10月1日 自らに滅びを招かないように。  Uペテロ31018

Uペテロ3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11
このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。 3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
3:14
そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
3:15
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。
3:16
その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
3:17
愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。
3:18
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。

政界においては、権力・覇権を握る為に凄まじい闘争が繰り広げられています。国が自分たちの平和や人権に対して生殺与奪の力を持っていることを日本人はあまり意識していないようです。永世中立国のスイスでは、2013年9月に徴兵制を廃止する案に対して73%の多数で否決されました。全ての家に核シェルターがあり、男子は20歳前後に4か月程の兵役訓練があり、その時に与えられた銃を自宅で保管するそうです。スイスのパンが不味いのは、戦時に備えて古い小麦から使うという法律があるからだそうです。そういう国家建設の意識を保持しながら生きるということと、政治に対して無頓着な日本の行く末は全く違うことを覚悟しなければなりません。北朝鮮がミサイル攻撃を日本に対して行うと脅している時に、国会を解散するという愚かさは、私たち国民が作り出したものなのです。

 「主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」(3・10)という警告をまともに捉える人は殆どおりません。魂の救いや病の癒し、そして信仰による祝福は信じ求めるのに、再臨とその直前の大患難時代について備える人はいないのです。キリストの来臨の約束はどこにあるのか。」(3・4)、と不遜な人々はあざけります。「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」(3・6-7

 福音書におけるイエス様の言葉をまともに読むならば、終末予言は驚くほど多いのです。マタイ24章以降を読みなおしてください。預言というのは、二重性で真実性が確認されなければなりません。むろん、二回目の方が最終的、究極的なものです。イエス様の預言のごとく、イスラエルは滅びました。歴史は経過し、イスラエルは預言のごとく復興しましたが、それは終末預言の成就のためなのです。

 「そんな厳しいことを言うなら、教会なんか来ない。」とか、「信仰生活は面倒くさい。」などという人がいます。神に対する態度が根本的に間違っています。神が私たちを救おうとされているのであって、私たちが神を信じてやっているのではありません。実は、滅びる人の場合に、信仰と神を自己中心的に捉えて、そのように考えるのです。「これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」(11)。そして、牧師や真実な信者は熱心に伝道し、人々を救いに導こうとするのです。私自身は、神がおられると知った時から、神に従うことと困難を覚悟して生きてきました。それが信仰者の生き方だと理解しているからです。救いを受け、神の国の住民になるために、当たり前の犠牲です。それを惜しんだり、怠けたりしたら、受け入れられないのが、この世の常識でもあります。

 「会社は給料をもらうから従い、頑張るけれど、国には税金を払っているのだから、それだけの利益を供給されないと割にあわない。」などと損得で考える人は間違っています。国が国民を守るために、私たちは相互負担をしているのです。個人や民間では対応できない攻撃や災害のために、私たち自らが国家を形成しているのです。人口700万人のスイスの兵役可能人数は150万人で、数年毎に三週間の訓練を受け、その費用はスイスの民間企業が八割負担しており、海外にいても帰国して訓練を受けなければ、スイス国籍を剥奪されてしまうということです。

 自らが国家を形成しているという強い意識の中で、国政に関わらないから日本という国の政治は腐敗するのです。失礼ながら、指導者は絶対権力を持ち、部下は従うだけという社会規範だから、韓国の大統領は必ず堕落して犯罪人になるのです。もし、国が正常なものでなければ、私たちは、その上位の神の国に期待し、神に忠誠を誓うしかありません。自分勝手に生きている者に、国の保護や祝福は及ばないというのが原則です。

 経済的ひっ迫が、侵略や迫害の源です。経済投資をすればするほど、経済的にはひっ迫し、見返りを求める侵略を進めます。そして、今や世界中が経済侵略の戦いの中にあります。もはや落ち着いた平和な世界は実現不可能なものになっています。そして、不思議なことに、日本だけが未だ現実感なしに、平和を謳歌し、栄華を誇っています。バビロン帝国は一夜にして滅びました。日本ほど、侵略しやすい国はないでしょう。

 「このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。」(17)。すべてを知っておられ、すべてを裁かれる主の前で、ごまかしや言い逃れはできません。救い主とは、救いを判断される主権者です。この方の前に正しく出られるかどうかが、大事であると考えて生きなければなりません。言い訳をしていること自体が、自らの罪を立証しているのです。

 神の国に忠誠を尽くす者は、神が守ってくださるというのが、私の信念です。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらすべてのものはすべて与えられます。」(マタイ6・33


10月8日 岩の上に人生を築く。  マタイ72027

先週は、神の国の国民としての義務を果たさなければ、スイスの徴兵制と同じように国籍を剥奪されることがありうるということをお話ししました。そして、神の国に忠誠を尽くし、神の国の義を果たす人には、神がその必要な物を全て与えてくださるのも当然なことなのです。

 神の国の住民になるためには、そういう面でしっかりと訓練を受けなければなりません。肥料が十分でなく、剪定や世話をされないで育つ果樹からは美味しい良い実が得られないように、結果を生み出す指導を受けなければならないのです。それは厳しいことでしょうか。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(へブル12・11)とあるように、生まれつきの罪人にとっては嫌なものですが、訓練されると、楽になり、平安をもたらし、実りをもたらすのです。ところが、訓練されることが嫌いで、好き勝手に生きたがる人が多いのです。仕事でも学びでも、日常の暮らしでも、苦労が嫌で、努力することを怠る人が成果を生み出すことはないのです。そして、そのような人は、神を信じているといっても、『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(7・23)と言われることになるのです。言葉巧みに誤魔化したり、言い訳を言ったりする人がいますが、神の前では全く役に立ちません。神の前では、良い実を生み出しているかどうかが、その人の人生の証拠なのです。

