7月3日 尊いことに用いられる器になる。  Uテモテ書21926

新改訳 Uテモテ2:19 それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」
2:20
大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
2:21
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。
2:22
それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
2:23
愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。
2:24
主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、
2:25
反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。
2:26
それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。

神は陶器師であり、私たちは天地創造の前から神に定められた者であるとお話しました。それでは、全て神の御心と計画の中に定められているのかというと、そうではありません。神は、歴史の中に常に関わりを持っておられるのですが、私たちの心の中にまで立ち入ることはできないし、そのように自己を持った存在として人間を造られたからです。そして、如何に生きるかということは、私たち自身が決めることなのです。

 「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」(3・19)とは、たとえ神の定めの中で教会に導かれ、救われたとしても、不義・不敬虔な者は、神から離れてしまうということです。自分の環境、状況に満足できず、不満や苛立ちを持っている人は、不純物を持っている陶器のようで、使用の中で割れてしまうのです。

 陶器について調べてみました。粘土の質と焼き方によって、土器・b器・陶器・磁器と分類されますが、大事なのは素材としての粘土であり、不純物が含まれると乾燥や焼いた時に収縮率が均一でなくひび割れてしまうようです。土器は、良質な粘土を必要とせずに窯なども使わなく、水も通し壊れ易いので大事なものとしては造らないようです。土器が700〜900度で造られ、陶器は1100〜1300度です。b器は1200〜1300度ですが、備前焼や常滑焼などの釉薬をかけない自然風なものなので、土器と陶器の中間に位置づけられるようです。磁器は1300度くらいで焼き、ガラス質が素材に含まれているので堅く、伊万里焼や九谷焼があります。

 20節の『大きな家』とは神の家、教会という意味でしょうが、そこには高価な金や銀の器もあり、木や土の器もあり、当教会の理念3のように「多種多様な人々が神によってこの世から召し出されて来る」のです。ただ、尊いことに用いられるのが金や銀の器であるとされているのではなく、自らを聖めて不義を離れた者が「尊いことに用いられる器」となると書いてあります。

 金や銀の器とは、能力も才能もあり育ちも良かった人材のことを言うのかもしれません。人生を長く生きてきて、頭が良く能力のある人が幸せになるというものではないことを見聞きしてきました。でも、木や土の器であるかもしれない、金を掛けて育てられず、能力も対してない人々が幸せになるということでもありません。先週、神の定めであると、お話しました。ただ、その聖句は「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1・4)という言葉に続いているのです。

 陶器の土は、水で洗われ、ゴミや動植物の残骸を取り除かれ、粒子を細かく砕かれ、さらに数年は、むしろを掛け野積みにして放置するそうです。この『寝かし』をしていない土は、陶器の材料にしてはいけないとされるようです。神にも放っておかれるわけです。これが、その素材を練られたものにするわけです。

放っておかれる時に、その人の人間性が現われて来ます。『情欲』22)に負ける人もいます。自己中心で沈黙の神を恐れない『無知な思弁』『争い』23)を起こす人もおります。『反対』25)ばかりする人もいます。放っておかれた時に、カビが生えたり、異臭を放ったりしたら、捨てられてしまうしかないのです。

 次に水を入れて良く練ります。そして、道具を使って成形されます。どんなふうに成形されるのか、人は神の手の中で思いも寄らない形にされていくものです。そして半乾燥、仕上げ、乾燥、素焼き、絵付け、釉薬付け、本焼き、上絵付け、仕上げ焼き、完成、となっていくそうです。手間が掛かりますね。

「しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」(Tペテロ1・6.7)とあるように、人生というのは、土から陶器造りの全過程かと思います。何と多くの過程があるのでしょうか。

それでも、人は、自分が金や銀のような高価な素材でないと、もう嫌になってしまうことがあるようです。そういう人は、備前焼の製作過程と出来上がりを見たら良いでしょう。長い年月を掛けて造り、更に12日間1300度で焼き続けるのだそうです。自らを顧みる時に、未だ製作途中であると思われます。

「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Tペテロ1・16-19


7月10日 信者はキリストの身体の一部分。  Tコリント書121427
Tコリント12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15
たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16
たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17
もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19
もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20
しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
12:22
それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23
また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24
かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

今日は、教会はキリストの身体であり、私たちはその一部である、ということをお話します。信者がキリストの身体を構成するという理解の第一は、教会が世界で一つしかないということであり、地域教会はその一部を構成する組織でしかないということです。教派教団の優劣を競う牧師たちがおりますが、それは一つ身体という理解をしっかりすれば、愚かなことであることがわかります。これを公同の教会と言い、世界中のクリスチャンが有機的に結びついて、一つのキリストの身体を形成しているのです。地域教会の大小も、神の目から見れば機能的なことであって、小さい教会もまた必要なものなのです。「身体の中で比較的に弱いと見られる器官が、帰ってなくてはならないものなのです。」(22)。

更に理解の第二は、信者ひとり一人の優劣や違いもまた、機能上のことであって、誇ったりするものでないことがわかります。「神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。」(18)。ただ、十分な栄養や酸素が送られないと身体は機能不全になります。健全に成長していない地域教会や信者は、聖霊に委ねて生きているか、御ことばをしっかりと食べているか、地域教会における信者の交流を確保しているかをしっかりと吟味しなければなりません。身体に、病原菌や有害な物が入るのは当たり前のことで、それを排除するのは、普通の活動なのです。大事なことは、優劣ではなくて、いのちがあるかどうか、なのです。

ガン細胞というのは自己増殖だけを諮ることによって、他の臓器を浸食し、その働きを損なわさせるのであって、それは罪と非常に似ています。正常な細胞は則を越えることはありません。つまり、遺伝子情報に基づいて形成され、傷は修復まではするけれど、それ以上の増殖はしないのです。肝臓は修復力の強い臓器で、ガンなどで大きく切除しても、元気なところがあれば、正常な大きさまで復元するのです。遺伝子情報というのは、神の定めた法則であって、それに従って、身体というのは営まれ、病気なども修復されるのです。 教会成長で自己増殖だけを諮る教会や、自分の幸せや成功だけを願う信者は、ガンのような存在になってしまうということが、第三の理解です。「からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」(25)。

  マリヤ・クリニックの治療は、分子整合栄養医学というもので、これは身体の健康の設計図は遺伝子にあり、遺伝子情報に基づいて身体の各部が形成されるべく必要な栄養を供給すれば、身体は癒されていくという考え方を基にしています。但し、外部から害のあるものが侵入してきた時は、それを検査などで確認して、除去したり、積極的な対応をしなければなりません。普通の病原菌やウィルスなども、基本的には身体の免疫力に依存して対処するのですが、それを薬などで過度に干渉すると身体自体の免疫力が弱くなってしまいます。実は、薬だけで治る病気というのはないのです。

このようにして、人の病気や怪我も、本来の身体の免疫力を含めた機能が健全であれば、治っていくのですが、人間というのは罪深いもので、未知の害あるものを身体に取り入れようとして悪食を行うのです。律法にある禁止食物を食べていれば、身体に害あるものは殆ど入ってこないのですが、神は使徒10章で容認するようになっています。それでも律法の食物制限を守ってきたユダヤ人が健康で優秀なことは、皆さんもご存知でしょう。

