1月7日 過去からの脱出   創世記818

創世記 12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

 12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

 12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

 12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。

 12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。

 12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。

 12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。

先週、私たちは礼拝に参加する為にレンタカーを借りて出かけました。誠実な礼拝を守っている日本人と現地の人が20名程いました。その後、160キロを運転してペンギン島に行き、4時に着きました。なんとパレードは夜の9時だというので、休憩を取りながら待っていました。雛たちは、昼間は巣に隠れていますが、暗くなり親が帰ってくる頃になると巣から出て待っていました。帰りが遅くなるので、9時半に出て一目散に160キロを運転して帰ると、年越しの騒ぎの為に繁華街のホテル周辺は乗入れ禁止になっており、駐車場を探すのに1時間も掛かり、駐車場に入ると新年の花火が打ち上げられ、そしてパーキングの機械は稼働しなくなり、4つも探して試したのですが、動きません。諦めて出ようとしたら、帰りの車で渋滞し、他の駐車場に入れて、ホテルに着いたのは、夜中の1時過ぎでした。疲れている妻に、私は「よく覚えておきなさいよ。人生はこんなものだよ。疲れ果てている時に困難が続き、さらに不運が重なる。それでも、コツコツと対応していくことが大事なんだよ。」と語りました。

 翌日は、「世界で一番美しい道」と言われるグレートオーシャンロードを走って、海に突き出た12使徒と言われる岩を見て500キロを走り、夜の10時過ぎに帰りました。行きは観光地が多く、渋滞が重なって7時間掛ったのですが、充実したドライブでした。

 私は世界旅行、特にドライブが好きです。むろん、困難だらけで、道に迷ったことも無数、ホテルを探すのに1時間以上同じ場所を走ったこともあります。わからぬ法規に罰金を払ったことも多い。人生は、経験と失敗を積み重ねないと強くならないので、私はどうせなら、旅でしてしまおうと考えています。

 世界中どこに行っても中国人は凄く多いですが、失礼ながらそれほど評判は良くありません。商売でも、中国人との間では問題が起こることが多いと言われています。中国人は、中国人だけで交流し、他の文化の中でも自分たちの考え方や習慣を保持するからでしょうか。中国人街と韓国人街はよくありますが、日本人街というのは、今は全くありません。どちらの国にも共通することは、他の国で生きていこうという意欲があります。国も会社も頼ることができないので、自分たちで仲間を作り、助け合う必要があるようです。

 今年は、クリニックとヨーゼフで中国と取引を始めますが、辞めた方が良いという人ばかりです。私は、発達障害の人を助けられれば、それでよいと考えています。人生に困難は多くありますが、人を助けるための困難は、神の助けを得る良いチャンスです。私たち夫婦は、そのように生きて来ました。

 アブラハムの父テラは、カナンに行くように神に言われたのに、ハランで留まってしまいました。出発地のウルからハランまでは、チグリス・ユーフラテス川に囲まれた肥沃な三角地帯の中にあり、ハランはその端にあって豊かだったのです。テラは、旅立つのが面倒になったのです。それは、神の導きに対する反逆であり、彼は滅びの人生を過ごすことになるのです。

人生計画を練りに練る若者がおり、年金計算を一生懸命して貯えるお年寄りもおります。会社の意向に従い、人生を会社に掛けて働く人もおります。「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10・22)が私の悟りです。むろん、私たち夫婦は良く働きます。普通の人の数倍は働くでしょう。働かないで神の祝福を得ようとするのは、怠惰です。ただ、その働きに「主の祝福」が必要なのです。

 アブラハムは、生まれ故郷ウルは、父と一緒に出ました。更に、不信仰で怠惰な「父の家を出て」、神の示す地に旅立ったのです。信仰は、決して思考ではありません。考え過ぎる人には、信仰は育ちません。祈り深い人しか、信仰は育たないのです。欲望の強い人、怠惰な人も、信仰とは縁がないでしょう。その信仰とは、神を信じ救われるという信仰ではなく、信仰を持って生きるという信仰です。「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11・1)。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(11・6)。

 なぜ多くの人は、神に祝福されないのでしょうか。それは、口が軽いからです。不安、心配、悩み、苦しみを声に出してしまうからです。神が聞いておられることを意識しないのです。私は、苦しい時にも愚痴を言わないように注意しています。困難が重なる時にも、神に委ねるように心を神に向けます。キリストの弟子として、神に喜ばれる人生を送るように心がけています。そうすると、行動せずにはいられなくなるのです。

 この新しい年を、無益に過ごして、神の報酬が得られると思ってはなりません。あなたは、過ぎた年をどのように過ごしたのでしょうか。悔い改めたのなら、新しい歩みの為に、自分の在り方を捨て、神の示す地に旅立つ必要があるのです。

 私は、引退や自分の年齢を考えた時期がありました。皆さんもご存知でしょう。しかし、それが怠惰であり、罪であることに気が付きました。天に召されるまで、この旅路の歩みをとどめてはならないのでした。神は、私を名指しで選んだのであり、他の人のことは考えてはならないのでした。

 引退を諦めてからの、神の私への祝福は皆さんご存知でしょう。年賀状には、肉体年齢が28歳になったと書きました。確かに、働かなければならないと悟ってから、強くなり続けています。これは、信仰と共に、自己管理の必要を覚えます。日本やアジアには、引退というものがありますが、西洋社会には働けなくなることが引退であり、年齢の基準はありません。勝手に、引退を決めると、神に仕えられなくなります。


1月14日 いのちに満ちた霊性   ローマ書8213

ロマ 8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
8:3
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
8:4
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
8:5
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
8:6
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
8:7
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8:8
肉にある者は神を喜ばせることができません。
8:9
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
8:10
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
8:11
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
8:12
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
8:13
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

いのちと喜びに満ちた教会を目指していますが、実際には「いのちと喜びに満ちた」生活を過ごしていないクリスチャンは多いようです。

 人は、霊、心、身体に分かれます。霊と心を合わせて魂ということもあります。魂が身体から離れることを死と言います。また、私たちの霊が、聖霊(御霊)と結びついていない時の状態を「死んでいる。」と言います。生まれながらでは、神を信じていないので霊的に死んでおり、それを「肉にある者」、或は「肉に従う者」と呼びます。つまり、人は、イエス・キリストを信じ救われて、「罪と死の原理から」解放される必要があるのです。

 ところが、多くのクリスチャンが、この「罪と死の原理」をそのまま身に着けて過ごしているのです。なぜなら、「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む」ことを選んでおらず、自分の生まれつきの習性、考え方、世の中の風習に染まって生きているからです。

 私たちの霊とは、どのようなものでしょうか。

 「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」(ガラテヤ5・17)。つまり、私たちの霊の中で、肉と言われる生まれながらの罪性と、信じた後に内在してくださった聖霊なる神とが、混在しているのです。そして、普遍に存在する聖霊に満たされることを、私たちが意識的に選んで、聖霊に従って生きることを求めないと、聖霊に満たされて、いのちある生き方をすることはできないのです。

