4月3日 永遠のいのちを得るためである。  ヨハネ福音書242431

ヨハネ20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
20:26
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
20:30
この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
20:31
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

先週の復活祭礼拝は、私が牧師になって一番恵まれた礼拝でした。教会が築き上げられていることを実感し、こんなにすばらしい信者と共に教会を形成していることを心から感謝しました。祈りながら思ったことは、皆さん一人ひとりの葬式の説教をしたい、父なる神に、皆さんの信仰の保証をしたい、ということでした。考えてみれば、できるはずもありませんが、ここにいのちがあることを実感し、神の栄光を讃美し、感謝するものです。

 昨日は、ある働きをしているクリスチャンが来られ、今どき教会は高齢者ばかりで、若い人は教会に集っていない、増えている教会はない、あれが問題だ、これが問題だ、先生講演でも説教でもしてもらえないか、と言っていました。ある所に同行した牧師さんは、牧師は大変だ、もうできない、と悩んでいました。

 私が気が付くのは、そこに「いのちがない。」ということです。

 「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」(ヨハネ6・35)。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5・40)

 組織をだめにするのは、問題を抱え、それを他人にぶつける人々です。批判を争いを起こす人々です。教会にもそういう人々が来ることがあります。もし、教会にいのちがあるなら、その人にはいのちがないことを教会はすぐに理解します。また、いのちのない人は、自分にいのちがないことに気が付きません。そして、教会で、世の中の話をし、自分の罪をさらけ出します。魂の救われ、いのちを持ったクリスチャンは、いのちのない人を、あたかもいのちのある人のように考え、扱ってはなりません。洗礼を受けたということは、永遠のいのちの保証ではありません。それは、神の国に行くための必要条件ですが、十分条件ではないからです。そういう面で、教会の使命は主の弟子を養成することであり、主の弟子によって教会をいのちあるものとして保って行くことです。

 健康ということで、つくづく感じることがあります。殆どの人は、無理なく健康になりたいのです。ですから、無理なく不健康になっていきます。物事の達成には努力が必要なのですが、努力を金銭や地位で替えようとするのです。勉強で合格点の60点取れば良いと考える生徒は、40点くらいしかとれないものです。そして、自分は勉強していると考えているのです。そういう思考方法の人の生活は、段々と問題が蓄積してきます。そして解決方法探したり努力をしないで、そのうちにやる、とか誰かが助けてくれないか、などと考えているのです。大事なことは結果です。

「イエスは言われた。『そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。』」(ルカ10・28)。「いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。」(ルカ12・23)。

つまり、永遠のいのちを得るための努力をしていないのです。「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21・19)。

 トマスは、どうしてイエス様のよみがえりを信じなかったのでしょうか。それは、本当にイエス様がよみがえったのなら、自分の人生の在り方、生き方を変えなければならないからです。自分中心の人生を生きることは楽なことです。自分で及第点をつけ、自己満足の歩みをすれば良いからです。残念ながら、そのような生き方をしてていながら、「神の祝福がない。」「教会には問題が多い。」「牧師や他の人は・・・がダメだ。」などと非難をしながら、自分の怠惰を正当化するのです「そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12・15

 牧師や指導者にいのちがないと、新しくいのちを得た人々も、いのちをうしなっていくことになります。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6・63)。私は多くのすばらしいクリスチャンを知っています。しかし、彼らはいのちのない人をいのちのある人のように考え、仲間に入れるので水準が下がり、いのちがどんなものかわからなくなっていくのです。高尚で知的でよく準備された説教であっても、説教者にいのちがなかったら、聞く人にいのちを与えないのです。いのちとは御霊です。御霊に満たされているということは、神懸かりに力を入れることではなく、成功や祝福を願うことではありません。

「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」(ヨハネ8・12「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10・39)。

 信仰生活を過ごすために犠牲を払わない人は、いのちを得ることはできません。聖研で聖なる者となるということは、神の側に付くということであると説明しました。世の中の生き方をしながら、いのちに満たされた者であることは不可能です。神を信じ、洗礼を受けたことが事実としても、いのちに満たされているかどうかは、ご自分でもわかるはずです。

 「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」(マタイ6・35


4月10日 主は私たちの罪の罰を受けられた。  イザヤ53412

イザヤ53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
53:9
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
53:10
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
53:11
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
53:12
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

バドミントンの有力選手が闇カジノに出入りして、所属先を解雇され競技への出場も出来なくなりました。オリンピックを目指して日夜努力をしていたのに、違法なことをしたら自分の人生が崩壊してしまうのに、その自覚なく、後輩をも誘って巻き込んでしまいました。その後輩も、誘われてそのまま染まってしまうという始末です。

 政治家の不祥事も度重なり、大臣を幾つもして有力者となった甘利衆議院議員も不祥事で大臣を辞任し、議員も危なくなっています。障害者の乙武さんも政治家になろうとしたけれど、幾つもの不倫がばれてしまい、政治家どころか今後の活動も難しくなってしまいました。新聞には、不倫や不祥事ばかりですが、彼らは発覚するまでは、その行為が重大な罪であるとは考えていないようです。

 先週、永遠のいのちのない人は、自分にそれがないことに気が付くことなく、他のいのちのある人と自分が同じであると誤解していることを話しました。罪人は、自分の罪に気が付かず、自分が救われていないことがわからないのです。

 「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7・21-23)

 このイエス様の言葉は、よく自己吟味しなければなりません。自分では、イエス様を救い主と信じ、信仰生活を送っていると思い、主の名前によって神の業を行ってきたと考えていても、その生活を吟味して裁きをするのは父なる神なのです。自分で、救いや信仰を確認するものではなく、聖霊に導かれて祈りとみことばによって生きているかどうかを再検討する必要があります。チェック・ポイントは、漫然とクリスチャン生活を生きているか、父なる神の御心を行なっているかどうか、が大事なものとなります。

 犯罪者となった人々を見ていると、悔い改めて更生し、新たな人生を始めるという人は殆どいません。同様に、一度悔い改めてクリスチャンとして歩みながら、罪を犯した人々の末路は悲惨なものです。主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。」(Uペテロ2・20-21)。

 『レ・ミゼラブル』(悲惨な人々)の主人公、ジャン・バルジャンは真に悔い改めた人としての苦難に満ちた人生を歩んでいます。人々に騙され、虐待され、それでも信仰に目覚めた人の真実かつ愛に満ちた歩みが記されています。読んでいて、人々の執拗な迫害には腹が立ち、苦しくもなりますが、それにめげない彼は、確かに神の国に平安の中で召されていくのです。欧米の小説を読むと、罪と救いに関するどぎついほどの描写があります。日本人の感覚では、罪や赦しは、非常に簡単なものであり、言い訳が成り立てば赦されるようなものです。

 十字架刑というものの惨さの描写を読みました。手首と足の甲に釘を打ちつけられて十字架に晒されると、重さがそこに掛かり、身体が沈んで苦しみ、痛みのために失神もできずに2,3日苦しみながら死んでいくそうです。イザヤ書は、このイエス様の苦しみは、私たちの罪の身代わりであると預言しています。

 そのように「彼を砕いて、痛めることは、主の御心であった。」とは、罪の罰の残虐さを示しています。「次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。」(Uテモテ2・11.12)とあるように、信仰生活は、耐え忍び、自己に死ぬということが必要であると書いてあります。

 クリスチャンとして伝道もせずに、毎日の衣食住に安穏して生きていては、主の十字架は申し訳ないことです。いや、選ばれた人々、神の国に結びつく人々こそ、耐え忍ぶ人生を送るのです。安穏した人生を、一人だけで生き、聖書を読んで自分の知性と感情を満足させているだけでは、神の国の住民となることは難しいのです。

