4月5日 平安がある生き方。 ヨハネ201929

ヨハネ20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。

20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。

20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

 

 

祖母の葬儀の後、墓地で死の怖さを感じたのは5歳くらいだったでしょうか。走っていると、「墓地で転ぶと早死にするから走ってはダメ!」と言われて、自分も死ぬことがあるのか、と覚えたときでした。祖父は小学5年の時に、何らかの都合で半年ほど我が家に住んだのですが、新聞を上下逆さまに読んでいるのを見て、老いの恐ろしさにゾッとしたのを覚えています。21歳上の長姉の初めての子が死んだ時に「写真を撮り過ぎたから霊が抜かれたのだ。」というその姑の言葉を悪意に満ちた嫌な人間の言葉だと感じたのは小学1年の頃だったと思います。

 死というものは、生命の限度を迎えた時に、順番に来るものだと考えていたのですが、自分が死ぬ時に果たして満足をして死ねるかを真剣に考えたのが中学入学の時のことはお話しています。それは、方丈記の「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」という文章と、徒然草の「つれづれなるまゝに、日暮らし、硯(すずり)に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂(ものぐる)ほしけれ。」という文章に感化されたからでした。結局のところ、泡のように消えていく人生であり、そのような日々を過ごしているうちに、物狂おしさを覚えてしまうということを感じたのですから、早熟だったのでしょう。

 中学高校で漱石や太宰治、その他の本を読んでも心は晴れず、武者小路実篤に出会って、新しき村運動に感銘を受けました。自らが理想的な生き方を目指し、そのような人々による共生社会に生きることを目標として、高校時代を生きたのでした。大学時代には、生協運動に燃えた後は、スポーツ、ジャズ、遊びとして次第に俗化していく自分に躓きながらもリーダーシップを発揮して友人知人の中で好感をもたれる日々を過ごしたのですが、だからこそ虚しさを覚えたものでした。そしてキリストの救いに平安を得たのでした。

 クリスチャンになってからも表裏のある人、癖のある人、問題のある人にも多くあったのですが、真理を知った感動と神からの直接の働き掛けで信仰を深めていき、牧師になったのでした。既に牧師になってから32年と人生の半分以上になっており、信仰の指導者としての自らの弱さと至らなさを悟るようになりました。そして、牧師といえども、生活や経済の厳しさから、信仰を持ち切れず、打算や自己中心に生きている人々をも多く見ています。能力のない牧師や能力に生きる牧師もおり、性格の合わない人々も多くおります。そのような中で、神がいつも私に個人的に働き掛けて下さっていることを感じ続けて来ています。そして、少しずつ、人の弱さを執り成しながら、神が私たち一人ひとりを見守り、神の国へ導いてくださろうとしていることを悟るようになってきました。それは、私自身がどのような人に対してであろうと、執り成す時に平安が与えられるからです。

 イエス様の十字架刑の後、弟子たちは、自分達に危害が加えられるのを恐れて隠れて過ごします。そんな弟子たちに対してイエス様は、「シャローム、平安あれ!」と語りかけます。そして、恐れて過ごすのは、聖霊を受けていないことと、罪の赦しを体験していないことが原因であると指摘します。

 弟子の一人トマスは、他の弟子たちが復活の主に出会ったことを信じないで、彼らを嘲笑いました。その証拠は、弟子たちが未だに外に出ず、恐れていたままだったからです。復活の主に出会ったからといって、弟子たちは力強くなっていないのです。「聖霊を受けなさい。」22)とあるように、弟子たちは聖霊のバプテスマを受けるまでは、それほど力強くはありません。

 復活の主は、私たちの罪が赦されることと、永遠のいのちが与えられることを教えてくださいます。ですから、私たちは復活祭を祝うのです。しかし、現実には、それを信じても、未だ罪深く、この世の生き方を優先する人々が多くいることを知っています。そして、彼らがイースターを祝い、派手なお祭りをしているのです。しかし、その人々が信仰生活をしているかどうかはわからず、相変わらず死を恐れ、病を恐れて生きているのです。つまり、聖霊に満たされ続けていないのです。

 主イエスの復活は、私たちの罪を赦す十字架の死とその勝利を意味するものであり、永遠の命を約束するものです。ただ、それは頭で考えて理解するものではなく、聖霊なる神によって、私たち自身が満たされることを伴うことによって、現実の力となるのです。

 私たちが聖霊に満たされているかどうかは、平安があるかどうかによってわかります。病になっても、絶体絶命の時でも、攻撃を受けても、避難があっても、聖霊身満たされているならば、平安があるのです。


4月12日 助け主が真理に導き入れる。 ヨハネ16516

ヨハネ16:5 しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。

16:6 かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。

16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

16:10 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

16:11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

16:12 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

16:14 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

16:16 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」

 この章でイエス様は、ご自分が十字架に掛かることを前もって弟子たちに教えておられます。弟子たちは、何もわからず、ただイエス様が自分たちを離れて去ってしまうということを悲しむだけです。

 復活をしたことを聞いた弟子たちが、エマオの途上で主イエスと語りながらも、悟らず、理性的・知性的な理解で終わらせていたことが印象的です。確かに、2人はイエス様の語り掛けによって「心はうちに燃えていた」(ルカ24・32)けれども、気が付かなかったのです。イエス様は、「さあ、わたしは、わたしの父の約束して下さったものをあなたがたに送ります。」(ルカ24・49)と聖霊のバプテスマを約束されるのです。

人間というものは、死後について考えることは殆どありません。この世をうまく生きられればそれで良いのです。特に、日本人は、現世主義ですから、その傾向は強く、死後の裁きのために自分を律するなどということは全く考えていません。昨今の政治家や経済人たちを見ていると、この世を如何にうまく生き抜いて、成功者になり、権勢を握るかどうか、そういうことばかり考えているようです。庶民にしても、美味しいものを食べるとか、楽しい事をするとか、日々のことがうまくいくように願うばかりです。

「異邦人たちが、したいとおもっていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけった・・・。彼らは、あなたがたが自分達と一緒に度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにも裁こうとしておられる方に対し、申し開きをしなければなりません。」Tペテロ4・3-5)。