 肉の行いは、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉み、憤り、党派心、分裂、分派、妬み、酩酊、遊興」(ガラテヤ5・20.21.)などです。私たちの霊性が汚れている時に、このような行動を起こすのです。この霊性を聖なるものとしないと、私たちの心には、苦さ、苛立ち、不満、などが絶えず浮かび上がってきて、とても、「いのちと喜び」には満たされないのです。

 罪というものはガンに似ています。ガン細胞は際限ない自己増殖を図り、通常の細胞を殺して機能を失わさせます。ガン細胞は、健全な血流がない所に増殖し、血液が汚れているとガン化しやすいのです。健康な身体を損ない、ガンを生み出すためには、運動をせずに血液の循環を図らず、血液を汚れさせればよいのです。薬を飲んだり、サプリを飲んでも、基本的に血液が流れない箇所を作っていては効果がありません。思わぬ所にガンができるのですが、それは血液が鬱滞している所なのです。

 私たちの信仰を滅ぼす肉性というのも、そこに御霊によるいのちを流さず、頑固に固執していると、ガン化して私たちの霊的生命を脅かします。あなたの内には、喜びがあるでしょうか。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5・22.23

もし、あなたの言動が否定的、消極的なものであるならば、あなたは御霊に満たされても、導かれてもいないのです。御霊に満たされることを求めなければ、いのちも喜びも与えられないのです。そして、満たされるということは、中途半端な状態ではなく、完全に聖霊が私たちの霊に満たされているということなのです。肉と御霊とは、「互いに対立して」いるので、私たち自身が、御霊に自らを託し、委ねることを選ばなければならないのです。「肉のおもいは神に対して反抗するものだからです。」(8・7

 というのは強情で、ずるく、あたかも自分が信仰深いようにふるまわさせるのですが、喜び、愛に満ちているか否かで正体がわかります。正しいことや正義を求めているかのように装い、他人に干渉し、巧妙に非難し、批判して、相手を悩ませ、鬱にさせ、或は悲観させ、ダメにしていくのです。世の中のスキャンダルな記事や報道は、時間の浪費をさせ、人を貶めることで、視聴者の罪の正当化をさせているのです。

 は、巧妙に、その人を崩壊させます。自らの価値、能力、健康、希望、家族、人間関係、所属する組織になどに対して、否定的、消極的な思いを抱かせます。神の御霊が、その人を幸せにし、健康にし、祝福することから、思いを外させるのです。そして、神の「いのちの御霊の原理」から、「罪と死の原理」に従わさせようとするのです。

 は、人間関係を敵意と批判に満たすのです。人を攻撃的にします。人や組織を攻撃し、責めることで自分の思い通りに支配しようとさせるのです。御霊に満たされた人は、非難や批判、敵意や攻撃の思いなど、決して抱きません。神の名や聖句を用いて、人を攻撃することもあるので、気を付けなければなりません。攻撃的な人が御霊に満たされていることなどないのです。

 は人を孤独にし、孤立させます。人との交流を経ち、自然や趣味に生きようとさせて、愛から離させるのは、罪の力なのです。愛は、人との交流を求めるものなのです。たとえ年老いても、愛は活気をもたらすのです。

 は、その人を快楽の虜にさせ、遊興酩酊好色賭け事などに浸らせます。或は、テレビや映画や本に没頭させ、日常生活や家族から離します。

 は人に野望や欲望を与え、闘争的にし、忍耐や平安や自制心を失わせます。罪に囚われた人は落ち着きがなく、運や宗教や占いやオカルトなどで成功を得ようとします。

 「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(8・13

 


1月21日 義人は信仰によって生きる!   ローマ書11718

ロマ1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
1:18
というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
ガラテヤ3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。
3:9
そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
3:10
というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
3:11
ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。
ヘブル 10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
10:37
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
10:38
わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
10:39
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

日本人の平均寿命は、男性81歳、女性87歳ですが、2045年には女性の平均寿命は100歳になるのではないかともいわれています。100歳以上生きた人を調査したところ、太り過ぎ、痩せ過ぎ、糖尿病は殆どおらず、がんなる人も少なく、偏食がなく、タンパク質の摂取が多いというのが特徴だそうです。

 今日の説教と長生きというのは、非常に似ています。なぜなら、長生きをするためには不摂生や偏食はだめで、がんになるような偏った生活もせず、しっかりと運動や労働をしていることが必要なのです。こういう生活を生きることを義の生活というのだと、私は考えています。40過ぎで過労とストレスのために心臓を悪くし、その後、機能性低血糖症であることもわかり、さらに60歳くらいで肥満になり、膝を悪くすると共に体調を崩し、眠れなくなって心から悔い改めました。古い方は、私が何度も変わってきていることをご存知です。悔い改めの繰り返しです。

 悔い改めて生き方を変えることを義というのです。ガラテヤ書には、「義」ということが強調されています。神を信じて生活することを選んだ人が、義人ということです。戒めを守り、まじめな生活を送ることでは、神はその人を義としないのです。私は、一生懸命生きて来て体調を悪くし病気になり、心もストレスを感じていました。聖書を読み、聖霊に満たされることを求めると、生き方が間違っていることがわかりました。神を信じて調和ある生活を営まなくては、信仰生活とは言えないことに気が付きました。

 人間とは罪深いものです。運動をやるだけ、食事に気を付けるだけ、薬やサプリをきちんと摂るだけ、ストレスなく生きるだけ、というように、全てをきちんとやることが苦手な人が多いのです。義というのは、一つ罪を犯したら、ダメなのです。神に従うということに専念しなければだめなのです。自分の体調が良くなってきて、自分勝手な手抜きの生活では神の祝福は得られないことに気が付きました。健康でないとイライラして、人間関係や仕事もうまくいかないのです。

 へブル書には「生きる」ということが強調されます。生きることに面倒くさがったり、前に立ちはだかる試練や苦難に及び腰になったら、神に喜ばれないのです。やっとのことで生きているというのは、勇気をもって生きることを嫌がるからです。失敗をしたらどうしようと悩んで居る人は、神を信じていないのです。生きるために前進せず、苦難を乗り越えようとしない人は、信仰がないのです。人生というのは、生きる努力を続けなければ、たちどころに虚しくなるのです。過去の努力や成功が如何なるものであっても、今現在、神に仕え、神を愛し、為すべきことを求めて生きなければ、信仰があるとは言えないのです。そういう面では、祈ることは、誰でもできる信仰行為ですが、この信仰があると、身体が不自由になっても生きることができるのです。

