10月1日 自らに滅びを招かないように。  Uペテロ31018

Uペテロ3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11
このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。 3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
3:14
そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
3:15
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。
3:16
その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
3:17
愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。
3:18
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。

政界においては、権力・覇権を握る為に凄まじい闘争が繰り広げられています。国が自分たちの平和や人権に対して生殺与奪の力を持っていることを日本人はあまり意識していないようです。永世中立国のスイスでは、2013年9月に徴兵制を廃止する案に対して73%の多数で否決されました。全ての家に核シェルターがあり、男子は20歳前後に4か月程の兵役訓練があり、その時に与えられた銃を自宅で保管するそうです。スイスのパンが不味いのは、戦時に備えて古い小麦から使うという法律があるからだそうです。そういう国家建設の意識を保持しながら生きるということと、政治に対して無頓着な日本の行く末は全く違うことを覚悟しなければなりません。北朝鮮がミサイル攻撃を日本に対して行うと脅している時に、国会を解散するという愚かさは、私たち国民が作り出したものなのです。

 「主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」(3・10)という警告をまともに捉える人は殆どおりません。魂の救いや病の癒し、そして信仰による祝福は信じ求めるのに、再臨とその直前の大患難時代について備える人はいないのです。キリストの来臨の約束はどこにあるのか。」(3・4)、と不遜な人々はあざけります。「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」(3・6-7

 福音書におけるイエス様の言葉をまともに読むならば、終末予言は驚くほど多いのです。マタイ24章以降を読みなおしてください。預言というのは、二重性で真実性が確認されなければなりません。むろん、二回目の方が最終的、究極的なものです。イエス様の預言のごとく、イスラエルは滅びました。歴史は経過し、イスラエルは預言のごとく復興しましたが、それは終末預言の成就のためなのです。

 「そんな厳しいことを言うなら、教会なんか来ない。」とか、「信仰生活は面倒くさい。」などという人がいます。神に対する態度が根本的に間違っています。神が私たちを救おうとされているのであって、私たちが神を信じてやっているのではありません。実は、滅びる人の場合に、信仰と神を自己中心的に捉えて、そのように考えるのです。「これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」(11)。そして、牧師や真実な信者は熱心に伝道し、人々を救いに導こうとするのです。私自身は、神がおられると知った時から、神に従うことと困難を覚悟して生きてきました。それが信仰者の生き方だと理解しているからです。救いを受け、神の国の住民になるために、当たり前の犠牲です。それを惜しんだり、怠けたりしたら、受け入れられないのが、この世の常識でもあります。

 「会社は給料をもらうから従い、頑張るけれど、国には税金を払っているのだから、それだけの利益を供給されないと割にあわない。」などと損得で考える人は間違っています。国が国民を守るために、私たちは相互負担をしているのです。個人や民間では対応できない攻撃や災害のために、私たち自らが国家を形成しているのです。人口700万人のスイスの兵役可能人数は150万人で、数年毎に三週間の訓練を受け、その費用はスイスの民間企業が八割負担しており、海外にいても帰国して訓練を受けなければ、スイス国籍を剥奪されてしまうということです。

 自らが国家を形成しているという強い意識の中で、国政に関わらないから日本という国の政治は腐敗するのです。失礼ながら、指導者は絶対権力を持ち、部下は従うだけという社会規範だから、韓国の大統領は必ず堕落して犯罪人になるのです。もし、国が正常なものでなければ、私たちは、その上位の神の国に期待し、神に忠誠を誓うしかありません。自分勝手に生きている者に、国の保護や祝福は及ばないというのが原則です。

 経済的ひっ迫が、侵略や迫害の源です。経済投資をすればするほど、経済的にはひっ迫し、見返りを求める侵略を進めます。そして、今や世界中が経済侵略の戦いの中にあります。もはや落ち着いた平和な世界は実現不可能なものになっています。そして、不思議なことに、日本だけが未だ現実感なしに、平和を謳歌し、栄華を誇っています。バビロン帝国は一夜にして滅びました。日本ほど、侵略しやすい国はないでしょう。

