1月8日 新しく造られた者です。  Uコリント5717

新改訳 Uコリント5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

5:8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。

5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

5:11 こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。

5:12 私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。

5:13 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

台湾に行って、原住民への差別を知りました。調べてみると、戦後に中華民国から来た外省人が台湾を支配し、台湾の為の投資をしないで中国に帰る為の軍事的なことに費やしていたことも知りました。中国自体では、共産主義のもとで多くの利権行為があり、富める者が貧しい者を搾取していることもわかります。それだけではなく世界中で、富める者、権力者が、貧しい者や支配下にある人々を搾取していることも事実です。

 戦後の日本は、アメリカでも為し得ない平等な中産階級の国が築き上げられました。ある意味では理想的な共産主義であったかもしれません。日本は異常なほど、平和で攻撃性のない国になっていました。しかし、最近はまた、強い者が弱い者を搾取して、貧富の差が激しくなる様相が現われて来ています。

 人間的な標準であれば、貧富の差、階級の差、学歴の差、環境の差、民族の差、多くの差別が、劣っている人々を苦しめています。誰でも努力すれば、幸せになれる、というのはアメリカンドリームと言われ、世界中の人々がアメリカに押し寄せる魅力となりました。日本もまた、世別に苦しんできた人々にとって理想郷であることは事実です。健康保険や年金、そして福祉などは、海外から来た人々にとって驚くべきものです。しかし、もはやその理想は、日本においても崩壊しようとしています。

我が家の子ども達は、最近、口々に自分達が育てられた家庭は普通のものではなかったと言い始めました。学歴や富に左右されない強さを身につけさせてきたからです。学歴や優秀な成績、そして能力を求める者は、自らの能力に依存して、自由が損なわれます。富があれば思いの通りに生きられると思う者は、富が十分になければ自由になれないと信じて、富を求め続ける不自由に縛られます。品行方正であるとして、戒めや掟を忠実に守るとしても、実際はそれを破る恐れに縛られて、自らも他人も自由にすることはできません。愛や福祉に生きるとしても、人間には限界があり、疲れ果ててしまうだけです。

 「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8・31-32)。

 イエス・キリストのことばにとどまるということは、他の価値観を捨てるということです。世の中は人を差別し、自らの優越感に浸ります。富める者、優秀な者、地位ある者、階級の差、民族の差、ともかくは自尊心を満足させるために、差別があり、実はその差別によって、両者共に心は縛られているのです。クリスチャンであるという意識もまた、優越感をもって他の宗教を卑下するようなものであってはなりません。

 「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」(Tコリント9・19

私は意図的に、フェースブックやブログなどでは、宗教色を出さないようにしています。それは、クリスチャンでない者にとって、チャラチャラとキリスト教の宣伝をしてばかりしていては、他の人々から不審な目で見られるからです。そういう面では、牧師たちのものは、他の宗教の人は決して相手にされないような自己満足的なもののような気がします。「心においてではなく、うわべのことで誇る人たち」(12)に気を付けるべきです。言葉巧みで知恵があっても、人を愛していることとは別なのです。

 大事なことは、真摯に人格的に生きることです。人を非難したり、差別したり、自分を誇ったり、他人を思い通りに動かそうとすること、それは自分の子どもや部下に対しても同様に、そういうことをすることが、自らを自由から離れさせてしまうという自覚です。自分の考えや立場などどうでも良いのです。大事なことは、人を愛することなのです。

 「人間的な標準で人を知ろうとはしません。」とは、自分の尺度で、他の人を評価しないことです。優劣や貧富で、人を判断するなど持っての他です。子ども達に対しても、その目を見て落ち着いて諭すことができる親は、立派です。子どもたちを馬鹿扱いする大人は、子ども達に相手にされません。子どもに対して、不遜な暴言を吐く親は、大人になった時に、もっと不遜な暴言を吐かれることになるでしょう。 「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7・12)とあるように、子どもにも、大人にも接する人は、キリストのしもべと思われるでしょう。

 ピレモンへの手紙という聖書は、逃亡奴隷であったオネシモが、獄中のパウロに信仰者として仕えるようになった話です。パウロは、信仰者であるピレモンの奴隷であったことがわかり、彼に「獄中で生んだ我が子オネシモ」(ピレモン10)と呼び、「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。」(ピレモン16-17)と執り成しています。

 私は、ナイジェリアのボコハラムの無謀な仕業の犠牲者になった女の子たちの事を知り、たまらなく苦しみを覚えました。そして、自分の力を尽くして、彼女たちを支援したいと願ったのです。「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(5・15)。私は、キリストを救い主と信じてから、この方に人生を献げました。そして、余力も余さずキリストに献げて来たつもりです。だから、主は、主の働きをする為に、私に多くのものを与えて下さいました。主はご存知です。残念ながら、自分の為に生きている人々には、私の思いはわからないでしょう。しかし、どうせ生きるなら、言葉を器用に用いるのではなく、自らを献げて生きてみましょう。古いものが過ぎ去るかどうか、新しくなるかどうか。だれでもキリストにあるなら、新しくされます。新しくされていないのなら、悔い改めて、キリストに献げて生きようではありませんか。


1月15日 大事なのは新しい創造です。  ガラテヤ書61218

新改訳 ガラテヤ 6:12-18
6:12
あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。
6:13
なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。
6:14
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
6:15
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
6:16
どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
6:17
これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。
6:18
どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。

先週、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Uコリント5・17)とお話し、キリストの内にあること、あり続けるために、既成概念、「人間的標準」(5・16)で考え、行動することをやめ、聖霊に導かれて考え、行動することが必要であることをお話しました。

それは、今日の聖句では、「割礼を強制する人たち」(6・12)と語られています。それは、「外見を良くしたい人たち」12)として、否定されています。慣習に囚われて、割礼という儀式的なことをしていれば、立派な信仰者と見なし、そうでない人々を不信仰者として否定するのです。

 「今までどおり」、「それが常識」、「皆がやっている」、「そんなことをするのは変」、「変わったことをするのは嫌い」、・・・。日本人は、このように慣習に囚われることが多いようです。

 クリスチャンになって大事なことは、聖霊に導かれることです。聖書の原則を学んで、それを通して神の御心、神の人格に触れて教えを受けることです。

 ここで大事なことは、「外見を良くしたい人たち」が考えることは、「キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。」(12)と説明されていることです。つまり、信仰者として生きるというよりも、「自分を守りたい。」、「失敗をしたくない。」、「試練を受けたくない。」、「難しいことをしたくない。」という自己保全の考え方なのです。

 先週、「人と関わり合わないで聖書を読んでいても、神に喜ばれることはない。」とお話しました。関わり合うということは、世間話をして、なにげない交流をするということではありません。人と積極的に関わり、人を愛し、クリスチャンとして福音に通じる何かしらのことをするということです。