 「クリスチャン生活が、そんなに厳しいのならば、クリスチャンにならなくても良い。」「もっと楽しく、楽な人生が生きたい。神は愛ではないのか。」と考える人は、それでよいでしょうが、前掲のマタイ7章をもう一度読んでおいていただきたいものです。自らの罪を肯定する人は、神の国には行けないのです。

 しかし、神に仕え、十字架の道を覚悟して生きるならば、それは喜びと平安なものとなるのです。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11・29-30

 十字架を負って生きる人だけが、魂に安らぎがくるのです。

 


4月17日 恐れおののいて救いを達成しなさい。  ピリピ2617

新改訳 ピリ 2:6-172:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

2:12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。

2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。

2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、

2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

2:17 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

先週は、洗礼を受けていて自らクリスチャンだと思っている人でも、救われていない人がいて神の国には入れない場合があることをお話しました。「主の御心を行う」ということは、どういうことでしょうか。

多くの熱心な牧師と信者にとって、チェックポイントは、礼拝と什一献金の厳守であるようです。先日、他教団の信者さんと話した時、牧師の息子なのに未信者と結婚し、什一献金も献げられていない、と私に自らの忠実さを強調しながら牧師一家を非難していました。洗礼を受ける時に、その約束をしているはずなのに、と言うのです。

 「私は、最初からその義務を牧師の責任で軽くしています。」と言うと、いぶかっていました。洗礼の時に礼拝厳守と什一献金を約束させることは、最初から信者を律法的に拘束して指導することになり、イエス様の嫌われたことであると私は考えています。

 「忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりにしています。これこそ、実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。」(ルカ11・42)。同じように自分の生計が成り立つことを優先する牧師たちは、信者の基準を礼拝厳守と什一献金にしています。什一献金を惜しみながらもする役員や指導者も、他の人にもそれを巻き込もうとして、什一献金をしない信者は落第した者のように非難します。まるでユダヤの人々を自分達の奴隷のように扱うパリサイ人のようです。イエス様が強調されたのは、彼らも普通の人々も、什一という基準に囚われて、「公義と神への愛をなおざりにしています。」ということです。教会がこの世にあって存続するためには、信者が礼拝に集うことと献金することが必要ですが、それを優先するとまるでパリサイ人の教えのようになり、信仰が形骸化して律法的なものとなってしまうのです。「神にも仕え、また富にも仕えということはできません。」(マタイ6・24)とあるのは信仰者として常に付きまとう法則であり、教会指導者は、神に仕えることを常に意識しないと堕落するのです。むろん、同じことは信者にも言えます。ですから、私はその人に、「牧師の使命は、礼拝を守ることや什一献金が恵みの法則であることをじっくり教えていくことにあるのです。」と語ったのです。

 長柄で笹の根の除去をしています。斜面ですから、太さ1センチもある根が地中1m以上を這っており、1uくらいで一輪車一杯の根が出ます。切り株には笹の根が絡みつき、腐ってどうしようもないので、深く掘り下げ、片づけました。大変な努力でしたが、人生はこのようなものだと思いました。コツコツと、自分の罪性を掘り下げ、除去していかなければ、将来は罪性が生活の中にはびこって処理できなくなります。自分の罪に妥協すると、その内に身動きが取れなくなり、神の前の聖さや誠実、そして信仰を失っていくように感じます。多くの教会や信者が、神の前の聖さと誠実さを失っているように感じています。伝道も大事ですが、「神の前に生きる。」という己が姿勢を確保しないと堕落してしまいます。

神の子、イエス・キリストは神である栄光の在り方を捨てて、人間として生まれました。そして、この地上の苦難の生涯を歩み、十字架の刑にまで神の御旨に従順に歩まれました。それが、罪に対する唯一の対抗する力であることを知っていたからです。そうであるならば、私たち、イエス・キリストの十字架によって罪赦されて信者は、どれだけ自らの内にある罪との戦いに努力しなければならないことでしょうか。

 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。」(ガラテヤ5・16.17)。3週間に亘って、信仰者が神の国に行くことの困難性について語ってきました。世界の教会の頽廃は、その信者に対して、このような罪への警告を語らず、未信者への安易な悔い改めと洗礼を説いているからです。もし、皆さんの誰かが、私の語った警告に対して、反発を感じ、或いは絶望を感じ、或いは無反応であるならば、あなたの魂は危険です。悔い改め、「恐れおののいて自分の救いを達成してください。」。

 聖書をしっかりと読み、祈ってください。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Uテモテ3・15-17)。

もし、聖書を読んでも、悔い改めができないならば、あなたは罪の虜になっており、聖霊が働かなくなっている可能性があります。自らを正当化せず、言い訳を言わず、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Tヨハネ1・9)。それでも、「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(1ヨハネ1・10)。

 昨日、長柄で作業をしていたら、観光で来た主婦がマリヤ・クリニックの施設であることに気が付き、話し掛けてきました。息子さんが低血糖症で長く苦しんだけれど、今は元気になって働いている、先生方を両親のように思っている、本当にありがとうございまいした、とのことでした。妻に話したら、クリニックでも、違う親子が来て、元気になり働けるようになったと、わざわざお礼に来たそうです。

 私たちの働きは無駄でなかった。苦しく、激しいものだったけれど、「志を立てさせ、事を行わさせてくださ」ったのは、神だったと夫婦で話し合ったものです。「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16・24)


4月24日 会衆が全て聖なる者ではない。  民数記163519212833

民数記16:3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」
16:4
モーセはこれを聞いてひれ伏した。
16:5
それから、コラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、主は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。
16:19
コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、ふたりに逆らわせようとした。そのとき、主の栄光が全会衆に現われた。
16:20
主はモーセとアロンに告げて仰せられた。
16:21
「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。」
16:28
モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのは主であって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。
16:29
もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の会う運命に彼らも会えば、私を遣わされたのは主ではない。
16:30
しかし、もし主がこれまでにないことを行なわれて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」
16:31
モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。
16:32
地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。
16:33
彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。

熊本地震の為に祈り、また讃美礼拝の為に祈っていると、コラの子たちがダビデの讃美隊となったことを思い出しました。その説教は2008年3月にしておりますが、覚えているでしょうか。今回は、その説教を引用しながら進めます。

 自称クリスチャンが全て魂の救われた人とは限らない、天国に行けるとは限らない、と数週間に亘ってお話してきました。ところが、信仰を安易に考えており、神は愛だから極悪人だけが地獄に行き、普通の人は天国に行けると教える人々もおります。そのような新興宗教もあり、死んだら皆天国に行けるのだから、死んだ方が良いと惑わすのです。

 コラの主張は、全員が平等であり、皆が聖なる者であるということでした。こういう教えは、聞こえが良いのですが、実は、指導者の指導性を損なわさせ、その主張する者が権力を握りたいが故のものであります。マックス・ウェーバーは官僚制こそが政治を腐敗させるものであり、カリスマ的指導者が必要であると説きました。次の段落は『職業としての政治』の文章です。

政治家は、現実への献身としての「情熱」、それを空虚なものに終わらせぬための「責任感」距離を置くという意味での「見識」という三つの素質を持ち、政治家にとって大罪である非現実性と無責任の源の「虚栄心」を不倶戴天の敵として警戒しなければならないこと。また、政治というものが暴力性という倫理的に疑わしい手段と運命的に結びついている以上、政治家は、「自分の行為の(予知し得る)結果について責任を負わねばならぬ」という責任倫理の原則の下に立たねばならない。「善からは善のみが生じると信じ、純粋な信念の炎さえあれば、たとえそこから悪い結果が生じても、その責任は神の意志や他の人の愚かさにある」、と考える信念理論を政治の中に持ち込んではならない。

