4月1日 主イエスはよみがえられた!   Tコリント15317

Tコリ15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4
また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5
また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7
その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
15:8
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
15:13
もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14
そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15
それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16
もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17
そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

死んだ者がよみがえったという話を聞いたら、眉唾どころかペテン師の言葉だと考えたほうが良いでしょう。私は、儲け話、御利益話、奇跡や秘跡などという話は好きではありません。本や小説も、ノウハウ本は馬鹿にしており、論理や証拠のしっかりした本や、人情話が好きです。

 そんな私が、イエス・キリストを自らの救い主として信じ、その死からの復活を信じているのですから、不思議なものです。正直言って、人々から馬鹿にされてもしょうがないと思っています。他の人に、説得で信じさせるものでもないと思っており、論証しようとも思っていません。ただ、本気で信じており、神の前に恥じない人生を過ごそうといつも務めていることは事実です。

 弟子たちも全く信じていなかったし、復活の証言を聞いても、疑っていたと記録されています。ところが、その弟子たちが復活したイエス・キリストに何回も会い、教えられていくうちに全く人格が変わってしまい、命がけで伝道し、確かに皆が殉教しているのです。復活したイエス様に会うまでは、弟子たちも皆、普通の人であり、頭の良い優秀な人もいれば、過激な人もいるし、計算高い人も、血気盛んな人もいて、人間臭いので、なんでこんな人たちを12弟子に選んだのかと思うほど、平凡な人々です。

 そんな弟子たちが、イエス様の復活を契機に全く強い非凡な人に変わってしまうのです。パウロなどは、もともと優秀で指導者でもありました。そのパウロは、クリスチャンを迫害する指導者であったのに、キリストに出会い、死刑になる裁きの弁論でこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にも証をしているのです。」(使徒26・22)。その証しとは、「キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」(23)。

 私自身も21年半、神を知らない人生を送ってきて、この世に浸かった日々を過ごしてきました。それが、酔っ払っていい気になっているところにクリスチャンと会い、まさかのことで、神の存在が気になり、そして、どういうわけか、神を信じる気持ちで一杯になり、これでは狂信的になってしまうという理性に逆らう神体験が重なり、そして聖霊のバプテスマを受けたのでした。

 その時、キリストの十字架の幻を見、そして身体中が恍惚状態になり、合わせた手の中から「信じなさい、信じなさい、あなたの信じる祈りの中にあって、わたしはあなたを助け、わたしを現わす。」という声を聴いたのでした。そして、私は、今まで知らされていなかった聖霊のバプテスマを体験し、異言が身体の底からほとばしり出たのでした。そのことの真実さは、私の人生が証拠です。その後、私は確かに命がけで信仰生活を送っています。

多くの人があまり真剣に生きていません。それほど努力はしないし、勉強もしない。自己中心という罪の中に生きています。復活の象徴として、復活祭には卵を贈ります。生卵だと割れてしまうので、ゆで卵ですが、雛は自ら殻を突いて生まれ出るのだそうです。さなぎから成虫になる為の脱皮も、外から力を貸しては、飛び立つ力が出ないのだそうです。人も、自分の罪という殻を、自ら破ろうとしないと、聖霊に満たされることはないようです。

 私は、神を信じた瞬間から新しい人生が始まりました。それまでの自分中心の生活は辞めました。酒をやめ、タバコも止め、礼拝を命がけで守り、収入の十分の一を献げ、聖書を読み、祈りを続け、新しい生き方を模索しました。「異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝にふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。彼らは、あなたがたが自分たちと一緒に度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。」(Tペテロ4・3-4)。確かに、そのように生き始めたので、私は非難を受けました。しかし、神を信じ、その義を生き甲斐とした私にとっては、何ほどのことでもありませんでした。そして、今があります。神は、私のすべてをご存知です。

 「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」私たちがキリストの復活を本当に信じていないのなら、その信仰は儀礼的なものになり、見せかけのものになるのです。私たちの信仰生活そのものが、私たちの信仰の真実さを証明するものとなるのです。

 面白いことに、誠実さというのは仕事にも表れます。みせかけで生きていると、駆け引きにとらわれます。真実に生きている人は、失敗した時は、それを認めて次は迷惑を掛けないようにしますが、見せかけで生きている人は、失敗を誤魔化そうとします。分子整合栄養医学を始めたのも、クリスチャンとして聖書に立った医療の考え方と適用を模索したからです。会社も、患者の益になるようにサプリメントを供給しようとしたからであって、宣伝行為や利益優先ではありません。教会の牧師や伝道師も、宗教指導者として崇められたい、成功者になりたい、給与を一杯もらいたい、などと考えると、危ない人になります。イエス様は、「人のうちにあるものを知っておられたので、人について誰の証言も必要とされなかった」(ヨハネ2・25)とあるように、神は、私たちの信仰の真実さや不真実さを知っておられるのです。しかし、愚かな人は、詭弁で自分を正当化し、それで神の前に出られると思っているのです。大事なことは、復活の主と共に生きることです。


4月8日 主イエスとの道行き   ルカ福音書242736

ルカ24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
24:28
彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29
それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
24:30
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32
そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33
すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34
「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
24:35
彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
24:36
これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。

エルサレムでは、イエス様の墓がカラになっているという事件が大きく話題になっていました。仲間の女性たちが「御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた。」(24・23)と証言しても、「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」(24・11)のです。

 その日の夕方、二人の弟子たちが、エルサレムから11キロほど離れたエマオへ向かっていました。暗い顔つきで話し合いながら歩いている二人に、イエス様が話しかけると、イエス様であることに気が付かないで、「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」(24・18)と、この重大事件を知らないことを責めるようにクレオパという弟子が言いました。既に暗かったので、気が付かなかったのでしょうか。彼らは、この世のうわさに囚われて、仲間の女性の証言を全く信じないで否定的になっていたのでした。

 先週、さなぎから成虫になる為には、殻を破る自らの力が必要であることをお話ししました。蝉は、枯れ木などに卵を産み付けて翌年の6月頃に孵化して地中にもぐり、幼虫として地下に3年から17年も生息してから晴れた日の夕方に樹に登り羽化を始めます。樹に爪を立て、背が割れて白い成虫が顔を出し、身体を反らせて足を出し、翌朝には骨格も固まり、色も付いてきて、約一カ月の間に栄養を取って交尾を為し、産卵して死んでいくのです。

 私の言わんとしたことは、その苦労だけでなく、脱皮した後の空を飛ぶ生活と地中の生活の違いであり、種の永遠の存続を目指して命を注ぐということです。苦労が大事、ということではありません。

 エルサレムの人々は、イエス様の遺体がなくなった理由を知りたいという、噂話でいっぱいでした。弟子たちもまた、イエス様の教えを受けていながら、同じ程度のもので、復活を告白する女性たちのことなど、全く信じていないのでした。

