10月2日 信じる者に働く神の優れた力。  エペソ書11723

新改訳 エペソ 1:17-23
1:17
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
1:18
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
1:20
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21
すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22
また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

「イエスは百人隊長に言われた。『さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」マタイ8・13

 神を信じる、と言っても、本気で信じている人は少ないことを神様は知っています。妻(夫)を愛する、と言いながら、自分の都合のままに要求を繰り返す夫(妻)が多いのと同じようなものです。聖書は、「キリストがご自分を献げたように妻を愛しなさい」(エペソ5・25)と命じておられます。

「ローマ人の物語」を読むと、皇帝の家族でクリスチャンになった夫婦の夫に死刑が、妻に遠島が命じられています。そして、軍人は、他の宗教は構わないけれど、唯一神教であるユダヤ教やキリスト教の信者になることは禁じられています。つまり、死刑です。百人隊長は、軍人としてのプロであり、ローマ軍の強さは、百人隊長たちの強さであったと報告されています。その百人隊長が、「権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」(マタイ8・8-9)と言って、権威に従う者の従順さを告白しています。命を掛けた信仰告白なのです。

 ローマ軍は権威に従い、皇帝と言えども法の下に従う者であって、もし皇帝が法に従わず、勝手なことをした場合には、殺されることもありました。そして、味方が敵に捕まった時は、命掛けで救いだそうとするのです。犠牲の多さを考えるよりも、名誉を大事にしてローマが負けること、恥ずべきことをすることを認めない自尊心がローマ帝国を築き上げたと言われます。

 そのようなローマの価値観に常に逆らってきたのが、ユダヤ人でした。ローマ人とユダヤ人は多神教と唯一神教という違いを基にした筋の通った民族だったように思います。共に、宗教や価値観に命を掛けるのです。ローマの軍人は、権威に従う従順さを25年間身に付けるので、退役後にローマの市民権が与えられます。それは、他国人でも同様であり、ローマ市民は、ローマに従う義務を負う者として増え続けるのでした。そして、従うことによって、上からの権威を行使できることを知っていました。

 軍隊教育の是非はともかく、権威に従うことは間違いなく身に付けます。日本人は戦後、この権威に服従するということが、制度として崩壊しています。スピード制限など、守れないような低速が基準となっており、違反することが暗黙の前提になっています。豊洲市場の問題も、決まったことへの順守を組織的に行っていないことが曝露されました。

 アメリカの大統領選は、ローマのような国家論から、実用主義に基づいた個人の損得が国家の趨勢を決めるものへと変化したしるしです。トランプのような人は、頽廃した終末の特徴であって、更に中国や韓国のような自国の利益を求める動きは広まって行くでしょう。人間もまた、そのような頽廃をしていくのです。しかし、神は、自分中心の論理で生きる人の声は聴きません。

 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1・12)とあるように、「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものであるか」は、「心の目がはっきり見えなくてはなりません。」。「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

 これらの約束は、神の言葉に従順に従っているかどうかに掛かっているのです。権威に従っていない者には、神の約束は全うされないのです。日本のスピード規制のように、状況を見て調整するような思考方法を植え付けるのは、サタンの罠です。性道徳についても、日本は一般の家庭にまで簡単に頽廃が入り込んでいます。愛とは、安逸なものではありません。神は、愛であると共に義でもあるので、犠牲を払わないで信仰を維持しようとする安易な者に永遠のいのちも、神の子としての特権もお与えにならないのです。

 私のケトン体ダイエットは失敗しました。普通の人が普通に行うようにダイエットをきちんと調べずに始めたのです。ケトン体値は、一度も必要な基準に達しませんでした。後で調べてみると、思わぬ食品に糖質が多く含まれており、苦労をしても、しっかり原則に忠実に調べて従うことが必要なことがわかりました。まるで、罪との戦いのようでした。再び、時を置いて、しっかりとしてみるつもりです。

 自分の基準で神を信じているつもりでも、神は聞いてくださいません。「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」。聖霊によってでなくては、神の基準を身に付けることはできません。人は生まれながらに罪人であり、自己中心な考え方をします。そのような在り方で、神を信じたといっても、もし、命掛けで神の権威に従っていなければ、つまり、御ことばに従っていなければ、「神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを」体験することはないのです。

 ローマにとって宗教は人の欲望の象徴としての愚かなものなので、それに浸る者を軽蔑していました。しかし、彼らの法は、キリスト教の神のような存在であったようです。しかし、いつしか、その法概念も崩壊し、皇帝独裁となり、国が崩壊した後に、求むべき絶対的なものとしてキリストの教えに従い、ローマの国教となりました。それまでに殺された人々は、ユダヤ教を含めて数百万人でしょう。しかし、神は、彼らを神の国の民として受け入れたのです。現代社会で、自称クリスチャンは多いでしょうが、確かに神の国に迎えられる人は、少ないように思います。

 「そんな難しい宗教は嫌いだ。」と言われるかもしれませんが、それが真実であり、そのように生きる人には、「あなたの信じたとおりになるように。」と主は言われるのです。


 

10月9日 悪魔の策略に対抗する。  エペソ書61013節、1章1923

新改訳 エペソ 6:10-131:19-23
6:10
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
1:19
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
1:20
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21
すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22
また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

イエス様の御言葉には終末預言が非常に多く、艱難を預言されておられます。それは、信者に対する真摯な心配であり、警告です。この地上は滅び、この地上の事だけを考えて、安逸な日々を過ごした者には、死後に裁きがあり、地獄で苦しみにあうと警告されたのです。「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。」(Uペテロ2・9-10)。

 都議会自民党の醜聞は、報道されても止まることなく、その議員たちの了見の狭さは呆れるばかりです。おそらく、豊洲市場にも多くの裏金が動いていることでしょう。経済社会を巡る男たちの罪深さは、一度明るみに出ると驚くばかりのものです。女性たちのゴシップや破廉恥さも、酷いものでしょう。イエス様が、「金持ちが天の御国に入るのは難しい。」(マタイ19・23)を痛感いたします。男でも女でも、この世の欲に塗れたら、救いようがないのです。

 昔は、サタンは角が生えた不気味な存在と思われていました。実際は霊なので見ることはできません。「触らぬ神に崇り無し。」とされて、怖いもの、恐ろしいことに対しては、知らぬふりをすれば、過ぎ去って行くと考えられていました。サタンは、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」(エペソ2・2)であって、知ろうと知るまいと、触ろうと触らぬまいと、未信者に働きかけているのです。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2・3)

 このような社会と人の生き方に嫌悪感を持ち、正義と善を求める人が、神と救いを求めるのです。そして、神は応答してくださるのです。「恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2・8)。「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。」(詩編24・3-6)。残念ながら、自分勝手な信仰者が神から祝福も義も受けることはありません。労苦の中で忍耐をもって善を行い、正義を行う人が、神の目に留まるのです。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(U歴代誌16・9)。

この世は、サタンの支配下にあると、聖書は語っています。しかし、それは主が来られる時までであり、不信仰者に対してです。エペソ1章で、キリストを「すべての支配、権威、権力、主権の上に」置かれましたとあります。これは、サタンの統率する支配に対する力です。私たちは、悪と戦おうとしなければ、悪に支配されるのです。欲と戦おうとしなければ、欲に支配されるのです。