 私は、同様な責任が牧師にあると考えております。牧会上の不手際を信者のせいにしてはならず、自らの担当する教会員の中に偽の信者を紛らわせてはならず、またそれを信者の責任にしてはならず、絶えない祈りと牧会と説教で間違いなく神の国に導かなければならないのです。かと言って、信者を批判的に見たり、指導が過ぎてはならず、温かく見守りながら育てる愛と聖霊の満たしが牧師には必要です。ともかく、このような牧師の働きが神の任職による以外に出来るはずもなく、そこで確認されるのが召しなのです。

 先週お話したように、私たちは「恐れおののいて、自らの救いを達成」するべく、自らを聖めていかなければならないのです。クリスチャンは「残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられる」(16・3)は、偽りなのです。聖霊に満たされるためには、罪をかなぐり捨てる決意と信仰が必要なのです。そして、さらにそれもまた、全てを知り得る神の慈愛が必要なのです。そして、教会のいのちは、その牧会する牧師の霊性に多く依存します。ですから、皆さんは、牧師のために祈る必要があるのです。「私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3・1)

「自分には愛がない。」などと安易に考える人がおります。「神を愛し、人を愛する」ことは、神から与えられた使命であり、それを実行するのは壮絶な霊の戦いなのです。ですから、殆どの人は、勝利を体験せず、愛にも満たされず、罪に囚われているのです。神は、反逆する者を懲らしめ、罰するのです。すべての人が神の裁きの前に生きているということを意識しなければ、自分を自分の論理によって義として、人々を非難・批判するのです。

 神の怒りによって滅びたかに見えたコラの子孫ですが、「しかし、コラの子たちは死ななかった。」(民数記26・11)。モーセに反逆し、神の怒りをかって地にのみ込まれた先祖を持つコラの子孫の肩身の狭さは、どんなにか苦しいものだったでしょう。ましてや、レビ族に属する彼らは、自らの所有地がないので神殿に仕えるしかなかったのです。周囲は、宗教的儀式を執り行い、神殿に仕える信仰熱心な同族ばかりの中で「反逆者・神の怒りをかった人々」というレッテルは、厳しいものでした。

サムエルとダビデがコラの子孫を神殿の門衛としたとあります(T歴代922)。その31節には穀物の献げ物を作る手鍋の仕事、つまり献げ物の料理人の仕事が彼らに任せられているとあります。穀物のささげ物は日々の行いの清めであり、祭司に残りが与えられます。こういう地道な仕事に仕えながら、彼らは年月を経て癒されていったのです。そして、讃美が口から湧き出て、讃美が日課となり、職業となっていったのでしょう。

ところが、更に時代が過ぎ、ヨシャパテ王の時代にアモン人とモアブ人が大挙して攻めてくることが起こりました。おびただしい敵の軍を前に、神の霊が下ります。それに応じて、ヨシャパテ王は地にひれ伏し、コラの子たちが立ち上がり、大声を張り上げて主を賛美するのです。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」(U歴代20・21)。これができるのは、罪の真っただ中から救われた彼らだからなのです。

 以前にも話しましたが、詩篇42篇の「鹿が谷川の流れを慕うように、神よ、私の魂はあなたを慕いあえぎます。」という讃美は、コラの子たちのマスキール(教訓詩)です。罪の自覚こそが、救い主への真摯な讃美に繋がります。

 牧師職の働きの基盤は自らの罪の自覚であり、悔い改めです。だからこそ、信者や人々への執り成しができるのです。自らの罪性に気が付かない人は、他の人々に対して批判的であり、自分の罪の中で滅びて行くだけなのです。全ての人が聖なる人であるはずはないのです。今年のテーマ聖句をお読みください。

 


5月1日 自らが失格者にならないために。  Tコリント91927

Tコリント9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
9:20
ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
9:21
律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
9:22
弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
9:23
私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
9:24
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
9:25
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
9:26
ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
9:27
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

笹とタンポポの生命力は凄いものです。3センチほどの笹の根でも土を被っていれば芽を出します。タンポポもきれいだからと放っておくと、タンポポだらけになって、他の草花を駆逐します。タンポポを抜いたままにしておいたり、根だけを焼いても、花や茎がそのままだと直ぐに種を作り、飛ばします。他の雑草もそのようで、油断すれば雑草だらけになるのが、雑草というものでしょう。

実りのある耕地にするということは、本当に大変なことです。人は木を倒して切り株を掘り下げて除去し、岩や石も取り除き、雑草を丹念に取り除き続けて、やっと作物が取れるようにするのです。休耕地が直ぐに雑草の荒れ地になり、耕作地に戻すのは容易なことではありません。津波で塩分と土砂を含み荒れ果てた農地を、元に戻すのも同様です。しかし、人間は、生きるために、その労力を費やして来たのです。今日のような機械や化学製品もない中で、人は生きていくために戦ってきたのです。

今日のように老いたら年金、病んだら保健医療、障害をもったら助成金という社会は、昔から見たら夢のようでしょう。しかし、いつの世にも変わらぬ霊の戦いはあり、「魂に戦いを挑む肉の欲を遠ざけなさい。」(Tペテロ2・11)は、心して守らなければなりません。

 イギリスに行って、朝食の充実さと共に美食を追求する愚かさを主張する風土を感じました。一日2食で、昼食代わりのアフタヌーンティーと菓子は、労働の休憩には丁度よく、夕食の煮込み料理などもイギリス料理は手間や味を掛けないシンプルさで、良く働く民族であることを示しています。

 現代日本の便利さは、堕落するにはうってつけで、サタンも働きようがないほど、テレビ、映画、ネットの至るところに性的、金銭、犯罪、その他の誘惑が手軽に満ちています。いくら良いものでも娯楽にはちがいありません。知識や教養が、人を救いに導くということはないのです。美味しさを追求する安直な文化も、現代の誘惑の特徴です。それを堕落などと言ったら、馬鹿にされるだけでしょう。牧師でも、美食をネットに流し続けている人が呆れるほど多くなりました。情報を流して人を惹きつけるなどという安直なことを教会がして、来た人が救われるのでしょうか。有名になる、噂になる、地位が上がる、重要な役を演じている、などということも、容易に誘惑になるのです。聖書は、「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(Tペテロ5・5)と、忠告しています。

 「雑草という草はない。」という人もいますが、それは農業や生産活動をしない人の言葉でしょう。ウィキペディアによれば、「雑草とは、人間の生活範囲に人間の意図にかかわらず自然に繁殖する植物のことである。」とあります。農産物の確保には、雑草は邪魔なのです。そして、人間社会、特に機能化した先端社会には、雑草のような誘惑が、簡単に繁殖するのです。人が霊性を保って、神の国に行くのを邪魔するのが、雑草のように生命力の強い誘惑なのです。

パウロは、今日の聖句の前で「私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。」(9・18)と言っています。私は、この言葉が好きです。報酬を求めず、権利を用いないでいられるようになった救いという事実が、自分の報いのしるしであるというのです。

 そのパウロは、自由を放棄します。「すべての人の奴隷となる。」ということは、自分と関わる人々の、勝手で罪深い要求に従い、自らをその人の下僕として仕えるということです。ユダヤ人にも、律法を持たない人々にも、弱い人々にも、要求するよりも、仕える者となったのです。自分の要求を持たない、要求しない、ということが、「福音の恵み」、つまり、救われた者の現実なのです。そして、その為には、「自分のからだを打ちたたいて従わせます。」27)という努力が必要なのです。

