4月6日 心を見張れ。命の泉が湧くように。  創世記262233節 

創世記26:22 イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」

26:23
彼はそこからベエル・シェバに上った。

26:24
主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」

26:25
イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。

26:26
そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。

26:27
イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」

26:28
それで彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。

26:29
それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に祝福されています。」

26:30
そこでイサクは彼らのために宴会を催し、彼らは飲んだり、食べたりした。

26:31
翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。

26:32
ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」

26:33
そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。



イサクは、父アブラハムによって神の命令通りに犠牲に献げられそうになるのですが、それを敢えて受け入れるという青年期の大事件によって、祝福された生涯を歩みます。イサクの特徴は、父アブラハムほど信仰深くはなく、勇敢でもなく、指導者としても卓越したものはありません。ただ、間違いなく争いを好まず、我慢強いのが特徴です。

 今日は新入生祝福式ですが、親はこどもに全ての能力や人格、そして成功ばかりを願ってはいけません。神は一人一人に賜物と使命を与えているのですが、罪(的外れ)によって、自分だけの繁栄を願う排他的勝利を子どもに願うようになってしまっているのです。反抗期というのは、子どもを愛しても自分の思い通りに育てたがる親への子どもの権利の主張でしょう。放任や過保護が不適切なことは当然ですが、どのように心を尽くしても、子どもは親の思い通りにはならないということが、愛を学ぶ神の計画でもあります。

イエス様も、12歳の祝いの時にエルサレムに上った時に、親と共に帰ることをせず、勝手に神殿で学者たちと論争をしていたのです。母マリヤは怒り、異常とも思われるイエス様の知性にいぶかりながらも、「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(ルカ2・51)。のです。私たちは、イエス様を神の子であると知っているのですが、福音書を読んでみると、イエス様の行動が周囲の人々には理解できず、腹を立てることも多かったことを知ります。

日本の教育や家庭で強調される常識的な行動など、世界に出れば全く非常識にもなり、「迷惑をかけない」ならば生きていけないことに気が付かなければなりません。一般的に多くの教会で教えられる模範的な生き方が、もし他の人の目を意識したものであったら、それはひ弱な人間を作り出すだけのものになってしまいます。

イサクはどんな人だったのでしょうか。父親が自分を神の犠牲にしようと刀を振り上げても、じっと耐える人でした(22・10)。これは驚くべき従順性と忍耐力です。

「イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。」(創世記24・63)。私が家内に出会ったのも春の日和に散歩に出かけ、友人たちのいるアパートに寄った時でした。遠いので、そんなことは前後にありませんでした。散歩が好きな人は、考え深い人だと思います。

 「彼は彼女を愛した。イサクは、母の亡き後、慰めを得た。」(24・67)。当時としては、驚くべき優しさであり、女々しいと馬鹿にされるようなものですが、悲しみを知っている心の穏やかな人であったのでしょう。これに対してイシュマエルは、「自分の全ての兄弟たちに対して敵対して住んだ。」(25・18)とあり、荒々しい野の人であり、アラブ人は彼が大好きなのです。
 イサクが祝され、裕福になるとペリシテ人は彼を憎み、井戸を塞いで「我々よりはるかに強くなったから出て行ってくれ。」とアビメレク王が言うと、そのまま去り、ゲラルの谷間で井戸を掘りあてると、羊飼いが文句を言うので、別の井戸を掘るとまた文句を言われた。それでまた移動します。争いを避けて出て行くのですから、逃げるようで、男らしくないと批判する人もいるかもしれませんが、どんな所に行ってもイサクは祝福されます。

それを知って、アビメレク王が将軍ピコルと一緒にやってきます。とうとう、イサクも腹を立て、27節の言葉を言います。ところが、彼らは、イサクの祝福を見て怖くなり、自分達の行動について神の罰が受けないように執り成しを求めてきたのです。私たちが、イサクが怒ったのを見て、彼の忍耐と平和主義は、臆病から出たのではないことを知ります。アラブ人には、イサクは嫌いなタイプでしょう。人はそれぞれ、自分のタイプで他の人に要求します。しかし、大事なことは、自分を否定しては、神への願いや祈りは始まらないということです。

井戸を掘ると必ず、水が湧き出るということは、通常ではないことです。私たちも、人生の苦難の時に、命の泉が湧くということが大事です。箴言に、「我が子よ。私の言葉をよく聞け。」として、「力の限り、見張って、あなたの心を身守れ。いのちの泉はこれから湧く。」(箴言4・23)とあります。そして、「あなたの道筋に心を配り、・・・右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。」と続きます

人の目など気にせず、神の目を気にするのです。どちらも両立することはできません。人の目を気にしたら、神の目を気にすることはできません。そして、人の目を気にしたら、いのちの泉から水が湧き出ることは無くなるのです。

 我が家にも井戸を掘りましたが、電動ポンプが働かないと水が出続けることはありません。それでも水脈があるから出るのです。泉は、ポンプが無くても湧き出ます。イエス様は言われました。「わたしが与える水を飲む者は誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命への水が湧き出ます。」(ヨハネ4・14)。更に、イエスは立って大声で言われた。「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7・37.38)。


4月13日 生き様は死に様。  創世記50414 

新改訳 創世記50:4 その喪の期間が明けたとき、ヨセフはパロの家の者に告げて言った。「もし私の願いを聞いてくれるのなら、どうかパロの耳に、こう言って伝えてほしい。

50:5
私の父は私に誓わせて、『私は死のうとしている。私がカナンの地に掘っておいた私の墓の中に、そこに、必ず私を葬らなければならない。』と申しました。どうか今、私に父を葬りに上って行かせてください。私はまた帰って来ます、と。」

50:6
パロは言った。「あなたの父があなたに誓わせたように、上って行ってあなたの父を葬りなさい。」

50:7
そこで、ヨセフは父を葬るために上って行った。彼とともにパロのすべての家臣たち、パロの家の長老たち、エジプトの国のすべての長老たち、

50:8
ヨセフの全家族とその兄弟たちおよび父の家族たちも上って行った。ただ、彼らの子どもと羊と牛はゴシェンの地に残した。

50:9
また戦車と騎兵も、彼とともに上って行ったので、その一団は非常に大きなものであった。

50:10
彼らはヨルダンの向こうの地ゴレン・ハアタデに着いた。そこで彼らは非常に荘厳な、りっぱな哀悼の式を行ない、ヨセフは父のため七日間、葬儀を行なった。

50:11
その地の住民のカナン人は、ゴレン・ハアタデのこの葬儀を見て、「これはエジプトの荘厳な葬儀だ。」と言った。それゆえ、そこの名はアベル・ミツライムと呼ばれた。これはヨルダンの向こうの地にある。

50:12
こうしてヤコブの子らは、命じられたとおりに父のために行なった。

50:13
その子らは彼をカナンの地に運び、マクペラの畑地のほら穴に彼を葬った。そこはアブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買ったもので、マムレに面している。

50:14
ヨセフは父を葬って後、その兄弟たちおよび、父を葬るために彼といっしょに上って行ったすべての者とともに、エジプトに帰った。


 死なないでそのまま天に挙げられたのは、エノク・モーセ・エリヤです。「エノクは神と共に歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5・24)。一体どのように歩んだのか、考えようもありません。「主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。モーセが死んだ時は120歳であったが、彼の眼はかすまず、気力も衰えていなかった。」(申命記34・5-7)。モーセに対しては、神はもはや地上で歩むまでもないと使命終了で携えあげたのでしょう。「エリヤは竜巻に乗って天に上って行った。」(U列王2・11)。この人は壮絶な預言者の戦いを終えて、高齢の弱さを体験しないで天に招き寄せられました。イエス様がモーセとエリヤと話し合っているというのは、父なる神からの使者として、人間の歩みの罪深さと苦難を語り合うからでしょう。(マタイ17・3-5)。

アブラハムとサラは、聖書で初めて仲良く愛し合って過ごしたことが記録されている夫婦でしょう。サラがヘブロンで死んだ時、アブラハムは「サラのために嘆き泣いた。
」(23・2)とあります。そしてマクベラの畑地にある洞穴を銀400シェケルでサラの墓地のために買います。およそ銀5キロなので、現在の価格では50万円弱ですが、当時一つの村の土地を100から1000シェケルで購入した記録があるので、非常に高額な値を要求されたことになります。アブラハムは値引き交渉をすることなく、その地を購入します。愛するサラのために値引きはしたくなかったのでしょう。そして、高額な故にこそ、しっかりと人々の記録に残り、その後、アブラハム自身、イサクとリベカ、レアとヤコブも葬られる墓地となります(創世記49・31)。『アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」(25・8)。流浪のアブラハムは、墓地だけは正規に購入して自分のものにし、人々の記録に残るのです。

イサクもまた、大変な財産を抱えながらも流浪の生活を送ります。約束の地を与えられると預言されながらも、自分の代では実現せず、「イサクは息が絶えて死んだ。彼は年老いて長寿を全うして自分の民に加えられた。彼の子エサウとヤコブが彼を葬った。」(35・29)。相続された墓地だけが自分のものでした。