 「このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。」(17)。すべてを知っておられ、すべてを裁かれる主の前で、ごまかしや言い逃れはできません。救い主とは、救いを判断される主権者です。この方の前に正しく出られるかどうかが、大事であると考えて生きなければなりません。言い訳をしていること自体が、自らの罪を立証しているのです。

 神の国に忠誠を尽くす者は、神が守ってくださるというのが、私の信念です。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらすべてのものはすべて与えられます。」(マタイ6・33


10月8日 岩の上に人生を築く。  マタイ72027

先週は、神の国の国民としての義務を果たさなければ、スイスの徴兵制と同じように国籍を剥奪されることがありうるということをお話ししました。そして、神の国に忠誠を尽くし、神の国の義を果たす人には、神がその必要な物を全て与えてくださるのも当然なことなのです。

 神の国の住民になるためには、そういう面でしっかりと訓練を受けなければなりません。肥料が十分でなく、剪定や世話をされないで育つ果樹からは美味しい良い実が得られないように、結果を生み出す指導を受けなければならないのです。それは厳しいことでしょうか。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(へブル12・11)とあるように、生まれつきの罪人にとっては嫌なものですが、訓練されると、楽になり、平安をもたらし、実りをもたらすのです。ところが、訓練されることが嫌いで、好き勝手に生きたがる人が多いのです。仕事でも学びでも、日常の暮らしでも、苦労が嫌で、努力することを怠る人が成果を生み出すことはないのです。そして、そのような人は、神を信じているといっても、『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(7・23)と言われることになるのです。言葉巧みに誤魔化したり、言い訳を言ったりする人がいますが、神の前では全く役に立ちません。神の前では、良い実を生み出しているかどうかが、その人の人生の証拠なのです。

良い実を生み出すために必要なことは、土壌を豊かにすることであり、よって立つ基盤を良いものにすることです。イギリスの土壌は明らかに痩せていました。寒さと降雨の多さもあり、岩も多いので畑や果樹栽培には適していません。こういう国が大英帝国として君臨したことは驚きです。土地がやせているから外に出て行ったのでしょうか。とにかく寒い地方の人々は、働き者が多いのです。そして寒い地方の土壌は痩せているのです。そのことが却って、人生というものの土壌を豊かにする必要に迫られることもあります。生まれながらの自分を変えようとしない生き方は愚か者の生き方です。神を求め、信じるということは、自分の生まれながらの生き方を否定したからなのです。この世の住民ではなく、神の国の住民として生きることを願うからこそ、魂の救いを求めたはずなのです。

 さて、「洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付ける」ということは、どういうことでしょうか。土台が風雨に流されないということです。人生の土台が崩れないということです。

 仕事がなくなる、破産する、不治の病に侵される、障害をもって十分に暮らせなくなる、子どもが問題を起こす、罪を着せられる、・・・そのようなとき皆さんはどうしますか。

 そういうことが起こらないように神に祈っている、というのは愚か者の祈り、偶像信仰の祈りです。イエス様が言われているのは、そのようなことが起こっても流されないということです。自分にとって都合の良いことを願い祈るのは、自己中心であって、罪の行いであるから神は聞いてくださいません。そういう祈りをする習慣は、現世利益を唱える新興宗教の教えであって、神が世界を統治し、神の国に信者を招くという唯一神教の教えではありません。そして、自分を正当化し、自分の願いを達成しようとする信仰こそ、嵐に流されるのです。

 たとえ死ぬことがあっても、神はあなたを御国に招き寄せてくださることを確信することがキリスト信仰の基本です。試練や艱難があっても、それは神の支配の中でのことですから、万事益となると信じることができるのです。そういう覚悟のもとに人生を生きるのです。恐れやおののきは、あなたの信仰が未だ、全農の神を信じ切っていないからであることを認めなければなりません。

