17


8月5日 「この子の為に祈ったのです。」  Tサムエル12028

Tサムエル 1:20 日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を【主】に願ったから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。
1:21
夫のエルカナは、家族そろって、年ごとのいけにえを【主】にささげ、自分の誓願を果たすために上って行こうとしたが、
1:22
ハンナは夫に、「この子が乳離れし、私がこの子を連れて行き、この子が【主】の御顔を拝し、いつまでも、そこにとどまるようになるまでは」と言って、上って行かなかった。
1:23
夫のエルカナは彼女に言った。「あなたの良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待ちなさい。ただ、【主】のおことばのとおりになるように。」こうしてこの女は、とどまって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。
1:24
その子が乳離れしたとき、彼女は雄牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携え、その子を連れ上り、シロの【主】の宮に連れて行った。その子は幼かった。
1:25
彼らは、雄牛一頭をほふり、その子をエリのところに連れて行った。
1:26
ハンナは言った。「おお、祭司さま。あなたは生きておられます。祭司さま。私はかつて、ここのあなたのそばに立って、【主】に祈った女でございます。
1:27
この子のために、私は祈ったのです。【主】は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。
1:28
それで私もまた、この子を【主】にお渡しいたします。この子は一生涯、【主】に渡されたものです。」こうして彼らはそこで【主】を礼拝した。

昔、イスラエルの山地に、エルカナとハンナという仲の良い夫婦がおりました。でも、ハンナには子供がなかったので、周囲の人から馬鹿にされていました。毎年、家族でシロという所にある神殿に献げ物をしに行くのですが、ハンナは神の前に苦しんで祈っていました。そして、食事ものどを通りませんでした。

  そして神に誓願しました。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(Tサムエル1・11

大祭司エリは、神殿で祈りをささげる人々を見守っていましたが、あまりに長く祈っているハンナに関心を持ちました。ハンナの口は動いていましたが、言葉は聞こえなかったので、変だなと思っていました。ハンナの悲しみと苦しみ、そして、神への誓願は大きなものだったので、人に聞かれるのもを恥じて、ハンナは心の内で祈り、口はその思いを神にだけ伝えるかのように動いていたのです。何時間も祈る人は、殆どおりません。

エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」

ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は【主】の前に、私の心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」

   エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」

   彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。(Tサムエル1・14-18

 困った時、問題が起こった時、病気やケガの時、まず神に祈ることが大事です。最初に、いろいろ考え悩み、いろいろなことをし、それでどうしようもなくなったら祈る人がいますが、それでは神の力を得ることは難しくなります。聖書には、「心配するのはやめなさい。・・・神の国と神の義をまず第一に求めなさい。」(マタイ、6・31.33)とあります。心配したり、悩んだりするのではなく、神に心を注いで祈ることを第一にするのです。そして、大祭司エリが、その願いを適えてくださるように、と答えたら、ハンナはそれを信じて、悩むことをやめたのでした。祈りというものは、悩みや苦しみが無くなるまで祈ることが大事です。

ハンナには男の子が生まれ、その子をサムエルと名付けました。サムエルは3歳になると、親から離れ、神殿で育てられました。お母さんのハンナも寂しく、サムエルも不安でした。でも、サムエルは、神に仕えて生きる者として育てられ教えられていたので、頑張ったのです。

 ハンナは、手作りの祭司服を作り、上着も作り、毎年神殿に届けました。しかし、神殿にいた大祭司エリの二人の息子は「よこしまな者で」(2・12)、脂肪は焼いてから残った肉を食べてよいのに、神に献げる前に脂肪付きのままで食べていました。神様は、この時、言われました。「わたしは、私を尊ぶ者を尊ぶ。わたしを蔑む者は軽んじられる。」(2・30

少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。」(2・26

イスラエルの国は、信仰的には悪くなる一方で、「主のことばは、まれにしかなく、幻も消えていた。」(3・1)。それでも、少年サムエルは神殿で一生懸命に働き、夜は神の箱が安置されている神殿で寝ていました。ある夜、「サムエル、サムエル」という声を聴き、飛び起きて大祭司エリの寝床へ行き、ご用ですか、と尋ねます。エリは、「私は呼ばない。帰ってお休み。」(3・6)と答えます。もう一度、神はサムエルに呼びかけます。それが神からの語り掛けであることに気が付かないサムエルは、またエリの所に行きます。3度目にエリは、それがサムエルへの神の語り掛けであることを教え、「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」と答えることを教えます(3・9)。

 神はサムエルに、「自分の息子たちが、自ら呪いを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪」の為、エリとその息子たちを罰することを語ります(3・13

 「サムエルは成長した。【主】は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが【主】の預言者に任じられたことを知った。【主】は再びシロで現れた。【主】のことばによって、【主】がご自身をシロでサムエルに現されたからである。」(Tサムエル3・19-21

 神様が現れず、私たちに黙っておられ、何の働きもしない時は、神を真剣に信じる人がいないからです。もし、わたしたちが、神を信じ聖書に忠実に生きているならば、神は語り掛けてくださいます。その時は、「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」と答えるのです。親が子の為に祈り、間違いをただすことが親の責任であり、そうしないならば、親は責任を問われます。


8月12日 「言うだけ人間、行動人間」  マタイ233節 櫻井圀郎師

マタイ23:1 そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、
23:2
こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
23:3
ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
23:4
また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。
23:5
彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
23:6
また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
23:7
広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
23:8
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
23:9
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
23:10
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。
23:11
あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
23:12
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
23:13
わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。