 テレビ、新聞、その他の情報全てに、この世の罪と欲が溢れています。そして、あなたにも影響を与えているのです。あなたは、食欲に勝つことができますか。健康を害するのが分かっているのに、止められないとしたら、あなたは病気になります。欲情を治めることができなかったら、あなたは罪や犯罪に陥ることでしょう。権力欲や、名誉欲、怠惰の欲も大きいものです。それらの背後にサタンの存在があることがわからないから、あなたは自分の罪や弱さに言い訳をしているのです。

 いつも祈らなければ、私たちは霊の戦いに敗北します。神の国を切望しなければ、この世の在り方に妥協します。清き霊性を保つことは、祈り聖書を読まなければ難しいことです。怒り易い人は、簡単にサタンの罠に陥ります。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」(箴言16・32)。感情は、最もその人の霊性に影響されます。霊的に弱い人は、感情的な人です。怒り易い人、威張る人は霊的に弱く、整っていないからです。『祈りは苦手』と言う人は、誘惑にも弱いのです。

 知性に走りがちな人は、霊的なことに鈍い、騙され易いことになります。知性や知識など、どのようにも操作できるのです。そして、知識そのものが誘惑になるのです。蛇に化身したサタンは、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3・5)として誘惑しています。知識を得ても、それを治めることとは別なことです。霊性が整っていない人の知識など、その人を滅ぼすだけです。

 聖書のことばを実践しようとすることが霊的な訓練なのです。一つひとつ行い、実践しようと努力することが大事です。決して人を非難せず、腹を立てず、全てに感謝しながら、節制に努めれば、次第に霊的に強くなります。

 どんな人に対しても、温厚に接し、交流ができないのは祈りがないからです。人を見た眼で判断し、自分の欲求を相手にぶつけるからです。霊の戦いというのは、サタンに誘惑された悪人との戦いです。惑わされてはいけません。サタンの惑わしは、私たちを怖がらせ、怒らせ、弱気にさせ、誘惑に陥れさせるのです。

 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」

 


10月16日 神の全ての武具を取りなさい。  エペソ書61018

新改訳 エペソ 6:10-18
6:10
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15
足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

山村の過疎の村が、自分達の地域にあるものを見つけ出して活性化していったというテレビを見ました。僻地であり、若者が都会に出て行ってしまうという失望感からの脱却には、意識の変革が必要です。どうにかしようとしても、困難ばかり考える人は、前進の一歩を踏み出す事が出来ません。ながらハウスを近所の人が見ていて、感心してくれています。ホントに10カ月間で4分の1が全く変わりました。コツコツと働くと、時間が掛かれば非常に大きなことができます。大事なことは始めることです。

遺言を書くことを促していますが、殆どの教会員が提出していないことを懸念しています。遺言というのは、信仰者にとっては神の国への期待であり、残りの人生をどのように生きていくかという信念と計画でもあるからです。現実を直視して、課題と修正計画を実践していけば、少しずつ人生は改善していきます。

 大事なことは、「悪魔の策略に対して立ち向かう」という決意です。サタンに立ち向かうというと恐ろしいことのように考えますが、サタンは私たちを惑わして欲望の中に希望のない人生を送らせようとしているので、実際には希望をもって生き、困難や試練があっても諦めないで取り組んでいくということなのです。

カエサルに支配される前のガリア人たちが、組織的な統一なく部族間で争い、そしてライン川を越して攻めて来るゲルマニア人によってしばしば略奪されました。しかし、ローマに服してからは、ローマ軍が守ってくれるので安心して生活ができ、若者たちはローマ軍にも加わって、ローマ市民にもなっていき、文明化されたので、もはや謀反などしようもない平和な国となっていったのです。

 このエペソ書は獄中書簡の一つで、パウロは警備をするローマ兵をよく見ていました。服装は、まず帯を締めることから始まります。帯はしっかりとしていなければなりません。真理に基づいて生きると言う信念をしっかり持ち、真実に辻褄の合う生き方をしない人は、戦いの場に出て行くこともできません。自分がいつ死んでも恥じない生き方をしていなければなりません。私自身、執り成しや癒しの祈りをする時、相手の真実さがないと祈りが入って行かないのを感じます。誤魔化しや見栄を張っている人に対しては、祈ることも応援することも、神からの力を感じないのです。神ご自身が、その人の真実をご存知です。

 サタンは私たちの心に攻撃をしてきます。あなたは全ての行動や過去があからさまになっても、平気でいられるでしょうか。すべての罪や過ちをイエス様に告白しているでしょうか。正義は、キリストにしかありません。自己義や言い訳は、サタンの格好の餌食です。誤魔化しで胸当てを作っている人は、簡単に打ち破られるでしょう。強固な胸当ては、強い戦士の象徴です。人のうわさや、自分の過ちで傷つけられないように、キリストの義の胸当てを付けなければなりません。

 神の兵士の歩みは、平和のためでなければなりません。争いを引き起こそうとする、サタンに惑わされた人々がいます。誤魔化しをする人々がいます。戦うのは、平和のためです。自ら戦いをしたがる人は、主の軍の兵士には向いていません。主の導きの時、祝福の時には必ず戦いがあります。戦うことに興奮してはならず、平和を実現するために戦うという決意をみなぎらせる必要があります。

 大盾は、身体の全てを覆うものです。人々の攻撃、非難、迫害、事件、事故、災害、その他、どのような時も、全能の主による守りを信じなければなりません。自分の力で勝とうなどと考えては火矢にやられてしまいます。自分の能力、見解、敬虔を過信し、自慢する人がいますが、そんなものは何の役にも立ちません。主義主張や経験など、簡単に破れてしまいます。

 兵士は、兜を被ります。頭というのは脆いもので、頭を打つと簡単に死んでしまいます。どんなに試練があり、たとえ戦に敗れることがあっても神の国に行く、という救いの確信は、あなたに勇気を与えます。この救いがしっかりしていない人が、軽い怪我でも動けなくなり、困難に負けるのです。「私の主、神、わが救いの力よ。あなたは私が武器をとる日に、私の頭をおおわれました。」(詩編140・7

 私たちの持つ攻撃の武器は、「御ことばの剣」です。神のことば、聖書をしっかりと心の内に刻んでいないと、御霊が与えて下さろうとしても、持つことができません。私は、説教を用意している時に、御霊が御ことばを与えて下さることをいつも体験しています。神の御霊は、私に御ことばの感動を与え、神からのメッセージを示して下さいます。同様に、困難な時、戦いの時に神は私に聖書の御ことばを示して下さいます。

 「ヘンシーン!」と言って、普通の人が戦士に変わるアニメや映画があります。私たちも、御霊に満たされていると、そのエネルギーが与えられ、神の軍の戦士に変えられます。そのアニメの勇士たちは、悪と戦う勇気を持っています。私たちは、どうでしょうか。

 神の国に行くことは、戦うこと自体で確認されます。悪と戦う人が神の子であり、この世と妥協してきれい事を言い、調停をしようとする人は、この世の人なのです。調子の良い人に惑わされてはいけません。サタンとは戦う以外に道はないのです。そして、戦いを怖がる人は、捕虜になり、殺害されるのです。