ヤコブもまた流浪の民で、飢饉の積み重ねで、家族だけになっているようです。出エジプト記1章5節を見れば、エジプトに行ったヤコブの家族は70人でした。ヤコブの長い人生は、苦労の連続でした。しかし、子どもたちに見守られながら、「ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。」(49・33)。ヤコブの葬儀は、軍隊を率いた荘厳なもので、マクベラの畑地はエジプト式に「非常に荘厳な、立派な哀悼の式」(50・11)が撮り行われました。

信仰の偉人とされる人々が、それほど幸せな生涯を送っているわけではありません。私自身は、現代のキリスト教が「祝福された人生を送る」という理想を求めていることに違和感を抱いています。「祝福されていないのは罪を犯しているからだ?」などという考え方が多いのです。

 イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれをうしない、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです。」(マタイ16・24.25)と言われました。祝福を求めるならば、十字架をわざわざ負うことは難しいのではないでしょうか。


 先週の玉手さんの洗礼式は素晴らしいものでした。若い時に夫に死に別れ、二人の子どもを育てることは辛く苦しいものだったと語っていました。嫁さんに、「迷惑ばかりかけて御免ね。」と詫びる姿は、確かに罪を告白し、救いを得ている美しいものでした。子どもと伴侶4人、孫と曾孫9人に囲まれて、喜びのうちに洗礼式を上げられました。

 先週は妻の咳が止まらず、世通し咳と呻きだったので、夜中に足をさすってあげました。やせ衰えた足は冷たく、死にゆく病人のようで恐ろしさを覚えました。それでも日中は診察を続け、夜はまた咳が出てかわいそうでした。昨日は、私が疲れ果て、今度は妻が身体をさすってくれました。「あなたも疲れるから、もういいよ。」と言うのに、時間を掛けマッサージしてくれたので眠ってしまいました。妻とは、福音のために十字架を負って歩む同労者です

 確かにいろいろな面で祝福され、豊かになってきました。でも、だからと言って、苦労が無くなったわけでも、十字架が軽くなったわけでもありません。そして、この十字架から逃げたら、福音のために重荷を負うことをせず、楽な道を歩んだら、祝福と恵みがなくなり、苦労だけが残ることはわかっています。ペテロがローマでの迫害から逃げようとするアッピア街道の松のもとでイエス様に出会い、「クオ バディス ドミネ(主よ、何処へ)」と聞くと、「あなたがわたしの民を見捨てるならば、私はローマに行って再び十字架に掛かろう。」と答えたそうです。ペテロは、ローマにもどり、逆さ十字架に掛けられて死にました。その後のキリスト教の発展は、逃げることなく、十字架に掛かったペテロの歩みに基づいています。

 苦労の続いている方に「主はいつもあなたを見守り、共に居られます。」と伝えたいのです。「神の民に加えられる」ためには、私たちも、自分の十字架を負って生きる必要があるのです。苦労を嘆いてはいけません


4月20日 復活は恵み、十字架は使命。  Tコリント11729

1:17
キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
1:18
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19
それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20
知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
1:22
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24
しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1:25
なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
1:26
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。


 キリシタン大名としては高山右近が名高く、その人徳は他の大名や領民にキリスト教への帰依をもたらしています。むろん戦国大名ですから殺戮はしているのですが、主君荒木村重の信長への謀反の際には、右近が降伏しなければ宣教師とキリシタンを皆殺しにするという信長の脅しに対して、城主を辞し家族を捨てて紙衣1枚で信長の前に出頭したりする潔さを見せています。秀吉のバテレン追放令に対しては、信仰を守ることと引き換えに領地と財産を捨てています。しばらく小豆島などに隠れ住むけれど、前田利家に招かれて小田原征伐にも加わり、政治や軍事そして築城の相談を受けています。しかし、家康のキリシタン国外追放令によりフィリッピンに渡りますが、直ぐに病死しています。かれにとっては信仰が第一だったのでしょう。

 さて、私の好きな黒田官兵衛は、右近や蒲生氏郷らの勧めでキリシタンになり、シメオンと言う洗礼名を受け、大友義統(よしむね)や小早川秀包(ひでかね)、息子の黒田長政を洗礼に導いています。しかし、1587年のバテレン追放令では、直ぐに棄教していますが、実際はキリシタンや教会を守っていますし、1604年の京都での死の前に、「神の子羊」の祈祷文を持ってくるように命じ、博多で壮大なキリスト教式の葬儀を行わさせ、長政に領内のキリシタンの庇護と寄付を命じています。2年後には、官兵衛の記念聖堂が建てられ、宣教師たちが荘厳な式典を行ったそうです。

 復活祭礼拝に、キリシタン大名の話をするというのも奇妙かもしれませんが、先週の死に様の続編とも言いましょうか、どちらが十字架を背負って生きたかの顕著な例になるかと考えました。高山右近の場合、真摯で清く、立派なクリスチャンでしょうが、個人的な信仰の面が強く、簡単に妻子や財産立場を捨て、神に従うという潔さを持っています。日本のクリスチャンは、このような傾向が強く、信仰が個人的な面が見られます。

 他方、黒田如水(引退後の名前、ヨシュアにちなんだとも言われる。)は、国と権力の状況をよく見極め、決して負けることなく、家臣と信者を守り、あわよくばキリスト教国にするために権力を握ろうとしていたように思われます。つまり、自分の使命に生きたのです。秀吉も家康も大勢を見極めて動く人間として如水を恐れ、大きな領国を与えなかったようですが、彼はその野望が無理だと悟ると引退し、領内の民を守ることに関心を置いたようです。隠居屋敷には身分の低い子どもたちも入れて保護し、決して怒らなかったとのことです。私には、彼のほうが十字架を背負って生きたように思われます。

 さて、一体誰がキリスト教信仰を持ち、救われるのでしょうか。「自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。」(21)とあるように、説得や奇跡など人間の努力や方便によって救われるものではありません。

 「十字架に付けられた神の子を宣べ伝える」というのは、社会的に見たら愚かなことで、それで教会は御利益や祝福を伝えようとしてしまいます。
牧師の31年の中で20年間は奮闘努力して伝道してきましたが、誘ったり助けたりして教会に来てもらった人々は、結局は問題を起こし、信仰が成長しないで教会を離れていきました。牧会伝道の限界と自らの弱さを悟り、「成果を求めるよりは自ら十字架を負って生きれば十分」と覚悟してから、却って教会が成長してきました。

 高山右近は、日本の福音化に失望してフィリッピンに渡ったのではないでしょうか。如水は、やるだけやったけれど、無理だと悟ったら、自分にできることをしようと信者や宣教師を守ったのです。自分の思い通りになることを神に願い、断食や早朝の祈りで必死な信仰生活を守ることが十字架であると考えている場合があります。それを否定はせず、そういうことも大事だと思いますが、長くは続かないものです。韓国のキリスト教を見ているとそのような極端が見られます。民族性でしょうが、日本人があまり極端な信仰を持つと、日本では驚かれ感心されますが、追随する人は少ないでしょう。

 「自分達は愚かになって神を信じるのだ。」として極端な信仰を奨励するのが今日の聖句のように思われることがあります。しかし、この聖句は、「神の子は罪人のための犠牲として十字架に掛かってくださった。」という、罪を認めない人には愚かである福音の本質を述べているのであって、それを立派な内容にしてはならない、ということなのです。教会は、現世利益を語るよりも、私たちが真理を知り、罪を悔い改めて神のところに立ち帰ることべきことを語ることが必要なのです。

信仰生活に関してはしっかりとした土台に立って確実に生きることが大事であって、そうでなければ狭き門から入る少数の人々を探して福音を宣べ伝え続けることなどできないのではないでしょうか。

 医療の現場でも自分勝手な要求をする人も多くおりますが、そういう人に失望していては医療や福祉などはできません。福音伝道も、クリスチャンがこの世で信仰に生きるということも、思い通りになることを期待していては失望するばかりです。十字架に掛かる覚悟をされたイエス様は、立ち直ることを人間に期待するのではなく、全ての咎と罰を自分で引き受けることをされたのです。

 如水の晩年は、穏やかな生涯であったようです。十字架を覚悟するということは、思い通りにならない人生を覚悟し、人々の咎が自分に振り掛かることを覚悟し、ある場合には、そのために自分が死ぬことをも覚悟することではないでしょうか。負けたり死ぬように見えて、勝利があれば幸いです。そうでなくても、神の国では、永遠のいのちを得て生きるのです。それは間違いのない復活です。


4月27日 死者の弔いと復活。  ヨハネ1938209

ヨハネ19:38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。

19:39
前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。

19:40
そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。

19:41
イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。

19:42
その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。

20:1
さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

20:2
それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」

20:3
そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。

20:4
ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。

20:5
そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。

20:6
シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、

20:7
イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。

20:8
そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。

20:9
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなか
ったのである。


死者の葬儀の方法は、その民族・国・地域の宗教性・伝統・人生観・世界観が端的に現れるものとして興味深いものです。ある唯物論者が「人間は死ねばゴミになる。」と言いましたが、その娘が病で死ぬ間際に、「お父さん、私が死んだらゴミになるの?」と尋ねられて、絶句したそうです。