8月19日 「バベルの塔を見た。」  創世記1119

創世記 11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
11:2
そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
11:3
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
11:4
そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
11:5
そのとき【主】は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
11:6
【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7
さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
11:8
こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9
それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

バベルとは別名バビロンで、創世記の塔のことを示すときだけバベルと呼ぶ習わしになっているようです。聖書では、人間の神への反抗、政治的傲慢、罪や快楽、富、滅びなどを示す言葉として使われています。人間が、神を信じないで自分たちの繁栄と力を貯え、謳歌する姿です。

  ウィーンの美術館では、裸の絵ばかりでした。日本人と会うと美術館巡りをしたと嬉しそうに話し、何時間見ても飽き足らないと言っていましたが、キリスト教画を含めて、ヌードばかりなのに辟易しました。確かに、オーストリアには太った人がおらず、健康的なのには感心しましたが、ローマ文化由来の肉体礼賛があり、性道徳も退廃しているようです。

 見事で荘厳な教会堂が多くありましたが、その一つで礼拝を持ったのは100名程で旅行者が半分ほどでした。カトリックも第二バチカン公会議以降、教皇庁の中央集権化を是正し、聖書中心の聖霊の教会作りを目指していますが、「時既に遅し」の感で、教会堂は芸術的遺物のようになっていました。ドナウ川クルーズの拠点にある壮大なメルク修道院は、修道士の生活や信仰生活を掲示するものはなく、その展示は芸術的な観点だけで創作されていました。

 宮殿や王宮の見学では、観光的には絶世の美女であったエリザベートがもてはやされています。その夫である最後のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ皇帝は、君主は神によって国家の統治権を委ねられたとする王権神授説を固く信じて疑わない人物であり、朝4時に起きて、祈りの時間を持った後、一日中働き続けた敬虔な人でありながら、民衆の自由や民族性を否定したので、民族戦争が相次ぎ、息子や妻を暴漢によって殺されることになります。その厳格な生活は、愛する妻からも拒まれ、強い信念と努力は、交流と寛容性が無い故に国を亡ぼすことになっていきます。

 世界中どこに行っても印象深いのが中国人観光客です。有名な楽友協会のコンサートには、中国人ツアーの人々に溢れ、あの優雅なコンサートをTシャツと半ズボンで、幼児連れで高額な席に座り、演奏中におしゃべりをし、時間が来たら曲が終わった途中で大挙して帰ってしまうのです。翌日の宮殿コンサートでは会場が狭いこともあり、中国人ツアーは断っているということが宣伝文句になっていました。ともかく、世界中で中国の進出と影響力の強さが大きなものになっています。ホテルでも、家族が大声で論じながら食事をし、自分たちの成功と力を確信しているかのようでした。教会員に中国人も多くなりましたが、失礼ながらこれもバベルと感じ、終末の滅びに繋がるものであると意識しました。

 日本人ツアーは、コンサートや美術館巡りに勤しみ、美食を求め、これも経済的余裕を持った人々の退廃的な姿と感じました。私たちの方は、ホテルの朝食を詰め込み、水は高いので節約した妻が体調を崩しました。

野菜も肉も非常に安く、人々も温和で治安も良く、自然も麗しく、さざ波のドナウ川も安らぎを与えるオーストリアで、「バベルの塔を見た!」というのは、皆さんにはショッキングかもしれません。「名をあげよう。」(4)、「彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」(6)という危険性を私は感じたのです。

 自己主張、排他的繁栄を求める人が、人生としては成功したとしても、幸せを得ることは難しいものです。彼らが互いに言葉が通じないようにしよう。」(7)という中で、自らの要求、主張、利益を抑えても、相手を受け入れ、交流を保つことができないと、夫婦間でも、友人間でも、職場でも、ましてや教会でも、仲良く、幸せにはなれません。何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそうしなさい。」(マタイ7・12)とあるのが、聖書が命じる幸せと祝福のための黄金ルールです。

 私たちが訪れたシェーンブルン宮殿は、マリア・テレジアによって造られた開放的家庭的なものでした。彼女は、父のカール6世の死後(1740)23歳の時に後継者となり、若い娘だと侮った諸国の侵入に毅然として対抗し、乳飲み子を連れてハンガリーに行き助けを求め、ハプスブルク家とオーストリアを守ったのでした。形式的にフランツ1世皇帝となるシュテハンと異例な恋愛結婚をして16人の子どもを産みます。1765年に夫が死ぬと自らの豪華な衣装や装飾品を全て女官たちに与え、死ぬまで喪服で暮らしたそうです。末娘マリー・アントワネットの浪費と遊び好きを戒め、身を亡ぼすことになると多くの手紙を出して忠告をしています。画期的な義務教育を始めて、小学校を作り教科書を配布した上で、地域ごとの言語での教育を認めています。彼女の部屋には、自分の子供たちの絵が飾られ、別な部屋には民衆の子ども達の絵が飾られていました。

  ドイツ語しか表記もアナウンスもないオーストリアでは、多くの失敗をしました。普段、十分な体力づくりをする暇のない妻を気遣い、休みを十分とったつもりでしたが、それでもストレスがあったようです。ただ、失敗と困難を繰り返しながら、労り会うことができたのは、長い夫婦生活の賜物だねと話し合いました。旅では、多くのことを祈り、考えました。波もなく流れるドナウ川の中に浮く杭には水しぶきが立っていました。穏やかな流れのように見えるけれども、十分な水が勢いよく流れているのでした。私も、水面下では労苦をし、大河のような豊かさと強さを持ちながら、穏やかな生活を過ごしたいものだと思いました。バベルの塔のような、自己利益の追求と顕示欲は滅びの法則です。


