1月3日 御ことばに従う自制  ヨシュア記159

新改訳 ヨシュア1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
1:6
強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
1:7
ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
1:8
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
1:9
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

新改訳 箴言 29:1829:18 幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。
新共同 箴言29:1829:18 幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。
口語訳 箴言291829:18 預言がなければ民はわがままにふるまう、しかし律法を守る者はさいわいである。

「高く掲げよ。あなたがたの幻を。幻のない民、皆滅びる。幻のない民、虚しく過ごす。」とペンテコステ信仰では高らかに歌われ、個人的な希望を持つべきことを教えられます。さらに、ヨエル2・28の終末預言「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」とも結びついて、個人的なビジョン、希望を持つべきであると、飛躍されて説教されることがしばしばありました。それぞれの聖句は、重要なものですが、聖書のいう幻が、個人的なものであるとし、個人的な希望と結びつけることは、無理があります。

 アメリカのR・シューラー牧師をはじめとした可能性思考の牧師たちが教会成長論を高らかに論じて、牧師にも信者にも成功者となることをアピールしました。私自身も非常に啓発されたのですが、心の底には、全てを捨てて神に自分の人生を委ねるという献身者としての決心をして牧師になった人間としては、相容れないものを感じておりました。結果的には、信者に無理を強いる傾向に付いていけない自分は、教会成長思考に向いていないと悟った次第でした。それは、教会成長研修所における2年間の研修の結果だから皮肉なものです。ただ、その後20年経って、教会成長思考の牧師たちの不始末が挙げられてきました。

 「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばをかたったのだからです。」(Uペテロ1・20)とあるように、人間中心的な御利益信仰のもとに神を理解し、信じることは、信仰生活そのものを破滅させる傾向があるのです。

 初詣に多くの人々が出かけています。神に祝福を願うという思いは否定はしませんが、その時だけのご都合で神が祝福するという考え方は、信仰対象である神に対する真摯さに欠けているのではないでしょうか。なかんずく、金で神の祝福を買い取るという意識、それも100円、500円のお賽銭で一年の祝福を願うのは、都合が良すぎると思います。個人的な寄進となると、数十万、数百万円単位になるのでしょうが、それも功名心と結びついているのでしょう。

 聖書の神は、愛の神様ですが、ロゴスの神であり、論理的には首尾一貫しています。「神の教えと掟を守ったら、祝福する。」というものです。

きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。(申命記26・17-19)

 そして、そのことを守らないなら、あなたは呪われる、と28・15に書いてあります。しかし、実際に守る人は少ないのです。だから、十字架を負って主に従う人は少ないのです。

 信仰者が俗人となったら、人々は安心し、自分の罪と欲望に安住するでしょう。そして、見せかけだけの信者を嘲笑いするのです。私は、洗礼を受けた後、友人知人によってたかって非難されました。しかし、もはや昔に戻ることはできない、と告げた後、50人以上の人々が教会を訪れ、4名の者が洗礼を受けました。

 少年サムエルに主が語りかけた時、「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」(Tサムエル3・1)ようです。幻とは、個人的なビジョン、計画ではなく、神からの啓示です。信仰はあくまで個人的なものであり、そういう意味では、神からの啓示を得て、神の掟と教えを守っていくことは、自制的なものであって、信仰の実体を明らかにするものです。

 私の心の中には、信仰者として神の教えに従い、御心に応じて生きたいという願いと自制があります。そして、その自制こそが、神への応答であります。「欲しいままにふるまう。」「堕落する。」「我がままにふるまう。」ことは、不信仰の証拠であり、必ず、滅びていくのです。傲慢な人間が神に受け入れられることなど、あってはならないことなのは、明確なことです。

 


1月10日 夢と幻とは  ヨエル書22832

新改訳 ヨエル2:28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
2:29
その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
2:30
わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。
2:31
主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
2:32
しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。

 終末預言は、新約聖書の中で多くの部分を占められていますが、私たちは、それをとばして教訓になる部分を読もうとしているので、その内容を理解していないのが実情です。また、歴史上、何度も「今こそ終末だ!」とされながら、ここまで至って来たのも事実です。ただ、現在の教会時代というのは、終末前時代であり、いつ終末が来てもおかしくはない、というのは教理的に事実です。そして、イエス様の教えは、救いと真理の強調と共に、神が人に対して最終的な裁きをするという警告をしていることも事実です。

 マタイ24章を読めば、終末のしるしは以下のものです。@偽預言者、A戦争や戦争のうわさ、B民族紛争と国家間の敵対、C飢饉と地震、Dクリスチャンへの迫害、E人々の躓きと裏切り憎み合い、F不法がはびこる、G世界中に福音が伝えられる、などです。偽預言者は、クリスチャンを惑わそうとして、しるしや不思議を行います。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24・37-39)

 注意するべきことは、信仰者の信仰が試されるほどに、試練が続くということです。私が言い訳をしてはいけない、と何度も繰り返しているのは、それは自己義認であって、神にすがり神に助けを求める信仰と相反しているからです。 自己主張を繰り返し、他の人を非難し攻撃する人も、神の助けと救いを得ることは難しいでしょう。自分の弱さと不信仰を是認し、人を助けることをしないで神に赦しを求める人に対して、神は「知らない」と言われるでしょう。

 終末というのは、生ぬるい信仰に対する警告でもあります。神の裁きとは、私たちの信仰の現実に対する裁きでもあり、そういう面で、私たちの信仰の真摯さを問うような脅しにもなっています。

 現実の生活は、前述のノアの日の前のようです。神も裁きも関係なく、欲望のままに生きている人々が殆どです。私たちがそれに追づいし、迎合して生きてしまうかどうか、神はご存知です。次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」(Uペテロ3・3.4)

 子どもの頃、泥棒が家に入りました。だれも全く気が付きませんでした。しばらくは怖かったものです。主の日は、盗人のようにやって来ます。」Uペテロ3・10)だからこそ、「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」(3

さて、そのような終末預言を語るヨエルのことばは、年寄りにどのような夢を約束しているのでしょう。新約を読むと、年寄りにはなかなか厳しい試練となります。夢という単語は、マリヤと結婚するようにヨセフに語りかけられた時(マタイ1・20)、ヘロデの迫害から逃げるようにヨセフに語りかけた時(2・13)、エジプトから戻る時(2・22)、ペテロに異邦人を差別するなと教えられた時(使徒11・5)、パウロが異邦人伝道を命じられた時(使徒22・17)などです。これらは、具体的な指示です。信仰深い老人に対して、神は具体的な対応策を試練の中で個人的に語りかけて下さると思います。私自身が見た夢は、「主が御入用なのです。」という献身への命令でした。それは、ぼやっとした夢ではなく、雷のように私の魂に宣言された言葉でした。

 それでは、若い男が見る幻というのは、どのようなものでしょうか。変貌の山での3人の弟子に対するイエス様への従順命令(マタイ17・9)、復活時の天使(ルカ24・23)、アナニヤに対するパウロへの按手命令(使徒9・12)、コルネリオにシモンの家に行くようにとの天使(使徒10・3)、牢の中にいるペテロへ天使(使徒12・9)、パウロへマケドニアへの宣教命令(使徒16・9)、パウロにコリントに留まる命令(使徒18・9)、などです。これらは全て、具体的な宣教命令です。私が見た幻は、@神学校の試験の後に人を引きずり込む泥沼の人々に対する宣教命令、A妻子が連れ去られた時に十字架に付けられたイエスを見たこと、B不整脈で動けなくなった時に巻物のように流れた詩篇91篇、などです。これは、私の信仰を強くし、宣教の使命と責任、そして主がいつも私と共におられるという確認を与えました。

 今は、夢や幻を見ることはありませんし、よほどのことがない限り、これからもないと考えています。それは、為すべきことと、将来予測、そして、試練や戦いに備えることは聖書を通じて、十分理解できているからです。