 なぜ、福音を伝えること、人を愛することをしないのでしょうか。

 「迫害を受けたくないからです。」。批判・非難されたくないからです。自慢したいからです。信仰者として、人と関わり合いたく無いからです。

 「十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」14)。

 2001年1月に「キリストにあって新しく創られる。」と題して次のように説教しています。「絶望と悲しみが私の心を覆い、どうして神のことばを語り、人々にみことばによる励ましを希望を与えることなど出来ようかと、逃げ出したくなることが数多くあった。それでも祈り続けた。そして、守られてきた。いつしか、試練にも強くなってきた。忍耐も与えられた。そして、悲しみや絶望が、自分の願いの強さ、欲望や罪によってもたらされたものであることを悟った。」 

 「試練や迫害を避けるように生きて、自分を守りたい。」という思いから、脱却しなければなりません。それでなければ、キリストの内にいることはないのです。

この説教では、「マレーシアのシオンさんが息子の留学の為に(中国人には国内で大学に入れるチャンスは少ない。)自分の家を売って借家住まいをしているのに、感動した。子どもを育てる為にどのような貧しさも覚悟すれば、どうにかなる。大事なことは、子ども自身をすべてを尽くして愛することであって、名誉も意地も暮らし向きも、あまり大した問題ではない。」と語っています。子どもを育てるためにも力を注がず、成り行きに任せる親が、子どもを愛しているとは思えません。

 夫婦でも、お互いのために心を尽くし、力を尽くしていなければ、愛しているとは言えません。職場でも、近所付き合いでも同様で、全てにおいて尽くすのは難しいですが、何かを人のためにしようとする思い、それが「新しい創造」なのです。

 聖霊なる神は、そのような働き掛けをするのですが、その手先になるのが私たちなのです。聖霊に導かれていながら、他の人と交流しないということは決してありません。それは、むろん、世間話や自慢話ではありません。

 割礼を受けているかどうか、ということは、人との交流に関わらない、単なる儀式でしかありません。「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」(使徒7・51)とあるように、大事なことは、信仰で生きるということを心と耳に刻み付けており、いつも聖霊に従うことを意識しているということなのです。

 「この基準に従って歩む人々」16)こそ、「神のイスラエル」16)(神に勝つ者)(参照創世記32・24)なのです。祝福を求めて神に挑戦する者を神は喜ばれるのです


1月22日 右にも左にもそれてはならない。  ヨシュア記159

新改訳 ヨシ 1:5-9
1:5
あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
1:6
強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
1:7
ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
1:8
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
1:9
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

人間というものは自分の判断で生きようとする存在で、神の掟、社会の決まり、組織の規則、親の指導などに従うという判断をする人は少ないことに気が付きます。

 私自身は明治生まれの両親のもとで、親には従ってきましたが、学校の教師に始まり、社会の理不尽さを知る中で、ただ従順に生きていたら利用されるだけであることを悟りました。痛烈だったのは、小学5,6年の担任のエコひいき、不当さでした。ゴマをする親や生徒、見栄えと家柄の良い子がひいきされるのを見るのは、良い教訓でした。中一の春の決心は、その酷い教師によって扱われた事を承服するかどうかの迫りの結果でした。

 中3の教師も、人の心を見ない見栄だけの嫌な教師でした。中2の担任は優しい穏やかな教師でしたが、クラスが荒れたので左遷させられ、口うるさい嫌な担任になり、組織の締め付けを悟りました。自分は、このような組織の一員であるならば能力は発揮できないと思い、独立した人生を生きる為には力をつけなければならないと決心したのでした。

 そんな中で武者小路実篤の一連の本を読んで、誠実かつ真摯に生きる道を求めました。夏目漱石や芥川龍之介の本は、著者の生き方が浅薄のような気がしました。高校に入ってからは指導者になるべく、教養を高め、スポーツをし、勉強も毎日5時間はしました。休憩時にはダンベルで肉体強化をしたものです。9人兄弟の末子で初めての大学受験で、国公立しか行けない経済状況、ただ負けてはならないと一心不乱でした。社会を良くする指導者になろうと、心身の強化に努めました。聖書に出会った時は、心から安心して、これに従おうと決めたものです。いままでどのように生きるべきか、しっかりとした指導書がなかったのですから、聖書を3ヶ月で完読し、神の意志を理解しました。

人の生活習慣や学習能力、そして倫理観は青年期に形成されます。子どもには、そのようなことを丁寧に教え、育てなければなりません。ところが、親自身が戒めを守り、しっかりと努力するように育てられていなかった場合、どのように教え育てるか、よくわからない場合があります。最も大事なことは、神を信じ、その戒めをしっかりと守ることを教えることです。それは、親が自ら、言い訳をせずに神に従っているということが大事です。

 良く働き、よく学び、人をもてなし、誤魔化すことなく、誠実に歩む、これはすべて聖書の教えの実践に過ぎません。「そのうちにしるされているすべてのことを守り行なう」ならば、必ず、「繁栄し、また栄えることができるからである。」

 なぜ、人は、それができないのでしょうか。弱く、恐れがあるからです。自分の罪と過去に決別していないからです。イエス・キリストの赦しと愛を完全に受け入れていないからです。

「強くあれ。雄々しくあれ。」6)ということは、非常に難しいことです。指導者にとっては必須なことですが、誰にとっても、そうでなければ、世の中の艱難辛苦に立ち向かうことはできないのです。

 人は非難をし、陰口をたたき、噂話をします。組織や社会に対しても、全く完全である人はいません。サタンとは「訴える者」という意味がありますが、サタンの罠は、私たちの心を動揺させ、神に信頼して生きることをやめさせることです。

 「人間的な標準に囚われてはいけない。」「人と関わり、人を愛することをいつも心がけなければならない。」と伝えて来ました。なぜ、それができないのでしょう。

 自らの罪に解決をしていないこと。神の愛を確信していないことが原因です。要するに、適当であいまいな生き方に慣れてしまっているからです。

 それは、青年期からの慣れかもしれません。劣等感が強いのかもしれません。誘惑に負け、心が弱いのかもしれません。働くことに忙しくて、信仰に対応する余裕がないと思っているのかもしれません。失敗したら神様から罰せられると思っているのかもしれません。・・・。だから「繁栄し、また栄えることができ」8)ないのです。

 「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。」という言葉は、神が「あなたに命じた」(9ことなのです。神の命令に対して、どのような言い訳も効きません。

 「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。」(黙示録21・7.8

 「あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにある」9)ということばを信じて、強く雄々しく生きるかどうか、神の戒めを守るかどうか、が人生の大きな選択肢なのです。洗礼をうけたかどうか、などという入門項目で終わるものではありません。どうか、主の祝福と繁栄を自分のものとしてください。


1月29日 心を耕しましょう。  マタイ福音書131923

新改訳 マタ 13:19-23
13:19
御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
13:20
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
13:21
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
13:22
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
13:23
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

