7月2日 父や夫の為に祈る。   創世記49285012

創世記49:28 これらすべてはイスラエルの部族で、十二であった。これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。
49:29
彼はまた彼らに命じて言った。「私は私の民に加えられようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。
49:30
そのほら穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買い取ったものだ。
49:31
そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。
49:32
その畑地とその中にあるほら穴は、ヘテ人たちから買ったものである。」
49:33
ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。
50:1
ヨセフは父の顔に取りすがって泣き、父に口づけした。
50:12
こうしてヤコブの子らは、命じられたとおりに父のために行なった。

ヤコブの人生は、大変な波乱の人生でした。強健な兄に命を狙われて叔父の所に逃げ、そこでも騙され続けて2人の妻を娶るようになり、その妻同士の争いで妾も2人持ち、そして12人の男の子は荒々しく事件を起こし、そして娘は凌辱されました。災害にも苦労し、一家はエジプトに避難することになるのですが、その地で天に召されます。その時のことが今日の聖句です。彼は、そのような艱難辛苦の中で決して諦めずに神に従い通し、試練に負けなかったので、「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32・28)と神によって名づけられます。その名には、「神の王子」という意味もあるそうです。

 「男は敷居を跨げば7人の敵あり。」と言われますが、戦う覚悟がない男性は必ず敗者になって挫折することになります。勝つか負けるかということは運や状況にもより、個人の力にもよりますが、戦い続けるということが大事です。神は、男性に対して、「一生苦しんで食を得なければならない。」(創世記3・17)とありますから、それを覚悟することが信仰生活なのです。ところで、女性には、「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」(3・16)とも宣言されています。

 理解しなければならない奥義とは、罪人は「苦しんで食を得」、「夫が(或いは妻が)支配する」という構図なのです。私は、妻の出産を見て本当に恐ろしくなりました。そして、もし私たち夫婦が罪人としての姿、歩みから解放されたら、妻の出産も楽になり、私の仕事も苦しまなくて良いのではないかと信じたのです。その奥義を教えたので、長男の名前は「主の人」と名付け、夫婦で愛し合うことを意識的に努力して安産で生まれた娘を「主の愛」と名付けたのです。

 熱心なクリスチャン夫婦でも、仲が悪く、いつもいがみ合っている場合がよくあります。神を信じるということは、神の命令に従うことによって証明されうのですが、個人的に神を信じ信仰生活に熱心であることによって自分の信仰を確認しているのでしょうか。結婚という木の実が苦いのに、信仰者としての質の良さを主張することはできません。

 伝道も難しいですが、自分以外の人に関わるということは難しく、夫婦でも相手に関わり、どうにかして仲良くなるということは大変難しいのです。しかし、それを抜きにして、自分は忠実な信仰者だと証明することはできないのです。信仰の歩みとは夫婦が愛し合い、親子が愛し合うということによって良い実として証明されるのです。偶然や運ではありません。

 私の妻は、結婚時に大変な鬱で、料理も家事も全くできない人でした。私の人生の成果は、妻に掛かっているのですから、神学校よりも妻を大事にしたので、神学校は完全に落第生となりました。そして家事や育児を優先し、妻とカウンセリングを毎日続けて、その原因が機能性低血糖症であることを見つけ出したのです。妻が料理が下手なので、教えるために私が料理を勉強したのです。不味い食事では、人生の潤いも、夫婦仲も悪くなりますが、結局のところ、不味ければどちらかが補えばそれで良いのです。今は、妻がこれほどの名医であり、天才であることに驚いています。料理もうまくなり、手際も良くなりました。

伴侶と仲良くできない理由を上げる人がいますが、そんな罪深い正当化は、神の前に一蹴されます。人生、どんな人とも相容れないものはあるものですが、自らの罪がそれを前面におかせて自分を堕落させているのです。自分の伴侶を愛せず、その為の努力をしていない人は、その信仰者人生は、全く偽善と見なされることを覚悟しなければなりません。自分の親や子供に対しても同様です。批判否定する理由は、棚に上げて祝福を祈り、助けてあげれば、神が祝福してくださいます。信仰者の人生というものは、もうそれで十分です。

ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない。そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか。」とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ。ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(伝道者の書4・8-12

 独身の人が伴侶を求める時、他の人の為に自分を費やしている人を探したら良いです。自己主張の強さ、配慮の無さは、人生に失敗してさんざ悔い改めないと変わることがありません。人を愛すると、相手の為に自分を犠牲にすることを厭わなくなります。私は、妻となる女性が、私のために犠牲を払ってくれることに感動し、この人に自分の人生を献げることに決意したのです。最近の恋愛は、殆ど条件の確認と様子見で終始し、うまくいくはずがないかなと感じます。自分の人生を献げる決意をしたら、すべてうまくいきます。相手に求めるものではありません。

 結婚している夫婦には、伴侶への要求は全て捨て去ることを提案します。そして、自分の幸せを伴侶に掛けるべく、尽くしたらどうでしょうか。「そんなバカなことできません。」と思う人には、相手もそう思うでしょう。悲劇ですね。

 親子もまた、同じです。父たちは、存在としては妻子に自分の人生を注いでいるのですが、どうしてもそれらしくは生きていません。だから信用されません。妻たち、子ども達、そんな夫、父親に対して、祈り優しくして、愛情を素直に出せるように助けてあげたらどうでしょうか。幸せになるということが、人生最大の戦いのなのです。祝福を祈ります。


7月9日 歴史は神の手の下。 ダニエル23645

ダニエル2:36 これがその夢でした。私たちはその解き明かしを王さまの前に申し上げましょう。
2:37
王の王である王さま。天の神はあなたに国と権威と力と光栄とを賜い、
2:38
また人の子ら、野の獣、空の鳥がどこに住んでいても、これをことごとく治めるようにあなたの手に与えられました。あなたはあの金の頭です。
2:39
あなたの後に、あなたより劣るもう一つの国が起こります。次に青銅の第三の国が起こって、全土を治めるようになります。
2:40
第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。
2:41
あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。
2:42
その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
2:43
鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。
2:44
この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。
2:45
あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」

民族紛争、宗教紛争、国家間の対立、政治の腐敗に加えて、自然災害が多発しています。戸惑う方も多いことでしょう。今日は、そのような終末として預言された現象や事件などに対して、私たちが如何に対応するべきかをお話します。政治の腐敗や危険に対して反対運動に使命を感じる人もクリスチャンにはおり、JEAなども啓発していますが、どうなのでしょうか。

 紀元前605年、バビロニア帝国のネブカデネザル王は、エルサレムを包囲して南ユダ王国の人々をバビロニアに連れて行きました。その中で少年ダニエルは、優秀であったので王族の中から選ばれ、バビロニアの宮廷で官吏になるべく3年間教育されたのでした。他にもユダヤの少年3人がおりました。

 「ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。」(ダニエル1・8)。堕落した生活を過ごし、世に迎合しながら、世の腐敗や悪に異議を唱えても、神も人も相手にしません。ダニエルは、誠実で意志の強い、清い人間だったので、宦官の長もダニエルに好意を持ちました。そして、彼ら4人は誰よりも優秀だったので、「王に仕えることに」(1・19)なりました。

 祈祷会で、私たちは自らの全ての言動の結果を積み取らなければならず、自分が他人を批判・攻撃・犯した罪は、皆自分に振り掛かって来ることになることを知っていなければならないことを学びました。さらに、主イエスが、「食事時には食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべ」(マタイ24・45)でなければ、「厳しく罰して」(24・51)、泣いて歯ぎしりすることになると警告しています。