 私が牧師になると言ってから、親兄弟、友人知人、恩師までが私を非難し、また確かにお金も仕事も当てもありませんでした。ただ、「主がお入り用なのです。」(マタイ21・3)と私に語り掛けた言葉だけが事実でした。成功の約束も、富の保証も、周囲の理解や助けも、何もなく、ただ、「主イエスが私を必要としている。」というだけで人生を変えたのです。

 私は、博士課程を目指し、最も優秀な院生でした。社会で成功者として生き抜く自信はありました。しかし、神が命じたら断ることはできないという、人生の基盤とする強い信仰がありました。むろん、私も罪びとですから、多くの罪を犯しています。しかし、人生の基盤はキリスト信仰以外の何物でもありません。これまで、神に隠れてしたことなど一度もありません。罪は正直に、私を見つめる神の前に悔い、自分でさえ罪を犯すのだからと、他人を責めない人間になろうと決心してきました。

 あなたが、神の声をきいていない、信仰に自信がない、などと思うなら、それは、あなたの信仰が不安定だからです。自分の都合に囚われた自己中心の信仰だからです。「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」(へブル2・1)。聖書の言葉、真理をしっかりと心に留めて、それに従って生きることに覚悟を決める必要があるのです。


10月15日 神殿である自らを建て上げる。  Tコリント3917

Tコリント3:9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
3:10
与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
3:11
というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
3:12
もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13
各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14
もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15
もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
3:16
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
3:17
もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

先週は、信仰の土台の上に人生を築き上げることをお話ししました。もし、私たちが富という土台の上に人生を築き上げていたら、経済的な苦境に陥ったら、その人生は崩れてしまいます。健康を土台とすることは、死や病によって脆くも崩れます。名誉や地位もまた同様です。

 ところが、信仰らしきものを土台とすることも多いことも現実です。その基礎が岩盤の上に建てられているかどうかは、洪水や地震などに例えられる試練によって明らかになります。見せかけとしての建物です。

 12節にある素材の中で、木・草・わらのような物で建てられた家は、素材が軽いので土台がしっかりとしていなくても、見せかけとしては建つのです。最近造られているマンションは耐火性・防火性が優れているので、延焼というものがなくなってきました。しかし、木造のアパートや家などは、一軒が焼けると延焼して近くの家も焼け落ちてしまいます。「その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」とあるように、頑丈に作られている建物は、火事が起きても全体が焼けることはありません。見せかけの建物か、価値ある素材で造られた建物かどうかは、火事や災害の時にわかるのです。

 ここで「その日は火と共に現れ」とあり、「その日」とは、キリストが再臨されてすべての人を裁く時のことです。スイスとイスラエルが核シェルターを全国民の為に備えていることを話しましたが、原爆を経験した日本が、核に対して何の備えもしてこなかったことは、安易な国家建設をしてきた証拠です。日本という国は、北朝鮮が打つ一発の核弾頭で滅びてしまうのです。もはや、国家建設として建て直すには遅すぎるのです。戦後72年を費やして出来上がった国は、安易な素材で出来上がり、内装に金を掛けて見せかけを良くしたボロ家だったのです。

「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。」(ルカ14・28)とあるように、塔のような高い建物を建てる時には頑丈で深い基礎を、お金を掛けて造らなければなりません。自分の人生を、天に届き、神の国に行くためのものと考えるならば、どれだけの犠牲が必要なことでしょうか。

 神戸製鋼という資本金2500億円の大会社が、データを誤魔化し不適切な製品を販売し、それがわかっても隠ぺいしていたことが判明しました。会社存亡の危機となってしまいました。私たちの人生も、神と人の前に誤魔化して、それを正当化し、裁きの時に、「しまった。」と悔いても、「もう遅い。」のです。ばれるまで誤魔化し続けることが、既に「時遅し!」なのです。そして、人間は経済的に苦境に陥った時に、誤魔化しをすることが多いのですが、それがばれると、もはややり直しは効かないのです。