 神を信じる、信じない、魂が救われる、救われていない、復活を信じる、信じていない、ということは、蝉が地中にいるのと、空を飛ぶのとの違いの様にまったく違うことなのです。不思議なことに、蝉は成熟して時が来ると、空に飛び立つ準備を始めます。ところが、人間は、成長しても、永遠の神の国への道を歩もうとはしないのです。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」(ヨハネ3・20)。罪の世界から抜け出ることを、その人自身が、強く望まないと、光の世界に飛び立つことはできないのです。

 昨日は、私たちの38回目の結婚記念日でした。結婚式の後、そのままアパートに帰り、参列した人とも会いました。しかし、私たちは全く違っていました。今日から神学校に入り、献身者の人生が始まったからです。今日、参加してくださっている船津師は、本当に良い母教会の牧師です。人を批判することなく、いつも信仰に満ち溢れている方で、私は、この教会出身であったことを心から感謝しております。ただ、確かに神学校に入ってからは、自らの献身者としての戦い苦難ばかりが続きました。蝉が脱皮をするのに2時間くらいかかり、その後、飛び立つ力を持つまでにも時間が掛かり、成功率は4割以下だそうです。

 弟子たちが女性たちの言葉を信じない中で、ペテロとヨハネだけは墓に走って行って遺体に巻かれた布が巻かれたままになっているのを「見て、信じた。」(ヨハネ20・8)。のですが、他の弟子たちは、全く信ぜず、この二人も同様でした。私には、なぜ、この二人にイエス様が話しかけたか、裏切った弟子たちにまた現れて教えを続けたかに関心があります。

 私には、12歳の時に神に求めた祈りが、その後の人生に結びついているような気がします。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(U歴代誌16・9)。また、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1・4)も真理だと思います。

 つまり、実際に教会に来ている人は、神に選ばれているのだと理解しています。しかし、蝉のさなぎが成虫になるための歩みに際して4割以下の成功率と同じように、いろいろな理由で、信仰者として洗礼まで、信仰まで達しないのです。更に、脱皮して飛び立っても、永遠のいのちに繋がるまでの歩みに成功しない人も多くいるのです。「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(ルカ24・26)とあるように、私たちの人生も、信仰への罪からの脱皮を苦しみながら経て、栄光の人生が始まるのです。

 イエス様との道行きは、「私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24・32)という素晴らしいものです。私たちの38年間の結婚生活も主がいつも共におり、折の良い助けと恵みがあり、教えられることが多く、そして、いつしか私たちも、主の弟子として成長してきました。

 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3・3)。罪の生活から抜け出る決心をしなければ、あなたの救いは得られないのです。あなたが、教会に導かれたのは、神の選びがあったからであることは確かです。しかし、救いを得、そして、御霊に満たされて生きるためには、あなた自身の罪との闘いが必要なのです。


4月15日 主と共に歩む人生   ヨハネ福音書21414

ヨハネ21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
21:8
しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
21:9
こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10
イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
21:11
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
21:12
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
21:13
イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14
イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

 先週は、復活を信じて生きることと、罪の中に生きることは、セミが脱皮して空を飛ぶことと、それ以前の地中の暗い中に生きることのように違うことをお話ししました。しかし、罪の現実は自己義であり、あたかも自分は自由に空を飛んでいるかのように考えている蝉のさなぎもいることに気が付きました。自分には羽がないのに、羽が生えている蝉たちと一緒に過ごすことによって、自分は蝉だと思い込んでいるのです。

  真に魂の救われた人は、人の罪を糾弾しなくなります。陰口や非難もしなくなります。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」(ローマ2・1)。自分が罪びとであることを悟り、神の前に悔い改めた人は、人が罪を犯した時に執り成しをし、その罪を覆い、神の前の悔い改めに導かれるように祈るのです。ですから、誰かがミスをしたり、罪を犯した時に、どのようにそれに対応するかで、その人自身が未だ罪びとであるか、救われた人であるかが、わかります。罪びと同士は、よりミスが多い人や罪を犯す人を話題にし、その人をあざけって、自らの罪が言い逃れのないものであることを、後の裁きの時に明らかにされるのです。

 弟子たちは、自らが主を否定し、復活を信じなかったという罪性、愚かさに気が滅入ってしまいました。悩んでいてもしょうがないので、年長のペテロが気晴らしに「漁に行く。」と言うと、他の6人も付いていきました。罪責感が抜けずに、漁にも身が入りません。明け方まで働いても、何も取れませんでした。彼らは、自分たちが呪われているとでも思ったことでしょう。人間は、人を裁き、罰したうえで悔い改めさせようという傾向があるので、自らが罪を犯すと、罰や呪いを考えてしまうのです。

 福音書からイエス様が、罰しようとした箇所を確認してみましょう。

@  福音に耳を傾けない人々に対して。マタイ10・15.11・22.

A  偽善な指導者に対して。マタイ23・14.33.マルコ12・40

B  怠けているしもべに対して。マタイ24・51.ルカ12・46.

C  弱者を虐げている人々に対して。マタイ25・46.

D  悔い改めず呪う人に対して。ルカ23・40.

イエス様は、自ら悔いる人に怒ることは決してありません。人を罰しようとか、虐げているとか、頑なな人とか、怠けている人々を怒るのです。「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9・13

イエス様が嫌うのは、人を責める人です。イエス様が人として生まれたのは、「神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。」ルカ1・77)。イエス様が弟子たちにされたのは、まず祝福を与えることでした。彼らに、漁の祝福を約束されると直ちにおびただしい魚が取れました。すると、ヨハネは、声を掛けられたのが主イエスであることに気が付き、それを告げるとペテロだけが、裸では失礼として、わざわざ上着をまとって主のもとに行くため湖に飛び込みます。他の弟子たちは、せっかく連れた魚をもったいないと網を引いて舟を近づけます。

 主は、既に魚を焼いておられ、さらに彼らが取った魚も焼いて一緒に食べようと話しかけます(10)。そして、パンも魚も祝して、一緒に食べます。彼らの心は、どんなにか励まされ、喜びに満ちたことでしょうか。

 私たちクリスチャンの人生は、人を祝福するためのものです。人の罪を裁くのでは、裁かれる者となってしまいます。「あなたを愛するから、厳しくする。」という、罪びとの言い訳が今でも日本には定着しています。もしそれが事実ならば、イエス様は弟子たちに叱咤激励し、鞭を振るったことでしょう。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬を向けなさい。あなたに一ミリオン(1500m)行けと強いるような者とは、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」(マタイ5・39-42)。

この罪の世にあって、そのように生きる者だけが、主と共に歩む日々を過ごせるのです。神に献げた供え物としての人生を送ることが、どういうことか、「心の一心によって自分を変えなさい。」(ローマ12・1-2


4月22日 ひたむきに生きる。   使徒の働き1314

使徒1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
1:4
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
1:6
そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
1:7
イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
1:9
こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10
イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
1:12
そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
1:13
彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14
この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