 現代で多くのクリスチャンが、律法にも聖書にも気儘にふるまい、神は愛だからとして、博愛主義を大事にしています。これは、精神に影響を与える麻薬や薬のようで、正しく聖書に従って生きる大事さを損なっています。正しく生きるということは、実は愛や伝道、成果や影響を考慮して行動することよりも大事なことなのです。必要な栄養を摂り、必要な労働をし、必要な人間関係を保ち、必要な掟に従うということは、功利的な行動よりも大事なことなのです。このことを現代社会は、忘れています。残念ながら、安息日を守らないで働き過ぎる人は、必ず病気になり、人間関係も、幸福感も失っていきます。

 聖研ではレビ記を学んでいますが、なんでもない当たり前のことですが、それを守っていないのが、人間であり、罪人なのです。正当な理由だと思って、礼拝よりも仕事や勉強、行事や人間関係を優先する人が多くおりますが、それで神の祝福を得られると思ってはなりません。私は、人間とはそのような罪人であることを悟ってきましたので、怒ることも批判することもありませんが、ただ執り成しをするだけです。クリスチャンであるということは、キリストの身体のいのちに満ち溢れているということです。血液が十分に届かない細胞は、壊死していくか、ガン化していきます。その治療のために多くの費用と時間と労力そして、心労が掛かりますが、その時には、悔い改める力は、あまり残っていないものです。

 「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1・18-19)。「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1・22.23)。

 神の掟に従い、正しく生きるということは、信仰生活だけを一生懸命するということではありません。そういうことは、仕事の成果を求めて一生懸命することを、信仰に置き換えただけです。キリストの身体の奥義を、続けて学んで行きましょう。


7月17日 キリストの身体の働き  エペソ書4715

新改訳 エペソ4:7 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
4:8
そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」
4:9
――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
4:10
この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。――
4:11
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14
それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

 

現代日本では、個人的な成功や出世が目標とされています。そして、ある程度の歳になって、それが実現していないと、希望は平凡な日常生活を営むことに急遽変わっていきます。ある場合には、希望を子どもに託して、飽くなき目標追求を繰り返す人々もおります。功利主義的な考え方と、献身や日々の努力とは似て非なるものです。

 私自身は、社会に貢献する生涯を生きたいと思って勉学に励みましたが、突然の高熱の為、希望大学に落ちてしまって、学歴社会の日本では価値のある人生は無理だと挫折をしてしまいました。しかし、毎日勉強努力をしてきたので、生き甲斐がないことや、努力をしないことが耐えられなくて、自分の成功の為と思って適当な暮らしを始めたのでした。お酒も飲み、ギャンブルもし、リーダーとして評価は高まるのに、虚しさは募る一方でした。そして、キリストに出会い、人生の意味を悟り、神を愛し、人を愛して、この身を献げて生きる覚悟を決めたのでした。

 神はクリスチャンをそれぞれ個別に「世界の基の置かれる前から選び」(エペソ1・)とあり、それは私たちを「整えて奉仕の働きをさせ、キリストの身体を建て上げるため」(4・12)なのです。ただ、神は私たちを奴隷のように用いるのではなくて、救われた者としての自発的な思いによることを願っておられるのです。

 ところが日本社会では、人々は会社や組織に忠実に生きることが求められ、自発的な努力や自己形成が嫌われています。自分の品性や人格の成長よりも、会社への貢献や努力が評価されるのです。自らの判断で生きるならば、失敗もあり、恥もかき、心の葛藤もあるのですが、処世術では人間は浅薄になるばかりで、人格は形成されないのです。

そのように生きてきた男性たちが、引退後には自分の苦労と処世術を話題にする以外に、なにもできないつまらない高齢者になっていくのです。これでは、妻にも子供にも相手にされなくなるのです。それは人間性としては子どものようであり、「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりする」(14)ばかりなのです。

 奉仕というと、作業や仕事のように考えるのは間違っています。英語を勉強するというと、単語や文法を覚えるだけのように考えるのが間違っているように、英語を勉強するのは、英語によって外国の人や文化に触れて、仕事や交流をするためです。奉仕をするということは、神の身体である教会を構成する人々と結びついて、そのことによって神の業をするということなのです。「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長」ということは、人との交流なしには無理なのです。人と関わることは、軋轢があり、面倒なことかもしれません。

 「福音を語る、伝道をする、教会を建て上げる」ということは、人との関わりであり、作業ではありません。仕事を作業だと考える人の働きは、価値がありません。例えば芸術にしても、作業能力の優劣で価値が決まるのは、労働価値でしかなく、評価はありません。どのような仕事にも、心と人格が注がれなければ、真の価値は生み出されないのです。そういう面では、日本社会は価値あるものを作り出すことが難しくなってきました。

 教会では、牧師教職の働きは「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」、それは、聖徒一人ひとりの賜物を見出して、その奉仕のために賜物を発揮させるという働きであって、人間観察とリーダーシップ、そして愛情がなければ果たせないことです。しかし、そのようなことは、天性というものではなく、人と関わり続け、罪や弱さや諸問題や困難があろうと、愛をもって人を生かそう、神に奉仕しようという思いによってこそ、形成されるのです。

 ガンは、自己存続だけを目的として情報交換がないのです。人と関わり合わない人は、関わり合いによって自分の弱さ、至らなさが表に出て、失敗や恥をかくことを恐れるからです。そういう人を自己中心の罪人というのです。ですから、スモールグループや食事の席で自分の弱さや問題や課題を、他の人と共有できない人は、そういう罪性をかなぐり捨てなければなりません。他人の話を聞かず、一方的な物言いをする人も、罪人の典型です。ですから、教会員同志の交流や食事会は、神の国の現れであり、祝福のしるしなのです。

 「自分は理解されない。」、「人づきあいが下手だ。」、「何も知らないことがばれると馬鹿にされる。」、「心が通じ合える人がいない。」などという人は、神の愛を確認してください。罪人同士が、そのような現実から抜け出して、交流し、仲良くなることを神は望んでおられるのです。人と関わり合うことなしに、愛が深まることなどないのです。

 同様に、聖餐式に、自分は洗礼を受けていないので、と退席するのは、神との交流を自ら否定していることになります。聖餐に加われない、仲間でない自分を自覚し、それに加わることを願うことが大事です。悔い改めというのは、自分の孤独、かい離を認めることから始まるのです。

「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(4・13)。このことは、キリストの身体における交流なしに得られることはないのです。いくら聖書を学問的に研究しても、信者同士の一致は得られないのです。交流の難しいと思われる人を探して、交流を試み続けてみてください。あなたは、変わらずにいられなくなると思います。