ながらハウスの黒土は水はけが良く、大雨でも流れにならず、石もなく、粘土層まで2mほどあります。ミミズもモグラもいるので、土は良く耕され、落ち葉が積もって、自然の堆肥になります。霜柱も4-5センチのものが何mも続き、宝石のように輝き、土を押し上げます。栗は15キロ、銀杏も数百個、かきも2本、枇杷2本、柚子の木3本、レモンも2本、夏ミカンは2本でそれぞれ数百の実を実らせます。ブルーベリーも千以上の実がなり、ジューンベリーも摘み切れずに鳥の餌になります。新たに植えた木は、ミカン、リンゴ、キウイ、イチジク、ナツメ、アーモンド、ポポー、フェイジュア、クルミ、ヘーゼルナッツ、金柑、梅・・・、大変なものです。これらの木は、土が良くなければ甘い実も実りも良くありません。野菜や米麦などは、さらにはっきりと違いが出ます。

 開拓で最初に借りた家の裏が道であった空き地でした。瓦礫も埋まっている土地には、花も芽が出ず、化学肥料を撒いても、根付かないひどい荒れた土でした。道端の土というのは、人々に踏みにじられ、堅くなって全く潤いのないものでしょう。人の心でもそういう人はいます。失敗や挫折、非難、攻撃、試練などで、出て来る感情は怒り、苦しみ、憂うつなど、反応のない心になってしまっています。私は、その土地を耕した2年間、そのような心の人々を潤し、豊かな土地にすることを決心したものでした。

 野菜くずを埋めても、微生物がいないので、腐るというより、痩せたゴミになるばかりなので、山の土を掘って混ぜましたが、痩せこけた土に負けてしまうのです。ミミズを入れても死んでしまうだけで、ワケギが痩せて消えてしまうのを見て、まるで千葉で開拓した自分が力尽きて死んでしまう象徴のように思えて泣きだしたことがありました。何をしても福音というすばらしいものを受け入れる土壌がなかったのです。

 5人の子どもを持ったのは、子どもの影響力を期待してのこともあります。クリニックの開業も、地域への伝道に寄与することも考えてのことでした。父母会長もPTA会長も、地域に浸透するためでした。10年間で受洗した54人のうち、留まっているのは萩原兄姉と猪飼姉だけです。洗礼まで導いても、成長することがない信徒の現実に途方に暮れたものです。教会成長研修所で学んでも方法論ばかりで、成長する力のない教会と信徒には無益でした。

 当時、ミミズの工場というのを知りました。ミミズに土を食べさせ、その土を涸れた土に混ぜると肥沃になるということです。ところが、ミミズも涸れた土では死んでしまいます。そんな時、吉川栄治の『宮本武蔵』を読み、一条下り松の決闘の後、武蔵が農民も手を付けない石だらけの荒地を開墾したことに感激しました。私の人生も、この千葉の地を開墾しなければ滅びて行くだけでした。神に願ったことは、肥沃な土地にすることでした。

 更に、試練は続き、何をやってもうまくいかず、それでも働き続け、努力を続けました。そして、人を利用せず、泣く者と一緒に泣き、喜ぶ者と一緒に喜ぶという単純なことができるようになりました。弱者の心を理解するようになりました。自分の繁栄を求めず、神に仕えるということの覚悟ができるようになりました。

 人の心は、道のように人々に踏みにじられ、潤いが失せてしまったような人もあります。麗しい福音に心を開くほど余裕のない人々がいるのです。土地を豊かにする最初は花を咲かせることから始めましょう。

 心が耕かされていないで、薄い土しかないと、信仰をもってもうまくいかないと直ぐに離れてしまいます。その人は、心の底に堅い岩があるので、耕すことができないのです。自我の強い人は、聖書の言葉を深く受け入れることができません。みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩編119・130)。聖書を語り続け、岩盤のような堅い心に入っていく機会を待ち続けるしかないのでしょう。信仰者という者は決して、安易な生き方をしてはいけないのです。自らが、苦労を覚悟して生きなければ、人の心の中には入っていけないのです。

 欲望に囚われる人が実りのない人生を送ることは当然です。愚かな人は、実りがなくても当然だと思います。苦労や試練があっても、信仰者には実りがあるのです。自己満足な実りで足りる人は、茨に覆われていて、神の祝福の光が入って来ないことに気が付かないのです。

 心の鈍感な人に神の祝福の実りは得られません。人に対する優しさ、配慮、愛、それは、聖書を神のことばとしてしっかりと受け入れ、自分の心を耕すことに精を出す人にのみ与えられる豊かな心なのです。自己犠牲の心の無い人が、神によって心を耕かされることはないでしょう。


2月5日 心を潤しましょう。  ローマ書515節 

箴言1125
おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。

新改訳 ロマ 5:1-5
5:1
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

先週は、「心を耕しましょう。」と語りました。他人の心を耕すことはできません。そして、実りのある心こそ、耕されていることの証明であることを説明しました。人の心は、道のように人々に踏みにじられ、潤いが失せてしまったような場合もあります。しかし、魂の救われた信仰者は、今日の聖句のように、艱難があっても喜ぶことができるはずです。ところが、多くの信仰者が艱難を避け、神の御心によって歩むよりも、自分の正当化で終始してしまう傾向があります。

 地面を見ていると、死んだ昆虫やミミズ、そして栄養のありそうな物を蟻が必死になって巣に運びこもうとしています。落ち葉の下では、虫たちが盛んに働いています。ところが、その肥沃な土も、掘り出して積み上げると太陽の下で渇き、潤いがなくなってきます。肥沃な土地と砂漠の土地の違いは潤いです。そして、潤いのある中で発酵が進み、肥沃な土が作り出されていきます。微生物がなければ涸れ果てるだけで、肥沃な土地にはなりません。

 さて、そのような肥沃な土地に必要な物は、動植物の死骸や排泄物などです。そして、私たちの心が肥沃になる為に必要なものは、試練であり、失敗であり、苦しみや挫折です。

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」(詩編119・67

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩編119・71

 モデルで俳優の栗原類という青年が、自ら注意欠陥障害であることを告白しました。同時に二つのことができず、地図を見て目的地に行くことが出来ないそうです。音に対する感覚が鋭敏で変な音には異常な反応を示し、短期記憶が残らないので、ノウハウを覚えることができず、料理は一切できないけれど、同じ作業の繰り返してであるご飯を炊くことはできるそうです。人の思惑を理解することができず、言われなければ、どうして良いかわからないのだそうです。

 この青年の母親は、小学生までは多様性を認める外国で生活させることを選び、帰国後も日本に順応できるように定期的に帰国して日本の小学校に通わせたのだそうです。

 日本では、ある基準が達成できないと注意され、怒られるだけであるけれども、アメリカでは、その理由が分析され、指導されて、進級はできないけれども、問題が解決されるまで取り組むことがされるそうです。学校も多様な学校があり、それを選ぶことができるそうです。彼自身、自分の問題を解決できるまで、繰り返して対応し、身に付ける考え方を教えられたことが良かったと言っております。彼の『発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由』という本は、非常に参考になりました。

