8月3日 老化と聖化。  Uコリント書416節〜510  

U コリント4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
5:1
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
5:2
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
5:3
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
5:4
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
5:5
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
5:6
そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。
5:7
確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
5:8
私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
5:9
そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
5:10
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

今年は、いろいろな面から人生について、聖書から学んでいます。今回は、老化について、学んでみましょう。先日、玉手姉とお話した時、20歳前後の若い頃、病院長であった父に従い、朝鮮とロシアの国境の峠に母と共に友達もなく過ごしたことを何度も語っておりました。妻の母も、埠頭長や図書館長であった父の下で大蓮に生まれ、女学校も満州で学び、日本の女子大の学生だった時に、寒さで急死した母の代わりに戻って終戦を体験し、顔に墨を塗り、頭を短くして甥をおぶって、芋5つの代わりに翡翠の指輪を取られたりしながら、帰国したことを何度も語ります。さぞ、寂しく辛い日々だったと思います。戦争を体験した方々の苦しさは大変なものだったことでしょう。韓国や中国の人々も苦労をしたことでしょうが、日本人も同じように苦労したのです。それが戦争の惨さ、厳しさでしょう。

 私のような若輩ですら、30年間の教会の歩みを振り返ると涙が滲んできます。長男長女の親への理解の文が何よりもうれしく感じました。神に仕えた者として夫婦で歩んできたのですが、自分の子どもたちにも犠牲を強いていたことに気が付いたのは、大きくなってからでした。私も振り返れば、戦争のような生き方をしてきました。実際の戦争の苦しさを知っている方から見れば、失礼かもしれませんが、霊の戦いであったことは、事実だったと思っております。

 失望し、信じることをやめれば死だったと思います。確かに何度も死に掛けました。なぜ、あのような生き方をしたのかと振り返れば、主の御霊に従ったと、言うしかありません。主の御名を勝手に唱えてはならない、とありますが、あの道を歩み、あの判断をし、あの信仰を持ったのは、主の御霊によったのです。本来の私は、人の目を気にする者であり、臆病であり、それほど能力のある者ではないからです。いつも断食を続けていました。休みなく働いていました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主を愛しなさい。」(申命記6・5を実践してきたと思います。ただ、月日の経過は自分の至らなさと苦しみの多さを振り返らせます。

 しかし、今の私は、「外なる人は衰え」、「地上の幕屋は壊れ」そうであり、「この幕屋にあってうめき」、はやく、「天からの住まいを着たい」という思いであります。私の中の葛藤は、昔のような体力と気力がない、ということです。未だ老いては、いないと思いますが、初老の段階に入ったのでしょう。これまでのような神への仕え方ができないのが不甲斐ないのです。

 その分、「優しくなった」、「穏やかになった」などと言われますが、人の目を気にしないで、気にしないように生きて来た私にとって、「信仰的に衰えた、弱くなった」という意味に捉えてしまうのです。私の目標と模範は弓山喜代馬師ですが、信仰的に衰えた好々爺の人間には決してなりたくないのです。この新年から、皆さんには私の葛藤をそのまま示しています。つまり、老化は受け入れるのですが、堕落と希望なき日々は決して受け入れられないのです。

聖化とはどのようなものなのでしょうか。

「顔の覆いを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映しながら、栄光から栄光へと、主と同じ形に姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Uコリント3・18

 顔の覆いとは、消えうせる栄光を人に見せたくないためにモーセが付けたものです(Uコリント3・13)。つまり、若い時には、神の働きをしたのに、老いたらそれができなくなったので、自分の現実を隠してしまう、ということです。そして、それは多くの老いていく牧師がするパターンなのです。それを否む老牧師たちは、伝道を続けますが、やはり肉体の衰えと共に、現実には難しくなるようです。引退する者が自分の半生記を綴りますが、それも自己義に思えてしまいます。

 主との交流が栄光であり、その栄光を過去のものとして、消え去ってしまうことを恐れて覆いをするのではなく、いつまでも主イエスとの交流、御霊に満たされて生きたいのです。過去を懐かしむ思いこそ、顔の覆いであり、今を主の御心と御霊に満たされて歩むことこそ、聖化の道です。

 若い時は、問題や敵と戦ってきました。そして自らの罪や汚れを知らされ、武道のように主の教えを身につけてきたように思います。「私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。」(5・6肉体が強い時は、自らの信仰と気力で戦っていましたが、肉体が衰えてきた今は、主から離れることの怖さを感じます。社会も終末の様相を呈し、衰えた肉体でこれから予想される危機を如何に乗り越えるのか。夜遅く来られる花婿を迎えるためのともし火油を如何に用意しているべきなのか。私は真剣に考えています。