ある夜、ネブカデネザル王は驚くべき夢を見ました。そこで、「王は、呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人を呼び寄せて、王のためにその夢を解き明かすように命じた。」(2・2)。「もし、あなたがたがその夢とその解き明かしとを私に知らせることができなければ、あなたがたの手足を切り離させ、あなたがたの家を滅ぼしてごみの山とさせる。」(2・5)という恐ろしい命令を出し、答えられない「バビロンの知者をすべて滅ぼせと命じた。」(2・12)。

 この窮地に、「夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示されたので、ダニエルは天の神をほめたたえた。」(2・19)。そして、23節までの讃歌があります。私たち日本人は、程々の信仰者や努力家を見ています。しかし、心を見られる神の前に生き、隠しおおせない思いと努力を神の前に日々献げて生きるということをしていません。ダニエルには、神は特別な思い入れを持ったのです。大事なことは、試練が有ろうと、災害が有ろうと、世が堕落しようと、神の前に誠実に生きることなのです。

 ネブカデネザルの見た夢は、バビロニア帝国の後、次々に起こる国でした。この夢による歴史的な預言は、ダニエルの人生と信仰の深さに応じて具体的に示されていきます。自らが金の頭のようであると語られたネブカデネザルは、自分の国が永遠に続くようにと、頭だけでなく全身が金の像を造り、それを拝まない者は火の炉に投げ込めと命じました。

 ダニエルの同胞の3人もまた敬虔な信仰者でしたから、この像を拝まず、火に投げ込まれることになります。「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(3・17.18)。そして、火の炉の中でも彼らは守られたのでした。

 天候異変があり、災害があり、戦争があり、犯罪があっても、もし私たちがダニエルのように、この3人のように歩んでいるならば、神が守ってくださいます。しかし、私は、執り成しの祈りの中で、多くの人が不信仰と挫折を口にし、そして希望を失っていることを知らされています。人は、自分の不信仰の実を刈り取るのです。

 「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40・31)。

 新しく力を得、弛まず、疲れない人が、主を待ち望んでいる人なのです。「疲れた。諦めた。嫌になった。自分はダメだ。もういつ死んでもいい。」などという人は、真ではいけません。やり直さないと、神に受け入れてもらえないのです。頑張るのではなく、誠実に神に仕えて生きる日々を過ごし、地上が天国のようになるように節制と清めを全うするのです。




7月16日 イチジクの木を切ってしまった!  ルカ1369

 マタイ21:18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
21:19
道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
21:20
弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
21:21
イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
21:22
あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

ルカ13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7
そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8
番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9
もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

キッズキャンプの為に先週は3日間、草刈りをしましたが、5‐60センチも伸びた草を刈っている最中に、草刈り機で簡単にイチジクの木を切ってしまいました。あまりに簡単に切れたので、2年間掛けて美味しいイチジクが今年は取れると期待していたのがあっけなく潰れてしまいました。

 いのちは簡単になくなります。家内の父は糖尿病で入院していたのに抜け出してラーメンを食べに行き、動脈瘤が出来て死んでしまいました。あっけないもので、落胆するばかりでした。

 イチジクを切り倒した原因は、雑草の伸びるのを放っておいたからです。そして、草刈り機の操作を無造作にしたからです。スマホの操作をしながら運転して事故を起こした人が懲役刑を受けたのを思い出しました。罪を犯したり、事故を起こすのは簡単です。不注意な運転も実刑判決になる場合もあります。不注意で人を死なせてしまうこともしばしば起こります。子育ても注意が必要で、世界の子供たちの死亡率は非常に高いのです。

 自分自身を管理することは、もっと難しいように思われます。他の人に対する行動も注意深くしないと、その人の心を傷つけてしまうこともあります。自分の心も良く管理しないと、罪や欲望だけでなく、思い煩いや怠惰のために破滅することもあるのです。

 教会に問題が繰り返して起こり、解決もできず苦闘した時に、思い煩いが私の心を占めて来ました。そうすると批判や苛立ちが私の心に起こり、怒りが襲ってきました。そして、心は身体をも犯し始めて、不整脈や自律神経失調、そして鬱になってきました。神に叫び祈っても答えがなく、苦しみは増すばかりでした。そして心臓がおかしくなって動けなくなった時に、神に文句を言ってばかりいる不信仰な自分に気が付いたのでした。

 日々起こる諸問題や苛立ちを放置していたのです。雑草を片付けないで、伸ばしたままだったのです。問題の一つ一つを神に委ね、信仰によって処理していなかったのです。重要なことは、他人でも問題でもなく、自分の心がそれを信仰によって受け入れていなかったことでした。全ての不都合を、そのまま受入れ、問題を抱えながら神と共に歩むことにしました。「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16・24)の言葉が私の心を刺し、自分勝手に文句を言う罪深さに気が付いたのでした。

 良い実を実らすためには、自分自身が整っていなければなりません「良い木は良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」(マタイ7・17)という結果に対する責任は、自らにあるのです。日本のクリスチャンや教会があまり祝されない理由は、自己弁護にあると考えます。神は、「良い実を実らせろ。」と信者に要求するのに、「努力しているが、良い実は取れない。」と弁解しているのです。日本の農家は努力して本当に美味しい実を実らせています。世界中で日本ほど繊細かつ美味しい良い実を実らす農家はありません。

実は、人生は失敗と後悔の連続です。しかし、ある人は悔い改めて良い実を結ぼうとし、他の者は悪い実を結ぶことに慣れてしまうのです。千葉に来て最初に住んだ家の裏の荒れ地を耕した話をしました。実りを得ることに疲れ果てていました。涙を溢れさせながら耕したものでした。

 今年のトウモロコシの種は全く全滅でした。撒いた所も悪く、世話もしなかったからです。朝顔の種は、半分くらい芽を出しています。福音の種の発芽率は、接した人々の0.1%くらいかもしれません。芝の種を蒔いたら、一斉に芽を出して感動しました。あのイチジクは、本当に甘く美味しい実が実ったので楽しみにしていたのですが、またやり直しです。もう、草刈り機で切ってしまうような愚かなことはしないように注意します。

 人生は、努力の積み重ねです。牧師も34年してきました。聖書を何十回読んだでしょう。週報は1829回作り、説教は6千回以上しているでしょう。クリニックニュースも267号で毎回6千字ほど、書いた本や論文は数千頁。祈った時間、調べた時間は何千、何万時間でしょうか。会った人々、語った人々は数千人。それらは皆、福音の為にしています。なんと効率の悪い仕事でしょうか。

 効率の悪さ、成果の無さを嘆いてはなりません。土地を豊かにするということ、良い収穫を得るということは、犠牲の多さによって確実なものとなります。

「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21・22)とあるように、信じるということは犠牲の多さに心を向けるのではなく、どんなに犠牲があろうと成果が豊かにあることに心を向けるものです。一人の人が育て上げられるために、本当に多くの犠牲が必要であることに気が付きました。しかし、それでその人から甘い良い実が結ばれるなら、感謝なことです。


7月23日 信仰による成功と不成功による滅亡。  へブル1129節 櫻井圀郎師

「信仰にて、紅海を、陸の如くに、(彼らは)渡渉した。その経験を採って、埃及人らは、飲み込まれた。」 聖書直訳: へブル十一章29節

 教会は「信仰という基礎の上に建てられるもの」。建物で最も大切な基礎は目に見えません。信仰と同じです。「堅固な建物は堅固な基礎の上に立つ」と同様に、「堅固な教会は堅固な信仰の上に立つ」。