 イエス様の復活を信じない弟子たちは、自分たちも迫害されるのではと恐れて隠れていました。復活したイエス様に会った後は、自分の不信仰と愚かさに気が滅入っていました。そんな弟子たちに、イエス様は声を掛け、魚を焼いてパンを共に食べさせます。右側に多くの魚がいるのに気が付かず、左側だけに網を打っていた弟子たちに大漁をも教えます。そんなにまでしても、弟子たちはあまり元気がありません。

 それは、聖霊に満たされていないからであるとお話ししました。聖霊に満たされていないということは、自分の罪や弱さ、過去や恥に捕らわれているということです。

 全てをご存知なイエス様は、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(4)と言い、天に昇って行きます。復活後、40日間、「彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(3)のですが、その後に待つことを命じます。そして、10日間、「みな心を合わせ、祈りに専念」(14)しました。

 私は、信仰において最も大事なものは忍耐だと思っています。忍耐とは、ただ待っているのではなく、「練られた品性を生み出し」「希望を生み出す」(ローマ5・4)ものであり、努力を続けることです。つまり、結果もわからず、保証もなく、困難な中にありながらも、失望落胆せずに努力を続け、そしてなおかつ、自分を犠牲にすることも覚悟して人を愛していくということです。こういうことができるのは、真実な信仰者でなければできません。

 私は、自分の子供の頃を思い出して、よく頑張れたなと感慨深く思います。貧しい草履商の9人兄弟の末子で、誰も大学に行かず、教養もスポーツも、趣味も旅行も全くない家庭でした。末っ子ですから甘やかされて育ち、神経質でもあり、また気も弱く、運動も音楽もできず、勉強などする環境ではありませんでした。友達はおりましたが、刺激し合うものではなく、ただの遊び友達でした。変わったところと言えば、本の虫で、小学校の図書館の本は殆ど読み、漫画も読み、大人の本の全集本なども小さい字を読み更けていました。50年以上前の貧しい日本の普通の子でした。

 そんな私が、卒業文集の自分の書いた「平凡な人生を送るだろう。」という言葉に、涙を流すほどに情けなく思い、自己改革を決心したのでした。その時、知らない神に対して、「もし神がおられるなら、私を見て、真実ならば助けてください。」と誓願を立てたのでした。

 短気と神経質を直すために、冗談を言い多くの友達を無理して作りました。音痴を治すためにブラスバンドに入り、運動神経を良くするために、毎日泳ぎに行きました。漫画を読むことは一切やめ、勉強をしました。

真っ赤になりながらクラスの発表をし、テストの点もクラスで5番くらいになり先生に褒められ、選挙で初めてクラスの視覚委員になりました。中2では不良がいたけど、相手にせず、努力をしたので、クラスの書記になりました。高跳びでは跳べないことを恥じ、一生懸命努力をしました。中3になって、父から、大学に行きたいかと問われ、卒業まで親が生きていると思うな、と自分で生ける国公立の大学に行くことを決心して、前橋高校を目指しました。県下一の高校ですから、市内の中学でも数名しか入れない難関校を滑り止めなしで受験しました。勉強しすぎて、その時に乱視になりました。

 高校に入って平日でも5-6時間は勉強し、生徒会の書記に立候補したけれども演説であがってしまい50票くらいで落選しました。恥ずかしくて、何度も演説の練習をして高2の秋には副会長に立候補して950票をとって受かりました。大学入試では、一橋大学一本でしたが落ち、父から預かった30万円をやりくりして予備校に入り、旺文社などの試験で県で10番以内となったこともありました。合格すると思った試験では、思わぬ高熱が出て、滑り止めの横浜市立大学に入った時には、こんなに努力した自分に熱が出るとは、神はいないのだと、腹が立ったものでした。

 必死に生きてきたものですから、挫折に耐え切れず、学生運動や遊び、その他いろいろなことをやりましたが、心は満たされず、ついに神を信じるに至るわけです。その後、信仰生活でも試練は多くありましたが、虚しさや葛藤はありませんでした。自らの愚かさや罪深さを感じることは数多くありましたが、その度に神の深い愛を覚えました。 

 ひたむきに生きてきた私が、ひたむきに生きない人に対して、なぜ、と思うことは多くあります。悔い改めが足りないのか、挫折や失敗に呑まれているのか、などと正直わからないものがあります。先週、「心の一心によって自分を変えなさい。」(ローマ12・1-2)と最後に語りました。「あなた方は、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。」(Uコリント6・12)とあるように、自分の過去や考え方、性格にとらわれずに、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなた方の神である主を愛せよ。」(マタイ22・37)という命令を実行しなければならないのです。そして、それが霊的な戦いであり、あなたの魂の救いを達成するための戦いなのです。救いが一度だけ、イエスキリストを救い主として受け入れた時だけで済むならば、この世の霊の戦いは意味のないものとなります。

 「愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」(ピリピ2・12


4月29日 安易な神への誓願。   使徒の働き11526

使徒1:15 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。
1:16
「兄弟たち。イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。
1:17
ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。
1:18 (
ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真っ二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。
1:19
このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。)
1:20
実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』
1:21
ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、
1:22
すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」
1:23
そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。
1:24
そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。
1:25
この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。」
1:26
そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。

ユダは確かに、使徒として任じられていました。そして優秀であったので、イエス様と弟子たちの金銭係でした。ところが、「彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められていたものを、いつも盗んでいた」(ヨハネ12・6)ように、お金に細かく、マリヤがイエス様に献げて足を拭ったナルドの香油(約300万円)を惜しんだのでした。信仰がない人は献金することができません。信仰にメリットを要求し、自分への対価を計算する人は、いつかは金に裏切られ、人の信頼も得ることができずに不幸に死んでいくものです。こういう人の祈りは、自分の繁栄であり、祝福です。

  盗みを常習としたユダには、「悪魔は既にシモンの子、イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」(ヨハネ13・2)のです。「自分の宝は天に貯えなさい。」(マタイ6・20)と言うことができない人は、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6・21)というように、「富に仕え」(6・24)ているのです。

  イエス様は、ユダが金と悪魔に心を奪われたことを悟っており、「あなたがたの一人が、私を裏切ります。」(ヨハネ13・21)と語り、ヨハネがそれは誰ですか、と尋ねた時に、「それは私がパン切れを浸して与える者です。」と答え、「ユダにお与えになった。」(ヨハネ13・26)。つまり、イエス様は、ユダに対して最後に悔い改める機会をお与えになったのです。ところが、「イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして』と言った。」(マタイ27・3)が、もはや遅く、悪魔の餌食として自殺することになってしまうのです。

  「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ5・19-21)。ところが、このような肉の行いに囚われている人々は、イエス様がいつも共におられるのに、ユダのように悔い改めることもしないで、欲望のままに知恵を尽くして生きるのです。