 真理とは、人は皆、死後に裁きを受けるということです。

 世の中には、情欲に任せて生きることを誘惑することばかりですが、実際には誘惑に負けた人々の生活が崩壊していることを報道しています。そして、ばれなければ良い、と崩壊した人々を愚かと下げすんでいます。麻薬の怖さ、酒酔いの怖さ、不倫の愚かさ、ギャンブルの愚かさ、喧嘩、強欲、・・・、人々は全く罪の奴隷となっているのに、そのことに気が付いていません。そればかりか、彼らは、それらを「したいと思っている」のです。

 イエス様は、そのような現実が2000年前にも現実であることを知っており、「もし、わたしが去っていかなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。」(16・7)として、論理的な教えや啓発が人の罪に対しては、効果がないことを教えていました。

 テレビでも新聞でもネットでも、多くの情報と知恵を教えています。メディヤ・リテラシーとして、情報やメディヤを使いこなしていると思っていても、実際は、その虜になっているのです。そういうことの誤りを、自らの罪を助け主なる聖霊様が働かなければ、人は気が付かないのです。

  信仰を持つ、自らの罪深さに気が付き、悔い改める、キリストに魂が救われる、それらのことは、本当に不思議なことです。私自身は、自らの信仰に感動しております。この社会において、信仰を持ち、歩んでいる奇跡に感謝しております。このような生涯を歩むとは夢にも思いませんでした。救いというのは、奇跡です。これは全て、助け主なる聖霊が、私に働いてくださったからです。

この世の罪深さ、人々の自分勝手さ、これらを知り、執り成しをするほどに、自らが、そこから救われていることの凄さを感じるのです。この真理の御霊は、「あなたがたをすべての真理に導き入れます。」(13)。

 ながらハウスで雑草を抜きながら、作業をしながら、本を読みながら、神に祈り、神に執り成しの祈りを捧げます。人の罪深さを、己が力で変えることはできません。説得や論説で、人が変わるなら、なんと楽なことでしょうか。人は罪深く、その歩みを変えようとすることはありません。自分が正しいと考えているだけです。

 私ができることは、執り成しの祈り、そして仕えて生きること。マザーテレサの言葉を読んでいます。ここまで神に仕え、人に仕えて生きた人がいたということも奇跡です。人を恨み、人生を希望なく生きて来た人が、マザーテレサと修道院の歩みを見て、神を信じたということでした。マザーテレサは、人の目を見れば、その人の歩みを見抜くことができるとのことでした。神の目ならば、なおのことでしょう。 

 ダビデは、「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。」(詩編26・2)と主に語ることができました。凄い事です。私の心の内を試されたら、ただ悔い改めるしかできません。主イエスの優しさと救い、そして助け主の執り成しにすがるほかありません。そして、だからこそ、人の罪を執り成す者となったのでしょう。これは、まさに御霊の働きによったからしかありません。


4月19日 安息日の定めと善を為すこと。 マタイ121012 櫻井圀郎師

聖書私訳(希語直訳)
そして、見よ、その手(の機能)を失った人間がいた。
そして、彼ら(パリサイ人ら)は、彼(イエス)を告訴する(理由をうる)ために、
彼らは彼に語って言った、「安息日に癒すことは許されているか?」と。
しかし、彼は彼らに言った、「汝らからの誰か、一つの羊をもつ人間があり、
そして、これ(羊)が安息日に穴に落ち込んだなら、それを掴み、起こさないか?
それで、どれほど人間は羊より優れているか?                
 それゆえ、安息日に善を為すのは許されている。」と。


4月26日 聖霊の力を受けるまで待ちなさい。 使徒の働き1311

新改訳 使徒の働き1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。

1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

 

イエス様の復活から昇天までの40日間に、弟子たちは主に出会い、いろいろなことを教えられました。

 イエス様の十字架に際して、殆どの弟子は逃げ去りました。しかし、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメの3人の女性は、朝早くイエス様の遺体処理の為に墓に着きました。ところが、墓は開いており、真っ白の衣を着た青年がイエス様のよみがえりを伝えました(マルコ16)。

女たちが走り帰って弟子たちに墓が開いていることと青年が語ったことを告げると、ペテロとヨハネが走って墓を見に行き、イエス様に巻かれていた亜麻布が巻かれたままに中身が無くなっているのを見て、ヨハネはよみがえりを信じました(ヨハネ20・3-8)。マグダラのマリヤは、また墓に戻り、遺体がなくなっているのを悲しんでいると、2人の天使がそこにいたが、マリヤはよくわからず泣いていました。そこにイエス様が現われます(ヨハネ20・11-17)。

ルカ24章を読むと、イエス様の墓が空になっており、番兵たちが逃げ帰っていたことは既にエルサレム中の話題になっていたようです。クレオパともう一人の弟子がエマオへの途上に、そのことを話題にして「暗い顔つきになって」(ルカ24・17)いたことからも、たわごとと思っていたようです。イエス様ご自身に、その不信を告げると、「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」25)と言われてしまいます。そのままエマオに着き、一緒に夕食に誘うと、2人の目が開かれ、イエス様であったことがわかり、急いでエルサレムに戻り、使徒たちに伝えます。

エルサレムでは、戸を閉め切って使徒たちが困惑していましたが、その弟子たちの所に現われ、ご自分の身体に触るように言い、焼き魚を一切れ食べられます(36-43)。その記事はヨハネにもあり、「平安があなたがたにあるように。」と二度言われ、「聖霊を受けなさい。」と言われます(20・19-23)。

トマスは、それらを信じないのですが、弟子たちも未だ部屋に閉じこもったままでいます。実際には、彼らも官憲の手が自分たちを捕まえることを恐れたままだからです。ですから一週間後に再び、イエス様が現われた時も、「平安があなたがたにあるように」(20・26)と言われるのです。そして、トマスに、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と語られます。