 身近な者の死は、別離の悲しさと遺体が腐敗する恐怖の中で、人に死生観を形成させました。
日本の仏教では、33回忌を経て、死者は祖先としての霊になると教えられ、葬祭というものが家制度と結びついて社会規範とされてきました。現在では、一人っ子の長男長女の結婚などもあり、家の墓としての継承は破綻しておりますが、それでも地方では先祖礼拝とも相まって、養子縁組などが未だに残っています。死ぬことを「鬼籍に入る」とも言いますが、恨みをもって死んだ人が鬼となって祟るとされて、先祖崇拝の強要をしながら、親族の結びつきと服従を確保する制度維持の手段とされてきました。

 世界的に宗教心の強い地域とその構成員ほど、葬儀を厳しく執り行っています。そして、地獄の教えが、その戒律の厳守と結びつくのです。つまり、死後の恐怖と、死者の崇りへの恐れが、葬儀と結びついているのです。

 イスラム教もキリスト教も厳格な地域は土葬ですが、近代化が進むと火葬が許容されるようになってきます。アメリカなどでは、宗教に関わらず、葬儀社が一切をシステム的に担当し、儀式だけをその属する宗教の聖職者に任せるようになり、それは生前に宗教とは関係なかった人も含む、形式的儀礼になっているようです。つまり、アメリカやヨーロッパなどの先進諸国では、宗教があるとしても、現世的な交流と、誰でも神の国に行けるという考え方を強調する傾向があるのです。宗教が功利的になり、霊界をパワーの源として教え、死後の恐怖を取り除くのです。そこでは、復活祭もイースターのお祭りとなり、復活の教えも万民に共有されるような誤解を与えているのです。

 イギリスなどでは、全て葬儀社が執り行い、遺体は完全燃焼されて灰になり、墓に埋葬することも少なくなり、葬儀に20名以上参列することは少ないとのことです。既に宗教は廃れ、科学が宗教に代わっているのでしょう。それは、日本でも同様のことで、葬儀が形式的儀礼となり、多くの部外者の参列で近親者の悲しみが慰められないものとなっています。

 日本のキリスト教葬儀においても、アメリカ由来の葬儀社主導が見られ、親族以外の多数の参列により、仏教と宗教的違いがあるだけの形式的儀礼になりつつあります。他方、葬儀を伝道集会化して、ここぞとばかりに悔い改めと天国への勧誘を促して、参列者に辟易され、遺族の慰めにもならない事例もあり、死者を弔うという葬儀の意味がないがしろにされています。

さて、聖書に戻りますと、アリマタヤのヨセフは、イエス様の弟子でありながら隠していたのを、葬儀への責任を意識して、遺体処理を申し出ました。ニコデモも、社会人、指導者として、人の死に対しては放ってはおけないと、関わってきました。彼らにとっては、イエス様の死によって大騒ぎは終わったと思ったのでしょう。

 マグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母マリヤは、ヨセフやニコデモがきちんと遺体処理をしたのだけれど、安息日が始まろうとしているので急いでしたことが気になり、日曜の明け方に墓に来ました。それは遺族としての悲しみであり、死者の弔いをする愛情でもありました。

 他の弟子たちは、イエス様の死を悲しむけれど、ただ死んだという事実を受け入れ、それに順応して生きようとするだけでした。むろん、イエス様に従っていたので、捕縛され罰を受けるのではないかという恐怖もありました。

 人が死んでも、それは運命で、遺族への儀礼を果たしたら、また自らの生活を営んでいく。そして、社会の罰や人の攻撃を避け、社会的な務めを果たした上で、祖先の墓も守っていく、そのような日常が弟子たちにも再び訪れるはずでした。

 しかし、イエス様は、よみがえられたのです。
それは、先祖礼拝とか、死を悼むとか、霊界とか、崇りとか、そんな思惑を超えた超自然なことでした。イエス・キリストを信じて永遠のいのちを受けるならば、先祖礼拝もないのです。死は悲しみではないのです。崇りや悪霊などは、神の主権の確認の前には、何の恐れもないことです。

 従って、確かに魂の救われたクリスチャンの葬儀とそうでない人の葬儀とでは、全く内容が異なります。前者にとって天国への凱旋であり、後者にとって裁きの始まりとなります。喜びのことであり、死者によっては恐ろしいこととなります。

牧師としては、後者の葬儀をどのようにすれば良いのか、宗教的儀礼としての葬儀を、悲しみのものとして執行するしかないのでしょうか。一般論的な葬儀のあり方としては、死者を弔い、その死を悲しみ、遺族に対して慰めをする儀式となります。Tコリント15・29の意味は、福音派の牧師にとっては難題ですが、死者のために執り成しの祈りを出来るとすれば、それは葬儀の大きな意味合いとなると思います。

キリストが死から復活されたので、信者にとって死は喜びです。福音が現代の多くの場所におけるように、この世における功利的なものであるならば、死は哀れなものです。そして、私たちの「信仰は虚しく、自分の罪の中にいる」(Tコリント15・17)ことになります。しかし、「キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(Tコリ15・20


5月4日 救いの後、何をするか。  ヨハネ21112 
新改訳 ヨハネ21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。

21:2
シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

21:3
シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

21:4
夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

21:5
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

21:6
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

21:7
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

21:8
しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

21:9
こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

21:10
イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」

21:11
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

21:12
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。



ヨセフは、家族がエジプトに来た時に、自分達が「家畜を飼う者です。」と言うように指導し、そうすればゴシェンの地にエジプト人とは離れて住むことができると教えました。エジプト人に忌み嫌われる職業であるとしても、そうすれば自分達だけの生活圏を確保することができ、牧畜に適した所で落ち着いて暮らせるからでした。

 羊飼いと言えば、イエス様がお生まれになった時に、御使いが知らせたのは羊飼いたちだけでした。「地上で御心に適う人々」は羊飼いだけだったのでしょうか。信仰が個人的なものであるとすれば、どのような職業でも良いのかもしれません。しかし、信仰は個人的なものではありえないのです。高山右近と黒田官兵衛のキリシタン信仰の違いをお話しましたが、個人的信仰色の強い右近は、家族や周囲の人々の犠牲や困難を考慮するよりも、自らの神との関係を重視しました。官兵衛は、自分の信仰を主張するよりも、形式的な棄教を示しても、実際は領内においては宣教師や信者を庇護して、自らの最後はキリスト教的な葬儀を成し遂げているのです。

 キリスト教会では、職業選択の最低限の条件として礼拝が守れること、と教えています。そして、不道徳な職種ではないこと、その他多くの条件を守ることを教えています。非常に戒律的です。私の神学校時代では、学生寮内に必要最低限の物以外の持ち込みを禁止され、当時のラジカセや音楽を聞くような機材はご法度で、服装も黒の服などでジーパンやカラーシャツなどはあり得ないものでした。神学校で学ぶのにも関わらず、「勉強しすぎると信仰がおかしくなる。」と祈りと伝道だけを身につけるように指導する牧師もいました。私の正教師試験では、牧師以外の職業には付かないよう念を押されました。牧会に専念するのが最善な道とのことでした。私はその場で、それが正しいとは思いません、と返したのですが、試験は通りました。当時は、クリスチャンが映画を見に行くことは健全ではなく、教会にギターはおろかピアノも不適切という牧師がいました。牧師になって10年ほど経って、如何にして信者を酒やタバコから切り離すかという話し合いがもたれ、私が「そんなことどうでもいいではないですか。」と言うと、厳しく咎められました。

 オードリー・ヘップバーンの「尼僧物語」では、医師の娘の主人公が恋人への思いも断ち切って修道院に入り、戒律を身につけてコンゴの病院で奉仕します。彼女の仕事ぶりを信頼した外科医は「君は世間の人間や患者には理想的だが、修道院が期待しているような尼僧にはなれない。」と言われ、その後ベルギーに呼び戻されて病院で働きます。ドイツ軍に父が殺されたのを知り、葛藤の末に還俗して反ナチの働きに入っていくのでした。

 ヘップバーン自身も、女優業が生活費を稼ぐためには都合が良いというだけだったようで、「妻となっていろいろな心配事を夫が引き受けてもらえるのは、ととも素晴らしいことです。」とコメントしています。プロテスタントで、40歳で女優業を辞め、二人の息子を育て上げた後は、ユニセフの仕事に従事したようです。尼僧物語のシスター・ルークそのものかもしれません。

 さて、聖書に戻りますが、弟子たちは復活の主に出会い、自らの罪深さを自覚して途方に暮れてしまったようです。年長のペテロが、ぼんやりしていてもしょうがないとして、「漁に行く。」と昔の仕事に戻ろうとすると、他の弟子も同調します。あまり気が乗らないので何も取れませんでした。イエス様が現われ、「舟の右側に網を下ろしなさい。」と言われるので従うと大漁となります。「舟の右側」というクリスチャンの雑誌に妻の記事が大きく載ったのですが、その出版社には、「こうすれば祝福される、成功する、という趣旨の雑誌名は健全ではない。」と難癖を付けました。嫌な人だと思ったことでしょうが、広告の支援は続けています。

 私としては、イエス様の現れは、弟子たちに食事を食べさせ、使命としての生き方を教えるためであったと思います。その後にイエス様は、「わたしに従いなさい。」と言われています。十字架を負って社会に生きることがクリスチャンの使命であり、成功することや祝福されることではなく、祝福は単なる結果であって、十字架を負ってペテロは非業な最期を遂げているのです。

