4月1日 主イエスはよみがえられた!   Tコリント15317

Tコリ15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4
また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5
また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7
その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
15:8
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
15:13
もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14
そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15
それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16
もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17
そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

死んだ者がよみがえったという話を聞いたら、眉唾どころかペテン師の言葉だと考えたほうが良いでしょう。私は、儲け話、御利益話、奇跡や秘跡などという話は好きではありません。本や小説も、ノウハウ本は馬鹿にしており、論理や証拠のしっかりした本や、人情話が好きです。

 そんな私が、イエス・キリストを自らの救い主として信じ、その死からの復活を信じているのですから、不思議なものです。正直言って、人々から馬鹿にされてもしょうがないと思っています。他の人に、説得で信じさせるものでもないと思っており、論証しようとも思っていません。ただ、本気で信じており、神の前に恥じない人生を過ごそうといつも務めていることは事実です。

 弟子たちも全く信じていなかったし、復活の証言を聞いても、疑っていたと記録されています。ところが、その弟子たちが復活したイエス・キリストに何回も会い、教えられていくうちに全く人格が変わってしまい、命がけで伝道し、確かに皆が殉教しているのです。復活したイエス様に会うまでは、弟子たちも皆、普通の人であり、頭の良い優秀な人もいれば、過激な人もいるし、計算高い人も、血気盛んな人もいて、人間臭いので、なんでこんな人たちを12弟子に選んだのかと思うほど、平凡な人々です。

 そんな弟子たちが、イエス様の復活を契機に全く強い非凡な人に変わってしまうのです。パウロなどは、もともと優秀で指導者でもありました。そのパウロは、クリスチャンを迫害する指導者であったのに、キリストに出会い、死刑になる裁きの弁論でこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にも証をしているのです。」(使徒26・22)。その証しとは、「キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」(23)。

 私自身も21年半、神を知らない人生を送ってきて、この世に浸かった日々を過ごしてきました。それが、酔っ払っていい気になっているところにクリスチャンと会い、まさかのことで、神の存在が気になり、そして、どういうわけか、神を信じる気持ちで一杯になり、これでは狂信的になってしまうという理性に逆らう神体験が重なり、そして聖霊のバプテスマを受けたのでした。

 その時、キリストの十字架の幻を見、そして身体中が恍惚状態になり、合わせた手の中から「信じなさい、信じなさい、あなたの信じる祈りの中にあって、わたしはあなたを助け、わたしを現わす。」という声を聴いたのでした。そして、私は、今まで知らされていなかった聖霊のバプテスマを体験し、異言が身体の底からほとばしり出たのでした。そのことの真実さは、私の人生が証拠です。その後、私は確かに命がけで信仰生活を送っています。

多くの人があまり真剣に生きていません。それほど努力はしないし、勉強もしない。自己中心という罪の中に生きています。復活の象徴として、復活祭には卵を贈ります。生卵だと割れてしまうので、ゆで卵ですが、雛は自ら殻を突いて生まれ出るのだそうです。さなぎから成虫になる為の脱皮も、外から力を貸しては、飛び立つ力が出ないのだそうです。人も、自分の罪という殻を、自ら破ろうとしないと、聖霊に満たされることはないようです。

 私は、神を信じた瞬間から新しい人生が始まりました。それまでの自分中心の生活は辞めました。酒をやめ、タバコも止め、礼拝を命がけで守り、収入の十分の一を献げ、聖書を読み、祈りを続け、新しい生き方を模索しました。「異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝にふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。彼らは、あなたがたが自分たちと一緒に度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。」(Tペテロ4・3-4)。確かに、そのように生き始めたので、私は非難を受けました。しかし、神を信じ、その義を生き甲斐とした私にとっては、何ほどのことでもありませんでした。そして、今があります。神は、私のすべてをご存知です。

 「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」私たちがキリストの復活を本当に信じていないのなら、その信仰は儀礼的なものになり、見せかけのものになるのです。私たちの信仰生活そのものが、私たちの信仰の真実さを証明するものとなるのです。

 面白いことに、誠実さというのは仕事にも表れます。みせかけで生きていると、駆け引きにとらわれます。真実に生きている人は、失敗した時は、それを認めて次は迷惑を掛けないようにしますが、見せかけで生きている人は、失敗を誤魔化そうとします。分子整合栄養医学を始めたのも、クリスチャンとして聖書に立った医療の考え方と適用を模索したからです。会社も、患者の益になるようにサプリメントを供給しようとしたからであって、宣伝行為や利益優先ではありません。教会の牧師や伝道師も、宗教指導者として崇められたい、成功者になりたい、給与を一杯もらいたい、などと考えると、危ない人になります。イエス様は、「人のうちにあるものを知っておられたので、人について誰の証言も必要とされなかった」(ヨハネ2・25)とあるように、神は、私たちの信仰の真実さや不真実さを知っておられるのです。しかし、愚かな人は、詭弁で自分を正当化し、それで神の前に出られると思っているのです。大事なことは、復活の主と共に生きることです。