7月24日 恵みを加えられる神  創世記302226  安田眞師

新改訳 創世記 30:22-26
30:22
神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。
30:23
彼女はみごもって男の子を産んだ。そして「神は私の汚名を取り去ってくださった。」と言って、
30:24
その子をヨセフと名づけ、「主がもうひとりの子を私に加えてくださるように。」と言った。
30:25
ラケルがヨセフを産んで後、ヤコブはラバンに言った。「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。
30:26
私の妻たちや子どもたちを私に与えて行かせてください。私は彼らのためにあなたに仕えてきたのです。あなたに仕えた私の働きはよくご存じです。」

ヤコブが最初に愛したラケルに子供が生まれませんでした。ラケルの父ラバンは、ヤコブによって祝福が与えられることを知ると、最初に姉のレアと結婚させ、ラケルを思うヤコブの愛を利用したのです。あと7年、あと7年と期間を延ばしていきます。しかし、ついに神はラケルの胎を開き、男の子を与えます。

神は時を備え、全てのことをなされます。神の答を聞くまでに私たちは忍耐が試されるのです。パウロは、ローマ人への手紙で、「患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と語っています。

ヤコブも、ラケルも忍耐を試されました。彼らの愛が試されたのかも知れません。忍耐は、私たちに多くのものを教えてくれます。ラケルは神の恵みが与えられるまで耐え忍んだのです。それは、嫉妬との戦いでした。ヤコブにもその思いをぶつけてしまいました。

そのような試練を耐えることが出来たのは、愛です。神の愛です。神は、愛をもって見守り、恵みを加えられる神です。ラケルは、神の愛に気付き、神は恵みを豊かに与えられる方であることを知ったのです。それ故に、その子を「ヨセフ」と名付けました。それは、「主がもうひとりの子を私に加えてくださるように」との信仰告白です。

人の力で生きてきた人生から神に信頼する日々に変えられたのです。

神に信頼する者を、神は愛をもって見守っておられるのです。


7月31日 自分の在り方を捨て  ピリピ書2112

新改訳 ピリピ2:1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2
私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
2:3
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
2:4
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11
すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。2:12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。

キリストの身体なる教会において、交流の大事さを聖書から説明していますが、人間の身体におけるリンパ系について感動しています。心臓から送りだされた動脈は毛細血管において静脈に向かっていきますが、その毛細血管壁には穴が開いていて、ここで水分・血液ガスなどの液体成分が細胞と交換するわけです。毛細血管の静脈に戻らないものがリンパ系に入り込むのですが、ここに細菌・ウィルス・ガン細胞など病気と関わるものが残るのです。リンパ管の所々にリンパ節があり、ここでそれらの病原体や毒素を退治するのですが、この免疫反応で勝てない時にリンパ節に炎症が出来て更に強い免役機能が対応するのです。ガン細胞もリンパ節に集まります。

 このリンパ液を動かすのは、骨格筋の収縮であり、運動をしないとリンパ液は流れなくなって、新しいリンパ液がリンパ節に送りこまれず、身体の免役力も落ちてしまうわけです。身体が運動しないと免疫力が落ちてしまい、病気になるように、私たち自身も活動をしないと、人間としての悪や罪への対応力が落ちてしまうようです。それは、教会においても同様であり、活動をしないと、社会への対応力が無くなってしまうでしょう。

 さて、私たちの教会活動や人生活動の基本であると説明してきました交流ですが、これも人とのやり取りがないとうったいしてしまいます。外国に行って感じることは、日本人は交流が下手です。

 まず、子供たちと交流することができません。男性は、自分の子どもとでも、幼児の時から交流しないと、何をしてよいかわかりません。妻に対しても、子供に対しても、一方的な従順を要求する男性は、一生を不幸に過ごすでしょう。

 要するに何だ、とまとめて報告することを要求する人は、会社の仕事と、人との交流を履き違えています。結論を出すことが大事ではなく、会話のやり取りを経て、人間というのは成長するのです。

 自分の考え方を変えることができず、他人にも一方的に指導する人は、交流の喜びを知ることができません。そもそも、問題の対処ではなく、交流ということで、世間話や人の批判ではなく30分以上話をすることが出来ることが大事です。

スモール・グループも、出来るだけ長い時間を持つことが大事です。スモール・グループは、説教の理解の確認ではなく、内容の説明でもなく、説教と礼拝における自分の感想を語り合うことなのです。人によって、その反応は全く違います。交流というのは、その違いを確認し、語り合うことなのです。

イエス・キリストは、神として超然として存在することができませんでした。それは、人間があまりに愚かで罪深く、自分勝手だったからです。それで人間として生まれてくださいました。人間の言葉で、真理を語り説明することが必要だったからです。確かに、イエス様は十字架に掛かるために、この世に生まれたのですが、それだけではありません。福音書を読む時に、その豊かな愛と配慮を知るのです。

 聖研ではレビ記が終わりましたが、祭祀の規定の背後にあることは、神に対する真摯な信仰であり、神は私たちに真実な心を要求しておられることを学んだのでした。民数記では、細かな規定の背後にある、信仰の原則を学ぶことになります。

 イエス様は、律法では罪に定められる人々の罪を赦し、交流をされました。売春婦、取税人、病人、障害者、異邦人、・・・これらの人に対して、当時の宗教指導者たちは、近寄らず、助けることもせずに、ただ裁いていただけでした。良きサマリヤ人の例話を思い出してください(ルカ10・30-37)。道端に倒れていた人を助けたのは、祭司でも、レビ人でもなく、蔑まれ嫌われていたサマリヤ人でした。

 「キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがある」ためには、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」ということが必要です。

 人を一方的に指導する人がいますが、相手が何も考えていないと思っているようです。人には、それぞれ事情があり、出来ないことも多くあります。解決の方法がわからない場合もあります。でも、交流というのは、解決の方法を見出すことではありません。解決の方法が分からない人の痛み・苦しみ・悲しみを共有することなのです。

 キリストは、そのような私たちに仕えてくださいました。「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」ここに、神との交流があるのです。

 教会にも、リンパ系のような働きが必要です。病原菌や毒素と対応することを使命として活動しながら、血液の流れに戻っていくのです。


8月7日 異なる器官が労りあう為です。  Tコリント121827

Tコリント12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15
たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16
たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17
もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19
もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20
しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
12:22
それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23
また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24
かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

死んでいく人々、神に召されていく人々が多くなってきたように思います。私は、霊の戦いの最前線は身体の管理であると考えています。健康上からは好ましくないのに、「これをやめるなら死んだ方がましだ。」などと言って、惨めな死を迎える人々が後を絶ちません。

 死とは、誰もが経験することですが、召されるというのは、神の元にいくことであって、信仰者だけが得られることです。少なくとも、生きている時に、神を信ぜず、考えもしない人が神の元にいくことはないでしょう。私は旅行が好きですが、準備も旅行の内で、多くの準備が必要です。旅行社任せでは、自分の好きな所へは行けないし、礼拝を守ることもできないので、自分でフライトから目的地、ホテル、交通機関を調べ予約します。同じように、死後の世界の準備をきちんとしない人が、死後に希望の所へ行けることはありません。

 地上での人生も、きちんと準備や予定をしないとろくでもないものになることは当然です。『神に委ねている。』というのは、献身的な人生を送った人にのみ言える言葉であり、私利私欲なく、神の為、人の為に人生を献げた人には、神が栄光を与えるのは当然なことです。