 「失格者」27)になるのは、簡単です。信仰の戦いをしなければ良いのです。要求や権利を行使しようとすれば良いのです。指導者になると、人々に要求したり、指導したりするのは、簡単になります。しかし、人を思い通りに指導しようとすることが、神の働きを損ない、福音の恵みを台無しにするのです。

 妻が、綺麗に咲く芝桜の周囲に頻繁に生えて来る雑草や笹を2週間おきに抜いていますが、それでも生えてきます。ところが、芝桜が定着し、余地なく繁殖すれば、雑草は生えづらくなるそうです。笹も、根から抜き続ければ、駆除できるようです。根気のいる仕事で、医師のやるようなものではないと思うかもしれません。しかし、損得を考えることが、罪であり、合理性であり、福音の恵みから離れることなのです。

 自分のやりたいように生きている人が、神の国の道を歩いているということはありません。食事も、生き方もシンプルが良いのです。そして、誘惑に負けない、身体づくりをする必要があります。

 


5月8日 募る憂いの為に祈り苦しむ。  Tサムエル11020

1:10
ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。
1:11
そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
1:12
ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。
1:13
ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。
1:14
エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」
1:15
ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。
1:16
このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」
1:17
エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」
1:18
彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。
1:19
翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。
1:20
日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから。」と言って、その名をサムエルと呼んだ。

創世記1章には、「生めよ。ふえよ。地を従えよ。・・・全ての生き物を支配せよ。」とあるので、結婚した女性が、もし「子どもは好きではない。育てられない。金が掛かる。・・・」などという理由で「子どもを産みたくない。」と言ったり、産もうとしなかったら、それはその人の存在に関する罪となります。同様に、人が結婚をしたくない、と考えたら、それもまた大きな罪となり、その人に祝福が与えられることは、なかなか難しいことになります。

 現代社会は、効率が優先しており、一人でも生きられる社会です。結婚したり、子どもを産むということは、大変な努力と犠牲が必要です。しかし、信仰とは信じるということであり、人生を自分の判断や好み、或いは能力の下においてはいけないのです。

 ドミニク・ヤオ師の聖会及び伝道大会での説教は、非常に祝福されたものでした。4日の大会では、信仰とは神に従うことであり、仕事の上司や社会の目上の人に対して、「ノー」ということは出来ない以上に、神には従うべきものであると話されました。また、この世は霊の戦いであり、ゴリヤテがいるペリシテ人の陣営とイスラエルが谷を隔てて向かい合う時のようであり、殆どの人は、恐れてラインを越えないが、ダビデだけが勇気と信仰をもって進み出た、と語られました。

 聖会などの祝福は格別なものです。でも、ある人が「もう帰る。」と言った時に、帰らないで御ことばを求めるということは、聖霊の導きに従う人にしかできないことです。私たちは、伝道会の帰りに、京葉道路を96キロで運転して、速度違反で捕まりました。家内と、聖会やなにか祝福された帰りは、多くの場合、このようなことがあると、確認し合いました。祝福の後には、必ずサタンの攻撃があります。ラインを越えたら、戦いが始まるのです。また、昨日は久しぶりに風邪をひきました。心が折れ、進むことを止めたら、祝福はなくなるのです。

 ハンナは、夫エルカナに愛されていました。しかし、子供がいませんでした。そのことで、もう一人の妻ペニンナから、いつも馬鹿にされ、攻撃されていました。「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。」(10節)にあるように、ハンナは子どもを身ごもるように神に激しく求めました。そして、請願を立て、生まれた子を、神に献げるナジル人にすることを誓っていました。

 ハンナは、神に定められた状況を変えるように激しく求めたのです。ハンナにとって、自分が神の祝福を受けていないことは、我慢ならないことだったのです。信仰とは、そのような理不尽や逆境の中で砥がれるものです。それをしょうがない、とか、神の御旨だから従うしかない、などと考えないのです。

 2章のハンナの祈りを読むことによって、私たちはハンナが如何に主を信じていたかを確認することができます。彼女は否定的な言葉を決して口にすることはありませんでした。それは、「主は、すべてを知る主。」(2・3)だからです。ハンナは、「人は、おのれの力によっては勝てません。」(2・9)ということを知っていたのです。

ハンナは、乳離れするまで、その生まれた息子サムエルを、神に仕え、一人で何でもできるように育てました。そして、3歳くらいで、神殿に彼を残し、帰ったのですが、サムエルは、非常優れた預言者に育ったのです。

 信仰とは、人生の難関を越えるものです。神には、出来ないことはないと信じ、従うのです。出来ないことや試練に我慢して過ごすことは、信仰ではないのです。神には自分の問題を解決できる力があると信じることが大事なのです。

 母である、ということは、凄いことです。もし、世の中の女性が皆、母親としての強さを持っていなかったら、男性達は生きていけないでしょう。世界は破滅しているでしょう。母親までが、打算や論理で生きていってしまったら、だれが信仰を持ち、希望を抱き、愛を知るでしょうか。母親の皆さん、更に神を信じる者となっていってください。


 

5月15日 生ける水の川が流れ出でる。  ヨハネ73339

ヨハネ7:33 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。
7:34
あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」
7:35
そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。
7:36
『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」
7:37
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

喉が渇くというと糖尿病の症状ですが、当時ではなかったでしょうし、ユダヤ人は病気やガンの少ない民族です。イスラエルは地中海性気候なので、暑くて乾いており、水は確かに命の源であり、喉が渇いて水が飲めなければ危険です。

 秋の仮庵の祭りの最終日には、シロアムの池から汲み上げられた水を神殿の祭壇に注ぐことになっていました。その時、イエス様は立ち上がり、大声で叫ばれたのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

 人のいのちが肉体にあると考えている人々は、物質的な水を求め、それ以上のことは考えません。物質的な水を飲んでも、霊的な渇きを感じる人は、実は非常に少ないのです。人々は、日常の生活に慣れ、霊的な渇きを感じないのです。イザヤ55章に「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。・・・なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。・・・聞け。そうすればあなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永久の契約、ダビデへの愛の契約を結ぶ。・・・あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。」とあります。世界中から魂の飢え渇きを覚える人々がイスラエルの神の所に集うのです。これは、聖霊のバプテスマが起こったペンテコステの日から実現します。

 イエス様は、このことはご自分が十字架に掛かってこそ実現するのだと分かっておられますが、弟子たちには皆目そのことはわかりません。それが36節までに書いてあり、39節に、ヨハネが十字架という栄光の後であると解説しています。実際には、クリスチャンでも、十字架が栄光であるということがわからず、苦難や試練を逃れ、楽な道を歩もうとする人が多くおります。日常生活には解決がなく、神の国への飢え渇きを持つ人は少ないのです。

 イエス様は、ヨハネ4章にあるサマリヤの女性にも、「わたしが与える水を飲む者は誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(14)と語っています。日常生活の入用に心を囚われ、一喜一憂するのは、聖霊に満たされていないからです。聖霊に満たされているならば、むしろ、心の底から喜びと感謝の神の国に繋がるいのちの水の川、泉が湧き出るのです。このことは、お説教で語るものではなく、自らのうちの喜びを証しするものです。