T 聖書の信仰と日本人の信心
 日本社会における「信仰」という言葉の意味・感覚は、聖書の「信仰」と齟齬があり、理解が異なります。本日の御言葉のように、「信仰を以って何々する」というと、不可能なことを、自分の思いや強い信念などで実行することと解されます。「念ずれは通ず」という観念です。
 「信仰」とは、不明確で定まりないことを、不安を打ち消す要因として持ち出されます。「君を信じてるよ」というのは疑っている証拠。「俺を信じてくれ」とは、結婚詐欺か、投資詐欺か、山師か、政治家の常套句です。
 天地万物を創造した神は、万物を創造しただけではなく、被造物の一つ一つ行為や現象にまでも、微に入り細に入り支配している神です。神学的には「摂理(Providence)」と言います。そのような摂理の神が約束し、それに応じることが「信仰」です。勝手な思い込みではありません。
 日本人の信仰観は、個人的・一方的かつ主観的で、不明確・不安定なもの。聖書の信仰は、神の言葉に応じる双方的かつ客観的なものであり、絶対確実にして安全なこと。聖書の信仰は、神と人との双方行為、契約です。

U 信ある行為、不信なら不為
 御言葉は「信仰にて、紅海を、陸の如くに、渡渉した」と言います。しばしば「信仰は行為ではない」と言われますが、御言葉はそれを否定します。明らかに、信仰は行為であり、行為は信仰に基づくのです。
 罪人が基督を信じて義とされる「救いの信仰」は意思のみの効果です。しかし、ここでの「信仰」は、「救いの信仰」とは異なります。神の言葉を聞いて、それに同意し、それに応じて、行動することです。
これは、義とされた「聖徒の信仰」、「義人の信仰」です。「義人の信仰」は、義人の生活や行為・行動の基礎となります。義人は、神との契約関係にある者ですから、常に、神の意思を求め、神の意思に従って、一切の行為・行動をするのです。
 神の民は、この信仰によって、紅海を陸地の如くに歩いて渡ったのです。今まで眼前に海面として広がっていた所です。易々とは渡れません。その一歩を踏み出す行為、それが信仰です。
 信あらば行あり、信なくば行なし、です。基督者は、基督と一体となり、神と繋がる信仰を有するゆえに、その行為の全ては、行為するも、行為せざるも、神の意思に直結しているのです。

   V 隣人のものを欲するなかれ
 続いて、「その経験を採って、埃及人らは、飲み込まれた」と言います。
 「経験」とは、「知識」に対する「経験」です。「理論のない実践」は問題を生じます。経験優先の実践・実務先行パターンの怖さです。日本人好みの先例主義です。
 「経験」と言いながら、他人の経験であり、自分の経験ではありません。実務優先、先例主義…、その多くは、他人の経験です。アニメ映画を見て真似する子供と同様です。「他人の褌で相撲を取る」ことです。カンニング、不法コピー、盗作、物真似……、何がいけないかと言えば、他人の経験であり、自分の経験ではないからです。「物真似の愚」です。
 「隣の芝生は青い」。そこから、嫉妬、羨望、妬みが生まれます。聖書は「隣人のものを欲する勿れ」と言います。
 信仰もなく、自分たちの過去の経験にも明らかに反するのに、埃及人らは紅海を渡ろうとしまして、飲み込まれました。欲望に飲み込まれたのです。
 「信仰による成功、不信仰による滅亡」です。


7月30日 きよく汚れのない信仰。  ヤコブ11927

ヤコブ1:19だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
1:20
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
1:21
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
1:22
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
1:23
みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
1:24
自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
1:25
ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。
1:26
自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
1:27
父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。

唯一神教というものは、他の神はいないというものなのでどうしても排他的になります。多神教では、世界の初めの由来も根拠もないので、論理的には唯一神教にならざるを得ないのですが、人間の心というものは、それほど理知的ではありません。

ところが、宗教心というものは、自分が熱心になってくると、そうでない人々のことが腹が立ってきたり、批判的になってくるものです。そして、信心を強くして神に褒められよう、認められようとしてくるのです。そのためには、関わりあう人や物が少ないほうが簡単なので、親兄弟や俗世間から離れて戒律的な生活を送ろうとします。

 生きるということは面倒なもので、朝起きたら食事を作り食べなければなりません。簡単なもので済まそうとすると、すぐに健康を損なってきます。そして、歯を洗い、排便をして、容姿を整えなければなりません。きちんと排便し歯を磨くゆとりがないと、これも身体を損ねてしまいます。容姿を整えない人は、すぐに人間的欠陥があるとみなされますが、それも事実です。

仕事をするといっても、心を込めて仕事をしないと、きちんとした成果を得ることはできません。イエス様は、このことは何回も注意しております。「良い忠実なしもべ」(マタイ25・21)とは成果を得る働き手であり、そのことは社会の法則でもあります。成果を得ることができない人は、殆ど手を抜いた仕事をしております。そういう厳しさをわきまえた人こそが、「好い忠実なしもべ」なのです。「生き抜くためには成果を得なければならない。」という当たり前のことが果たされなくなった社会では、ごまかしや言い訳が成り立つようになるのですが、そういう人は、信用も得ることができないというのは事実です。

「みことばを聞いても行わない。」とは、唯一神である神の命令を聞き流すということですから、語られた神の怒りは大きいはずです。ザアカイという取税人の頭は、ローマ帝国の手先としてユダヤの人々から税を取っていたので、人々から憎まれていました。自分たちは神の民だから、この世の国になど税金は納めなくてよいと考えていたのです。しかし、イエス様の言葉を聞いたザアカイは、「私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、誰からでも、私がだまし取った物は、4倍にして返します。」(ルカ19・8)と悔い改めるのです。

 弱者に対する態度で人の心のうちは、明らかになることが多いものです。子供たちに平気で怒鳴ったり、怒ったりする人がいますが、「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(マタイ18・10

教会活動に熱心であっても、怒りやすい人・罪にとらわれている人の信仰は本物とは言えません。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」。世の中には、偽物が多いのですが、あなたもまた偽物の一人になってはいけません。「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」。

 落ち着いて、自分の心の状態を見つめ、自分の行動を振り返ってください。

 もし、あなたが平気で人を攻撃し、批判し、人が苦しんでいたり悩んでいても平気でいるのならば、あなたの信仰は救いに繋がっていない偽物の信仰です。子供や弱者に怒りや不満をぶつけ、責めているなら、あなたは神の怒りを受ける対象なのです。献金をしているとか、奉仕をしているとかを免罪符だと思わないでください。あなたの心の中に魂の救いの結果としての、平安と愛、そして神の働きへの献身がなければ、あなたの救いは危ういものなのです。

 ドルカスは、「多くの良いわざと施しをしていた。」((使徒9・36)。「やもめたちは皆なきながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。」(9・39)。

 この地上の人生がいつまで続くかわかりません。ただ、この世の怒りや汚れから遠ざかりながら、この世のど真ん中で人々に仕えて生きることこそが、大事であると思います。もう一度言います。教会に来て奉仕をしていることが、魂の救いの保証ではありません。


8月6日 天国にはバーゲンセールはない。  ルカ181830

ルカ 18:18 またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
18:19
イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。
18:20
戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
18:21
すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」
18:22
イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
18:23
すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。
18:24
イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。
18:25
金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
18:26
これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
18:27
イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」
18:28
すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」
18:29
イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、
18:30
この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」

この世の乱れを憂いながら、自らの魂が救われていること、この世の悪やごまかしに囚われない平安に感謝します。接する人々の喜怒哀楽、批判や攻撃を取り成しながら、その救いのない、ぶつけようがない魂の叫びを、哀れまずにはいられません。それでも救いの秘儀に感動し、救われていない人々や、救われていないのに救われたと誤解している人々の魂を案じるものです。