 日本社会では、あるべき姿は暗黙のうちに定められており、人々は繰り返して他の人にそれを要求し、注意します私は、精神障害や発達障害の治療を試みつ中で、そのような規範的なことを要求するだけで、適切なアドバイスのない弊害を見出してきました。患者の劣等感を助長し、解決能力を損なうのです。個性を認め、うまくいかない理由を個々人に対して、分析しながら教育や指導すれば、十分に社会で活躍し、賜物を喜ぶことができるのです。

 失敗や罪を犯さないようにと指導するのが日本社会ですが、個性や個別な事情は無視して、規範的な行動を要求します。それでは、艱難は起こりようがありません。そして、クリスチャンでも、他の人にあたりまえと思われることを要求するので、試練は起こらず、信仰も必要ないのです。

 日本では、試練は常識を守らない愚かな人に起こるのであると考えられるのです。しかし、信仰によって歩むということは、常識によって歩むのと異なり、また非常識が信仰というわけでもありません。

 さて、今日の題目は、「心を潤しましょう!」ですが、信仰によって歩み、挫折も試練も困難も失敗も苦しさも、そして勝利も喜びも戦いも分かち合いも体験することが、心の潤いのために必要なのです。練られた品性というものが、困難の中でしか生みだされないことは理解できることです。残念ながら、簡単に願ったものを得られているうちに、品性が練られるとは思われません。なぜ、それでも願うのでしょうか。それは、魂を救おうと願うからであり、信仰の勝利を目論むからです。

 そして、そういう信仰の戦いの中でこそ、神の愛が自らに注がれていることを体験するのです。聖霊なる神は、水であるとも例えられます。しかし、水だけでは肥沃にはなりません。聖霊が働かれるような信仰の歩みをするならば、それが失敗しても、残骸として肥沃な土になっていくのです。むしろ、失敗体験こそが、聖霊によってその人の心を潤うものとさせていくのです。


2月12日 心を解き放ちましょう  ルカ福音書41522 

新改訳 ルカ 4:15-22
4:15
イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。
4:16
それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。
4:17
すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
4:18
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19
主の恵みの年を告げ知らせるために。」
4:20
イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
4:21
イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
4:22
みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。

経済というものは、成長を続けるということは難しいことです。一人の人の消費というのは、ある段階に達するとそれ以上は増えないので、人口が増えなければ、先進国の総生産は増えることはないのです。日本やヨーロッパがその例ですが、アメリカは移民を受け入れることによって成長し、中国は貧しい人々が豊かになることによって成長してきました。ところが、現代では、一部の人々が富を保有し、貧しい人々の生活は変わらないという状況が世界中で一般化してきました。他方、情報の伝達の速度は加速度的に速まり、情報だけは共有されるようになってきました。ここで、不満が増大してきます。

 トランプをはじめ、世界で強権的・独裁的な指導者が台頭し始めています。それは、ドイツでヒットラーが独裁を獲得した経緯と似ています。エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で、経済の発展と共に伝統的な価値観や社会体制、そして家父長的な家族体制が崩壊した中で自由を得たドイツの中産階級が、なぜ、大恐慌後の経済破綻と共に、独裁的なヒットラーに期待し、熱狂したかを分析しています。

 フロムによれば、社会的・宗教的制約を受けて来た人々が自由を得て、何をしても良いということになった時に、解放ではなく、孤立感・不安・頼りなさを覚えて、「自由からの逃走」に走ると言います。この人々は、自由を得て生きるよりも、従属と依存を求めて、権威主義の中で落ち着くのです。そして、自分の判断や意志で生きることができず、権威の下で生きることによって、あたかも自分の欲望を満足させているかのような意識を持つのです。

 さて、宗教に入る人々でも、過激な言動をする指導者に傾倒する傾向があります。そのような指導者は、社会や他の宗教などを批判・攻撃し、自分達の宗教がいかにすばらしく、力があるかを強調して排他的・独善的な宗教への傾倒を信者に要求するのです。残念ながら、私たちカリスマ・ペンテコステのキリスト教にも、そのような信仰姿勢を強調する牧師たちが多くおります。そして、信者をその教会や牧師に依存させる生活を送らせるのです。

 そのような教えの特徴は、「ただ信じて、牧師や教会に忠実に仕えれば良い。」、「教会生活を最優先し、仕事や社会、そして家族も犠牲にして生きることが神に喜ばれることである。」、「献金をすればするほど、奉仕をすればするほど、神に近づくことができる。」、「この世はサタンの支配するものであり、敵である。」・・・、などと排他的、洗脳的なことが特徴です。

 批判的・攻撃的な言動をする人は、実は、キリストによる自由を得ていないので、人を赦し、愛することができないのです。そして、人々を自分の思う通りに動かし、要求しようとする人は、神の支配と裁きを信じていないので、自分の思う最善が神の意志であるかのように誤解するのです。そして、権威や命令に忠実に従うことを優先する人々は、失敗や試練を恐れ、神の赦しと寛容を信じていないので、キリストにある自由を得ようとしないのです。

ルターの『キリスト者の自由』には、二つの原則が掲げられています。

l  キリスト者は万物を支配する自由な君主であって、誰にも従属しない。

l  キリスト者は万物に奉仕する僕であって、全ての人に従属する。

 そして、肉体において為される全ての善行をしても救いには役に立たないと言い、信仰のみが人を自由にし、信仰のみが神のことばとしっかり結びつくと説きます。

 試練の時、試みの時に、その人が、信仰者であるか否かが明らかになります。経済的な不安、健康の不安、仕事上の不安、人間関係の問題、災害や困難において、私たちは、どのような行動を取るでしょうか。

 真の信仰者でない人々は、その問題に対して、神により頼むよりむしろ、人間的な対処を優先します。そして、問題を解決しなければ、信仰生活も保てないではないかと言います。全くの錯誤です。実は、問題を人間的に解決しても、その不信仰により、神の国への切符が与えられていないことに気がついていないのです。そして、人間的な対処は、引き続いて起こる諸問題の対応に追いまくられて、ついには神への信頼と平安を失うのです。

 ナチスの専横を許したドイツの人々は、今深く反省して、難民を迎え入れる政策を取り、敬虔な牧師の娘であるメルケル首相の下に強き歩みをしています。他方、キリスト信仰による建国の国アメリカは、経済的繁栄を求めて、排他的政策を取るトランプ大統領を支援しています。おそらく、アメリカは戦前のドイツの二の舞を踏み、弱者を迫害し、社会的荒廃をもたらすでしょう。大統領就任式に、牧師や枢機卿やユダヤ教のラビが招かれたとして安心していてはいけません。権威主義というのは、そのような形式を大事にして、自らの権威を正当化するだけなのです。