10月23日 忍耐の限りを尽くして執り成し祈る。  エペソ書61824

新改訳 エペソ 6:18-24
6:18
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
6:19
また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
6:20
私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。
6:21
あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。
6:22
テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。
6:23
どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。
6:24
私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

霊的に鈍い人は、祈ることができず、祈らないことによって問題を大きくし、試練や攻撃に負けてしまいます。

 ヤコブは神に祈ることは知っており、しばしば神からの語り掛けを聞いておりました。そして、親のもとを離れ、ひとりで旅をする時に、神からの語り掛けを聞いて、請願を立て、そして十分の一の献げ物を誓っています(創世記28・22)。

 しかし、祈りによって自分の生活をチェックし、導きを求めるということはしていませんでした。結果として、叔父に騙され、愛するラケルではなく、姉のレアと結婚することになり、結局姉と妹を妻とする愚かな人生を歩む事になり、骨肉の争いを繰り広げることになりました(創世記29・27)。報いのない14年間の後、ヤコブは神の祝福を求めて自活の生活を始めました。自らの働きの上に神の特別な介入を求めたのです(創世記30・30)。

 自らの人生に神の介入を求めないのは、霊性が低いからです。信仰者の人生に神の特別な祝福を信じないのは、霊的に目覚めていないからです。私は、信仰を持っているということに安住して、信仰の歩みをしない人々を知っています。私たちは祈ることによって、神の語り掛けを聞き、新しい道を歩み始めるのです。ヤコブは、何も財産がなく、叔父に仕えているだけで、妻たちが争いを続けている生活からの脱皮に目覚め、日々、神の祝福を求めることを始めたのです。そして、「この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」(創世記30・43)。

 ヤコブは、祈りによって、叔父のラバンの敵意に気が付き、そこから出る勇気を与えられたのでした。信仰の歩みを始めたヤコブを攻撃することを神は許しません。「私はあなたがたに害を加える力を持っているが、昨夜、あなたがたの神が私に告げて、『あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。』と言われた」(31・24)。

 その後も、ヤコブの戦いは続きます。しかし、一度祈ることと戦うことの覚悟を身に付けたヤコブは、勝利と祝福の人生が始まりました。ところが、子供たちのことについては、妻たちの争いに嫌気がさして、きちんとしませんでした。手を抜く、努力を怠ると、そこからサタンの攻撃が始まります。愛するヨセフが兄たちの手で、暴力を受け、エジプトに売られる事になってしまいます。

 ヒゼキヤ王が、死を宣告された時の嘆きと霊的な落ち込みが、イザヤ38・10から記されます。祈りの無い人の試練にあった時の状態です。それでも、「ヒゼキヤは顔を壁に向けて主に祈って、 言った。『ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。』こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。」

(イザヤ38・2-3)。そして、ヒゼキヤの祈りは変わりました。「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。」(イザヤ38・17)。そして、ヒゼキヤは死の病から癒されたのです。

 祈りの無い人々の霊性は低く、考えることは打算であり、駆け引きであり、そして絶望です。私たち信仰者は、「絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」、とあり、クリスチャン相手でも、決して手を抜かずに祈り抜くことが必要なのです。

 クリニックのビルを取得する時に、知人からの支援の言葉は、この世の術をしては、これ以上のものはなかったでしょう。しかし、私は霊的な戦いに関する、落とし穴だと感じて辞退しました。神に任せたものは神によってのみ解決しうると信じたのです。会堂を取得する時の金銭交渉の誘いも、霊的な落とし穴でした。私は、神に任せた以上は、死も、破産も、失敗も、また益であると信じたのです。死んだらおしまい、などという言葉は、未信者のものです。

 ダニエルは、金の像を拝まない者は死刑として、燃える炉の中に投げ込まれることになりました。「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3・17)。

 このようなことを事実だと信じ、真理だと信じる人は幸いです。多くの人が、目先の利益に目がくらみ、信仰による道を選びません。信仰によって生きるということは、信仰の無い人には、非常に苦しいのです。だからこそ、信仰を持っている人が、忍耐の限りを尽くして祈り、執り成し、勝利のために戦うのです。特に、家族の霊性のために、強く祈り、守ることが必要です。

 「私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。」


10月30日 強くされて忍耐と寛容を尽くす。  コロサイ書1613

1:6
この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。
1:7
これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、
1:8
私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。
1:9
こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。
1:10
また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。
1:11
また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、
1:12
また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。
1:13
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

宗教は迷信であり、世界は進化の中で形成されているという風潮が日本社会に蔓延しています。イスラム原理主義のような過激な行動を、宗教の怖さとして捉え、神に真実に生きることをやゆするようになってきています。それでは、人は幸せになるのか、愛し合うことができるのか、というと、実際には欲望にまみれ、金を儲け、成功することを目論みながら頽廃した生活をおくるという現実があります。「多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。」(Uペテロ2・2)、「罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。」(Uペテロ2・14)

 そういう面で聖書の教え、福音を教養の一つとして捉え、社会で賢く生きるための術にしている人々が多くおります。しかし、神は生きていて、そのような誤魔化しの信仰を許さず、経済的な試練、人生の困難、人間関係の問題を通して、その人が信仰で生きるか、打算で生きるかの選択をさせます。「信仰の試練は金よりも尊い。」(Tペテロ1・7)は、その試練の時の選択を勝利した人にのみ与えられる「称賛と光栄と栄誉」(1・7)なのです。

 私にとっては、信仰1年目に教会奉仕に熱心になり過ぎて大学院の試験に落ちた時、恥や批判もありながら、多くの人の伝道と世話を続けたことが大きな選択でした。神学校に行くと表明した後の、人々の攻撃や批判も、神を選択する機会でした。思い返せば、いつも試練がありましたが、それを乗り越えたのは、「魂の救いを得ているからです。」(Tペテロ1・9)。

 「神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき」(1・6)というのは、それらの試練を信仰に乗り越えた時でした。神は全てに恵み深くあられますが、それを体験するのは、この世ではなく、私たちの考えや判断でもなく、神を信じることを選択した時なのです。

 聖研では民数記14章のカナンの地への偵察隊の報告を聞いた後の人々の恐れとつぶやき、そして指導者への攻撃を学びました。多くの不信仰な人々は、試練が起こった時に耐えられず、乗り越えることよりも恐れることを選ぶのです。「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないことを確信させるものです。」(ヘブル11・1)とありますが、試練に際して、恐れないということは、その人の信仰の証明となります。

 不信仰な民は、不幸なことばかり考え、「エジプトへ帰ろう。」(民数記14・4)として、奴隷とされて苦しんだ生活を望むのです。そして、前進しようとする指導者を殺そうと企てるのです。

 信仰をもって生きる、希望をもって生きる、ということは、なかなか大変なことです。困難を克服するためには、自分の無力さを思い知らされ、努力と忍耐を必要とするからです。誤魔化しの生き方は通じないからです。

 パウロは何を「絶えずあなたがたのために祈り求めて」(1・9)いるのでしょうか。それは、神は、私たちを御霊によって成長させて、神の国の民にふさわしい人間に成長させるのが目的だからです。この地上の人生の意味は、「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられ」(1・10)るためなのです。そして、主の御心に適った歩みをすることによってしか、神に近づくことはできず、神を知ることもできないのです。単に知識的に聖書を知り、その論理を学んでも、神と語りあうことはできないのです。