ローマ書には、「信仰」が強調されています。不義の人は、信仰をもって生きることができない理由を並べ立て、信仰者を愚かとか現実性かないなどとして阻むのです。信じる者だけが、困難や苦難の中でも、理性や知性では無理だと思うことでも、それを乗り越えて愛のために前進するのです。そして、それを阻む者には、「神の怒り」が行われるのです

 2045年には別の問題が起こると言われています。それは、AIが人間の知性を超えるのだそうです。しかし、ロボットには霊がありません。悪というのは罪びとである人間が行う行為であり、同時に希望や信仰をもって歩み、人を愛するということも霊的なことなのです。しかし、人間がロボットのように信仰を持たず、知識と情報で行動するならば、ロボットには到底かないません。却って罪が在るだけ質が悪く、滅びてしまうことでしょう。

 現代は、情報化時代ですが、信仰をもって歩む人は少なくなっています。信仰をもって歩まないならば、義ではないのです。歩むことをやめ、ただ飲食と娯楽に溺れる人は、罪の中に滅びていくのです。テレビや雑誌や新聞、そして入ってくる情報は皆、私たちを知識の奴隷にしていきます。聖書を読み、神に祈り、聖霊に満たされることを求めて、生きる人は少ないのです。

 義人とは、生活を改善し、より愛情深くなり、より幸せになり、より健康になることを実践するべく生きる人です。

 


1月28日 神は人の創造を喜ばれた。   創世記12631

創世記 1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28
神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29
神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30
また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。
1:31
神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

私の子ども達を知っている人から、しばしば「生活力が強い。」「独特だ。」などと言われます。私自身は、自分がいつ死ぬかもしれないという意識があったのと、妻が一人では生きていけないタイプだったので、確かに子どもたちが生き抜けるように育ててきました。病気になっても、試練があっても、勉強についても、なるべく放っておくことにしていました。親に助けを求めるようでは、とても自己責任で生きていくことはできません。欧米の子育てを学んで、その意識を強く持ちました。親に依存するのではなく、親と対抗するか親を意識的に助けるか、そのように生きるべきであると考えました。信仰については、自立して生きていけば、必ず神に出会い、神を信じなければ生きていけないことに気が付くはずだと思いました。

 神は、人間を支配者として造られました。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

 神の人間に対する最初の訓練は、罪に対してどのように対処するかということです。多くの説教者は、「人が罪を犯したので、呪いを受けた。罪を犯さないように、心掛けなければならない。」と言い、多くの信者がそのように考えています。しかし、神は、人を自由意志の存在として造られたのだからこそ喜ばれ、そして治めることを命じたのです。そして、全知全能の神は、人が罪を犯すことを知っておられ、そこから勝利することこそ、治めることができるのということを知っておられたはずです。

 イエス様が十字架に掛かり、信じる人の罪を負って死なれることは既に定められていたことです。つまり、神の計画は、人が罪に勝利して自律的に生き、そしてこそ支配者になり、神の子として神の国の住民になることなのです。

 「どうして罪を犯してしまうのだろう。失敗をしてしまうのだろう。」「神様、私を助け、私を強い者にしてください。」などと祈る人がおりますが、失礼ながら、母系家庭に育てられ、いちいち指導や世話をされてきたのではないかと、心配します。罪を犯したり、失敗したり、挫折するのは当たり前です。そこから勝利しようともがくことによってしか、強い人間になることはできません。神任せにして強い人間になることはできないのです。神が助けるのは、戦おうとする者であって、失敗しないように悩む者ではないのです。

 神は人間が罪を犯すことはわかっていたけれども、罪に勝利し、すべてのものを支配するようになるものがいることを知っていたので、「非常に良かった。」と思われたのです。そして、その罪との戦いに出る人を救い助けるために、御子が共同の働き、つまり、地上に生まれることと、十字架にかかることを申し出たのです。

 サタンの惑わし、そして罪の誘惑というのは、罪を犯さないようにと何もしないことです。先週、「義人は信仰によって生きる。」ことを話しました。

神を信じ、勇気をもって信仰によって前進し、生き抜くことこそ、義とされることなのです。義という言葉は、羊の下に我を置く、と書きます。先週、祈っているうちに、祥生という名前の凄さにきがつきました。羊(イエス様)に祈って生きる、という意味です。それが幸なのです。漢字は凄いですね。ついでに、達という字は、十字架の下の羊の道を「とおる」という意味です。神懸りの名前というのがあるものです。ともかく、イエス様に従って我を生きる、という以外に義の道はないのです。

 私の思いの中には、ゼカリヤ4章の燭台があります。49の燈心がある非常に明るい燭台に油を供給しているのは二本のオリーブの木です。人が光るためには、生きたオリーブの木である聖霊によっていのちと油注ぎを受けなければならないのです。「主よ。これは何ですか。」と問うゼカリヤに対して、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって、と万軍の主は仰せられる。大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地のなれ。」(ゼカリヤ4・6-7)。

 聖霊に満たされると力と知恵と祝福が与えられます。聖霊に満たされるために最もいけないことが思い煩いです。思い煩う者は、神を信じないで、自分を見ているのです。イエス様を見ないで、周囲の状況や自らの力を見ると、ペテロのように沈んでいきます(マタイ14・30)。神を信頼して生きるということは、信仰の修練が必要です。そして、自らの弱さや罪深さではなく、神を信じて歩みを始める人こそが、治める人になっていくのです。あなたを見て、神は、「非常に良かった。」と言われるでしょうか。前進あるのみです。


2月4日 混沌から秩序への創造。   箴言82236

箴言8:22 【主】は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。
8:23
大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。
8:24
深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。
8:25
山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。
8:26
神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。
8:27
神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。
8:28
神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、
8:29
海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、
8:30
わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、
8:31
神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。
8:32
子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。
8:33
訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。
8:34
幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。
8:35
なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、【主】から恵みをいただくからだ。
8:36
わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。」

初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。」(創世記1・1-2

 科学的に分析しても宇宙は無からビックバンによって138億年前に生まれ膨張したそうです。なぜ、無から有が生まれたかは、全くわかりません。熱力学保存の法則といって、全体のエネルギーは増えることも減ることもないからです。他にも、科学的に解明できないことは、種が変わることがないという事実です。種が違うもの同士の交配はできず、例えば人間とチンパンジーの遺伝子はかなり異なっており、むろん交配はできません。それで、人間の祖先は、今の猿とは全く異なる原人だというのですが、それではその原人のままの動物はおりません。遺伝子的には、人間の祖先は一人の人であることが分かっております。このようにして、進化論には完全な限界があり、世界の起源についても、神の創造以外には説明ができないのです。だから科学者にも多くの信仰者がいるのです。創造を信じるのは、科学的ではないなどと愚かなことを言うのは、きちんと学問を治めていない人なのです。創造がいつのことか、神がアダムとエバを造られたということがどういうことなのか、それは具体的にはわからないことです。しかし、進化論よりも創造論のほうが科学的なのです。