奇妙なことに、祈りまでして罪を犯す人々がいるのです。むろん、それは聖霊による祈りではありません。祈りの真似事です。祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」(マタイ6・7)。私が辟易するのは、自分勝手に神への願いを決めて執拗に祈っている人々です。

新興宗教にはよくあるようですが、魂の罪からの救いと人格的な成熟を促すキリスト教にさえ、そういう信者や牧師がおります。驚くべきことは、毎朝早くから長時間祈り願っているのが、自分が勝手に願ったことを実現してくださいという場合です。

 弟子たちは、イエス様に言われていないのに、勝手に12弟子の補充をします。ユストとマッテヤのどちらかというクジをひくのですが、どちらかに当たるのは当たり前です。実際には、神は大使徒パウロを用意されていたのです。彼らの愚かさは待つということができないこと、信仰歴が短いのに神を自分のものとして行動してしまうこと、聖書と神の在り方を知らないこと、そして聖霊に満たされていない(この後に聖霊体験をする)ことなどです。

ヨシュアがモーセの召天した後、ヨルダン川を渡り、意気揚々と「エリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。『あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。』すると彼は言った。『いや、わたしは【主】の軍の将として、今、来たのだ。』そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。『わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。』」(ヨシュア5・13.14)と、自分が傲慢になっていることに気が付いて、ひれ伏します。神が味方かどうかではなく、私たちが神のしもべとして働いているかどうかが大事なのです。

 伴侶や子供や親、そして組織や部下や上司を変えようとして一心に祈っている人がいます。人を変えようとするよりも、変わらない相手を受け入れ赦すようになるほうが神の御心にあっています。組織や国が変わらないならば、それに影響されない職業や居住地を選べば良いのです。

 ただ、大事なことは、罪に影響され、或は劣等感や差別に苛まれて生きている人がいるならば、変えようとするのではなく、助けることをしなければなりません。要するに愛するということが、神の御心なのです。

 神を信じる者として、「神の国とその義をまず第一に求め、その日その日の労苦を十分に行う。」(マタイ6・33.34要約)ならば、あなたには、祝福の日が伴ってくるのです。


5月6日 神の働きは理性で捉えられない。   使徒の働き2113

使徒 2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2
すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3
また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5
さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6
この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
2:7
彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
2:8
それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
2:9
私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10
フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
2:11
ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
2:12
人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。
2:13
しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。

教区聖会の講師、竹中師の証は、四国電力で木の登ってチェーンソーで切っている時に、信徒二人が突然、竹中師が木から落ちる幻を見て祈り叫んだとのことです。竹中師はなんとなくチェーンソーを止めると、信徒で部下の人が大声で叫んで走ってきたので、点検するとあと少しで自分を支えるロープを切り落とすところだったそうです。

  今月のアッセンブリー誌を読んでも、不安な時、困った時、病気の時、神に祈り求めて、助けを得、力を得、癒しを得た体験が載っています。信仰者の信仰は、窮した時に神に助けを求めて適えられる体験によって強められていきます。

  ところが、信仰が強まらない人々は、困難な時に、神に祈らず、思い煩ったり、理性で判断してしまうようです。ペテロは、最後には逆さ十字架で死刑になることを望んだほどの強い信仰者ですが、当初は、「鶏がなく前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」(マタイ26・75)と警告されていても、イエス様を否定してしまいます。最年長のリーダー格でありながら、復活の主に出会っても、「漁に行く。」と逃げようとしています。更に、先週お話ししたように、イエス様に言われてもいないのに、勝手に12弟子を追加しようとしてしまいます。

  信仰者というのは、もともと信仰深い人というのはいないものです。少しずつ、信仰者として成長し、成熟していくのです。その契機が祈りの体験なのです。イエス様の昇天(信仰者が死ぬ時は召天と言います。)後、弟子たちは10日間、祈りに専念しました。ペテロにとっては、裏切ったユダのことが頭の中から抜けきりません。その苦き思いを払うために、代わりの使徒を補充しようと考えたのです。長い祈りの結果として、神に示されたことと、祈りの前に思いついて神に誓願したこととは、全く違うものです。

 牧会歴35年の私も、振り返れば失敗の連続です。その理由としては、祈りが短かった、祈りの前に勝手に決めていて、それを神に誓願していた、という同様な理由が思い出されます。

 働いていると、社会で迅速な決断が要求されるということもあるでしょう。経営者歴も31年になりましたが、どうにか祈りの中で神に伺いながら経営できるようになってきたのは、ここ数年かもしれません。やはり、失敗の連続でした。他の人には、どれもうまくいっていると思われているかもしれませんが、どうにかなったのは、悔い改めの速さと犠牲や損失を覚悟したからだと思われます。ともかく、代価は十分払ってきたと思います。人生も信仰も、失敗や罪の代価を払いながら成長するのです。犠牲を認めない人は成長することも、やり直しをすることもできないように思います。ペテロは、後になっても、人の目を気にしてパウロから非難されています(ガラテヤ2・11

私は、そのような出来事もありながら、祈りに専念していた120名あまりの人々に感心します。教会も、西欧社会も日本とは違うとこは、仕事に関しては権威と従順を要求しながらも、生活においては平等であるということです。教会においては、牧師などの教職、執事や女性執事などの働きの重要性が強調され、人をその任において成長させることに多くの力が注がれます。日本は、任に着いた者に強い要求をするのですが、聖書の考え方は、任に着く為に強い支援をするということです。

 それらの任に最も必要なことは、信仰による経験です。知識は経験がなければ役に立ちません。さらに、霊の戦いに必要なものは、知識でも能力でもなく、信仰です。その信仰を支えるのは、教会の祈りの力です。

 ある姉妹の証に、病になって祈られてみて、祈りの力がわかった、というものがありました。祈らないと、祈りの力はわからないものです。困難な時、悩みがある時、悲しみが抜けない時、誘惑に陥りそうな時、欲望に捕らわれそうな時、怒りが抜けない時、神に祈るのです。祈り続けるのです。簡単にやめてはいけません。

 弟子たちは、最初は12弟子を整えるなどという、頭で考える対処法を考えました。多くの人が、実際には信仰というよりは、頭で考えた方法をとります。それは、殆ど解決にならないどころか、問題になっていきます。そういう愚かさというものを人生は、繰り返して私たちに悟らせるのです。そして、悔い改める者だけが信仰的に成長していくのです。

ところが、祈り続ける中で聖霊が働き始めました。そして、信徒たちが聖霊に満たされていくのです。悪霊が働くことは、満たされとは言わず、悪霊に縛られ、と言います。これは、自分の思う通りではなくなることです。自己霊が強い人は、強い個性、頑固、強権などとして現れ、心や理性を超えてその人を拘束します。自己霊が強い人は、悪霊に影響されていることも少なくありません。それらに反して、聖霊に満たされるという場合には、心が拘束されるのではなく、拘束されていたものから解放されるという状態です。