良い実を生み出すために必要なことは、土壌を豊かにすることであり、よって立つ基盤を良いものにすることです。イギリスの土壌は明らかに痩せていました。寒さと降雨の多さもあり、岩も多いので畑や果樹栽培には適していません。こういう国が大英帝国として君臨したことは驚きです。土地がやせているから外に出て行ったのでしょうか。とにかく寒い地方の人々は、働き者が多いのです。そして寒い地方の土壌は痩せているのです。そのことが却って、人生というものの土壌を豊かにする必要に迫られることもあります。生まれながらの自分を変えようとしない生き方は愚か者の生き方です。神を求め、信じるということは、自分の生まれながらの生き方を否定したからなのです。この世の住民ではなく、神の国の住民として生きることを願うからこそ、魂の救いを求めたはずなのです。

 さて、「洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付ける」ということは、どういうことでしょうか。土台が風雨に流されないということです。人生の土台が崩れないということです。

 仕事がなくなる、破産する、不治の病に侵される、障害をもって十分に暮らせなくなる、子どもが問題を起こす、罪を着せられる、・・・そのようなとき皆さんはどうしますか。

 そういうことが起こらないように神に祈っている、というのは愚か者の祈り、偶像信仰の祈りです。イエス様が言われているのは、そのようなことが起こっても流されないということです。自分にとって都合の良いことを願い祈るのは、自己中心であって、罪の行いであるから神は聞いてくださいません。そういう祈りをする習慣は、現世利益を唱える新興宗教の教えであって、神が世界を統治し、神の国に信者を招くという唯一神教の教えではありません。そして、自分を正当化し、自分の願いを達成しようとする信仰こそ、嵐に流されるのです。

 たとえ死ぬことがあっても、神はあなたを御国に招き寄せてくださることを確信することがキリスト信仰の基本です。試練や艱難があっても、それは神の支配の中でのことですから、万事益となると信じることができるのです。そういう覚悟のもとに人生を生きるのです。恐れやおののきは、あなたの信仰が未だ、全農の神を信じ切っていないからであることを認めなければなりません。

 私が牧師になると言ってから、親兄弟、友人知人、恩師までが私を非難し、また確かにお金も仕事も当てもありませんでした。ただ、「主がお入り用なのです。」(マタイ21・3)と私に語り掛けた言葉だけが事実でした。成功の約束も、富の保証も、周囲の理解や助けも、何もなく、ただ、「主イエスが私を必要としている。」というだけで人生を変えたのです。

 私は、博士課程を目指し、最も優秀な院生でした。社会で成功者として生き抜く自信はありました。しかし、神が命じたら断ることはできないという、人生の基盤とする強い信仰がありました。むろん、私も罪びとですから、多くの罪を犯しています。しかし、人生の基盤はキリスト信仰以外の何物でもありません。これまで、神に隠れてしたことなど一度もありません。罪は正直に、私を見つめる神の前に悔い、自分でさえ罪を犯すのだからと、他人を責めない人間になろうと決心してきました。

 あなたが、神の声をきいていない、信仰に自信がない、などと思うなら、それは、あなたの信仰が不安定だからです。自分の都合に囚われた自己中心の信仰だからです。「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」(へブル2・1)。聖書の言葉、真理をしっかりと心に留めて、それに従って生きることに覚悟を決める必要があるのです。


10月15日 神殿である自らを建て上げる。  Tコリント3917

Tコリント3:9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
3:10
与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
3:11
というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
3:12
もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13
各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14
もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15
もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
3:16
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
3:17
もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

先週は、信仰の土台の上に人生を築き上げることをお話ししました。もし、私たちが富という土台の上に人生を築き上げていたら、経済的な苦境に陥ったら、その人生は崩れてしまいます。健康を土台とすることは、死や病によって脆くも崩れます。名誉や地位もまた同様です。

 ところが、信仰らしきものを土台とすることも多いことも現実です。その基礎が岩盤の上に建てられているかどうかは、洪水や地震などに例えられる試練によって明らかになります。見せかけとしての建物です。

 12節にある素材の中で、木・草・わらのような物で建てられた家は、素材が軽いので土台がしっかりとしていなくても、見せかけとしては建つのです。最近造られているマンションは耐火性・防火性が優れているので、延焼というものがなくなってきました。しかし、木造のアパートや家などは、一軒が焼けると延焼して近くの家も焼け落ちてしまいます。「その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」とあるように、頑丈に作られている建物は、火事が起きても全体が焼けることはありません。見せかけの建物か、価値ある素材で造られた建物かどうかは、火事や災害の時にわかるのです。

 ここで「その日は火と共に現れ」とあり、「その日」とは、キリストが再臨されてすべての人を裁く時のことです。スイスとイスラエルが核シェルターを全国民の為に備えていることを話しましたが、原爆を経験した日本が、核に対して何の備えもしてこなかったことは、安易な国家建設をしてきた証拠です。日本という国は、北朝鮮が打つ一発の核弾頭で滅びてしまうのです。もはや、国家建設として建て直すには遅すぎるのです。戦後72年を費やして出来上がった国は、安易な素材で出来上がり、内装に金を掛けて見せかけを良くしたボロ家だったのです。

「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。」(ルカ14・28)とあるように、塔のような高い建物を建てる時には頑丈で深い基礎を、お金を掛けて造らなければなりません。自分の人生を、天に届き、神の国に行くためのものと考えるならば、どれだけの犠牲が必要なことでしょうか。

 神戸製鋼という資本金2500億円の大会社が、データを誤魔化し不適切な製品を販売し、それがわかっても隠ぺいしていたことが判明しました。会社存亡の危機となってしまいました。私たちの人生も、神と人の前に誤魔化して、それを正当化し、裁きの時に、「しまった。」と悔いても、「もう遅い。」のです。ばれるまで誤魔化し続けることが、既に「時遅し!」なのです。そして、人間は経済的に苦境に陥った時に、誤魔化しをすることが多いのですが、それがばれると、もはややり直しは効かないのです。