 震災の後は、自らの人生を放射能の犠牲者の為に献げようと目論見ましたが、私のこれまでの歩みと賜物とは違うことに気が付きました。変わらぬ思いは、社会の弱者を助け続けて、泣く者と一緒に泣き、喜びをもたらしたいという願いです。この教会の牧師は、あと5-6年が限界でしょう。ビジネスライフというものは、老いた者には、不向きだと思います。人や組織を指導し、管理し、成長させるという指導者というのも、若い者の仕事です。新聞やテレビやインターネットの情報に追われるのも、本当はまっぴらごめんです。日々を祈りと共に過ごし、弱者を受け入れ励まし、助けとなる働きを準備しようと考えています。

 


8月10日 老いたら従うしかない。  ヨハネ福音書211722

改訳 ヨハネ福音書 21:17-22

21:17
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

21:18
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

21:19
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

21:20
ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。

21:21
ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」

21:22
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

記念誌の歩みを読みなおして、よくやって来れたと感慨深く思いだします。贈呈した先生方からは、同労者としての共感が寄せられてきました。老いてなお牧師であるということは、苦労と忍耐、そして未熟さと失敗への悔いの残るものの共有かと思います。若い牧師でも、子育ての苦労をしている者からは、共感がきました。そんな中、伝道師からはこの教会を継ぐことは嫌だという言葉が寄せられました。隠してもしょうがありませんが、どうも私の強さが気に入らないらしいです。それで献身者、伝道者、牧師が務まるのかどうか心配ですが、直ぐに覚悟を決めました。私は引退できないようです。若い人は、自分のやりたいようにやろうとするのが、若さの特徴でしょう。

 人の弱さと罪深さ、自分勝手な論理を駆使して、自己弁護するために人を攻撃する人々には慣れています。人間とは、そんなものなのです。皆さんも、自分の過去を思い返せば、罪深く、自分勝手なものだったことを思い出すでしょう。おかしなことに、歳を取らないと、それに気が付かず、自分を正当化してしまうのです。老いると、自分の罪深さが容赦なく自分に振り返って来ます。更に若い人にも責められるのですから、老人は、聖められるかボケるしかないのです。

 ヤコブの嘆きは身に沁みます。「私は不幸せだった。」(創世記47・9)。しかし、それと同時にエジプトの王パロを、神の名で祝福するのです。そして、死の間際に、力をふりしぼって床に座りなおし、子ども達を神の名によって祝福するのです(48・2-49・32)。

 真の神を信じていれば幸せに過ごせる、とは思いません。振り返れば戦いばかり、苦悩ばかり、神の前に祈り、神の前に呻き、胸を打ち叩いて苦しみました。「自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。」(マタイ16・24)の主の苦しみから比べれば、なんということもありません。そしてこそ、主が共に居て下さいます。さらに、主にある友、同労者を得ることができます。

 私は、自らの強さは尋常なものではないと、思っています。どんなことがあっても、自分の内面の信仰と聖霊の導きに従おうとしています。決して、世に迎合することもなく、妥協することもありません。だから、勝利をしてきました。もう少し弱かったら、人の心を波立たせることもないのに、と思いました。しかし、最近は、諦めています。私は、普通の日本人とは違います。だからこそ、神に取り扱われ、祝福も受け、そして戦いも多いのです。これは、神から与えられた使命と賜物かもしれません。聖書の言葉に従って、生き、指導しているつもりです。そして、従う人々には、神の祝福があると信じています。私は、不幸せでも、皆さんを絶対に祝福したいのです。ところが、創世記49章にあるように、祝福したくても、神の祝福が注がれない人々がいるのです。「かれは彼らを祝福した時、各々に相応しい祝福をしたのであった。」((49・28)。人の祝福は、その人自らの歩みが生みだすのです。人間にはどうしようもないことです。

ペテロには、主が「わたしの子羊を飼いなさい。」「わたしの羊を牧しなさい。」「わたしの羊を飼いなさい。」と違う言葉で、信徒たちの世話をやくことを命じられています。さらに、若い時には、自分の思い通りに生きてやりたいことをすることができるが、老いたら、他人にすがって自分のしたくないことをすることになる、と18節にあります。 まだ若いペテロは、自分だけなのか、他の人はどうなのか、とイエス様に問います。イエス様は、「それがあなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(22)と厳しく命じます。冗談ではない、やってられない、と若い人は思う者ですが、不思議なことに老いてくると、それもしようがないか、と諦められるようになります。それが献身者というものであり、献身とは、理念でも理屈でもなく、思い通りにできない生活を覚悟して、神に仕えられるかということです。