 復活の主に出会い、主イエスがどのようなお方であるかわかった弟子たちですが、彼らは、自分達が主を裏切ったという自責の念と、自己卑下にうたれ、そして、為すべきことがわからなかったようです。官憲が自分たちを捕まえないと思えるようになって彼らがしたことは、「漁に行く」(ヨハネ21・3)ことでした。イエス様が生きている時は、我こそは弟子だと高ぶっていたのが、結局のところ、何ほどのことでもない、ただの漁師の息子であり、漁師に過ぎないと悟ったのです。しかし、漁をしてみても何も獲れず、落ち込むばかりです。

「神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」Tペテロ5・5)とありますが、自分の生まれつきの能力や存在に絶望した後でなければ、人は神に依存しないようです。私自身のことを正直に申し上げれば、最近やっと人に躓かなくなりつつあります。人間は、結局のところ、何も出来得るものでもなく、能力などいくらあっても何ほどのものでもありません。期待など出来る存在ではないのです。ただ、神の恵みと助けがあれば、どうにかなるのでしょうが、人間の能力に依存するからこそ、腹も立ち、批判もしたくなるのです。弟子たちは、自分の愚かさ罪深さに絶望し、何も為し得ないということに気が付くのですが、そこから神の僕になり始め、聖霊を求めるようになるのです。つまり、主の復活後に、彼らは自らの無力感に襲われるのですが、それこそ、神に依存し、人に躓かないための出発点なのです。

イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。ヨハネ20・21-23

 自らの罪と傲慢さに打ちのめされるからこそ、罪の赦しの福音を伝えられるのです。恐れが自らの内にあることに気が付くからこそ、主からの平安を求めて生きるのです。自らの無力さを覚えるからこそ、聖霊を求めるのです。聖霊のバプテスマは、傲慢な者には与えられません。悔い改め、神こそ、神だけが、自らの拠り所と認めなければなりません。聖霊のバプテスマを求めて、ジョン・ジュルゲンセン師は、貿易商を辞め、宣教師になることを受け入れたのです。傲慢な者が牧師伝道師になることを神はお許しになりません。だからこそ、試練があるのです。だからと言って、逃げることはできません。

 使徒たちは、己の無力さ、罪深さに気が付き、ただ、主に従う人生を生きる決心をしたのです。そして、聖霊を受けるまで待ったのです。



5月10日 母は神の僕なりき。 ヨハネ福音書192327

新改訳 ヨハネ19:23 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。

19:24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。

19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。

19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。

19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 

イエス様の母マリヤはカトリックでは聖母と称されていますが、確かに聖なる母親であったことはクリスチャンでなくても認めるでしょう。そして、殆どの男性は、そのマリヤを女性の理想としているのですから、女性方もぜひ、「このマリヤのように自分もなる!」と決意していただければ、世の中はかなり変わっていくと思われます。間違いなく、男性は妻によって変わります。但し、妻が夫によって変わることは微妙です。夫婦の関係において、エペソ書はまず、「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(5・22)と夫よりも先に、妻に要求しています。つまり、妻が夫に従うと、夫は妻を愛するようになる、ということですが、妻が夫を愛するということは、よほどのことがない限り、基本的には当然なことだと思われます。ですから、夫としては、「妻を自分と同様に愛しなさい。」(5・33)ということを守らないと見放されるということになるのではないかと思っていますが、聖書は、そこまで言及していないようです。

 さて、そのマリヤは、未婚なのに聖霊によって突然イエス様を身ごもることになりますが、それを受け入れ、そして出産に際して長旅の挙句に家畜小屋で産むことになり、誕生後の聖別の定めの儀式にエルサレムに行った時には、シメオンや女預言者のアンナによって特別な預言と宣言をされることに驚き(ルカ2・33)、その後すぐにエジプトに逃げることになります。

 12歳のイエス様がエルサレムの神殿で教師達に驚かれるほど律法と聖書に詳しく、イエス様が神殿を「自分の父の家」(ルカ2・49)と呼んだのをマリヤは、「これらのことをみな、心に留めていた。」(31)。

イエス様が公生涯(伝道活動)に入ってからは、人々がマリヤを特別扱いすることに対して、「わたしの母とは誰ですか。・・・神の御心を行う人はだれでも、わたしの兄弟、また母なのです。」(マルコ3・31-35)と否定し、カナの婚礼に際しても、「ブドウ酒がありません。」と頼む母に対して「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方」(ヨハネ2・1-5)と冷たくあしらっていますが、それでもマリヤは「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と手伝いの人々に告げています。おそらく、子どもの頃からイエス様は、奇跡をなし、必要な時には物を提供していたのでしょう。

マリヤは、むろん、男性との性行為によってイエス様が生まれたのではないことを知っている唯一の人です。しかし、当時の文化や知識・情報では、そういうこともあるのかと思ったかもしれません。それでも、イエス様の人格、教養、知識、判断力、また奇跡や祝福などが超自然的な異常なものであったことは、マリヤが誰よりも知っていたことでしょう。そして、マリヤはイエス様が神の子であり、尋常ではない使命と歩みがあることを悟りながらも、それを公言することなく、ただイエス様に従ったのでした。マリヤの歩みもまた、尋常ではないものなのです。公生涯の前に夫のヨセフも死んでいますが、それによってマリヤは息子イエスに全てを献げ委ねて従ったのでしょう。

自分には「枕する所もありません。」(マタイ8・20)というイエス様の後に従う3年程の間のマリヤの苦労は想像を絶するでしょう。十字架で剥ぎ取られた縫い目なしの上等な下着はマリヤの用意したものでしょう。それを剥ぎ取られ、十字架に晒される息子の姿を見る母親の苦しみ悲しみは如何ばかりのものだったでしょう。イエス様のそのマリヤを憐れみ、母への愛の言葉として、「女の方、そこに、あなたの息子がいます。」と優しいヨハネを指名したのでした。「女の方」と語るのは、自分は神の子であり、人類の救い主としての使命を全うするために十字架に掛かることの確認をするためであり、マリヤの子となったのは、その為に宿ったのだからと説明するものだったのでしょう。そして、カトリックのような聖母観、つまり、特別な扱いをマリヤに対してすることは間違っていることの警告でもあったと思われます。