安価な食事が多くなっていますが、素材が危ないのが多いようです。私には、砂糖で誤魔化している味に気が付かないで、「美味しい!」と言っている人々の味覚のボケと健康管理の実態が心配です。私は、子供たちにしっかりとした味覚をつけさせることが、親の大事な使命だと考えてきました。不味くて誤魔化しの味がわからないようでは、幸せにも健康にもなれません。基本的に、手間暇を掛けない料理がおいしいはずはないのです。同様に、手間暇を掛けず、犠牲を払わない人生や信仰に本物などありません。

 「金、銀、宝石」で家を建てるとは、どういうことでしょう。それは、地上で楽に手に入るものではないということです。また、非常に高価なものであります。「あなたがたは神の神殿」なのですから、私たちの人生は、価値のある生き方をしなければならないのです。皆さんは、説教を聞き、礼拝をするために、教会に集まってきました。素晴らしいことです。ですから、毎日を惜しんで、神の為、人の為に価値あるものを献げる生き方をしてほしいのです。

 ブルーベリーを21キロも取ってジャムにし、柿も1000個以上とって差し上げました。他の物も同様です。私たちは、毎日を忙しく仕事をし、妻は休日診療や夜間診療に加え、講演会もし、そして料理も、子どもの世話もし、そして教会員の為に祈りと配慮をします。私も、おそらく普通の人の数倍は働くでしょう。そして、毎月何冊もの本を読んでいます。それは、価値ある人生を神に捧げたいからです。

 「主は、闇の中の隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する賞賛が届くのです。」(Tコリント4・5)。他人のことを非難したり、攻撃しても、その人の正しさではなく、その人が愚かで神の裁きを免れ得ないことを証明するだけです。人を非難した法則が、自分を捕えるからです。大事なことは、なるべく多く神と人とに自らを献げることです。本や雑誌や新聞やテレビで情報を得ることに時間を費やすことは、人を助けるために用いることがなければ、サタンに用いられる知識欲として、あなたを滅ぼしていきます。

 あなたの人生も、どのように、どのようなもので、築き上げられたかは、主の裁きの日に、明らかになります。人間は、自分がどのように生きているかは、本当は知っているのに、言い訳を言いながら、裁きの主を軽視しているのです。

 あなたの祈りは聞かれたのでしょうか。あなたの願いは、届いたのでしょうか。あなたが神の宮であるならば、それは当然なこととなるのです。怠惰な欲に惑わされてはいけません。祝福を祈っています。


10月22日 土の器を作るのには時間が掛かる。  ローマ書92024

ロマ 9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。
9:21
陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
9:22
ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
9:23
それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
9:24
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

Uコリント4:6 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
4:7
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

陶磁器は、土の種類や焼き方温度の違いによって様々な違いがあります。土器は、古墳時代の埴輪や素焼き鉢などのように普通の粘土によって高くない温度で造られたものです。焼く温度によって水を通したり、通さなくなったりします。瀬戸物は水を通さないように上薬を塗って焼きます。磁器は、石英や長石などが含んだ良質な粘土を高温で焼いたもので、伊万里焼や久谷焼があります。

 採掘された土は、洗われてゴミや動植物などの不純物を取り除き、細かく砕かれることもあります。そして、一年くらい寝かしておかれます。土の成分としては、鉄が含まれているものは焼くと赤くなり、ケイ素からなる石英があるとガラス質になり、金属などが含まれている長石が含まれていると白くガラス的にもなります。粘土の粒子が大きいと収縮が少ないけれどヒビも入り易く、粒子が細かいと水分も多く含まれるので収縮が大きくなります。どちらにしても、粘土は良くこね、空気も含まないようにし、粘りを出さなければなりません。成形したら乾燥させ、仕上げてから2週間くらい乾燥させます。そして、素焼きをし、絵付けをし、釉薬を塗って焼きますが、3日間くらい焼く陶器もあります。

 先週は、不純物である罪が私たちの中にあることを認め、神に取り除いていただくことが必要であることをお話ししました。自ら洗い清めようとするだけでは、ゴミや動植物の残骸は取り除けないようです。一年寝かしておくと、カビが生えたり、芽が出たり、菌が繁殖したりするのが分かるものです。私にとって開拓伝道をして10年間以上の試練は、自らから不純物を取り除くのに必要な期間だったようです。

 忍耐のできない人が神にも人にも用いられるということはありません。成果・成功を急ぐ人は必ず失敗をし、挫折を経験します。「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し」(ローマ5・3,4)とありますが、忍耐のできない人が多いようです。電子レンジの1分も待てない人が多くおります。それでは練られることもありません。忍耐というのは、自分の働きや努力だけではなく、神の助けを待つということです。時間を掛けるということが、良いものを生み出すためには必要なのです。

 美味しいうどんやパンを作るためには、良い素材を良く捏ねて寝かすこと、そして塩が必要です。テンプラにはグルテンの少ない薄力粉が良いのですが、グルテンが多い強力粉に塩を入れ良く捏ねて寝かせると粘りと弾性がある美味しいものができるのです。果汁を入れるとグルテンは壊れるそうです。砂糖やバターは発酵させ柔らかくするのには必要ですが、グルテン形成には邪魔になるそうです。要するに、何でも良いものを入れれば、美味しくなるというわけではないのです。私たちが神の器になるには、試練によって良く捏ねられ、時間を掛けて待たせることが必要なのです。塩は神との契約の印す(レビ2・13)。

 形が造られるのですが、これは陶器師である神の御心です。「尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器」でも、神に従うしかありません。永六輔氏が「職業には貴賤はないと思うけど、生き方には貴賤がありますね。」と書きましたが、差別や優劣を競う人は、神の前で卑しい生き方であることを覚えなければなりません。人を非難攻撃、見下げる人は、神の前に出られないことを知っておく必要があります。待つことのできない人は、そのような人です。

 成果を急ぐ人は、神の恵みも、神の家族との交流も、自らの品性の向上も得ることができません。そして、品質の悪い土は、尊いことに用いる器を作るのには適さないのです。

 私自身のことを告白すれば、自らの栄達を捨てと決意した献身から38年たち、やっとそれが受け入れられるようになりました。思うようにならない人生に苦しみ、葛藤し、神に叫んでいた愚かさを認めなければなりません。器に成形するには未熟で、不純物を取り除き熟成させるのに多くの時間が掛かったわけです。