 今日お話ししたいことは、まず、信仰とは非理性的で感情的なものではなく、しっかりとした判断と理性をもって成長しなければならないのです。異言で語る人は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。もし、私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結びません。」(Tコリント14・13.14)。

 多くのクリスチャンが祈っていません。悩んだり、考えたりしているのですが、神に向けて祈らなければなりません。そして、異言の祈りが少ないので、聖霊に満たされることもなく、自分の霊の汚れに左右されます。

@   異言で多く祈り、思い煩いや打算的な考え、そして思い込みの勘定から解放されなければなりません。

A   聖霊の執り成しである異言がどのようなことを意味しているか、祈りながら解き明かすように願うのです。それをしなければ、霊的な人、人格的な信仰者になることはできません。

B   神にある解決の道を示され、為すべきことを知るのです。確認のために、聖書の言葉を求めなければなりません。

 多くの人は、神に祈れば、神が勝手に適えてくださると誤解しています。神はあなたのしもべではありません。天地創造の時、神の子キリストは、「神のかたわらで、これを組み立てる者であった。」(8・30)。神の思い、御心を聞いた後、それを実行しようと信仰によって実現するのは、あなたなのです。

信仰者は、神のしもべとして、世に勝利し、神の業を成し遂げるために、良く祈り、神に示され、具体的に問題を解決していかなければなりません。毎日の生活を混沌としていてはならないのです。神の言葉を聞き、為すべきことを教えらえることが、必要なのです。あなたを世から救い出したのは、神の子として、神の働きに参加させるためなのです。

 神の霊に満たされたら、思い悩むことも、苦しむことも、悲しむこともありません。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(へブル11・3)。信仰を持たなければ、無なのです。目に見えず、解決の手段もわからなかったことに、信仰によって、神の啓示を得て、新しい創造の業に関与するのです。

 私自身は、神にある新しいビジョンに喜び踊っています。

 「【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40・31

 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(へブル11・6


2月11日 人としての働き。   創世記21525

創世記2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16
神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
2:18
神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
2:19
神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。
2:20
人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。
2:21
神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22
神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23
人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
2:24
それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
2:25
人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マタイ19・4-6

 このイエス様の答えは、弟子たちが結婚に縛られ、勝手な妻でも離婚できないならば、独身の方が良いと不満を言ったからです。イエス様が離婚を赦す理由は、人の心が頑なであり、夫婦が仲違いしたら、人生が立ち行かなくなるからと言われています。しかし、実際には、離婚はしていなくても、頑なさのゆえに、立ち行かなくなっている夫婦は多いものです。

本当は夫婦は一人なのです、と言われ、別れることはできないと諭します。そして、神が合わせたという言葉の中には、クリスチャンがキリスト教の婚礼を経て結婚したということではなくて、全ての結婚は神が引き合わせたものであるということになります。つまり、神を信じてからが、神の御手の内にあるのではなく、全ての人間は、神の御手の中にあって生き、動いているのです。

 神の御手の中に生まれながら、悪人になる者もいれば、どっちつかずの者もおり、良き人もいますが、神の国に行くのは、神の子として生きた者だけです。人を生み、育てるということは、「生めよ、増えよ。」と言われた神からの全ての人に対する使命であって、信者未信者を問いません。そして、悪人からも神の人が生まれ、悪妻・悪夫と結婚する誠実な信仰者もいるのです。

 「というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」(マタイ19・12

 ここでは、身体的或は状況的に結婚ができない人がいることが明示されています。注解書には、肉体的不能及び去勢とだけ説明しますが、ユダヤ人にそのような人が多くいるとは思えません。結婚しない・できない人には様々な理由があります。また、神の国に献身的に仕える為に結婚しないパウロのような人がいることも示されています。ともかく、一般的な人間には、結婚しなさい、勧められています。

   「結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。」(Tコリント7・33-34)。ここの章は、「危急の時」(7・26)という意識があり、迫害の中であって、現代とは少し違うようですが、れは、仲の良い夫婦の姿でしょうか。面白い表現です。私たち夫婦も、このようなものです。

さて、聖句に戻りましょう。神が人を結婚したがるものとして造られ、夫婦が結び合い、一体となり、裸でも恥ずかしいと思わなかった、ということは、性欲というものが、食欲や睡眠欲と同様に健全なものだということです。むろん、生存のために神が与えられた欲望も、罪によって過度なものとなると破滅の原因となります。「生めよ。増えよ。」という使命は、出産可能年齢と共に適えられなくなりますが、それでも人間には性欲があります。また、姦淫や不倫が厳しく戒められるところからも、夫婦が一人の人として働くために性欲が神によって備えられたと思われます。

 「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」18)として妻が与えられたのです。この聖句や「夫は妻の頭である」(エペソ5・23)によって、妻を付随的な立場に置くのは、男性の傲慢さでしょう。「妻を自分と同様に愛しなさい。」(5・33)とすぐ後にあるからです。

 忘れてならないことは、夫婦が愛し合い、助け合うことは、神の命令どおり働くためであるということです。夫婦が、人生の目的を同じにして協同する意識を持たなければ、愛し合うことはできないと思います。夫婦が愛し合うということは、世間で愛としてなされるエロではないのです。相手の為に尽くすというアガペーの愛、神の愛に満たされるためには、神の為に働くという思いがなければ達成されないのです。

 熱心で敬虔なクリスチャン夫婦でも、仲が悪く、不満を言い合うことが多いことを知っています。それは、奉仕や働き、生活を勝手にやっているからです。人は完全ではなく、罪深く、自己中心です。助け合い、祈り合わなくては、うまくいきません。一人一人が、それぞれ良いと思うことをし、努力しても、助け合い、支えあわなければうまくいかないのです。

 エペソ書には、「だれも自分を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストの身体の部分だからです。・・・この奥義は偉大です。」23-32)とあります。

 教会が教会として成長し、機能するためには、愛の意識としての中で厳しいこともあります。試練や迫害を乗り越えてこそ、愛が増すということは事実です。甘やかしあっていては、神の働きはできません。そして、神の働きをするためには、真に愛し合う伴侶が必要であると思います。また、そのようによって成熟した信仰者同士の愛による働きが必要なのです。


2月18日 知識による人生。   創世記216,17、3章110

創世記2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
3:1
さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2
女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3
しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
3:4
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9
神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

エデンの園には、食べるのに良い多くの木があり、園の中央にはいのちの木と善悪の知識の木がありました。3章22節には「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」とあるので、いのちの木の実は食べていないことがわかります。

 食べてはならないと言われたのは、善悪の知識の木の実だけで、その理由は「必ず死ぬ。」(17)からです。蛇は、「園の木のどれからも食べてはならない。」と神が言われたと間違って教えます。否定的な教えや示唆は、人を惑わす常道ですから、気を付けなければなりません。エバは、それに対して、「食べてはならない。触れてもいけない。死ぬといけないからだ。」(3・3)と、全くニュアンスを変えています。