なぜ、宇宙があり、世界があり、社会があり、悪があり、試練があり、災害があり、病気があり、困難があるのでしょうか。私たちを試すためなのです。「今日、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心を頑なにしてはならない。」(ヘブル3・15)とあるのです。

「光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神」、つまり、神の子として神の国に永遠に生きるという約束が、簡単に達成されるはずがありません。イエス様は、「光りの子となるために、光を信じなさい。」(ヨハネ12・36)と言われました。闇の世界において、光を信じて、困難な道を歩むことによってこそ、光の子と成れるのです。

 「神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、」とは、神を信じる歩みをして神の権能を引き出すことが必要であり、そのことによって強くされるということなのです。ですから、神を信じる歩みをするということは、「忍耐と寛容を尽くし」て、神を信じるという以外にないのです。

 現代日本のキリスト教は、信仰生活を教養か趣味、あるいは神が守ってくださる楽な生活のように教えてしまっています。それでは、奇跡も祝福も、御霊の人となることも期待できません。日夜、祈り、聖書を読み、賛美と感謝を献げながら、この地上の人生を信仰をもって、強く生きることが必要なのです。


11月6日 神の御前に立たせられるために。  コロサイ書11523

新改訳 コロサイ1:6-13
1:15
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17
御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
1:18
また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
1:19
なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
1:20
その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
1:21
あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、
1:22
今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。
1:23
ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。

日本は多神教の社会です。多神教では、宇宙の創造や起源などは考えません。永遠の昔から、天地万物は存在し、そこに霊の存在があると考えるのです。ですから、その霊を把握し、力を得るために、呪術的・宗教的儀式をするのです。神社の信仰対象は、力があると思われる山や強大な石・木・物質であり、力があった人物も死後に霊的な権力があると信じられて礼拝の対象になります。仏教も、日本では人間が死後に仏になるとされて、礼拝の対象になります。

 それなのに、進化論も信じられています。進化論は唯物論を基にし、物質自体の働きで進化してくるというものです。実際には、進化論も多神教と混淆して、人間中心の宗教観の中に組み込まれたと言って良いでしょう。

 しかし、科学の発展で宇宙には初めがあったことが分かってきています。ところが、宇宙全体ではエネルギーは一定のはずですから、その最初のエネルギーの源がわかりません。進化にしても、無機物から有機物が形成されるということはないので、生命の発祥の理由がわかりません。実は、進化論というのも、仮説でしかないのですが、日本では仮説ではなく、真理だと教えられています。

 日本の教育では、覚えることや従うことが重視され、自ら考え、判断することは重視されません。それは、企業社会でも同様で、自分の判断で行動する人が少なくなっているので、問題の解決ができなくなっています。

 父なる神から、万物に先立って「生まれた方」(1・15)である御子は、全ての万物を造られました。宇宙の調和、地球の調和、生物の調和は、御子によるものです。「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1・1)とすれば、創造のエネルギーは神から生まれたので、問題は解決です。植物は、動物に依存するので、植物と動物が同時に造られないと、存在は難しくなります。物質も、生物も崩壊していくことは間違いないのですが、どのような単純な生物でも、偶然に生成されるということは無いのです。設計図や製作者なしに物が造られるということは無いのです。液体は固体になると重くなるのですが、もし、水が氷よりも軽かったら、水中の生物は氷が下から凍って、冬には死に絶えることになります。動物の種は、変わらないからこそ、その祖先がわかるのです。決して、進化していません。もし、進化が現実ならば、進化前の種と進化後の種は、交配ができるはずです。サルの遺伝子と人間の遺伝子は、本質的に異なり、子孫は生まれないのです。聖書では、人間は動物ではありません。神のかたちに創造された、特別な存在です。頭脳が優秀であるからといって、サルやイルカなどと一緒にしてはいけないのです。

 神の御子が、人間として生まれたのは、人間を救うためです。旧約聖書は、天地創造の経緯を示し、御子によって救いを成し遂げるという神の宣言の歴史です。そして、人間が罪人であり、神に依存しないで生きたがる罪の歴史です。

神は、人間を放置しています。そして、罪の故に、人は崩壊し、身体も心も、死んでいくのです。誤魔化しなど、死の前に通じません。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9・27)のです。ところが、日本は多神教の社会ですから、「触らぬ神に崇りなし」として、人にも神にも誤魔化しが通じると信じている人々が多いのです。「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。」(ローマ6・20)。

 救いというものは、そんなに簡単に得られるものではありません。罪によって縛られているからです。「あなたは、頑なさと悔い改めのない心の故に、御怒りの日、すなわち、神の正しい裁きの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」(ローマ2・5)。「教会に来ているから、救われている。」と誤解している人も多いものです。残念ながら、「神の正しい裁き」と軽んじてはいけません。救われていない人は、救いの実を実らせていません。「『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7・21)。

 天地創造された神は、私たち人間のうち、御心にかなう人々と永遠に神の国において過ごすことを望まれ、偉大なる救いの計画を成し遂げられたのです。イエス様の言動を読んで気が付くことは、主は偽善者を嫌うということです。「あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。忌わしいものだ。」(マタイ2328.29)。残念ながら、教会に来ていようと、聖書を読んでいようと、祈っていようと、良い実を結んでいない人、主を切に求めて御心を行おうとしない人に対しては、神の国の門から入れない可能性があるのです。

 「聖く、傷なく、非難されるところの無い者として御前に立たせてくださるため」(コロサイ1・22)に御子イエスが、十字架に掛かって、私たちの罪を負われたのですから、私たちは、罪を適当に誤魔化してはならないのです。そして、魂の救われていない者の特徴は、この罪というものに関して、鈍感なことなのです。平気で嘘をつき、平気でお金を誤魔化し、平気で自分の利益を図ろうとするのです。気をつけなければならないことは、「しっかりとした(信仰生活の)土台の上に堅く立って、既に聞いた福音の望みから外れることなく、信仰に踏みとどまる」ことなのです。


11月13日 キリストの苦しみの欠けたところ。  コロサイ書12329

新改訳 コロサイ1:23-29
1:23
ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。
1:24
ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。
1:25
私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
1:26
これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。
1:27
神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
1:28
私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。
1:29
このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

アメリカの大統領は喧嘩早い人に決まりました。これから世界は、争いと混迷の時代に入って行きます。その中で私たちクリスチャン、そして教会は、どのように歩むべきなのでしょうか。

 それは、「福音の望みから外れることなく、信仰に踏みとどまる」(23)ことです。福音とは、「神から離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあった」(21)者が、御子の「十字架の血によって平和をつくり、」(20)和解をさせてくださったことです。

 ところが、「暗闇の圧政」(13)の中にあった私たちは、福音によって救われ、作り変えられたにも関わらず、暗闇の習性が簡単には抜けきれないのです。人間の内には、たとえ救われても、「肉の欲望」(ガラテヤ5・16)があり、「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいとおもうことをすることができないのです。」(ガラテヤ5・17)。 