 最近、人に仕えることが苦にならなくなってきました。人や組織に認められなくて攻撃されても、なおかつ神に仕える道を模索して働き続けることができるようになりました。クリスチャンになって42年、いろいろなことをし、また達成してきましたが、それらは私という素材を作り出すためのものに過ぎなかったような気がします。これからが、神にあって、器として形成される時期かもしれません。今までは、自分という器造りに拘泥しすぎました。

 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」。器に価値があるのではなく、器がお入れする神の栄光こそに価値があるのです。自らが何をした、などと誇ること、求めることはおこがましいことなのです。

 「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Tコリント1・31


11月5日 老いを麗しく生きる。  マルコ1052

ヨハネ 21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
21:19
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
21:20
ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。
21:21
ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
21:22
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23
そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのである。

生きざま、死にざま、と言いますが、如何に生きるか、特に老後を生きるかは、人にとって大事なことです。モーセの生きざま、死にざまは見事です。「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」(申命記34・7)、この理想に近い生涯を送られたのは、日野原重明医師でしょう。牧師の子として1911年に生まれ、急性腎臓炎や結核などに苦しみながらも、聖路加病院の院長として活躍し、105歳で主の元に召されました。

 長寿の方の特徴は性格が良く、健康管理にしっかりとした意思を持っていること、そして信仰者であるということが言えるのではないでしょうか。それは、一言でいえば「気力が充実」ということでしょう。やる気がない、生き甲斐がない、やりたいことをやり食べたい物を食べる、などということでは、気力の充実は難しいでしょう。

 クリスチャンは、神の国を目指した人生を送ります。そこで、問われるのが、今日の聖句のような状況です。「年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。手を伸ばして歩くのは、目があまり見えない状態です。他の人に帯をされるということは、身体が不自由で世話にならざるを得ない状態、或は縛られている状態かもしれません。自分の行きたくない所に連れて行かれるとは、決して幸せな状態ではないでしょう。これがペテロの老後でした。

 人は皆、自分の思い通りに生きたいものです。他の人に左右されるのは、それが妻でも、子どもでも、嫌なものです。ましてや、自分を馬鹿にする介護者などでしたら、もう死にたくなってしまうかもしれません。そうならないために、健康に気を使い、お金を貯めて、不自由ない老後の為に備える人が多いのです。ペテロは、そんな嫌な老後をイエス様に預言されて、それではヨハネはどうですか、どんな老後になるのですかと尋ねます。

 イエス様は、「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と厳しいお言葉を宣言されます。櫻井先生が先週のセミナーでキリスト教の教師として召命を受けた聖句が語られました。「通れ、通れ、城門を。この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を揚げよ。」(イザヤ62・10)。門とは、「関門。患難、難儀、困難、苦痛、苦難、問題」であり、それが続くのが、「門々」であり、その為に道を整備するのが自分の使命であると神から示されたことを自覚されて献身をされたそうです。石を取り除くと訳されているけれど、障害物・危機・危険を除去するのではなく、回避して新しい道を作ると悟ったとのことでした。更に、旗として、規範・目標を掲示して生きるという自分の使命を全うしようとされているのです。先生は、30歳一区切りを考え、60歳から新しい歩みが始まっていると語られます。90歳までが働き盛りであるそうです。櫻井先生のように考えると、老後という言葉でなく、老中という言葉が適切になってきます。「老後」という言葉は、年金を使って生活し始める時のことで、65歳、60歳、70歳とする捉え方が多いようです。

 人間とは、何の為に存在するかを考えてみましょう。もし、社会の生産性を上げるために意義があるのであれば、働けなくなったら、それが老後です。子孫を残すということであったら、子育てが終わった時が老後です。生き生きと生きられなくなったら、それが老後という人もいることでしょう。

 神は、何のために人を造られ、世界を任せておられるのでしょうか。人は、動物ではなく、人です。もし、動物であれば、虚しく生き、子孫に命を繋げるだけの存在です。私たちは、そのような進化論の産物の考え方に騙されてはいけません。神は、人を神の在り方に似せて造られたのです(創世記1・26-28)。そして、神と結びつき、神にあって生きる時、人は最も輝くのです。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」詩編19・1主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。」詩編19・

 自分の心の満足の為に生きても、それは虚しいのです。人間は、神に従って生きる時、「魂が生き返ら」され、「心喜ばせ」るのです。ペテロは、ヨハネ21章の言葉を語られた時は、まだ信仰生活の初期で、30歳代でした。紀元67年頃まで生きて、ペテロの手紙第二を書いたとされていますから、この後、40年近く生きたわけです。迫害下の中で、困難な伝道を続け、最後は逆さ十字架を志願したのですから、困難な人生でしたが、彼の人生は、満足の主に従ったものだったでしょう。

 苦労はないけれど虚しく生きるか。苦労はあっても、神に従い、神に捧げて生きる喜びを体験して生きるか。麗しい老いを生きていきたいものです。

 私のほうは、さっそく中国での講演依頼や、新しい事業の話が飛び込んできました。やりたいことは主にあって、まだまだ十分あります。


11月12日 神の家族としての栄光   エペソ書3619

エペソ3:6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
3:7
私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。
3:8
すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、
3:9
また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。
3:10
これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
3:11
私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。
3:12
私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。
3:13
ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。
3:14
こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15
天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
3:16
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

私は9人兄弟ですから、兄弟喧嘩やいさかいはよくありました。平凡な両親ですから、期待は仕事熱心と真面目で優しい性格が子どもたちへの願いだったと思います。兄や姉は、社会で生きる困難に次第に負けていき、愚痴や弱音、そして不満が漏れ始めました。殆ど、私だけが理解したのは、そういう弱音を吐くのが父や母は嫌いだったということです。親の気持ちを理解する子は、人を思い遣る心根を育てるような気がします。