 自分の状態、自分の心、自分が何によって惑わされ、影響されているか、は聖霊に満たされなければ気付くことができません。私たちは、聖霊に満たされることによってこそ、解放され、人として強く、喜びと平安をもって、愛の行動をとることができるのです。

神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。」(ローマ14・17.18


5月13日 


5月20日 主の名を呼ぶ者は救われる。   使徒の働き21424

使徒2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
2:15
今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
2:16
これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
2:17
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
2:20
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
2:21
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
2:22
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
2:23
あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

 人生には、「四方八方から苦しめられ、…途方にくれ、迫害され、通される」(Uコリント4・8.9)ことがあります。そのような時に、どのように対応するかで、「光が闇の中から輝き出」(4・6)るか、「この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を輝かせないようにしている」(4・4)かの違いが現れます。

 逃げるくせ、言い訳のくせ、誤魔化すくせ、努力しないくせ、そのような生活習慣がついていると、試練の時にも立ち向かうことができないようです。試験勉強も、暗記だけで対応していると、やはり難関に工夫して対処する知恵がつかないようです。優劣をつける考え方を持った人は、自分が失敗をしたり、恥をかいたりすると、逃げたり、誤魔化したりするようです。最近の政治やスポーツ指導者の様子を見ると、そのような人たちが、自らの不自然な自己形成の後始末を付けさせられている気がします

 神を求める人に対して、神は必ず反応します。ところが、その人自身が神の反応に対して、誠実に対応しないのです。それは、不誠実に生きる習慣が身についているからです。私自身は、そういう人の心、態度を悟り、どうしようもないと諦めていたことがあります。しかし、牧師の働きを進めるに連れて、神の御心と愛の深さに、そういう態度こそが、自らもまた、不誠実であることに気が付き、悔い改めてきました。誠実に反応しない人、疑いと不誠実に生きている人は、まさに魂の滅びに進んでいることに目を向けないでいたからです。

 「私たちは、哀れみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」(Uコリント4・1.2.

 祈りは、長く祈れば、必ず謙遜へと導かれます。聖書も続けて30分以上は読み、そして祈るのです。困ったこと、苦しいことがある時に、その思いを神に向ける人というのは、案外少ないものです。ですから、解決せず、思い煩い、人に対して批判的攻撃的になるのです。

 病気や問題にぶつかって苦しんでいる人に、批判的攻撃的に上から目線で対応したら、その人は、あなたに向かって助けることを求めるよりも、不自由でも自尊心を守ることを選ぶでしょう。聖書を知り、神を知ったからといって、神を知らない人々の自己中心を批判し、攻撃していたら、人々はあなたを受け入れないでしょう。

 ローマの百人隊長は、そのしもべが中風で病んで、ひどく苦しんでいるのに深い同情を持ち、どうにかしたいとイエス様に懇願します。イエス様は、へりくだって頼む百人隊長に好意を持ち、その家に行こうとします。ところが、ユダヤ人は異邦人の家に入ることは禁じられているので、彼の方から、「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは治ります。」(マタイ8・8)と、神の権威を信じることばを告白します。イエス様は、この異邦人の信仰に驚き、「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。」(8・11)と、神の国に多くの国の人々が入ることを預言するのです。

 ペンテコステ(五旬節)は、イエス様の復活後50日目です。弟子たちは10日間、祈り続けたのでした。その間に聖書の預言も理解し、イエス様の教えとその人格をも思い出したことでしょう。

 人の励ましや交流も大事です。しかし、聖書の言葉に教えられ、聖霊に満たされて神に作り替えられた人でなければ、真に人を愛するように作り変えられることはないのです。それは、神を信じて歩んでいる人ならば、さらに体験していることでしょう。

 信仰にこの程度で十分というものはありません。聖められ続け、変えられ続け、成長し続け、勝利し続けることが大事なのです。それは、自分の為ではなく、主の為であり、福音の為だからなのです。

 私の体験では、それは聖霊のバプテスマが必要です。「エルサレムから離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは、水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1・4.5.)とイエス様は、命じられたのです。そして、「聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。」(1・8)という言葉は真実なのです。


5月27日 いのちの道は聖霊が導く。   使徒の働き22533

使徒2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
2:26
それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
2:27
あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
2:28
あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
2:29
兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
2:30
彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
2:31
それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。
2:32
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
2:33
ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

先週の聖霊待望会には29名が参加して一心に執り成しの祈りがささげられ、4名が聖霊のバプテスマを受けました。多くの受霊者の理由は、やはり教会員の祈りの力が強くなってきたことが挙げられます。

  「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10・9)とあるように、言葉に出さないものは祈りではありません。それは、ただの考えであり、黙想です。口で告白した上で心からそれを信じていることが祈りというものです。

 「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。(詩篇19・14)とありますが、「ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、身体全体も立派に制御できる完全な人です。」(ヤコブ3・2)。「讃美と呪いが同じ口から出てくるのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」(ヤコブ3・10)とあるように、言葉を制御できず、否定的な言葉、批判的な言葉、悩みごと、不満などを口に出せば、それは、その人の人生となるのです。そして、神は、その人の言葉に反応するのです。

 創世記で神が「『光があれ。』と言われると、光があった。」というように、ことばには力があります。ところが、問題に捕らわれている人は、安易にその問題に捕らわれて、「もうだめだ。」とか、「やってられない。」などの言葉を安易に語ります。悩みや絶望の言葉を出す人が、そこから解放されず、怒りの言葉を出す人が、怒りというものから解放されないのは当然なのです。滅びの道を自ら招いているのです。

 さらに、聖霊のバプテスマを求める人の為に、手を置いて祈った人々がいました。癒しや祝福の為に、手を置いて祈るということは、その人の力や祝福が、相手に注がれていくことになります。そして、人の為に力を注ぐと、神からの力がその人に注がれることになります。そのように力をお互いの為に注ぎ出し合うことによって、神の祝福がみなぎってくるのです。聖霊に満たされていないような時でも、他の人の為に一心に祈り力を注ぐと、聖霊に満たされるのです。聖霊に満たされていなから、人の為に祈れない、ではなく、人の為に祈ろうとして、聖霊に満たされていくのです。感情に左右される人は、祝福の道を歩めません。ただ、聖霊のバプテスマを受けていない人から祈られることは、避けた方が良いでしょう。人の霊は、他の人にも感化を与えます。悩んでいる人から、祈られることも危ないです。

 自己管理の基本は、自分の言葉を制することです。そして、それは自分の能力や意志ではできないのです。「舌を制御することは、誰にもできません。」(ヤコブ3・8)。だからこそ、聖霊のバプテスマが必要なのです。

異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。」(Tコリント14・2)、「異言を話す者は、自分の徳を高めます」(14・4)。つまり、不安を覚えた時、怒りや興奮をしそうな時、苦しい時、悲しい時、戦いや問題と直面した時、その他どんな時でも、異言で祈ることによって、神に語り掛けられるのが異言なのです。パウロは、「私は、あなたがたの誰よりも多くの異言を話すことを神に感謝しています」(Tコリント14・18)と、いつも異言の祈りをしていることを伝えています。