8月26日 「神に敵対する者にならない。」  使徒53342

使徒5:33 彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。
5:34
ところが、すべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人が議会の中に立ち、使徒たちをしばらく外に出させるように命じた。
5:35
それから、議員たちに向かってこう言った。「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。
5:36
というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。
5:37
その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。
5:38
そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。
5:39
しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」彼らは彼に説得され、
5:40
使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。
5:41
そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。
5:42
そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。

 初代教会は、聖霊の働きと信者の強い信仰の故に奇跡が相次ぎ、信者は増える一方でした。大祭司や宗教的指導者たちは、民衆の関心がキリスト教会に注がれるのを妬み、迫害を始めていました。教祖とされるイエス様を十字架に付けて殺したのに、却って盛んになっていくことにも困惑していました。

  弟子たちは、「人に従うより、神に従うべきです。」(使徒5・29)と唱えて、全く屈する様子は見えません。さらに、「イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」(5・31.32)と言われては、言い返すすべもなく、「怒り狂い、使徒たちを殺そうと計」(33)るのも無理はありません。

 ここで尊敬されている律法学者ガマリエルが意見を言います。その要旨は以下の通りです。

@  どう扱うか、よく気を付ける。(35

A  攻撃しないで放っておく。(38

B  神の裁きに委ねる。(36-39

人の言動にすぐに反応して、喜怒哀楽をすぐにぶつける人がいますが、今日は、そういうことに関して顧みてみましょう

印象深いのは、親に黙って神殿に残り、教師たちと議論をしていた12歳のイエス様について、「両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。…母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(ルカ2・50.51)というところです。子供がどのように育つか、人間がどのように成長していくか、私たちにはわからないものです。自分自身でさえ、どのようになっていくかわからず、また、過去の自分に恥ずかしさを覚えることもおおいものです。神の御霊が私たちを導いてくださいます。

櫻井師が来られると、私たちは時代の動静、教会や教団の在り方、聖書の意味などについて、尽きない話をします。牧師会や総会においては、尽きない意見が出ます。人は皆、自己を持っているので主義を持ち、主張をします。それは、悪いことではありません。神ならぬ私達ですから、どのように歩み、どのように判断を付けたら良いのか、議論しなければ分からないのです。この議論や葛藤、模索をしないならば、無責任であり、正しい歩みをすることに興味がないと言えるかもしれません。自分だけが正しく歩む、人とは関わらずに生きるということは、愛がなく、他との交流を拒むものだからです。家族を愛し、仲間を愛し、同胞を愛します。

それぞれに、時代と境界とをお定めになりました。」(使徒17・26)このような葛藤や模索は、「神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見出すこともあるのです。」(使徒17・27)。リバイバルを求め、人の救いを求めることも、クリスチャンならば当然です。しかし、それがかなわず、愛する人が思うとおりにならない時に、どのような言動をするかが問われることなのです。

先週は、中国人の世界でのマナーが悪評を得ていることを話しました。腹が立った人もいることでしょう。実は日本人ツアーも3,40年前は、評判が悪く、国内でもマナーなどはなかったのです。今は、韓国が国を挙げて、日本の戦時中の行為を責めています。それに対して、反韓デモをし、ヘイトスピーチをする人々がおります。世界中がバベルの街であることはいつの時代も変わりがありません。私たちクリスチャンは、責める者、非難する者であってはならないのです。彼らは、怒りを表し、敵対行動をすることによって、自らの人生を崩壊させているのです。

しかし、「すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。」(ローマ2・1)とあるように、人を罪に定めたり、攻撃したりすると、神の前に正しくなくなります。テレビ・新聞・ネット・その他の情報で、敵対的行動を起こす人は多く、現代は、一つ失敗をすると総攻撃を受け、立ち直れなくなるようなこともあります。実は、クリスチャンでも、牧師でさえ、感情をコントロールできないで、身を亡ぼす人は多いのです。私たちは、人の失敗を見たら、取り成す人でありたいとおもいます。

御霊を受けている人は、全てのことをわきまえますが、自分は誰によってもわきまえられません。」(Tコリント2・15)。信仰を持ち、聖霊に導かれるということは奥義です。私たちは、信仰を持たない人には決して理解できない者に変えられつつあるのです。人の非難や攻撃、裏切りや悪事に対して、怒らなくなりました。自分の子どもや親を殺した人を許して愛するクリスチャンが多く報告されています。奇跡です。そんなことが、理解されるはずがありません。

私たちには、キリストの心があるのです。」(Tコリント2・16)。この世の罪びとの考え方、情報、慣習に惑わされてはいけません。キリストの心に導かれ、わきまえて生きることが大事です。


9月2日 「御霊と知恵に満ちた評判の良い人」  使徒617

使徒6:1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
6:2
そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
6:3
そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
6:4
そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
6:5
この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
6:6
この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
6:7
こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。

 人は助け合わなければ生きていけませんから組織ができます。組織ができると指導者が必要になります。しかし、人間は罪びとなので、自己中心、自己利益を求めがちになります。最近のスポーツ界の指導者の問題は、昔から続いていた指導層の不適切さが現れたに過ぎないようです。政治においても同様です。宗教においても、極端なことが起こっているので注意しなければなりません。私自身は、教会の健全な成長に大きな関心があるので、教会と信者のあるべき状態を確認しましょう。