 実際には、嫌な性格の人が多くおります。どうして、こんなに心がねじれてしまったのかと、驚くほど悪質な人がいます。心が真っ直ぐでない人も多く、金儲けや遊び、飲み食いなどのことばかり話しています。

 「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(U歴代誌16・9)とあるように、私たちは、神に喜ばれ、招き寄せられたのです。

 私が教会成長主義を好きでないのは、教会成長志向が一人一人の教会員を見ずに、教会員を増やすことに関心が行くからです。そして、神が招いていない、悔い改めることのない罪びとを教会員にしてしまうからです。自らの罪を悔い、神のもとに集う人々は、他の人々を非難攻撃することはありません。むしろ、執り成しをし、助けるのが信仰者の行為です。

 ところが、信仰者は、そのような罪びとを放置したり、関わらないようにすることができません。そして、自己犠牲の中で、信仰者の生活が崩壊してきます。私の牧会初期の時代は、そのようにして魂が救われていない自己中心な人々によって教会は掻き回され、私は疲れ果て、自分の未熟さ愚かさに絶望になる日々が続きました。そして、過労の末、死に掛けて、自分の力と判断で行動していることに気付かされました。神に委ねて生きる。人を集めようとせず、人を変えようとせず、ただ、自らが神にあって喜びの日々を生きて、愛すべき人を愛し、為すべきことをしたら、十分であることを知ったのです。

 「あなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。」(13)。未信者の中で、心悪しき人々の中で過ごし、福音を宣べ伝える中で、私たちの心は苦しみます。でも、それが私たちを清め、練らせ、そして、神の家族に依存するように導くのです。この世が快適なのは、この世の人々です。もし、教会よりも、この世を選ぶならば、それはこの世に属する人だからです。むろん、だからといって、教会に入り浸るわけにはいきません。信仰者は、この世にあって、「恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされ」(7)たからです。つまり、信仰者は、自分の能力や努力の成果というよりも、神の助けによって福音を伝え、恵みを得るのです。

信仰者は、この世の自分勝手(罪)な人々の中に生き、そして神の家族である教会に変える喜びの中で、強められるのです。自分のこの世における弱さ、苦しさに目を向けてはいけません。「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」神に繋がることによって、私たちは強くなるのです。キリストが心のうちに住んでくださるのですから、私たちが負けるはずなどないのです。そういうことを体験することによって、「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができ」るのです。

 枝の折れた木を切るために10mくらいの高さまで上りました。落ちたら死ぬでしょう。慎重に全てを配慮しながら上り、よく考えて折れた枝を落としながら、幹を切ります。いつも祈っています。家内は、「私はお転婆だから、スイスイ上る。」と言いますが、そういう妻は「落ちたら死ぬ。」という危険を考えていないので、任せられません。確かに、帽子を被るように言っているのに、被らず、危うく落としたノコギリが当たりそうでした。私たちは、困難を覚えるからこそ、祈るのです。そして、助けられ、恵みを覚えるのです。決して、自らの力でやろうとしてはいけません。

 そのような危険と困難を乗り越えて、風呂に浸かる解放感と充実感は大きなものです。教会に来て、礼拝に出た時に、涙を流すような喜びを覚えることは、今でも多くあります。

 私たちは神の家族、一人では生きようと思わず、生きることもできません。世の中の人は、自分一人の力で生き、成功しよう、出世しようと考えます。キリストにあって生きることが、どんなに素晴らしいことか、もっと経験していただきたいと願っています。

 人生は戦い、しかし、帰る家が、喜びの神の家族であることは、なんとも素晴らしいことです。

 


11月19日 御霊と御力の現れによって。   Tコリント書2414

Tコリント 2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。
2:5
それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
2:6
しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
2:7
私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
2:8
この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
2:9
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
2:10
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
2:11
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
2:12
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。
2:13
この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
2:14
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

現代日本ほど、優劣が強調される国はないと思います。私の子供の頃は、貧しい者が多かったので、大学に行く者も少なく、「手に職を付ける」ことが大事だと思われていました。洟垂れ小僧が多く、ボロの服を毎日着ている子も多くおりました。仕事も難しくはなく、コンピューターなどはないので、誰もができました。外国に行くと、そういう人々は非常に多くおります。

 人の優劣を評価するということは、人間の価値や幸せの達成には、あまり役に立ちません。夫婦仲や家族の関係は、優劣が競われると悲惨なものになっていきます。それなのに、どうして優秀さや成功などがもてはやされるのでしょうか。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」(Tコリント1・19)とあるのに、人々は、「知恵を追求します。」(1・22)。むろん、それは人々が罪びとだからであり、知恵や優秀さを追求する人が、魂の救いを求めて救われることが少ないのは事実です。

 ところが、問題は、救われた人々が、相変わらず、この世の知恵を求め、能力によって物事に対処しようとすることです。或は、全く神頼みで、知恵を使おうとせず、努力もせずに、神様助けてくださいと、祈るばかりの人も多くおります。それでは、御霊と御力の現れる生き方とはどのようなものでしょうか。

1.  人間の知恵に支えられないで神の力に支えられる。2・5

人知を尽くした上で、神の力に委ねているかどうかの試金石は、失敗や自らの愚かさを受け入れられるかどうかです。うまくいかないことを認めることは、神がどのような中にも働いてくださることを信じることでもあります。パウロは、「弱く、恐れおののいて」(3)状態を弟子たちにそのまま見せました。パウロの人間力や優秀さによって、「神の証しを宣べ伝えること」はするべきではないと知っていたからです。

2.  神の知恵を語る。2・7

神の知恵は、この世の愚かな者を用いるということです(1・27)。「この世の愚かな者を選び(弱い者を選ばれる(1・27)。「取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。」(28)。どうして、神はそのようなことをされるのでしょうか。それは、自分の功績とする者や自分の力の結果だと自慢する者を用いたら、救いに繋がらないからです。救いは、人間の能力や性格によるものではありません。神にすがらなければならないのです。