 私は、皆さんの中でどなたが真に神の国にいけるかわかりません。私に責任があることは、皆さんに対して真摯に神の国とその為に為すべきことを聖書から教えることです。あとは、皆さんの側の責任です。この堕落した欺瞞の社会において、誠実かつ真摯に信仰をもつかどうかは、あなたがたの問題であるからこそ、あなたがたの信仰に祝福と報いがあるのです。

 私自身は、神の国の奥義を幻や夢、そして聖書によって教えられ、真実に歩んできたつもりです。現在の祝福は、その恵みです。しかし、私が堕落し、神の教えをないがしろにすれば、たちどころに祝福は呪いに代わり、神の国の約束も反故にされることを知っています。だからこそ、自らの心と魂を吟味し、神の前に自らとその罪性を正直にさらけ出しているのです。私自身は、決して誇るべきものではないことを知っています。私のうちに、義はありません。ただ、私の内にある聖霊が、私をとりなして下さる故に、神の前に出られるのです。


1月17日 ヤコブの夢と請願  創世記281222

新改訳 創世記28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。

28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。

28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。

28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。

28:17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。

28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。

28:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、

28:21 私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、

28:22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。

聖書の戒めは、神の掟(律法)を守り行い、右にも左にもそれてはならない、というものです。掟を拡大解釈することも、縮小解釈することもだめですが、それを無視することは、最も悪質なものとなります。日本人の場合には、拡大解釈する傾向があり、それは憲法論議のように施政者のままに自分達の行動を正当化するために用いられるようです。立法権、司法権、行政権の三権分立というのは、施政者の暴走を食い止めるためのものですが、多くの権力者は、その三権をすべて自らのものにしようとします。現在の、日本の首相のありようは、その傾向にあります。そのようなことは、その三権の上に存在する神を認めていない場合には、さらに顕著なものとなります。ヒットラーは、その例でしょう。

 個人の場合も同様で、神の掟に従い(立法)、自らを戒め(司法)、与えられた資力を用いて活用し(行政)、自らと家庭の繁栄のために勤しむことが、個人の存続と繁栄のために必要です。ところが、この3つが調和のとれた人というのは、少ないもので、だからこそ、破綻したり、うまくいかなかったりするのです。神なき国、日本では、特に神の掟という理解と意識が足りないように思います。行事毎にお参りをする神様仏様が違う生活様式、思考は、人格的な神の存在を意識したらできないものです。

 ヤコブの両親イサクとリベカは信仰深かったようですが、双子の息子達はどうだかわかりません。とりわけ、兄のエサウは長子の権利をレンズ豆の煮物と取り替えるくらいですから、猟と野の生活に夢中で、家族や信仰など眼中になかったようです。ヤコブは、天幕にいて母と親しかったので、先祖代々の神の祝福を聞いており、長男の特別扱いを聞いていました。でも、「長子の権利を私に売りなさい。」(創世25・31)という言葉がどこまで本気だったのか、わかりません。しかし、神の側は、そういう取引をまともに扱うということはあり得ることです。

 父イサクが年老いて死を間近に感じて子どもに相続をさせようという時、与えるのは受け継いできた神の祝福でした。親を大事にするということは、神の命令でもあり、人間としての存在が、歴史的に自分に集約する非常に貴重なことです。私自身は、九人兄弟の末子として両親に愛され、最も深く交流したことが親の祝福を受けたとして自分の中に大きな遺産として確認しています。

 両親イサクとリベカは、自分達に注がれた神の特別な祝福を強く意識しており、それを誰が継ぐか考えていたのでしょう。子どもの側は、そういうことはあまり考えないで成長するものですが、家を持つようになると遺産相続ということで意識することはありますが、神の祝福を継ぐと考える人は少ないでしょう。

 イサクは、「お前を呪う者は呪われ、お前を祝福する者は祝福されるように。」(27・29)、とヤコブを祝福します。年月の中で2人への祝福の違いは明らかになってきますが、そうすればするほど、エサウのヤコブに対する敵意は募ってきます。また、両親は、エサウの敵意にも気が付き、神の祝福を受け継ぐために、信仰のある妻を娶るようにリベカの兄の所へヤコブを送りだします。

一人旅立ってみると、ヤコブは心細くなります。故郷を離れ自分はどうなるのだろうと不安の中で石を枕に眠り、そして夢を見るのです。それは、そこに天と地をつなぐ梯子が掛かっており、天使が行き来しているのでした。ヤコブにとって天、つまり神の国の存在を実感した最初の体験だったでしょう。それだけでなく、ヤーウェなる父なる神が栄光の中に、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。」自分に話しかけ、祝福と支援を約束されたのでした。

 神の約束に対して、ヤコブも自ら誓願を立てました。それは、什一返金であり、全ての収入は神からの祝福であると確認して、その十分の一を神に献げるという誓いでした。十分の一の献げ物はアブラハムがしています(創世記14・20)。彼は、ロトを襲ったソドムの王らを打ち破った後に、祭司であるエルサレムの王メルキゼテクに全てのものの十分の一を与えたのが始まりです。ヤコブは、どのようにして誰に十分の一を献げたのかは明確ではありませんが、自分の所有にするのが十分の九であるということが、大事です。収入は全て自分の能力と働きによるものであると考える人には、献金とは神仏からの祝福を受け取るための対価でしかありません。神を利用しようとする人に神が祝福をすることはありません。神は人のしもべではないのです。

 ヤコブが夢で悟ったことは、世界は神の支配下にあり、天使がその使命を果たすために天地を行き来しており、神と結びついた者だけが、神からの祝福を受けるということでした。ヤコブは、自分の人生は神のものであることを確認したのです。ですから、神のしもべとして生きることを告白するために、収入の十分の一を献げることにしたのです。

全焼のいけにえは、全てを焼き尽くすのですが、効率を考える人には、なんとむだな、と考えるかもしれません。献げる人が「全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。」(レビ1・4)とあります。損得や、献げ物を祝福の対価として考える人には、犠牲だけでなく、祈りなども効率的ではないでしょう。神は人の心を御存じで、自分の成功の為に信仰を持つ人を特別に祝福することはありません。日本人の御利益信仰とは全く異なります。神の業をしようとする人に、神は特別に祝福されるのです。人生とは、神の業をするために、神に委ねられたものなのです。

神の業とは何でしょう。人を愛することです。実は、それほど、献身的、犠牲的にしなくても良いのです。聖書は「隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22・39)とあり、自分を愛するのと同じように愛せば、それで良いのです。ヤコブの生涯は、この後、かなり変わってきています。辛抱強くなり、コツコツと叔父の家の祝福のために働いているのです。ところが、叔父ラバンが、自己中心となり、ヤコブから搾取を始めたので、その祝福が全てヤコブに回って来たのです。人を愛し、その祝福の為に生きながら、自らも祝福の中に生きることが大事です。人への愛は、もし、相手が祝福に足る人でなかったら、倍返しで自分に返ってくるのです。ところが、自分をも人をも愛さないで、虚しく日々を過ごす人が多いのです。


1月24日 夢に導かれたヨセフ  創世記37211

創世記37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。

37:3 イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。

37:4 彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。

37:5 あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。

37:6 ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。

37:7 見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」

37:8 兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。

37:9 ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」と言った。

37:10 ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」

37:11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。

 

先週、久しぶりに夢を見ました。懸念していたことが少し前進した夢でしたが、やはり夢だな、という解決のないものでした。学生時代に、フロイト、ユング、エーリッヒ・フロムの夢についての本を読んだことがありましたが、深層心理を分析することの不合理性に気が付いただけでした。現代でも、夢は科学的には解明できていないようです。ただ、疲れていたり、ストレスがあると悪い夢を見るようです。小さい頃、便所に行く夢を見るとオネショをしたので、それを意識してからは、「これは夢だ。起きないとおもらしをすることになる。」と起きようとしたことを覚えています。妻は、疲れて眠りが浅い時に悪い夢を見るようです。それでも、怖い夢だったり、現実的な夢だったり、将来についての夢だったりすると、起きても気になるものです。