 私の母は胆石の手術をし、その前の数年間は痛みに苦しんでいました。私も、胆嚢の部分が重く、脂っこい物を食べた後は痛みます。血液検査やエコー検査では何でもないのですが、おそらく脂肪肝が胆管を圧迫し、詰まらせ炎症を起こしているのではないかと考えています。2年間でウエストは12,3センチ細くなりましたが、内臓脂肪は減っていないようです。それで糖質を摂らないケトジェニックダイエットを9月から4週間してみようと考えています。

 元気な時には何でもない胆嚢が痛むと、私の意識は集中します。そして、その癒しの為に情報を集め、祈り、為すべきことは何かと考えます。ここで、医者任せの人が、多くの場合失敗します。「鼻で息をする人間を頼りにするな。そんな者に何の値打があるか。」(イザヤ2・22)とあるように、医者でも教授でも、私は信頼しません。ところが、神に信頼しないで、医師の言葉を信頼する者が多いようです。進化論でもそうですが、そういう人は、人の作った知識や情報を信じて、その提供する未来を得るのです。進化論のいう死後は、灰でしかありませんが、聖書の言う死後は、神の裁きです。

 さて、身体の器官や部位が病むのは、血流が不健全であり、或いは血液の成分が正常でないからです。血糖不足の時でも脳や心臓は優先的に栄養が供給されますが、比較的生存に左右しない部位が犠牲にされます。しかし、それが長期的になると、そこに病変が生ずるのです。先週お話したリンパ系というのは、身体の免役系に大きく寄与するのですが、身体を動かさないと新しいリンパ液が供給されないので、炎症を起こしたり、ガン化することがあるとお話しました。

 私たちが身体の部位の異常や痛みに対して、労らないのは何故でしょうか。それは、自分の利益優先、つまり罪深いからです。先週の聖研で、イスラエルの会衆が、幕屋を中心に非常に遅い旅をしていたことを学びました。幕屋で犠牲を献げ、礼拝してから、それを分解し、人が携えて行進するという、何ともまだるっこい旅でした。思い返してください。あなたの人生、急いで生きて、何の功績があったのでしょうか。

 身体を労らない、家族を労らないで、仕事や快楽を目的として生きてしまうならば必ず病気になります。私たち夫婦は、いつも一緒ですが、お互い疲れ果てて仕事をするので、いつもマッサージをし合います。助け合わなければ、生きていけません。家事も、買物も、仕事も全て助け合っています。そして、お互いの弱さを良く知っています。その弱さが、致命的なものにならないために、いつも相手が注意しています。夫婦が助け合うならば、喜びながら大いなる働きができます。

 身体の各部位が自己中心であったら、直ぐに崩壊してしまうでしょう。ところが、多くの人々が、自分中心です。それで、「からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」(22)という大事な器官を軽んじて病気になるのです。教会の中で、他の人を労るということができたら、血流が通い、教会は健全に成長していきます。

 ただ、ガンが他を犠牲にした自己拡大を謀る異種細胞であるように、自分の関心や都合、利益や考え方を優先して生きる人がいたら、その人のわがままな行動によって他の人が苦しみ、犠牲を負うことが出来てくるのです。

 ところが、器官の中には、非常に自己犠牲的なものがあります。肝臓は、エネルギーを蓄え、解毒をし、消化吸収にも関与する大事な器官ですが、殆ど痛みを訴えず、ひたすら働き続け、己が臓器を傷つけて半分以下にしても復元して貢献するという献身的な臓器です。

教会の中でも献身者という人々が必要です。自己中心で尊くなく、見栄えもしない、そういう人を大事にして、「ことさらに良い恰好に」(23)しようとする働きです。「神は、劣ったところをことさらに尊んで、身体をこのように調和させてくださったのです。」(24)。地域教会の価値がわかるのは、このようにどんな人をも大事にして、交流をし、栄養を注ぎ続け、毒素を取り除き、消化吸収をして成長させる働きをしたときなのです。そして、それでもなお、自分の都合や、考え方に固執し続ける人は、ガン化して切除しなければならなくなるのです。

あなた自身が、どのような器官であり、どのような能力があるのかは、働きをして行く中でわかってくるでしょう。大事なことは、自分ではなく、他の人に関心をもつことです。

 


8月14日 牧師伝道師へのお勧め。  Tテモテ317

新改訳 Tテモテ3:1 「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。
3:2
ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、
3:3
酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、
3:4
自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。
3:5
――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――
3:6
また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。
3:7
また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。
テトス1:6 それには、その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。
1:7
監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、
1:8
かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、
1:9
教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。

当教団の昔の信仰綱要には、「聖職」という綱目があって、「神の召しと聖書に基づいて任命された聖職は、主から二つの目的を与えられている。@世界宣教 Aキリストのからだの徳を建てること。」とされていました。現在は、「奉仕の務め」として、「神によって召され、聖書に基づいて任命された奉仕の務めが、教会を指導する次の三つの目的のために主によって備えられている。(1)世界宣教 (2)神への礼拝 (3)御子のかたちに全うされた聖徒たちのからだを建てあげること。」となっています。また、教団の教規には、「第八条 この教団の教師は、神の召しを受け、福音のため献身した者で、この教規に従って認証された者とする。」とあります。また、第六十条から教師について記されていて、この教団の教師になろうとする者は、中央聖書神学校を卒業して検定試験に合格するか、資格認定試験その他の審査などを経ることが必要となります。

 キリストの身体なる教会を建て上げるということを、連続してお話していますが、それは@御霊の賜物A奉仕の賜物B働きの賜物によってなされます(Tコリント12・4-6)。その働きの賜物が、使徒・預言者・伝道師・牧師・教師(エペソ4・11)という当教団では教師と呼ばれる立場であり、信者では長老や執事と呼ばれる人々のことです。

 Tコリント12章28節からは、それら働きの賜物(使徒・教師などの役職)、奉仕の賜物(助ける者、治める者などの実際的な能力)、御霊の賜物(奇蹟・癒しなどの聖霊による超自然的能力)が、混じり合って教会の働きを為すことを説明されています。

 公同の教会は世界に一つですが、地域教会は現実の社会に存在し、働き掛けるので、組織としての責任者・まとめ役が必要で、それが聖書で言う監督、或いは長老、或いは牧師などです。その役職としての働きに関して、当教団は@神の召し、A福音のために献身、B教規に従った組織上の認証、が必要であるとしています。一般的には、神学校を出たら牧師になれると思われているのですが、当教団では、実際上の献身的な生活と指導者による認証が必要なのです。

 「牧師になりたい。」と思うなら、それはすばらしい仕事を求めることです。ですが、それは気儘な仕事というわけではありません。今日お読みになった聖句の通りに過ごすことを誓い、実践していかなければなりません。人間は自己中心であり、罪人ですから、これらのことを志すということが、普通はないのです。それをしようとすることを献身と言い、人生を神に献げるということです。