 皆さんは、私を優秀な人間だと思っているかもしれません。私は、この奥義を知ってから、自分の判断を優先せず、自分の語る言葉や行うことが実現しないことが気にならなくなりました。ただ、神の業がなされるために、なしうる最善のこと、最大のことを主に献げる毎日をしたいと願っています。

3.  先例に捉われないで、神の御霊の啓示を待つ。10

多くの人の祈りは、自分の願いが強すぎます。神に聞くのではなく、神に訴え願ってばかりいます。期待が過ぎ、自分の成功や成果を求めすぎるので、御霊の語り掛けを聞くこと、従うことができないのです。

4.  人には愚かなこと、損なことを覚悟したら、御霊に教えられます。14

筋道が通っておらず、馬鹿なことでも気にせず、神の語り掛けに従う必要があります。人がやらない損なことでも、神にあって正しいことだと悟ったら、やってみたら良いのです。だんだん、主の道が見えてきます。

 私の人生は、人の目には愚かであって、諫められることも多くありました。長年の研究生活を捨てて献身すること、病気の妻との結婚、断食を続けた神学校生活、千葉自主開拓、5人の子の出産と育児、長期の借家住まい、会堂取得の経緯、MYビル取得の経緯、多額の献金、・過労による体調不良・・・考えたら、馬鹿な事、愚かなことばかりをやってきましたが、それは主にある熱心でやったことです。神のみ言葉に従ってやったことです。打算でしたことではありませんでした。神の前に恥じることなく、出られることを願ったのです。

 「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。」(Tヨハネ2・28)。

 神は私に多くのものを委ねてくださいました。いつでも、主にお返しし、破産や破綻がある覚悟をしています。皆さん、人の目に恥じることをし、恥じる状態であることを嫌がってはなりません。結婚と献身の時、これまで私を賞賛し、私を信頼してくださっていた方々の信用と評価は全くなくなりました。子供を次々に生んだ時も、愚かと笑われました。この会堂の競売の時は、無理だと言われました。ビルの時も同様です。多くの献金をなし、貯えが全くない生活が20年以上も続いて健康を害した時は、正常な判断を疑われました。

 しかし、世の中の評価がないからこそ、神に切実に祈ったのです。神に愚かな程に依存しました。そして、神は私を捨て置かなかったのです。これからの人生もまた、神に委ねるばかりです。なにか、大きなことが待っている、備えられているような気もします。大きな失敗も覚悟しなければなりません。

 ダビデは、主の前に喜び踊った時、妻ミカルに蔑まれました。しかし、「私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」(Uサムエル6・22)と語りました。「恥はわがもの、栄光は主のもの」とはよく信仰者が口にする言葉です。


11月26日 聞き従うことの祝福。   創世記26516

創世記26:5 これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」
26:6
イサクがゲラルに住んでいるとき、
26:7
その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、「あれは私の妻です」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。
26:8
イサクがそこに滞在して、かなりたったある日、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見おろしていると、なんと、イサクがその妻のリベカを愛撫しているのが見えた。
26:9
それでアビメレクはイサクを呼び寄せて言った。「確かに、あの女はあなたの妻だ。なぜあなたは『あれは私の妹です』と言ったのだ。」それでイサクは、「彼女のことで殺されはしないかと思ったからです」と答えた。
26:10
アビメレクは言った。「何ということをしてくれたのだ。もう少しで、民のひとりがあなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪を負わせるところだった。」
26:11
そこでアビメレクはすべての民に命じて言った。「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」
26:12
イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。【主】が彼を祝福してくださったのである。
26:13
こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。
26:14
彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。
26:15
それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。
26:16
そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」

イサクとその子孫がどこに行っても祝福されるのは、「アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」とあります。それは、アブラハムが、自分の「ひとり子さえ惜しまないで」((創世記22・12神に献げる覚悟と従順を示したからです。これは、神が「命令」したことへの従順です。神がするなと「戒め」たこと、神が定めた「掟」、神が教えた社会生活の教えなどがありますが、「命令」というのは、最もしっかりと実行しなければならない直接の指示です。年老いてから生まれた一人子を献げろという神からの直接的で明確な命令は、アブラハムにとって最も厳しいものでした。歴史上最も厳しい命令でもアブラハムは、すぐに従いました。へブル書では、これを「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。」(11・19)と説明しています。

 私にとって驚くべきことは、サラの従順です。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。」(20・11)というアブラハムの恐れのゆえに、サラはゲラルの王アビメレクに妻として召し入れさせたのです。アブラハムはサラに頼みます。「あなたの愛を私のために尽くしておくれ。」として妻の身体を売り渡したのです。結局は、神の介入によってアビメレクに夢の中で脅しがあったので、銀千枚と共にサラは返されました。この後、イサクを生むのでサラの身体は、非常に若返っていたことが予想されます。

男尊女卑の古代のこととは言え、信仰の父アブラハムの妻への認識はそのようなものだったのでしょうか。皆さんも驚かれることとは思いますが、荒々しい殺戮の時代にはこのような無慈悲なことがあったのです。それにしても、夫の為に自分の身を献げるサラこそ、アブラハムよりも尊ばれるべきです。このサラも、自分の女奴隷が夫の子を身籠ったのでサラを「見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をお裁きになりますように。」(16・5)と夫に意見をしていますから、誇り高き女性だったことがわかります。また、イシュマエルがイサクをからかっているのを見て、「このはしためを、その子と一緒に追い出してください。私の子イサクと一緒に跡取りになるべきではありません。」(21・10)とも言っているので、母としても非常に強い女性であったことがわかります。しかし、夫の弱さには優しいのです。そして、家族の為には、自分の命や人生を犠牲にすることさえ覚悟するのです。