 記念誌の礼状に、「愛とは御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。」(Uヨハネ6という聖句がなにげなく書かれていました。「同じ主の道を歩む者として」という共感の言葉もありました。

 私自身の献身は、どこから始まったのでしょうか。聖歌583番「十字架の御元にひれ伏しし時、後ろの橋をば燃やし尽くしぬ。後ろの橋をも焼き捨てし今、十字架を担いて、進みに進まん。」とあるように、親にも誰にも相談頼れぬことになりました。逃げられぬ、牧師を辞めるわけにはいかぬ、という中で、献身を学ばされたと思いだします。罪人の社会ですから、思い通りには何一ついかぬものと悟り、ただ、こつこつと神に従い、そして、たまには羽を伸ばして憂さを晴らします。

 次男の非行が続いた時に、カナディアン・ロッキーに行った時の感激を忘れることはできません。神の栄光は、じたばた悩み苦しむ私などを眼下にして、輝き光っているのです。もはや悩まない、と決めました。今回は、スイスの景色を夫婦で感激してきます。妻も強くなりました。人生の栄枯盛衰、艱難辛苦、欣喜雀躍などに捕われてはいけません。ともかく、75歳までは牧師を続けます。悔い改めて、主に従うのみです。宜しくお願いします。


8月24日 この道を歩こう。  使徒の働き241421

新改訳 使徒24:14 しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。

24:15
また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。

24:16
そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。

24:17
さて私は、同胞に対して施しをし、また供え物をささげるために、幾年ぶりかで帰って来ました。

24:18
その供え物のことで私は清めを受けて宮の中にいたのを彼らに見られたのですが、別に群衆もおらず、騒ぎもありませんでした。ただアジヤから来た幾人かのユダヤ人がおりました。

24:19
もし彼らに、私について何か非難したいことがあるなら、自分で閣下の前に来て訴えるべきです。

24:20
でなければ、今ここにいる人々に、議会の前に立っていたときの私にどんな不正を見つけたかを言わせてください。

24:21
彼らの中に立っていたとき、私はただ一言、『死者の復活のことで、私はきょう、あなたがたの前でさばかれているのです。』と叫んだにすぎません。」

今回のスイス旅行ほど、人生の縮図を感じたことはありません。前日の列車脱線事故の影響で、サンモリッツまでは遠回りをして行き、予定より遅れましたが、そのままホテルに寄らずにコルバッチの展望台に行きました。3303mの展望台の外は雪で全く景色は見えなかったのですが、1700m程の地上に降りると晴れていたので、サンモリッツまで歩くことにしました。景色の良い湖の周辺を楽しみながら歩いていると雨が降り始め、どうせならと「歌いつつ歩まん」と歌っていると、土砂降りとなり、「雨を降り注ぎ恵み賜うと」となりました。

 氷河特急では、深い山間に家が点在しています。何故、こんなに不便な山奥に住むのかと疑問を感じていると、16世紀に住み始めたと解説がありました。それは宗教改革の後のプロテスタントへの迫害の時代です。教会が一つの村に3つ以上ありました。カトリックがそのように教会を設けることはないはずです。数百人の村に複数の教会、つまり、信仰のために住みよい場所から脱出してきたのです。食べ物は、チーズとソーセージとハムばかりで保存食が多く塩分過多を気にしましたが、寒い雪の中で彼らは命の支えとなる羊などを守りながら信仰を築き継承してきたのでしょう。

シグリスト宣教師夫妻に尋ねると、「そのようなことを考えたことはなかった。ただ、今でも信仰の戦いはあり、福音派には援助はない。」とのことでした。スイスでは、カトリック43%、プロテスタント35%とあるが、その宗教指導者たちには国から給料がもらえるそうですが、福音派は独立しているので、その分類には入らず、信者の献金で暮らしているのだそうです。援助をもらうよりは福音的な信仰を保つ方を選ぶというのは、宗教改革以来でしょう。夫妻の頑固で一途な聖書信仰は、ドイツ人ならではの凄さでした。現在でも牧師をしており、教会の4階で暮らしていました。