 ヨセフは、父ヤコブにとって正妻ラケルの最初の子であり、弟のベニヤミンとは7歳くらい離れた12兄弟の十一番目の子どもです。既に母は死んでいるので、奴隷の子や母の姉レアの子どもたちと過ごしていました。ヤコブは妻を得るための十四年間の最後にヨセフを与えられたので、長男のルベンとは十三歳くらい歳が違うでしょう。神の祝福を受け継ぐとしてヤコブからイスラエルと名前を変えられた父は、「彼の息子達の誰よりもヨセフを愛していた。」のでした。

十七歳の時に、ヨセフは夢を見たのでした。最初の夢は、兄たちの麦の束が自分の束の所に来て、お辞儀をするという、上下関係が逆になる夢でした。次には、太陽と月と十一の星が自分を伏し拝んでいるという夢でした。ヨセフは、普段から父に甘やかされ特別扱いをされているので、そういうことを遠慮なく言ってしまうのでした。兄たちは、自分達が奴隷のように働かされているのに、ヨセフは世継のように待遇が違うことに腹を立てていました。

 兄たちはルベンでも三十歳くらいですから、男としては最も血気盛んな歳です。生意気な弟は、父に守られているので、普段はいじめることもできません。父も、息子どうしの喧嘩はいつも見ているので、特別扱いのヨセフが恨まれているとは思ってもみません。兄たちが羊の群れを飼っているのは、三十四章で息子達が騙して皆殺しにしたシュケムの町の近くでした。ヤコブは、その時、殺戮をしたシメオンとレビを罰しないでしまったのです。この殺戮によって2人は、神の祝福の系図から外され、四男のユダが継承してユダの子孫にダビデやイエス様が現われるのですが、それは後の話です。大事なことは、過去にした悪や罪をきちんと悔い改め、清算しないと必ず罰を受けることになるということです。

 私は執り成しの祈りをすると、その人が自分の言動について無頓着であり、平気で大言壮語を言い、嘘や虚偽をしていることを見つけることが多くあります。神は全ての人の業を御存じであり、聖霊なる神は悔い改めて主イエスを救い主と信じた人の内に入ってとりなしをして下さいます。しかし、聖霊の内在を損なうことは、平気で罪を犯し、偽りを言うことです。聖霊はそういう人から離れていきます。シメオンとレビについては、父ヤコブは死に際に、その罪が清算されていないことを宣言しています(創49・5.6)。

ヨセフは、兄たちに殺されそうになり、エジプトに奴隷として売られ、大変な苦労をその後、三〇歳までの一三年間することになります。ところが、全きヨセフと称されるヨセフは、忍耐を学び、人の心を探り、神の御心を問う敬虔な人に成長していきます。

 親や兄弟、親戚知人に至るまで、不謹慎、不遜な言葉を言うものではありません。どんなに調子に乗っても、腹が立っても、人を侮辱すると、その人はいつまでも覚えています。私のような牧師でも、怒ったりすることはありませんが、忘れることはありません。「この人は感情に左右される愚かな人なんだな。この人を信用すると馬鹿を見る。神は、この愚かな人をどのように扱うのか。」とその後の様子を見守り、神の摂理と対応を学びます。

 ヨセフは、「あなたのように聡くて知恵のある者は他にいない。」(創41・39)とパロに言われました。それは、「神がこれらの全てのことを知らされた」からです。度王して、そのように聡くなったのでしょう。

 「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5・3.4

 ヨセフは、奴隷としての日々、囚人としての日々でも、心をくじけることはありませんでした。自分の不用意な言葉が、兄を怒らせ、殺されそうになったことについて、腹を立て恨むよりもむしろ、反省したのです。腹を立てる人間というのは、自分の罪や過ちを見ずに、人の行動を穿ってみるからなのです。腹を立てたり、怒ったりする人には、忍耐などなく、練られた品性など生みだされるはずがないのです

 腹を立て、怒り、非難する人に対して、決して同意同情してはなりません。もし、私たちが神を信じ、神に行く道を委ねているのならば、怒ることなどないのです。 祈ったから、聖書を読んだから、と言って、人を攻撃する人が多くおります。神の名を騙る愚かな罪人です。神は、その人を罰せずにはおきません。

 ヨセフは、自分の人生の契機となった夢を忘れることはできませんでした。私もまた、神学校の入学試験の後に視た、泥沼から差し出す、救いを求める多くの腕を忘れることはできません。妻子が連れ去られた後に視た、十字架に付けられた主イエスの幻を忘れることはできません。

 幻や夢を見たという人はいるのですが、その夢や幻を自分の不純な行動の言い訳にして、神を忘れ、裁きを忘れて、勝手な行動をしている人が多いものです。人生というのは、自分の使命を確認して生きるものです。


1月31日 天変地異も主のもの  創世記412536

創世記41:25 ヨセフはパロに言った。「パロの夢は一つです。神がなさろうとすることをパロに示されたのです。

41:26 七頭のりっぱな雌牛は七年のことで、七つのりっぱな穂も七年のことです。それは一つの夢なのです。

41:27 そのあとから上がって来た七頭のやせた醜い雌牛は七年のことで、東風に焼けたしなびた七つの穂もそうです。それはききんの七年です。

41:28 これは、私がパロに申し上げたとおり、神がなさろうとすることをパロに示されたのです。

41:29 今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れます。

41:30 それから、そのあと、七年間のききんが起こり、エジプトの地の豊作はみな忘れられます。ききんが地を荒れ果てさせ、

41:31 この地の豊作は後に来るききんのため、跡もわからなくなります。そのききんは、非常にきびしいからです。

41:32 夢が二度パロにくり返されたのは、このことが神によって定められ、神がすみやかにこれをなさるからです。

41:33 それゆえ、今、パロは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように。

41:34 パロは、国中に監督官を任命するよう行動を起こされ、豊作の七年間に、エジプトの地に、備えをなさいますように。

41:35 彼らにこれからの豊作の年のすべての食糧を集めさせ、パロの権威のもとに、町々に穀物をたくわえ、保管させるためです。

41:36 その食糧は、エジプトの国に起こる七年のききんのための、国のたくわえとなさいますように。この地がききんで滅びないためです。」 

先週お話した家族が皆、ヨセフに従うことになるという夢の後、ヨセフは奴隷に売られ、さらに無実の罪で囚人となりました。その監獄にパロの献酌官と調理官が入れられて夢を見て、ヨセフが「夢を解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」(創40・8)と、解き明かしています。監獄でも、「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては、何も鑑賞しなかった。それは主が彼と共におられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」と、ヨセフの信仰と祝福は増すばかりでした。それは、侍従長ポテファルの奴隷であった時も「主は、ヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」

 「主が共におられる。」ということは、内なる聖霊に従い、主の御旨に沿って生きることであって、そのことは日常生活において、特に自分の損得や快楽に関わる時、または試練や迫害に遭った時に、問われることです。ヨセフは、兄に裏切られ、奴隷としての主人に裏切られ、囚人の時に救った人々に忘れられ、長い日々の全てで、主が共におられる生活を過ごしたのです。

 主の裁きや、祝福が去るということは、多くの信仰者にあります。私は、多くの人が神を真に信じていないという現実に当惑してきました。信仰者であると自認する人々が、神の目と聖霊の内在を無視した日々を、全く当然に生きているのです。よくわかることは、自分の主張や関心に行動し、また言葉を言い、神の義や御旨を全く意識していないのです。

 「イエスは百人隊長に言われた。『あなたの信じたとおりになるように。』すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」(マタイ8・13)

 「イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。』すると、彼女の娘はその時から直った。」(マタイ15・28)