 信仰を踏み外す人の特徴は、聖書の教えをきちんと守っていないのに、自分は「神を信じている。神の戒めを守っている。」と考えている人々です。信仰の裁定を下すのは、自分ではなくて神ご自身なのです。電動自転車に乗って右手に飲み物、左手にスマホ、左耳にイヤホンという女子大生が、77歳の女性にぶつかって死亡させ、重過失致死容疑で捕まったということです。酒を飲んで運転したり、万引きをして解雇されたり、セクハラやパワハラで人生を破綻させたり、倫理基準がしっかりとしていない人は、道を踏み外すことは多いものです。

 説教でも、食べ物や運動不足は注意しています。堕落とか、欲望に負けるとか、そういうことは、きちんとした生活をしないと、簡単に陥ります。女性の肌の露出も、男性のだらしない服装も、誘惑に遭い易い証拠となっています。いったん病気になったり、堕落をしたら、そこから這い上がり、回復することは容易なことではありません。

 「自由」を主張する人々もおります。自由とは、基準やマナーを守り、弱さや誘惑を意識して生きる者だけが獲得できるものであって、勝手気ままな生活をしたい人は、不自由で限られた生活を送ることになります。子供に、「自由」を赦し、希望を尊重したり、それでいながら期待を掛ける親は、罪の結果を見て苦しむことになります。

 なぜ、そのように人は、神の戒めを守らなくなったのでしょうか。善悪をはかる基準を自ら身に着けたからです。

 朝三暮四という言葉を知っているでしょうか。猿にドングリを朝に3つ暮れに4つに減らすと言うと怒ったので、朝に4つ暮れに3つやるといったら喜んだということです。結果は同じことなのに表面的な利害に囚われる愚かなことをいうのだそうです。養老孟司は、果たしてこれが同じことなのだろうかと疑問を持ちました。朝4つ食べた方が健康にはよいかもしれません。同じものではないとする動物的感覚が理性をもった人間には、わからなくなっていると言うのです。リンゴ2個の箱3つとリンゴ3個の箱2つが同じものだとは限りません。人間は、「食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする」という木の実を食べてしまいました。要するに、欲望と自己判断を得たということでしょう。理屈を身に着けてしまいました。

 スノーボードで銀メダルと取った平野選手は、水しか飲まず、一日一食で身体を極限まで鍛えているそうです。スポーツは、自らに厳しい者しか強くならないという明確な基準があります。実は、人生も、自らに厳しく生きなければ、人を幸せにすることも、自らが幸せになることもないのです。神は、「主の掟と命令を守るために、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くす」(申命記6・2-5)者にしか、祝福を施すことができないとはっきり言っておられます。

 むろん、その基準を厳格に守れる人は誰もいません。その守れない基準を求めて生きることが信仰なのです。何度罪を犯しても、失敗をしても、主に従おうと願い、主に寄り頼んで生きることが、信仰者には必要なのです。

 同じ人生を歩み、同じような結果を生んでいても、実は、神の目には全く違うのです。神に従おうとして生きる人の失敗や不幸と、勝手に生きる人の失敗や不幸は全く違うものなのです。

 私にとっても信仰をもってからの30年は戦いの連続でした。その前は、人にも羨まれるほどうまくいっていました。しかし、私自身は、神を信じる前の人生は虚しく、信じてからは試練が続いても、解決がなくても、充実していました。そして、ただ神を信じ、従ってきたのでした。

 神を信じて、愚かな道、従順の道、受けるよりも与える道、苦難な道、を選んできましたが、それが神の御心だと信じる御霊の働きかけが常にありました。信仰は、打算ではありません。理性は保持していますが、神の導きだと思ったら、理性よりも信仰を選びます。

 善悪を知って何が得られるでしょうか。私たちが考える善悪が本当に善悪なのでしょうか。人は、自分の価値基準を捨てられないので、争い、攻撃するのです。目の前の楽しみを求めて、神の国の義を無視するのです。大事なことは、神の義であり、神の基準です。


2月25日 罪びとは罪を認めない。   創世記3章715

創世記 3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9
神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11
すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12
人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13
そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
3:14
神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15
わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

食べてはならないと言われた善悪の知識の実を食べた後、二人がどのように変わったのでしょうか。

@  自分たちが裸であることを知り、陰部を隠した。7節

A  神の御顔を避け、身を隠した。8節

B  罪を認めず、責任を転嫁した。12,13節

神は人間が罪を犯すことは知っていました。そして、それは善悪の判断を自らすることであり、だからこそ、言い訳が成り立つと信じてしまうことであることを明確に教えるために、「善悪の知識の木」と名付けたのでしょう。

私は、神の働きが凄いなと感じるのは、例えば、説教を語った内容をそのまま破る人がいるということです。説教を聞き、それを受け容れるということは、聖霊によらなければなりません。皆さんが、説教を聞いて、それを神からの語り掛けと信じ、従うということは、聖霊なる神に導かれていなければできないことなのです。

私は、自分が神の器であるとか、神の預言者であるなどとは、とても言えません。しかし、礼拝において、説教を語り、み言葉を解き明かす時、神の御霊が働いてくださり、信者の内に応答と従順を果たしてくださることを知っています。ですから、語った内容と結果については、神に委ね、それが自分にとって未熟であろうと、不本意であろうと、言い訳も否定もしません。しかし、ともかく、反応するのは、神の御霊が働いてくださるからであり、反発するのは、その人の自我、罪が働き、ある場合には悪霊が働いているからであることも知っています。ですから、聖霊に満たされた説教をした時には、救われていない人からは反発があるのです。そして、彼らは、@自分を誤魔化し、A教会から離れようとし、B言い訳を言うのです。

 神は、私たちを罰しようとされているのでしょうか。違います。救おうとされているのです。もし、この場面で、アダムもエバも、自らの罪を認め、悔い改めていれば、そのままエデンの園で幸せに暮らせていたのです。神にとって、この二人が神を愛し、愛し合って生きていれば、それで十分だったはずです。しかし、罪びとは悔い改めないのです。そして、自らの正当化をして、人の悪口を言うのです。

 自分の罪を認めず、相手の罪を糾弾する縮図が、夫婦の関係です。これをしていたら、決して神の祝福はありません。アダムが、「私は罪を犯し、食べてはならないという木の実を食べてしましました。妻を十分愛しておらず、そのために妻は誘惑に会ってしまったのです。お許しください。」と神の前に悔い改めていたら良いのです。

エバも、「私は蛇に誘惑されるほど愚かで誘惑に弱い人間です。お許しください。これからは、誘惑に陥らず、神のみ言葉に従って生き、夫を愛し、夫に仕えていきます。」と悔い改めれば良かったのです。