 ツェルマットの礼拝は10名程でした。聖餐式のワインに妻は酔ったようでした。ゴルナーグラードの3089mのレストランで食事をしていると84歳の祖父を囲んだ日本人7名と会いました。小柄なお爺ちゃんは既に4-5回来ているそうで、寺田さんを思い出しました。次の駅を降りて地図を調べているうちに、妻が歩き始めたので、そのまま歩くと次の駅が見えてしまいました。逆さのマッターホルンが映る湖に行きたかったので尋ねると反対側だと言うので戻ると、妻は道を外れて反対側に行こうとします。「道を外れてはいけない。無理をしてはいけない。」と諭して、少しずつ歩くと、殆ど出発点の横に池があり、方向違いをしなくて良かったのですが、戻って登るのはかなり大変なことでした。

 翌日は、スネガ―の展望台から2時間50分のハイキングでツェルマット駅に下りました。途中、現地の人に道を尋ねたのですが、結局、道のわからない村の中に入ってしまい、遠くの道を見つけて下りると昨日のご夫妻が丁度休んでいて、記念写真を撮りました。この度の為にダイエットをし、膝にはサポーターを巻いたので、どうにか下ることができ、予定の電車に乗れました。しかし、チューリッヒに着くのが遅れ、シグリスト夫妻と約束のシャフハウゼンには遅れました。

シグリスト宣教師の食後の夕拝は、箴言19章からでした。「その人の光栄は、そむきを赦すことである。王の激しい怒りは若い獅子がうなるよう。しかし、恵みは草の上に置く露のよう。愚かな息子は父の災い。」。夜の不安に加え、獅子の唸りの恐ろしさのような夜を誰も体験するが、それを過ごすことによってこそ、恵みの露があるとのことでした。後で調べてみると、「命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。」(箴言19・16)と続いていました。

 そこのホテルでやっとネットを繋ぐことができ、玉手姉の召天を知り、連絡を取りました。式の時間は祈りながら、玉手姉の試練の旅路と慰めを想いました。娘や家族に囲まれて信仰を共にする喜びを得たことができたのです。

 シャフハウゼンはライン川唯一の滝があります。スイスの奥深く、氷河特急で見た川が大河となって流れています。そびえ立つマッタ―ホルンを観た感動と、水しぶきを上げて流れ落ちるラインの流れを望む感銘、自らの小ささと世界そして歴史の大きさを感じ、ただどこまでも主に従って生きようと、確信を強くしました。妻がうれしそうに横にいて、お腹が満ちると眠ってしまうのが、私の喜びでもあります。

 チューリッヒ湖の遊覧をした後、土産を買おうとしたけれど、高いので思い留まって、ホテルのレストランに入り、お勧めのメニューを食べたら、驚く程高かった。油断は禁物でした。チューリッヒ中央駅は30くらいホームがあり、一つのホームにも次々に行く先の違う列車が入るので、空港に行くのは苦労しました。やっとのことで、飛行機に乗り込むと、4時間以上待たされ、夕食券を配布されて空港に戻り、ラウンジで2時間待っていると、突然キャンセルの掲示が出て、あわててクリニックの仕事に間に合う帰りの便の予約手続きを1時間かけてしました。その後、50分程タクシーに乗って、50キロ以上離れたホテルに着き、4時起きで5時にホテルを出ました。ところが、空港について予約番号を入れると、同じ便の一日遅れのチケットが出て来ました。確認すると予約を取った便は手違いで一杯になっていました。空港で15時45分まで待ち、やっと帰れたわけです。

 玉手姉が、国境の峠にある病院にある家で、知り合いもなく寂しく母と過ごした時のことを何回も話していました。そして、好きな聖句は、わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」(イザヤ43・4と嬉しそうに話していました。家族に感謝を述べ、神を誉め、嬉しそうに語る姿に、信仰を伝える伝道者としての喜びを感じました。救いは偉大なものです。

 喜怒哀楽、艱難辛苦なにがあろうとも、この道を歩んで行きましょう。今日の聖句は、神はその歩みを吟味されるということです。夫婦だけでも同道の歩みは楽しかったのですから、皆さんと共に歩む道は、励みにもなり、慰めにもなるでしょう。支えてくださり、ありがとうございます。

 


8月31日 大いなる救いの為に。  創世記45413

創世記45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。

45:5
今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。

45:6
この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。

45:7
それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。

45:8
だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

45:9
それで、あなたがたは急いで父上のところに上って行き、言ってください。『あなたの子ヨセフがこう言いました。神は私をエジプト全土の主とされました。ためらわずに私のところに下って来てください。