 櫻井先生も語られましたが、日本人の考える信仰と、聖書の信仰は異なります。そして、その違いの証明は、「救い」を得ているか否かです。

「義人の信仰」は、義人の生活や行為・行動の基礎となります。義人は、神との契約関係にある者ですから、常に、神の意思を求め、神の意思に従って、一切の行為・行動をするのです。(週報7・23

もし、あなたが平気で人を攻撃し、批判し、人が苦しんでいたり悩んで居ても平気でいるのならば、あなたの信仰は救いに繋がっていない偽物の信仰です。子供や弱者に怒りや不満をぶつけ、責めているなら、あなたは神の怒りを受ける対象なのです。(週報7・30

 残念なことに、魂の救われている人は、魂の救われていない人かどうかを見分けることができるのですが、魂の救われていない人は、自らの魂の救いという状態を誤解し、救われていないことに気が付かないのです。

魂の救われた人は、聖化という清めの過程に入っていくのですが、清められた指導者がおらず、聖書を読まず、祈らないでいると、この聖化が進まないで済んでしまい、救われた人との違いがはっきりしない場合があります。教会では、この聖化と弟子化の責任を担うのが牧師であり、長老執事なのです。ところが、この世の能力や知恵、経験や信仰歴などから指導者が選ばれたり、任じられたりすると清めが進まずに堕落が始まるのです。

 313年のコンスタンチヌス帝のミラノ勅令によるキリスト教公認とテオドシウス帝による384年のキリスト教国教化によってキリスト教は完全にこの世の宗教と堕しました。その直前までは試練や殉教によって信仰の真実性が保たれ、指導者の聖化が達成されていたのに、権力を競う世俗の宗教として、この世の知恵や能力に優れた人々が信仰の真実性を問われることなしに指導者となってしまったのでした。

 修道院制度というのは、キリスト教の世俗化と共に逆に清めを求める人々によって営まれ始めました。しかし、それは清めの確保には役立ったのですが、キリスト教をこの世との交流のない戒律的なものにしてしまいました。中世では、修道院は広大な土地を治める地主としてアグリビジネスを経営するものと堕しています。つまり、真実な教えこそ、堕落し、偽物が入り込むのです。1200年頃のフランシスコは、「裸のキリストに裸で従う」フランシスコ会修道院を始め、カトリックの改革をしています。

 今日の聖句を忠実に守ったのが、フランシスコと言えましょう。裕福な毛織物商の息子であった彼は、享楽的な生活を送り、戦争にも参加して捕虜にもなり、24歳の頃に騎士に同行して戦争に旅立つ途中で神体験をして、突然回心したのでした。彼は福音書の記事に打たれ、ハンセン氏病患者への奉仕や聖堂の修復に勤しみ、金銭を受け取らずに托鉢で過ごしたそうです。聖フランシスコと呼ばれる彼の聖化運動は、カトリックの清めに貢献しました。

 救いとは、洗礼を受けるとか、聖書を読むとか、教理を理解するとか、資格を得るとか、そういうものではなく、「人にはできない」ことなのです。それでも、信仰に入り、救いと聖化を求め始める決意として確認した場合に洗礼を授けるのですが、それを資格取得証であると誤解する人が多いのです。人間が司式をした洗礼式は、イエス様でさえされたように(マタイ3・13-16)、救われた者の必要条件ですが、それは十分条件ではないのです。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」

 更に厳しいことですが、確かに救われた人は平安で神と人とに仕える人生を過ごし始めるのですが、救われていない人ほど、救いの保証を求め、まるで資格取得したかのような形式によって魂の不安を安んじさせようとするのです。「神(だけに)はできるのです。」これを人間の手によって獲得しようとするのです。

 「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(エペソ1・14)とあり、聖霊のバプテスマは、救いの証明としての十分条件です。ところが、この場合にも模倣としての異言と、聖霊による異言の吟味が必要となることが、聖霊派によって曖昧にされています。聖霊のバプテスマのしるしとしての異言の場合には、御霊の実や賜物、そして御霊の働きが現れなければなりません。この吟味の必要性は、「神の御霊によって語るものはだれも、『イエスは呪われよ』といわず」(Tコリント12・3)と記されています。つまり、「イエスは主です。」という、前述の櫻井師の指摘通りの「常に神の意志を求め、神の意志に従って一切の行動をする」という日常生活が、必要条件となるのです。

 このようにして、「救い」、「神の国への招き」という非常に価値のあることを安易なものにするのは、自らが救われていないキリスト教指導者のしてきたことであることを確認しなければならないのです。歴史というのは、そのような真理のごまかしと、真摯に真理を追究してきた人々の交錯の中で経過してきたことを記しています。そして、神は、忍耐して「毒麦を抜き集めるうちに、麦も一緒に取るかもしれない。」(マタイ13・29)というご配慮の中で、すべての人の心を吟味し、「収穫の時期」まで待っておられるのです。

 「裁きが神の家から始まる時が来ているからです。・・・義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」(1ペテロ4・17.18)。


8月13日 新しく生まれること。 ヨハネ3章1421節 簡子晏伝道師

ヨハネ 3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
3:19
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
3:20
悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
3:21
しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

夜中に求道してきたニコデモに対してイエス様は「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3:3)、さらに「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」(3:5) とおしえられた。

16節には御子を信じ続ける者がひとりとして滅びることなく、「永遠のいのちを持つため」であるとつづけられた。信じ続けるとは、キリストのうちにとどまることである。 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Uコリント5:17)信じ続ける人は、キリストのことばを信じ続け、そのように行動して生きる人である。

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63

キリストの御ことばを信じつつ、悔い改めのための水のバプテスマを受け、聖霊にとどまり、そのバプテスマを受けつつ、聖霊の導きに聞き従い、満たされ続けることは新しく生まれて神の国に入り、永遠のいのちを持つためになくてはならない生き方であることが教えられる。

ヨハネ福音書3:16は聖書の中心的なメッセージであり、聖書の教えの集約。「小さな聖書、福音書」と言われるほどの重要な御言葉である。しかし、その直前になぜイエス様は荒野の蛇が上げられなければならないことを言及する必要があるだろうか?私は長い間理解ができない一箇所である。

読み込めば読み込むほど、ここは大事な奥義のところだと見えてくる。316節の意味をより完全に捉えるなら、16節が独立して完結して理解することができない。14節、15節と合わせて、また1-13節イエスとニコデモの対話も含めて理解しなければ、イエス様の真意を知ることとはならない。

14節の背景は民数記2149節に記されている。

・それでは、掲げられた青銅の蛇とはイエス様のことなのか?

創世記3章を読めば判るように、蛇とは罪の姿、罪の象徴である。よって、イエス様=青銅の蛇ということはまずない。イエス様は罪一つない完全に清いお方であり、その背中に背負われた罪というのは、私、あなた、そして全人類の罪そのものである。青銅の蛇はイエス様ではなく、私たちの罪と罪の恐ろしい刑罰である。

燃える蛇のメッセージは:その蛇を光のもとにさらしていつも見えるところに掲げてそれを直視してけっして忘れることがないようにということである。人は自分の罪にあまいからであり、イスラエル民のように健忘症だからである。

問題の根本は、みにくい自我の罪が神の御前で明らかなのに、多くの人がそれを覆い隠して生きている。見ないようにしている。青銅の蛇は私たち自分の中にある恐ろしい罪である。それによって私たちが縛られて殺されるのである。この罪深い、どうしようもない自我を見つめ、それと向き合い、そしてその罪がもたらした壊滅と痛みを心の板に銘記して対処しなければ罪の解決はできるはずがない。主よ主よと呼び続けて自分のやることをちゃんとやらないかぎり私たちはイスラエル民のようにすぐにまた罪を繰り返して犯すものではないか。燃える蛇の教訓を人生の旅路の上に高く掲げそれを直視しつづけなければ私たちは悪に打ち勝つことはできない。