4月8日 主イエスとの道行き   ルカ福音書242736

ルカ24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
24:28
彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29
それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
24:30
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32
そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33
すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34
「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
24:35
彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
24:36
これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。

エルサレムでは、イエス様の墓がカラになっているという事件が大きく話題になっていました。仲間の女性たちが「御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた。」(24・23)と証言しても、「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」(24・11)のです。

 その日の夕方、二人の弟子たちが、エルサレムから11キロほど離れたエマオへ向かっていました。暗い顔つきで話し合いながら歩いている二人に、イエス様が話しかけると、イエス様であることに気が付かないで、「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」(24・18)と、この重大事件を知らないことを責めるようにクレオパという弟子が言いました。既に暗かったので、気が付かなかったのでしょうか。彼らは、この世のうわさに囚われて、仲間の女性の証言を全く信じないで否定的になっていたのでした。

 先週、さなぎから成虫になる為には、殻を破る自らの力が必要であることをお話ししました。蝉は、枯れ木などに卵を産み付けて翌年の6月頃に孵化して地中にもぐり、幼虫として地下に3年から17年も生息してから晴れた日の夕方に樹に登り羽化を始めます。樹に爪を立て、背が割れて白い成虫が顔を出し、身体を反らせて足を出し、翌朝には骨格も固まり、色も付いてきて、約一カ月の間に栄養を取って交尾を為し、産卵して死んでいくのです。

 私の言わんとしたことは、その苦労だけでなく、脱皮した後の空を飛ぶ生活と地中の生活の違いであり、種の永遠の存続を目指して命を注ぐということです。苦労が大事、ということではありません。

 エルサレムの人々は、イエス様の遺体がなくなった理由を知りたいという、噂話でいっぱいでした。弟子たちもまた、イエス様の教えを受けていながら、同じ程度のもので、復活を告白する女性たちのことなど、全く信じていないのでした。

 神を信じる、信じない、魂が救われる、救われていない、復活を信じる、信じていない、ということは、蝉が地中にいるのと、空を飛ぶのとの違いの様にまったく違うことなのです。不思議なことに、蝉は成熟して時が来ると、空に飛び立つ準備を始めます。ところが、人間は、成長しても、永遠の神の国への道を歩もうとはしないのです。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」(ヨハネ3・20)。罪の世界から抜け出ることを、その人自身が、強く望まないと、光の世界に飛び立つことはできないのです。

 昨日は、私たちの38回目の結婚記念日でした。結婚式の後、そのままアパートに帰り、参列した人とも会いました。しかし、私たちは全く違っていました。今日から神学校に入り、献身者の人生が始まったからです。今日、参加してくださっている船津師は、本当に良い母教会の牧師です。人を批判することなく、いつも信仰に満ち溢れている方で、私は、この教会出身であったことを心から感謝しております。ただ、確かに神学校に入ってからは、自らの献身者としての戦い苦難ばかりが続きました。蝉が脱皮をするのに2時間くらいかかり、その後、飛び立つ力を持つまでにも時間が掛かり、成功率は4割以下だそうです。

 弟子たちが女性たちの言葉を信じない中で、ペテロとヨハネだけは墓に走って行って遺体に巻かれた布が巻かれたままになっているのを「見て、信じた。」(ヨハネ20・8)。のですが、他の弟子たちは、全く信ぜず、この二人も同様でした。私には、なぜ、この二人にイエス様が話しかけたか、裏切った弟子たちにまた現れて教えを続けたかに関心があります。

 私には、12歳の時に神に求めた祈りが、その後の人生に結びついているような気がします。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(U歴代誌16・9)。また、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1・4)も真理だと思います。

 つまり、実際に教会に来ている人は、神に選ばれているのだと理解しています。しかし、蝉のさなぎが成虫になるための歩みに際して4割以下の成功率と同じように、いろいろな理由で、信仰者として洗礼まで、信仰まで達しないのです。更に、脱皮して飛び立っても、永遠のいのちに繋がるまでの歩みに成功しない人も多くいるのです。「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(ルカ24・26)とあるように、私たちの人生も、信仰への罪からの脱皮を苦しみながら経て、栄光の人生が始まるのです。

 イエス様との道行きは、「私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24・32)という素晴らしいものです。私たちの38年間の結婚生活も主がいつも共におり、折の良い助けと恵みがあり、教えられることが多く、そして、いつしか私たちも、主の弟子として成長してきました。

 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3・3)。罪の生活から抜け出る決心をしなければ、あなたの救いは得られないのです。あなたが、教会に導かれたのは、神の選びがあったからであることは確かです。しかし、救いを得、そして、御霊に満たされて生きるためには、あなた自身の罪との闘いが必要なのです。