 それは、どういうことでしょうか。御霊によって歩むことが肉の属性によって出来ない時に、私たちは言い訳を言い、正当化をし、愚痴を言い、つぶやいて、指導者に不満を述べるのです。聖書研修会で、困難が積み重なった時にモーセに逆らい、つぶやいた人々に対して、モーセが直ぐにひれ伏し執り成しをしたことを学びました(民数記16・4)。人間というのは、自分の思い通りに行かなかったり、試練や困難があると不満をいうものです。不満を言いながら御霊によって歩むことはありません。そして、不満や愚痴を言うと、祝福と不幸の三叉路で、必ず不幸の道を歩んでしまうのです。だからモーセは執り成すのです。

 御霊によって歩むこと、信仰に踏みとどまるということは、なかなか難しいことであり、これからの困難の時代には、さらに厳しいものとなるでしょう。信者はもちろんのこと、牧師や教職者は、サタンの攻撃を含めて、極めて少数の者しかとどまれないでしょう。

 私は、自分の母のことを想います。苦労が続きながら9人の子供を育て、そして愚痴も弱音も吐かず、人を非難したり、批判したり、攻撃したことはありませんでした。認知症になっても、人に迷惑を掛けず、ありがとう、すみません、と言いながら、にこやかに過ごしていました。母から怒られたのは、性的なことを話した小5くらいの時だけでした。今は、同じように柔和で喜んで過ごす妻と一緒にいることを心から感謝しております。

 「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30・5)。なぜ、涙が湧くのでしょうか。苦しく、悲しいからです。それを神に向けなければなりません。弱音を吐き、愚痴を言う人は、心を神に向けていないのです。

 「自分を義人だと自認し、他の人々を見下している者たち」(ルカ18・9)をイエス様は、義とは認めませんでした。人に期待し過ぎると、批判が生まれます。凄い信仰者になることが大事ではありません。私は、今日の聖句、「キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」24)に身震いするほど、感動し、大事にしています。

 人々の為に、何が出来るでしょうか。キリストは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分でわからないのです。」(ルカ23・34)と執り成されながら、十字架で死んでいきました。十字架の苦しみに掛けたところがあるとしたら、現在の教会に集っている人々の苦しみを、私が負うしかないのです。

 人には、それぞれ苦しみ悲しみ、そして困難や試練があります。それについて、愚痴や不満、つぶやきを言っては、サタンの惑わしに会います。そして、進むことができなくなり、破滅していくのです。それについて、人に何ができましょう。

 私は、人の癒しのために祈る時、その病を負う覚悟をします。詩篇53編に「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。」5)とあり、イエス様が、私たちの病や傷を負ってくださったので、癒されることがわかります。それで、人のために祈る時、その人の病、問題、苦しみが自分に掛かることを覚悟しなくては祈れないことを知ります。ところが、多くの人が、犠牲を覚悟しないで、他人に祈ってくれとか、祈るとかしています。

 そういう安易な祈りの要請は、本人の浅薄な信仰を現わしています。祈りは霊の戦いであり、本人に戦いに勝利する願いと意思がなければ、かなえられることはありません。ところが、肉に属している人、霊的でない人は、そういうことは理解できないのです。

 昔から、戦士たちは、国の為、社会の為、家族の為に戦ってきました。男というのは、そういうものでなければなりません。理解されようとされまいと、愛する者のために犠牲になる覚悟を持たなければならなかったのです。

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16・24)とありますが、自分の十字架とは、自分と自分に関わる人々の罪深さの故に死を覚悟するということです。「キリストの苦しみの欠けたところ」とは、あなたがあなたの周囲の人の問題や困難を負って代わりに苦しむことを意味します。

 もし、あなたが、その十字架を負うならば、イエス様があなたのくびきを共に負ってくださいます。「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、魂に安らぎがきます。」(マタイ11・29


11月20日 奥義なるキリストの栄光。  コロサイ書12523

新改訳 コロサイ1:25-23
1:25
私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
1:26
これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。
1:27
神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
1:28
私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。
1:29
このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。
2:1
あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。
2:2
それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。
2:3
このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

私たち、牧師教職の務めは、教会というキリストの身体の働きに仕え、神のことばが栄光と力と偉大さに満ちたものであることを伝えるためです(25)。これは、奥義であると聖書は語ります。

 私が牧師になったのは、「主がお入用なのです。」(ルカ19・34)という語り掛けに応えてのことでした。ロバの子が、イエス様のエルサレム入城の際に用いられたように、自分の牧師としての働きが何の為であるのかも、よくわからずに神の召しに応じたのです。

 神学校に行き、伝道者としての人生は苦難の連続で、社会で働いたほうがもっと効率が良いのではないかとも考えたこともありました。先週のメッセージの「キリストの苦しみの欠けたところ」ということも分かりませんでしたが、苦しみの連続でひどくなるばかりでした。

私は、基本的に、牧師伝道者で、苦労や困難に遇いながらも伝道を続けている人は、どんなに成果が上がらなくても、能力がなくても、評価し、尊敬しています。ロバや犬が、苦しみや苦痛が大きくても、文句を言わずに我慢しているのを見ながら、これが仕える者の本質であると悟ったことがあります。日本の場合、殆どキリスト教の牧師伝道者は、ろくなことがありません。それでも続けているのは凄いことです。

 ただ、私の場合は、「神は聖徒たちに、この奥義が栄光に富んだものである」(27)ということを「異邦人の間にあって(日本において)」(27)、知らせたい、現わしたいと思っていました。負けじ魂が強いのが、私の特徴です。ともかく、私の人生は、教会に注ぎ、教会に掛けようと思ったものです。妻が、私以上に教会と伝道に熱心であることは、強い励ましでした。

 私たち夫婦は、収入の中でなるべく多くのものを献げて来ました。できる限りと言ったほうがふさわしいでしょう。それでも、思いがけぬほどに豊かになり、祝福されています。しかし、さらに私の願いは、魂の救いです。この教会にも中国人が集うようになりました。長男の嫁が中国人なので、その救いの為に祈っているうちに、集まり始めたのかと思っています。でも更に多くの中国の人が、この日本で救われて欲しいという思いで祈祷課題に載せたのは、2014年8月3日の週報からです。30周年記念会の後で、引退は20年後と決心した時でした。

 2年以上祈り続け、H師に「誰か中国人の伝道者はいないかね。」と聞くと、「いる。」と答えがありました。私の条件は、苦労している人、純粋な人、理論的推敲が出来る人、でした。簡伝道師とあって、苦労と純粋は間違いないと思いました。後は、しっかりと聖書と神学を勉強することです。自分の人生を教会に掛け、聖書が「奥義であるキリスト」を語っていることを探りだす必要があります

 

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Uテモテ3・16)聖書は、真理を教えて、私たちが真理から離れていることを示し戒め、そして真理に至るように矯正します。さらに、「キリストにある成人として立たせるために」(コロサイ1・28)、正しい生き方「義」の訓練をする必要があります。

 クリスチャンとして訓練されたがらない人は、「神の人」になることはありません。そして、その教則は、すべて聖書にあるのです。教則を読み、覚えても、実行しなければ役に立ちません。教えられ、戒められて、矯正されることを嫌がる人は、義の訓練にまで至ることはありません。