 もう一度言います。悔い改めということは、聖霊に導かれなければできないのです。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16・8)。さらに、「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(ヨハネ8・47)とあるように、悔い改めず、言い訳を言っている者は、真の意味でクリスチャンではありません。

 Tコリント3章にあるように、御霊に属している人ではなく、肉に属する人である場合には、神の国に行くことはできません。「あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」(Tコリント3・3)。自分の罪深さを告白できず、きれいごとを言って、言い訳を繰り返す人は、「ただの人」であって、クリスチャンではありません。

 「教会の人は優しく良い人ばかりだから仲間になりたい。」と考え、洗礼を受けても、あなたがもし、教会に対して違和感を持ち、家族になれていないと感じるならば、それはあなたが神の前に自分の罪を認め悔い改めて、救われていないからです。それは、教会の責任でも、牧師の責任でもありません。あなた自身の問題です。

 あなたが、平安を求め、友を求め、伴侶を求め、幸せを求めて、教会に来たことは、神に導かれて来たか、偶然か、わかりません。ともかく、教会に通い続けていることは、神の配慮であり、導きです。ただ、その後、家族になるということに関しては、自分の人生が自分勝手であり、罪のものであったことを認め悔い改めて、神に救いを乞う以外には道はないのです。あなた自身の内にも、あなたの苦労にも、あなたの努力にも、救いのカギはないのです。

 救われ、クリスチャンになっても、罪びとの時の習慣で、言い訳を言い、罪を隠して生きると、いつの間にか、罪の虜になってしまい、肉に属する人として、喜びや平安、愛に満ちた人生を過ごせなくなってしまうのです。人生は、罪との戦いです。しかし、戦い続けて御霊の人になったら、試練があっても、喜びと平安、いのちと愛が満ち溢れた日々を過ごせるようになります。


3月4日 呪いの逆は祝福。   創世記3章1624

創世記 3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
3:17
また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18
土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
3:20
さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
3:21
神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
3:22
神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23
そこで神である【主】は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

罪の結果として、女性は出産の苦しみと、夫を恋い慕っても報われずに支配されるということになりました。私は、最初の子を産んだ時の苦しみを見て、女性でないことを感謝し、妻を愛せれば、その苦しみは妻からなくなるのだと信じ、確かに第2子からは安産となりました。そして、夫婦が愛し合うことが、信仰の結果だと信じてきました。

 しかし、よく読んでみると、女性への呪いは、夫への依存であることがわかります。そして、世界中の多くの女性が、そのことで苦しんでおります。Tコリント7章を読むと、結婚している信者は離婚してはいけないとあります。「信者でない夫は妻によって聖められており、信者でない妻も信者の夫に聖められている」(14と書いてあります。これは、かなり、消極的なお勧めです。離婚を許す理由が、「心がかたくななので」(マタイ19・8)という消極的な理由と同様であり、結婚の祝福というわけではありません。

また、「結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、・・・結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。」(33.34)とあります。夫婦が互いに依存している状態ですが、「独身者は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配る」32.34)とあります。今日の説教は、「呪いの逆は祝福」という題ですが、夫への依存というのは、人間としては健全な姿ではなく、女性の祝福が夫から愛されることであるというのは、やはり女性蔑視ではないかと祈りながら思いました。「夫に支配される」ことの逆は、「夫依存からの解放」であると思います。

 クリスチャン夫婦が仲違いする理由は、夫が、「妻を自分のからだの様に愛さなければならない。」という程は妻を愛していないことに、妻が不満を持ち、妻が、「主に従うように、自分の夫に従いなさい。」としていないことに対して、夫が不満を持つからです。つまり、生身の罪深い伴侶に期待するようなことが、呪いの反対の祝福ではないのです。

 大事なことは、夫に期待するのではなく、「主に従うように」ということばです。夫も、妻も、その伴侶が主であるように、主体的に従順になることが大事なのです。伴侶への期待は、罪の特徴である、依存的に生きることに導き、主体的な従順に導かないのです。天上では、男も女もないことを思いみてください。

 男の呪いは、「苦しんで食を得る」17)ですが、妻を「支配する」ことでもあります。従うことの逆が支配することです。偉そうに妻に命令している男は、傍目から見るとみっともないものです。信仰とは、自分の思惑、判断、意志に反して、神を信じることを選ぶということです。なぜ、苦しむのでしょうか。それは、自分の意に反することが嫌いだから苦しむのです。

 

苦しむ、悩むということは、簡単なことです。思い通りにならなければ、悩むので、悩むということは、自我が強いということになります。神を信じることよりも、悩むことを選んでいるのです。「苦しんで食を得る」ということは、仕事ということですが、その仕事が思い通りにならないことを受け入れるのが、信仰による喜びの基本です。

 「心配するのはやめなさい。」(マタイ6・31)。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6・33)。自分の思い通りにものが進むことではなく、神に委ねて最善を尽くして生きることを、ここでは教えています。思い煩うことをやめて、神の基準にそって生きるならば、神の祝福があって、「すべて与えられる」ことになるのです。

 「土に帰る。」(19)ことも、神の子には天国が用意されているので、当てはまらなくなります。塵ではなく、「栄光の身体」であり、「私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。」(Tコリント15・49

 「いちじくの葉をつづり合わせて」陰部を隠した二人ですが、自分で自分の弱さを隠すことを自己義といいます。これは、いちじくの樹液でかぶれやかゆみが出て痛いと思います。神は、この二人に皮の衣を用意してくださいました。これは、動物の犠牲によって作られるものです。犠牲なしに神の義は果たせないのです。

 罪びとが永遠に生きたら悲惨です。神の国への期待を持つ者だけが、神のもとに集い、永遠の喜びの園に住まうことを願うのです。それでなければ、この地上の人生を神を信じて生きることは虚しくなってしまうでしょう。


3月11日 高齢なのに青々と茂る。   詩編921214節  櫻井圀郎師

【新改訳改訂第3版】
92:12 正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。
92:13
彼らは、【主】の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。
92:14
彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。

聖  書  詩篇 92:13?15(新改訳12?14)
聖書直訳:
正しい者は棗椰子のように多くの実を結び、レバノンにある松のように大きくなる。
ヤハウェの家に植えられた者らは、我らの神の内廷で多くの実を結ぶ。
彼らは高齢でもなお、瑞々しく青々と茂っている。
聖書意訳:
信仰者は、棗のように多くの成果を産み出し、大松のような財産を形成する。
神の家に植えられた者は、神の庭で大いに活躍する。
神の民は、年齢を重ねてもなお、若々しく活き活きと働く。