イサクがヤコブを得たのは60歳の時で、その後にアブラハムとおなじような飢饉があり、イサクとリベカはゲラルに避難しました。ここでイサクは、父とまったく同じように、リベカを妹と偽ります。しかし、夫婦であることがアビメレク王にばれるのですが、アビメレクは王ですから、自分の国が滅びそうになった神からの脅しをしっかりと伝え聞いています。アブラハムのほうは、自分の恥ですから、息子には伝えているはずがありません。アビメレクは、「なんということをしてくれたのだ。」とアブラハムの息子イサクに怒ります。

イサクという人は、井戸争いでも決して喧嘩をせずに他の井戸を掘り出し、「こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。」(26・13)。そして、後にアビメレクが将軍ピコルと共にきて、「私たちは、主があなたと共におられることを、はっきりと見たのです。・・・あなたと契約を結びたいのです。・・・あなたは、今、主に祝福されています。」(26・28-30)。

 この後の双子の息子、エサウとヤコブの争いにおいて、ヤコブに加担し、「我が子よ。あなたの呪いは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」(27・13)と命じたように、リベカが夫イサクも息子たちも差配していたようです。

 これらのことを知って皆さんは、どのように考えるでしょうか。家族の祝福は、妻であり母である女性の信仰と従順に掛かっているのです。妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5・22)と、「夫たちよ。自分の妻を愛しなさい。」(5・25)よりも先に語られているのは、妻が夫に従わないと、夫は箸にも棒にも掛からないからなのかもしれません。

 男は、意地や理屈に固執するところがあり、自己主張を変えず、正しさよりもメンツや組織を守ろうとするので、神に従うということでは、あまり感心できない人が多いようです。人との交流ができない人は、神との交流も不得意なものとなるのですが、そういう人が従順というと、論理は捨てて黙って従うというようなものになりがちです。

 信仰の従順というのは、神という人格のある方と触れて、自分にとっては都合が悪く納得がいかないことでも、神の掟と教えを守って生きることです。自分の歩みについて不平不満を言わないで、全てに感謝をするということが、信仰の従順には必須なことです。

 女性たちには、男性を落としめないで誉めて従って欲しいものです。男性が苦手なものは、女性たちの苦情や真っ直ぐな批判です。そういうことを聞くと、女性を守ろうとする気概がなくなります。同じような批判が自分に向けられる不幸を考えると、女性には関わりたくなくなります。

 逆に、女性たちに褒められ、信頼されると男性は勇気を持ち、命がけで女性を守ろうとし、幸せにしようとします。どうも、アブラハムも、イサクも、妻たちの守りによって信仰の人に成長したような気がします。私もまた、そのような一人であることは間違いありません。


12月10日 神は私達と共におられる。  ヨハネ書141421

ヨハネ14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
14:15
もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
14:16
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
14:18
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
14:19
いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
14:20
その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
14:21
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」

マタ1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

カトリックの国々に行って気が付くことは、聖人や聖母が崇敬されていることです。調べてみると、マリヤさんに対しても崇拝という用語は禁じられているとのことですが、実際には、父なる神は遠い存在であり、御子イエスも神なので近づき難く、マリヤや聖人に身近なことをお願いするという意識が強いようです。教会には、聖書の物語を絵にしてあり、聖書を読めない人々への教えとして用いられたようです。聖ピエトロ大聖堂を初め、ローマには多くの教会があり、巡礼による信仰強化が図られたことがわかります。

カトリックの指導者達と数時間も食事も共にしながら会話して、その信仰の意味と深さもわかりました。ただ、聖人や聖母、そして教皇などの足跡と信仰が尊ばれるのに反して、イエス・キリストが遠い存在として認識されていることが、強く印象となりました。でも、保育園の子供たちにも見せた教会での子供たちのクリスマス劇が非常に明るく楽しいものでした。信仰生活が、カトリックとして社会に定着している様子は、うれしい思いでした。

 今日は、「インマヌエル」(主が共におられる。)ということを説明いたします。私は、日本の信者には、自己卑下と悔い改めが多いことが困っています。私の説教と聖書の教え方、牧会が悪いのでしょうか。魂が救われたのに、自分の未熟さと罪深さが気になり、言い訳が多く、恥を恐れているのです。

 実は、逆なのです。救いの喜びや神が共にいる素晴らしさを体験したら、罪を犯すことも少なくなり、聖書的な生き方ができるのですが、暗い思いや罪責感を持って生きたら、どうしても否定的な生活をしてしまうものです「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」つまり、信仰者にとって大事なことは、神を愛することなのです。でも、「神を愛せない。」という信仰者は多いものです。神を怖がっているのです。それは、日本人に心の底に植え付けられた鬼神信仰あるいは「罰を与える神」の考え方からかもしれません。「立派な信仰者でなければいけない。」と鞭打つ指導者は多いものです。そして、悔い改め、自らの信仰を恥じるクリスチャンは多いのですが、実は、それは信仰でもなく、「信仰者らしい生活」を営んでいるだけなのです。

 ここに書かれていることは、「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」という驚くべき言葉です。「立派な信仰者だったら、その祈りを聞く。」というものではありません。注意するべきは、「神に祈っても適えられなかったら、御心ではなかったのだ。」という諦めの良さ、神に任せる信頼もまた大事なことだということです。自分の努力や行いの結果としてのものではなく、神に求める結果としての幸せや祝福を信じるということなのです。それを信仰生活というのです。「律法の行いによる人々はすべて、呪いのもとにあるからです。」(ガラテヤ3・10)。「信仰による人々が、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのです。」(ガラテヤ3・9)。「義人は信仰によって生きる。」(3・11)のです。

 さらに、素晴らしい約束が与えられています。「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」つまり、インマヌエルの実現なのです。しかし、クリスチャンでない人々、魂の救われていない人々には、この「真理の御霊」を受け入れることができないのです。「しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」。皆さんは知っていますか。或は、その働きを体験していますか。