日本の教会が、信者に対して戒律的な生活を生き、礼拝を守り、教会に奉仕することを第一に求めていることに違和感を持ちます。他方、マックス・ウェーバーのように世俗職業の充実を神からの召し(コーリング)とするのは、いささか無理があります。私は、職業だけを神からの使命とは思いません。

祝福を求めることではなく、職業を熱心に果たすことでもない、それでは、信仰者はどうしたら良いのでしょうか。指導者の賜物がある人は一部であり、知恵がある者も一部、勤勉な者も一部、真面目が良いとも限らないし、熱心が良いとも限らない。

聖書は、「思いあがらず、神がおのおのに与えてくださった信仰の量りに応じ、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、それをしなさい。」(ローマ12・3-6)と教えます。そして、「この世と調子を合わせない。」「神の御心を探る。」「心の一新によって自らを変える。」「神に献げた供え物としての人生を送る。」(ローマ12・1-2)と指導するのです。

私自身は、引退後、浪江町への移住を考えています。この世と調子を合わせない計画を考えています。心が躍るような計画ですが、身体の強化が目下の最大課題です。


5月11日 母を怒らせると怖い。  創世記27617 

新改訳 創世記27:6 リベカはその子ヤコブにこう言った。「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。

27:7
『獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、主の前でおまえを祝福したいのだ。』

27:8
それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。

27:9
さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。

27:10
あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」

27:11
しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。

27:12
もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」

27:13
母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」

27:14
それでヤコブは行って、取って、母のところに来た。母は父の好むおいしい料理をこしらえた。

27:15
それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、

27:16
また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。

27:17
そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡した。



大和ハウスの夫婦物のCMが面白い。夫・またどうでもいいことで喧嘩した。妻・どうでもいいと思っていることが既にだめ。夫・俺が悪いの。妻・謝ればいいと思っているの。夫・歳とっても大事にしてあげない。妻・蹴っ飛ばしちゃうかもしれない。夫・いいさ、その代わり俺より長生きしろよ。・・・夫・自分の家の前で家を見上げる。妻が後ろから来て腕に抱きつく。・・・喧嘩をしてもお互いを大事にしているほのぼのとした様子がテレビ画面からわかります。

夫婦というのは、お互いを気遣い合うことができないと、うまくはいきません。私などは、「黙って俺について来い」というタイプの傲慢な人間でしたが、「ハイ」という妻が従って来ていると思ったら、別なことをしているうちに道に迷っているのであわてて戻って、妻の手を引いている・・・そんな人生でした。いつの間にか、先に歩くのが面倒になり、手を繋いで、歩みを遅くしたら、そのほうが楽なことに気が付いたというところでしょうか。

夫婦でも犬猿の仲になると大変です。夫が紳士でなければ、妻が淑女になることは難しく、妻が淑女でなければ夫が紳士になることもない、と思います。外面が良くて、紳士淑女に振舞っても、夫婦が互いに労りあうことがなければ、外面如菩薩内心如夜叉になってしまいます。これは一般的に、女性のことを言います。女性を怒らすと怖いと、世間では言っています。

 さて、今日の聖句では、母リベカのヤコブへの愛として多く語られますが、私には、ここまで母親を怒らせたエサウのことが気になります。子どもを差別し、ある子を溺愛する母親もおりますが、信仰深く貞淑なリベカが、命を掛け、呪いをも身に引き受けて、このような行動を取るとは、よほどのことです。

 私には、妻の母だけが生き残る親なので、精一杯大事にしたいと考えていますが、最近は義母からともかく誉められます。親から誉められるということは、人生に意義を感じさせ、うれしく幸せになります。「あなたの父と母を敬え。・・・あなたの齢が長くなるため、・・・幸せになるためである。」(申命記5・16)とあるように、親を利用しようとか、意見や文句を言うのは論外です。妻は、親に甘えて育ったのであまり気にしていません。私は直ぐに「親を敬うならば、そのような要求や真っ直ぐな物言いはしないのではないか。」と注意を言います。私は9人目の年寄りっ子なので、自分が生を受けていることに関して、絶対的に親にありがたく思っておりました。また、老いた親の愛を十分に受け留めて育ったこともありましょう。

 親はどんな時に悲しむでしょうか。子どもの出来が悪く、要領が悪く、仕事も十分にできない、結婚もできない、孫がいない、礼儀をわきまえない、自分勝手だ、・・・このような子どもに対して、親は自分の子育ての失敗を感じ、悲しみは持っても、リベカのように怒ることはないでしょう。

それでは、リベカは何故、これほど怒ったのでしょうか。自分に呪いが掛かるとしても、このまま長男のエサウに、夫のイサクの祝福を注いではならない、と考えたのでしょうか。

 リベカの父も形としての信仰は持っていました。兄のラバンは、後にヤコブが共にいることによって祝福されています。「私が来る前はわずかだったのが、増えて多くなりました。それは、私の行く先で主があなたを祝福されたからです。いったい、いつになったら、私も自分自身の家を持つことができましょう。」(創世記30・30)と言っていますが、ラバンは14年ヤコブをタダ働きさせ、その後、区別してみてすべての祝福はヤコブの故であったことを知るのです。

 同様に、リベカも、父ベトエルや兄の働きと、アブラハムや夫イサクの働きへの神に祝福の違いを悟ります。そして、義父と夫の信仰の強さと誠実さを知り、神の祝福の秘訣を悟るのです。その信仰の故に、彼らは何をやっても栄えたのです。

 リベカは、エサウの妻たちの無分別さに「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。」((創27・46)とも言っています。長男エサウの無神経、粗雑さ、猥褻さ、ふしだら、そして信仰のなさに失望し、そのままイサクの祝福を注いだら、息子エサウの魂は滅びてしまうと感じたのではないでしょうか。次男ヤコブは、母親思いではあるけれど、信仰の筋が入っていないので、たとい争いが起こっても、強く育って欲しい、という思いがあったのでしょう。そのような神の直系イサクの妻としての魂の叫びが、「神が呪うとしたら、その呪いは全て、私が受ける。」と真の神への信仰告白をしたのです。

 「あなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩むと言ったが、今や、―主の御告げ―絶対にそんなことはない。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」(Tサムエル2・30)。これは、祭司エリが二人の息子に信仰をしっかり身につけさせなかったことに対する神の怒りであり、この日のうちに、息子ホフニとピネハスは死ぬことになります。

 聖書の中で、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」として自己顕示をされます。エジプトの王パロをも祝福した大ヤコブこそイスラエルは、このような母の力強い信仰によって育ったのです。そして、母が悔い改めを願ったエサウは、結局のところ、歴史から消えていくのです。エサウは、妻たちが父と母の気に入らない理由と考えていたようですが、そのような無作法な妻を放置し、更に親族から妻を選ぶことによって気に入られようとしたエサウは、やはり的を外した生き方をしていたのです。無作法で不信仰な嫁は、母の苦しみであり、そのような妻にしたのは、夫であるエサウの無分別であったのです。


5月18日 


5月25日 希望がなければ主が見えない。  ルカ福音書241332
ルカ24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。

24:14
そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。

24:15
話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。

24:16
しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

24:17
イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。

24:18
クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」

24:19
イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。

24:20
それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。

24:21
しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、

24:22
また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、

24:23
イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。

24:24
それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」

24:25
するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。

24:26
キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」

24:27
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

24:28
彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。

24:29
それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。

24:30
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。

24:31
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

24:32
そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」



エルサレムからエマオまで十一キロであったというから、歩くと三時間以上は掛かるでしょう。イエス様の弟子であった二人は、主の復活の話を聞いても信じられず、たわごととして受け留めていました。復活について、「話し合ったり、論じあったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らと共に道を歩いておられた。しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」それだけでなく、二人の顔つきは暗く、イエス様が話しかけても、わからなかったのです。この二人は、イエス様の行いと教えの力強さも説明していますが、結局は十字架に付けられて死んでしまったと言います。復活の報告も聞いているのに、信じられないと伝えるばかりでした。

 イエス様が顔を隠していたのでしょうか。彼らがイエス様の顔をしっかりと見ていなかったのは間違いないでしょう。彼らは、問題ばかりをしていたのです。

 『カンブリア宮殿―社長の金言』という本を読みました。村上龍という小説家が番組の中で出会った三〇〇人以上の社長たちは、苦労の質が違うと書いています。日本社会においては、苦労という言葉は我慢と同義に使われることが多く、「じっと耐える」という意味合いをもちます。しかし、この社長たちは、「嵐が過ぎ去るのを待つというような受動的な人は一人もいなかった。彼らは、浸食を忘れて困難に立ち向かっていく。絶対に逃げない。また、その過程で多少の失敗があっても、決して外部環境のせいにしない。弁解をする人は、誰ひとりいなかった。だからこそ、困難の中で、失敗と成功を繰り返しながら、核心的なことをつかみ取る。そして、それは、借り物ではない、自分の言葉として、彼ら自身に刻み込まれる。」と書いています。

 人生の主人公は自分です。どのように生きるかは、自らの判断によって決まります。

この二人の弟子は、イエス様の教えも行いも参考として捉えただけした。そして十字架の死で、イエス様についての情報収集と分析は終わったのです。復活という報告は、常識外なので、そのような報告をする仲間たちへの批判として情報処理をしていたのです。