燃える蛇を上に、光のもとに、イエスのもとに、挙げられなければならない。あなた、私を燃やしつくして滅ぼすものとは何か?その敵つまり自分の中の罪深さと戦いつづけなければ、いずれ罪の蛇にまた咬まれて死ぬことになっている。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」(v.14

 青銅のへびを見上げればいやされるという神の御ことばを信じたイスラエル人は皆いやされた。 十字架の上に上げられたイエス様を見上げて信じ続け、イエス様とつながり続ける人はイエス様と共に罪に死に、神の恵みとみわざによって新しく生まれ変わるのだ。

罪の代価は死である。一つでも罪があれば罪人であり、罪人は神の国を見ることも入ることもできない。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9

聖霊によって聞き従って導かれる人は、光のほうに来てその罪をことごとく照らされて十字架のもとで解決してくださる。

しかし、聖霊に聞き従わないで肉にとどまる人は、20節が言っているように「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない」(3:20)。

さいわいなことは、イエス様は自力で新しく生まれなさいとおっしゃらなかった。

私たちには助け主、御霊が与えられた。御霊の取り扱いを受けて、聖霊によって宿られ、育まれて聖化しつづけるのだ。

御霊は私たちひとりひとりを身ごもっておられる。御霊のなかで造りかえられて成長し、やがて私たちが「新しく生まれ者」となるのだ。その時は御国にたどり着く朝であろう。


8月20日 恐れずに伝道する。  マタイ102639

マタイ10:26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。

 10:27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。

 10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

 10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

 10:30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

 10:31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

 10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

 10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

 10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

 10:35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。

 10:36 さらに、家族の者がその人の敵となります。

 10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

マドリードの自動車テロに対して、市民は直ぐに通常の生活を始めました。テロを恐れて行動を委縮することこそが、テロに負けることだと判断したからです。娘たちが世界旅行をしたり、私たち夫婦もロンドンに行くというと、気を付けてください、とよく言われます。イギリスでは確かに車にナビがなく、スピードが速く走るので危険と言えばその通りです。慣習も考え方も違います。個人の旅をする日本人は非常に少ないのですが、ツアーで観光地を回り、説明を聞いてその地域をわかったような気がするのは、危険であり愚かです。

 参加した教会は、アッセンブリー教団ですが、牧師はおらず、自分たちで最近会堂を建てました。皆で一生懸命礼拝と教会を盛り上げようとしている姿に感銘を受けました。信徒は30名ほどとのことでした。ヨーロッパは自己責任の国々で、規則を守らない場合のペナルティーは大きく、娘たちも改札もない電車に切符を買わずに急いで乗車した罰金に泣きべそをかいて、半額に負けてもらったそうです。駐車場も最初に自分で券売機で時間毎の料金を払うのですが、私も超えてしまい、高額な罰金を払いました。

食べた物はみな美味しく、娘たちもジャガイモのうまさ、栄養の豊富な朝食に驚いていました。外国に行って食事が不味いとケチをつける人は、外国で美味しいものを食べる努力をしていなかっただけだと思います。ツアーでうまいものを食べるのは無理でしょう。全く話せなかったマリヤも、すっかり英語がうまくなり、現地の人に話しかけたり、交渉をしています。見違えるほど成長しました。聖来も、自らの成長を決心しているようです。

 スキューバダイビングで30m潜ると浮力が無くなり、何もしないと沈んでいきます。下を見ると光の届かない暗黒の世界であり、見上げると光輝く海面がはるか上にあります。まるで現実の世界の霊的な状態のように感じました。上がるにつれ、肺が膨らんでいき、浮力がついて急に上がってしまいそうになりますが、素潜りではないので、急に上がると潜水病になってしまうので、ゆっくりと上がっていきます。

 人生は恐れに立ち向かわなければ、暗黒の闇に沈んでいきます。怒り易く否定的な人は、前進することを止めた人です。伴侶も親も会社も金も頼りにしてはいけません。自らの意志で生きていき、恐れに立ち向かわなければ、あなたの不安や苛立ちは増すばかりなのです。

 イエス様は、この聖句の前で「弟子はその師に勝らず、しもべはその主人に勝りません。」(マタイ10・24)と言われました。つまり、イエス様でさえ迫害され十字架に掛けられるのだから、私たちが試練や戦いに遭わないはずはないということです。ですから、試練に遭わないようにと祈るのではなく、「耐えられないような試練には遭わせず、脱出の道も教えてください。」(1コリント10・13要約)と祈るのです。試練に遭わないように逃げ回るのは堕落の道なのです。しかし、イエス様は、私たちの「主人」です。すべてを知っており、すべてを支配されている主は、私たちが弟子として歩むなら、逃れの道に導いてくださるのです。

 人々を恐れるということはどういうことでしょうか。「人の前でイエス様を知らないと言う」(33節)とは、福音を語らず、伝道もしないということです。今年になって、一人に対しても福音を語っていないということは、あなたの魂の事実の証明となります。イエス様も「天におられる父の前で、そんな者は知らない。」と言われるのです。

 伝道するということがそんなに大切なことなのでしょうか。伝道するからこそ、あなたは自分を証にふさわしいクリスチャンに保とうとするのです。祈るのです。聖書をもっと知って、説明しようとするのです。「地の塩、世の光」であるためには、伝道をしなければならないのです。クリスチャンであることを隠す人が、清められるはずがありません。成長することもありません。

 人間は自分中心に生きます。都合が良く、軋轢のない生活が夢でしょう。そして、聖書を読み、悟りを開いたような気になり、祈りをして神との会話をすることは楽しみです。伝道さえしなければ、クリスチャンは平穏な人生を過ごせるのです。そして、堕落するのです。伝道さえしなければ、周囲の人に嫌われないのです。家族が敵になるとイエス様は言われますが、それは、福音を語り、清めを迫る人が家族の中にいたら、それは腹立たしいからです。家族に対しても、「悔い改めなければ神の国に入ることはできない。」と伝えたら、嫌われるのです。しかし、今、私たちがクリスチャンでいられるのは、過去に数多くの殉教者がいたからです。

 私は、福音を語り、神の国と裁きを語った時に、相手の真実の姿が現れることを体験してきました。神の国を信じ、魂が救われたという人間がいたら、人は自分が救われていないということになり、腹が立つのです。そして、救われたという人間が自分とたいして変わらず、あるいは人間的社会的に劣っているとしたら、あざ笑うのです。そして、攻撃をするのです。 

 クリスチャンがクリスチャンである理由は、神の一方的な選びです。優秀だからではありません。「この世の愚かな者を選び、この世の弱い者を選ばれたのです。」(1コリント1・27)。この世の価値観では優秀な者が勝利者ですが、神の価値観では、罪を認め悔い改めて神に従う者が勝利者なのです。

 愚かな者と認めて神に従うか否かは、伝道するか否かなのです。恐れてはなりません。


8月27日 真理は知識ではない。  ヨハネ83138.46.47

ヨハネ 8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
8:33
彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」
8:34
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
8:35
奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
8:36
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
8:37
わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。
8:38
わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行うのです。」
8:46
あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
8:47
神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」

私には、この「真理はあなたがたを自由にします。」という聖句が自らの信仰のチェックとして非常に大事な言葉です。神学の中では異端反駁論というものがあり、真実の教えか偽の教えかを確認するものです。いのちある教えは100%正しくなくてはならず、99%正しくても1%が誤魔化しならば、本物とは言えないのです。ところが、私たちは偽物やごまかしに慣れており、それほど追求しなくてもいいじゃないか、という傾向があります。  