 私の母が、千葉に来てイエス様を信じた後は、私に敬語を使ってくれました。私は、母に敬語を使われるような者ではないので、それを恥じたのですが、使い続け、私に従ってくれた母に感謝をし、人に恥じない牧師になろうと覚悟したのでした。

 自分の子どもに対して怒鳴ったり、威張ったり、蔑んだりする母親がいるとしたら、成長した子どもから、仕返しをされることを覚悟しなければなりません。母親の愛情を求める子ども心に傷を付けてしまうと、その後遺症は成長した後の人格障害として、他の人を攻撃するものとなります。特に、自分が弱い子どもの時に、怒られた怒鳴られたという経験は、弱者への仕打ちとして身に付いてしまうことがあるのです。

 子どもには怒られた理由は、あまりわからないものです。そして、怒る親や大人も、実は正当な理由があるから怒っているのではないことが多いのです。但し、子どもが悪い事をしても、正さず、怒らない親は、子どもに誤魔化しと不正と悪を身につけさせてしまいます。子育てというものは、非常に難しく、人格がかかっています。だからこそ、特に母親は優しくなければなりません。怒る母親から、情緒の安定した優しい子どもが育つことは、あまりありません。

お母さんがたの上に、特別な神の祝福と執り成しと労りが豊かにありますように。

 


5月17日 一緒に集まることをやめない。 ヘブル書1022253239 

新改訳 ヘブル10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。

10:24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

10:32 あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。

10:33 人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。

10:34 あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。

10:35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。

10:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

10:37 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。

10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」

10:39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

 

これまで、十二弟子といっても、人間的には弱く罪深い人達であったことを確認してきました。そして、自分の罪深さ愚かさの自覚こそが、主に仕えて生きるために必要であったことを学んできました。来週は、聖霊が降臨したペンテコステの日ですが、そこまでの過程で、やっと弟子たちが一緒に集まり、「心を合わせ、祈りに専念」(使徒1・14)できるようになったことが大きなことです。

人間というものは、勝手で自己中心ですから、一緒に集まり心を合わせて祈ることなどしないのです。悪を行う為に迎合して集まることはあり、また享楽の為に集まることはあります。つまり、人間力を集めて、神に対抗するようなバベルの塔のようなこと(創世記11・4)はあるのです。他方、「小人閑居して不全をなす」という諺のように、他人が見ていないと悪い事をするものなので、「君子は必ずその独りを慎む」と中国の四書五経の一つ『大学』に書いてあります。他人の目を気にすると悪い事もできないので、一人だけで生きて好きなことをしないようにするということですが、人間の罪性を見事に忠告しています。ともかくも、人は鬼神や偶像への恐怖心以外で、へりくだって集まるということはしないものなのです。

 今日の聖句は、「もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」(ヘブル10・17)という神の宣言に対応して、「真心から神に近づこうではありませんか。」(22)とお勧めがされます。また、「動揺しないで、しっかりと希望を告白する」(23)、「互いに勧めあって、愛と善行を促す」(24)というのは、26節からの「真理の知識を受けた後」(26)、罪を犯し続けた人々がいたからに他なりません。パウロは、その人々に対する神の裁きを宣言しながら(30)、信者への忍耐と一致を勧めているのです。

 日本の政治情勢も保守主義と国粋主義に偏り、中国や韓国の反日に対抗するように異常なものとなっています。天候異変も地震を含めた災害も頻発しています。それに反抗して、抗議やデモを行う善意な人々や信仰者もいます。現在の世界、日本の情勢に関して憂えることなく、自らの生活に安穏としているならば、まともな感覚をもったクリスチャンとは言えません。私は、何度も「読む新聞、見るニュースに気を付け、適正な判断力を維持するように」とお勧めをしています。

 イザヤは、「家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。」(イザヤ5・8)として自分達だけの経済的繁栄におごっている人々への裁きとしての天災を警告しています。「こうして人はかがめられ、人間は低くされ、高ぶる者の目も低くされる。」(5・15)。私たちクリスチャンは、世の不正や悪に躓くことなく、「一緒に集まり、心を合わせて祈りに専念」すべきなのです。「万軍の主は、裁きによって高くなり、聖なる神は正義によって、自ら聖なることを示される。」(5・16)のです。

信仰というのは、何の試練もなしに成熟するような安易なものではありません。「苦難に会いながら、激しい戦いに耐えた」(ヘブル10・32)、「いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。」(34)というような生活が、この日本でもこれから起こりうることを覚悟しなければなりません。自分の安逸を貪って、神に自分だけの祝福と守りを願い求めるような愚かな信者になってはいけないのです。

 一緒に集まって暮らす家族が、仲良く愛し合うということが、実際には最も難しいことであり、信仰の真実性が試されることとなります。喧嘩をし仲違いをしてしまうので、話をしないようにするとか、会わないようにする、感情を抑えて我慢をする、というようなことをしても、結局は解決せず、試練の火によってあからさまになってしまいます。私たちに必要なことは、@神の御心を行うこと、A約束のものを手に入れようとすること、B忍耐、なのです(36)。

 教会員同志も、愚かであり、躓くこともあって当然です。不器用な人もあり、干渉する人もおり、勝手な人もおり、罪深い人もおり、障害をもった人もおり、気兼ねなく仲良くできる人は少ないものです。だからこそ、一緒に集まり、祈り合い、助け合うことが大事なのです。都合の良い人とばかり一緒であったら、信仰の成熟などなるはずがありません。

 私たちの戦いは、自分の内の罪にあります。社会も不具合、人間関係も不具合、しかし、神を信じ、聖霊によって成熟した信仰と聖めを身に付けるならば、外のことは殆ど問題ではなくなるのです。

 来週は、聖霊待望会です。悔い改めて、心から聖霊のバプテスマを求めなければ、受けることはありません。自分勝手な姿勢で、祝福を受けることは、信仰の成熟には不適切なのです。神の祝福を受ける秘訣は、謙遜であり、神の祝福が必要であることを告白することなのです。


