1月5日 神はご存じでも、自らを悟れず。  Tコリント2416節 

Tコリント2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。

2:5
それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。

2:6
しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。

2:7
私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。

2:8
この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

2:9
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

2:10
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

2:11
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。

2:12
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。

2:13
この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。

2:14
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

2:15
御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。

2:16
いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。


年末年始に、私達夫婦のこれまでの歩みを振り返ってみました。アッセンブリー誌にも載り、多くの方々にも、称賛されるようになってきました。ところが、私たちは、格別に凄いことをやったような実感もないのです。ただ、「主に従ってきた。」というのが、感想でしょうか。思い出すと、凄いことの連続ですが、なぜ乗り越えられたか、勝利できたか、と言えば、やはり、「主の恵みだった。」としか言いようがないのです。

 パウロは大使徒と言われ、キリスト教の発展や展開は、パウロの働きによるところが大きい、と言われます。ところが、パウロに会ってみると、外見ははげ頭で足が曲がっており、背も低く、見栄えのしない様子であったようで、自らも3節に言っております。

 社会的にも、キリスト教界の中でも、知識や学識が問われ、弁舌さわやかなことが尊ばれています。しかし、パウロは、宣教の成果は、説得力のある知恵の言葉によって行なわれたものではない、単純かつ愚かに見える、十字架の宣言によるものであると、指摘するのです。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私達には神の力です。」(1・18)。

 実際、多くの信仰者が、例えば、説教の論理性や面白さに関心を示します。ところが、神の祝福というものは、聖書と神を信じて行なった者にだけ注がれます。日本人クリスチャンは殆ど、雄弁かつ謙遜に、証しを伴う実際性を確保して伝道しようとします。しかし、そんな論証を示しても、神を信じて従う人が起こるかどうか、却って論理に頼るだけ、信仰を失ってしまうことが多いのです。単純に、「神を信じましょう。」と信じることを促すほうが、信仰者は生まれ出て来ます。それは、「信仰が人間の知恵に支えられず、神の力に支えられるためでした。」信仰や救いと言うものは、論理でも、知識でも、証拠でもなく、信じるか否かであって、非常に単純なものなのです。論理的に説明すると、論理的に反応するだけであって、信仰には至らないのです。

 「知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを虚しくする。」(1・20)として、「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。」(1・21)。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(8・1)。

 私達のやってきたことは、どんなことでしょうか。金も知り合いもいないのに、千葉に引っ越してきたことです。状況は全くまずいのに、子どもを産んできたことです。断食をするべきだと確認したら、身体を壊しても断食をしたことです。全くお金がなく、試練と困難が続いたのに、外部にも献金をし、人を助け、その人に裏切られ、攻撃され、それでも、信仰を続け、伝道を続けたことです。自分の弱さ、未熟さを指摘されて、その通りだと認めながら、神に祈り、叫び、助けを請い続けたことです。破産の危機があろうと、信仰者としての筋を通し、人には頼らなかったことです。成果がないことが続いても、馬鹿のように神を信じ便り、愚かなように人々のために働いてきたことです。神の栄光のために勝利者にならなければならない、絶対に負けるわけにはいかない、と、頑張り続けたことです。苦しいことばっかりだったのに、妥協をしなかったことです。

 むろん、妻なしには耐えられないような信仰者の生き方であり、妻もまた、私がいなかったら耐えられなかったでしょう。それでも神に従い、そして、敬虔を知り、未熟さを悟り、忍耐を身につけ、愛が形成されてきました。振り返れば感謝ばかりです。

 神の御心とこの世に関する洞察力は、神を信じない人には持ちようがありません。生まれながらの人は、世俗の目、欲望の目をもって社会と人生を観るので、神様の御霊がどのように世に対して働きかけているかを悟ることができません。

 昨年は、知人が数名罪を犯し、それでも言い訳を言い、悔い改めをしないことに衝撃と悲しみを味わいました。また、私という存在がなければ、大きな罪を犯したであろう人もおりました。神の前には、弁解も知識も、何にもならないことをわからなくなっているのです。

 神を信じ、信仰生活を送るということは、聖霊なる神の働きによらずしてありえません。ですから、御霊を受けている人は、わきまえることができるのです。ところが、意識的に罪を犯した人は、御霊が去ってしまったので、自らをわきまえることができなくなってしまうのです。