 真理を獲得しようとして得られないのは、あるいは未熟なのはあり得るのですが、真理でないものを獲得しようとすると自由ではなく、滅びに至ると聖書は言っているのです。イエス様が相対しているのは、自らは真理を持っていると信じている人々でしたが、自らの信仰のチェック機能を保持していない為に、イエス様の教えを間違っていると信じ、殺そうとしたのです。

 イエス様は、彼らをサタンの「欲望を成し遂げたい願っているのです。」((44)と否定しますが、彼らは決してそれを認めようとはしません。何度も言っていますが、「畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。主人は言った。敵のやったことです。」(マタイ13・27.28)とあるように、神の畑には、毒麦が混ざるのです。教会には必ず偽信者が入ろうとするのです。偽信者の特徴は、攻撃的・批判的なことです。決して自らの非を認めず、正しいと信じて、自分に従うように要求することです。

 「神から出た者は、神のことばに聞き従います。」というように聖書に従い、イエス様の弟子として日々を過ごすのです。そして、人や組織や国に対して攻撃的にならず、自由を獲得するのです。この自由を獲得していない人は、未だ主の弟子になっていないか、或は正しい教えについて修行を積んでいないからです。

 自分に自信があり、人の意見や判断を聞こうとしない人は、殆ど主の弟子ではありません。「聖くなければ、だれも主を見ることはできません。」(へブル12・14)とあるように、主が私たちに対してどのように教え諭すかは、日々の出来事を通してなのです。嫌な人を通して、主は私たちに語りかけるかもしれません。試練の中で、忍耐の中で、或は堕落の中で、弱さの中で語り掛けるかもしれません。

 旅行をすると夫婦の状況がよくわかります。下調べもナビも何も協力できず、人付き合いも世渡りも下手で、寝てばかりで食欲旺盛な妻を連れ歩く父親を娘たちは尊敬してくれます。ただ、疲れた私を必死にマッサージしたり、仕えてくれ、私を愛してくれる妻を大事にし、受け入れることで、私は主の弟子になっていくのです。妻の要求を適えようとすることで、私は変えられてきました。妻に服従や要求をするのでは、私は主の弟子ではありません。妻もまた、医師でありながら、私に仕えようすることで、主の弟子として成長しています。

そのようなことは聖書をきちんと読み、イエス様の人格に触れ、父なる神の御心を悟るならば、わかってくることです。みことば、教えを自分の生活に適用しようとすることが、主の弟子として必要であり、それを実践することによってのみ、真理を体得していくのです。

 異端や間違った教えは、そのような人格的なことではなく、行動を信者に要求します。礼拝を守っているか、献金をしているか、祈っているか、伝道しているか、聖書を読んでいるか、その他行動規範が多いのが特徴です。しばしば、脅迫的な指導をします。「何時間祈れ、聖書を読め、毎日伝道をしろ、そうしなければ真実な信徒とはいえない。」などと脅します。アジアには、そのような親が多く、指導者も強制的な従順で部下を統制します。

 彼らは神をも自分の部下のように命令します。「私たちに勝利を。信者だけに祝福を。相手をやっつけてくれ。病院に行かないで病気を治してくれ。信仰によって昇進を。試験の答えを教えてくれ。」祈り深く強く祈れば、なんでも神は聞いてくれる、というのは、呪術神であって、キリスト信仰ではありません。

 「他人を変えてくれ。」と祈るよりも、主のしもべとして変わらない他人を愛せるように自らを変えようとすれば良いのです。人や組織を変えようとしなければ、なんと楽でしょう。自由でしょう。わだかまりなく人を愛し、人に仕えることができるならば、自由を体得したのです。そして、それが主の教えです。

幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
((詩編1・1-3


9月3日 いのちは多くの実を生み出す。  マタイ131932

マタイ13:19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
13:20
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
13:21
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
13:22
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
13:23
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
13:24
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。     13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26
麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。
13:27
それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
13:28
主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
13:29
だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
13:30
だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
13:31
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、
13:32
どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」

先週は、聖書を読み、救いを得たとしても、間違った教えや考え方が信仰者に影響を与えると自由がなくなり、批判的攻撃的あるいは統制的になることをお話ししました。モルモン教やエホバの証人のような異端には、教会に行きかけのクリスチャンが罠にはまり易いそうです。それは本物と似た物とは全く違うものであることを理解していないからです。

 警告や統制というのは、人の心を恐怖心で縛り、正しい判断と行動を失わさせるだけなのです。先日、Jアラートがスマートフォンでなり、「注意してください。窓から離れ、屋外にいる場合は頑丈な建物や地下に避難してください。」と繰り返しました。戦時中の灯火管制に似ています。もしミサイルが落ちたら、そんなもので助かるものではありません。かなり離れている関東にも警告が続けられましたが、それは防衛予算を上げるための脅しに用いられているに過ぎないことに気が付かなければなりません。私は、防衛力の必要は理解していますが、国民に対して適切な指導をせずに警告だけを発して不安を煽り立てる姿勢はかなり危険だと考えています。また、逆に警告慣れして、なにもしないでいる人々も危ないのです。

 識別力がないと、攻撃や誘惑や洗脳に対処できないのです。「あざける者どもがやってきてあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、」Uペテロ3・3)、世の中は変わらないと言います。「これらのものはみな、崩れ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」(同3・11)。そのような時、「人々が大勢つまずき、互いに裏切り、憎みあいます。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」(マタイ24・10.11)。試練の時ほど、私たちは真実な信仰者でなければならないのですが、実は、愚かな人ほど、自分は真実で賢い人間であると思っている場合があるのです。そのチェックは他の人に対する、その人の行動で明らかになります。

ガーデニングをしていて似た物が本物の近くにあることに気が付きます。ヤマユリはきれいな花を咲かせますが、そっくりな雑草があります。また、岩地や荒れ地では、実を実らす栄養を得ることはできず、せっかくの苗も育ちません。苗を肥沃な所に移し、荒れ地は耕し時間をかけて肥えた土地にします。雑草も茨も力強く生え育ち、大事な苗や草花の栄養を奪い、成長を阻みます。何もしないで多くの収穫を得るなどということはできません。

 人の心も同じです。全ての人の心は自我、罪という堅い地盤があります。その自我を「神の裁き」や「その人の罪責感」を用いて強引に打ち破ろうとする人々がいます。子供の教育や組織の統制に使う人々が多くおりますが、実りのない人生を送らせる原因となります。キリスト教と名乗っていても、そのような統制によって信者を牛耳る人々はおり、それはその人々自身が聖書と聖霊によってキリストの弟子となっていないからです。

 多くの実を結ぶためには、確かに神の国の教えを受け入れること、岩地・荒地である心を耕し茨や雑草である誘惑や間違った考え方を取り除き続けて、いのちの肥料である愛情と配慮に満ちた指導を施し、いのちの水である神の祝福を注ぎ続けることです。そうすれば、豊かな実を多く結びます。信者がそのように成長するようにキリストの弟子となった人々は、変わらず絶えることなく世話と教化を続けなければならないのです。そして、人がキリストの弟子となるために、まさに他の人をキリストの弟子とするべく自らのいのちを注がなければならないのです。

 私自身は、千葉で伝道するために、多くのことを備え、力をつけなければならないと考えました。第一は妻を強くし、思いを一つにして夫婦で伝道することです。第二に、未開の異教地で伝道するために、財政基盤を強くすることでした。第三に、信者を一人一人丁寧に主の弟子として育て上げることでした。そして、第四に、自らを主の弟子として人格・知識・霊性・経験・判断力などにおいて成長させることでした。それらを通してこそ、教会が成長すると判断し、時間が掛かることを覚悟しました。