 その人が献身者であるかどうかは、その人生で明らかになります。自分の都合を優先する人は献身者とは言わないのです。弟子がイエス様に「私の父を葬ることを許して下さい。」(マタイ8・21)と願った時に、イエス様は、それを許さず、「わたしについて来なさい。」と言われました。神に従うのが献身者なのです。

献身したからと言って、神が特別扱いをして助けて下さるわけではありません。「自分を捨て、自分の十字架を負い」(マタイ16・24)という過酷な日々が続くのです。ところが、稀に「わたしについて来たいと思う」人がいるのです。

 そのような「牧師になりたい。」と願う人は、十字架を負い、苦しみの人生を生きながら、「わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。」ということを実践していかなければなりません。

 最初から、そんなことが出来る人はいません。ところが、牧師を続けて行くうちに、次第にそのような人に変わってくるのです。むろん、変わらない人もいます。そんな人は、やはり「神の召し」がなかったのです。十字架を負う、ということは、苦しみを覚悟するということであり、苦しみの中で主を信じて、その歩みを追っていくことです。「いのちを救おうと思う」人は、苦しみの中で主に従うことを止め、イエス様のために「いのちを失う」ことを覚悟する人は、いのちを見出すのです(マタイ16・25)。

 私は、信者さんには献身を要求しません。執事や執事補には、少し無理を要求しながら教え、育てます。「主に仕え、無理をしても主に従って生きたい。」という人でないと教えようがないからです。今年のテーマ聖句を読んで下さい。キリストの身体である教会に奉仕したいと願う人にこそ、主は知恵と英知を与えて下さるのです。

 できれば、牧師になろうとしてください。或いは、執事になりたいと奉仕を願い出て下さい。実際に、十字架を負い始めたら、主からの安らぎを得ることができます。(マタイ11・29)。

 


8月21日 御霊と知恵に満ち評判の良い人。  使徒627

使徒6:2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
6:3
そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
6:4
そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
6:5
この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
6:6
この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
6:7
こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。
Tテモテ3:8 執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、
3:9
きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。
3:10
まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。
3:11
婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。
3:12
執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。
3:13
というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。

交流と話し合いの重要性を繰り返してお話しながら、教会とはどういうものか、その働きとはどういうものかをお話しています。ところが、気を付けなければならないことは、聖書の教えは合議制ではないということです。指導者、責任者、家長などが自らの責任を神の前に自覚して、神からの油注ぎ、つまり聖霊の導きと祝福を持って、その群れを治めて行くというものです。

 指導されるということは、能力と自尊心のある者にとっては我慢ならないことで、自分よりも能力や知識、判断力に劣っていると思われる者が、指導者、或いは父や母である場合の、組織員或いは子ども達の行動が問われてくるものです。このことは、指導者や親が絶対という専制的権力と混同されがちなので、良く理解する必要があります。

 父親や教会の指導者の絶対性というのは、倫理面、或いは信仰的なものに関してであり、お互いの話し合いや知識をないがしろにするものであってはなりません。そして、そのような責任ある者として、指導者側に絶対的な神への服従と、常識的な判断、寛容、理解、謙遜というものが求められるのです。これらのことは、現代日本の父親においては殆ど欠落しており、だからこそ家庭が崩壊しているのです。現代社会では、馴れ合いが普通のものとなっており、不合理であっても神や倫理に従うという人は殆どいなくなっています。

 権威の究極的な源は神であり、神なき社会では権威は薄れ、権力も暴力や武力と同義なものとなっています。神に従うということこそ、権威の行使という責任の理由であり、神の裁きを人が行うことによって、永遠の裁きから逃れる道なのです。

 教会の働きの中心となるのは、執事達ですが、この執事に求められることが今日の聖句です。『評判の負い』ということは、この権威の行使と相対するもののように見られます。評判が良い為には、他の人々に対して犠牲的であり、優しく、「謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、」ということと共に、その信仰が「きよい良心をもって信仰の奥義を保っている」ことが必要です。

 過激な宗教の洗脳が問題とされます。過激であり、不正であるかどうか、それは、自らには厳しく、他には優しいかどうかに掛かっているかと思います。塩野七海の『ローマ人の物語』で第2代皇帝のテベリウスに関して、自尊心が強いので、己に厳しかったと言っていますが、同様のことをメジャーのイチローにも感じます。真剣にキリストを信じ、その友となり、弟子となりたいと願う人は、決して専制的あるいは暴力的にはならないものです。自分を攻撃する人がいたとしても、「彼らをお赦しください。」と祈るのが、キリストの弟子なのです。

 先週お話した監督の条件にも、「教会外の人々に評判の良い人」であることがありました。信仰熱心な故に、攻撃的・排他的・律法的な人であっては、評判は良くなりません。迫害され、非難されたから、といって厭世的になるようでは、執事にもキリストの弟子にもなることはできません。

 「子どもと家庭をよく治める」ということは、暴力的・専制的な支配ではありません。神の前に、自分の妻子の言動について、責任をもって見守り指導するということです。言葉が達者で、うまい理屈を言い、問題点を見つけ出すことに長けている人がいますが、だからといって解決能力を持っているわけではありません。生きていると解決の出来ない問題に出くわすことは山ほどあります。じっと我慢し、働き続け、神への信仰と家族への愛を保つ人は、必ず、「良い地歩を占め、また、キリストを信じる信仰について強い確信を持つことができるのです。」ご都合主義で、信仰の原則を簡単に替える人が、信仰の祝福を受けるということはないのです。

  執事に選ばれたステパノは、「恵みと力に満ち」(使徒6・8)、議会に引っ張って行かれて大祭司の前で尋問されても大胆によみがえりのイエスを証ししたのです。彼は、石打ちで殺されながらも、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」(7・60)と執り成し、それを見たサウロが感化されたのです。

ドルカスという弟子が「多くの良い業と施しをしていた。」(使徒8・36)のですが、病気になって死にました。やもめたちは、ドルカスが作ってくれた下着や上着をペテロに見せて泣きました。ペテロが祈ると彼女はよみがえりました。

 迫害を重ねるサウロのために祈りに行ったアナニヤは、「この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。」(使徒9・13)と知っていたのにも関わらず、主に従って祈ったのです。「律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判の良いアナニヤという人が、私のところに来て、そばに立ち、『兄弟サウロ。見えるようになりなさい。』と言いました。」(使徒22・12.13

 残念ながら、牧師の生活や奇跡は、あまり信者と未信者には、影響を与えません。牧師は、見本というよりも、別次元の人のように見るからです。私が、信者時代に影響を受けたのは、柴田兄であり、先輩たちであり、信仰の友でした。その人たちの献身的な姿は、私の人生を変えたのです。

 神の器としての信者は、良き見本としての信仰の先輩達によって影響を受け、形成されます。都合に合わせて態度を変える人生を送っても、人に感化を与えることはありません。言い訳はやめて、御霊と知恵に満ちた信仰者になるよう、決心をしませんか。ペテロは、主に従うことを迫られた時、他の人はどうなのでしょうか、と問いました。主は、「それがあなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21・22)と言われました。人と打ち合わせて信仰生活を歩む者ではありません。


8月28日 愛は行う力。  Tコリント書12311310

Tコリント12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6
不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10
完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。