5月24日 終わりの日に聖霊を求める人々に。 使徒の働き2141418

使徒2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。

2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。

2:15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。

2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。

2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 

聖句と今日の説教題は少し異なります。「すべての人に」と聖書には書いてあります。旧約時代には聖霊は特別な人に特別な時だけに注がれたのですが、ヨエル書の預言は全て求める人に与えられるという意味合いで「すべて」となっているのです。聖霊のバプテスマの与えられる条件については、これまでお話してきました。

 聖霊のバプテスマは、@救われた者が体験できる、A求める者が体験できる、B力が与えられる、C異言を言うことによって受けたしるしと確認するものです。罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じることによって救いが得られ、水のバプテスマ(洗礼)を受けられるのですが、それと聖霊のバプテスマを同一視するものではありません。

 「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2・38)とありますが、水のバプテスマは「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」(マタイ28・19)られるものであり、聖霊のバプテスマは、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」(ヨハネ14・26)とあるように、イエス・キリストの名によって求め受けるものです。

 ピリポの伝道でサマリヤの人々が「男も女もバプテスマを受けた」(使徒8・12)報告を聞いて、ペテロとヨハネが更に遣わされ、「人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだ誰にも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」15.16)。魔術師シモンは、「使徒達が手を置くと御霊が与えられるのを見た」(18)ので、その力を売ってくれと頼むような劇的な体験だったと思われます。

当初ユダヤ人以外には洗礼は授けなかったのですが、コルネリオという敬虔なローマの百人隊長の所にペテロが幻に導かれて言って説教すると、その途中で聞いている人々が聖霊のバプテスマを受けました。それで、「聖霊を受けたのですから、いったい誰が、水を差し止めて(水の)バプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」(使徒10・47)として、異邦人に洗礼を授けています。ペテロは、そのことの説明を他の弟子たちにする時に、「主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる』と言われたみことばを思い起こしました。こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じた時、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになった」(使徒11・16)として、神ご自身による聖霊のバプテスマを説明しています。

 パウロがエペソに来ると、既にクリスチャンがいましたが、「『信じた時、聖霊を受けましたか。』と尋ねると、彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。』と答えた。」(使徒19・2)ので、「パウロが

彼らの上に手を置いた時、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を言ったり、預言をしたりした。」(19・6)。つまり、水のバプテスマを受けている信者に、聖霊のバプテスマを受けているかどうか確認したのです。それは、彼らの信仰に力がないのを感じたからでしょう。

 聖霊のバプテスマを受けた後の弟子たちの様子は全く違っています。今まで隠れていた弟子たちが、今や街中で人々に対して大胆に説教を語り、悔い改めを促しています。そして、この他国の言葉(或いは天国の言葉)で異言を言う現象こそ、「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」と語り、まず、水のバプテスマを受けなさい、そうすれば「賜物として聖霊を受けるでしょう。」(2・38)と勧めているのです。人々は、その言葉によって悔い改め、その日、3千人ほどが洗礼をうけるのです。

 先週読んだ神学書に「聖霊は人を結びつける」という言葉がありました。先週お話したように、罪人は孤独です。人を非難したり、責めたりしたら、一緒に過ごすことはできません。私には、当教会では、仲の良い夫婦が多いのですが、一般的に多くのクリスチャンの夫婦や家族があまり仲良くないことに気が付いています。

 クリスチャン同士が競争したり、自慢したり、責め合ってはいけません。いつも、聖霊によって祈ることです。異言の祈りをいつもすることです。そうすれば、批判的な気持ちは去って、無くなっていきます。聖霊のバプテスマとは、異言の祈りによって受けたことが証明されます。そして、異言の祈りをいつも、いつでも、する時に、私たちは、自分勝手ではいられなくなるのです。赦しあい、助け合い、祈り合うように変えられていくのです。

 聖霊のバプテスマが力を与えるのは、罪によって惑わされ、責められることがなくなってくるからです。聖霊を求めましょう。


5月31日 理想を追うと躓き、現実は戦い。 使徒の働き24347613814

使徒の働き2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。

2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。

2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。

2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

6:1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。

6:2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。

6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。

8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。

8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。

8:3 サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

8:4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。

 

数年前、ある方に教会のあるべき姿はどういうものと考えていますか、と聞いた時、この2章の共有のことを話していました。私は失礼ながら、そういう理想を追うことは、危険であり、健全ではない、と答えてしましました。

結婚前の男女は、結婚に大きな期待と理想を思い描いて、現実の結婚に失望し、伴侶を非難することがあります。子どもに対しても、期待を掛けた親は、子どもの現実を否定して厳しく躾けることがあります。現在の牧師としての自らへの戒めは、信者をあるがままに受け入れ、祝福をすることであり、聖書を忠実に教え続けることによって、それを信者自らがその信仰と成熟の過程の中で受け入れていけば良い、というものです。ところが、これが非常に難しく、私自身が祈りと敬虔を維持しなければ確保できない奥義であるとも感じています。

理想というものは神の国でのみ実現し、この地上では、それを望みながらも自他の罪深さを認め、神の恵みと聖霊の助けに依存しながら、最善を為して過ごし、喜びと感謝をもって過ごせば十分であると、現在は考えています。共産主義というのも、ある時期、民衆の理想でありましたが、現在は権力者の搾取の原理とわかって来ました。現在、事実上残る共産主義は北朝鮮のみですが、以前、そこを理想郷として日本から移った人々の困窮と苦難が確認されています。

 人間は罪深いので、結局は自分の都合の良いように家族や周囲の人々、そして組織や国家に要求するものです。ですから、イエス様は、「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」と教え、ご自分の歩みは「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」(マタイ20・25-28)と示しています。その理想が、この2章であるとしても、権力や富をもってなお、誰もが謙遜であるということは、束の間であることを覚悟するべきなのです。

 実際に、6章では分配に関する不満や争いが起こっています。「御霊と知恵に満ちた、評判の良い7人」が選ばれたので、信徒はますます増えたとありますが、それは初期研修の特別期間だからでしょう。バルナバは全財産を献げ(4・36)、アナニヤとサッピラの夫婦は名誉を求めて同じことをしたと嘘を言い、裁きを受けています(5・1-10