 「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。」(マタイ12・33.34)。聖霊に満たされるということは、悪い言葉が口から出ないということです。いくらまっとうな事を言っても、喜びと感謝のない人を信用してはいけません。批判的な人が聖霊に満たされているということは、全くあり得ないのです。私はこれまで偽クリスチャンに数多く騙されてきました。また出会ってきました。本物に価値があるからこそ偽物があるのです。「信仰の試練は、・・・キリストの現れの時に称賛」(Tペテロ1・7)されますが、偽のクリスチャンには喜びがなく、試練で朽ちていくのです。

 聖霊のバプテスマは、神の国に繋がる満ち溢れる喜びであり、その感化は必ず他の人に繋がっていくのです。生ける水の川が流れ出る井戸を枯れさせてはいけません。せっかく聖霊のバプテスマを受けて異言が祈れたのに、何かのことで躓いて、或いは祈る習慣がなくて、異言の祈りをしないでいると井戸が枯れてしまいます。井戸は使わないでいると枯れてしまいます。枯れた井戸を戻すのは、殆ど無理だそうです。 枯れていなければ呼び水を入れることです。他の人と一緒に祈り、力をもらうことです。

 世界中で宗教が淘汰され、熱心なものだけが残ってきているそうです。アッセンブリーは現在世界で6700万人に増え、42分毎にアッセンブリーの教会が増えています。日本でも当教団だけが信者も教会数も伸びているようです。教会は、聖霊に満ち溢れるならば増えるものなのです。そして、伝道の力もみなぎってくるのです。

 確かに、肉体的な力は衰えてきたことを感じます。しかし、四十一年を経た信仰は、肉なるものが削られ、深く強く確実なものとなってきたことを感じます。神の国が一層現実に近いものになってきました。人の罪性や弱さ、欲望に対しては、諦めることも否定することもない、神への期待を抱くようになりました。四十一年前に開かれた井戸は、今や川となっていることを感じます。

 聖霊に満たされるということは、感情的なものでも浅はかなものでもありません。異言を言うということについて、先日のヤオ師は、簡単に解き明かされていました。「言葉を言うのは私たちであって、異言を語ろうと願い、言葉に出さなければ言うことはない。」「一つの言語を語りながら他の言語を語ることはできないので、日本語で祈っていたら異言を言うことはできない。」「異言を言うことを求めないで与えられることはない。自分に異言を語らせろと神に注文することは無理だ。」

 ただ、聖霊のバプテスマを受け、異言を言っても、その感化を受ける人が、聖霊なる神との人格的な交流を大事にして、神の御旨の中に生きることを受け入れなければ、御霊の人となることは難しいのです。日本語で他の人と十分に人格的交流が出来ることが十分でない人に、異言の祈りで神との交流が出来るとは言えないと思います。他の人との交流をし、その人の個性を認めながら、神の御心を伺う祈りが出来る人となって頂きたいものです。

 


5月22日 招かれ満たされた食卓。  マルコ21517

新改訳 マルコ 2:15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
2:16
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
2:17
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

先週、「飢え渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」というイザヤ55章の預言がイエス様によって成就され、異邦人も呼び寄せられることをお話しました。今日のマタイ8章でも、沢山の人が世界中から来て神の国の食卓に連なることがイエス様によって語られ、御国の子と自惚れていたイスラエル人が暗闇に放り出されて悔しい思いをすることが預言されています。そして、まさかと思うような人々が神の国の食卓に連なることが記されます。

 教会において食事を共にするということは、神の国の特徴であり、現われであります。ウィリアム・ウィリモンは、最近の個人主義的な信仰が、食事を共にするという教会の奥義を損なっていると指摘しています。個人の信仰深さや献身の程度が、教会において強調され過ぎて、共に過ごし共に歩み共に礼拝するという神の国の現れが、理解されなくなっているのです。個人がいくら信仰が強くなっても、神の国の恵み、聖霊による満たしがなければ、それは虚しいのです。

 教会の歩みの最初は、「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を讃美し、すべての民に行為を持たれた。主も、毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(使徒2・46.47)という、愛餐の時が特徴です。教会において、食事を共にするということは、神の民の交流をかたちにする大事なものなのです。

 ですから、教会において交わりと喜びをもって食事をするということは、救われていない人にはできないことなのです。そして、訪れた人々にとっては、神の国を想わせる麗しいことなのです。人々は、食べ物を持参し、富める者は多く持ってきて貧しい者と共に食事をし、その交流には身分も地位も貧富も違いはなく豊かな神の国の差別なき現われだったのです。

 ところが、コリントの教会では、富んでいる者が貧しい人に与えずに、「我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるという始末です。飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちを辱めたいのですか。」(Tコリント11・21.22)という、食事の乱れがありました。

 この教会でも、最近食事の混乱があるようです。我が家では、テレビを見ながら食事をしたことはなく、用事は食事に優先させてはいけないことになっていました。礼拝の後の食事を各自が別々に買いに行き、別々に食べています。用事があると言って、それ済ませてから、別に食事をしています。まるで、異邦人の食卓のようです。現代社会の縮図です。そして、他の人が食事を済ませるまで、席を外して、用事をするようなマナー違反をしてはいけません。食事では、お互いの状況を語り合い、神の導きや祝福を語り合い、喜びと慰めが交流するものです。もし、その交わりに参加できないのであれば、それは異邦人、救われていない人なのです。この世の言葉、自慢話や世間話は教会では通用しないのです。

ウィリモンは、聖餐で、前もって分けておいたものを個人が別々に受け取るのは、その趣旨に反すると異議を唱えました。つまり、一つのパン(種入れぬ)と一つの瓶に入ったワインを用いて、共に分かち合うことを提唱しています。ジュースを使っている私たちでは、衛生上難しいと思うのですが、ウィリモンは神の国の民の交わりは衛生上の注意よりも大事だと指摘しています。

 そこまでは、私たちには無理ですが、礼拝後の食事会を麗しいものにしなければなりません。各自が買いに行くのも、なにか侘しい気がします。意見を寄せてください。教会の食事会を愛餐会らしい、神に国の現れにしたいと願います。来週の牧師夫婦誕生会が、そのような見本になれば幸いです。「兄弟たち、食事に集まる時は、互いに待ち合わせなさい。」(Tコリント11・33)。

 「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。」(ローマ14・17.18)とありますが、飲み食いにおいて「義と平和と聖霊による喜び」が現われるようにはならないものでしょうか。

 先日、未信者の家族と食事をしましたが、勝手に食事をし、お小言が多く、また批判話をしようとしていました。各自が自慢話をするので、人の話は聞こうとしていないようでした。このように育った子どもは、成績や自慢、富のことばかり気にして生きることになるのでしょう。他の人の心の状態に関心を持たない人は、神の国の人ではなく、この世の者です。残念ながら、そのような人たちとは、神の国の食卓に同席することは出来ないのです。私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。」(ローマ14・19.20)。

 たかが食事ですが、その食卓に、その人とその家族の人生の縮図が現われています。神の国の現れが、食卓に出るというのは、凄い現実です。食べる物だけに捕われて他の人を配慮できないようではいけません。早すぎる食べ方も問題です。怒ったり、批判したり、悪口が出るような食卓ならば、そこは神の国ではなく、地獄の入口となるでしょう。食事の時に、親が注意や訓戒ばかり述べると、子供は食事が嫌いになるでしょう。子どもの話を聞き、喜びの扉を開けて、神の国への道を歩ませることが大事です。

 異邦人、救われていない人は、神の国の食卓に出て、自分がそれにふさわしい「婚礼の礼服を着ていない者」(マタイ22・11)ことに気が付いていないことがあります。その人は、残念ながら、王やしもべに一目でわかり、「外の暗闇に放り出せ」(22・13)ということになります。自分が、招かれているかどうか、御霊の実によって証明できます。