 むろん、この教会では、他人の前で異言の祈りをすることを控えるように教えています。それは、「教会全体が一か所に集まって、皆が異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来た時、彼らはあなた方を、気が狂っていると言わないでしょうか。」(14・23)というように、異言は神への言語であり、異常なものとみられるからです。

 ところが、世界ではこの異言を語るクリスチャンは、このペンテコステの出来事に由来してペンテコステ派と言われ、今やプロテスタントの半数近くになっています。アッセンブリー教団だけでも2116年末で6800万人おります。現代世界で、増えているクリスチャンは聖霊のバプテスマを体験した人々なのです。

 つまり、聖霊のバプテスマによる異言は、その人自身の思いや意志や感情ではなく、神に語り掛けることによって、神の感化を受け、清められて個人の霊性・人格・信仰を強めるものなのです。私自身、一人でいる時は、多くの場合に異言の祈りをしています。どうして良いかわからない時、霊的な戦いを覚えた時には、口の中で他人には聞こえないようにして異言の祈りをします。

 皆さん、もっと祈り深くなってください。異言の祈りをいつも祈り、霊性を深め、高めて、聖めてください。いのちの道は、そのようにして導かれるのです。



6月3日 この曲がった時代から救われる。  使徒の働き23642

使徒 2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

近の不祥事を考えると、やはり立て前の社会だと思わされます。責任が問われ、罪があばかれそうになると、責任が問われないような道具立てを繕うわけです。本音、本心で生きていないのです。

  日本人は、他人の目を気にするので、失敗や不始末を知られないように、真剣、真実に生きることを、自己判断で生きることをしていないように思われます。国や社会、会社や組織のせいにすれば言い訳が成り立つので、自分の判断や意志で行動することに慣れていません。病気やケガでも医者や医療機関に任せ、自分の判断で治療法や医療機関を選ぶ人は、非常に少ないのです。しかし、それはどのようになっても、自分の選ぶ人生ではなく、医療に関しては、病気が重くなったり、死んでしまってはどうしようもありません。

  封建制度の下では、潘が潰れれば藩士は路頭に迷うので、潘を守ることに一丸となり、犠牲が出ても仕方がないと考えられていました。明治以後も、国や会社が潰れれば生きていけないので、国民や社員が犠牲になることは覚悟されていました。

 このような状態を奴隷と言います。そして、支配者は、奴隷に対してどのような扱いをしようと隷従を要求します。やっと明らかになったのは、日大アメフトや女子レスリング会、そして相撲界などのスポーツ界ですが、政治の社会では、相変わらず隷従による嘘や偽装がまかり通っています。そして、国民は、それらに対して怒りの声を上げますが、自らが自由意志で自分の人生を生きていないことには気が付いていません。

 チャップリンが『モダンタイムズ』で指摘した部品の一部としての存在しかない人間として生きる愚かさ、虚しさに気が付かずに、ただ生きることを目的としている奴隷なのです。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」(ローマ6・16)。仕事をするということが給料をもらう代価の為に自己判断や自由がなければ、それは奴隷なのです。生きるということに関して、自分の意志や希望がなければ、それは奴隷なのです。

 テレビや映画で時間を過ごし、美味しいものや娯楽に喜んで生きるのは、奴隷なのです。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5・1)。奴隷だからこそ、例えば、健康になる為の努力さえできず、食事を制限できないのです。奴隷だからこそ、自分の意志と判断でお金を節約し、神の為、人の為に使うことができないのです。自分の快楽に捕らわれているのです。それらは、自由ではなく、不自由です。

人に干渉されたくない、関わり合って自分の自由を損なわれたくない、と考えるのは、罪の奴隷の特徴なのです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」(Tペテロ2・16)。

 これまで見てきたようにペテロもまた、イエス様を信じ、弟子として選ばれながらも、罪の奴隷としての勝手さ、愚かさがありました。しかし、かれは聖霊のバプテスマを受けてから、全く変わり、神の奴隷として使徒職を全うし、キリストの弟子として自らの意志で、逆さ十字架の刑にまで服して行ったのです。むろん、そこには神の栄光があり、イエス・キリストの歩みと重なるものです。

 現在の労働は、週40時間を超えた労働をしてはいけないことになっています。もし、収入を得るための労働であれば、それ以上を通常で働かなければならないのでしたら、辞めたら良いです。しかし、その働きを神からの召しと受け留め、自らの意志をもってするのでしたら限度はありません。しかし、家庭を損なうような労働ならば、それもまた奴隷です。

家庭もまた、ただ美味しいものを食べ、楽しく過ごすだけのものであれば、主にあるものとは言えません。主にある躾と生き方を子供たちに教え育てるものである必要があります。私自身、それが完全にできたわけではなく、深い悔い改めを感じています。子供が成長して、神を信じていないことほど、クリスチャンとして苦しいことはありません。精一杯、育ててきたつもりですが、救いは神のものです。信じる信じないは、本人の意志であり、神の御心です。

この曲がった時代から救われなさい」は、曲がっていることに気が付く人だけへのメッセージです。この社会が曲がっており、自分の生き方が決して正当なものではないことに気が付く人は稀です。罪の奴隷である人が、自分の状態を開放しようとは思わない、ということは悲惨なことです。学生時代に読んだエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を思い出します。

私たちは、喜びと解放の自由な生き方を示すことによって、彼らに福音を掲示したいのです。


6月10日 自由人として生きる。  使徒の働き23847節

使徒 2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:43
そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。
2:44
信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47
神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

今回の合同礼拝では、他の教会の人々を励ましたいと接待しました。牧師が8名も代わったり、信者が少なくなる中で教会を支え続けてきたことを慰労したいと思ったからです。世界中の教会が、そのような忠実な信者で保たれているのです。凄いことです。

  ノーベル文学書を取り、今回、ナイトに叙されたカズオ・イシグロの『日の名残り』を読みました。貴族とその邸宅に忠実に仕えてきた執事が、自らの働きに使命を持ち、品格を持って生きることに尽くして来て、主人が死に、自らの人生を振り返ります。仕事と主人に忠実なあまりに女中頭との淡い恋も意識から外し、老いていきます。そして、20年後、恋の思い出を求めて彼女に会いに旅立ち、新しい主人の為の女中頭を頼もうとするのですが、もはや過ぎ去った交流でした。年老いてアメリカ人のジョークの相手もできず、昔の主人の貴族との交流のみが誇らしい思い出ですが、実はその主人も、イギリスを裏切ってナチスと結びついたということで、非難されて失意のうちに死んだのでした。旅の終わりに、海辺で見知らぬ人々が親しく交流している様子を見て、自分もアメリカ人との交流法を身に着けようと決心するのですが、日が暮れて行くのを眺めながら、涙が止まらなくなります。自分には、「運命をご主人さまの手に委ねる以外、あまり選択の余地があるとは思われません。」と悟って、もはや自らの人生を始めるには遅すぎることを意識するのです。日本の人々が忠実に生きることに使命感と誇りをもって来たことと同様なものを感じました。世の中は、そのような目立たない謙遜な人々によって保たれてきたのです。