現代でも同じように、新聞を読み、テレビを見て情報を集めて、いろいろなことを知っていても、今日何をするか、何をするべきかを判断できない人が多いのです。そして、例えば、イエス様の十字架とか復活という大事件に関しても、じっと経過を見ながら、情勢を判断し成り行きを見て、何をしようかと考えながら何もしない人が多いのです。実際に、自分の身に不幸が降りかかっても、他の人の対応や政府などの指導を受けながら、状況判断をしているうちに、命を危うくしてしまうのです。福島の放射線への対応や、韓国船の沈没を見ても、即座の判断が命を救うのです。

福島でも飲むべきヨウ素剤を指示待ちのうちに時機を失してしまった自治体も多い中で、勇気ある指導者は服用を指示しています。私自身も、かなり多くの人にヨウ素剤を渡しました。また、かなりの具体的行動をしました。

 祈っているという人がいますが、本当の祈りは行動を促すものです。祈っていないと状況判断と逃げ、そして暗い否定的な思いに満たされ、イエス様に出会ってもわからないのです。

 「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(Tコリント8・1-2)「私はイエスキリスト、すなわち十字架に付けられた方の他は、何も知らないことに決心したからです。・・・私の言葉と私の宣教とは、説得力のある知恵の言葉によって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。(Tコリント2・2-4)。

 聖霊に満たされないと、自らの人生を生きることはできません。信仰者であるかどうかわからない社長たちでも、逃げないで困難に立ち向かって行きましたが、状況分析や知識があっても、スピリットが逃げ腰では人生という戦いには勝つことはできないのです。

 イエス様と三時間も話しながら、誰であるかがわからない程、否定的な気持ちmになるとはよほど異常です。「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」と振り返りながら、パンを取ってイエス様が祝福して渡すまで気が付かなかったのです。

 彼らには、自らの人生への希望がなかったのです。イエス様の教えも、行いも、力ある業も、十字架も、復活も、自分中心な人には意味をなさないのです。

 私たち夫婦は、三二年前、お金も仕事も住まいも知り合いもなく千葉に来ました。願いは、福音を広めることだけでした。今でも、その思いは夫婦共に変わりません。困難と失敗ばかりであり、イエス様に申し訳ないと思い続けて来ました。いつの間にか、経済も仕事も住まいも祝福されてきました。それも、全て福音のために利用するためのものでしかありません。

 娘夫婦は、教会もクリニックも直ぐには継げないと申し出て来ました。神の御心はわかりません。引退宣言も撤回せざるを得ません。また後継者がどうなるかも、主に委ねるばかりです。しかし、福音の為に生きる道に変わりはありません。「神がすべてのことを働かせて、益として下さることを、私たちは知っています。」(ローマ8・28


6月1日 祈りに専念して聖霊に満たされる。  使徒の働き1314
使徒1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。

1:4
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

1:5
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

1:6
そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

1:7
イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。

1:8
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

1:9
こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

1:10
イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

1:11
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

1:12
そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

1:13
彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。

1:14
この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。



先週、私が聖霊のバプテスマを受けた時のことをお話しました。船津牧師と内村サムエル師が長い時間私の頭に手を置いて、これでもかと祈って下さいました。私の方は、神への信仰告白と受け入れられたことは、聖餐式で体験したのですが、まだ洗礼も受けていないので、長い祈りに迷惑を感じていました。 その長い祈りの中で自分の罪深さ、自己中心が聖霊によって示され、罪の告白をして、明確な救いと聖霊のバプテスマを同時に体験したのでした。

 その後、私が救いに導いた藤田兄の受霊のために祈る時、受けたらよいな、などと考えながら祈っていたのですが、なかなか受けません。そして、人の為に中途半端な気持ちで祈る不忠実さを示され、悔い改めて必死に祈ると同時に彼が受霊しました。友人の浅木兄が洗礼を受けるということで、交際をしていた悦子さんが腹を立てて牧師に文句を言っている時に、階下の講壇で必死に祈っていました。自分よりも神を大事にするなんて知らない、と悦子さんが怒って2階の部屋を出た声がしたので、主よ、と叫ぶと同時に、彼女は階段を転げ落ち、悔い改めて主を信じ、同時に洗礼を受けることになりました。

 金沢教会では、毎月一回徹夜祈祷会があり、夜中の10時〜朝の5時まで、2時頃の小休止とお茶がある以外は祈り続けるものでした。教会員は30名位はいたのでしょうか。2回の説教以外はともかく何時間も大きな声で異言で祈るのです。船津師と一緒に山の上で祈りに行った時は、夜道を歩いてガマガエルをふんずけ、こちらが驚いたほどです。その後、自分の力の弱さを覚えた時は、ゴザを持って金沢区の山の中で祈ったものです。金沢教会の祈りの訓練は凄いものでした。祈祷会も大声で異言で祈り続け、火曜の祷告会には、長老の柴田兄が米軍の資材係の重職にあるのによく来て祈っており、良子さんも欠かさず祈っておりました。月曜以外の朝6時からは早朝祈祷会があり、良子さんは来ていました。私は大学生の祈り日の金曜に来ていました。

 神学校時代は、毎日の昼断食と共に、祈祷室で祈り、そのまま眠ってしまい、授業に遅れたことも度々でした。木曜の伝道部早朝祈祷会には、朝5時に家を出て祈祷室で祈っていました。神学生は競うように祈り、隣の祈祷室の女子学生の祈りは凄いものでした。同級の神戸師や山田師らは、勉強よりも祈りに力を置いていました。

開拓伝道を初めてからは、夜10時から一人で祈って会堂を求めていると、「求めるならば真剣に求めなさい。」という迫りを聞いて、そのまま10日間の断食祈祷に入り、7日目に断食の最中に稲毛パレス3階の借入交渉をしたのでした小児マヒの小倉姉の癒しを求めては15日の断食をし、癒されないので20日に伸ばし、更に21日に伸ばして、必ず癒される確信が与えられ、本人と昭二兄を読んで夜中に祈り会をしたのでした。何か問題が起こると断食をして祈り、そして心臓を悪くしたのでした。

教会成長研修所の最中に痛風発作が起こり、歩くこともできないあり様でも研修に行き、ピーター・ワグナー師や有名な牧師先生方に祈られても癒されず、それでも涙を流しながら祈り、殉教を覚悟したこともあります。痛風の酷い時に神学校に講義に行き、昼食で弓山師の前で、痛風がひどいので口が開かないので失礼しますと、食事を呑み込んでいたことを思い出します。要するに、死んでも祈るような毎日でした。

 9人兄弟の末子の甘ったれが、長い祈り、断食の祈り、夜中の祈り、神に叫ぶ祈りで霊性を強くしていったことを思い起こします。心の中に恐れがあると祈りました。祈りは霊の戦いです。祈りは御国の扉を開ける鍵です。

 「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」エペソ6・18

「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」ローマ12・12

「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」マルコ14・38

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」マタイ6・6

「あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」ヤコブ5・16

 来週はペンテコステの日、聖霊待望会があります。聖霊のバプテスマtとは、神ご自身が力を与えることです。残念ながら、自分の考えや主張の強い人は、聖霊のバプテスマを受けることは難しいようです。悔い改めて、神の前に出て、自らを神に委ねることが大事です。

 祈祷会に参加する習慣を身につけましょう。7時半から20分を個人の異言の祈り、20分を課題の祈り、20分の説教、20分の声を出しての請願の祈りを持っています。祈りなく、考えることは時間の無駄です。短い祈りは、神に願いを言うだけで終わってしまいます。長く、声を出して祈ることを身につけましょう。


6月8日 心を刺され悔い改めた。  使徒の働き23243 

使徒2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

2:33
ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

2:34
ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。

2:35
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』

2:36
ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

2:37
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。

2:38
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

2:39
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

2:40
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。

2:41
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

2:42
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

2:43
そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。



 イエス様は種まきの例えで、神の国の教えと信仰を妨げるものを説明されました(マタイ13章)。道端に落ちた種は、福音が伝えられても、種が芽を出す程の土壌がなく、直ぐに他のものに奪われてしまう心のようであり、そのような浅薄な人が世の中にはいることを示しています。

 岩地のような心とは、福音を喜んで受け入れるけれども、信仰生活の中で困難や迫害、嫌なことがあると、直ぐに躓いてしまう人のことです。信仰生活というのは、聖書では教会生活のことで、自分一人で聖書を信じ、神を信じていても、それは信仰者とは言えません。教会に集うと、礼拝に出て自分には耳の痛いことも聞かなければならないし、献金も奉仕もしなければならないし、そして嫌なタイプの人とも出会うこととなります。その上に、伝道もして、人々に自分の信じる信仰を伝えるということをするということ、そのものが信仰生活なのです。

 茨の生えている心とは、信仰生活は送っているけれども、「この世の心遣いと富の惑わし」があって、御ことばをそのまま信じ従うことのできない人々のことです。この世の心遣いとは、信仰だけでは生きていけないとして、仕事・家族・友人・生活上の不安その他に追われて、信仰生活を疎かにする人です。簡単に言えば、理由があれば礼拝を休む人です。富の惑わしとは、献金の出来ない人です。人にも与えることができない人です。ただ、茨の中では、その後も生きているのです。前2者は枯れてしまうのですが、この世の心使いと富の惑わしに妨げられながらも、どうにか信仰生活は保っているのです。ところが、実を結ばないのです。実を結ぶ信仰というのは、茨を突き抜けなければならないのです。神ご自身に、心を注ぐことがなければならないのです。