安価な食事が多くなっていますが、素材が危ないのが多いようです。私には、砂糖で誤魔化している味に気が付かないで、「美味しい!」と言っている人々の味覚のボケと健康管理の実態が心配です。私は、子供たちにしっかりとした味覚をつけさせることが、親の大事な使命だと考えてきました。不味くて誤魔化しの味がわからないようでは、幸せにも健康にもなれません。基本的に、手間暇を掛けない料理がおいしいはずはないのです。同様に、手間暇を掛けず、犠牲を払わない人生や信仰に本物などありません。

 「金、銀、宝石」で家を建てるとは、どういうことでしょう。それは、地上で楽に手に入るものではないということです。また、非常に高価なものであります。「あなたがたは神の神殿」なのですから、私たちの人生は、価値のある生き方をしなければならないのです。皆さんは、説教を聞き、礼拝をするために、教会に集まってきました。素晴らしいことです。ですから、毎日を惜しんで、神の為、人の為に価値あるものを献げる生き方をしてほしいのです。

 ブルーベリーを21キロも取ってジャムにし、柿も1000個以上とって差し上げました。他の物も同様です。私たちは、毎日を忙しく仕事をし、妻は休日診療や夜間診療に加え、講演会もし、そして料理も、子どもの世話もし、そして教会員の為に祈りと配慮をします。私も、おそらく普通の人の数倍は働くでしょう。そして、毎月何冊もの本を読んでいます。それは、価値ある人生を神に捧げたいからです。

 「主は、闇の中の隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する賞賛が届くのです。」(Tコリント4・5)。他人のことを非難したり、攻撃しても、その人の正しさではなく、その人が愚かで神の裁きを免れ得ないことを証明するだけです。人を非難した法則が、自分を捕えるからです。大事なことは、なるべく多く神と人とに自らを献げることです。本や雑誌や新聞やテレビで情報を得ることに時間を費やすことは、人を助けるために用いることがなければ、サタンに用いられる知識欲として、あなたを滅ぼしていきます。

 あなたの人生も、どのように、どのようなもので、築き上げられたかは、主の裁きの日に、明らかになります。人間は、自分がどのように生きているかは、本当は知っているのに、言い訳を言いながら、裁きの主を軽視しているのです。

 あなたの祈りは聞かれたのでしょうか。あなたの願いは、届いたのでしょうか。あなたが神の宮であるならば、それは当然なこととなるのです。怠惰な欲に惑わされてはいけません。祝福を祈っています。


10月22日 土の器を作るのには時間が掛かる。  ローマ書92024

ロマ 9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。
9:21
陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
9:22
ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
9:23
それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
9:24
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

Uコリント4:6 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
4:7
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

陶磁器は、土の種類や焼き方温度の違いによって様々な違いがあります。土器は、古墳時代の埴輪や素焼き鉢などのように普通の粘土によって高くない温度で造られたものです。焼く温度によって水を通したり、通さなくなったりします。瀬戸物は水を通さないように上薬を塗って焼きます。磁器は、石英や長石などが含んだ良質な粘土を高温で焼いたもので、伊万里焼や久谷焼があります。

 採掘された土は、洗われてゴミや動植物などの不純物を取り除き、細かく砕かれることもあります。そして、一年くらい寝かしておかれます。土の成分としては、鉄が含まれているものは焼くと赤くなり、ケイ素からなる石英があるとガラス質になり、金属などが含まれている長石が含まれていると白くガラス的にもなります。粘土の粒子が大きいと収縮が少ないけれどヒビも入り易く、粒子が細かいと水分も多く含まれるので収縮が大きくなります。どちらにしても、粘土は良くこね、空気も含まないようにし、粘りを出さなければなりません。成形したら乾燥させ、仕上げてから2週間くらい乾燥させます。そして、素焼きをし、絵付けをし、釉薬を塗って焼きますが、3日間くらい焼く陶器もあります。