 私たちの人生においても、問題が起きた時に、何を優先するかで、自らの価値観が明らかになります。何に自らが囚われているか、何の奴隷であるかが明らかになります。しかし、実際には、罪に囚われている人には、自らを縛り付ける拘束がなんであるかを気が付くことができないのです。そして、試練は続き、問題は、その人を話さず、神の前にギブアップをして、救いこそ自由の源であることに気が付くか否かという、人生の課題に立ち向かい続けるのです。

 フロムは、人間は何らかの権威の下に生きることで安心すると指摘し、自由からの逃げであると説明しました。大事なことは、その人が自分の魂を認識し、自由で無い状態を明らかにして、神と人との前に、自らを解き放つことなのです。


2月19日 自分の心を治める者  箴言162032

箴言16:20みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。
16:21
心に知恵のある者は悟りのある者ととなえられ、その快いことばは理解を増し加える。
16:22
思慮を持つ者にはいのちが泉となり、愚か者には愚かさが懲らしめとなる。
16:23
知恵のある者の心はその口をさとし、そのことばに理解を増し加える。
16:24
親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。
16:25
人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。
16:26
働く者は食欲のために働く。その口が彼を駆り立てるからだ。
16:27
よこしまな者は悪をたくらむ。その言うことは焼き尽くす火のようだ。
16:28
ねじれ者は争いを巻き起こし、陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。
16:29
暴虐の者は自分の隣人を惑わし、良くない道へ導く。
16:30
目くばせする者はねじれごとをたくらみ、くちびるをすぼめている者は悪を成し遂げた者だ。
16:31
しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。
16:32
怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。

アメリカに行った時、若い牧師夫婦と交流をした時に、私が自分の妻は医師だと話したら、直ぐにその夫は、私との話の続きよりも、妻を振り返って、「あなたは本当にすばらしい私の妻だ。」と資格のない妻をいたわったことが忘れられません。それからは、人前で妻を責めないようにすることだけでなく、妻を誉めることを意識的に心がけています。

人前で自分の伴侶のことを非難する人がいますが、責め合えば仲良くなれると思っているのでしょうか。怒っているうちに更に興奮してしまう人もいます。「愛情があるから」、「あなたのことを大事に思っているから」などと言い訳を言いながら、相手を罵倒する人もいます。単に心を制御できないだけです。

低血糖症の治療で分かったことは、アドレナリンの分泌を怒りなどで促してしまうと、更に興奮して抑制が効かなくなります。暴力や不始末を犯す人々は、そのようにしてホルモンの分泌により理性のコントロールができなくなって異常行動を起こすのです。そして、事を起こした後に我に返って呆然とします。アドレナリンの分泌は、じっとしていれば収まるので、興奮しようになったら、ともかく、じっとして黙っていることです。怒ったり、興奮したりする人が幸せで平安な人生を送ることは、とてもむずかしいでしょう。

「自分の心に素直でいたい。」などと考えるのは愚かな人の特徴です。聖書では、人は生まれながらの罪人であるとしており、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(Tヨハネ1・8)。

  人の行動や言葉に腹が立ち、諌めよう、正そうとすることは誰にでもあるでしょう。しかし、自分の考えや判断を正しいと思って、他の人を諌めるのは、自分自身を罪人と認めていないからです。自分の道、自分の考えを正しいと思うのは、愚か者なのです。また、逆に、自分が正しくないと思われる非難や叱責を受けた時でも、黙っていることが出来る人が、心を治める人なのです。

「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。」(箴言12・15-16)。

 カインは、弟アベルの献げ物が神に受け入れられ、自分の物には目を留められなかった時に怒りました。主は事前に忠告しました。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4・6-7)。

 怒りを治められなければ、その人は自らダメージを受け、滅んでいきます。人は、自らの怒りやミスは正当化し、忘れてしまうくせに、他人の怒りやミスは忘れない罪深さを持っています。赦しの無い性格は、自らを滅ぼします。

 むろん、人の性格が異なっており、直ぐに怒りの行動には出ず、執念深く恨み復讐する人もいれば、論理的に反駁する人もいるでしょう。しかし、心を治めず、愛によって応答することができなければ、主に仕えているとはいえません。その人の人生が、繁栄することはないのです。「あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」(創4・12)となってしまうのです。人を積極的に愛せない人は、孤独なのです。

 孤独な人がいますが、それは他人を愛するよりも、自分を愛しているからです。自分の罪に執着し、それを言い逃れようとするからです。聖研で、民数記21章の猛毒の蛇によって殺される事件を学びました。主は、青銅でその蛇を型どり、旗竿の上に付けるように命じました。そして、青銅の蛇を仰ぎ見れば癒されました。私は、その解釈として、自らを殺し滅ぼす醜い罪自体を直視して、その罪深さ恐ろしさを悟ることが救いの条件であることを説明しました。

多くの人が、クリスチャンになり、救いを信じても、自分の罪に関して曖昧であり、主の前に平気で罪を犯し続けながら、誰もが犯しているからと、真に悔い改めていません。弁解を言ったり、自分にこだわったり、人に厳しい人は、神の前に自らの罪性について、真に悔い改めていないのです。自分を変えようとしても、結局のところ、罪人に過ぎません。自己を変え、成長させようと悩んでも、罪に囚われている人間に、自由はないのです。

もう一度、今日の箴言を読んで下さい。大事なことは、自分の悟りに頼るのではなく、主のみことばに心を留め、主により頼むことです。主に従うという意識をしっかりとしているからこそ、心を治めることができるのです。心を自分の支配下においてはいけません。


2月26日 心の渇いている者は飲みなさい!  ヨハネ73739

ヨハネ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

失礼ながら、歳を取ると喉の渇きがわからなくなり、重篤状態になることもあるそうです。人間の身体は60%が水分で、赤ちゃんは75%、子供は70%、高齢者は50%にもなることがあるそうです。水分の10%を失うと生命が危うくなり、20%減では死んでしまうようです。水を飲む以外にも食物を代謝する時に水分が生じます。むろん、食物にも水分は含まれます。

 汗をかくからとか、頻尿になるからとか、水分を摂取しない人がいますが、却って体調を壊し、自律神経が悪くなります。喉が渇くのは、基本的には水分が不足しているからですが、カフェインやタバコのニコチンは、粘膜を刺激して喉を渇き易くすると共に、利尿作用もあり、脱水症状も起こして水分摂取を必要とします。喉が渇いたからといって、コーヒーや紅茶などカフェインの強い物を飲んでいると渇きが収まらないことがあるのです。むろん、清涼飲料水などという糖分の異常に高い物を飲むと更に体調が悪くなります。子ども達に、ジュースや清涼飲料水を飲ませる習慣のある親は、子どもを病気にするだけです。

糖尿病の場合には、水分が吸収されにくくなり、余計水分を必要とします。薬やストレスによっても、喉が渇くことがあり、喉が渇いたら水を飲むことは大事です。水太りやムクミは、身体に余分な水分が溜まってしまうことですが、腎臓や肝臓そしてリンパ管などの働きの低下などがあり得ます。運動を日常的にしないと、血液や水分の循環が悪くなります。