45:10
あなたはゴシェンの地に住み、私の近くにいることになります。あなたも、あなたの子と孫、羊と牛、またあなたのものすべて。

45:11
ききんはあと五年続きますから、あなたも家族も、また、すべてあなたのものが、困ることのないように、私はあなたをそこで養いましょう。』と。

45:12
さあ、あなたがたも、私の弟ベニヤミンも自分の目でしかと見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。

45:13
あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉とあなたがたが見たいっさいのこととを私の父上に告げ、急いで私の父上をここにお連れしてください。」

ヨセフという人は、兄たちに殺されようとされた挙句、エジプトに奴隷として売られ、さらに騙されて牢獄に入れられてしまいます。しかし、信仰と誠実さを失わずに、どこにおいても神の祝福を受け、30歳にしてエジプトの宰相となるのでした(41・46)。神の預言通りに7年の豊作の後に7年の凶作が続き、世界は飢えるのですが、ヨセフの指導により蓄えていたエジプトは、国力が増すばかりです。そして、そのエジプトを頼って、ヨセフの兄弟たちが訪れます。

 艱難辛苦を経たヨセフは、悔い改めをしていない兄たちをそのまま受け入れても、真実の交流はできないことを知っており、人の罪は地上で罰を受けることと悔い改めが必要なことを2回に分けて、体験させます(42・21-24)。何度もお話しているように、長男ルベンは父を侮辱して祝福から離れ、次男シメオンは多くの人を殺し、ヨセフをも殺そうとした残虐さから滅びて行きます。しかし、同じように罪を犯したレビは悔い改めて、子孫が祭司の部族となり、神の保護を受けることになります。そして、兄弟のリーダーシップは、罪を犯していない、或いはしっかりと悔い改めている4男のユダが取ることになり、神の祝福はユダのものとなってダビデやイエス様に流れて行くのです。

 神は、飢饉という苦しみを通して、ヤコブの子どもたちに訓戒を与え、罪を悔い改めて真実な道を歩ませようとするのです。ここで、「大いなる救い」の意味合いを探りましょう。

1. ヤコブの家族を飢饉から救いだすこと。

2. ヤコブの家族に悔い改めと魂の救いの機会を与えること。

3. ヤコブの家族にエジプトの安住の地を提供すること。

4. 出エジプトに繋がるイスラエルの民族的な訓練と救いの計画の準備。

5. 40年の荒野での流浪を通して、神に従う律法を身に付けさせる計画。

6. イスラエルという民族を通して、世界に神の顕現を示す救いの計画。

7. 神が信じる者を救うという、大いなる救いの計画と意味を啓示する。

 「すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうして逃れることができましょう。」(ヘブル2・2-3)とあるように、神は、愛する者を訓練するために、罪や不従順を見過ごすことなく、しっかりと悔い改めさせようとします。ヨセフは、そのことを自らの試練の中でしっかりと悟り、悔い改めたからこそ、兄たちの真の悔い改めを迫ったのです。日本人は、組織に対する従順や社会的マナーへの従順を厳しく戒めますが、全てを知っておられる神の前の従順については、悟っていないようです。そして、裁きの神の知らないからこそ、最近の社会的堕落や犯罪が横行しているのです。

   ヨセフは、神の代理人として、しっかりと神の摂理の中にある救いの計画を説明します。そして、自分達の犯した罪や行いについて、「心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。」(5節)と、人間存在としての罪性を認め悔い改めることの大事さと、悔い改めをしっかりとしたならば、自らの犯した様々な罪について悩んだりしてはならないことを、はっきりと説明しています。驚くほどの福音理解です。

 さらに、その救いの計画のために、神が自らを試練に合わせ、前もって家族の救いのためにエジプトに遣わしておいたのだと説明します。私が教会員や人々の罪或いは犯罪について、あまり頓着しないのは、同じような福音理解があるからです。しかし、その人のうちにしっかりとした悔い改めと神への誠実さがないと、再び罪を犯すようになり、滅びの道を歩むことになります。

 伝道者・牧師というのは、その福音の使者として、自らの罪性と悔い改めをしっかりと理解し身に付けていなければ、決して人々の執り成しの働きを出来るものではありません。今月、皆さんにお知らせしたことは、伝道師という者がそのことを身に付けるための「大いなる救い」のための道であることを御理解下さい。