1.信仰に生きるキリストの弟子の養成

 信者は、その信仰生活の模範を最寄りの先輩信者や、日本的な「立派な人」という概念で自分の成長を心掛けます。教会は「キリストの弟子として十字架を負い主に従う指導者層」によって運営されようとしますが、気を付けなければならないのは、「教会には多種多様な人々が神によってこの世から召し出されてくる。」ということです。日本の教育の特徴は、急いで画一的で従順な人間を養成しようというところになります。「自分と人々の罪からくる咎を覚悟し信仰と希望と愛とを持って福音の祝福の中に生きる」ということが、即席にできるはずもなく、またそれを達成できるのは、わずかな人なのです。つまり、人生は、常に成長の過程であり、それを目指すことによって神の国への歩みが続くのです。成長と聖化を望まなくなった途端に、道から外れ、堕落が始まるのです。

イエス・キリスト以外の人を絶対化、理想、偶像化してはならないのです。そういう面では、人に対する怒り、失望、憧れ、なども期待が過ぎるからかもしれません。自分の成長を諦めた人は、人の粗を探し、非難を始めるものです。世の中には、そういう人が一杯います。

2.キリストを頭として愛によって結び合わされた共同体の形成

 イエス様は、「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、・・・自分のいのちを与えるためである」(マタイ20・28)方なので、「偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(20・26)と言われました。人が思うとおりにならず、ミスをしたり、勝手なことをしたり、さらに反発をして来た時に、怒ったり批判したりするようでは、キリストの弟子とは言えません。さらに言えば、「指導者には黙って従えばよい。」などと指導する人も、パワハラを生み出し、愛によって結びつく共同体を阻害します。「人々の中に信仰の従順をもたらす」(ローマ1・5)ことこそが、指導者の使命であり、教会の奥義ですが、それは人間的な思惑で形成されるものではないからです。

3.真理と祈りと讃美に満ちた信仰生活の指導

 これらの為には、聖書を解説書として読むということでは足りません。

聖書のことばは、聖霊が働いてこそ、私たちの魂の中に入り、私たちを霊的に成長させるのであって、それは実際に信仰生活における試練や戦いの中において顕著に起こるのです。

 この世の通俗的な生き方をやめて真理を求め、霊的な戦いを日夜覚えるからこそ祈りにおいて神に聴き、そして苦しみと困難の中で讃美することから、信仰は成長していくのです。

4.隣人に対する愛に基づいた執り成しと伝道の実践

 神を信じない人々に対して、敵意と反発を覚えるのは、祈らず、聖書に聞いていない「肉に属するクリスチャン」(Tコリント3・1)です。人生は、「堅い食物」(3・2)ばかりです。よく調理して味を付け、よく噛んで食べることが大事です。物事が簡単に自分の思う通りになると思うならば、クリスチャンになる必要はありません。そこに苦しむから、信仰に導かれ、キリストの弟子になろうと願うのです。先週お話ししたとおり、「神を求めさせるために」(使徒17・27)、人も物も働きも思うようにならないのです。しかし、ある人々は、権力により、脅しにより、怒りによって、人々を思い通りにしようとするのです。

 この教会も大きくなり、外国人も増えてきました。外国に行くと、不便なこと、思い通りにならないこと、助けが必要なことが多くあります。「在留異国人を愛しなさい。」(申命記10・19)、「【主】が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。」(申命記26)6・11)とあります。日本人と同じように、外国人と接するのではなく、もっと大事にすることが必要なのです。

 この6章では、外国生まれのギリシャ語を使うユダヤ人が、なおざりにされたと苦情を言いました。ヘブル語を使う人々は、地元なので慣れていますが、彼らにはわからなかったのです。「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人」が選ばれ、執事として信者の生活の世話をすることになりました。御霊と知恵に満ちていないと、自分の都合や考えや習慣に左右されて仕事をすることが多く、相手に合った世話をできません。自分のことを長々というものではありません。人の言うことを長々と聞くほうが、大事です。弁解や言い訳が多い人が、評判の良い人であることは少ないのです。自慢話もいけません。評判が良いということは、あなたの信仰の成熟を表わします。

 信仰者の奥義としては、「良いしもべ」として「小さなことにも忠実」に生きることであると考えています(ルカ19・17)。神は全てをご存知です。


9月9日 「彼は主に従い通した。」  ヨシュア14614

ヨシュア 14:6 ときに、ユダ族がギルガルでヨシュアのところに近づいて来た。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。「【主】がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。
14:7
【主】のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。
14:8
私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、【主】に従い通しました。
14:9
そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、【主】に従い通したからである』と言いました。
14:10
今、ご覧のとおり、【主】がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、【主】は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。
14:11
しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。
14:12
どうか今、【主】があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。【主】が私とともにいてくだされば、【主】が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」
14:13
それでヨシュアは、エフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。
14:14
それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、【主】に従い通したからである。

今日は敬老礼拝です。教会員で75歳以上の方は7名で、信仰歴は46年、38年、33年、・・・と続きます。今月の教団誌にもあるように、ご高齢の方々の信仰は、先週ローマ書の奥義としてお伝えした信仰の従順」(ローマ1・5、16・26)の現れのように思います。私の神学校時代の舎監であった上原和雄師は、86歳でも現役牧師を続けておられ、5月にご挨拶に伺った時も、かくしゃくとして伝道と野菜つくりの話をしておられました。あすみが丘の河野姉は、75歳で洗礼を受けてから85歳になっても一人で一時間掛けて教会に通い、役員をしておられます。熊本の黒木姉も噂に聞いたことがありました。99歳でも祈りと伝道に燃えておられる姿に感銘を受けます。その他、87歳で洗礼を受けた男性は、後に末期がんであることを知り、葬儀などを全て手配した後、遺言に「これから天に凱旋するから、家族は赤飯を炊いて祝うように。」と伝えたそうです。