さて、聖書では、水は聖霊なる神を意味し、渇きは信仰的な渇望を意味します。イエス様は、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と大声で叫ばれましたが、人々の対応は冷えたもので、全く渇きを覚えていないことがわかります。ただ、イエス様の言動を分析しているだけで、捕えようとする者もいる状況です。

「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」とあるように、聖霊の働きが始まる聖霊降臨つまり、ペンテコステの日(使徒2章)までの人々の信仰は、形骸的なものでした。12弟子と言われる人々でさえも、その信仰は稚拙で、誰が神の祝福をより得られるかとか、一番弟子は誰かなどというたわいのないものでした。

 聖霊なる神が働かれる以前の信仰というものは、悟りや意志によるものがせいぜいで、その後の教会時代の信仰者とは全く異なるものです。そして、ローマ帝国の国教となった後の信仰と教会も、形骸化してしまったことは事実です。

 それは、霊的に喉が渇いているのに、それを感じない、わからないという霊的に病気な状態なのです。救われ、洗礼を受けた信仰者でも、自分の飢え渇きを他のもので満たそうとすると更に渇いてしまうことがあります。信仰、救いを軽く見ているからです。実は、多くの信仰者が、聖霊によって自分の渇きを満たすよりも、他のもので潤そうとしているのです。

ガラテヤ書の方を読んでみましょう。「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」、こういった類のものをしている人が、「神の国を相続することはありません。」と断言されています。私たちは、それほど悪い状態ではないと、自己弁護するものです。しかし、「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」Tコリント3・3)という聖句はどうでしょうか。クリスチャンがただの人のように歩み、生きていたとしたら、それは間違いなく肉に属する人なのです。それでも、むろん、クリスチャンです。「私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。」Tコリント3・1)とあるように、肉に属する幼子のクリスチャンは、いつも飢え渇いて泣きわめいてしまうのです。

 なぜ、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5・22.23)という心の満たしがないのでしょうか。それは、神を信じていても、聖霊に満たされることを求め、願っていないからなのです。ところが、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」Tコリント2・14

 こういう事実によって、その人が神の国に行けるかどうかは自然に定まってしまうのです。人は誰でも心が渇きます。神の愛と救いによってしか満たすことができないのに、罪人なので、この世のことで自分の心を満たそうとするのです。それだけでなく、神の国の祝福と引き換えに求めた栄華は、罪によって崩壊してしまうのです。

 残念なことに、生ける水によって満たすことなく、まがいものの飲み物によって満たした心は、もはやその快楽によって生ける水を飲むだけの健全さ、健康を失ってしまうのです。

糖尿病になるとよほどのことが無ければ回復は困難となり、血液中のブドウ糖をエネルギーとして用いることができなくなり、筋肉や脂肪が分解されて痩せて行きます。そして、身体中の機能が損なわれてきます。目は失明し、手足の先は壊死してしまいます。食生活の乱れと運動不足が基本的な原因です。

心の糖尿病も、同じように、心地よいものばかりを得ようとし、自己訓練をしなければ、いつしか艱難や試練に耐えられなくなります。

霊的な糖尿病は、自分の都合の良いことばかりを神に求めて、十字架や使命を果たそうとしないことからなっていきます。どうぞ、聖霊なる水を求めてください。


3月5日 戦いの気概  士師記717

士師記7:1 それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。
7:2
そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。
7:3
今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。
7:4
すると、主はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない。』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない。』と言う者はだれも、行ってはならない。」
7:5
そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」
7:6
そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。
7:7
そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」

人生が戦いでないとしたら、男が女の頭である意味は殆どないと思います。権威とは、統治の為のものであり、「男のかしらはキリストであり、女のかしらは男」(Tコリント11・3)という言葉は、教会と社会の秩序をパウロが強く意識していたからに他なりません。

 平和を願う思いは当然であり、健全でありますが、聖書は世界には霊の戦いが激しく行なわれていることを示しています。パウロは「私たちは肉にあって歩んでいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」(Uコリント10・3.4)として、肉体を持ち、肉体の弱さに甘んじざるを得ないとしても、信仰者は神への信仰の従順によってサタンの支配下にあるこの世のあらゆるものとの戦いに勝利をすると奥義を語っています。

 ですから男が威張ったり、女性の人権を損なったり、暴力を振るったり、肉の欲望のままに生きるならば、神の与えた権威を損なうものとして、サタンの支配下に陥るのです。先日、自分の妻を従えているような偉そうな夫を見ましたが、罪の塊のようで、みっともないですね。不倫とか、セクシャル・ハラスメントをする人間も性欲に負けて滅びの道を歩む愚かな人々です。そういう人々に、神は祝福をするどころか、呪いを掛けます。いくら人の目を誤魔化しても、神の呪いが解けることはありません。

 戦いは、そのような罪と戦う霊的な戦い以外にも、自らの心の弱さと戦う自己研鑽もあります。これは、後日お話していきます。社会的な戦いも意識しなければならない戦いであり、国家間の戦争もあります。これらの戦いを回避しようとする人々は、実は、霊的な戦いに目覚めていないことと心の弱さが原因としてあるでしょう。そして、戦わずして、敵に占領され、権利をはく奪されて、思うがままに侵略されるのです。

 最近は理屈が先んじます。国会の論議などを聞いていると、愚かな口先だけの論戦に終始しており、国力が衰えるのも当然だと思われます。議員自身に国を愛する気概がなく、正義をおこなっていないのですから、結局のところ茶番(底の見え透いた下手な芝居)となっているのです。却って、トランプ大統領の方が、その意図するところが明確となり、下手な政治劇に見飽きた人々には、期待がもてたのでしょう。こういう時代には、本当に戦争を恐れないプーチンや壮絶な権力闘争のある中国の指導者のほうが力を握り、世界を動かし支配する恐れがあるのです。そういう面では、トランプのほうが危機の時代にはふさわしいのかもしれません。それは、終末という前提でのことであり、もはや世界は収拾のつかない状態になっているといっても過言ではありません。ともかく、「戦いの気概のある人々が勝ち、治める。」ということは、いつの時代にも真理なのです。

 今日の聖句にある戦いはミデヤン人13万5千人に対するものであり、その戦いにギデオンが角笛を吹きならして(6・34)集まったのは、3万2千人でした。ところが、主は、それでは多すぎると仰せられます。そして、「恐れおののく者は帰りなさい。」というのですが、その理由は、彼らが「自分の手で自分を救った。」と自慢をするからです。弱い人、自分に自信のない人ほど、自慢話をします。大事なことは、毎日繰り広げられる戦いに勝利することであり、過去の戦いなどに浮かれている暇はないのです。

 残った1万人でも主は多すぎると言われます。それは、やはり、いつ起こるかも知れない敵の攻撃に備えをするべく、注意深く口に手を当てて水を飲む人でした。ところが、その人数はたった300人です。つまり、3万2千人のうち、300人しか、勇気があり、落ち着きがあって欲望に惑わされない人はいないのです。逆に言えば、その1%もいないような、勇気と慎重さを持てば、戦いに勝てるということなのです。