精神障害や発達障害を全く理解しない人々がいます。根性が悪いからだ、努力が足りないからだ、などと一方的に批判します。ところが、私から見れば、そのような画一的見方をする人も、何らかの精神的な欠陥であると思われます。他人に対して、断定的な判断や指導をする人は、交流が出来ない人です。相模原の障害者殺傷事件も、思い通りにならないことへの苛立ちと、障害ということへの理解と思いやりのない一方的な攻撃性です。

 人は皆、罪の故に思い通りに生きたいのですが、そうはできない弱さを誰もが持っています。子どもたちや幼児性から脱却していない未成熟な人間は、自分の思い通りにならないと攻撃性を持つのです。一方的に怒鳴ったり、怒ったりする人は、他人に要求しても、自分に要求することはないのです。

 教会が、御霊の賜物、奉仕の賜物、働きの賜物で、有機的に営まれることをお話してきました。神に仕え、人に仕えることを喜びとするということは、本当にすばらしいことです。しかし、仕えるということは、自分の思い通りにならないことを受け入れるということです。自分のやりたいことをする、したくないことはしない、という人には、仕えることはできません。仕事とは、仕える事、という意味でしょうが、自分の頭だけで仕事をする人が多いので、うまくいかないのです。

 教会で活躍し、奉仕をしたいという願いを持つことはすばらしことです。そのために「よりすぐれた賜物を熱心に求め」る努力はするべきです。ところが、努力というのは、自分の限界で終わります。献身というのは、限界を自らでは設けないことで、成果が出ようと出まいと、神の御心であることを行い続けることです。ですから、牧師や献身者の生活に報いがないのは当然なことなのです。

 福祉も、従事者にある程度の献身が要求される分野の仕事です。事件を起こした青年は、障害者が障害を持ちながら、努力をしていることが理解できなかったのでしょう。それは、相手よりも自分に関心が強かったからです。自分よりも相手に関心を持つということが出来ない人は、交流ができません。「耳は二つ、口は一つ」と、話すよりも聞くことを重視しなさい、と言われ、「聞き上手は話し上手」ととも言いますが、罪人は、自分の思い通りになることを願うので、人の話など聞こうとしないのです。言うだけを言って、人の話を聞かない人は、不幸な人生を送ることになるのです。

 賜物は、「みなの益となるために」(12・7)「全体の益となるため」(新共同訳)与えられるので、個人の能力というものではなく、教会としての益のために、信仰や癒しや奇跡やその他の賜物が現われるということです。

「さらに優る道」とはどういうことでしょう。ここで、「愛」という言葉が用いられています。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」とありますが、全く自己中心ではなく、罪の行いの反対が愛の行いであることがわかります。そして、愛の行為をしようと願って、自分の限界や理性を越えて行動する時に、御霊の賜物、奉仕の賜物、働きの賜物がさらに優れて与えられるということなのです。

 ところが、世の中には、このような自己否定の愛の行いを、他人に要求する人々がおります。「あなたに愛があるなら、私に愛を実践して欲しい。」と言うのです。注意しなければならないのは、これらの人々は全くの罪人であって、その要求に応じることは、罪を許容することになるということです。ですから、「全体の益となるために」賜物の発揮と活用があり、愛というのは、人に要求するものでは決してないということなのです。つまり、愛を要求する人に、愛を行う必要はないというドライなものであることを知っておかなければなりません。

 私たちは、この世が霊の戦いの現場であることを常に意識しなければなりません。「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」(Tコリント14・20)とあるように、「教会の徳を高めるために」(14・12)、賜物を用いることが大事なのです。

 私たち夫婦は、精神障害や発達障害の人々を多く治してきました。しかし、決して不当な要求に妥協したことも、罪を許容したこともありません。弱さを持っている人々ほど、待つことや耐えることが不得意なものです。しかし、その人が罪から抜け出し、成長するためには、私たちは彼らに要求せず、「寛容、親切、怒らず、忍耐し、信じ、・・・」などという愛の実体を強く意識して、対応することが必要なのです。大事なことは継続的な交流です。癒しという賜物は、決して一時的・超自然的だけで終わるものではありません。癒しの後に続く、信仰の成長と人格の成熟を願ってのものでなければならないのです。


9月4日 互いに愛し合いなさい。  ヨハネ福音書15917

ヨハネ15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
15:10
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
15:11
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
15:12
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
15:13
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
15:14
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
15:15
わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
15:16
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
15:17
あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

神は、人を男と女に創造されました(創世記1・27)。結婚というのは、好きだ、嫌いだ、で結婚し、離婚するものではなく、「神が結び合わせたもの」(マタイ19・6)として、誓約では、「あなたはこの結婚が神の御旨によるものであることを確信しますか。」と誓い、「神の教えに従って、夫(妻)としての分を果たし、常に妻を(夫を)愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病の時も、富める時も、貧しい時も、いのちの日の限り、あなたの妻(夫)に対して堅く節操を守ることを誓いますか。」と誓わなければなりません。誓わなければ、司式者は結婚を許可してはならず、式は中止となります。

 全ての者は結婚して「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ。」(創世記1・28)の人間としての祝福命令を受けているのですが、独身であることが許されるのは「主のことに心を配る」人々であって、神に仕え、神を愛することを優先する気持ちが強くて、結婚できない人とされます。

 ところが、現実には、神を信じて生きる人が少ないだけでなく、愛し合って生きる夫婦も殆どいないために、若い人々の結婚願望は衰えてきています。先週の『シンデレラ』の映画も、人々のラブロマンスの願望に訴えるものとして魅力的なのです。そこでは、夫となる者も妻となる者も、相手のために犠牲を払って結婚する勇気が必要なものと教えられます。

 女性は、どうしても結婚すると夫に幸せを左右されるために、相手を選びます。男の方は、選ばれるために自らを鍛錬し、強くなり、家族を幸せにするための経済力その他の力を付けなければなりません。結婚前に、この努力をしていない男女が結婚しても、うまくいくことはないでしょう。愛するということは、努力と意思が必要なのに、それを偶然や容姿に任せて結婚しようとしては、神の命令を果たすことはできません。

 愛し合うということは、人間に対する神の命令なのです。それを果たすには、神を信じること、神に従うことができなければ無理なのです。映画やテレビや小説において、結婚の困難さと男女の考え方の違い、愛し合うことの難しさが解説され、適当に妥協することが説かれます。しかし、結婚すると、当事者には妥協も寛容も難しく、伴侶に対する欲求不満が募って、却って争いごとの多い夫婦となることが多くあります。

 先週、「愛は行う力」として、「仕えるということは、自分の思い通りにならないことを受け入れるということです。」とお話しました。伴侶や家族を自分の思い通りにしようとする我がままな人間では、愛し合うことはできません。ところが、人間は罪人であり、祈る、聖書を読んで神の教えに従う、ということをしなければ、感情を抑えることはできません。