「人生百年時代に入った」と政府発表。「人生百年」とはいえ、単なる心肺活動の延長だけなら無意味。「人間としての生命」が問われる。
現在日本では、六十五歳以上が三割、九十歳以上が二百万人、百歳以上も六万人。私も七十歳の「古希」を迎えたが、イメージしていた高齢者像とは異なる。七十歳以上は二千五百万人、人口の二割。もはや「稀」とは言えない。今や、八十歳・九十歳で現役は少なくなく、百歳現役も多い。
聖書では「自由意思」が人間の基本要件。自由意思ある限り闘病中でも人間の生命だが、自由意思のないと困難。

T 神の従者は繁栄する
第一に「棗椰子のように多くの実を結ぶ」。日本では知られないが、「棗椰子」は中東地域の主要食品。棗に似た、美味しく、栄養豊富な食材。鶏卵のような実が数百個もなる。御言葉のたとえの意味です。
また、「レバノンにある松のように大きくなる」。ヘブライ語では「レバノンにある杉」。「レバノン杉」と言われるが、「杉」ではなく「松」。高さが四十mにもなる大木。レバノン国旗。大地にしっかり根付き、力強く成長。御言葉で例える意味でしょう。
ヘブライ語「大きくなる」は、単に「大きくなる」だけでなく、「富を増す」という意味も。単に「物理的に大きくなる」でなく、「財政的に富を増す」「経済的に豊かになる」を含意。
意訳「棗のように多くの成果を産み出し、大松のような財産を形成する」。ただし、「正しい者」だけ。神の法を守る者・神の言葉を守る者・信仰者です。

U 神廷に移植された木
第二に、信仰者は「神の家に植えられた者」。
「神の目」と「人間の思い」の違い。人間は自分の意思で自由に動けると思っているが、神の目にはそうではない。何一つ、自分では決定できない。専ら神の定めに依存。まさに植物と同じ。
自分で自分の生涯を決定できると思い込むのは、悪魔の誘惑に基づく。「これを食せば、何でも知りえ、神のようになる」。罪人なる人間はこの悪魔の洗脳に縛られている。人間は自由だと思い込んでるが、全く不自由。それを知り、神に帰依するのが信仰。その時、本当に目が開ける。
悪魔の奴隷から解放されて神に従う者が信仰者。神の家に移植された者。自分の働きを自分で決しえない。管理人なる神の定めるところ。私の献身……、絶対に私が意図ではない。私の働きも私の意思ではない。それが信仰であり、献身。果樹としての本分。
「神の内廷で多くの実を結ぶ」。野で果樹を見つけて、自分の家に植え換えた者はそれを放っておかない。良い実をならせ、多くの実をならせ、大きな実をならせようとする。ゆえに「神の庭で大いに活躍する」に至る。大きな活躍をすることが、神に移植された信仰者の働き。「私は何もできない」という人は神の庭に相応しくない。むしろ、神の庭の邪魔物。

V 高齢でなお青々活々
第三に、「高齢でもなお、瑞々しく青々と茂っている」。意訳「年齢を重ねてもなお、若々しく活き活きと働く」。
「高齢」という言葉は、原語では「白髪」。「白髪」は「老人」という意味。聖書で「老人」とは、敬意だが、現代日本では逆に、侮辱・邪魔者扱い。漢字でも日本語でも、地位が高い、知識が深い、身分が敬われるの意味。
江戸幕府の「老中」「大老」。大名家の「家老」。明治政府の「元老院」。日本相撲協会の「年寄」。聖書の「長老」、「長老教会」の「長老」。文学作品の「老人」。などは敬称。今日の「老衰」という感覚ではない。
白髪となった老人、高齢者、歳を重ねた人でも、神の庭に移植された者は、瑞々しく青々と茂っている。「白髪で青々」とは文字通りには矛盾だが、決して枯れない。青々と繁り、活き活きと働く。若々しい。それが基督者。
今、日本社会、全世界が、高齢化の渦の中に。進化論を真理とし、唯物論に立つ日本政府や日本社会は苦慮。唯物論では人口増が当然で、人口増を基礎とする社会構造も大きな歪み、破綻。元凶は、その基礎にある。基礎から修正が必要。
人間は、神の形に創造された人間。猿や犬など動物でもなく、AIやロボットなど機械でもない。断じて、消耗品ではなく、永遠の生命を持つ。ただし、天国か、地獄か。
地獄で永遠に生きるのは絶対に嫌。天国で永遠に生きる道を選ぶほかない。単純にして簡単な理屈。天国で生きる道を選んだ者は神の庭に移植される。神の庭に植えられた基督者は、歳を重ねれば、ますます威勢を増し、神のために、若々しく、多くの大きな実を生み続ける。


3月18日 御子イエスの名による祈り。 ヨハネ141321

ヨハネ14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
14:14
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
14:15
もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
14:16
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
14:18
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
14:19
いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
14:20
その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
14:21
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。