 私にとって、牧師に召されてからの15年ほどの試練や苦労は、ロバのような頑固で鈍感な者が矯正されるには必要な期間だったようです。神に要求するのではなく、神に従うことが最初の一歩であることを身に付けました。

 「牛の調教のコツ」というものがネットにありました。牛は自己防衛本能があり、反抗というよりむしろ恐れの現れとして従わないのだそうです。良い習慣を身に付け、飼い主に従順でしっかり働くためには、牛を愛し大事にすることが牛に通じ、分かるような飼い主の人格と態度、信念と忍耐力、そして、卓越した技能が必要なのだそうです。

 イエス・キリストが卓越した方であることは間違いありません。ただ、それに応じる人間、ないし「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21・17)という命令を果たすべく、「わたしに従いなさい。」(ヨハネ21・19)と主に従う牧師・伝道者が必要なのです。

 パウロは、信仰者を「キリストにある成人として立たせる」28)ために、「労苦しながら奮闘し」たからこそ、「自分のうちに力強く働くキリストの力」(29)を体験したのです。弟子化命令(マタイ28・19)あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」は、牧師・伝道者だけに語られたものではなく、全てのクリスチャンに語られたものであり、そうすることによってこそ、私たちは、「神の人」に成熟していくのです。


11月27日 キリストにあって歩む。  コロサイ書2312

新改訳 コロサイ2:3-12
2:3
このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
2:4
私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。
2:5
私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。
2:6
あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。
2:7
キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。
2:8
あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。
2:9
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10
そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
2:11
キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
2:12
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

私たちアッセンブリー教団は、世界で6千万人以上の信徒を抱えるようになっており、成長を続けています。中南米のプロテスタントは、殆どがアッセンブリーだそうで、伝道の困難な地域や国にも、当教団の宣教師が入っています。世界的には、聖書をそのまま神の言葉であると信じ、神が祈りに答えて奇蹟を起こすと信じている教会だけが成長を続けているそうです。教会も集会所や講堂というよりは、礼拝堂らしいものが望まれ、説教も礼拝スタイルも、現代的なものというよりは古典的なものが求められているようです。

他方、日本社会では、「進化」という言葉がやたら用いられ、性的な頽廃も酷いものとなっています。人間が、単なる動物の一種であるならば、性本能のままに生きるのも当然となり、道徳的な基準は廃れ、家庭も社会も国家も、生存競争となり、勝利するためには何をしても良いという価値観がはびこるものとなります。道徳や原則や価値というものが、単に相互利益のためのものとなり、利益や成功に繋がるならば、正当性があるものと見なされます。裁判の基準も相互利益となるならば、弁解が通れば、何をしても罰せられないものとなります。そういうことを「むなしい、だましごとの哲学」(8)というのです。

 教会もまた、経済的に維持運営しなければならない為に、信者を集め、献金額を確保・増大させようとする場合があります。それを「伝道」という巧みな言葉で、信者にアピールするのです。まるで新興宗教のようになって、牧師や教師のために動く組織になってしまうことがあるのです。しかし、本物には偽物はつきものであり、歴史的に、教会は維持され、世界に広がってきました。つまり、真実な信仰者は信仰を貫き、そうでない人々は、言い訳を言いながら信仰から離れていくのです。「まことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導く」4)人がいるのです。

 エリヤが疲れ果て、「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」(T列王記19・10)と神に嘆いた時、「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(同18)と語り、真実な信仰者が残っていることを示しました。

 エリヤの弟子のエリシャに対して、丁寧に接待する女性がいました。彼女の為に祝福を神に祈ろうとするエリシャに対して、「私はしあわせに暮らしております。」(U列王4・13)と断ります。平凡な幸せで満足しているのではなく、幸せを願うことに疲れ、試練を恐れていたのです。彼女に子どもがいないことを知ったエリシャは、子を産むことを祈ります。

 ところが、その子が死んでしまいます。彼女は、エリシャを接待していた部屋に息子を寝かせ、遠いカルメル山のところにいるエリシャに会いに行きます。途中、エリシャの弟子が息子の安否を聞いても、「無事です。」(同4・26)と答えるだけで、必死にエリシャにすがりつきます。彼女は決して、「息子が死んだ」とは言わないのです。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」(同4・30)として、息子を生き返らせることを要求します。エリシャは自分のいのちを注いで、この子の為に祈り、彼は生き返りました。

 先週の讃美礼拝には、感動しました。教会員が自らの信仰と判断で讃美し、礼拝し、献身している姿を見たからです。開拓時代から、教会には、「過ちに導く」人がきて、信者を惑わし、信仰から離れさせてきたからです。20年間は、給料も貰わずに教会の形成のために夫婦で生きてきました。躓き、悩み、苦しんだ末に、自らの献身が中途半端なものであり、信者に信仰を要求する都合の良いものであることを悔い改めました。そして、自らは神に献身し、他の人には、何をも要求しないで感謝をすることに決めました。信仰者を育て上げるには、自らが献身を徹底するしかないと悟ったからでした。ところが、教会員の自発的な信仰を見て、感動をしたわけです。「あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。」(2・5)とあるとおりです。

 「あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(2・10)と信じて、「キリストにあって歩む」(2・6)ならば、確かに、満ち満ちたものとなるのです。「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」(マタイ25・29)とあるように、信仰を持って歩んでいる者は、祝福されていきます。息子を与えられた女性のように、祝福を恐れる人は多いものです。祝福を求めるということは、試練や困難も覚悟するということです。

 「バプテスマによってキリストとともに葬られ」(2・12)とは、自分の在り方、自分の意地を捨て、恥も苦しみも覚悟するということです。もし、あなたの人生が、主イエスを救い主として受け入れてから、変わっていない、祝福されていないとしたら、あなた自身が、この世に死んでいないからです。死ななければ、復活はありません。

 日本人は、人の目を気にして、恥をかくことを嫌います。しかし、実は、それを覚悟しなければ、信仰の奥義を得ることはできないのです。信仰とは、人の目を気にせず、神の目を気にすることだからです。キリストにあって歩んで下さい。


12月4日 キリストにあって生きる。  コロサイ書21219

新改訳 コロサイ2:12-19
2:12
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
2:13
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
2:14
いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
2:15
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
2:16
こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
2:17
これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
2:18
あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、
2:19
かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。

日本でもクリスマスが祝われていますが、実際は西洋のお祭りだから、それに付き合おうという程度のもののようです。保育園では、子ども達に「クリスマスって、なあに?」と尋ねたら、「サンタさんが来る日!」と答えられました。

 

 子ども達に教えるべきことは、次の通りですが、簡単にはいきません。

  神は宇宙を造られた(創世記1章1節)

  神は人間を愛して、神の似姿に造られた(創世記1章27節)

  神は人間を地の全てを支配されるように祝福された(1章28節)

  動物と違って霊(人格)のある人間は、自由意思を持っており、神の教えに背いて罪を犯した(創世記3章)

  神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3章17節)

  「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」(ヨハネ3章18〜20節)