 草木の手入れをすると藪蚊に刺されます。蚊は、風に弱いので木陰を好み、蜜や果汁を吸い、動物の血を吸います。ゴキブリも、木陰を好み、夜に活発に活動します。害虫というものは、太陽を嫌い、蟻や蜂などの益虫は太陽を好むようです。人間も、隠れた罪をばらされたくない密かな思いを持っていると、害虫のように藪の下で生きるようになります。

 私は神を信じない人々の暮らし方をよく知っています。彼らは、嫌なものは嫌、好きなものは好き、そして自分の思い通りに生きたいのです。信仰生活というのは、最も嫌なタイプの人を変えようとは思わず、その人の権利とあり方を承認して、自らは神の前に生きることです。昨日の粟屋先生の結婚式で司式者が赦しについてお話されました。三浦綾子さんが夫の背広をクリーニングに出したら、店員が盗んでしまったそうです。怒っている綾子さんに、光世さんは許してやるように言ったら、綾子さんは更に怒ったそうです。光世さんは、「赦しということは、相手が罪を犯した時でなければ、出来ない事なんだよ。」と諭したそうです。クリスチャンの生き方は、人の罪を赦すということが、他の人と違うのです。

ペンテコステの日に、人々はクリスチャンが聖霊に満たされて大胆になっていることを見ました。それで、人々は太陽に当てられたように、自らの罪を意識したのです。彼らは、「世の心遣い」ではなく、「世の罪を明らかにした」のです。

 「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ3・10.11

 水のバプテスマは、罪を認め悔い改めて、救い主を信じた者が受けられますが、それは神の国に入るための必要条件であり、十分条件ではありません。つまり、どのような罪を犯そうが、悔い改めて救いを信じるということが、少なくとも神の国に入る時に必要なのです。

 聖霊のバプテスマは、人が授けるのではなく、マタイの聖句にあるように、イエス様ご自身が与えてくださることで、聖霊に満たされることです。水に全てが浸ることが必要なように、私たちの存在をしっかりと聖霊に任せることが必要なのです。そして、イエス様がその確認をされなければ、聖霊のバプテスマは受けられないのです。

 そして、聖霊のバプテスマも、聖霊に満たされるための必要条件ですが、十分ではありません。異言の祈りを続けて、自分の心や思いを聖霊に委ねることを保たなければなりません。

 私自身、異言の祈りを続けなければ、この世の思いに囚われ、否定的な気持ちや批判的な思いが心を占めるようになります。富や欲の惑わしに捕われそうになります。聖霊のバプテスマを過去に受けたということでは、聖霊に満たされません。絶えず祈らなければ、とても、平安と喜びに満たされることはなく、霊の戦いにも負けそうになります。そして、祈らない人々が、批判的・攻撃的な思いに支配され、いつしか崩壊していくことを知っています。怒りや欲望があなたの心を占めるのは、相手が悪いのではなく、あなたが聖霊に満たされていないからです。


 


6月15日 神をあざむき罪を犯すと。  使徒の働き5111 
新改訳 使徒の働き5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、

5:2
妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

5:3
そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。

5:4
それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

5:5
アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。

5:6
青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。

5:7
三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずにはいって来た。

5:8
ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です。」と言った。

5:9
そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」

5:10
すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。はいって来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。

5:11
そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。



悪人が栄え、義人が試練に遇うことは多いものですが、そのような現実に対する考え方と判断で、私たち自身のいのちが左右されて来るものです。よくよく注意して自分の心を見張らなければなりません。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。偽りを言う口をあなたから取り除き、曲がったことを言う唇をあなたから切り離せ。あなたの足の道筋に心を配り、あなたの全ての道を堅く定めよ。右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。」箴言4・23-27

 罪を犯している人や偶像に捕われている人、そして欲望に左右されている人は、なんとなくわかるものです。昔は、それがわかっていながら、単に執り成しの祈りを漠然とすることが多かったのですが、結局のところ、その人は破綻していっています。現在は、しっかりと悔い改めるように祈っていますが、直接には言いません。聖霊なる神が働いてくださっているのを感じますが、頑固な人は、それに応じないで、悔い改めの機会を逃してしまいます。罪や欲というのは、本当に怖いものです。批判的な人、怒り易い人、自己管理のできない人、世間や社会の動向が気になる人、誠実でない人は、やはり誘惑に陥り易いようです。だからこそ、箴言にあるように「心をしっかりと見張らないといけない。」のです。

 ヤコブは、父や兄を騙した狡猾な人として評価する人が多いのですが、それではイスラエルという称号をもらった偉大な信仰者として、その成長と誠実さを見ていないように思われます。聖研では、娘ディナが族長ハモルの子シェケムに辱めを受け、それでも高い花嫁料でも払うから嫁にしてくれと申し出る彼らを、シメオンとレビが騙して、その町中の男を殺害したことを学びました。ヤコブは二人を戒めるのですが、興奮する彼らは父の言葉を聞こうともしません。創世記49章に、ヤコブが息子達に預言するのですが、それは的確な性格分析と将来の子孫に及ぶ歩みと神の祝福を示しています。

 シメオンとレビに対して、ヤコブは「わが魂よ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らの集いに加わるな。彼らは怒りに任せて人を殺し」と、息子との決別を宣言し、「呪われよ。彼らの激しい怒りと、憤りとは。私は彼らをイスラエルの中に散らそう。」と厳しい警告を預言しています。シメオン部族は、結局ユダ部族の中に吸収されますが、レビは悔い改めた部族として献身し、自らその相続を放棄するものとなっています。

 私たちの仕える聖書の神は、「義によって世界を裁き、公正をもって国民に裁きを行われる。」(詩編9・8)方であることをダビデは知っていました。しかし、ダビデ自身は、性的な誘惑には弱かったようで、それが家庭の崩壊と国家の崩壊をもたらしてしまいました。黒田官兵衛は、当時の社会でも妻一人だけを愛していたのです。これは、家族を守ることを神ご自身に依存していた証拠です。

先週のNHKの放送でもあったように、一人子と自らの命があり得ないような奇跡で守られました。そういうことを神の介入と言うのです。もし、官兵衛に側室がいて、他の子どもを産ませているようならば、神は彼を守ってはいないでしょう。そのように世の常識や判断で生きる者には、信仰というものは持ちようがないのです。神も祝福はなさらないのです。自分を守り、正当化するために出まかせの嘘を言う者を、神は祝福することはできないのです。

 私どもの社員で3人のクリスチャンが不正を犯しました。私は、わかっていたので執り成しの祈りをしていましたが、決して自ら過ちを正すこともせず、悔い改めもしませんでした。皆、人生に破綻を帰しています。一人は未だ悪あがきをして、移った先で市会議員に立候補するようですが、当選しても真の幸せは得られないでしょう。

 韓国社会が混乱頽廃していますが、神に対して特別扱いをするように自分と家族の祝福だけを祈り、正しさや公正性をなくしてしまった韓国キリスト教界の責任もあるように感じています。神に自らの成長や成功を願い、自らの心を吟味することなく、信仰を利益獲得の手段にしようとする信仰姿勢が嫌いです。キリスト教会にも、クリスチャンにも、そういう人は多くいて、信仰の破船に遇っています。

 アナニヤとサッピラの夫婦は、バルナバが自分の財産を処分して教会に献げたのを見て、名声と権力を得ようとして真似をしました。実際には、代金の一部を自分たちに遺して置いたのですが、全財産を献げたように偽ったのです。ペテロは、その偽りに気が付き、神や人を欺こうとする愚かさの悔い改めを迫りました。二人とも、別々に欺いていながら、それを否定するので、二人とも急に死んでしまいました。

 私の妻のような者でさえ、しばしば誤魔化しや言い訳をし、時には嘘を言います。私は、神の権威の代行者として、それに悔い改めをさせます。もし、私がそれを放置していたら、妻は神の祝福を失い、私も自ら罪を犯すような者になるでしょう。女の頭は男であるとは、女の罪を赦して罪を犯させないように指導する責任を男に与えられていることだと思います。男のかしらはキリストであり、私たち男性は、自らの罪と誘惑について、キリストの前に赦しを請い、悔い改める責任があるのであるのです。それを家長と言います。男性と女性は、神の前では平等ではなく、それは罪許す権威を男性が与えられているということです。指導者も、神の前の悔い改めと赦しを宣言する責任と権威を与えられているのです。


6月22日 神に付くかこの世に流されるか。  使徒の働き23647
新改訳 使徒2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

2:37
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。

2:38
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

2:39
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

2:40
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。

2:41
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

2:42
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

2:43
そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。

2:44
信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。

2:45
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。

2:46
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

2:47
神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。


「ノア 約束の舟」という映画が一般上映中です。世界が人間の堕落で暴虐に満ちているのを神がご覧になって、大洪水で滅ぼすという聖書のストーリーです。このような映画が製作されるのは、確かに社会が堕落して危険になっていることの自覚があるからです。