 「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」この言葉を、考え方、悟り、能力、などで行おうとしてはなりません。聖霊に満たされることが必要なのです。そして、能力に固執し、自分の力や努力に依存する人は、聖霊に満たされることが難しいのです。しかし、聖霊に満たされるならば、簡単に聖霊の力で、それらはすべて与えられるのです。これが信仰の極意なのです。

 自分の能力を高めよう、自分の思い通りに生きようとする人は、それが信仰と結びついていても、聖霊に満たされないので、ストレスが高まり、批判的、攻撃的になります。聖霊に満たされたうえで、なすべきことをし、人を助け、愛していれば、道が開かれ、祝福が訪れるのです。

 そんな暇はない、そんな神頼みの生活はできない、という人は、「呪いのもとにある。」(ガラテヤ3・10)のです。私は、そういう自分の力に執着する人々の挫折を多く見てきました。神に寄り頼む人は幸いです。別に思い通りに生きられなくても、うまくいかなくても、試練があっても、困難があっても、神の御心として委ねることができるからです。


12月17日 神は人となられた。  ヨハネ福音書1916

ヨハネ1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15
ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

神の子は、永遠の昔からおられ、「万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1・16)。その御子が、人の子となって生まれました。

 人の子となるということは、神の全能性、全知性、その他の属性を人としての肉体に閉じ込めたということです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2・6-7)。神であるという意識まで、肉体に閉じ込め、力なき幼子としてお生まれになったのです。事故が起これば、イエス様は人間としては死なれるのでした。神である在り方を捨てるということは、全く人間と同じもの、まさしく人として生まれ、育つということなのです。

 ですから、イエス様は、人間と同じように飢え、渇き、疲れ、苦しんだのです。イエス様の為された奇跡は、神のしてのものではなく、全き人として神を信じてなされたことなのです。そして、イエス様の教えは、神の全知性からのものではなく、罪なき全き人間としての、聖書を読み、神に祈ることから得たものなのです。

 私たちは、自分をどのように捉えているでしょうか。

 神を信じない人々と付き合い、その罪性や世的な行動や思考を当然なものと考えるならば、その通りの人となるのです。

 聖書を読まず、祈りもしないならば、罪びとの生活や考え方を変えることはできず、罪びととして成長していくのです。

 そのような人が、教会に来ていることをもってクリスチャンとして自覚したとしても、生まれながらの「肉に属する人」(Tコリント3・1)であり、願うことが自分の利益や欲望のものであるならば、神に適えられることはありません。残念ながら虚しい人生を歩むだけなのです。

 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(へブル4・15)とあるように、人の子となったイエス様こそが、私たちの弱さ、罪深さを知っており、私たちを責めることなく、助けてくださるのです。「あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4・16

 ところが、自らの罪性や弱さに執着し、言い訳を言って変わろうとしない者に対しては、御子もどうしようもないのです。つまり、信仰のない者に対して、御子は何も成しえないのです。

 聖書を読み、神に祈り、神の似姿になりたいと願わなければ、単なる自己都合の要求を繰り返しているだけでは、神でもどうしようもないのです。

 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(1・12)とあるように、この人となった神の子と同じように、私たちもまた、人でありながら、神の子とされるのです。私たちは、それを熱心に望む人生を生きなければならないのです。御霊に従って、変えられていってください。


 12月24日 真理を行う者は光の方に来る。  ヨハネ福音書31621

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

 3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

 3:21 しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

 

クリスマスのイルミネーションが真っ盛りです。多くの人が光を求めて、集まってきます。確かに、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1・5)の通りですが、この聖書の意味は、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(1・9)のイエス様のことです。そして、神を信じない人々、世界のことを闇というのです。ですから、闇夜に輝くイルミネーションは、イエス様を期待する人間の心の現れなのです。

 光とは、なんでしょうか。「キリストは、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える」(使徒26・23)とあるように、死に対する勝利です。「罪が死によって支配した」(ローマ5・21)ので、人は死という限界があるから、罪を犯し自己中心になるのです。しかし、もし罪びとが死ぬことがなかったら、それこそ悲惨です。死という現実があるから、人は悔い改め、神を求める、つまり光を求めるのです。

 「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」とあるように、自分は、罪許されることがないと信じ、ただ罰を恐れて逃げる人々がいます。それは、神の愛を誤解しているのです。「人はその犯すどんな罪も許していただけます。」(マルコ3・28)とイエス様が言われています。「御子を信じる者は裁かれない。」(3・18)ということは、そういうことです。

 ところが、殆どの人は自分の罪に苦しむこともなく、死を考えないようにして過ごし、「光の方に来ない」のです。自分の犯した罪も時効になるとかんがえているのでしょうか。日本でも、死刑にあたる罪には時効がなくなりました。死という現実は、死刑が先にあると同じようなものです。考えないで済むような簡単なことではありません。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6・23

 神の下さる賜物とはプレゼントです。クリスマス・プレゼントを贈りあうことがありますが、神からのプレゼントは、イエス・キリストを救い主として信じるだけで与えられる永遠のいのちです。

 ところが、ただでもらえると言っても、問題がある場合があるのです。

@  自分を罪びとであると認めていない。
罪の正当性や言い訳をする。自己弁護をする。みんながやっているからいいじゃないかと思う。

A  自分には罪が許される資格があると思っている。

自分に救われる力、能力、実績、善行、資格、地位等があると思う人は、それらで神の国に行こうとする。それは無理。

要するに、これらの人は、神の国に行くこと、神の子となることを真剣には追い求めていないのです。この世で成功者になることや、この世で幸せになることを考えており、次の世のことは次で考え、対処しようとしているのです。

 ところが、人生は二度はないのです。この生きている時が私たちの真価が問われる時なのです。だからこそ、神の御子が人間として生まれ、窮屈な人生を送りながら、福音を伝え、その身で私たちの罪を背負われたのです。

 罪を隠している人はいつかは裁きに合います。罪を悔い改め、正しい人生を生きたいと願う人だけが、神のところにきます。神には不合理はないのです。

 それでも神は人を愛しています。罪の中で滅ぶことを願わず、救おうとされているのです。