人が増え、組織が拡大すると権力や富は蓄積し、組織維持のために多くの犠牲や無駄が増えるのはどうしようもないことです。だからといって神権政治は無理なものです。アメリカのように集団と協力に慣れた国でも、教会が大きくなりすぎると問題が起こっています。それでは適正規模というものがあるかというと、やはり理想はないのです。つまり、御霊によって信者が祈り合い助け合って、教会を建て上げていくという現実こそが、信仰の戦いであり、奥義なのです。

8章に入ると、迫害、霊の戦いが現実となってきます。教会の中だけに霊の戦いがあるわけではありません。この世はサタンの支配下にあり、人々は「自分の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、御怒りをうけるべき」(エペソ2・3)状態なのです。私たちは、その中からの救いを願い、「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」(エペソ2・5)とあるように、「神からの賜物」(2・8)なのです。ですから、私たちは、試練があろうとなかろうと、うまく行こうと行かなかろうと、「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2・10)

 私たちクリスチャンが、この世の生活に希望と期待を掛けているとしたら、愚かなことです。この世は天災人災の中で、滅んで行くのです。「奥義とは」、わたしたちが「共同相続人となる」(エペソ3・6)ことであり、それは「私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠の計画によることです。」(3・11)。ですから、「苦難の故に落胆することのないように」(3・13)、「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人をつよくしてくださいますように。」(3・16)。

 世の中がどうなろうが、更には教会がうまくいくかどうかに関わらず、私たちは、自らの内側の信仰を確保しなければなりません。私たちを一人一人見つめておられる父なる神に向けて目を上げ、神の国に相応しい信仰者になっていくことが霊の戦いなのです。歴史的には、教会に試練がなかったことは殆どありません。信仰者に試練がないなどということはあり得ません。他人を見てはいけないのです。周囲の人を基準に信仰を考えたら、取り残されることもあるのです。信仰というのは、あくまで個人的なものであり、一緒に仲良く成熟するなどという甘えた理想などはないのです。

 そのようにして、自らの肉の戦いに勝利した者同士こそ、御霊による一致を確保できるのです。教会の中に理想を求めて、他人を非難したり、自分の罪深さ弱さを正当化するものであってはならないのです。


6月7日 律法と人間。 マルコ福音書227櫻井圀郎師


6月14日 父なる神の在り方を委託して。  マタイ福音書619

マタイ6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。

6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

 

牧師の就任式では、神が教職者として召していなければ、牧師にはなれず、続けることもできないことをお話しました。そして、召された者として、神に献身し、日々節制と努力に務め、神学的・聖書的にも熟練した者として自己研鑽をしなければなりません。自分をあるがままを受け入れるなどとして、清めを全うしようとしなければ、召しに応じた者とは言えません。

 今日は、父の日礼拝(地区集会があるので1週間早い)ですが、父も、父なる神に父としての権威を与えられ、家族を治め、祝福する権威を与えられています。男尊女卑や家長の独裁を言っているのではありません。男女が同権であり、平等であることは言うまでもありませんが、男は父として生きるべき使命を神から与えられているのです。その使命と権利、そして責任を自覚しなければ、男はつまらない、我儘でみっともない存在となるでしょう。

 「天の父が完全なように、完全でありなさい。」と今日の聖句の前の5章48節でイエス様は教えます。それは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために、祈りなさい。」(5・44)の説明であり、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さるから」天の父の子どもになるためには、そのように人を愛し、悪人に対しても、寛容であることを教えるのです。

 さらに、「人に見せるために善行をするような、みっともないことをするな。」そんなことしたら、父はお前を祝福しない。「施しも男ならば、人に見せびらかすようなことをするな。」「人に隠れたところで、できるかどうかが、お前の真に力であり、人間性である。」などと、非常に男らしい指導を、この聖句でしております。男同士で、嫌われたり、馬鹿にされたり、相手にされないのは、このような男らしさがない場合です。そのような男としての教育は、普通に男同士一緒に遊んだり、仲良くしたりすれば、形成されて来るのです。男としては、努力や忍耐、そして肉体の強化が必要であり、それは、教職者の召しに応じる姿勢と似ているとも思われます。

 しかし、いつの時代にも、イエス様が嫌われるような偽善者はおりました。見栄を張る男もおります。そういう人間の実体が現われるのが、前述のように敵が現われ、迫害する者が起こる時です。試練や問題、そして敵に立ち向かうには、雄々しく、強くなければなりません。そして、そういう父の姿が、子どもたちを、健全に育て上げるのです。

 次に、マタイ7・11には、父は自分の子どもには良い物を与えるものだと教えています。父親は、言い訳なく家族を養い、妻子に良い物を与えようと働くものです。働くことのない男は、父親としては不適格と見なされてしまいます。

 7・21には、「父の御心を行う」ことが、父親の承認の条件であって、ご機嫌取りの、言葉上手はダメだと教えられています。非常に男らしい文章です。

さて、私が強く印象付けられるのは、イエス様が、「天におられるわたしの父」と、父の好み、考え方、御心に忠実であることです。例えば、一子相伝の武芸における親子関係などに、そういうことがあると言われていますが、現代日本では、殆ど見られない、父への完全服従であり、すがすがしい程の親子関係です。

 私自身は、明治生まれの父に逆らったことはなく、意見を言ったことも、文句や要求もしたことはありません。父の在り方を知りたい、考え方を知りたいと考えたことはありますが、ただ、黙って、父の言葉を待っていたこと、父も私に話したがっていたことを思い出します。しかし、私自身の内には、父との親密な親子の情愛があったと思います。父は、9人の子どもがいたけれども、私という存在を喜び、私に自分のいのちの意味合いを感じ、黙って生きていたように感じます。

 だからこそ、私は、父なる神の人格を想い、父なる神に恥じない信仰者として生きて生きたいのです。信仰とは、儀式ではありません。奉仕や祈りなどの行いを競うものでもありません。信仰者同志が仲良く過ごすためのものでもありません。伝道をして多くの信者を獲得したら、父が喜ぶという単純なものでもありません。