 アナニヤとサッピラは、持ち物の代金の一部を残しておきながら、全てを献げたと言って「人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(使徒5・4)ので、たちどころに死にました。彼らは、バルナバの名声を羨んで、自分も尊敬されたいと嘘をいったのです。

 私は、今のところ、主の祝福が注がれています。殆ど願うことは叶えられ、祈れば癒され、危ないことは避けられています。実は、今一歩で危なかったということは、数限りなくありました。私は、その瞬間、悔い改め、神の導きに従ったのです。皆さんの言動を見ていると、かなり、人の目を意識して嘘と誤魔化しを言っています。神を信じていると言いながら、信仰の従順としての行動をしていません。だから、祝福されないのです。主の超自然的祝福を信じない者は、神を信じた行動をしていないのです。適当に、ほどほどに信仰生活を生きて、神に掛けるということをしないのです。以前語ったように、信仰に手間暇を掛けないのです。神は、ご自分に期待をしない人を祝福するわけにはいかないのです。

ヨセフは、夢の解き明かしも神の業であると信じており、また、自分にその説き明しが出来ると信じていました。それは、彼が、神に恥じない生き方をしていたからです。パロに説き明しを頼まれた時、ヨセフは「私ではありません。神が」(創41・16)で、神が生きて働かれていることを説明しました。

 7年の豊作の後に、7年の凶作があるということは、神が自然界を支配しておられることを示しています。更に、そのことは、現代の天候異変も、世界の民族紛争も、不況も、全て神の手の中にあることを示しています。ところが、皆さんを含め、殆どの人は、自分の年金や給料で、今後を生きようと算段しています。終末の時代は、備えのない人は生き残ることはできない、と聖書には何度も書いてあるのに、それを真剣に受け止めようとはしていないのです。備えをしているか、どうかが、神を真に信じているかどうかの尺度なのです。終末への備えは、神の国に行くための備えでもあるのです。つまり、現実の生活を、神を信じておくっているかどうかが、艱難時代への備えで問われるのです。

 マタイ25章は、婚礼の席に際して、5人の愚かな乙女は油を用意していなかったので、その席に迎え入れられなかったことを、イエス様が警告しています。続いて、その人生で預かった神からの賜物を、増やそうと努力していないしもべは暗闇に追い出されたことを語っています。

 神の祝福から外れた多くの人を知っています。また、知っていながら、自らの罪に際して言い訳を繰り返し、崩壊していった人々を見ています。7年の凶作はだれにでもあります。しかし、備えをした人だけが生き残り、神の国に携え挙げられるのです。怖い事です。

 


2月7日 主よ、お話しください。  Tサムエル315101419

Tサムエル記3:1 少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。
3:2
その日、エリは自分の所で寝ていた。―彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。―
3:3
神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。
3:4
そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、
3:5
エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ。」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。
3:10
そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。
3:11
主はサムエルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。
3:12
その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。
3:13
わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。
3:14
だから、わたしはエリの家について誓った。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない。」
3:19
サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。

 「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。」(民数記12・6)と主は語られましたが、他方、神が語っておられないのに、神様が自分に語りかけたと言ってのける偽預言者が起こることを聖書は警告しています。

「その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。」(申命記13・3)。そして、「その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。」(13・5)ということになります。つまり、預言者の言葉の真偽を見抜くには、自らが聖書の内容を理解していることが大事であり、また神と隣人を愛するという信仰の筋を通したものであるかどうかが、そのポイントであるということです。神の名を騙る者は裁きが待っているのです。

 要するに、預言者が悔い改めを叫ぶならば、聞くべきですが、都合の良いことを唱えるならば注意をしろ、と言うことです。信仰者は、「狭き門から入り」、欲望の道を生きてはいけない、ということですが、実際には多くの人々が、その警告から外れてしまっています。外れていくと、神の祝福がなくなり、苛立ちが募り、不満や批判が口についてしまうようになるのですが、その状態になってしまうと悔い改めることは非常に難しくなります。清原さんの麻薬のようなものでしょうね。神の祝福と喜びと平安が無くなったら、直ぐに悔い改めて、道を変えるべきですが、祈りの習慣のない人は、よほど悪くならないと、気が付かないものなのです。

 モーセの後200年くらい経ち、幻を示されることはなくなり、稀に主の言葉が示されることがあるくらいになってしまいました。「お話しください。しもべは聞いております。」は有名な聖句ですが、このように神が語って下さることを信じ、聞こうとする信者は年月と共に少なくなってしまいます。

 私たちが信仰に入ったのは、聖書の言葉に引き込まれ、それを読むと神からの語り掛けのように魂の中に入って来たからであると思います。人と会って、「この人はずるい人だな」、「感動のない人だな」、「平気で悪を犯し、嘘を言う人だな」、「人の目やうわさばかりを気にしているな」、「欲望の塊だな」、・・・などといろいろと感じることがあります。そういう中で、私は、人がイエス・キリストを信じるようになる奇跡に感動します。

 しかし、その後の信仰生活に関して、「心を尽くし、精神を尽くし、神を愛する」ということが出来ない場合が多いのです。「主よ、お話し下さい。」と言ってしまうと聞くことが耳が痛い、と避けてしまうことが多いのです。日本人の信仰は、洗礼を受けてからの祝福が少ないのは、そのせいです。

私には、それは人の目や評判を気にするからのような気がします。主の弟子となったら、主の声を聞いて生きればそれで良いのですが、会社や家族や学校や友人・知人を気にしていると主の声を聞くことが出来なくなってしまいます。

 私は、洗礼を受けてから、あまりに変わったので、そのような人々から非難や攻撃を受けました。覚悟を決めざるを得ませんでした。「クリスチャンだから良い成績を上げよう、評判を上げよう、成功しよう、立派な人間になろう」などという思いは、弟子としては良いものではありません。「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」(マタイ10・24)とあるので、それほど頑張らなくても良いのですが、大事なことは主に従って行くことです。

 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(マタイ14・26.27)は強烈な言葉です。

 サムエルの師であるエリは子育てを謝り、息子達はエリの忠告を聞かなかった。『人がもし、他の人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が主に対して罪を犯したら、誰が、その者のために仲裁に立とうか。』しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころであったからである。一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。」(Tサム2・25.26)。恐ろしい現実ですが、神の祝福と呪いの原理というものは、そういうものなのです。

 親に従えない人は、神にも従えないのです。「父よ、母よ、お話し下さい。私は聞き従います。」という子どもは少なくなっています。自分の関心のある、自分の都合の良いことを聞こうとするならば、神の声も聞こえません。十字架の道とは、自分に損になることを選ぶことであり、人を愛するために犠牲になることも覚悟することです。この道を選ぶと神に祝福をされるのです。

 手間を掛けなければ愛しているとは言えません。妻や夫や子供のために手間を掛け、その要望や意見を聞こうとすることが、人との交流にすごく大事です。自分のことばっかり考える人は、他の人と話すことがありません。仲良くもできません。「神にも人にも愛される」ためには、「神にも人にも聞き従う」ことが大事です。

 


2月14日 サムエルは一生イスラエルを裁いた。  Tサムエル7817

Tサムエル7:8 そこでイスラエル人はサムエルに言った。「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。」
7:9
サムエルは乳離れしていない子羊一頭を取り、焼き尽くす全焼のいけにえとして主にささげた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。それで主は彼に答えられた。
7:10
サムエルが全焼のいけにえをささげていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来たが、主はその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。
7:11
イスラエルの人々は、ミツパから出て、ペリシテ人を追い、彼らを打って、ベテ・カルの下にまで行った。
7:12
そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と言った。
7:13
こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、はいって来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。
7:14
ペリシテ人がイスラエルから奪った町々は、エクロンからガテまで、イスラエルに戻った。イスラエルはペリシテ人の手から、領土を解放した。そのころ、イスラエル人とエモリ人の間には平和があった。
7:15
サムエルは、一生の間、イスラエルをさばいた。
7:16
彼は毎年、ベテル、ギルガル、ミツパを巡回し、それらの地でイスラエルをさばき、
7:17
ラマに帰った。そこに自分の家があったからである。彼はそこでイスラエルをさばいた。彼はまた、そこに主のために一つの祭壇を築いた。

