1月7日 過去からの脱出   創世記818

創世記 12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

 12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

 12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

 12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。

 12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。

 12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。

 12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。

先週、私たちは礼拝に参加する為にレンタカーを借りて出かけました。誠実な礼拝を守っている日本人と現地の人が20名程いました。その後、160キロを運転してペンギン島に行き、4時に着きました。なんとパレードは夜の9時だというので、休憩を取りながら待っていました。雛たちは、昼間は巣に隠れていますが、暗くなり親が帰ってくる頃になると巣から出て待っていました。帰りが遅くなるので、9時半に出て一目散に160キロを運転して帰ると、年越しの騒ぎの為に繁華街のホテル周辺は乗入れ禁止になっており、駐車場を探すのに1時間も掛かり、駐車場に入ると新年の花火が打ち上げられ、そしてパーキングの機械は稼働しなくなり、4つも探して試したのですが、動きません。諦めて出ようとしたら、帰りの車で渋滞し、他の駐車場に入れて、ホテルに着いたのは、夜中の1時過ぎでした。疲れている妻に、私は「よく覚えておきなさいよ。人生はこんなものだよ。疲れ果てている時に困難が続き、さらに不運が重なる。それでも、コツコツと対応していくことが大事なんだよ。」と語りました。

 翌日は、「世界で一番美しい道」と言われるグレートオーシャンロードを走って、海に突き出た12使徒と言われる岩を見て500キロを走り、夜の10時過ぎに帰りました。行きは観光地が多く、渋滞が重なって7時間掛ったのですが、充実したドライブでした。

 私は世界旅行、特にドライブが好きです。むろん、困難だらけで、道に迷ったことも無数、ホテルを探すのに1時間以上同じ場所を走ったこともあります。わからぬ法規に罰金を払ったことも多い。人生は、経験と失敗を積み重ねないと強くならないので、私はどうせなら、旅でしてしまおうと考えています。

 世界中どこに行っても中国人は凄く多いですが、失礼ながらそれほど評判は良くありません。商売でも、中国人との間では問題が起こることが多いと言われています。中国人は、中国人だけで交流し、他の文化の中でも自分たちの考え方や習慣を保持するからでしょうか。中国人街と韓国人街はよくありますが、日本人街というのは、今は全くありません。どちらの国にも共通することは、他の国で生きていこうという意欲があります。国も会社も頼ることができないので、自分たちで仲間を作り、助け合う必要があるようです。

 今年は、クリニックとヨーゼフで中国と取引を始めますが、辞めた方が良いという人ばかりです。私は、発達障害の人を助けられれば、それでよいと考えています。人生に困難は多くありますが、人を助けるための困難は、神の助けを得る良いチャンスです。私たち夫婦は、そのように生きて来ました。

 アブラハムの父テラは、カナンに行くように神に言われたのに、ハランで留まってしまいました。出発地のウルからハランまでは、チグリス・ユーフラテス川に囲まれた肥沃な三角地帯の中にあり、ハランはその端にあって豊かだったのです。テラは、旅立つのが面倒になったのです。それは、神の導きに対する反逆であり、彼は滅びの人生を過ごすことになるのです。

人生計画を練りに練る若者がおり、年金計算を一生懸命して貯えるお年寄りもおります。会社の意向に従い、人生を会社に掛けて働く人もおります。「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10・22)が私の悟りです。むろん、私たち夫婦は良く働きます。普通の人の数倍は働くでしょう。働かないで神の祝福を得ようとするのは、怠惰です。ただ、その働きに「主の祝福」が必要なのです。

 アブラハムは、生まれ故郷ウルは、父と一緒に出ました。更に、不信仰で怠惰な「父の家を出て」、神の示す地に旅立ったのです。信仰は、決して思考ではありません。考え過ぎる人には、信仰は育ちません。祈り深い人しか、信仰は育たないのです。欲望の強い人、怠惰な人も、信仰とは縁がないでしょう。その信仰とは、神を信じ救われるという信仰ではなく、信仰を持って生きるという信仰です。「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11・1)。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(11・6)。

 なぜ多くの人は、神に祝福されないのでしょうか。それは、口が軽いからです。不安、心配、悩み、苦しみを声に出してしまうからです。神が聞いておられることを意識しないのです。私は、苦しい時にも愚痴を言わないように注意しています。困難が重なる時にも、神に委ねるように心を神に向けます。キリストの弟子として、神に喜ばれる人生を送るように心がけています。そうすると、行動せずにはいられなくなるのです。

 この新しい年を、無益に過ごして、神の報酬が得られると思ってはなりません。あなたは、過ぎた年をどのように過ごしたのでしょうか。悔い改めたのなら、新しい歩みの為に、自分の在り方を捨て、神の示す地に旅立つ必要があるのです。

 私は、引退や自分の年齢を考えた時期がありました。皆さんもご存知でしょう。しかし、それが怠惰であり、罪であることに気が付きました。天に召されるまで、この旅路の歩みをとどめてはならないのでした。神は、私を名指しで選んだのであり、他の人のことは考えてはならないのでした。

 引退を諦めてからの、神の私への祝福は皆さんご存知でしょう。年賀状には、肉体年齢が28歳になったと書きました。確かに、働かなければならないと悟ってから、強くなり続けています。これは、信仰と共に、自己管理の必要を覚えます。日本やアジアには、引退というものがありますが、西洋社会には働けなくなることが引退であり、年齢の基準はありません。勝手に、引退を決めると、神に仕えられなくなります。