 先週は、不純物である罪が私たちの中にあることを認め、神に取り除いていただくことが必要であることをお話ししました。自ら洗い清めようとするだけでは、ゴミや動植物の残骸は取り除けないようです。一年寝かしておくと、カビが生えたり、芽が出たり、菌が繁殖したりするのが分かるものです。私にとって開拓伝道をして10年間以上の試練は、自らから不純物を取り除くのに必要な期間だったようです。

 忍耐のできない人が神にも人にも用いられるということはありません。成果・成功を急ぐ人は必ず失敗をし、挫折を経験します。「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し」(ローマ5・3,4)とありますが、忍耐のできない人が多いようです。電子レンジの1分も待てない人が多くおります。それでは練られることもありません。忍耐というのは、自分の働きや努力だけではなく、神の助けを待つということです。時間を掛けるということが、良いものを生み出すためには必要なのです。

 美味しいうどんやパンを作るためには、良い素材を良く捏ねて寝かすこと、そして塩が必要です。テンプラにはグルテンの少ない薄力粉が良いのですが、グルテンが多い強力粉に塩を入れ良く捏ねて寝かせると粘りと弾性がある美味しいものができるのです。果汁を入れるとグルテンは壊れるそうです。砂糖やバターは発酵させ柔らかくするのには必要ですが、グルテン形成には邪魔になるそうです。要するに、何でも良いものを入れれば、美味しくなるというわけではないのです。私たちが神の器になるには、試練によって良く捏ねられ、時間を掛けて待たせることが必要なのです。塩は神との契約の印す(レビ2・13)。

 形が造られるのですが、これは陶器師である神の御心です。「尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器」でも、神に従うしかありません。永六輔氏が「職業には貴賤はないと思うけど、生き方には貴賤がありますね。」と書きましたが、差別や優劣を競う人は、神の前で卑しい生き方であることを覚えなければなりません。人を非難攻撃、見下げる人は、神の前に出られないことを知っておく必要があります。待つことのできない人は、そのような人です。

 成果を急ぐ人は、神の恵みも、神の家族との交流も、自らの品性の向上も得ることができません。そして、品質の悪い土は、尊いことに用いる器を作るのには適さないのです。

 私自身のことを告白すれば、自らの栄達を捨てと決意した献身から38年たち、やっとそれが受け入れられるようになりました。思うようにならない人生に苦しみ、葛藤し、神に叫んでいた愚かさを認めなければなりません。器に成形するには未熟で、不純物を取り除き熟成させるのに多くの時間が掛かったわけです。

 最近、人に仕えることが苦にならなくなってきました。人や組織に認められなくて攻撃されても、なおかつ神に仕える道を模索して働き続けることができるようになりました。クリスチャンになって42年、いろいろなことをし、また達成してきましたが、それらは私という素材を作り出すためのものに過ぎなかったような気がします。これからが、神にあって、器として形成される時期かもしれません。今までは、自分という器造りに拘泥しすぎました。

 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」。器に価値があるのではなく、器がお入れする神の栄光こそに価値があるのです。自らが何をした、などと誇ること、求めることはおこがましいことなのです。

 「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Tコリント1・31


11月5日 老いを麗しく生きる。  マルコ1052

ヨハネ 21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
21:19
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
21:20
ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。
21:21
ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
21:22
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23
そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのである。

生きざま、死にざま、と言いますが、如何に生きるか、特に老後を生きるかは、人にとって大事なことです。モーセの生きざま、死にざまは見事です。「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」(申命記34・7)、この理想に近い生涯を送られたのは、日野原重明医師でしょう。牧師の子として1911年に生まれ、急性腎臓炎や結核などに苦しみながらも、聖路加病院の院長として活躍し、105歳で主の元に召されました。