 人生は、「勇気を出して、陣営に攻め下らなければならない。」(7・11)ことが多いのです。敵がいかに多くても、本当に戦う勇気のある人間は少ないので数を増やそうとするだけなのです。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」(詩編20・7)。

 真の神を信じる者が、世を恐れ、人を恐れ、戦いから逃げていて、平和をただ願うだけでは、その信仰はまがい物と言われて当然でしょう。そして、実は多くの信仰者が、信仰によって生きることを恐れているのです。だから、勝利ある人生を生きる事が出来ないのです。「今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。」(詩編20・6)。

 


3月12日 主を喜ぶことは力の源です。  ピリピ書31節、447

新改訳 ピリピ3:1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。
新改訳 ピリピ4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
4:5
あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
4:6
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

新共同 ネヘミヤ8:10 彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

現代社会では、思い悩んだり、鬱になったりする人が多いようです。しかしながら、実際に戦ったり、攻撃になったりしたことによるというよりも、精神的な葛藤やジレンマ、つまり、自分の心の内でストレスを持つことが多いようです。簡単に言いますと、父親や社会による戦いの訓練を受けていないことによるようです。戦いの訓練では、逃げたら負けであり、悩んでいたり、躊躇していたら死ぬことになるからです。

 先週は「戦いの気概」と題して、信仰とは悪と罪に対する戦いであり、恐れおののいてはいけないことをお話しました。そうは言っても、現代社会の洗脳によって、自分の弱さや未熟さが問題の原因であるように教え込まれた人にとっては、戦う気力どころか、自分の問題に打ちのめされそうになっているのです。先週お話したように、私たちには万軍の主である神がついております。だから、負けるはずがないのに、戦いに出る気力がない信仰者が多いのです。簡単に真理を語りますと、人の弱さや愚かさなど、神の大能の前には何の問題でもないのです。「召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Tコリント1・24.25)。

 バビロン帝国による捕囚の後70年して、預言の通りにペルシャ帝国のクロス王が紀元前538年に解放令を出しました(U歴代誌36・22.23)。これは紀元前700年頃の預言者イザヤの預言に自分の名前が記され(イザヤ44・28-45・1)、エルサレムを解放する者とされていることに感激したことによるものです。

 しかし、この再建はエルサレムに移住してきた他国の人々の攻撃により紀元前520年頃まで中止され(エズラ記4・24)、ダリヨス王がクロス王の命令を確認し(エズラ6・1-5)、515年に帝国の負担で宮は完成しました。しかし、神殿は築き上げられても、エルサレムの城壁が出来ていないので、町は異邦人によって荒らされていました。ペルシャ帝国のアルタシャスク王に仕えていた祭司であり学者であるエズラが、紀元前457年頃、王に訴えてパレスチナ地方の行政長官として派遣されてエルサレムの再建を果たします。

 同じアルタシャスク王に仕えて献酌官であったネヘミヤが、エルサレムが未だに城壁が完成していないので敵に侵入されていることを嘆き、ユダの地の総督として任命されます。「また、私がユダの地の総督として任命された時から、すなわち、アルタシャスタ王の第二十年から第三十二年までの十二年間、私も私の親類も、総督としての手当を受けなかった。私の前任の総督たちは民の負担を重くし、民から、パンとぶどう酒のために取り立て、そのうえ、銀四十シェケルを取った。しかも、彼らに仕える若い者たちは民にいばりちらした。しかし、私は神を恐れて、そのようなことはしなかった。」(ネヘミヤ5・14-15)。これは紀元前445年から433年であるとされています。私は、この箇所がネヘミヤの気概を示すものとして好きです。「私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください。」(5・19

 教会の形成というのは、この神殿建築或いはエルサレムの城壁建築のようなものです。教会を形成するということは、この世とサタンの惑わしに対する戦いであり、これを妨げようとする働きは多くあるのです。ですから、信仰者に戦いは当然なのです。いや、信仰者でなくても戦いはあるのですが、信仰を持たなければ戦う気力さえ持てずに、虚しく思い悩み、苦しんでいるのです。

 ネヘミヤは言います。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(4・14)。そして、「私に仕える若い者の半分は工事を続け、他の半分は、槍や、盾、弓、よろいで身を固めていた。一方、隊長たちはユダの全家を守った。城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。 築く者は、それぞれ剣を腰にして築き、角笛を吹き鳴らす者は、私のそばにいた。」(4・16-18)。人生とは、そのような戦いなのです。

 そのような日々に律法の書が説かれ、それを理解した民は、自らが犯した罪の故に、捕囚があり、離散があり、困難があったことを悟り、涙を流しました。しかし、そこでネヘミヤが8章の10節を言ったのです。「悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

 成熟した信仰者は、悲しんだり、悩んだりしません。戦いというものは、力を振り絞らなければならないからです。悩んでいる瞬間に攻撃されたら敗れてしまいます。忙しい、などと弱音を吐いてはいけないのです。私はくつろぎながらも、普通の人の5倍10倍の仕事をしていると思います。それはどうしてでしょうか。悩まないからです。思い煩わないからです。うまくいかないこと、自らの弱さ愚かさを当然として、決してひるまないからです。

 信仰者として、神にあって生きるとは、自分の力に依存しないこと、悩まないこと、そして神に依存することです。思い煩う人は、自分の失敗や罪深さに拘泥して、人の半分も仕事ができません。罪とは、そのように自分というものに執着することなのです。喜んで生きることこそが、神の力、聖霊に満たされる秘訣なのです。


3月19日 その行ないによって祝福されます。  ヤコブ書11927

新改訳 ヤコブ1:19 愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
1:20
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
1:21
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
1:22
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
1:23
みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
1:24
自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
1:25
ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。
1:26
自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
1:27
父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。

聖書には、「動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。」(レビ11・3)とありますが、これを満たす哺乳類は牛、羊、山羊、鹿などのようです。ひづめが分かれているということは、土をしっかり掴んで歩むということでしょうか。反芻するということは、一度食べた物を胃の中から口に戻してもう一度噛むということです。

 後にクリスチャンには、使徒10章に何を食べても良いと神からの声がありますが、ユダヤ人やイスラムの人は、旧約にならって、それら以外は食べないようです。この戒めの意味は、滑らないようにしっかりと土を掴んで人生を歩むことと、ものごとをよく確認し何回も考えてから実行するということとを、しっかりと身に付けることにあるように思われます。

 今日の聖句にあるように、聖書のみことばを実行する人は、実際には少ないものです。この礼拝で説教を聞いて自らの落ち度や罪に気が付いても、それを修正しようとしない人は、生まれつきのものとして自らの生活や性格を肯定してしまい、なんら変えようとはしていないのです。自分の顔を見て、嫌悪感を持つ人は殆どいません。もし、沿うなら重度の鬱状態です。おしゃれをしようとか、化粧をしようとしても、基本的に否定する人はいないのです。