  ダーリントン卿は人の好さが悪意に満ちた人々に利用されていることを、甥が諫めても聞き入れず、国を陥れたとされて失意の死を遂げます。スティーブンスも、女中頭の働きかけを眼中に入れず、虚しい老後を迎えます。主人を選ぶということをしなかったこと、自らの判断を持たなかったことが誇りであったけれど、実はそれが愚かなことだったのです。

 フロムの『自由からの逃走』には、「義務や責任は社会的な常識や期待に関わることであるが、自分が考える思考、感じる感情や欲求や意思が、社会的に周りのひとから期待される社会的常識などによる思考や感情や意思や欲求で形成されていて、本当に自分自身に由来するものなのかを問いかけている。」と解説されています。

 野外礼拝では、「自由人は失敗を恐れない。自らの人生なので失敗や苦労を味わいながら成長し、強くなることを求める。奴隷は、主人の目を伺って生き、自分の判断をせず、失敗をして怒られることを恐れる。」と述べました。19人分の料理を作りましたが、全て自己流であり、あまり食べたことのないものだったと思います。よく考え、準備し、手順を整え、さらに大きな失敗を覚悟しなければできません。それを、教会員には見て欲しかったのです。これからは、皆さんを少人数で招待しようと思います。

 医者でも、教師でも、上司でも、さらには牧師でも、信頼し黙って従うような愚かなことはしてはいけません。私自身は、教団にも、先輩たちや指導者にも、自分の信念と信条とは違うものを感じ、決して迎合しては来ませんでした。しかし、この教団に属することを神のみ旨と信じ、教団の方針と指導には従ってきました。それは、主体的に生きるからであり、先輩たちが失敗しても、全く躓きませんでした。また、同様に、信者に対しても、その判断と自由を認め、忠実でなくても、熱心でなくても、失敗をしても、罪を犯しても、相手の動静に関わらず、牧師として執り成し、祈り、配慮してきたつもりです。自ら為すべきことをするのです。信者におべっかを使うことはせず、厳しすぎて干渉することもせず、聖書を教え、自由人としての成長を願っています。

 さて、今日の聖句ですが、信者になった人々は、悔い改めたのです。そして、自分のこれまでの生き方が間違っていたと認めたのです。そして、「曲がった時代から救われる行動を起こしたのです。つまり、洗礼を受け弟子として使徒たちの教えを堅く守り信者同士の交わりをして愛餐の時を持ち祈りをしていたのです。

 そして、一緒に生きる中で聖霊の働きによって、神の臨在による「恐れが生じ」たのでした。この恐れは説明が必要です。人間というのは、放漫な存在で、神をも人をも自分の為に利用しようとし、自己中心なのです。しかし、神を信じることによって、その顕現を経験し、自分は取るに足らない存在であることを悟るようになります。信者としては、この段階にならないと、思うとおりにならない時に批判的なものが抜けません。

 神を求めない人に、奇跡も祝福も神は起こしません。「神はあまり必要ない、自分の力で生きる。」「神を求めるなんて恐れ多いことをしないで、平凡な日々を生きる。」などということが、実は、罪の奴隷の状態であり、神なしで生きることになるのです。人は、依存や頼るということを嫌がりますが、自由になるためには、神が必要であることに気が付かないのが、危ないのです。

スティーブンスは、自分の判断を捨てて主人中心に生きてきましたが、それは、彼の意見を求める主人に対しても不忠実だったのです。最も信頼する執事が、意見を持たないので、判断を誤ったのです。聖書に「自分を捨て自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。」(マタイ16・24)とありますが、それは罪に捕らわれた自分を捨てて、主の弟子として自分の意志で生きるということです。そんな弟子たちが集まったら、共有もでき、共同生活もできます。そして、神の祝福が豊かに注がれます。


6月17日 信仰がこの人を強くしたのです。  使徒の働き31219

使徒 3:12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
3:13
アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
3:14
そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
3:15
いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
3:16
そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。
3:17
ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです。
3:18
しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。
3:19
そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。

私の妻は、貰い上手です。人から貰った物を大事にし、お古の服でも気にしないで着ています。人に助けられるのが下手な人もいます。自分が苦しく、一人では難しいことでも、助けを求めず、我慢しています。上げるのが得意な人でも、貰うことや助けを求めることは、苦手な人が日本人には多いようです。「人に迷惑を掛けるな。」と育てられた悪影響のせいでしょうか、その結果、交流が下手です。

  今日の聖句の主人公は、人の助けがなければ生きていけない、生まれつき足の萎えた人です。毎日、神殿の門の入り口に、数人の人に運ばれてきて、人々に乞うのです。ともかく、彼は、乞わなければ生きていけないので、必死に声を掛けます。実は、これは凄いことです。恥ずかしいなどと考える余地はありません。

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5・3)とありますが、その貧しいという言葉「プトーコス」は、極度の、みじめな貧困を意味しているそうです。ウィリアム・バークレーによると、へブル顔では「アニ」或は「エビオーン」であり、最初は「貧しい」を意味し、「貧しいゆえに勢力も権力も援助も名誉もない」という意味に変わり、「勢力が無い故に他人から踏みつけられ、圧迫される。」となり、最後に「この世から完全に見放されて、全ての希望を神に懸ける人」という意味になったと開設されています。詩篇34・6、35・10、68・10、72・4、107・41、132・15、は、同じ言葉が用いられ、慰められています。従って、バークレーはここを、「自分が全く無力であることを知って、ただひたすら神により頼む人は幸いである。」と訳しています。

 バークレーは続けて、「神の御心を行うことができるのは、自分が全く無力であり、全く無知であり、人生を生きるのに全く無能であることを知って、ひたすら神により頼むときである。信頼してこそ、服従がある。神の国は、心の貧しい者が所有する。なぜなら、心の貧しい者とは、神なしには、ひと時も生きられないことを自覚して、神に頼り、神に従うことを学んだ人のことだからである。」と結んでいます。

 この乞食は、人に対して大声で助けを求め続けられた人ですから、神に対しては尚更、助けを求めたのではないでしょうか。ともかく、神が答えたことは事実です。ペテロが祈ると、「たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって真っ直ぐに立ち、歩き出した。

 彼は、大声で施しを求め続ける有名な人ですから、「彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。」人々は、驚きます。「イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。」かれは、「なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」とあるように、ただ、神を求めることによって癒されたのです。