サムエルは、最初の預言者で、預言者集団の監督でもありました(Tサム19・20)。サウルにも「主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らと一緒に預言して、あなたは新しい人に変えられます。このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだい、何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。」(Tサム10・6.7)ということが起こります。預言とか聖霊の傾注というのが起こり始めたのがこの頃からで、サムエルが主の御霊に満たされるということを指導し始めたからでしょう。

 聖霊の傾注によってサウルは王とされたのですが、損得を考えて全焼のいけにえを惜しみ、「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。・・・あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め」(13・13.14)と退けられます。王としての油注ぎが無くなって、サウルは悲惨な晩年を送ることになります。

聖霊のバプテスマ、神の祝福とか任職はすばらしいものですが、それでも神に従うことなく、欲望に左右され、頑なになると聖霊が去るばかりではなく、悲惨な末路を迎えることになります。「それならば神の油注ぎなどいらない」、「普通に穏やかな人生を過ごせれば良い」などと考えるものですが、それもまた、堕落の道であり、世の人々の悲惨な歩みをすることとなります。さらに、信者でさえもあまり祝福と喜び・平安・愛の人生を過ごしていないではないか、と考える人さえあります。更に、牧師でさえ、夫婦喧嘩を繰り返し、家族での騒動が続く人々もあります。どうなっているのでしょうか。

神を信じ、聖霊に満たされる、ということは、過去の体験でもなく、資格取得でもありません。聖霊に満たされ続けるということが大事なのです。

サムエルの師、エリは98歳という長寿でしたが、凄い肥満であり、倒れた時に首の骨を折って死んだとあります。そして、「エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、民に関わる祭司の定めについてもそうであった。」(2・12.13)とありますから、食事の節制ができず、子育てにも失敗したようです。それでも、「人がもし、他の人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が主に対して罪を犯したら、誰がその者のために仲裁に立とうか。」(2・25)と息子達を諌めています。

 結局のところ、人が義を求めて生きるか、罪に誘惑されて生きるか、それは親や躾の問題というよりも、むしろ、その人自身の問題であり、親の功績や信仰も及ばないところです。そして、信仰者となった者の人生と末路も、その人自身の責任の問題であります。ですから、私たちは、一人一人、最後の審判の時に神の前に出るのです。

 サムエルは、預言者として国を指導し、「サムエルが生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。」(7・13)。ところが、「この息子たちは、父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、裁きを曲げていた。」(8・3

サムエル本人は、主の道を一生懸命歩んだのに、息子達は、父の道を歩まなかったのです。信仰の指導者としての相続は難しいようです。人々は、そのことを知っています。それで、人々は王を求めたのでした。信仰で生き、神の支えをすがって生きるよりも、世の術で生きるほうが、罪も欲望も自由なので簡単だと人々は考えたのでしょう。実際には、人々は、税金や労役を払い、「あなたがたは王の奴隷となる。その日になって、あなたがたが自分の選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてはくださらない。」(8・17.18)となっていくのでした。

 サムエルの凄さは、息子達が堕落し、サウル王が堕落していった晩年の働きです。そして、「主は、・・・サムエルの耳を開いて仰せられた。」(9・15)、「主は彼に告げられた。」(9・17)とあるように、主の声を直に聞き始めるのです。

 サムエルは、自分が油注いで王とした「サウルのことで悲しんだ。」(15・35)けれど、「主はサムエルに仰せられた。『火人はうわべを見るが、主は心を見る。』」(16・7)と、はっきりと神の声を聞いて歩んでいるのです。「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がって、ラマへ帰った。」(16・13)という働きをしています。

 ダビデがサウル王に命を付け狙われた時、「ダビデは逃げ、逃れて、ラマのサムエルの所に行き、サウルが自分にしたこといっさいをサムエルに話した。そして、サムエルとナヨテに行って住んだ。」(19・18)とあり、ダビデを匿っています。サウルがそれを知って追いかけると、「預言者の集団が預言しており、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。」(19・20)だけでなく、神の霊の働きによって超自然的にダビデを守るのでした。

 今日の聖句にあるように、サムエルは、一生の間、イスラエルをさばいた。」です。これは、本当にすごいことです。サムエルは、師匠が欲に溺れて死のうと、その後継者が神の罰を受けようと、自分の息子達が堕落しようと、油注いだサウル王が自分に逆らい、追手を差し向けようと、裁き司として君臨したのです。神の僕として人生を献げたのです。


2月21日 ダビデは主の声を聞かなかった。  Uサムエル222136

Uサムエル22:21 主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。
22:22
私は主の道を守り、私の神に対して悪を行なわなかった。
22:23
主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。
22:24
私は主の前に全く、私の罪から身を守る。
22:25
主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって私に償いをされた。
22:26
あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、
22:27
きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。
22:28
あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。
22:29
主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。
22:30
あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。
22:31
神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。
22:32
まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神のほかにだれが岩であろうか。
22:33
この神こそ、私の力強いとりで。私の道を完全に探り出される。
22:34
彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。
22:35
戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓でも引けるようにされる。
22:36
こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの謙遜は、私を大きくされます。

今年は、幻や夢を見、主の声を聞いて歩んできた信仰者のお話をしています。ところが、ダビデの子として、イエス様が唱えられるほど、すばらしい信仰者ダビデについて調べてみますと、主の声を聞いたという具体的な事例は殆どないのです。「主に伺って言った。」(Uサム2・1、5・19.23)というのは、戦いに際して神の御旨を問うために預言者か祭司の働きによるもののようで、上るべきか否か、どこか、などという簡単な問答です。

 主がダビデに語りかける時は、預言者ナタンを通じて語り、「行って、わたしのしもべダビデに言え。」(Uサム7・5)のようでした。そういう面では、現在のわたしたちのようであり、神は私たち信仰者に直接、幻や夢や預言で語りかけることは少ないのと同じようです。

 ただ、本来私たちアッセンブリー教団は、聖霊の働きの著しいペンテコステ派であり、預言・異言・異言の解き明しなどの御霊の賜物を信じ、体験する群れでした。それは、奇跡・いやし・信仰(超自然的)・知恵のことば(超自然的)・知識のことば(超自然的)と同じような神ご自身の私たちへの介入のしるしでした。

 超自然というのは、命の危機などの切羽詰まった時に起こる神の奇跡であり、私たち信仰者がそれに依存するということは、健全な信仰と生き方からはずれたものになってしまうので、神は継続的に奇跡を起こし続けるということはありません。

 先週、サムエルが人生の後期に、主がサムエルの耳を開き、直接語りかけるようにしたということをお話しましたが、それはサウル王がサムエルやダビデの命を付け狙うような切羽詰まった状況であったからでした。そして、サムエルは最後の士師、裁き司であり、王を求めた人々に対して、主は、「あなたがたが、自分達に選んだ王ゆえに、主に助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えては下さらない。」(Tサム8・18)ということになります。つまり、王の支配に委ねられ、神は民に直接はお語りにならないという宣言です。このことで、イスラエルの民は、大変ひどい状況になり、王の課する重税や兵役に苦しむことになります。そして、バビロン捕囚となり、王制は崩壊します。

 しかし、イエス様は仮庵の祭りの時に大声で、「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7・37.38)と言われました。つまり、預言者を通して聞くことよりも、幻や夢で示されるよりも、聖書の教えを学んで悟るよりも、もっと凄いこと、その人自身が聖霊に満たされて神の祝福を溢れだすということです。