 時間を掛ける、忍耐をするというのは、私たちの真実が試されることです。「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生みだす。」(ローマ5・4)のです。

 今年は、ブルーベリーは21キロ取れました。昨年は、2,3キロだったでしょうか。柿も昨年は10くらいしか食べられませんでしたが、今年は数百以上実っています。昨年植えたキウイは来年多くの実を結ぶでしょう。レモンは、最初の年はゼロで、昨年は5つ、今年はどうでしょうか。一昨年植えたアーモンドは、まだ5,6年は掛かるでしょう。クルミの木はあと3年は掛かるでしょう。丁寧に育て、時間を覚悟して多くの実を収穫できるまで世話を続けるのです。先日切ってしまったイチジクの根元から葉が出てきました。うれしいものです。

 あなたの信仰の実を収穫するために、どのような努力と犠牲を払っているでしょうか。仲の良い家族や夫婦のためには、あなた自身の犠牲が必要です。神と人に用いられるためには、多くの努力と忍耐が必要です。祝福を祈ります。


9月10日 老年になって生まれ変わる。  ヨハネ3181621

ヨハネ3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
3:5
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
3:6
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
3:19
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
3:20
悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
3:21
しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

9人兄弟の末子で甘やかされて育ち、成績も何も全く普通であった私が、中学入学の春12歳の時、天に恥じない生き方をしようと涙し、勉学・スポーツ・芸術・教養を身に着けながら自己形成を図り、リーダーになるべく努力を重ねました。聖霊によったのでしょう。しかし、受かると思っていた国立大が突然の高熱で落ちました。

良子さんの入学前の2週間だけ住んだアパートには私の友人たちが住んでいて、歓迎会を催した日に私がそのアパートを訪れたのでした。歩いて通ったのは、その一回だけです。良子さんは誕生日が同じということで挨拶をする仲にはなりましたが、彼女が聖霊のバプテスマを受けて喜び溢れている夜に、大学の職員と飲んで酔っ払った私が電車で出会ったのです。隣の大学での研究発表の為に早めに乗った電車で良子さんと会い、教会まで一緒に歩くことになりました。教会での初めての礼拝で聖餐式の招きに応じ救いを受けました。次の週の年始の聖会で賛美の奉仕をし、洗礼を受けていないのに、親の反対で来れなくなった良子さんの代わりに日曜学校の教師を2か月後からしました。これ以上熱心になると人生の成功を危うくすると思い、最後にしようと思った聖会で聖霊のバプテスマを受けました。聖霊に満たされて手を置いた後輩が聖霊のバプテスマを受け、私と一緒に洗礼を受けました。周囲の反対が強く、あまり熱心になってはいけないと思うと、祈祷会で痺れるような聖霊の満たしがあり、奇跡が起こりました。信者時代に救いと洗礼に導いた人は50名以上です。

 多くの試練がありましたが、神に忠実であることを優先した私には、祝福が伴い続けました。良子さんは医学部を卒業できないほどで精神症状が強い中、結婚しないと発病してしまうと思い、反対の中で結婚し、心身共に厳しい神学校生活を一日一食の断食を通しました。経済的に限界に来た時には、医学部同窓生からの支援や臨時収入がありました。子供が生まれ続け、批判される中で妻は母として強く元気になっていきました。

 学校と理事会の非難の中で、強引に千葉で開拓伝道を始めて、集ったのは精神病者ばかりで、普通の人は嫌がってきませんでした。しかし、彼らと共に過ごし、妻を改善させようとする中で学びと研究を続け、後の栄養医学や低血糖症・発達障害の治療に繋がりました。改善した患者は数千人になり、救いに導かれた人は多くおります。妻の運転の危うさから、通勤のない開業を決心しましたが、持ち金は30万円でした。

 教会員は定着せず、偽教師や偽信徒に教会をかき回されることは7度もある中で、主のしもべとして忠実に主の弟子を養成することの覚悟を持ちました。そして、人を非難し攻撃するよりも、自らを強くし敬虔になることを選んだのです。自分の利益を求める愚かさを悟ると、心は動揺しなくなってきました。イエス様でさえ、十字架に掛けられたのですから、その弟子がうまくいかなくて当然であると知りました。

これらの私の人生は、神の介入により、聖霊の働きによるものでなければあり得ません。「風はその思いのままに吹く。」という聖句から、大川従道師は、「聖霊なる神も、働く場所と人に対して好き嫌いがある。聖霊の働き易い人になり、働きをしなければならない。」と語りました。私の経験では、損得や可能性を考えたり、性格が悪く自己中心な人には、あまり聖霊は働かないように思います。そういう面では、魂の救いや神の祝福も、自分の都合で考える人には縁のないものになります。

 ニコデモは、円熟した経験と判断をもったユダヤ人の指導者であり、地位も権力もありました。しかし、彼は、自分に救いがなく、平安がないことに気が付いていました。彼は、イエス様が神から来たお方であることに気が付いていました。しかし、今や力も身分も判断力も知識もある彼にとって、なすべきことはなく、どうして自分に救いがないのか、どうしたらよいのかわからなかったのです。

 多くの人が、このような真理探究や救いを求めて生きることがあっても、まるで奥義をつかむようなものであると誤解しているのです。イエス様は言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」。この言葉はどういうことでしょうか。

 自分の価値観、立場、経歴、その他自分の努力や業績を示すものを全て価値のないものとして捨て、神にある新しいいのちを求めることなのです。新しく生きることを決心しなければならないのです。

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Uコリント5・17

 誇ることができるものとは限らず、自分にとって嫌なこと、過去の失敗、劣った能力や劣等感なども捨て去るのです。大事なことは、キリストに自らを委ね、キリストにあって生きるのです。そうすれば、新しい人生が始まり、神の国への道が開かれるのです。


9月17日 理屈ではない母の愛。  ヨハネ192327

ルカ 1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
ルカ 2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
ヨハネ19:23 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
19:24
そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」という聖書が成就するためであった。
19:25
兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
19:27
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

多くの人が知識や情報を求めています。テレビでは健康に関する啓発が多く発信されていますが、私には根幹としての適切な身体作りがないがしろにされているような気がします。どの薬がどの病気に効くか、いくら知識を得ても、自己管理ができていない人に薬の処方は徒労に終わることが多いのです。病気や加齢、体質の問題を含めて基本としては、節制と肉体の鍛錬、そして十分な栄養摂取で済む問題が多いのです。「怠け者の欲望は、その身を殺す。その手が働くことを拒むからだ。」(震源21・25

 クリスチャンとして大事なことは、健康よりもむしろ霊性です。しかし、人は「善悪の知識の木」(創世記2・17)から取って食べてはならないのです。「食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木は、いかにも好ましかった。」(3・6)のですが、その誘惑は現代の人々にも罠となって、自らを神に変わる支配者にしようとするのです。

 知識があれば、人を支配でき、成功者にもなれると思い込むのです。そのようにして、例えばテレビで「東大王」なる番組があります。知識があっても人格と判断力のない人間が、社会で成功者になるはずもなく、たとえ成功者になったところで、幸せになれるのかどうか、疑問です。詰め込み教育や暗記教育を一生懸命すると判断力のない愚かな人間になります。特にアジアでは、このようにして判断基準が画一的で優劣の比較をする人々を作り出す教育と、知識欲が旺盛です。優劣を強調するのは、洗脳教育です。残念ながら、中国や韓国では、この傾向が強く、日本も未だその傾向があります。人格の形成されていない頭の良い人間は、簡単に指導者のスタッフとして利用されるだけなのです。成功するはずもありません。