5月29日 歌いつつ歩まん。  詩篇10015

詩篇100:1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。

100:2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。

100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。

100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。

100:5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。

聖歌498516)番 「歌いつつ歩まん」

Lyrics E.E.Hewitt 1898 

Music William J.Kirkpatrick 1898

1.主にすがるわれに 悩みはなし
十字架のみもとに 荷を降ろせば
※ 歌いつつ歩まん ハレルヤ!ハレルヤ!
  歌いつつ歩まん この世の旅路を

2.恐れはかわりて 祈りとなり
嘆きはかわりて 歌となりぬ  ※

3.主はいと優しく われと語り 
乏しきときには 満たしたもう ※

4.主のみ約束に変わりはなし
みもとに行くまで 支えたまわん ※

36年前の結婚式は神学校の入学式の前日でした。入学したら卒業後1年は結婚できないということのぎりぎりの抜け道でもありましたが、その4月7日の前日には医師国家試験があるはずでしたから、まさにその日しかありませんでした。でも、家内は体調が悪く卒業できず、お金もなく、入学後は働くこともできないので、絶体絶命の結婚式でした。ともかく、結婚は神の導きで確信しており、献身は神の声を聞いていましたが、状況は最悪でした。当然、両家は総反対で周りも呆れていました。我ながら、なんて馬鹿なことをするのだろう、これで私の人生は真っ暗だと考えたものでした。それでも当時、牧師になるというのはそういうものだと思い、聖歌583番「十字架の御許にひれ伏しし時、後ろの橋をば燃やし尽くしぬ。後ろの橋をば焼き捨てし今、十字架を担いて進みに進まん」を実感したものです。そのような結婚式に、この「歌いつつ歩まん」を愛唱歌として選び讃美したのですから、壮絶な出陣式の歌のようになってしまいました。教会員も司式者も、私たちも涙を流しながら歌ったのです。

 しかし、その後の生活もめちゃくちゃでした。当時の金沢教会では献身者は日曜朝早くから最後まで奉仕しなければならず、神学校に行きながら祈祷会も出席が義務付けられました。家内の体調は悪く、掃除洗濯買物をしながら、カウンセリングをし、そして往復4時間の通学です。健康であった私までも身体がボロボロになり、勉強はできず、それでも進みに進みました。若かったのです。

 翌年、子供が生まれた時は、更に呆れられましたが、お陰で家内の気力が回復してきて、医師国家試験に受かりました。私は、愚痴や弱音を吐かないので、周囲は気の強い勝手な人間だと思い、私を攻撃してきました。私は、言い訳を言わず、説明もせず、ただ祈りに祈りました。言い訳を言うと、とてもこんな生活をやってはいけないものです。大きな声で泣きながら祈る私に、神学生たちは戸惑っていたようです。

 さらに、2年後には神学生なのに、千葉に引っ越してしまいました。全寮制を破りながら、更に勝手なことをするので、非難されたものです。これも、神からの啓示で、説明することもできません。私は、神と自分との関係のことは、勝利するまでは言うべきでない、神に責任を被せるようなみっともないことは出来ないと考えていたからです。そして、卒業の年に長女も生まれました。

 9人兄弟の末子として可愛がられたので、人に嫌われたり、批判されるのがとても嫌でした。そして、仁義を重んじる群馬県人として、勝手なことをすることは、恥ずべきことでした。それでも、神との関係は、それらより大事なことで、決して人に弱音を吐いてはいけない、「義人は信仰によって生きる。」(ローマ1・17)という奥義だと知っていました。

 卒業してからも困難だらけで、祈りと断食を重ね、更に体調を崩して行きました。伝道の成果は出ず、説明をしない私は批判されるばかりでした。経済も全く苦しくて、家族には辛い思いをさせながら、会堂費を出していました。

  この「歌いつつ歩まん」を作詞したエリザ・ヒューイットは、師範学校を出て養護学校の教師になります。赴任した学校に、知恵遅れの男の子がいて、彼女は世話をしようと申し出ます。その男の子は時々暴れることがあり、彼が暴れて椅子を投げてエリザの背中に当たってしまいます。彼女は脊椎を損傷し、長い闘病生活を余儀なくされました。病床に伏しながら、自分の身に起こったことを考えるにつけ、彼女の心には少年に対する怒りと憎しみの感情が膨らんでいきました。また、「なぜこんな身になってしまったのだろう。なぜ神様はこの苦しみを与えられたのだろう。」彼女は悲しみと嘆きの涙の日々で、信仰も弱っていきました。

そんなエリザの病室に毎日掃除に来る黒人のおばさんがいました。掃除をしながら、彼女はいつも感謝にあふれて賛美をし、笑顔が絶えません。しかし弱っているエリザは彼女の鼻歌にイライラしていました。「すこし静かにしてくれない。そっとしてほしいんだから」と思わず言ってしまいます。「ごめんなさい。でも、悲しみや嘆きを賛美に変える力を、イエス様がくださるの。」と彼女は言いました。その夜、彼女はこの黒人女性の言葉を思い返していると、涙が出てきて、自然と悔い改めのお祈りを神様にしていました。そして彼女の中からあふれてきた詩から生まれたのが聖歌498番の「歌いつつ歩まん」(「主にすがる我に悩みはなし」)です。

 人の世に苦しみも悲しみも多くあります。耐えられない困難も、事故や怪我や病気もあります。理不尽な事件や犯罪、人の攻撃もあるでしょう。しかし、信仰者は、その苦しみ重荷をイエス様に委ねるのです(1節)「全て疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休まれてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、魂に安らぎが来ます。」(マタイ11・28.29

 36年という長い年月で、やっとくびきを負いながら心優しくへりくだるということが分かって来ました。そして、魂に安らぎが来るようになりました。逃げようと思ったり、自分だけの苦労などと嫌がったり苦しんでいたら、イエス様とくびきを負っていることにはなりません。くびきとは、二頭の牛が首に付けて重荷を引く道具です。観念的には、負う覚悟をしたら、イエス様がくびきを負ってくださり、自分は楽になることを知っていました。しかし、実際に十字架の御許に荷を下ろした者だけが、魂に安らぎが来るのです。そして、恐れも嘆きも無くなって、歌が生まれてくるのです。


6月5日 境界線の内と外  エペソ人への手紙31421

新改訳 エペソ 3:14-21

3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、

3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、

3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

冷蔵庫の中に肉を煮込んだ時のタレを密封容器に入れたまま忘れて半年くらいが経ってしましました。開けてみるとカビが生えていました。直ぐに捨てて、洗剤で丁寧に洗いました。いくら密封していても中に菌があり、空気があればカビは生えてきます。別のスモーク肉も2ヶ月そのままでカビが生えてしまいましたが、これは削って洗って、美味しく食べました。

 日本人は、内と外を使い分けます。そして外面を良く見せようとします。評判の良い人ほど、家庭では態度が悪いようです。これは、仕事を家庭よりも重視しているからと、基本的に性格が悪いのが原因でしょう。性格を良くするのは、自らの決心が大事です。いくら仕事が有能でも、或いは有能でなくても、夫婦仲が悪かったり、家族が仲良くなければ、人生は幸せとは言えないでしょう。

 エペソ書でパウロは、「あなたがたの内なる人を強くして下さいますように。」と父なる神に祈ります。「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(Uコリント4・16)とあるように「外なる人」とは身体であり、「内なる人」とは、その人の霊性であり、その人の実体です。