 人生は、神を信じていてもいなくても、神の国への門を目指して生きることであると思います。マタイ8章で、ローマの百人隊長の信仰を知って、イエス様は感嘆して誉めています。「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。(ローマ8・10-12)つまり、イエス様によって救いに至ったのですが、それに先立って、「信仰の従順」の奥義を軍隊教育の中で悟っていたのです。

 つまり、自らが権威の下に動き、部下には権威を行使すれば従うので、神の子であれば、命令の言葉を発すれば、どのような病も癒されることを悟っていたのです。ですから、神に従った生活をしていない人が、癒しや奇跡を求めても、実際には神の権威を行使することはできないのです。私は、癒しや奇跡を願い、適えられることは多くありますが、その為には、日々神に従い、神の権威の下に生きることを守っていなければならないのです。もし、罪を犯し、快楽にふけり、神のことばをないがしろにする生活を送っているならば、説教にも力がなく、魂は救われず、奇跡も癒しも行われないのです。

 「しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」とイエス様は語りましたが、神のことばに従って生きないで、形式的な信仰生活を過ごしている者に対する警告です。私自身も、自分の祈りが、悔い改めて神に従おうとしていない人には、効かないことw知っています。それは、イエス様でさえ同様なのです。自己中心というのは、救いようのない罪なのです。主に従って生きるならば、それは良い実を必ず実らせます。証にある品性であり、死をも、困難をも恐れぬ信仰です。

ガラテヤ書5章19〜23節を読んでみましょう。私たちは、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5・16)というように、御霊に導かれて生きる以外に、欲望に打ち勝つ秘訣はないのです。現代は、知識や情報によって惑わされています。その背後には間違いなくサタンの働きがあるでしょう。サタンは、サタンだとして現れる必要はありません。楽しそうなテレビやゲームを見せれば、人はそれに浸って逃れられなくなるからです。そういうことを、神への不従順というのです。

 ヨシュアとカレブは45年間、神に従い通しました。その間に、残りの人は皆、神への不従順の故に死んだのです。「私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は、私の神、主に従い通しました。(14・8)とあるように、多くの人が、執り成しの祈りや配慮にも関わらず、罪の中に堕落をしていって、私たちの心を挫きます。聖書の基準ではなく、自分の基準の中に生きて、それなりに生き、そして罪を犯すのです。

 罪の欲望を適えようと神に願っても、無駄なことです。ところが、多くの人が、自分の欲望を満足させ、自分の願いを適えようと、信仰生活を営んでいるのです。それは、救いや祝福とは違う、履き違えた歩みです。

 カレブは85歳でも「壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」(14・11)と言えました。彼は、神にも、同胞の為にも、家族の為にも、自らを鞭打って従い通しました。だからこそ、壮健なのです。

節制と努力、罪との闘い、そして、聖めの道を歩み、なおかつ、人を愛し、人に仕え、神の御心を適えようとすることが、従い通すということなのです。

若い時には、未熟さ、感情の起伏、蓄積のなさ、などで多くの弱さを持ちます。中堅の時には、上司や組織の意向と自分の考えや判断の相克で苦しみます。女性もまた、家庭や子育てで苦しみます。老いては、身体の弱さや経済力などのなさなどの問題もあります。しかし、どれも、「神を求めさせるためであって」(使徒17・27)、従うことを重視する者にとっては、超えるべき課題なのです。

状況に負け、弱さを口にして、「従うこと」を止めるのは、簡単なことです。私もまた、祈らず、聖書を読まず、聖霊に導かれなければ、誘惑が襲ってきます。勝手に生きたい。楽をしたい。引退したい。しかし、祈ることによって、そのような思いから解放されます。私もまた、「私は、私の神、主に従い通しました。」と告白したいのです。


9月16日 「知恵と御霊によって語る。」  使徒6715

使徒の働き 6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。
6:8
さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。
6:9
ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。
6:10
しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。
6:11
そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた」と言わせた。
6:12
また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行った。
6:13
そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。
6:14
『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」
6:15
議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。

「御霊に満たされる」ことと、「悪霊に憑かれる」ということは全く違います。しかし、基本的に、その人が自分の心を明け渡さないと、そういうことはありません。

「悪霊に憑かれる」ということは、支配欲や自我の欲望が募って、望みを叶える為に魂を委ねてしまうことによって起こります。オカルトなどが取り上げられますが、酒浸りや麻薬、性欲などはもちろんのこと、ゲームなどに浸ることも悪霊に影響されることは多くあります。趣味やオタク、なども気を付けなければなりません。ともかく、健全な生活を破壊しててしまうことは、魂の滅びに繋がり、生活習慣のふしだらな人は、聖書的に生きることは難しくなり、誘惑にも遭いやすくなります。

 「聖霊に満たされる」ということも、そのような生活や習慣を持っている人が得ることは無理です。「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」(ローマ6・16)。クリスチャンになったら、過去の生活習慣や考え方、そして趣味なども再考して、「自由にふるまっていた」(ローマ6・20)ものから変わらなければならないのです。

 夫婦の関係、生き方についても同様です。結婚しても、一緒に生活しているだけで、勝手に生き、独身の時代の趣味や生活を改めないとしたら、聖書的な愛し合う夫婦になることは不可能です。義について自由にふるまっていた」(6・20)世の中の生き方を当然なことをして暮らすから、クリスチャンになっても愛し合う夫婦になれないで、うまくいかない時に悔い改めて、どうにか結婚生活を保っているのです。