 ダビデという人は、どのような信仰者だったのか、今日の聖句から確認してみましょう。私の義、私のきよさに従って、と言うことができ、その報いと償いを求めています。つまり、いつも神を意識して生きている人であることが分かります。

私は、しばしば神の法則に従うことが幸せと祝福の道であると伝えています。確かにイエス様は、水の上を歩かれましたが、通常そんなことはなさいません。悪魔がイエス様に、奇跡で自分の試練を乗り越えろと誘惑した時に、「主を試みてはならない。」として、誘惑に打ち勝ちました(マタイ4章)。そのように、私たちは、自分の都合の良いように、神を動かそうとしてはならないのです。むしろ、神の御心を悟り、人を愛し、祝福の法則によって生きることを願うことが大事なのです。

 「より優れた賜物を熱心に求めなさい。また、私はさらに優る道を示してあげましょう。」(Tコリント12・31)として続くのが、13章の愛の章であり、「愛を追い求めなさい。」(14・1)という奥義なのです。

 ダビデは、神が「恵み深い者には恵み深く、全き者には全くあられ、きよい者にはきよく、曲がった者には捻じ曲げる方」、「高ぶる者を低くする」という方であることを知っていました。

 親は子供が成長して、自分の判断で強く正しく誠実に、更に愛情深く優しい人になることを願っています。どうしたらよいか、いちいち尋ねて来られると、まだ未熟であることに気が付きます。むろん、簡単に成熟するものではありません。しかし、成長する子どもは、人生の目標点に気が付いているのです。

 クリスチャンでも、人の目を気にして、簡単に誤魔化しや自慢を言ってしまうことがあります。神に祝福され、愛される人は、そういうことをしないのです。「私の義に従って、私に報い」という意識は、非常に厳しいものです。

 奇跡や癒しや祝福を得ていないのは、信じ求めていないからです。また、信じ求める者に必要な、神への誠実さをないがしろにしているから、神を信じて求めることができなくなっているのです。人間というのは、神と直接交渉できるのに、それをするだけのきよさを自ら捨ててしまっているのです。「渇いているなら、来て飲みなさい。」と主は言われます。

 ダビデは、やはり稀有な信仰者でした。私自身、未だ悔い改めることばかりです。きよくなり、神と直接相対するようにもなりたいのですが、自らの罪深さ、傲慢を強く感じます。

 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神のほかにだれが岩であろうか。この神こそ、私の力強いとりで。私の道を完全に探り出される。」。ダビデは、このように言いきれるからこそ、「私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。」強く生きる告白が出来るのだと思います。


2月28日 ソロモンは夢と神の戒めを忘れた。  T列王記3514

T列3:5 その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現われた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
3:6
ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。
3:7
わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。
3:8
そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。
3:9
善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
3:10
この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
3:11
神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、
3:12
今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。
3:13
そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。
3:14
また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」

ダビデの子とイエス様は言われますが、それはUサムエルの預言「あなたの身から出る世継の子を、あなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く建てる。」(7・12.13)の成就としての、とこしえの王国の王たるイエス様のことです。

 ダビデの実際の子としては、T歴代誌3・1-9に19人が記されており、更にそばめたちの子もいるとあります。ソロモンは、少なくとも9人の兄がいることになります。ダビデは信仰者、そして王としては抜きんでた人物ですが、父親或いは夫としては愛情があるだけで、実際には殆ど教育や指導・訓戒をしていないようです。そういうことは、日本人の仕事熱心な父親と似ているでしょう。

 父親や男性の教育・躾・訓練は、責任と忍耐を持って働き、言い訳や誤魔化しをせずに雄々しく勇敢に生きるべきことに集約します。男性教育は男がするべきで、女性教育は女がするべきです。母親や女性の長所は十分にあるのですが、男というのは言葉や理屈ではなく、行動や態度で自分の考えを示し、責任ある働きをすることが大事であると、教えられるのではなく訓練されます。現代日本は、男の子を育てることを母親に委ねてしまったので、歴史的にも、諸外国と比べても、異例なほど、理屈をこね、軟弱な男が多くなってしまいました。これは、私の意見というのではなく、箴言や他の聖書を読んでも、聖書の教えであることがわかります。

 ソロモンは、知恵があり聡明ですが、どう見ても軟弱な男です。戦いに出ていません。政略結婚などによって勢力を伸ばしているだけなのです。エジプトのパロの娘を正妻とするので、いつまでも頭が上がらなくなり、他の女性に目を向けるようになってしまいます。

 王となって4年目に父ダビデが用意してあった資材をもとに神殿を7年掛けて建て上げ、13年掛かって自分の宮殿を建てました。神殿造りに財力を注いだので、王宮には手間暇が掛かったという説もありますが、神殿の資材はダビデが用意しており、神殿の設計は知恵のあるソロモンにとっても勝手にはいかないので、自分の王宮の設計と工夫に財力と知恵を掛けたと類推することも、それほど間違いではないでしょう。パロの娘にもソロモンと同じような家を建てたという気の使いようです(T列王7・8)。

 神殿が完成した時のソロモンの祈りがT列王8章にあります。私には、王として恰好を付けている卒のないソロモンの祈りが鼻に付きます。罪を犯しても、この宮で祈るなら赦してくださいなどと祈ります(8・30.34.35.39)。ダビデならば、先週お話したように、私の義、私のきよさに従って、と言うことができ、その報いと償いを求めて祈るのです。男らしい男の祈りや考えは、「間違っているのなら、私を罰して構わない。」というものです。責任を取ることができないのなら、自分の部下や民が不幸になる、という覚悟があるのです。罪を犯しても赦して下さい、などという軟弱な祈りでは罪を犯すことは間違いありません。

女性の皆さん、言葉巧みな男には要注意です。男らしい男は、妻子だけでなく、仕事にも命掛けになるものなのです。ソロモンの祈りは、「あなたの民イスラエルがおのおの自分の心の悩みを知り、この宮に向かって両手を差し伸べて祈る時、どのような祈り、願いも、あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天で聞いて、赦し、また適えてください。」(8・38)とありますが、都合の良い、手前勝手な祈りです。聖書の教えと神の法則は、赦しには代価が必要であるということですから、御子イエスの犠牲があったわけです。このソロモンの祈りは、自分の造った神殿に向かって祈りさえすれば赦してください、という安直なものであって、聖書に書いてあるからといって正しいものではないことに気が付くことが大事です。

 ソロモンは、「多くの外国の女を愛した。」(11・1)、「彼には7百人の王妃としての妻と、3百人のそばめがあった。ソロモンが年を取ったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうに向けたので、彼の心は父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。ソロモンは、シドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。」(11・3-5)。ミルコムとは、モレクのことであり、幼児をいけにえと献げる邪教です。

 調子のいい男は、しょうがなかった、などと言って罪を犯し、悪いことをし、欲望に染まります。ギャンブルや麻薬や酒や女に溺れることなどもってのほかです。最近、ゲームやスマートフォンに溺れる人も多いようです。SNS(ソーシャルネットワークサービス)依存症というのがあり、フェイスブックやMIXIやラインなどの更新確認や投稿を間断なく行わないと不安になる人々が増えているようです。そういう人は、実際の人間とはコミュニケーションが苦手であり、付き合っているように思われる人は多くても、深い交流ができなくて落ち着かないのです。

 ソロモンの言動は、最初から男らしいものではありません。私は、直観的にソロモンの祈りや言動が変だと思っていましたが、今回の説教の準備で、その理由を再確認しました。父の戒め、神の戒め、それらを守ることは、どのような言い訳よりも大事なことであり、言い訳は滅びの前段階なのです。