 父なる神の教えと御心を全うし、その御心にそって信仰の友、兄弟と真理を語らい、教えあい、そして愛しあうならば、家族は増えていきます。家族が増え、御心に沿った生き方を互いに教えあい、戒めあって、形成するならば、父なる神はお喜びになるでしょう。

 父なる神との人格的交流を保ちましょう。イエス様が、いつも父なる神を想っていたように、私たちも、父なる神を喜ばし、その権威を自らの身で全う、遂行することをして行こうではありませんか。


6月21日 自らの務めを十分に果たす。  Uテモテ418

新改訳 Uテモ4:1-8

4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。

4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

4:5 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。

4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。

4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

 

先日、83歳の牧師夫人が天に召されました。4歳の時に母が死に、船員の一の留守の中、祖父母の下で育てられ、再婚した義母がクリスチャンなので、信仰者となったそうです。高校卒業後、婦人伝道師の下で12年間教会に奉仕し、結婚後は牧師夫人として夫の働きを助け、多くの人々に仕えてきました。私も、助けられ愛された者として、その生涯に感銘を受けました。決して目立たず、自己主張もせずに、人の話を聞き、料理を御馳走し、笑顔で優しく、ひたすら祈って、神と人に仕えてきた人生です。今日の聖句のように、神は正しい審判者ですから、間違いなく神から義の栄冠を受けているかと思います。

 私たちの命が、もし進化論の産物であるとすれば、それは動物の一つであり、たいして価値のないものということになります。イルカを殺すことと人間を殺すことの違いは、人間の法律に触れて罰があるかどうかということにしか過ぎないことになります。現代日本は、神を信じない国家ですが、それは共産主義を除いては少ないものです。神がいると信じなければ、全ては人間同士の決まりによって治められるということになるのですが、それでは、働くとか、愛するとか、犠牲を払うということは、自己満足のものとなってしまうのです。そして、楽をして生きるほうが得ということになります。

 神を信じない人は、好き勝手に考え、自分のやりたいことをしようと思います。現代社会に飛び交う情報や知識は、実は、そのようにして考えられ、模索され、作りだされたものが殆どです。流行りのファッションは、消費を促すために作りだされた情報であり、AKB48も同様です。そのようにして、人は、単なる消費者になっていくだけなのです。

 そのように生き過ごす人が、幸せを自分のものにすることは殆ど不可能です。人は愛され、愛することによって幸せを確認するのですが、愛するということは犠牲を払うということであり、報いを直ぐに期待できなければ、自己中心の人には出来ないからです。そして、互いに要求し合うばかりで、ギブ&テイクというなどという約束ごとを守れるはずがないのです。

 神を知らなかった頃の私は、成功者になることで自己確認をしようとしました。しかし、社会と人の生き様を知ると、勝ち負けの生き方は、人を差別し、自らを消耗させる、ストレスの多い虚しいものであることを悟りました。そして、その虚しさに怯えて、友や酒やギャンブルをしたものです。時間を費やすことが、虚しさを直視しない誤魔化しの生き方でした。

神を信じるということは、観点が全く変わります。自分中心で損得を見るものから、神は自分をどのように見られるかという客観性を知り、社会や周囲の人に対する神の御心を探るという鳥瞰図的視野を持つことになります。

 聖書を読んで、聖霊に導かれ、父なる神が、私個人を見つめておられることに気が付きました。成功者になるとか、人格者になるとか、そんなことではなく、愛して下さっている神にそぐわない生き方をするべきでないと感じました。

CALLINGとは、職業、天職、或いはそのような職業への激しい要求を意味します。エペソ4・11では、牧師という職業は、神がその働きのために召したものであって、他の職業に付くということとは、区別するべきものであるとされます。全てのクリスチャンは、この世にあって教会という、互いに助け合い愛し合う神の家族を築き上げるものとして召し出されているとあります。

 しかし、牧師という働きは、同様に罪深き人間でありながら、自分の在り方を神に付く者として、神の側に立って聖書を宣言し、説明し、神の言葉を語るという使命をもっています。その召命は、神に付く者としての献身・自己訓練・研修、そして謙遜や忍耐を全うすることによって、確認されます。つまり、それができないならば、牧師には召されていない、という厳しい宣告を覚悟した召命への応答が必要なものとなります。そして、その厳しさこそ、牧師職の権威の証明であり、また、それができない一般信者への執り成しと慰めの源泉なのです。教会というものは、そのような牧師の献身によって、多くの困難と戦いの中で教会が歴史的に維持されてきたのです。

 今年の教会テーマは、「次世代を育て上げる。」というものです。まず、牧師職というものは、この自己判断や好き嫌いを越えた献身がなければ全うすることができず、神がその人を牧師職から外すことになります。教会は、そのような困難な牧師職の人が起こることを、いつも祈らなければなりません。

 更に、教会には、執事という人々が実際の運営を任されています。自分の都合や仕事を優先するのは、この人々には相応しくありません。Tテモテ3・8-13にあるように、「きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人」でなければなりません。私は、神にこの執事達の推薦をしています。かれらの人生は、栄冠を受けるにふさわしいものでなければなりません。

 献身とか、神につく、とかいうことは要求されるものではありません。自ら願うものであり、それは固有のものです。たとえ、伴侶でも子どもでも、その歩みはできないことを理解し、要求するものではありません。

 このような献身の結果はなんでしょうか。「良い地歩を占め」とは、世の中で良い立場や役柄を持つということです。そして、「キリスト・イエスを信じる信仰について、強い確信を持つことができる」ということです。神に献身していけば、信仰も強くなっていくということです。

 目を上げて神を見た者に、神ご自身も目を注いでくださいます。どのような生き方をするか、ご自分が決めていくものです。

 今日は父の日ですが、父もまた、子どもの考えと判断、そして決心を、自らの育て方の結果として見守るだけなのでしょう。全能の神も、人の心の中にまで立ち入ろうとしませんでした。私は、父なる神の深い愛に応答して生きたいと考えております。