1月14日 いのちに満ちた霊性   ローマ書8213

ロマ 8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
8:3
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
8:4
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
8:5
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
8:6
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
8:7
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8:8
肉にある者は神を喜ばせることができません。
8:9
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
8:10
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
8:11
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
8:12
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
8:13
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

いのちと喜びに満ちた教会を目指していますが、実際には「いのちと喜びに満ちた」生活を過ごしていないクリスチャンは多いようです。

 人は、霊、心、身体に分かれます。霊と心を合わせて魂ということもあります。魂が身体から離れることを死と言います。また、私たちの霊が、聖霊(御霊)と結びついていない時の状態を「死んでいる。」と言います。生まれながらでは、神を信じていないので霊的に死んでおり、それを「肉にある者」、或は「肉に従う者」と呼びます。つまり、人は、イエス・キリストを信じ救われて、「罪と死の原理から」解放される必要があるのです。

 ところが、多くのクリスチャンが、この「罪と死の原理」をそのまま身に着けて過ごしているのです。なぜなら、「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む」ことを選んでおらず、自分の生まれつきの習性、考え方、世の中の風習に染まって生きているからです。

 私たちの霊とは、どのようなものでしょうか。

 「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」(ガラテヤ5・17)。つまり、私たちの霊の中で、肉と言われる生まれながらの罪性と、信じた後に内在してくださった聖霊なる神とが、混在しているのです。そして、普遍に存在する聖霊に満たされることを、私たちが意識的に選んで、聖霊に従って生きることを求めないと、聖霊に満たされて、いのちある生き方をすることはできないのです。

 肉の行いは、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉み、憤り、党派心、分裂、分派、妬み、酩酊、遊興」(ガラテヤ5・20.21.)などです。私たちの霊性が汚れている時に、このような行動を起こすのです。この霊性を聖なるものとしないと、私たちの心には、苦さ、苛立ち、不満、などが絶えず浮かび上がってきて、とても、「いのちと喜び」には満たされないのです。

 罪というものはガンに似ています。ガン細胞は際限ない自己増殖を図り、通常の細胞を殺して機能を失わさせます。ガン細胞は、健全な血流がない所に増殖し、血液が汚れているとガン化しやすいのです。健康な身体を損ない、ガンを生み出すためには、運動をせずに血液の循環を図らず、血液を汚れさせればよいのです。薬を飲んだり、サプリを飲んでも、基本的に血液が流れない箇所を作っていては効果がありません。思わぬ所にガンができるのですが、それは血液が鬱滞している所なのです。

 私たちの信仰を滅ぼす肉性というのも、そこに御霊によるいのちを流さず、頑固に固執していると、ガン化して私たちの霊的生命を脅かします。あなたの内には、喜びがあるでしょうか。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5・22.23

もし、あなたの言動が否定的、消極的なものであるならば、あなたは御霊に満たされても、導かれてもいないのです。御霊に満たされることを求めなければ、いのちも喜びも与えられないのです。そして、満たされるということは、中途半端な状態ではなく、完全に聖霊が私たちの霊に満たされているということなのです。肉と御霊とは、「互いに対立して」いるので、私たち自身が、御霊に自らを託し、委ねることを選ばなければならないのです。「肉のおもいは神に対して反抗するものだからです。」(8・7

 というのは強情で、ずるく、あたかも自分が信仰深いようにふるまわさせるのですが、喜び、愛に満ちているか否かで正体がわかります。正しいことや正義を求めているかのように装い、他人に干渉し、巧妙に非難し、批判して、相手を悩ませ、鬱にさせ、或は悲観させ、ダメにしていくのです。世の中のスキャンダルな記事や報道は、時間の浪費をさせ、人を貶めることで、視聴者の罪の正当化をさせているのです。

 は、巧妙に、その人を崩壊させます。自らの価値、能力、健康、希望、家族、人間関係、所属する組織になどに対して、否定的、消極的な思いを抱かせます。神の御霊が、その人を幸せにし、健康にし、祝福することから、思いを外させるのです。そして、神の「いのちの御霊の原理」から、「罪と死の原理」に従わさせようとするのです。

 は、人間関係を敵意と批判に満たすのです。人を攻撃的にします。人や組織を攻撃し、責めることで自分の思い通りに支配しようとさせるのです。御霊に満たされた人は、非難や批判、敵意や攻撃の思いなど、決して抱きません。神の名や聖句を用いて、人を攻撃することもあるので、気を付けなければなりません。攻撃的な人が御霊に満たされていることなどないのです。

 は人を孤独にし、孤立させます。人との交流を経ち、自然や趣味に生きようとさせて、愛から離させるのは、罪の力なのです。愛は、人との交流を求めるものなのです。たとえ年老いても、愛は活気をもたらすのです。

 は、その人を快楽の虜にさせ、遊興酩酊好色賭け事などに浸らせます。或は、テレビや映画や本に没頭させ、日常生活や家族から離します。

 は人に野望や欲望を与え、闘争的にし、忍耐や平安や自制心を失わせます。罪に囚われた人は落ち着きがなく、運や宗教や占いやオカルトなどで成功を得ようとします。

 「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(8・13