 「御霊に満たされて生きる」ためには、自分の考え方、生活習慣、人間関係、その他全てを、聖書的に生きるように心掛けなければなりません。特に、日本人は、その生活を前提として、聖書よりも大事にする傾向があります。例えば、聖書を〇分読むとか、祈りを〇分するとかが、聖書的であると考えてはなりません。御心に従って、聖書的な暮らしをするように改めるという実践がなければ意味がないのです。

 自分の願いを祈るのは一回で良いと言いましたが、人のための祈りばかりをしていても霊的にはなりません。「自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて、隠れた所におられる父に祈りなさい。」(マタイ6・6)。自分のうちにある深い所、恥ずかしい所、秘密の所に、神を招き入れて、自分の心をさらけ出し、世の思惑や考え方に対しては戸を閉めて、自らを神の前に吟味するのです。イエス様は、神に心を注ぎだし、自らを変えようとする祈りを説いておられるのです。罪を悔い改めるということは、生活を変える、考え方を変えるということなのです。

私は神を信じてから、マージャンも、タバコも、お酒も、友人たちと遊びまわることも止めました。付き合いが悪くなったと非難されましたが、この世の生き方の虚しさに気が付いていたからです。そして、非難した多くの友人が、教会に来て、その数人が信仰者になりました。クリスチャンになっても、同じように生きていたら、周りの人はあなたの信仰に何にも関心は持たないでしょう。そして、あなたの信仰は実態のないものとして証明されることになります。

 今でも、いつも自分の歩みをチェックしています。私の歩みと考え方が真実なものかどうかは、妻に聞いてみてください。そして、神がご存知です。この悔い改めと、御霊によって生きるということが、なおざりにされているので、日本のクリスチャンは形式的であり、魅力がなく、御霊にも知恵にも満たされないのです。

 悔い改めるということは、自分の弱さ、劣等感、過去、優越感、自慢、誇り、その他、自らの全てを価値のないものとして放棄することです。自分の過去に囚われて、それを口にすることが多い人は、悔い改めということを、きちんとしていないのです。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Uコリント5・17)。新しい人生を歩んでいないのならば、あなたは救われていないのかもしれません。よく自らを吟味し、神の前に過去から決別してください。

 ステパノはギリシャ名なので、イスラエル以外で生まれ育った人でしたでしょうが、執事として任命される時は既に「信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ」(使徒6・5)でした。だからこそ、海外から来ているユダヤ人の攻撃の的になったのでしょう。彼の考え方、生き方、信仰者になってからの変化は、彼ら未信者にとっては、腹の立つものだったからです。もし、皆さんの生活が、他の人と変わらないものであり、影響を与えないものだったら、攻撃されることもないのです。

 クリスチャンになってからの私への攻撃も凄いものでしたが、ステパノの記事を見て、慰められたものでした。あなたが俗的な肉に属するクリスチャンであるならば、人々の関心をひかず、攻撃されることもないでしょう。真の神を信じて生きる聖い生活は、罪びとには目障りです。

 大事なことは、立派に生きることでもなく、成功することでも、失敗をしないことでもありません。聖書と聖霊に導かれて生きようと願うことです。人の目を気にすると神の目を気にすることはできません。私が結婚した女性は、祈りと伝道と教会活動を優先する、愚かで不器用な処世術に劣っていた人でした。神も私も、それが大事だと思ったのです。「主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。」(箴言2・6


9月23日 「心と耳に割礼を受けるか。」  使徒75160

使徒 7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
7:52
あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
7:53
あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
7:54
人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
7:55
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56
こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
7:57
人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
7:58
そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

 訴えられた者に弁明の機会を与えるのは「ローマの慣例」(使徒25・16)でした。それでイエス様は、弟子たちに訴えられ捕えられる終末の時に「証しの機会となります。それでどう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。・・・反論も、反証もできない言葉と知恵を、わたしがあなたがたに与えます。」(ルカ21・13-15)と教えます。「言うべきことは、その時に聖霊が教えてくださるからです。」(ルカ12・12

 先日、「あなたのパスワードを知っている。あなたの見たポルノサイトの記録を友人たちにばらす。消したかったら570$ビットコインで送れ。」とメールが来ました。他のものは2000$でした。私のパスワードが知られたようです。でも、私はそのようなサイトに入ったことはないし、見たこともないので放っておきますが、既に数百通メールで脅されています。まるで、最後の審判のようです。隠れてやっていることが全て裁かれるのです。身に覚えのある人は、困るでしょうね。

 ステパノの長い説教はアブラハムをまず語ります。アブラハムは信仰の人であるからこそ、イスラエルの父であり、彼はどこに行ったらどうなるという保証もなしに、信仰の旅に出たのです。私たちもまた千葉に来たらどうなるという保証もなしに伝道を始めました。保証や目に見えるものをあてにするのは信仰による歩みとは言いません。

 次に、エジプトに売り飛ばされたヨセフのことを語ります。「神は彼とともにおられ、あらゆる艱難から彼を救い出し、エジプトの王パロの前で、恵みと知恵をお与えになった」(7・10)。

 モーセが自分の思惑ではなく、神の御心によって40年間の試練の時を与えられ、信仰的に強くなったことも語っています。逆らう民を率いてエジプトから脱出するためには、忍耐力と神への従順が必要だったのです。