 皆さん自身もまた、それぞれの「大いなる救い」のために生きていく使命を神から与えられています。自分の人生を無益なものとしてはなりません。ユダがリーダーシップを兄弟の中で取るようになったのも、弟ベニヤミンを救うために自ら犠牲になる覚悟をしていたからです。自分を自分の力や義で救おうとするものは、自らの救いを達成することはできません。

 神の前に自分の信仰は間違っていないだろうか、自分は罪を犯していないだろうか、などと、自分の義を吟味していてはならないのです。大事なことは、人を愛することであり、人のために自らを犠牲にして、救いをなそうとすることなのです。

人を愛すると思わぬ攻撃を受けることもあります。それは、人間が罪深いからなのです。そんな時、神はご存じであることを意識して祈らなければなりません。祈りのない信仰者は、人を愛することはできないのです。そして、人を愛するということは、ヨセフのように一時的には、厳しく当たることもありうるのです。確かに、兄弟の中には、ヨセフを恐れ続ける者もありました。それは、彼ら自身の問題であり、ヨセフは彼らの批判や攻撃を恐れることなく、神の人として歩んだのです。

 人の批判や攻撃は、神の名によってもされることがあります。しかし、大事なことは、いつも喜んでおり、絶えず祈っていることであり、全てのことに感謝していることです。そのような者は、どのような艱難があろうとも祝福のうちに生きることができます。それが大いなる救いの事実なのです。


9月7日 主を待ち望む者は。  イザヤ402531 

新改訳 イザ 40:25-31

40:25
「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。」と聖なる方は仰せられる。

40:26
目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。

40:27
ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。

40:28
あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。

40:29
疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。

40:30
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。

40:31
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

伝道者の書12章を、意味を取って自分流に読み変えてみます。

 「若い日は過去のものとなり、苦しみ悩む日々が来て、神を無視して来た報いとしての何の喜びの無い日々が来てしまう。

 太陽や月や星のような光輝いた喜びはなくなり、雨や嵐のような悲しみが次々と襲ってくる。

 手は震え、足は立っていられなくなり、歯も少なくなって噛むことができなくなり、目も暗くなってよく見えなくなる。耳は聞こえなくなり、聞こえる音も低くなってしまう。簡単な物音で起きてしまい、歌を歌うこともなくなって声がかすれていく。

 高い所へ行くことだけでなく、外に出ることもおっくうになってくる。髪は白くなり、腰は曲がりのろのろと歩くようになる。欲望も衰えて、死と老いの現実の前に嘆くことばかりが多くなってくる。

 命の紐は切れ、光を灯す油を入れる器も壊れ、命の水が湧き出ることはなくなり、もはや井戸も枯れてしまった。そして、人は塵になってしまう。」

これらは、神を信じる生活を送らないで老いた者の、非常に悲しく辛い、老いと人生の末期を語っています。聖書は、これを記したソロモンの、当初は神を信じていたが、多くの妻とそばめをもって誠実な信仰を失くした人生観を記しているのです。この虚無的人生観は、欲望に捕われて生きた者が、それでも「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間によって全てである。神は、善であれ、悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざを裁かれるからだ。」(伝道者の書12・13-14)として、人々に対して、自分が道を離れた故にできなかったことを教えているのです。

人は、罪を犯すまでは何気なく生きていますが、一たび罪を犯すと、その罪の虜になってしまって、抜け出すことは非常に難しくなってしまいます。例えば、世の中では聖書でいう姦通がはびこっています。愛しあったら結婚していない人とでもセックスをしても良いなどという考え方や、映画・小説が流行っています。そして、性の倒錯に陥った人々が生活を破綻させています。

或いは、儲けるために人を騙したり、裏切ったりした人は、金銭の奴隷となり、収入を得るために平気で悪事を行ってしまいます。十戒にある、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、嘘の証言をしてはならない、隣人の物を欲しがってはならない、などの戒めを破ると、正義に立ち帰ることや、神を信じることはできなくなってしまいます。

先週の交流を自ら絶ってはならないとのクリスチャンの執り成しの働きも、そのような罪を意識的に犯した人々に対しては、非常に困難なものとなります。自らも、他の人に関しても、罪というのは恐ろしいものなのです。

老いていくということは、多くの罪を犯してきたということでもあります。クリスチャンでさえ、多くの困難の中で、或いは罪深い人々や社会の中で、やむを得ず、或いはどうしようもなく罪を犯したこともあるのです。それが人間というものです。罪のない人間はおりません。