 「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(Tコリント8・1)。

 私は子供に「勉強しろ。」とは言ったことはなく、「よく遊べ。友達を大事にしろ。」「人を配慮し、失礼なことはするな。」などと教えたことはよくあります。下の娘二人が、世界旅行をしながら、各国各世代の多様な人々と交流して旅をしているのは、私の教育理念の願いでもありました。娘は、「社会で働いてみて、自分が凄い教育を受けて育ったことが良く分かった。」と言ってくれました。

 「知恵を得ることは、黄金を得るより遥かに優る。悟りを得ることは、銀を得るよりも望ましい。」(箴言16・16

 このように知恵の大事さを教えるのは誰の役割でしょうか。「我が子よ。私の知恵に心を留め、私の英知に耳を傾けよ。」(箴言5・1)。親の役割です。特に、母親の愛の影響が大きいのです。母親は、我が子に優劣を言ってはなりません。それは、子どもを突き放す言葉だからです。「頑張れ。勉強しろ。だめだ。」などという言葉は、母の言う言葉ではありません。

世の中も父親も、母の日が尊く、父の日は形式的なことを認めています。お母さん方、あなた方が自分ではダメな親で怒りっぽく、優しくないと思っても、子どもたちはあなたを慕っているのです。母から愛されることが、人生の大きな願いなのです。もし、母親に否定され、怒られたら、生きている価値がないと思ってしまうほど、母の愛は大事なのです。聖歌の「愛する母上」の歌詞を確認してください。

私自身が、情緒が安定しているのは、母親に拒まれた経験がないからです。母は、私が立派にならなくても、お金を稼がなくても、うまくいかなくても、絶えず私を愛してくれました。私のために一生懸命生きてくれました。私は、この母に愛されるだけで、価値ある人間になれました。人の評価は要らなかったのです。もし、劣等感や挫折感にさいなまされる人がいたら、母親によって比較や批判をされて育ったからかもしれません。

 イエス様は、世界の造られる前から神であったのに、このマリヤから生まれることを神は選ばれました。イエス様の「下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。」のは、母マリヤの手織りであったと言われています。当時、販売などはありません。それだけで、どれだけ、母の愛情を覚えさせられるものでしょうか。

 死のうとしている自分の十字架の下に、自分を生んで育てた母マリヤがいる、その悲しみを思いやるイエス様の優しさも身に沁みます。イエス様は、最も若く優しい弟子のヨハネに自分の母を託すのです。

 私の母は救われてからは、ずっと私に対して敬語を使ってくれました。母に敬語を使われる者として恥じない「師」としての生き方をしようと誓ったものでした。

 女性の皆さんにお勧めします。あなたの謙遜、あなたの愛が、人を変え、平安にし、勇気を与え、優しくするのです。知識を積んでも、優秀であっても、それはできないことです。どちらが大事なことか、しっかりとわきまえてください。あなたの怒りと批判は、あなたの子を絶望に追いやるのです。


9月24日 自らの霊性を高める。  Tコリント14117

Tコリント14:1 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
14:2
異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。
14:3
ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。
14:4
異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。
14:5
私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。
14:6
ですから、兄弟たち。私があなたがたのところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益となるでしょう。
14:12
あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。
14:13
こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。
14:14
もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。
14:15
ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。
14:16
そうでないと、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。
14:17
あなたの感謝は結構ですが、他の人の徳を高めることはできません。

先々週、生まれ変わらなければ神の国に入ることはできないことをお話ししました。ところが、罪を告白し、イエスキリストを救い主と信じても、実際にはこの世に住んでいるので、この世に影響されて過ごす人が多いことは事実です。神の国の姿に変えられることを、願っていないのです。

 「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Uコリント5・17)とありますが、「あなたがたに向かって御霊に属する人に対するようには話すことができないで、まだ肉に属する人」(Tコリント3・3)なので、意識的に御霊に導かれて歩もうとしていないのです。

 「どのように建てるかについては、それぞれが注意しなければなりません。」(Tコリ3・10)。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。」(同3・16.17

 洗礼講座で話しました。罪の結果は、@出産の苦しみ、A妻が夫を恋い慕っても夫は我儘に支配し、そして夫婦仲が悪くなる、B苦しい労働、C土地や世界が雑草や害のあるものを生み出す、D死、をもたらすのです。ですから、クリスチャンは、その逆を願い、信じて、行おうとすることが大事です。夫婦仲が良くなったら、出産の苦しみはなくなるのです。労働を喜びであると告白し、信じて歩んだら、働きは祝福されるのです。土地を大事にして良く管理したら、茨やアザミは生えなくなるのです。そして、永遠のいのちに導かれるのです。永遠の命だけを求めて、毎日の生活のなかで信仰をもって御霊に導かれて歩まなければ、神の神殿であるあなたの霊性は汚れ、神の御霊は住まうことができなくなるのです。

 クリスチャンにとって大事なことは、神を信じる前の自分というものを「捨て去って」、「すべてを新しく造りなおす」決心をするということです。伴侶に対して、批判的否定的攻撃的であるということは、御霊に導かれたクリスチャンであるならば、あり得ないことです。弱く、罪深い伴侶のために取り成しをし、報われなくても愛し、仕えることが大事です。

 仕事がうまくいかない、人とうまく折り合えない、失敗をした、事故にあった、病気になった、・・・・そういうこと全てにおいて、神に助けを求め、神による解決を信じるのです。そして、感謝をするのです。それが信仰生活です。うまくいかないことに不平を言い、神に解決を求める祈りを繰り返すのでは、御霊に導かれた信仰者とは言えません。

 試練や苦難、災いや病気は人生に付き物です。その中で、神を信じ、神に寄り頼み、感謝をするのです。それが信仰生活であって、つぶやきや諦め、不平や不満、愚痴は、この世のものです。

それらを実践するために必要なことは祈りです。特に異言の祈りが大事です。私は自分の心の中に苛立ちや不満、批判的な思いや怒りが湧いてきたら、すぐ異言の祈りをします。しばらく祈ると、平安と喜びが湧き出てきます。異言の祈りは、浄化装置のようであり、異言の祈りなくして、罪や誘惑から清められ、御霊に導かれることはないように思います。

祈りというのは、神に注文を繰り返すことではありません。神に喜ばれる祈りとは、神と語りあう祈りです。「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。」(14・2)。どうしたら良いか、祈りながら思案します。神の御霊は、私に教えてくださいます。それは、私の知識の結果ではありません。先週語ったように、知識というのは、不信者の思惑に用いられます。知恵も人間の知恵は愚かであり、他の人の知恵により出し抜かれてしまいます。神が、人の弱さ、打算、罪深さを教えてくださり、その罪を批判するよりも取り成すことを教えてくれ、それを実行する中で神の恵みを施してくださるのです。神は、あなたの利益のために働くようなことはなさいません。

異言の祈りは、個人の徳を高めますが、それだけで満足してはなりません。祈りが、他の人への配慮になり、行動になるように心掛けなければなりません。「私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。」(14・15)。

正当なキリスト教は神秘主義ではありません。プロテスタントは修道院生活は否定しています。この世に生き、この世に働いて、「世の光、地の塩」(マタイ5・13-16)であることが大事なのです。祈りは、それだけで完結するものではなく、教会の働きのために生かされ、教会の徳を高めるものとなる必要があるのです。

成功や成果が大事なのではありません。成果主義は、サタンの誘惑に繋がります。人や物事が思うとおりに動かず、力や状況がうまくいかず、失敗や弱さを露わにされる。そんな体験こそ、神に聴く謙遜が形成される苗床なのです。「神は全ての人を哀れもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。」(ローマ11・32)。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12・2