 私たちは聖書研修会で2年間「境界線」という学びをしました。多くの人々の問題は自らと外部との境界線を引くことをしていないということでした。そこで、他人が自分の人格の範疇に入ることを是認し、また、自らも他人の人格を侵害してしまうのです。それは、夫婦でも、親子でも同様で、人格を傷つけるような言動は、誰に対してもしてはいけないことなのです。人格を傷つけられた人は、他の人格を傷つける攻撃性をもってしまうのです。ですから、子供に対しても、「あなたはダメな子だ。」などと言うならば、子供が成長した時に、親を尊敬することはない、という当然な攻撃を受けてしまうのです。夫婦の間でも同様であり、傷つけあったら、癒されるのは難しくなるのです。

 人は基本的に罪人であり、自己中心ですから、期待をし、愛情を持つと、その制御ができなくなって、相手の境界線の中に入り込んで、人格を傷つけるような攻撃性を出してしまうのです。

心の中の苛立ち、不平、不満、怒り、・・・そのようなものは、境界線を設けて自分の内なる人を、守っていない場合に起こるのです。もし、家に壁がなくて外から何でも見られてしまったら、どれだけ不安で嫌なものでしょうか。

 あなたの心の中の不安や苛立ちは、心に中にイエス・キリストを受け入れて、きれいに処理してもらう必要があります。「キリストが、あなたがたの心の内に住んでいてくださいますように。」(17)とありますが、そのためには、「あなたがたの信仰によって」ということが必要になるのです。信仰は神への信頼でもあります。実は、多くのクリスチャンが、自分の期待や愛、行動を、キリストに打ち明けていないのです。そして、語り合っていないのです。聞くことができないコミュニケーション不足が、神との関係においてあるのです。

それは、「外づらが良い」という内と外との使い分けの習慣から来ているように思われます。自分の本心や本性を他人に見せたら破滅であるとして生きてきたので、イエス様に対しても、外づらを良く見せて、内面を見せていないのです。「心の中に住んでいてくださる」というのを、客が家に中に来るので、急いで片付けて綺麗に見せるというようなことでは、キリストへの信頼がないのです。

 パウロは言います。キリストの「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒(信仰の先輩たち)と共に、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力をもつようにあり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」

 私は、自分の行動をキリストの御霊である聖霊に問います。一日の出来事を確認します。自分の行動は適切であったのか伺います。そうしなければ、とてもキリストにあって生きることはできません。その神との交流は、夫婦でも友でも入れるわけにはいきません。そして、赤裸々に神の前に出て、悔い改め、教えられ、気付かされ、キリストの愛を知るのです。

キリストは、決して、人を責める御方ではありません。人の愚かな行動の背後に、その人の心の傷、癒されてない過去を知らせて下さいます。攻撃的な人、諦めの早い人の心の苦しみを教えて下さいます。そして、祈りの人、とりなしの人、助ける人となるべく、主は私を教え諭して下さるのです。そして、私はキリストの個人レッスンの中で、内なる人が強められるのです。

 「本当にあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。」エペソ4・24-30

 


6月12日 砕かれ悔いた心に主が入って下さる  詩篇51517

新改訳 詩篇51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。

51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。

51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。

51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。

51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

51:14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。

51:15 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。

51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。

51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

キリスト教は世界に冠たる宗教です。イエス様のことは誰でも知っているでしょう。そういう面では、キリスト教会に来るということや、信者になるということは、現代ではそれほど違和感のあることでは無くなってきています。そして、趣味や教養のように教会に来る人もいるわけです。

 教団誌に宗教者が減少していることが記されていましたが、その本には福音派は信者が増え続けていることが報告されていました。しかし、実際には、福音派の中でも私たちペンテコステ派のことです。礼拝では、創造論のお話も始めましたが、進化論を学校で教えられてきた日本人には違和感のあるものでしょう。それだけでなく、イエス・キリストが死んでよみがえられたこと、また雲に乗って再び天から来られることを信じている法外なキリスト教が、私たちの教団です。

 しかし、アメリカでは創造論を信じる人が50%以上おり、世界でも多くの人が神の天地創造を信じています。これを日本人は、今の科学の時代に、そのような妄想を信じる愚かな人がいるものだ、と相手にしません。実際、日本基督教団のような所では、殆どの牧師が有神的進化論を支持しており、創造論を天動説と混同しているような様子さえ見られます。

 種というものは固定しており、異種のものどうしは子孫を産むことはできません。人間はサルとは違うのです。エネルギー不変の法則があり、宇宙のエネルギーは始めがなければならないのですが、それは創造者でしか説明できません。自然の年月を経た造作も、神がそれを丁寧に造られたとすれば、解決するのです。創造論者は馬鹿ではありません。アメリカで創造論者と進化論者が論じ合いました。論理的に検討すれば、進化論者のほうが説明不能なことが多いのです。

 神は、そういうことには沈黙されます。どうしてでしょうか。救い主を信じ、クリスチャンになるということは、そのような葛藤を乗り越えてでなければ、できないからです。「自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。」(Tコリント1・21)。牧師が有神的進化論を信じていて、奇跡や癒しは信じるのでしょうか。何故、牧師をしているのでしょうか。罪という問題は、創造者の裁きを知ることなしには曖昧なものとなります。救いによる平安も、偽りのものとなります。私は、そのような人を牧師として交流することはできません。天地創造を信じないで、自分はクリスチャンであると自認しても、いつかは限界が来ます。人生は、真実な信仰を持たなければ幸せにはなれないからです。そして、自己満足な信仰や御利益を求める信仰では、神の国への道は開かれません。神の国というは、それほど安易に入れるものではないと聖書にあります。

 さて、今日の聖句は、ダビデが不倫を犯し、更にその相手の夫を殺してしまって誤魔化した時に、預言者ナタンが、その罪を糾弾し、神からの裁きを宣言した時のダビデの悔い改めの言葉です。皆さんは、これをどのように受け取るでしょうか。このようなことをしたのだから、当然の悔い改めだと思うでしょうか。

新聞を賑わす汚職や犯罪を見て、真に悔い改めた人がいるでしょうか。その場限りの謝罪や涙を見せて、どうにか乗り切ろうと考えている人ばかりです。私は、彼らの行動と心の中を覗って、確かに彼らは全能の神、裁き主の存在を信じていないと思いました。魂を救われた者というのは、自らの罪というもの、神の前の大罪に気が付くのです。そして、「砕かれ、悔いた心」を現わすのです。

 先週、「内なる人を強くして下さいますように。」と語りました。しかし、実際は、「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。」(ローマ6・20)というように、内なる人の強めなど関心がない人が多いのです。しかし、実際には、内なる人を強くしなければ、人生の難関に勝利することができません。

 ダビデの悔い改めの祈りは、見事なものです。本当に悔い改めています。これは、悔い改めて、イエス様をその人生の主として心の内に受け入れなければできない祈りです。「きよい心、揺るがない霊」10節)とは内なる人のことです。その奥義は、聖霊が、悔い改め、イエス様の救い主として信じた人の中に宿ることによって実現するのです(11節)。「救いの喜び」が満ち溢れ、神と人に「喜んで仕える」内なる人が形成されるのです。

 自分勝手な人、自分の利益や都合を優先する人が、「砕かれ、悔いた心」を持っていないことは明確です。私自身は、そういう世の中に住んでいるので、それを人の心の当然な在り様と捉え、自分はそれに躓くことのないように戒めています。私たちは、罪人の蔓延する社会に住み、人を陥れ、罪を犯す人々と接しているのです。そして、そのことが自分の内にあることを認めたからこそ、心が砕かれるのです。