日本人は、神よりも、人の目を意識します。だから、言い訳を第一にします。言い訳とは、自己解決であり、その段階でどこからの助けもいらないとして、しょうがなかったのだ、と正当化してしまうのです。こういう思考の人に神が働くこと、助けることはできません。そういう人にとっては、信仰生活も、神への言い訳の手段に過ぎません。どうにか、普通に目立たなく、人に責められなければ、それで良いのです。

 ところが、人はそのように罪深くても、神は救おうとされるのです。言い訳の利かないことが、誰にも起こるのです。日大ラグビー部の監督を始め、多くの人にも言い訳の利かない、誰の目にも明らかな過失や罪深さが暴露されるのです。それでも神は取り成します。「あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです。」(17)。

ところが、そんな時、そういう人のことを非難する人に対してはその瞬間、神は、その非難する人に対する救いの手を閉ざします。神は生きておられ、他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めています。」(ローマ2・1)。

 30年前、私が不整脈になった時に、医師である妻が言いました。「医学では完治しない。薬が効いても副作用で他が悪くなる。」私は、なるほどと思いました。「神に頼り、自らの為すべきことを果たしていき、後は命も人生も神に委ねるしかないのだ。」そういえば、38年前の不整脈の時、動けなくなった身体は聖霊に満たされ、一瞬で癒されました。問題なのは、その後の為すべき自己管理をしていなかったことでした。むろん、その後30年、不整脈は起こっておりません。

 信仰、神への信頼は、人格的なものです。単に、礼拝に出ているとか、聖書を読んでいる、献金をしている、などというクリスチャンのマナーを超えたものです。そして、神は、神を信じる者をないがしろにすることはありません。

 罪とは、自己中心ということです。神中心ではないことです。自己中心でいくら努力しても、物事は解決しないようにできています。人には神が必要なことをわかり、「悔い改めて、神に立ち返る」まで、あなたの不安や苦しさは解決しないでしょう。信仰でなければ、人は強くなることはありません。


6月24日 自分の息子に言いなさい。  申命記62025

申命記 6:20 後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、【主】が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか」と言うなら、
6:21
あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、【主】が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。
6:22
【主】は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行い、
6:23
私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちを入らせて、その地を私たちに与えるためであった。
6:24
それで、【主】は、私たちがこのすべてのおきてを行い、私たちの神、【主】を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。
6:25
私たちの神、【主】が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行うことは、私たちの義となるのである。」

父の日は6月の第3日曜ですが、教区の集会との都合で、当教会では第4礼拝に祝っています。母の日は、母親の愛への感謝として社会では定着していますが、父の日は、未だそれほど定着していません。それは何故なのでしょうか。

  母親は、直接的に子供を愛し、慈しむ役割を果たしているのに対して、父親はもっと多面的な役割が必要です。少し列挙してみましょう。

@  家長として、敵や災害や試練その他から家を守る指導的な役割。

A  家長として、家族を教え育て、家系を存続させる。

B  家長として、家族に衣食住を確保する。

 伝統的には、父親がそれらを果たした上で、母親が衣食住を保ち、世話をするという役割を果たして、その家系が保たれてきました。現代では、国家や社会が安定してきているので、父や母の役割や働きは変わってきています。しかし、それが国家などによって保たれない社会では、未だ女性や母親の立場は弱く、権利や自由が限られ、ある場合には拘束されています。つまり、闘争の社会では、男性はそれに勝ち抜かなければ、家族の存続が達成できないために、妻子の意見や自由を保証している暇がなかったのです。

 教育は、昔は父親の権威の下で行われ、今日の聖句のように、神の教えと信仰を守るだけで十分でした。ところが、社会が安定し、文化が形成されてくると、それにあった教育が必要になってきます。そして、父親の能力では対応できないようになり、別な教師や指導者が必要になってきます。しかし、それも父親の経済力や権力に依存していたために、妻子は父親への服従は余儀なくされていました。

 女性に働く機会が与えられ、権利や教育が施されるようになって、父親の絶対性が保たれなくなってきたのは事実です。それに対抗し、女性を学ばせないようにする社会や父親が今でも存続しています。

 また、子どもを社会に適応させ、強く生きるように教え育てるのも父親の役割です。そこでは、父親と仲が良く、性格が良い、というよりも、家系の存続のための強さの訓練が必要です。子どもが可愛くても、甘やかしたら社会で生きていけない、という考えのもとに厳しく育てようとするのが父親です。社会には、敵が多く、人が良くて騙されることや弱くて攻撃され脅され支配されることなど当然です。それは現代でも同様です。

 父親の役割は、自分に服従させるのではなく、社会で強く生きて敵や試練に対処して「いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。」(24)。その為には、父親自らが「神の命令を守り行うこと」が必要でした。ところが、多くの父が、神に従うことなく、家族を従わせようとして破綻してしまったのです。「私たちの父たちが不信の罪を犯し、私たちの神、【主】の目の前に悪を行い、この方を捨て去って、その顔を【主】の御住まいからそむけ、背を向けたからです。」(U歴代誌29・6)。

 社会には敵がいないかのように平穏になってきましたが、実際には罪によって私たちを陥れるサタンの罠があり、また罪によって自己存続を図る指導者や人々によって、侵害を受けています。注意しなければならないことは、神を信じないこれらの父親たちが、盲目的に罪の奴隷となり、従わせられていることです。

 「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6・4)とあるのですが、父親が信仰を持っていなければ、その姿は子どもに従順や尊敬の気持ちを与えることはできません。理屈や威張ることによって、父親の権威を振りかざし、子どもを教え育てることはできないのです。また、優しく、子どもと仲が良くても、子どもを教え育てていないと、その子どもは社会で破綻し、幸せになることができないのです。

 試練や苦難に遭った時に、愚痴や弱音を吐く人がいますが、そういう言葉を吐くと、人間はやはり逃げの姿勢になり、罪に負けてしまいます。私自身にもいつも戦いがあり、力が必要です。もし、私を守り、私に教えてくださる父なる神に目を向け、祈り続けなければ、愚痴を言いそうになります。神を信じるということは、戦いを覚悟し、必ず幸せになるという決意を保つことです。

 妻を悩ませてはいけません。子どもに心配させては、生きる気力を失います。「私たちがしあわせであり、生き残るため」には、「私たちの神、【主】が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行うことは、私たちの義となるのである。」義となるとは、神との関係が義であり、神がその人を必ず守り、祝福されるということなのです。

 神を信じないで、浅知恵や計算で生きる人は、碌な生き方はできません。私は、最近、男性の真価は、退職し、老年になってから、明らかになってくるような気がしてきました。仕事上の地位や働きなど、退職したら、風に飛ばされて何も残りません。親しい友も、疎遠となりさって行きます。趣味や教養も、自分の余暇をもてあそぶ為であるならば、虚しく過ぎ去っていきます。多くの妻や妾を抱え、多くの子どもを得たソロモンは、堕落の最後に「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」(伝道者の書2・11)として死んでいきました。