 強い身体、強い心を持つためには、訓練や自制が必要です。ソロモンは、言葉と知恵で世を巧みに操ってきましたが、結局のところ、滅びていったのです。


3月6日 王の堕落とユダとイスラエルの分裂。  U歴代誌11116

U歴代誌11:1 レハブアムはエルサレムに帰り、ユダとベニヤミンの家から選抜戦闘員十八万を召集し、王国をレハブアムのもとに取り戻すため、イスラエルと戦おうとした。
11:2
すると、神の人シェマヤに次のような主のことばがあった。
11:3
「ユダの王、ソロモンの子レハブアム、および、ユダとベニヤミンに属する全イスラエルに告げて言え。
11:4
『主はこう仰せられる。上って行ってはならない。あなたがたの兄弟たちと戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしむけたのだから。』」そこで、彼らは主のことばに聞き従い、ヤロブアムを目ざして進む行軍を中止して、引き返した。
11:5
レハブアムはエルサレムに住み、ユダの中に防備の町々を建てた。
11:6
すなわち、ベツレヘムとエタムとテコア、
11:7
ベテ・ツルとソコとアドラム、
11:8
ガテとマレシャとジフ、
11:9
アドライムとラキシュとアゼカ、
11:10
ツォルアとアヤロンとヘブロン。これらはユダとベニヤミンの中にあり、防備の町々であった。
11:11
さらに、彼は防備を固めて、その中に隊長を置き、糧食、油、ぶどう酒をたくわえた。
11:12
またすべての町ごとに大盾と槍を置き、これらの町をますます強固にした。こうして、ユダとベニヤミンは彼の側についた。
11:13
イスラエル全土の祭司たち、レビ人たちは、あらゆる地域から出て来て、彼の側についた。
11:14
実は、レビ人は自分たちの放牧地と所有地を捨てて、ユダとエルサレムに来たのである。ヤロブアムとその子らが、主の祭司としての彼らの職を解き、
11:15
自分のために祭司たちを任命して、彼が造った高き所と雄やぎと子牛に仕えさせたからである。
11:16
さらに、彼らのあとに続いて、イスラエルの全部族の中から、その心をささげてイスラエルの神、主を尋ね求める者たちが、その父祖の神、主にいけにえをささげるためエルサレムに出て来た。

自己都合の祈りをするソロモンが堕落するのは当然の帰結であり、一たび堕落すると、その流れは子ども達へと影響していきます。ダビデへの祝福故に、ソロモンは守られますが、その子レハベアムになるとユダとベニヤミン以外は、ソロモン王の家来だったヤロブアムに付いてイスラエル王国が10部族によって出来ます。そもそも、この分裂は、ソロモンの堕落が原因です。

 「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、」(T列王11・11.12)と、ソロモンに、「主は二度も現われ」(11・9)たのに聞き従わなかった罰を与えられたのです。

 人間は堕落すると、もはや悔い改めることができなくなり、罰や呪いが続いても、それが神からのものであると認めずに、堕落していくだけのものとなります。「主は、ソロモンに敵対する者としてエドム人ハダデを起こされた。」(T列王11・14)、「神はまた、ソロモンに敵対する者として、エリヤダの子レゾンを起こされた。」(11・23)、「ヤロブアムはソロモンの家来であった。・・・ところが彼も王に反逆した。」(11・26)。そして、このヤロブアムに預言者アヒヤが主からのことばを告げ、「わたしは彼の子の手から王位を取り上げ、十部族をあなたに与える。」(11・35)と預言されるのでした。

 さて、ここで、人の能力や祝福について、整理しておきましょう。確かに、人には生まれや能力に差がある場合があります。盲人に生まれついた人に対して、イエス様は「神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9・2)と言われて、どのような不幸な環境と生まれであろうと、神を求めるならば栄光を見るということを教えました。ところが、多くの人は、そのような奇跡を見ても、自分の考えや解釈に固執して、議論するばかりです。神を信じる、ということは、最も大事なことであり、最も難しいことなのです。

能力については、「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」(ルカ12・48)とあり、基準としては同じなのかと思うと共に、「持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者はもっているものまでも取り上げられてしまう」(マタイ13・12)という奥義的な事実も語られます。これは、持たない者は、神が祝福して下さるということを信じがたい結果、持たなくなってしまうという説明なのだと思います。なぜなら、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6・33)とあるからです。

 話を元に戻すと、分裂の後、レハベアムは、北王国を戦い取ろうと思いますが、預言者によって、「兄弟たちと戦ってはならない。」(11・4)と警告を受け、聞き従います。他方、北イスラエルのヤロブアム王は、レビ人の土地を奪い取り、その働き場や祭司職をはく奪します。それで、祭司やレビ人はユダに逃げて来ます。

それで、南ユダは繁栄するのですが、レハベアムも「妻を18人、そばめを60人持っており」(11・21)、父ソロモンと同じ過ちをするのです。「レハベアムの王位が確立し、彼が強くなるに及んで、彼は主の律法を捨て去った。そして、全イスラエルが彼にならった。」(12・1)。すると、エジプトが攻めて来たので、預言者シェマヤが「主はこう仰せられる。『あなたがたがわたしを捨て去ったので、わたしもまたあなたがたを捨ててシシャクの手に渡した。』すると、イスラエルのつかさたちと王とはへりくだり、『主は正しい』と言った。」(U歴代誌12・5.6)。

 もはやダビデのように、「私の義に従って」と祈り、行動する信仰者はいなくなったのです。現代でも、同じような信仰問題と、その帰結は続いているのです。生まれや能力の違いが、どうということではないのです。信仰と誠実な歩みが大事なのです。

 「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍も受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」(マタイ19・29

 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』(使徒26・18)

 「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(Tペテロ3・8.9)


3月20日 財布と袋と剣が必要な時代。  ルカ223140

ルカ22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33
シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
22:34
しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
22:35
それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」
22:36
そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。
22:37
あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」
22:38
彼らは言った。「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」イエスは彼らに、「それで十分。」と言われた。
22:39
それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
22:40
いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。

イギリスでは、今だにナチの攻撃の跡が残り、チャーチルがいなかったら戦争に負けていたと振り返られ、その広大な敷地の脇を通りました。帰国後、日本が戦前のドイツのように憲法も法律も守られずに政府の思うどおりのことが出来る国になってきていることに気が付きます。ところが、日本の若者のチャラチャラした様子には呆れました。緊張感のない日本は、「緊急事態」という用語で、施政者の思い通りのことができて、ナチスのように弱者を切り捨てていくことがされてしまうことになるでしょう。世界は崩壊し始めています。

 今日の聖句の少し前の26節で、「治める人は仕える人のようでありなさい。」とありますが、私が訪問したAll Souls教会のジョン・ストット牧師は、「罪とは人が神に代わることであり、救いとは神が人に代わることである。」(私訳)と言いました。彼は20世紀最大の福音説教者であり、ロンドン市内のキッチン付きの一室に住み、生涯独身で、野鳥の観察が趣味だったそうです。

 このような穏やかなストットが、キリスト者の社会的責任について「ローザンヌ誓約」で「人がキリストを受け入れる時、その人は再生して神の国に入れられるのであり、この不義の世界の真只中で、ただ単に神の正義の何たるかを鮮やかに示すのみでなく、それを押し広めて行かなければならない。私たちが主張する救いは、私たちの個人的責任と社会的責任の全領域において、私たち自身を変革して行くものである。行いのない信仰は死んだものである」と強調しています。それは、ナチスに侵略され、人格も生存権も破壊されそうになったイギリス人の経験から来る正義の意識が信仰と結びついたものでしょう。

 ドイツでは、ナチスを生みだした歴史的自覚があるからこそ、現在、多くの難民を受け入れているのでしょうが、日本では、戦争責任が自らのものであるという自覚は殆どの国民にないようです。帰国後のある席で、政治家や教育者や指導者の責任を非難する人がいましたが、人を非難することによって自らは部外者であり、責任がないと感じているようでした。肯定しなければ、否定していると考えているのでしょう。もう一度、ストットの言葉を読み返して下さい。