 ダビデは神殿を作りたかったけれども、「いと高き神は、手で作った神殿にはお住みにならない。」ことを教え、ソロモンが神の家を建てたことを、ステパノは語り、神殿主義のユダヤ人を攻撃します。最高議会に引き立てられ尋問を受けているのに、その指導者たちに真の信仰とは何なのかと悔い改めを迫るのです。

 その要点は、「頑なで、心と耳に割礼を受けていない人たち!」(51)です。割礼は、ユダヤ教やイスラム教でされる、男性性器の包皮を切り取る儀式で、衛生上の機能もありますが、神との契約の印であり、性欲を含む欲望について神を意識する意味合いがあります。それで、「割礼を受ける人は、律法によって義と認められようとしているので、律法全体を守る必要がある。」(ガラテヤ5・3-4まとめ)とされるのです。

 「私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラ5・5.6)とされます。そして、「文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」(ローマ2・29)とあるように、割礼を受けていれば信仰者というのではなく、心が神に繋がれている人が信仰者なのだということなのです。

 クリスチャンでいえば、洗礼を受けているということはキリストの弟子の必要条件ですが、十分条件は神に従って生きているということです。「耳に割礼」とは、神からの語りかけを聞く耳を持っているということです。

 アブラハムも、ヨセフも、モーセも、ダビデも、困難や試練はいつもありました。アブラハムは、信仰の旅立ちしてから100年間生きましたが、自らの地所はもちませんでした。ヨセフは、エジプトで死に、遺体をカナンにあるアブラハムの墓所へ納めるよう願います。ダビデも、子ども達と妻たちの権力闘争の中で死んでいきます。

 心に割礼を受けていない人は、自分の人生に成果や功績、遺産などを残したがります。信仰者は、神に従って生きたかどうかを大事にします。

 人間には、能力の多少、性格や体格、生まれや財産、環境や育ち、いろいろな違いがあります。「形造られた者が形造った者に対して『あなたはなぜ私をこのようなものにしたのですか』と言えるでしょうか。」(ローマ9・20)。読んだ本に「キリスト者は、自分がどこにいくのか尋ねる権利を神に対して持っていない。」という言葉がありました。

 私自身、神を信じる前の12歳の時から、ひたむきに努力をしてきました。信仰をもった21歳の時に、その努力の目的を知りました。44年経って、未だに努力を続け、神の国への道を歩んでいます。そろそろ、休みたい気もあり、身体もそうですが、それが堕落に繋がることは知っています。むろん、年相応な働きに変えていくことは必要ですが、道は歩まなければなりません。アブラハムに負けじ、モーセに負けじ、と信仰の旅人は歩んでいるのではないでしょうか。


9月30日 「神の計り事を覚える。」  使徒75888

使徒7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
8:1
サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
8:2
敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
8:3
サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
8:4
他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
8:5
ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
8:6
群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
8:7
汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。
8:8
それでその町に大きな喜びが起こった。

私たちは、良いこと、都合の良いことがあると喜び、悪いこと嫌なことがあると悩むものです。更に、悪いことが続くと、神に不満をもったり、信仰も気力も衰える人が多くおります。

  敬虔な筆頭執事ステパノが殺され、迫害が激しくなって、信者たちはエルサレムを逃れ、地方に散りました。更に、石打の現場に居た青年サウロは、興奮してエルサレムの教会を荒らし、信者の家に入って引きずり出し、次々に牢に入れます。

  世の中の人々は、勝ち組に乗ろうとします。失敗者や弱い者を見下し、強い者に付こうとします。そういう面では、わたしはむやみに人を誉めることには気を付けた方が良いと考えています。褒められると更に褒められようとして正常なことをしなくなってしまい、また失敗を恐れて危険を冒さなくなるからです。大事なことは人の評価を気にすると、落ち着いた信仰生活ができなくなる傾向があるということです。世の中は、誉めて育てろと言いますが、聖書的には厳しく愛情をもって育てることが大事です。人間関係も褒め合う習慣を持つと、自分の弱みを見せなくなり、見せかけを気にするようになるので、気を付けてください。

  このサウロは、後に超自然的な体験をして信仰者パウロになります。「私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時こそ、私は強いからです。私は愚か者になりました。」(Uコリント12・10-11)とあるように、勝ち組に乗ろうとして興奮し、クリスチャンを迫害したサウロは、自らの過去におののきながら、弱さ罪深さを認めた大使徒パウロになるのです。

 パウロは、自分の望みを叶えようとして人々を攻撃したことを自覚したのです。強くなろう、成功者になろうとして、神に従わずに逆らってしまったことを悟ったのです。

 「愚か者」とは、どういう人でしょうか。家内は自分が疲れていても、私の足を揉んでくれようとします。私も、自分の仕事があっても、妻のために時間を掛けます。自分の都合を優先しません。シソがあったら、それを時間を掛けて摘み、乾燥して皆さんにあげようとします。シソの実も、摘み取り、家内は料理してそれを人にあげようとします。栗が多く採れた時は、さすがに私たちも途方にくれました。先週、皆さんにあげたものは110個、水につけて圧力釜で煮て、更に炒めました。私たち夫婦は、殆ど人の為に生きています。計算したり、自分の都合で生きたら、そんなことはしません。しかし、それは奥義なのです。「忍耐を尽くしてあなた方の間で行われた、しるしと不思議と力ある業です。」(Uコリント12・12)。自分の繁栄の為に生きる人に、神が助けも力も不思議も現わしてくださるはずはないのです。