6月28日 御霊と知恵に満ちた評判の良い執事。  使徒の働き6110

使徒の働き6:1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。

6:2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。

6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。

6:4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

6:5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、

6:6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。

6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。

6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。

6:9 ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。

6:10 しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。

 

真実な働きをすると、それまで誤魔化していた人々は攻撃をしてきます。それは、自分達の不正や主張、そして行動が不当なものであることがばれてしまうからです。クリニックの働きでも、そんなことが続いてきました。世の中には、真実そうに見えて、誤魔化しと権力欲で生きている人々が多くいるものです。そういう人々に誤魔化されるのが、殆どの人であることも事実です。

 新聞について注意を促したことが何回かありますが、そのまま購読をしている方は、残念ながら真実に無関心な人であることが証明されています。先週、自民党の議員が沖縄の新聞2誌について、苦情を言いましたが、真実を報道するということは、利権の確保には支障があるので、そのような行動を取るのです。そして、そのことに関しても、トップページに載せる新聞もあれば、政治欄に小さく載せる新聞もあります。怖い事です。「パン種に気をつけなさい。」とイエス様は言われましたが、膨らませて物事を面白くしてしまう情報源に気を付けないと、私たち自身が惑わされて滅びの中に入ってしまうでしょう。

 最近、判断を間違えて大変な苦境にあっている人を何人も知っています。自分の考えと立場だけで行動する人は、先週申し上げたように、神を目を意識し、自制と自己管理をしながら生きている信仰者とは言えません。「聖書の神を信じている。」と自己満足しても、神ご自身から、「呪われた者ども」(マタイ25・41)と言われないように注意しなければなりません。

 水曜朝の聖研には、非常に喜びを覚えています。参加者の霊性の向上と社会的・人格的成長が良く分かるからです。共に、聖書と信仰生活の恵みを語り合うことができることは、教会の奥義であり、神の御霊の満ち満ちている姿です。

 今日の聖句のように「御霊と知恵とに満ちた」人は、人々の世話が出来る人です。自己主張を繰り返す人がいますが、神の前に自分の考えや主張など、立ちおおせるものではありません。文句や正論というのは、自分を守るために使うものであって、神と人とに仕える覚悟を決めた者には、主義主張はなく、ただ人の苦労と悲しさを想い見て、相手の便宜に応じる人であります。

 例えば、介護については、どうでしょうか。職業として介護をするにしても、同情と愛に満ちた人の介護と、自分の思い通りに仕事をしようとする人の介護では、内容が全く違ってきます。介護される側についても、感謝をし、喜んでいる人に対しては、介護者も変わってくることでしょう。大事なことは、全ての人が愛の人ではなく、完全な愛の人もいないということです。完全を期待するのは、私たちの罪性であり、自己中心です。要求をしないで仕えることが大事です。

 7人の執事は、「評判の良い人」でもありました。相手は、やもめであり、食事その他の配給について文句を言っている女性たちでした。信仰の初期には、ありがちな苦情です。信仰というのは、怖いものです。御霊に満ちた人になるか、苦情に満ちた人になるか、明らかに二つに分かれるのです。そして、その信仰の真実が自らの生活において、明らかにされてしまうのです。

むろん、幾つもの分岐点があり、失敗をし罪を犯しても、清めと謙遜の道に歩むことはできます。しかし、実は、信仰生活が長くなるほどに、道を変えるのは難しくなります。黙示録でキリストの忠告が幾つかあります。「初めの愛から離れてしまった。どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて」(2・4.5)、「受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。」(2・10)、「バラムの教えに奉じている(不義の報酬をうけながら自分の信仰を正当化し、信者を罠に掛ける)人がいる。不品行を行わせた。ニコライ派の教えに奉じている人々がいる(聖書の教えを改良して現代風にしようとする)」(2・14.15)、「イザベルという女を為すがままにさせている(不道徳と不品行に対する黙認)」(2・20)、「行いが死んでいる」(3・2)、「あなたは冷たくもなく、熱くもない。(冷たい水は元気づけ、熱いお湯は身体を癒す、或いは生ぬるい信仰)」(3・15

 この執事にニコラオがいますが、この人がニコライ派の教えを広めたという説が強くあります。このように不道徳の異端の先達になった人もいれば、壮絶な殉教をしてステパノのような人も、この選ばれた執事の中にいたということは、心して注意しなければなりません。教会の中には、偽りの信者(救われていないのに、形だけ信仰者らしく振舞う)、偽りの指導者、が常にいるものなのです。

 信仰が変だと思う人と、仲良く合わせる必要はありません。自分の清さや敬虔さがおかしくなるような、この世の人や、間違った教えを語る人と同調することは危険です。教会というのは、そのようにして聖さと敬虔さを失って行くのです。恵みと力に満ちた成熟した信仰者になったら、惑わされることなく、そのような人々を訓戒することや、未成熟な人々の世話をすることができるでしょう。

 「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは、彼には愚かなことだからです。それを悟ることができません。」(Tコリント2・14)。教会には、「御霊に属する人」と「肉に属する人」(Tコリ3・1)がいるのです。

 教会というのは、合議制で運営されるものではありません。むろん、執事会では、詳細なことに至るまで打合せをしています。しかし、怖い事に、多くの部分が牧師の霊性に掛かっています。そして、それを支える執事達の霊性とその人数、そして、その成長度によって教会の成長は反映されます。牧師の霊性が低くても、執事の霊性が高いこともあり得ますが、それで教会が成長することはありません。

 霊性とは、私たちの霊が、聖霊なる神にどこまで触れ、そして導かれるかによって成長してくるものです。もっぱらこの世のことを考える人は、どんなに信仰生活が長くても御霊の人になることはありません。聖霊なる神に触れるためには、むろん、聖書を十分に理解し、キリストの満ち満ちた豊かさを自らのものとして受け入れることです。このような願いを持たない人々が、成熟することはありません。全ての人を信仰者だからといって、無造作に受け入れてはならないのです。この世に属する人も、未成熟な人も多くいるからです。あなた自身は、御霊に満たされた執事になってください。また牧師になる人がいたら、幸いです。