 聖書に教えられ、祈りに聖められるということは、クリスチャンのいのちの源であり、それをいつもしていない人が聖霊に満たされて生きることはできません。つまり、祈らない人は、人に要求し、愚痴を言い、争いを引き起こしてしまうのです。大事なことは、そこで悔い改めることです。言い訳を言ったり、考えたりしてはいけません。神の祝福は管を通して流れる点滴のようであり、我を張り、言い訳をいう人ことで、管は詰まってしまうのです。

 神の命令は愛し合うことであり、愛し合うならば、「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになる」ので、「実を結び、そのあなたがたの実が残る」のです。

 愛するということは、自分の欲求を優先する人にはできません。愛し合うということは、相手の不器用な愛を受け入れるということです。「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10・22)とあるように、個人の労苦で「実を結び、実が残る」のではなく、愛し合うことによってこそ、「主の祝福」があるのです。

 男性は、自分の悟りを大事にして、自分を成長・成熟させようとする傾向があります。無駄なことです。女性は、自分が成長・成熟したら、幸せになると考える傾向があります。無益なことです。人間は、それほど、強くはなく、聖くもないのです。自分の成長や力を求めるということが、罪の性質なのです。ただ、主にすがり、祈りと御ことばの日々を過ごすほうが、人を愛することも、成熟することもできます。

 「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Uコリント3・16-18

 


9月11日 遺言を遺しましょう。  ヘブル人への手紙11616

ヘブル11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
11:7
信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。
11:8
信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
11:9
信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
11:10
彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
11:11
信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12
そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
11:13
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14
彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15
もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

 家族への遺言は式次第にありますが、D姉の書置きが遺されています。

「神の愛に導かれて、未だに谷の中に森(人生)の深みに迷い込んで悩んでいる老女です。私の歩む道はと・・・道は見つかりません。草深い迷路に踏み込んで悩んでいます。神様、道筋を導いてください。もっともっと悩んだ方が良いのではと思います。人生は遠き道を一歩一歩と歩む道のりは遠い遠いと悩むのもよしと・・・思う。神様、私に不足しているのは人間として不足は愛のエッセンスです。」

「心の中から湧き出る神の愛に満たされて。生やさしいものではない恵美子、もっと悩むが良い。人々の親切に感謝して・・・。私は神に拠り生かされている。人と人との間にあって、神に感謝して人生を一歩一歩と歩んでいる。詩篇を読むことにしよう。人生という難しい道を歩き出して、引き返すことはできない。神の愛を心に満たしてゴールにたどり着くまで勝利に歩むんだ! 生き生きと胸をはって歌をうたって、ゴールにたどり着くまで神を信じて。」

「母子して寄せ合いし、ささえ木に、支えの力(母)弱く成りて、神様たすけて アーメン」

「ハレルヤ天の愛する神様、主をあがめます。今日は連日の寝不足で、体調が思わしくなく、心ならず欠席になってしまいました。お許しください。体調がもどりますように、とうときイエス様とおしてお祈り致します。アーメン」

「明日の仕事にさわっては、と心配になる。右の頭の傷あとがうずいて来る。ああ、神様たすけて。寒くなって来る。イエス・キリストの受難を思えば、許して下さい! 明朝はおだやかな日にして下さい。恵美子ガンバレ! 神様、明日はおだやかな日にして下さい。神様感謝します。」

 読んでいて涙が出ます。後半は辛い人生でした。そして、救いに導かれて、度胸が据わり、感謝、と言うようになりました。これまで、この教会でも信仰者が召されてきましたが、このように文章を遺していてくださると、その信仰、その生きざまが、残された者にもよくわかります。手紙でも良いですから、私宛に遺して下さい。

 D姉の好きな聖句として詩篇42篇がありました。「 私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるか。」と私に言っています。 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」と読むと、その神への叫びと苦悩、そして信仰を思い見ます。

 今日の聖句を見ても、信仰の先達が、この世の試練の中でなお、家族の救いの為に戦いを続け、忍耐を続け、勝利を得ようと苦悩していたことが分かります。彼らは、「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。」10)。

 私たちは、就職をする時には履歴書が必要です。資格を得る時にも、それに必要な学びの履修と経験を証明する文書が必要です。その人がどのように生きて来たかは、履歴書を見て、その人と実際に話をすれば、直ぐにわかります。努力を続けてきたか、勉強を続けてきたか、どのように過ごし、人格を形成してきたか、私自身が経験と努力を積み重ねて来た者であれば、相手がどのように巧妙に話をしようと見抜くことができます。

 頭が良ければ立派な論文を書けると思うでしょうが、実は人格が形成されなければ立派な文章は書けるものではありません。知識の積み重ねと論法だけでは、価値あるものは作り出せないのです。

 理屈をこね回して、社会や組織に反発し、自分の正当性と計画を支援する人がいますが、母親以外には相手にされなくなるでしょう。実践こそ、その人の価値を形成するのです。言い訳や誤魔化しで逃げ回っていた人の人生は、誰にも証しすることはできません。

 もし、皆さんが、遺言に書くものも、信念も、信仰もないのに気が付いたなら、幸いなことです。真剣に生きていない人には、書き遺す言葉は見つからないのです。幸いなことに、私は毎週、このように説教を文章に書き遺します。自分の行っていること、語っていることと異なっていたら、私は、偽善者であり、そのうち精神病になってしまうでしょう。私の書くもの、語ることは、私の神への信仰告白であり、神への叫び、訴えです。

 実際に言葉にしなければ、誤魔化しが効きます。そして、自分が愚かであり、偽善者であり、不信仰者であることに気が付かないものです。しかし、私でも、その人の信仰の偽善と程度は見抜くことができます。心配なのは、それで神の国に行けるのかどうかということです。

 地上の人生の成功・不成功、幸せ・不幸せ、は、実は神の国には通じず、持って行けないものです。彼らは、「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」11・13)。

 ぜひ、遺言を書いてみてください。財産処分だけではなく、たとえ独身であっても、自らの人生を顧みて、神への履歴者を書いてみて下さい。


9月18日 愛のない者に神はわかりません。  Tヨハネ書4413

Tヨハネ4:4 子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。
4:5
彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。
4:6
私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。
4:7
愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
4:12
いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
4:13
神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

救いというのは、不思議なことです。他の人にも救いに預ってもらいたいと、語り、証しをし、或いは奇蹟を見せても、救われない人には、馬耳東風です。「神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。」(6)教会に来続けるということも救いの証明であり、罪を犯したり、傲慢になると教会には来なくなります。牧師・教職になって伝道牧会をすると、人が魂を救われるということは、神の業以外の何ものでもないことを悟ります。そして、「あなたがたは神から出た者です。」(4)ということの真実を知ります。

 残念ながら、この世の人々は、一たび彼らにとって損であり、都合が悪いことがあると、相手に対して敵対行動に出ます。会社が自分に得である場合には、従いますが、そうでもない場合に、背反行動に出る事は良くあることです。家族でも、思うようにならない家族に対しては、腹が立ち、責めて、自分の都合の良いようにさせようとします。マイホーム主義や子どもを大事にする親も、子供が大きくなり思うようにならずに反抗を始めると、腹が立って、思い通りにさせようとします。愛情を注いだつもりでも、人間は罪人であり、自己中心であることを悟っていないからです。