 自分の考えや判断を肯定し、神のみことばに合っているかどうかをチェックしない人、自らを変える行動を取らない人は、神の祝福を得ることはできません。毎日の歩みの一歩一歩をしっかりと、御ことばに確認して歩むことが大事なのです。何の吟味もせずに、習慣や惰性によって歩み、仕事や生活を繰り返しているのです。反芻するとは、自分の行動や考え、歩みの一つ一つを何度も繰り返して吐き出し、吟味し直すということなのです。

 聖書を読んで、自分の教養や知識を高めようとか、読むことで信仰深さを確認しようとかする人は、鏡で自分の顔を見る人のようなのです。聖霊なる神の感化は、聖書を読めば、悔い改めと伝道への思いを呼び起こすものなのです。反芻とは、自分の食べた物を何度も噛みしめることであり、自分自身を反芻することではありません。「自分はどうして、ダメなんだろう。」、「自分はあれをしたい、これをしたい。」などというのは、自己憐憫や欲求不満であって役に立ちません。サタンは、「訴える者」であって、私たち自身の弱さや罪深さを指摘します。大事なことは自分の行動や言動を吟味し、聖書的に生きることを身に付けることなのです。

 「事を実行し、行ないによって祝福される」のであって、サタンの惑わしと私たちの罪性は、悩み苦しみ、行動を起こさせないことなのです。そして、神に祝福されず、人生がうまくいかない人の特徴は、自分の意志や願いによって行動を取ることが無いということなのです。

 自分の言動を吟味せず、自己弁護や周囲の人への気兼ねや自慢によって愚かなことを言ってしまう人は、口に轡を掛けない馬のようであり、制御ができないのです。馬の轡(くつわ)というものは、馬の口の中にある歯の生えない部分に通して、馬の首を動かし、馬を制御するために用います。

「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。」(ヤコブ3・2.3)。

私は、その日の自分の言動だけでなく、他の人の言動を振り返り、吟味します。つまり、反芻します。「あなたの口のことばによって、あなた自身がわなにかかり、あなたの口のことばによって、捕えられ」(箴言6・2)。多くの人が、言動に失敗して、愚かなことを言っていることを思い起こし、執り成しの祈りをします。残念ながら、神が、それを聞いていることを悟っていないようです。

 「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」(詩編19・14)。

 毎日の自分の言動を反芻し、神の前に悔い改め、そして、新たな行動を取るように心がけなければなりません。悩んだり、自分の弱さ・愚かさを悲観してはいけません。そういう人は、行動に繋がらないのです。「心を欺き」(1・26)、自分の顔を鏡で見て正当化しているだけなのです。悩むということは、悔い改めていない証拠なのです。悔い改めた人には、赦しと喜びと聖霊の満たしがあるのであって、悩むということはありません。ですから、悩む人が聖霊に満たされることはないのです。

 自分の言動を吟味し、困っている人を助けたか、徳を高める言葉を発することに努めたかと毎日確認することが必要です。主は、その人と共におられます。


3月26日 私には夢がある。  使徒2141521 

新改訳 使徒2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2
すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3
また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:15
今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
2:16
これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
2:17
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
2:20
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
2:21
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』

 アメリカの共和党は、奴隷制度反対を掲げて1854年に結成されました。1860年にリンカーンが共和党出身の初めての大統領となって奴隷制の廃絶を模索すると南部州が合衆国から離脱し、南北戦争が起こりました。1862年に全州での奴隷宣言が交付され、64年の大統領選でも再選されて、南北戦争が終結した後の65年4月に暗殺されました。

 キング牧師が黒人への自由平等を訴えたのは1955年で、公民権法が成立したのは1965年ですから、100年経っても、アメリカの黒人は差別されていたのです。64年にノーベル平和賞を受け、68年4月4日に暗殺されます。63年8月28日にワシントン大行進の際に説教したのが“I have a Dream.”です。

  今日、明日、仮に困難が待ち受けていようとも私には夢がある。それはアメリカン・ドリームに深く根ざした、ひとつの夢です。私には夢がある。 「万人は生まれながらにして平等である。これが自明の理であることをここに保証する」、この国家の基本理念を真の意味によって実現する日が来るという夢が。

 神は、「もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。」(民数記12・6)と言われ、確かに、ヤコブにも(創世記28・12)、ヨセフにも(37章)、ソロモンにも(T列王3・15)、ダニエルにも(ダニエル1・17)、ヨセフにも(マタイ1・20)、夢で語られています。

 しかし、「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た。』と言ったのを、わたしは聞いた。」(エレミヤ23・25)というように、神懸かりに夢を誇張する人もいます。よく聖書を読みとると分かることは、神に忠実で謙遜な人は、夢を自らの戒めや励みの為に取っておき、或いは神からの裁きや啓示として受け取るのです。他方、夢を自分勝手に解釈し、自分を特権化する人は偽物ということになります。

 自分中心の夢を見る人ばかりです。幸せになりたい、お金持ちになりたい、仲良くなりたい、成功したい、・・・、殆ど努力と犠牲無しに願うだけです。それが適ったら、ダメな人になってしまうでしょう。幸せになることを、ラッキーに結びつける人がうまくいくはずがありません。他人のせい、相手のせいにする人も同様です。

 信仰とは、思考や努力の結果ではありません。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(Tコリント2・14)。大事なことは聖霊に満たされることです。

 夢を持ち、願いを持っても、生まれつきの救われていない人間の考えることは、努力であり、考えであり、打算です。信仰で解決し、願いを適えると考えるかどうかで、その人の魂が救われているかどうかがわかります。人を愛するということも、生まれながらの人間にはできないことで、不利益になったら愛するのをやめるのです。いくら話し合っても、親しくしても、聖霊によって愛し合うということとは全く別物です。離婚や疎遠というのは、利益と罪によって動機づけられる人間には当然なことです。

 リンカーンやキング牧師の夢は適えられましたが、敵対する人によって殺されました。罪人の行動というのは、自分にとって都合の悪い人を否定し、抹殺することであって、敵を愛するなどということはできないのです。神が夫婦を定めたのは、呪いと祝福を前においたようなものです。信仰が無ければ結婚は呪いになり、信仰があれば祝福となるのです。誤魔化すことはできません。

「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。」(申命記30・1-3

 信仰を持っていると自称している人、洗礼を受けたと安心した人も、聖霊に満たされていなければ艱難の中で、信仰が揺さぶられます。主に立ち返り、悔い改め、聖霊に満たされなければ、平安はないのです。

 あなたも聖霊に満たされて夢を見て下さい。幻を見て下さい。それは、艱難の時代を生き抜く力となり、人々を助けるのは、あなたであることを悟らせるのです。ヨセフは幼き日に見た夢を忘れずに、艱難辛苦を耐えて信仰を成長させました。そして、家族全ての大いなる救いを成し遂げたのです。