 左右の大臣に話しかけるばかりで、王様の方にも向かないので、王様は席を立ってしまいました。左右の大臣も、自分には決定権がないのに、親しいからといって、自分たちに話しかける人に困惑して、やはり席をたってしまいました。その人は、それでも話し続けているので、周りの家臣たちも呆れて出ていってしまいました。
「父なる神様」と始める、神への願いの祈りの相手は、主権者である父なる神でなければなりません。イエス様も、「父なる神にお願いします。」(16)と語っていますし、その父なる神への祈りは、「あなたがたがわたしの名によって、祈り求めることは何でもしましょう。」(13)と教えています。そして、祈りの模範として、マタイ6章9節から、いわゆる「主の祈り」を教えています。
旧約聖書で父なる神に対して主と呼ぶ場合には、太字で「主」と書いてあります。これは、英語表記ではYHVHと書かれるヘブル語の神聖4文字をイスラエル人は、「主の名をみだりに唱えてはならない。」(申命記5・11)から、ヤーウェとは呼ばずに、主(アドナイ)と呼んだからです。ヘブル語には母音がないので、この神聖4文字をなんと読んで良いかわからず、後代になってアドナイの母音(A・O・A)をYHVHに勝手に入れてYAHOVAH、つまり、エホバと読んだのです。ですから、今では、エホバという用語は全く意味を為さず、太字の「主」はヤーウェ、つまり、父なる神ということです。これは、新改訳聖書の「あとがき」の部分に説明されています。
つまり、新約において主と書かれる呼び名と、旧約において太字の主と書かれる対象は違うのです。主という呼び名は、イエス様に対してだけでなく、人間の主人に対しても、たとえば英語のLordというように、普通に用いられる用語です。私たちがイエス様に対して、主よ、と祈り呼ぶことは当然あります。それは、自らの人生の主、としての語り掛けです。ただ、最初に「父なる神様」と祈りながら、イエス様に対する祈りに代えてはいけないのです。
御子イエスは、第二位格としての神であり、神でありながら人となって生まれた方です。そのようにして「父が子によって栄光をお受けになる」(13)のです。この父と子の関係を、神だから一緒に思うということは、贖罪というものを全く理解していない異端となるのです。
むろん、「主よ。あなたはどなたですか。」(使徒9・5)とイエス様を主と呼んで、直接イエス様に語り掛ける祈りはあります。ただ、多くの場合、「イエスの名によって」と語るのは、祈りではなく、私たち自身が信仰によって、奇跡や癒しをする場合です。つまり、信仰者によって用いられる「主の名」は、私たちが主体であって、その信仰者として神の権威を用いて、命じるのです。私たちが神に祈りをするときの対象は、父なる神であるべきであり、私たちが神の権利を用いて信仰を行使する時の名はイエス様の名なのです。
さらに、聖霊なる神は「助け主」です。「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え」(ヨハネ14・26)、「御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(ヨハネ16・13)。この聖霊には、語り掛け、導いてくださるように求める祈りをするのです。
皆さんが礼拝や公の席で祈る時には、父なる神に祈るべきであって、それはイエス様の御名によって、祈ったことが実現するように許可を求める祈りであるべきです。信仰の戦いにおいて、癒しや奇跡を起こすことを、「自らの信仰によって」祈る時には、父なる神に願いながら、「イエスの名によって」宣言することは大事なことです。
日々の導きや教えを、聖霊なる神に求めることもできます。それを「イエスの名によって」求めるのです。ただ、気をつけなければならないことは、私たちの祈りが、感傷的になり、感情的になる時に、「父なる神様」と祈りながら、いつの間にかイエス様に対する祈りや、聖霊に対する祈りになってしまってはいけないのです。
そして、何よりも大事なことは、祈りの主体は、信仰者である私たち自身であるという自覚です。私たちの祈りは、それが正当なものであり、真摯なものであるならば、必ず聞かれるのです。ですから、父なる神に祈る祈りは、人を意識した美辞麗句ではなくて、簡潔で目的と趣旨をはっきりとしたものでなければなりません。
祈祷会では、ヨシャパテの祈りを説明しました(U歴代20章)。ヨシャパテは、神が自分たちを助けてくださらなければならない理由を論理的に述べ、自分たちには神しか助けはないことを告白して神に迫りました。自分の能力によって対処しながら、ついでに神にも祈るような姿勢では、神を動かすことはできません。
なんでも祈っておいて、神にお願いしておこう、という姿勢では、真摯な祈りになりません。私自身の祈りは、主イエスと語り合い、聖霊に導きと教えを求める祈りが多く、請願の祈りはなるべく少なくするようにしています。自らのなすべきことや変えるべきことを教えられながら、どのように時代と状況が変わっていくのかを、教え導くことを聖霊に求め、父なる神への誓願はなるべく少なくするのが、私の信仰姿勢です。


3月25日 十字架による贖罪の必要。   コロサイ11322

コロサイ1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14
この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
1:15
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17
御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
1:18
また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
1:19
なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
1:20
その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
1:21
あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、
1:22
今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2・1-3

 父なる神は、「私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移」すために、私たちの代価として御子を十字架に掛けました。「贖い」とは、代価を払って買い戻すことを意味します。最近の親の教育は、「謝れば許す。」ということが多くありますが、「謝るということは罰を受け入れる。」ということでなければなりません。罪を犯しても、言い訳を繰り返したり、「しょうがなかった。」などと言ったり、精神障害者を装って刑を逃れようとする人が多くなってきています。これは、全ての人に対する裁きの座を知らないからであり、偽キリスト教が、「神は愛だから、人を罰することをしない。」などと教える有様です。

やりたいことをし、好き勝手に生き、責任をもって生きることをしない人々が多くなっています。これは、冒頭のエペソ2章の言葉通りです。彼らは「御怒りを受けるべき子」なのです。罪びとの特徴は「肉と心のままを行」うことであり、不従順であり、悔い改めることのないことです。現在、私たちは政治の世界にそういう人々を多く見ますが、実は身近にも多くおります。

気を付けなければならないことは、「主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」(Uテサロニケ1・8.9)とあることです。その人々は、かつては「主の御顔の前とその御力の栄光」のうちにあったのに、「福音に従わない」ことによって、「退けられて」罰を受けることになるということです。

「あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っている」(Uテサロニケ1・4)とあるように、福音を知りながら、忍耐をせず、好き勝手に生きようとする人は、「神の国にふさわしい者」(1・5)となることができず、罰を受けるのです。

 そういうことが「怖い、厳しい。」と思う人は、私たちが罪の中から救われるために、御子イエスが十字架刑に掛かって、罰を身代わりに受けてくださったと言う、自らの罪の大きさ、惨さを悟らないからです。牧師や伝道者でさえも、罪を犯し、悔い改めないで開き直る人がいるのが、罪の怖さです。こうなるともはや、神の裁きを忘れているというか、その警告に従えなくなっていることが、神の怒りを表しているのか、恐るべきことです。

 御子イエスは、私たちには「見えない(父なる)神のかたち」であり、「万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」(1・16)。そして、「万物は御子にあってなり立っています。」ところが、人の罪ゆえに地が呪われたので(創世記3・17)、御子イエスによる贖いが必要になったのです(1・20)。

 私たちもまた、罪の呪いの中にあり、「悪い行いの中にあったのですが」(1・21)、御子が私たち一人ひとりの罪の罰を受け、十字架に掛かってくださったのです。

 その十字架による贖いがなければ、父なる神と「和解」することができず、「聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださる(1・22)ことはできないのです。

 2003年に会堂を取得して3500万円の借金をし、2008年にMYビルを取得して数億の借金をし、2011年に会堂を拡張してエレベーターも付け2700万円掛かり、2016年に外装工事で700万円掛かりました。一生懸命返している借金も、まだ1300万円あります。代価を払うということは大変です。しかし、それはいやいやながらではなく、喜んで払う代価です。

会堂の費用を負担する献金があってこそ、霊的で楽しい礼拝を献げられます。しかし、この教会は、その犠牲を払うための献金を促していません。伝道や牧会や維持のための奉仕も、神に献げる私たちの礼拝の一部です。教会は利益を求めるところではなく、信仰者、神の家族が、父なる神の愛、主イエスの恵み、聖霊の親しき交わりによって、形成される神の神殿です。それは建物ではなく、生きたキリストの身体なのです。

 35年前、私たち夫婦だけによって始められた主の教会ですが、今や多くの主にある忠実な信者によって維持形成されています。犠牲を払うことを惜しむのではなく、むしろ喜びとして神に奉仕を献げられています。

 これらの奉仕の原点は、主イエスが自ら惜しむことなく、十字架に掛かり、ご自分の身を捨てて私たちを救ってくださったからです。打算ではできないことです。信仰者は、打算で生きてはなりません。罪びとで自己中心であった私たちが、自ら十字架を負い、神の為に自己を犠牲にして奉仕することが、サタンに対する神の勝利なのです。