 「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ2・1-2)。「私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。」(6)。

 このことを悟っていないと、未信者に期待し、自分の愛がいつかは通じる、などと、悪戦苦闘するのです。私たちが、人を愛しても、魂の救われていない人には通じないのです。また、覚えておいていただきたいことは、人を愛そうとせず、自分中心の生活をしている人は、いくら洗礼を受けていても、この世の人なのです。そういう人に期待を掛けてはいけません。「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(8)。

 「私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」(7)。自分の罪を認め、キリストの愛によって救われた者だけが、自己犠牲の愛を知るのです。あなたが、自己犠牲の愛を知り、報われないことを覚悟して、人を愛することはすばらしいことです。しかし、多くの人は、報われることを願って人を愛するので、失望し、自らの愛が成熟しないのです。

 私は、自分が愛するほど、人が自分を愛してくれないことを覚悟します。自分の犠牲は報われないことも覚悟します。だからこそ、キリストを見上げることができるのです。父なる神は、私たちの罪のために、御子イエス・キリストをこの世に送り、十字架の死によって、私たちの罪の罰を身代わりに受けさせました。

人間は、自分の思考水準・価値基準を越えて、人や物の価値を知ることはできません。あなたの愛が通じない、あなたの犠牲が通じない、と感じたら、あなたは、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16・24)と言われたイエス様の命令に従うかどうかが問われるのです。

 この世の人を愛する、救われていない人を愛する、魂の救われていない信者を愛する、「肉に属する人、キリストにある幼子に対する」(Tコリント3・1)ということは、「御霊に属する人」でなければできないことなのです。

 ところが、多くのクリスチャンが、「肉に属する人、キリストにある幼子」なのです。「あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」(Tコリント3・3)。

 自分の思い通りにならないことを覚悟し、なお且つ、人を愛するようになることを願わなければなりません。その為には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5・16-18)を実践しなければなりません。自分の能力、努力、品性によって、「御霊に属する人」になることはできません。

 自分に愛する力も、品性もないことを認め、悔い改め、聖霊の力に委ねることを始めるのです。多くの人が、自分の能力や努力や品性に責任を着しています。それでは、変わることは難しいのです。

 ケトン体ダイエットの為には、糖質の摂取を止めなければなりません。代わりの回路は、元の回路が閉じなければ始まらないのです。肉と努力によることを止め、御霊によることが始まらなければならないのです。面白いことに、わたしもどのようにケトン体が出始めるのか、よくわかりません。ただ、米や麦や糖分を止めるだけです。新しい服を着るためには、古い服を脱がなければなりません。「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべき」(エペソ4・24)なのです。

 古い服や物を捨てられない人は、気を付けてください。古い物に執着していると、新しい生き方はできないのです。


9月25日 虚偽貪欲からの離脱。  コロサイ書359a節 櫻井圀郎師

聖書直訳:コロサイ書3章5節、9節a

「地上にある汝の四肢を死せしめよ。売春買春、不純汚穢、激情欲望、悪しき欲求および貪欲欺瞞は偶像崇拝なり。他人らの中へ嘘偽りを為す勿れ。」

 禁欲と清貧に生きる聖人……、世人の基督者イメージ。

 定番の聖書理解は、基督者の目を御言葉から離させること、基督者を神から遠ざけること。悪魔の働き。

 生きた神の言葉。「え、今日初めて聞いた!」感覚。

T 死して蘇るために死せしめる

 「地上にある汝の四肢を死せしめよ」。

 基督者は、基督と共に死んで、基督と共に蘇った者。

 「体は死んでも、手足は生きてる」「心は天だが、手足は地上」=「それでも本当に基督者なのか?」=実際に行動を起こすのは手足だから。

  「その手足を死せよ」「地上の手足を死せ、天上の手足」= パウロの勧め

 基督と共に蘇るに基督と共に死す。手足を地上に残しておくべからず。

U 偶像崇拝に生きる地上、神礼拝に生きる天国

 「売春買春、不純汚穢、激情欲望、悪しき欲求および貪欲欺瞞は偶像崇拝なり」。

 「偶像礼拝」と「偶像崇拝」との区別。

 「偶像礼拝」とは、何かを偶像とし、偶像を介し真の神を礼拝。

 「偶像崇拝」とは、何かある物を「偶像」とし仕える。「金銭崇拝」など。

 売春買春・不純汚穢・激情欲望・悪しき欲求・貪欲欺瞞を介しての神礼拝はありえず、それらに耽り身を委ねるだけ。偶像礼拝でなく、偶像崇拝。

 偶像崇拝は、神以外に神を造り仕える。神の怒りを招く。

 誰かの指示や命令で動かされる禁欲ではなく、自らの信仰に基づき、自らの意思と自らの決断とで行動する。「基督者の自由」。

 金銭、財産、地位、名誉、学歴、職業、成績、美形、美声、美顔、美観、計算能力、運動能力、運動神経、発想力、統治力、芸能センスなどなど。神に仕えるために、神が人間に備えた構造と機能(神の賜物)。目的を見失い、方法を誤ると、一転、とんでもない偶像崇拝。

 

V 疑心暗鬼の地上、真実公正の天国

 「他人らの中へ嘘偽りを為す勿れ。」

 「互いに」という言葉。日本語の「たがい」は、向き合った自分と相手とを意味。漢字の「互」は、木枠を交差させて組んだ縄巻器の象形。関係のある二つのもの、「代わる代わる」を意味。

 「互いに愛せよ」=「自分が相手を愛し、相手が自分を愛する」「代わる代わるに愛する」。「愛してくれたら、愛する」「愛してくれなければ、愛さなくてよい」「愛したのに、愛してくらなかった」「愛したのに、愛しない」。

 原語の意味からの私訳。「他人に」「他人を」という一方的なニュアンス。「互いに嘘を言うな」=「互いに嘘を言い合う」「こちらも嘘を言えば、相手も嘘を言う」。開き直って「俺だけ一方的に嘘を言うのは良いだろう」。

 「他人らの中へと嘘を為す」。単に「嘘を言う」でなく、虚構の創出、妄想の発生、ありえぬ期待、虚偽の情報、偽造品、偽ブランド、コピー商品、偽札・偽カード、誤報の伝達、コンピュータの誤作動。社会の問題として、虚偽情報は最悪。

 人間の原罪は、悪魔の虚偽情報に起因。以来、地上は虚偽情報が蔓延。虚偽表示、産地偽装、製造日や賞味期限の偽装、包装の取替、添加物の不表示、数量偽装など。子供の誘拐、高齢者の詐欺、悪質商法、裁判の偽証、虚偽の訴訟など。商人の言う「原価割れですわ」、転居の挨拶「近くにおいでの際は是非お立ち寄りください」など。

 悪魔の支配する世。真実公正な天国の前味を味わっている基督者。嘘偽りを為さないことは最低限度。不利益の心配のない行為。

 真実公正な天国に在籍の基督者は、貪欲を離脱。禁欲ではない。偶像崇拝の回避だけ。虚偽の伝拡を自主的排除。天国の真実の前味を知らせる。