 そのように心砕かれた者にとって、世界が進化したなどということは、とても信じられるものではないのです。


6月19日 主は陶器師、我は土くれ。  ローマ書91523

新改訳 ロマ9:15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
9:16
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
9:17
聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。
9:18
こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
9:19
すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」
9:20
しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。
9:21
陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
9:22
ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
9:23
それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。

うちの社員はダメだ、という社長は、自らダメなことを示しているのですが、それでも部下を悪く言う人は多いようです。子供を誉めたら良いとか、怒らないといけない、という論議も多いようです。私自身は、倫理的悪いことは直ぐに戒めるが、その他のことは、子供も社員も信者も、個性として見守ることにしています。都知事の有り様も難しいでしょうが、あまりにケチでしたね。

 さて、牧師の間でも、基準が厳しいようです。それは、神の御用に就くから、というからなのでしょうが、それで世間には通じない厳しさを自他に律してしまうこともあります。自分に対して厳しいのは、良いのですが、他人に対して厳しい人は、自分はその基準に達していると思っているからなのでしょうね。また、自分は牧師だから信者の模範でなければならない、迷惑を掛けてはいけない、と意識づけているのだと思います。立派なことです。ただ、それは聖書の教えなのか、と吟味する必要があります。立派なことが、そのまま聖書の教えと結びつくと安直に捉えては、直ぐに惑わされることになり、私たちはパリサイ人のようになってしまうからです。

 最近の説教では、「仲良くする。」ということを語っていますが、基準が厳しく、他人を指導したり、直ぐに論議批判する人とはなかなか仲良くなれないものです。自らの弱さ、罪深さ、愚かさを認めることが砕かれることだと、お話しましたが、他人を砕こう、悔い改めさせよう、という人ほど、嫌な人はいないものです。ところが、世の中には、指導者ほど、その手の人が多い者です。

 政治家の論議は、自己主張に夢中であり、相手の話を聞いていないことが多いものですが、世の中でも、横で聞いていると、そのようなこともあります。気に食わないことがあると、やりこめずにはいられない人々です。そういう人とは相手にならないほうが良いでしょう。

 そのように人間というのは、自己中心なので、自分の愚かさ、弱さ、罪深さを我慢できない人が多いのです。20節の「形造られた者が形造った者に対して、」不満を言うのは、そういうことです。でも、私は、論議好きな人々や基準が高い人々は、自分の弱さ愚かさに気が付いていない場合が多いことも悟るようになってきました。所有する芸術品を愛玩するように、自分の長所・能力を誇る人も多いのです。直ぐにお説教をする人がいますが、自分は特別だと考えているのでしょうね。付き合いたくはない人です。

 「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1・7)とあります。全てを知り、裁く神を恐れるならば、傲慢になることはなく、「愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(同)となるのです。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。自分を知恵のある者と思うな。」(同3・5.7)とあるように、自分の正しさや主義は、危ない橋です。「力の限り見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」(同4・23)とあるように、喜びや愛に満たされた、いのちの泉は自分の正しさや主張から溢れ出るものではありません。

 神は、「わたしは自分の憐れむ者を憐れみ、自分の慈しむ者を慈しむ」(ローマ915)と言われ、創造主なる神の主権が全てであると示します。ところが、私たちは、その全てを知り、私たちをそれぞれ異なった性質・能力・特徴に造られた神に対して、自分達の優劣を競おうとするのです。そして、人を評価して、自分の優先性を神に認めさせようとするのです。

 ですから、自分が全てにおいて秀でていなければ我慢ならない人が、「神に言い逆らう」20節)のです。実際には、神に向かって文句や苦情は言えないので、自分を受け入れることが出来ないのです。「事は人間の願いや努力によるのではなく、憐れんでくださる神によるのです。」16節)ということは、自分を単なる土くれであり、神の御手に委ねて、己が不器用な在り方を生きようと認めなければできないのです。

「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3・28)。つまり、聖書の教えです。そして、聖書信仰こそ、私たちの考え方、生き方の基本でなければなりません。

 「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(Uコリント12・9

 


6月26日 天地創造前からの選び。  エペソ書1214

新改訳 エペソ1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:3
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6
それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
1:7
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
1:8
神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
1:9
みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、
1:10
時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、
1:11
私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。
1:12
それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。
1:13
またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

今日の説教題を見て、途惑った人もいるかと思います。私たちは、三次元の世界に住んでいます。二次元からは、一次元の線上のどこに点があるかがわかりますが、点からは見えません。同様に、三次元からは二次元の図上のどこに点があるか位置がわかりますが、二次元的には距離はわかりません。三次元の私たちには、時間が経過の経過はわかりますが、それを同時に視野に入れることはできません。3DプリンターのDとは、Dimension、つまり次元ということで、立体図形を製作することです。二次元の図ではわからないことが、よくわかります。二次元の絵を見て、私たちは無意識に膨らみを持たせて三次元的に理解するのです。

 私たちは、望遠鏡で遠くの物を見ることができますが、それは直線に三次元的要素である空間を考慮して、距離を計算するのです。しかし、空に上がれば、その距離は一目瞭然となるのです。動画を見ると、時間の経過の中で、物や人がどのように動いているか良く分かります。歴史という時間の経過が世界や人を構成しているのはわかるのですが、それを一度に視ることはできません。

 神は、ご自分のことを「わたしはある」という存在であると出エジプト記3・14に仰せられました。神は、永遠の昔から存在し、天地創造を為し、何物にも依存しない存在です。アブラハムに向って、「あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし」(創世記11・1.2)と言われた神は、その約束の実現の時にも同時に居られる神なのです。それは、私たちが五〇年前の映画と現在の映画を同時に視ているのと同様なのです。しかし、神は視ておられるだけでなく、全知全能の神なので、それらを支配されているのです。

 だからこそ、歴史的確定事項を根拠に自分達の優越性を主張するユダヤ人に、「『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」(マタイ3・9)という歴史上どこにおいても、神にとっては現在であることを説明するのです。神は、歴史も自然も、その主権において自由にお造りになることができるのです。神を信じない人々は、その根拠をいろいろと理由づけしますが、私たち神を信じる者にとっては、そんなことはどうでも良いのです。同じ土俵に立って、責められてはいけません。

 日本は、自然の歴史的経過を根拠に進化論を当然な真理だとしています。そんなことを、真剣に神を信じる者が知らないとでも考えているのでしょうか。創造論を信じる福音的クリスチャンを愚かだとし、イエス・キリストを倫理的宗教的指導者であり、単なる人間として功利的に信じるクリスチャンを賢いと見做しており、また、そのような自分の判断を聖書信仰よりも重要だと考える人が多いのです。残念ながら、そのような自称クリスチャンを、神は信仰者としては認めないのではないでしょうか。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Tコリント1・18)

さて、今日は父の日です。日本では血縁が重視され、その性格や体質などの遺伝性を変えられないものとして、家族と血縁に従うことが指導されます。キリスト教社会では、養子制度が社会に定着しています。それは、血縁よりも神に任せられた人生と家族を、人として信仰者として生きていくかが問われるからです。

4,5節には、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」とあります。このことは、誰の子だから、どういう行いや働きを下から、ということではなくて、神が選ばれたので、今の状況があるという、全く逆転の考え方です。

「親があなたを産んだので、あなたがいるのだから、親には絶対に従いなさい。」という親がいますが、この聖句はそういうことを意味しません。どうしようもなく、勝手でダメな親から生まれて、それでも神を求め、真実を求めるあなたを、神が選んだのだということなのです。

 そのような親子に関する聖書的理解の中で、親は子供に対して、その子どもを神から預かったものとして責任を全うして育てなければならないのです。「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6・4)。「父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」Tヨハネ2・13