 長寿の方の特徴は性格が良く、健康管理にしっかりとした意思を持っていること、そして信仰者であるということが言えるのではないでしょうか。それは、一言でいえば「気力が充実」ということでしょう。やる気がない、生き甲斐がない、やりたいことをやり食べたい物を食べる、などということでは、気力の充実は難しいでしょう。

 クリスチャンは、神の国を目指した人生を送ります。そこで、問われるのが、今日の聖句のような状況です。「年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。手を伸ばして歩くのは、目があまり見えない状態です。他の人に帯をされるということは、身体が不自由で世話にならざるを得ない状態、或は縛られている状態かもしれません。自分の行きたくない所に連れて行かれるとは、決して幸せな状態ではないでしょう。これがペテロの老後でした。

 人は皆、自分の思い通りに生きたいものです。他の人に左右されるのは、それが妻でも、子どもでも、嫌なものです。ましてや、自分を馬鹿にする介護者などでしたら、もう死にたくなってしまうかもしれません。そうならないために、健康に気を使い、お金を貯めて、不自由ない老後の為に備える人が多いのです。ペテロは、そんな嫌な老後をイエス様に預言されて、それではヨハネはどうですか、どんな老後になるのですかと尋ねます。

 イエス様は、「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と厳しいお言葉を宣言されます。櫻井先生が先週のセミナーでキリスト教の教師として召命を受けた聖句が語られました。「通れ、通れ、城門を。この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を揚げよ。」(イザヤ62・10)。門とは、「関門。患難、難儀、困難、苦痛、苦難、問題」であり、それが続くのが、「門々」であり、その為に道を整備するのが自分の使命であると神から示されたことを自覚されて献身をされたそうです。石を取り除くと訳されているけれど、障害物・危機・危険を除去するのではなく、回避して新しい道を作ると悟ったとのことでした。更に、旗として、規範・目標を掲示して生きるという自分の使命を全うしようとされているのです。先生は、30歳一区切りを考え、60歳から新しい歩みが始まっていると語られます。90歳までが働き盛りであるそうです。櫻井先生のように考えると、老後という言葉でなく、老中という言葉が適切になってきます。「老後」という言葉は、年金を使って生活し始める時のことで、65歳、60歳、70歳とする捉え方が多いようです。

 人間とは、何の為に存在するかを考えてみましょう。もし、社会の生産性を上げるために意義があるのであれば、働けなくなったら、それが老後です。子孫を残すということであったら、子育てが終わった時が老後です。生き生きと生きられなくなったら、それが老後という人もいることでしょう。

 神は、何のために人を造られ、世界を任せておられるのでしょうか。人は、動物ではなく、人です。もし、動物であれば、虚しく生き、子孫に命を繋げるだけの存在です。私たちは、そのような進化論の産物の考え方に騙されてはいけません。神は、人を神の在り方に似せて造られたのです(創世記1・26-28)。そして、神と結びつき、神にあって生きる時、人は最も輝くのです。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」詩編19・1主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。」詩編19・

 自分の心の満足の為に生きても、それは虚しいのです。人間は、神に従って生きる時、「魂が生き返ら」され、「心喜ばせ」るのです。ペテロは、ヨハネ21章の言葉を語られた時は、まだ信仰生活の初期で、30歳代でした。紀元67年頃まで生きて、ペテロの手紙第二を書いたとされていますから、この後、40年近く生きたわけです。迫害下の中で、困難な伝道を続け、最後は逆さ十字架を志願したのですから、困難な人生でしたが、彼の人生は、満足の主に従ったものだったでしょう。

 苦労はないけれど虚しく生きるか。苦労はあっても、神に従い、神に捧げて生きる喜びを体験して生きるか。麗しい老いを生きていきたいものです。

 私のほうは、さっそく中国での講演依頼や、新しい事業の話が飛び込んできました。やりたいことは主にあって、まだまだ十分あります。