 日本社会ほど、現代の危険性や末期症状に気が付いていない国はないかと思います。ブラジルのワールドカップの開催中にも関わらずデモやテロは起こり、世界中で日中でも強盗や殺戮やレイプが行われています。中国や韓国が日本を執拗に批判しているのは国内問題を隠すためであり、共に経済危機があり、道徳的にも政治的にも頽廃しているからです。繁栄を誇ったカルフォルニアも経済破綻をしているように、アメリカは貧富の差の激しい危険な国になり下がっています。世界の治安を守ってきたという自負は、中東をはじめとするイスラム圏の敵意の的となっており、いつ原爆や化学物質を含めた大規模なテロがアメリカに起こっても不思議ではありません。国家予算の破綻により、サイバー攻撃にも対応できなくなっており、その隙を狙って、テロリストが入り込んでいるのは間違いありません。欧州も、移民や経済格差によって治安が破綻しており、安心して住める国ではなくなりつつあります。そして、世界で共通することは、性道徳の頽廃です。

 現代は、知識と富が神のようになっています。そして、その目的は快楽です。まるで晩年のソロモンのようであり、ソロモンが快楽と知識の故に救いを失ったように、クリスチャンにも誘惑となります。テレビは、時間つぶしの馬鹿騒ぎが人気のようです。AKBなどの人気投票に多くの時間を掛け、一喜一憂するのは、日本が平和だからでしょう。それは、話題の「軍師官兵衛」などを見ても、ただ見るだけでは同様です。つまり、現実に生きる力を養い、実行することが大事なのです。社会は、働いて金を得、そして快楽に費やす、という、人間の本来の姿から離れた生活様式を強くしています。そして、関心はセックスを含めた快楽の確保となっています。

 私は、それらの根源は、進化論の定着と信仰の頽廃だと思います。人間がアメーバ―のようなものから進化した結果ならば、神はいないことになり、弱肉強食は大事な規範になるのです。そして、より優性な異性を求め、自分の子孫を残そうと闘争することになるのです。もはや道徳は、成功者になるための手段のようになり、人を騙し犠牲にしても勝ち残ることを求めるのです。韓国のフェリー事故などは、その縮図です。

 人間は、本来罪人ですから、神がおられるということを信じなければ、そのような生き方をするものです。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記6・5)。「主は、その御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現わして下さるのです。」(U歴代16・9

キリスト教を信じていなくても、義を求め、道徳心を保持して生きる人はいるものです。しかし、絶対神の存在を信じなければ、自己満足なものとなり、精神修養に過ぎないものとなります。

 一流の科学者でも、半数は絶対神を信じているようですが、宗教者でも半数は絶対神を信じていないように思います。「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。・・・主は天から人の子らを見下ろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。」(詩編14・1-2)。ダビデの凄さは、王となり、快楽と権力に酔いしれたことがあっても、神の前に悔い改めることを続けたということです。

 私自身、言葉は拙くても、このペテロのように神の奇跡と救いの道を大胆に語り続けたとは思います。私は、初めての礼拝説教で魂が救われ、人生が変わりました。他の人も、真実を語れば、そのように救われると考えていたのですが、一人の人が救われ、キリストの弟子になっていくことがこんなに困難なことだとはわかりませんでした。

 その理由は、悔い改めがきちんとしていないことにあると思います。悔い改めとは、自分の存在を否定し、神のものになるという決心です。救われてから、ゼミや部活動では、全く付き合いが悪くなり、酒も飲まなくなったので攻撃避難されました。礼拝を守るといっても金沢教会の場合、朝から晩までですから、非常に厳しかったのですが、それも守りました。信仰者として筋を通すために、職業も選びましたが、結局牧師しかありませんでした。妻との結婚も、神からの使命のように考えていました。伝道の難しいと言われている千葉に来たことも、その後の教会形成の苦労も、伝道者としては当然なことと考えていました。魂が救われた以上、どんな苦労もそれに匹敵することはないと考えていたからです。

 「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」(Tコリント1・18)。

 人を惑わすものは多く、この世はサタンの支配下にあると言います。神を信じ、従うか否かは、私たちの側の神への応答に掛かっています。ともかく、私は神を信じ、神に従ってきました。「もしも、主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあながたがの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいるエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようとおもうものを、どれでも、今日選ぶが良い。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24・15


6月29日 


7月 6日 免疫力を付けた人生。  ヘブル人への手紙12214
ヘブル12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

12:3
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

12:4
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。

12:5
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

12:6
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

12:7
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

12:8
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

12:9
さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

12:10
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

12:11
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

12:12
ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。

12:13
また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。

12:14
すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。



最近、コマーシャルで除菌スプレーの広告が多く、抗菌製品も売れています。確かに、クリニックでも除菌治療をしていますが、それは真菌(カビ)の除菌であって、最近の全般を除くのではありません。カビでさえも、チーズやみそを作り出すのに用いられるので、細菌を嫌うように仕向ける宣伝広告には気をつける必要があるでしょう。

 人間の免疫機能は6割以上が腸管免役にあり、その腸管免役というのは、赤ちゃんが産まれる時に産道で大腸菌などに触れる時に発現するのだそうです。つまり、免疫とは、病原菌や毒素、異物など異物を自己の体内に関知した時に排除しようとする生体防御システムです。免疫力は、病原体を関知する度に獲得免役として強くなっていきます。そういう面では、最近は衛生に気を付け過ぎて、免役力が弱くなっていることが問題となっています。例えば、外国に行って、現地の人々には何でもない食物や水が、日本人には下痢や発病に至ることも最近は多いようです。ワクチンなども生涯免役とならない場合もあり、小さい時に掛かってしまったほうが良いという人もいます。

 さて、私は、最近の傾向として、教会だけでなく社会一般に、嫌な人・性格の悪い人・障害者・問題を持った人などとは付き合わず、なるべく良い人々・能力のある人々だけと付き合いたいという傾向があることに危惧を持っています。無菌室のように、少しでも問題が起こると、それを避けて問題のない生活を求める人々がいるのです。そのように育てられた結果、問題を持った人や悪人だけでなく、異種な人に対しての対応能力がなくなって、パニックに陥る青年たちが多いのです。問題や障害のない人などいないので、もし自分自身に問題や弱さがあることが分かったら、そのように育てられた人々は、ノイローゼや自殺をしてしまう恐れもあります。自分自身を排除してしまう自己免疫疾患に陥ってしまうのです。(実際の自己免疫疾患の人々のことを避難しているのではありません。)

 私の子どもの頃は、クラスにいろいろな人がいました。小さい時から英才教育を受けると、自分と同じような人々のことしかわかりません。商人ですから家にはいろいろな人々が来ました。嫌な人や異常な人、全く違う生活をしている人々に対して、両親はそれぞれに対応していましたが、微妙に違うのを私は感じていました。決して、敵対はせず、批判もせず、愚痴も言いませんが、私が嫌な人だと思う人に対して、やはり微妙に違いました。

 教会も開拓期にはいろいろな人が来て、私の子ども達と接しました。現在、子ども達が、対応能力を持ち、どんなに敵対行動をする人に対しても、うまく対処しているのに感心をしています。私は、嫌な学校の教師に対しても、「あんな人間もいるけれど、躓く方が損だから、気にするな。」と諭していました。PTAなどで、嫌な教師をヤリ玉に挙げる母親がいますが、そういうふうに批判ばかりしていたら、子どもはどう育つのか心配でもありました。

 さて、イエス様は、神の子なのに、悪人・罪人の仕打ちに対して、「忍ばれた」(3節)とあります。打ち負かして、悔い改めさせることもできたのに、辱めをものともせずに、忍ばれました。「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」のように、「この紋どころが見えないか。」と権威を嵩に、悪を懲らしめることをなされなかったのです。

 イエス様は、「父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ19・19)と言われました。「あなたの良い隣人を」ではなく、全ての隣人です。

 テキストの「主の懲らしめ」とはどのようなものでしょうか。父が子を懲らしめ、鞭を加えられるのは、子どもが強くなるためです。失礼ながら、母親では、子どもを強くするのは難しいでしょう。母親の愛と父親の愛は、性質が違っているのです。両方とも必要ですが、現代日本は、子育ては母親偏重であり、そのぶん強さと忍耐力のない、そして問題や攻撃に弱い人が育っているように思います。

 父は、子を懲らしめるのです。それは、世の悪に晒し、人の罪深さと強欲を知らせて、自らの弱さを体験させ、それでも人間は生きていけるのだ、神は守ってくださるのだと悟らせるためです。父親は、社会に力強く生きていけるように子どもを育てます。免疫力は、繰り返し病原菌や厳しい環境に晒されてこそ、強くなっていくのです。免疫力がないために無菌室にしばらく過ごすことがあっても、社会に生きるためには、少しずつ外部環境に慣らせて、抵抗力を強くしていきます。身体を強くするということは、悪や攻撃、そして難しい状況に慣れていくことです。神は、「ご自分の聖さに与らせようとして、懲らしめます。聖さを持った神は、人の罪や悪や弱さに動じることなく、御心を全うして人を愛します。

 戦いに慣れ、免疫力がついてくると、どんな時にも「平安な義の実」を結ぶことができるのではないでしょうか。


7月13日 免疫力を回復する。  ヘブル人への手紙1216節 

ヘブル12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

12:2
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

12:3
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

12:4
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。

12:5
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

12:6
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」


Uテモテ3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

3:17
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

免疫力とは、身体をウィルスや細菌などから守り、病気を引き起こさない力です。免疫力の弱い人は、同じ病気にも繰り返して掛かり、風邪なども引きやすいのですが、強い人は同じ状況でも病気になりません。また、体力も大事で、筋肉が付いていないと、骨が脆くなり、障害になり易くなります。災害や危機の時に、免疫力や体力の弱い人は対抗できません。「何も気にしないで生きているから大丈夫だ。」という楽観的な人がいますが、それは免役力が強いのではなく、認識力と自己管理能力が少ないので、却って危ない場合が多いのです。