 「もし、罪はないというなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Tヨハネ1・8.9)とあるように、悔い改めることが必要です。

 「人は、そんなに深く愛し合えるものではない、人間はみな自己中心だ、真実な愛などないので、妥協して生きるしかない。」などという考え方は、自らの罪を悔い改めないで、神の裁きを忘れた人のものです。ソロモンの教えは、聖霊の内在が失われた、過去に信仰者であった者の言葉であることを忘れてはいけません。

 今日の聖句の賞の1節「慰めよ。慰めよ。私の民を。」という言葉で始まり、「その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主から受けたと。」と続きます。イザヤ書は、聖書全巻と同じ66章があり、丁度新約聖書のように40番目に福音が説かれるのです。

 「主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神の言葉は永遠に立つ。シオンの良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。・・・力の限り声を上げよ。」(イザヤ40・7-9)。そして、全てを知る創造主の宣言に続いて、今日の聖句があるのです。現代は、若い者も多くの困難に疲れ倒れる時代です。それは誘惑と罪に負けるからです。

 聖研では、年老いたヤコブが多くの不幸と艱難の中でぼんやりして、良い知らせを信じることができなかったけれど、ヨセフが自分を迎えるために送ってくれた車を見て、「ヨセフに会いたい。」という思いで元気になったことを学びました。(創世記45・26-28)しかし、そのことで、ヤコブは自分の苦労や不幸が、神の摂理の中にあったことを知るのです。

 神の大能と深い御心を悟ったヤコブは、臨終の時に、「力をふりしぼって床に座り」(48・2)、孫や子どもたちに預言と訓戒を与えるのです。最後に、自分を愛する妻の墓地に共に葬ることを命じて死ぬのです。まさに、「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。」と言う姿を、信仰を復活させたヤコブはみせて神の国に凱旋していくのです。

 老いた者こそが、信念と信仰を見せ、若い者に教えていかなければならないのです。

 


9月21日 天寿を全うする。  U歴代誌321726節 


新改訳 U歴代誌32:17 彼は手紙を書いて、イスラエルの神、主をそしり、主に逆らって言った。「私の手から自分たちの民を救い出さなかった地の国々の神々と同じように、ヒゼキヤの神も、その民を私の手から救い出せない。」

32:18
さらに、彼らは城壁の上にいたエルサレムの民に向かい、ユダのことばで大声に呼ばわり、彼らを恐れさせ、おじけさせて、この町を取ろうとした。

32:19
このように、彼らは、エルサレムの神について、人の手で造ったこの地の民の神々についてと同じように、語ったのである。

32:20
そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。

32:21
すると、主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの王の陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた。そこで、彼は恥じて国へ帰り、彼の神の宮にはいったが、自分の身から出た子どもたちが、その所で、彼を剣にかけて倒した。

32:22
こうして、主は、アッシリヤの王セナケリブの手、および、すべての者の手から、ヒゼキヤとエルサレムの住民とを救い、四方から彼らを守り導かれた。

32:23
多くの人々が主への贈り物を携え、ユダの王ヒゼキヤに贈るえりすぐりの品々を持って、エルサレムに来るようになり、この時以来、彼はすべての国々から尊敬の目で見られるようになった。

32:24
そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかったが、彼が主に祈ったとき、主は彼に答え、しるしを与えられた。

32:25
ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。

32:26
しかしヒゼキヤが、その心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼およびエルサレムの住民もそうしたので、主の怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。

 

ヤコブの話を続けていますが、大往生の時に自ら「足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。」(創世記49・33)というのは見事です。また、「自分の民」というのは、属するべき天の御国の民という意味でしょう。

 イエス様の教えは、天の御国の福音とも言われ、天の御国に入るための教えですが、私たち人間の側においては、その資格授与は神の側にあり、なんとも不確かなものと捉えられてしまいます。宗教指導者が、「あなたは救われた。神の国に間違いなく行くだろう。」と言ったところで、その断定が却って神の主権を侵すものであることは、誠実に生きる信仰者ならば感じるところです。