 私は、その席で、教師や指導者を子どもの前で批判したら、批判的な子どもを育てることになるから、決してしてはいけないことである、と話しました。むしろ、子供に対して親自身が正しい道を教え諭すことが大事です。そして、そのように生き、実行するのです。絵画に関する知識も、その人の芸術的センスを高めるものではなく、情報を蓄え過ぎて判断力や感性を失わせるものになります。知識や情報量が、その人を正しく導くのではありません。

 「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」(32)というように、試練がなければ、私たちの罪は振い落とされないようです。しかし、ペテロの方は、自分の生まれながらの能力に自信を持ち、33節のように死ぬ覚悟もあると言うのですが、実際には恐れてイエス様を3度も否定することになります。

そして3度もイエス様を否むという自己保全の罪性の自覚からこそ、悔い改めが生まれるのですが、実は、多くのクリスチャンが、ここまでの悔い改めをしていないからこそ、現実の生活で、イエス様を否み、この世の基準を選ぶという誤りを繰り返してしまうのです。だからこそ、神はサタンに、私たちの試練を許容されるのです。

 更に、イエス様が奇跡を繰り返しておられた時は、何も持たないで福音伝道に赴くこともできましたが、終末における伝道は、財布を持ち、袋を持って、つまり、経済力と知恵を使って伝道することが必要となることを説いています。さらに、剣を持つということは、この後にペテロが敵の右耳を剣で切り落とした時に、「剣を鞘に納めなさい。」(ヨハネ18・11)、「剣を取る者は剣で滅びます。」(マタイ26・52)と言っておられるので、武力で敵と戦うというよりも、敵に対して無抵抗であってはいけないということだと思われます。

 英国の一人旅では毎日2万歩以上、つまり、15キロ以上歩きました。颯爽と歩くイギリス人と比べてだらだらとした歩きですが、このくらい平然と歩けなければ、とても戦う気力は維持できないと思いました。イギリスの食事がまずいと言われて、彼らは、「植民地もあり食が抱負だから味を付ける必要がない。フランスは味付けをしなければ食べられないものばかりだから。」と言い返したそうです。ともかくも、新しい物よりも古い物を好み、衣食に金を掛けずに力を蓄えることを心がけたようです。スコットランドは貧しいので、今でも大学教育は無料だそうです。貧しいからこそ、教育を重視するのです。有料のイングランドの大学は3年制で、スコットランドは4年制です。次に選挙があったら、独立する覇気を感じました。むろん、現金の支払いのお釣りはスコットランド貨幣です。イングランドでは使えません。

 「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」40)と言われても、緊張感のない弟子たちは眠ってしまいました。そして、ふるいがかけられるのです。自らを鍛え、蓄えていないと試練に勝つことはできません。そのようになっても、指導者や神に文句を言うようになってしまうでしょう。そして、「神を信じているのに、なぜこんな試練があるのか」と不満を言うことになるかもしれません。そういう時、神は答えてくださいません。

 「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1・12


 

3月27日 一粒の麦が死ななければ。  ヨハネ122433

ヨハネ12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
12:25
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
12:26
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
12:27
今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
12:28
父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」
12:29
そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。
12:30
イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
12:31
今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
12:32
わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
12:33
イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

春になり、枯れ果てていたような風景に、新しく芽が出て、クロッカスのような花が咲いたり、寒さに耐えていたクリスマスローズや水仙が花開くと、感動で涙がにじむようです。私のしている造園も、人々が喜び楽しんでもらうためですが、どうにか1年の労が現われて来ているようで、皆が感心してくれました。

 『宗教の消滅』という本に新興宗教が教勢を半減し、既成宗教も衰えていることが指摘されました。ニーチェが19世紀末に、資本主義の台頭と、宗教の形骸化により「神は死んだ。」と警告したのですが、20世紀になり、却って福音主義が聖書を忠実に信じ、神の愛を実践する教会の働きを鼓舞して社会に浸透しました。特に、私たちの聖霊派は他のプロテスタントと同じくらいの数となり、社会にも、その影響は大きく現われています。アメリカの大統領選などを見ると、教会の影響力の大きさがわかります。

 イギリスは国教会だけかと思ったら、その中にジョン・ストットのような福音主義の指導者となる司祭がいたりして、その教会は2000名の礼拝を保っていました。そして、非常に力強い礼拝を行い、礼拝の中で子ども達に創造論の説明をしていました。スイスやドイツでは、宗教税によってカトリックでもプロテスタントでも教職は給料を国からもらえるのですが、真摯なクリスチャンは国からの独立を優先して、教会を形成し、牧師に給料を払っています。世界的に見て、聖書に基づき、真摯に人々に福音を伝えている教会が伸びているようです。

 しかし、自分達の宗教が理解されない、進展しない、否定されている、という状況の中で、その宗教の真偽が現われてくるわけです。イスラム原理主義は、伝統的戒律が社会に受け入れられず、苦境に陥ったことの反動で、攻撃性を持ってきたわけです。しかし、同様なことは、キリスト教の中にも見られ、神社仏閣への油撒き事件や初詣などにおける偶像礼拝批判宣伝などにもなります。

 私たちの教団も区分けすれば、キリスト教原理主義に入るのですが、それは創造論を含めた聖書信仰にあるわけです。アメリカでは、神の天地創造を信じる人が58%もおり、日本ではクリスチャンを含めてかなり低い数字になっています。それは、強力な進化論教育にも基づきますが、日本人の宗教に対する皮相的な態度にも因ると思います。原理主義と言われるけれども、宗教に対する真摯な態度は、神の国(天国)への期待の真摯さに関わることになります。ですから、過激なイスラム原理主義は、命をも惜しまず、自爆テロをするわけです。これは、現実思考の日本人には理解できないことです。私は、マレーシアでイスラム教徒から、「あなたは立派なイスラム教徒になれる。」と保証されましたが、イスラム教が悪いわけではなく、指導者が間違って人々を指導している責任が問われるでしょう。ともかく、社会不安が募る時、過激な宗教がはびこるのです。

 さて、今日の聖句は、そのような殉教の示唆にも使われてしまう言葉です。イエス様は、十字架に掛かり、私たちの罪の為に死んで下さることを預言されました。ただ、誤解されてはならないことは、ただ神の為、人の為に死ぬことが神の国の報いに繋がるということでは決してない、ということです。

  人には、それぞれ罪があり、その罪が神との障壁となっていたのです。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2・1-3)。

イエス様が、その罪を負って罰を負わなければ、罪の法則はわたしたちを束縛して離さないのです。自分の都合の良いことばかりを神にも人にも社会にも要求し、そうでないと腹が立ち、自分の罪深さなど考えもしない、というのが罪人なのです。これは、どんな人にも共通であり、そんなことはない、という人は、社会の労苦を顧みない偽善者でしかありません。そんな罪人の罪を赦すのは、身代わりにイエス・キリストが罪人として罰を受けるしかないのです。

「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Tペテロ2・22.24

 種は、雌雄が結びつき形成されるものであって、その本体とは遺伝子が違うのです。花粉シーズンですが、スギ花粉だけでなく、イネ花粉というのもあります。しかし、その種は、そのままではいのちを繋げることはできません。土に落ち、種としてのいのちが生まれ変わらなければならないのです。

 信仰も、私たちに信仰の花粉が聖霊によって付き、信仰の実が形成されます。しかし、その信仰は、自分のものとして所有し、利用しようとしたら、いのちが尽きるのです。「自分のいのちを愛する者はそれを失い」というのは、そういうことです。宗教の真実性は、自分には益で無い、思う通りにならない、そんな時に現われます。地に落ち、自分の主義主張や利益から離れる必要があるのです。

 「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13・23)。

 土というのは、実らすためには常に手間暇を掛けなければなりません。自分に驕る者は、堅い痩せた土になり、実りを生むことはできなくなります。信仰は、いつも豊かに潤い、人々を喜ばせるものでなければなりません。