 先週は、「免疫力を付けた人生」ということで、悪や罪を避けて生きるのではなく、そういうものと接しながら抵抗力を付け、聖さを保って平安な義の実を付けていくべきことの大事さをお話しました。免疫力の基本は、体力や腸内環境なのですが、その基本力を保持していない人が、悪や罪と直面するとたちどころに敗北して立ち上がれなくなってしまうのです。

 栄養療法で有名な医師が、太りむくんでいるのを見て、サプリは取っているけれども、運動はしていないと直ぐにわかりました。運動をすることは、筋肉を付けるだけでなく、血流を全身に促します。健康で力強い人生を生きる為には、それら全てをこなしていくことが大事です。先日、運動は苦手として家にこもっていた人が、背筋が弱いので、身体を支えきれずに椎間板ヘルニアになってしまいました。身体は痛めると、その後は大きな支障をもたらします。

 さて、霊的な免疫力の源は、聖書の御ことばです。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょう。あなたのことばに従って、それを守ることです。」(詩編119・9)。悪や罪から守られ、それらに感染しない為には、神の御ことばを自分のものとしなければなりません。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩編121・1)という御ことばによって、私自身はどれだけ励まされ、そして事実、助けを得ました。

 私にとって理不尽な仕打ちを受けた時、「あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」(Uコリント10・6)を読み、自らの不従順を悟らされて、人を攻撃することができませんでした。そして、確かに、神はその御ことばに従った私を守ってくださったのです。御ことばを知ることでは、力になりません。御ことばを自分のものとし、いつも口ずさみ、それに従わなければならないのです。自分勝手な信仰ではなく、神の御ことばに従う信仰こそ、世の悪や罪と戦っても負けない力を生みだすのです。

 第二に、霊的な体力とは、祈りの力です。朝の祈り、昼の祈り、夜の祈り、随時の祈り、請願の祈り、断食の祈り、そして祈り心、これらは筋肉を付けるためのトレーニングのように怠ると祈りの力が失せていってしまうのです。祈りが無くなると、信仰の背骨が支えられずに、毎日の生活にも支障をきたすようになります。

クリニックの取材も、祈りとそれに伴う献げ物に基づいていると考えています。真実な祈りは、御ことばに基づく行動を促します。「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取ります。・・・神は、あなたがたを、常に全てのことに満ち足りて、全ての良い業に溢れる者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかりに与えることのできる方です。・・・蒔く人に種と食べるパンを備えて下さる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(Uコリント9・6-11)。今、新しいビジョンが与えられようとしています。

 ガンというのは、その部分に十分な血液が供給されないと発生するものと基本的には考えて良いでしょう。讃美は信仰の血流を活性化させ、思い煩いを取り除きます。家庭には、讃美を流しましょう。霊性は、感情よりも上位のものであり、霊性が落ちると感情さえも支配して、悩みや苦しみをもたらします。霊性は讃美によって神の思いにまで引き上げ、現実の苦しみや弱さをも超越した喜びと平安をもたらします。

 黙示録2・5「あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」とあります。自分の中に喜びがなく、平安がなく、希望が失われて、世と世の悪に対抗する力がなくなっているのならば、自らを点検することが大事です。

 霊的な免疫力、体力、そして活性がないと信仰生活は、虚しくなり、信仰生活を保っていくことがむずかしくなります。そんな時に、悔い改める謙虚さが、御ことば、祈り、そして讃美がないと得られなくなり、霊的な死に陥ってしまうのです。


7月20日 自分の弱さを誇る。  Uコリント人への手紙12210  
Uコリント12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。

12:3
私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。――

12:4
パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

12:5
このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

12:6
たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。

12:7
また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

12:8
このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

12:9
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

12:10
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。



2回程、免疫力についてお話しましたが、精神的な免疫力は強さや弱さにこだわらずに、神に信頼して委ねて生きることに尽きるでしょう。最初にお話したことは、悪人や嫌の人との接点を持たないと、却って虚弱な信仰になってしまい、イエス様が悪人や不信仰者の攻撃を忍ばれ、「あなたの隣人を愛せよ。」と教えられたことから逃げてしまうことをお話しました。次には、聖書のことばと祈り、そして讃美によってこそ、この世の悪や試練に打ち勝って生きることができることをお話しました。

 ただ、弱者がしばしば陥りがちになる「今に見ていろよ。いつかは勝ってやるからな。」という負け惜しみ的に、天国に行くことを考えていてはいけないことはもちろんのことです。信仰生活は、他の人々との優劣や勝敗を考えることではなく、神や信仰の家族と共に生きることが大事です。もちろん、キリスト信仰は、欲望のままに勝手に生きる世の人々と比べれば忍耐や自制の必要が多く、求道的なものになることは事実です。ただ、いつも気になるのは、クリスチャン企業やクリスチャンの社会人の弱さです。なにかというと献金や助けを求め、自助努力というか、自らの競争力・活力がないのです。「天国に行く。」という約束手形をもらっているので、地上のことはどうでもよいのか、というくらいに弱弱しいのです。

 特に日本では、清め派のキリスト教が強かったので、「この世のことに執着しない」ことが尊ばれていたようです。それらの教派が現在殆ど勢いをなくし、繁栄の神学という傾向をもつカリスマ派の教会が伸びて来ました。その人たちは、マイナリティー(少数派)からの脱却を願い、祝福と成功を信仰生活に動機づけています。私には、そのような姿勢と考え方は聖書的なものとは思えなかったのですが、そのようなことを主張する牧師や教会員が自分の弱さや敗北を認めることができずに精神的な問題を抱えてしまうことなどから、繁栄の神学の不適切性が確認されるようになりました。

 腸管免役の研究で多くのことを学びました。当初は、腸管をきれいにするために腸内洗浄を試みましたが、これは100兆個もの腸内細菌を削除することで却って、不健全な腸内環境にしてしまうことを知りました。抗生物質の摂取の多さと長さが腸内細菌を殺してしまうことも知りました。2・1・7の比率で善玉菌・悪玉菌・日和見菌が存在することが大事であることを知り、驚きました。

私が悟ったことは、どんなに悪であっても、それを攻撃して削除・殺戮・排除するような思考は神の御心ではないということです。集団的自衛権、差別、原発問題、・・・政治家と国の判断、方向性が間違っていることは明らかですが、クリスチャン新聞などをみると、敵対的に断固として反対行動を展開し、霊の戦いに勝利するべきことが述べられています。若い時に、アジ演説をし、そのような敵対行動が嫌で信仰者になったのに、興奮して内閣や団体を批判攻撃する牧師や信者を見ることは、指導者としての自覚の無さに唖然とします。なぜ、福音と神を信じ、人を愛することを知った人々が、あのような攻撃的姿勢に出られるのか不思議でなりません。

毒麦の例えは、毒麦を抜き取ろうとする下僕に対して、「毒麦を抜き集めるうちに、麦も一緒に抜き取るかもしれない。」として収穫の時まで待つことを命じています。毒麦だと思っていた者も良い麦かもしれず、主は、その麦の性格が明らかになるまで待っていてくださるのです。(マタイ13・26-30)。「悪を憎み、善に親しみなさい。・・・誰に対しても、悪に悪を報いることをせず、全ての人が良いと思うことを図りなさい。自分に関する限り、全ての人と平和を保ちなさい。自分で復讐してはなりません。・・・善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12・9-21)。

 信仰というものは、誰もが神の国に行くまで、成長と聖化の途上にあります。今日の聖句を見ますと、パウロのように、知識と知恵が豊富で、教養も能力も豊かにある者が、自分の過去の強さに苦い思いを抱いています。主義主張と強く繰り返し、先輩のペテロをも非難攻撃することもあったパウロですが、次第に謙遜になり、自分の強さと能力を余分なものとさえ、思うようになるのです。大事なことは、キリストが働いて下さることなのです。

 先程のクリスチャン企業やクリスチャン社会人ですが、私には神の力を持ち臨んでいるようには思えませんでした。自分の弱さを認めるのは、諦めているからであって、「キリストの力が私を覆うために」という願いをもっていないのです。「敵に勝利したい、成功者になりたい、神の栄光をもたらしたい。」という願いはあるでしょうが、それをもたらすのは、自分の努力の結晶ではないのです。本当の勝利を得るためには、神に働いていただくしか、あり得ないのです。だからこそ、「自分の弱さを誇る」程に、期待を大きくする必要があるのです。期待や願いが少なく小さいならば、それに比べる自分の弱さは気にならないでしょう。「こんなに弱く小さく貧しい者が、神の栄光としての大勝利を起こす。」というならば、「弱さを誇る。」ことになるのです。

 「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の大いなる御名を誇ろう。彼らは、膝をつき、そして倒れた。しかし、私たちは立ち上がり、真っ直ぐに立った。」(詩編20・7.8.


7月27日 これまでも、これからも。 ローマ字への手紙1章17節<堀川 寛師>