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2・6-8)。

 人間は自己主張の塊です。自己中心を罪というのですが、自分を正当化するためには、平気で罪を犯します。自分の利益の為に、人を不利益にしようとします。そういう自己中心を罪であると感じ、認めて悔い改め、そのような自分を死ななければならないと願った者が、神から与えられる信仰によるいのちを得るのです。これを魂のよみがえりと言います。洗礼式の時に、水に浸されて、この世に死に、自ら上がって、神の国に生きたことを例示するのです。

 ところが、人間は根っから罪人なので、洗礼を受けたら、「もう救われており、天国に行ける。」と、簡単に捉えて、日々の罪ある生活を軽んじてしまうのです。イエス様は、しばしば、「木の良し悪しはその実によって知られるからです。」(マタイ12・33)と言われました。そんなに簡単に神の子とされて、永遠の国、天国に行けるはずもないのです。洗礼は、入門式に過ぎません。救いという神の選びにあっても、あとは私たちの信仰とその実によって選別されるのです。実際、洗礼を受けても、その後、信仰者としての実りを得ていない人は多いものです。

わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。(黙示録3・1-2)

 つまり、自らを魂の救われたクリスチャンであると自惚れているけれど、実際には、不品行をし、敵意を持ち、憤り、喧嘩や争いをするのです。そういう人たちが、神の国へ入門はしたけれど、既に落後しているか、落後し掛かっているということに気が付かない場合が多いのです。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ5・19-21)。

 ところが、逆に、自分の救いに不安な信者に向かって、「あれをしてはいけない。これもしてはいけない。」と律法的、形式的な指導をする指導者もいます(16)。或いは、自分は「幻を見た」(18)などと特別な者であると誤解して、敬虔に歩むこと、「頭なるキリストに堅く結びつく」(19)をしない偽クリスチャン、偽指導者がいるのです。実際には、この教会にも魂の救われていないクリスチャン、天国に行けない信仰者はある程度いると思います。それはしょうがないことなのです。

 マタイ福音書13章には、畑には良い麦も毒麦も蒔かれてしまうとあります。地引網に集まった魚のうち、良いものは器に入れ、悪いものは捨てる、ともあります。教会には、毒麦もあり、悪い魚も入るのはしょうがない、とイエス様ご自身が言われているのです。しかし、大事なことは、毒麦に見えたもので、良い麦である場合もあるので、勝手に引き抜かないということです。

 教会には、仲良く交流している人同士でも、残念ながら、神の国に行く人もいれば、行けない人もいる、ということが真実であり、それどころか、攻撃的な人、かき回す人もいて、信仰者を攻撃して、神の国に行かせないようにする、とあるのです。

 イエス・キリストは、忍ばれて十字架への道、生涯を歩まれました。信仰者の人生を安逸なものと求める人が神の国に行くことは殆どないでしょう。そして、残念ながら、天国は誰でも行けるほど広くはなく、安逸な道でもないのです。


12月11日 神の救いを見る。  ルカ福音書2210

新改訳 ルカ32-10
3:2
アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
3:3
そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。
3:4
そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:5
すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
3:6
こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」
3:7
それで、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
3:8
それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
3:9
斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
3:10
群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」

バプテスマのヨハネの父はザカリヤと母エリサベツは「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行なっていた。」(ルカ1・6)という年老いた夫婦でした。この夫婦に、「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子ども達に向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」(ルカ1・17)というヨハネが生まれるのです。

 この妊娠と出産に際して、父ザカリヤは、天使ガブリエルのお告げを信じなかったので、話せなくなります。ところが、産後の命名の時に、ガブリエルの言う通りに「彼の名はヨハネ(主は恵み深い)」(1・63)と書くと、たちどころに口が開いて、神を誉めたたえることとなります。そのような超自然的な出産があったので、人々はみな、「いったいこの子は何になるのでしょう。」(1・66)と噂されていたたのです。

 この後の父ザカリヤの讃歌はすばらしいものであり、幼い息子が、「この救いは、我らの敵からの、すべて我らを憎む者の手からの救いである。」71)、「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。」76.77)と、使命を持った力強い人生を生きることを確信しています。

 イエス様より半年先に生まれたヨハネは、「その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。」80)とあり、その姿は、「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。」(マタイ3・4)とあるので、小さい時から、世の中と接触せずに過ごした野生児であったことがわかります。

 純粋な信仰、強い霊性を邪魔するのは、俗な人々との交流です。清さや謙遜と関係ない世間話を時間を費やすために繰り返していると次第に愚かでに霊性の鈍い人になっていきます。人を痴呆にするのは、テレビを見せていたら、それで簡単に達成できるでしょう。消費をさせる為には、その欲望を満たすように作ったテレビ番組を見せていたら良いのです。論説や情報を得ても、賢くもならず、単に批判的な洗脳を受けるだけなのです。

 知識は、自分が努力しなければ、健全に形成しないのです。それを実践する生活がなければ、知識など何の役にも立たないのです。健康も、努力しないで、サプリや食べ物、或いは器械で得ようとしても無理なのです。人に罪を犯させるには、エバを誘惑したように「食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする」(創世記3・6)ものを示せばよいのです。

 さて、そのように過ごしている人々に対して、荒野で野生の物を食べて暮らしていたヨハネが、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3・2)と荒々しく叫びます。

人間というものは、皆が罪を犯していたら安心するのです。特に、教師、医師、警官、政治家、有名人、宗教家などが罪を犯すと、怒りをぶつけて批判をするのです。新聞、テレビ、ネットなどの情報が、ゴシップ記事や批判的なものが多いのは、他人の罪深さに、自らが安心するからです。

しかし、あなた自身の罪を深く自覚するならば、とても批判などできるものではありません。批判や攻撃をする人の霊性は低く、汚れているのです。水が低い所に流れるように、人の霊性は低い所に関心が集まるのです。注意をしなければなりません。聖書を毎日読み、祈り深く歩むということは、私たちの霊性を守り、罪を犯さないために非常に大事なのです。

「彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。『まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。』」(3・7.8)。怖い言葉です。その言葉で悔い改める人は幸いです。実際には、多くの人が、その言葉に腹を立て、ヨハネを攻撃するのです。

霊性を強く持たないと、批判や攻撃に耐えられません。祈り深くないと、とても、この世で、信仰を保ち、神の国への道を歩めないのです。

 「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」との命令を実行する者だけが、「神の救いを見る。」ということを悟らなければなりません。


12月18日 キリストにいのちがある。  ヨハネ福音書1111

新改訳 ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2
この方は、初めに神とともにおられた。
1:3
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
1:6
神から遣わされたヨハネという人が現われた。
1:7
この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
1:8
彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
1:9
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

法治国家であれば、国家は法に従わなければなりません。しかし、現代日本では法よりも利益が大事なものとなって、法も憲法も利益のために変えられようとしています。さらに、この利益が国民の利益というよりも、特定の人のため、特定の企業のためのものであるようです。