 私自身は、牧師や信者の日常の生き様を見ても、「果たしてこの人は天国に入れるのだろうか。」と感じる人もおります。そういう人の特徴は、

@ 自らの信仰と歩み、行動に対する自己チェックをしていない。

A 性格や品性に御霊の実が実っていない。

B 聖書を正しく理解しておらず、教理的な間違いをしている。

などを感じております。

 自らのことに関しては、神を信じてから人生観が変わり、性格も変わり、長年の信仰生活の結果として品性も成長してきたと感じておりますが、今後の歩み次第で信仰から脱落する可能性がなくはないと自らを戒めております。その要素とは、第一に罪に対して妥協するようになることであり、第二に人生の目的を見失うことであり、第三にこの世の法則に従わないと生きていけないような弱者になることを、警戒し意識しております。

 社会で生きていると罪の生活そのものを過ごしている人々ばかりで、人と親しくなることは大事ですが、迎合してはクリスチャンの清めをなくしてしまいます。介護も良いのでしょうが、幼児扱いされて、排便やお風呂の世話になるのは気が進みません。そのような中で、もし聖書を読むこともできず、俗なテレビばかりを観ていたら、自分の人格が崩れてしまうのではないかと心配です。なおのこと、「早く死にたい。」と叫び、地上の人生の目的を見失ってしまうようになったら、これまでの人生の意味が無くなってしまいます。だからこそ、老いの始まった今のうちに老後を準備しておかなければならないと考えています。

 さて、天寿とは、神が定められたその人の寿命であり、人の罪ゆえに、神はその最高寿命を120年までに短くされました(創世記6・3)。アブラハムやイサクやヤコブなどは、族長そして神の系図の人として長寿でしたが、次第にその限界を超える人はいなくなりました。罪故に、ということは、罪人が長く生きたら、それこそ悲惨なものになり、また人生をはかなむことばかりになってしまうからでしょう。そして、天寿とは、人それぞれに60歳のこともあり、10歳のこともあると思われます。

 人に預けられたものは身体と心と霊であり、その管理するものは使命と賜物と時間であり、その属する家族や組織や国家の中で、如何に生きるかが問われてきます。健康を害するということは、仕事や遊びやその他のことで、強制的あるいは自己管理不足で身体を犠牲にした結果となります。心が形成されないのも、自らが真理や愛や教えなどに目を向けなかった結果として、神の前では問われることになるでしょう。霊性も、自らの行動の結果として、汚れたり、聖められたりしてくるものです。更に家族を大事にしてその義務や交流を果たさなかったり、国家や社会を軽んじると、それぞれからの祝福を失い、神からの祝福も損なわれます。

ルカ8章の種まきの例えでは、良い地のような人は多くの実を結ぶとされるので、心を管理して良い心であることが促されます。悪魔がその心から御ことばを持ち去ってしまうとも書かれています。ルカ11章には、信仰を失い聖霊が去った人には、多くの汚れた霊が影響を与えるとあります。マタイ25章には、神が人それぞれに与えたものは違うけれど、その使命を全うしようと思わなかった者は、神の国から退けられて多くの罰を受けるとあります。

 つまり、地上の人生では多くの課題と義務がありながら、その一つに集中してしまうと他のものを損なうというジレンマがあります。そのような中に、人は自分の思い通りに生きてはいけないという神の法則を身に付けて行くのです。そこに信仰と従順を学ぶ奥義があるのです。

 さて、今日の聖句ですが、ヒゼキヤ王は強力なアッシリヤからユダ王国を守るために、大きな力を発揮しますが、腫物が出来て死にかけることになります。腫れものというのは、休みなく働き、ストレスの為に精神的も疲れた時にできるものですから、彼にとっては、能力と知恵の限りを尽くした働きだったのでしょう。彼は、「私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたが良いと思われることを行ってきた」(U列王20・3)と神に祈り、癒しを求めます。彼は、神の超自然的な癒しを体験するのですが、却ってそれが彼を高慢にさせ、堕落させることになります。そして、バビロン王の使いに、神殿の財宝その他をすべて見せてしまうのです。神は、罰として、子孫がバビロン捕囚になることを預言するのですが、「彼は、自分が生きている間は、平和で安全ではなかろうか、と思った」(U列王20・19)ように、次に来る永遠の神の国のことを考えないで、自らの魂を滅ぼしてしまうのです。

実は、地上の人生で、誰をも完全に生きることはできないのです。義人はいないのです。ですから、健康を損ねることも、失敗することも、霊性が落ちることも、必ずあるのです。神は、そのようにして、私たちの働きと努力をご覧になっておいでになり、寿命を定めておられるのです。ただ、そのうまくいかない人生において、我らの主イエスが与えられた聖霊によって、主と共に生きる人は幸いです。聖霊こそが、私たちの助け主として神の国に導いてくださるのです。