住み慣れたエルサレムから追い出された信者たちは、「みことばを宣べ伝えながら、巡り歩いた。」(8・4)。決して弱音を吐いたり、悩んだりしていないで、却って伝道をしているのです。「状況にさゆうされない」のです。

 歴史的に振り返ると、もし迫害によってエルサレムからクリスチャンが散らされなかったら、キリスト教は世界宗教になっていないのです。

迫害とか、困難があると神の御心ではないのではないか、と悩む人が多くおります。困難や試練や迫害は信仰者が成長成熟するための、調理の過程のようなものです。困難や苦労が予想されると前進しない人がいます。残念ながら、その人が信仰者として成長し、神の祝福を受けるということは決してないでしょう。信仰とは計算や常識では無理だと思うことでも、「望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々は、この信仰によって称賛されました。」(へブル11・1-2

 執事のピリポは、サマリヤに行き、伝道しました。悪霊を追い出し、癒しをなし、救いを伝えたのです。彼は決して失望しませんでした。それで「その町に大きな喜びが起こった。」(8・8)のです。細かなことに一喜一憂していると神の計り事に乗ることができません。そして、神の予定も計画も知ることができない浅はかな人間が、神の名を使って、事の良し悪しを論じてはいけないのです。良いことが起こった時に、「神様がこれをして下さった。」というならば、悪いことが起こった時にはどう考えるのでしょうか。

 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」(Uテモテ4・2-5

 時代が悪くなると、健全な教えではなく、自分に都合の良いことを言ってもらおうとする信者が増え、真理に生きることを気に掛けない偽信者が多くなってくるのです。この教会は、私がいつも、このような厳しいことを聖書通りに言っているので、どうにか守られると願っています。信仰者というのは、良いことが起こったとか、悪いことが起こったなどということにとらわれず、信仰者として「自分の務めを果たす」ことが大事なのです。


10月7日 「虚栄の信仰。」  使徒8924

使徒 8:9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
8:10
小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。
8:11
人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。
8:12
しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
8:13
シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。
8:14
さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
8:18
使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、
8:19
「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。
8:20
ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。
8:21
あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。
8:22
だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。
8:23
あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」
8:24
シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」

人は、なぜ宗教に入るのでしょうか。神を信じる者として、神が人を創造されたのは間違いないのですが、人間の罪がその信仰心をゆがめます。そして、「罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(サタン)に従って、歩んでいました。」(エペソ2・1)。その生き方は、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行」(2・2)うものです。

 ですから、救われたとい証拠は、自分の欲望のままに生きない、ということです。先週お話ししたように、魂が真に救われたクリスチャンは、迫害や試練に動じないのです。魂が本当に救われているのか、形式だけのクリスチャンなのかということは、キリスト教の歴史にとっても、教会にとっても、また信仰者自身にとっても、大きな問題です。

 ピリピによって伝道されたシモンは、魔術を行って人々を驚かし、それによって生きていました。人々は、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」(8・10)と信じて、彼にお金や物を貢いでいました。ところが、それが偽りであり、ごまかしであることは自分自身が知っていました。ですから、「シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。」のです。

 さらにペテロとヨハネが来て、聖霊のバプテスマを人々に受けさせると、そのすごさに驚きました。「使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、『私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい』と言った。」シモンは、これまでの生活習慣や罪によって汚された考え方から抜け出ていなかったのです。

 罪を悔い改めて洗礼を受けても、昔の考え方や生き方から抜け出られない、或は抜け出ようとしない人が多くおります。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」(ヤコブ1・23.24)。礼拝の後、スモールグループで説教を振返り、自らの感想と信仰を告白するのは、この忘れてしまうという罪びとの修正を補うためです。さらに、食事を共にするということは、旧約の「和解のいけにえ」と同じように、神の前で信仰者と共に食事をしながら分かち合うことが必要だからです。

 神のことばに従い、「みことばを実行する人」は、神の祝福を受けます。私が個人的にアドバイスをしても全く守らない人もおります。それは自由です。私は、主のしもべとしては、ただ教え、執り成し、祈ることに徹すれば良いと考えています。しかし、滅びはその人のものです。

自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」(ヤコブ1・26)。その人が自己中心であり、罪びとであるかどうかは、その人の生活で明らかになります。自分に囚われているのです。信仰者というのは、自分の利益、富、考え、立場などをいつでもみことばによって修正するのです。私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。」(Tコリント4・1-3

 思い悩む人は、自分を捨てきれず、自分を変えようとせず、周囲と神と状況を都合の良いようになるように願うからです。全てを覚悟すればノイローゼになることはありません。しかし、罪とは自己中心なので、悩むということが本来の人間性なのです。ところが、それでは救われず、解放されることはないのです。ペテロは、はっきりと悔い改めを求めています。「あなたの心が神の前に正しくないからです。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」(8・21-23)。

私は、日本には聖霊に満たされ、神に従って祝福される信仰者が少ないのは、このような神の言葉に忠実である牧師が少なく、人を配慮してしまうからだと思っています。説教者は、みことばを軽くしたり、変えたりしてはいけないのです。また、信者のほうも、みことばに忠実というよりも、ほどほどのクリスチャンであれば良いと考える傾向があるからです。私が牧師になろうとした時、未信者はもちろん、信者も、そこまで熱心にならなくてもよいのに。」と諭そうとしてきたことは事実です。これではリバイバルが日本に起こるはずがありません。

狭き門から入りなさい。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者は稀です。」(マタイ7・13.14)。信仰者は確かに喜び、平安、愛に満たされます。しかし、決して楽で楽しく無理がないとは書いてありません。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16・24-26