『ローマ人の物語』を読むと、ローマ帝国が皇帝も含めて兵士も議員も、ローマ帝国の繁栄と国民の幸せのために命掛けで働き、法に従うという論理性を持っていたと思われます。ですから、ローマに立ち向かうと、支配された属州民までもがローマの為に戦うと言う脅威に晒され、どの国と言えども勝つことができないという圧倒的な平和があったわけです。そのことを「パクスロマーナ」(ローマによる平和)と言い、人類史上最も平和な時代であるとされています。このことをもじって「パクス・アメリカーナ」(アメリカに拠る平和)がアメリカの世界平和に対する犠牲的な働きによって第2次世界大戦後しばらく続きました。しかし、実際は、ローマ時代のような権益なき統治ではなく、アメリカの大企業が繁栄する覇権主義的なものも同時に起こっていました。今やトランプ次期大統領のような孤立主義が台頭し、自国の繁栄だけを求める指導者が世界中におおくなりました。日本も同様な歩みをしているのです。そして、これは、聖書預言のとおりであり、世界は利益を求める覇権主義の中で争いを繰り返し、自然破壊が進み、滅びの道を歩んでいくのです。もはや世界平和は夢であることが明らかなものとなってきています。

マタイ24章には、世の終わりのしるしとして、戦争、民族紛争、飢饉、地震、殺害、クリスチャンへの迫害、愛が冷え憎み合い裏切り合う、不法がはびこる、などが列挙されています。しかし、「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ24・13)、「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」(Uテモテ3・1-5

 こういう人々は、キリストにあるいのちのない人々です。残念ながら、私たちは自分中心の生き方をする99.9%の人々の中に住んでいるのです。しかし、「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1・13)とあります。俗なる社会で、俗と相容れないで、「この方を受け入れた人々」(1・12)が私たちであり、「すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」のです。

ですから、Uテモテ3・1-5で挙げたような人々は、この教会に留まることはできないのです。「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」だからです。これまで、多くの偽教師によって惑わされてきたことでしょう。彼らは、イエス様を試みたサタンのように御ことばを用い、そして善良な教会員を惑わし、自分達の所に連れて行って、そして挙句の果ては夜逃げをしたり、その群れを辞めたのでした。私は、このような人々が、教会に来たくてうずうずしているのを知っています。教会は善良な人々の集まりであり、騙し易く、誤魔化し易いのです。私たちの聖なる日々を、彼らのへの労苦や世話で徒労にさせてはならないのです。

 マリヤもヨセフも、ゼカリヤもエリザベツも、そして、東方の博士たちも、羊飼いたちも、さらにシメオンも「正しい敬虔な人でイスラエルが慰められるこpとを待ち望んでいた。「聖霊が彼の上にとどまっておられた」(ルカ2・25)人であり、アンナも「84歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって神に仕えていた。」(2・37)人でした。こういう人々に、イエス様はいのちを与えられたのでした。

 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(1・9)のですが、「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」(ヨハネ3・20)のです。終わりの時代とは、善人と悪人がはっきりわかるようになる時代であり、善人が少なくなる時代なのです。そして、神を信じるいのちとは、キリスト・イエスからのみ流れてくるのです。


12月25日 救い主を求める。  ヨハネ福音書11118

新改訳 ヨハ 1:11-18
1:11
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15
ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

保育園のクリスマスには多くの親や祖父母が参加して、楽しく賑やかなものでした。子ども達が、家族の喜びになっている様子がわかり、嬉しくなります。他方、モンスターな親や患者が、保育園や学校、そして医療機関や福祉施設にとって脅威になり、保育士・教師・看護師・福祉関係の仕事に就きづらくなっているのも事実です。要望ならば当然の権利ですが、自分の思い通りにならないと執拗な苦情を繰り返し、担当者や関係機関を疲弊させます。

 先週の聖句「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1・5)という言葉も、もし私たちが、真の光であるイエス・キリストに依り頼まなかったら、闇に勝つことはできません。自分の能力や力などというものは、光る為には、役に立ちません。クリスマスの花、ポインセチアも太陽に当たらないと力を失い、枯れて来てしまいます。いくら水を上げても、室内の人工の光だけではだめなのです。光を当てていると、日照時間が少なくなった時、赤い葉が増えるのも不思議なものです。

イエス・キリストの「満ち満ちた豊かさの中から」、「恵みの上に恵みを受け(ヨハネ1・16)るということが、信仰生活の奥義です。自分の力の限界に行き詰った時こそ、私たちは、神に期待し、神に祈り、神に求めるのです。そして、現実には、その限界ばかりなのですが、私たちは、自分の力で解決しようとすることこそ、罪の本質であり、排他的になり、批判的になり、攻撃的になるのです。私たちもまた、人工の光、力では輝くのが無理なことを悟らなければなりません。

 もし私たちの心に、少しでも苛立ちがあり、不満があるのなら、神の前に静まって祈り、心を吟味してみようではありませんか。

 乙女マリヤの強さ、それは、聖霊によってみごもるということを告げられた時、全ての困難と迫害を覚悟して、すぐさま「わたしは主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(ルカ1・38)と受け入れたことです。

 ヨセフの強さ、それは、マリヤが身ごもったことを知っても、「ヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかった」(マタイ1・19)という優しさにも結びついたのです。

 東方の博士たちの強さ、それは、人生を掛けて救い主を探し求める旅をしたことです

 自らの力、それは真の光でもなく、いのちに結びつくものではないことを悟った人こそが、神を、救い主を求めたのです。

 ナザレには、宿屋に泊め切らないほど多くの人々がおりました。しかし、天使が救い主の誕生を告げたのは、彼らではなく、野宿をしている羊飼いたちでした。町の人々には、魂の飢え渇きが無く、天使が告げても、関心を持たなかったからでしょう。

 同様に、クリスマスを祝う、ということが、サンタさんの祭りで、賑やかなパーティーをしてプレゼントを交換し合うというものであるという認識の人々に、天使が「家畜小屋で密やかに生まれた貧しい夫婦の子の誕生」を伝えても、好奇心は呼んでも、魂の救いを求める契機にはならないと思われます。

 現実には、この社会にも多くの問題が生じており、人々の暮らしは楽な物ではなくなっています。そういう中で、「酒でも飲んで憂さを晴らす。」、「パーと楽しんで忘れてしまう。」、「難しいことは考えないで、その日その日を楽しく過ごす。」などという考え方もあるでしょう。多くの教会が、クリスマスこそ伝道シーズンとして、人々を集めようと趣向を凝らして、賑やかな催しを開きます。

 でも、私は、そういうことによって、却って、真理を求め、苦しみの解決を求めて真摯に探している人々に対して、教会が軽薄な印象を与えてしまうのではないかと心配します。

 私自身、1974年の12月に教会に来たのは真理を求めてでした。神が本当におられるとは考えてもみなかった者にとって、教会の華やかな催し物は違和感がありました。しかし、28日の聖餐式の説教によって救われ、新年聖会の厳しい言葉によって悔い改めたのでした。

 保育園のクリスマスでも、「父たちの心を子ども達に向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ」(ルカ1・17)ることの大事さを語りました。楽しいサンタさんのお話をしたことはありません。

 23日の休日には、妻は20名以上の従業員に手作りのクリスマスカードを書き、教会員には50個のスイートポテトを作っていました。私も、チキンの丸鳥をスモークし、風邪を治そうとしていました。自分を喜ばすことよりも、人々を喜ばすことに関心があります。隣家のコンサートは思わぬ御褒美でした。

 私には、「クリぼっち」と言われる一人で過ごす人に関心があります。「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」(ヨハネ7・37.38