 自称クリスチャンでも、御霊が去ってしまった人は、いつも自慢話をし、罪について悟ることがなく、人を攻撃批判し、損得の基準で動き、神に自分を委ねるなどということは決してできません。心配や恐れで動揺し、神にではなく、金に将来を依存しています。その語る言葉は低俗で品位がなく、喜びや感謝の心がなくなってしまっています。当然、神を信じていない未信者というのは、そういうものです。

 真っ直ぐな言葉を表しましたが、それを聞いて神を信じる必要を悟った人は幸いです。結局のところ、世の中には、聖霊を受けている人と、聖霊が離れた人、そして、未だ聖霊を受け入れていない人がいるのです。

この年をどのように生きるか。計算や打算、目論見は灰塵に帰します。神を信じ、願いを訴えましょう。そして、人を助け、人を愛し、日々の為すべきことをしていたら、神の祝福を得ます。そして、振り返れば、神の恵みを知るのではないでしょうか。間違っても金の計算でやりくりしてはなりません。愛する人を失うことになるでしょう。


1月12日 人を愛する苦しみと悲しみ。  U列王記42637 
新改訳 U列王記4:26 さあ、走って行き、彼女を迎え、『あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか。』と言いなさい。」それで彼女は答えた。「無事です。」

4:27
それから、彼女は山の上の神の人のところに来て、彼の足にすがりついた。ゲハジが彼女を追い払おうと近寄ると、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠され、まだ、私に知らせておられないのだ。」

4:28
彼女は言った。「私があなたさまに子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」

4:29
そこで、彼はゲハジに言った。「腰に帯を引き締め、手に私の杖を持って行きなさい。たといだれに会っても、あいさつしてはならない。また、たといだれがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の顔の上に置きなさい。」

4:30
その子の母親は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」そこで、彼は立ち上がり、彼女のあとについて行った。

4:31
ゲハジは、ふたりより先に行って、その杖を子どもの顔の上に置いたが、何の声もなく、何の応答もなかったので、引き返して、エリシャに会い、「子どもは目をさましませんでした。」と言って彼に報告した。

4:32
エリシャが家に着くと、なんと、その子は死んで、寝台の上に横たわっていた。

4:33
エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。

4:34
それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。

4:35
それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。

4:36
彼はゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼んで来なさい。」と言いつけた。ゲハジが彼女を呼んだので、彼女はエリシャのところに来た。そこで、エリシャは、「あなたの子どもを抱き上げなさい。」と言った。

4:37
彼女ははいって来て、彼の足もとにひれ伏し、地に伏しておじぎをした。そして、子どもを抱き上げて出て行った。




シュネムに年老いた夫を持ち、裕福な女性が幸せに暮らしていました。彼女は、通りがかる預言者エリシャを接待し、食事を提供しました。そのうちに、エリシャが聖なる神の僕だとわかると、さらに屋上に部屋を作って、エリシャが休息のできるようにしました(4・8-10)。

 エリシャは、その女性の接待を喜び、何か願いがあるか、と問います。彼女は、自分は幸せなので、何もいらない、と答えます。エリシャが自分の従者ゲハジに、「彼女のために何をしたら良いだろうか。」と聞くと、「彼女には子どもがなく、それに彼女の夫も年をとっています。」(4・14)と答えます。それで、エリシャが彼女に、男の子を授かるだろう、と言うと、彼女は「このはしために偽りを言わないでください。」と怒るのですが、実際に子どもを産むことになります。

 ところが、大きくなった子どもが死んでしまいます。母親は、エリシャのために作った部屋に息子を寝かせて、誰にも息子が死んだことを告げずにカルメル山のエリシャのところにろばに乗って出かけます。カルメル山というのは、シェネムから26キロくらいの高さ525mの長く続く丘です。彼女を見つけたエリシャは、ゲハジを使いに送るのですが、彼女はゲハジに対しても息子は無事だと答えます。そして、エリシャを見つけると、その足にすがりつき、28節を言います。

 この女性がなぜ、エリシャを接待し、また、何も必要ないと、エリシャの問いに答えなかったのでしょうか。彼女が年老いた夫と結婚していたことと、神に仕える預言者への接待の様子から類推してみましょう。

 彼女は、家族に死に分かれ、苦労を重ねてきたのではないでしょうか。更に、弟が死んでしまったなどという悲しみもあったかもしれません。そして、やっと年齢の離れた男の後妻になって落ち着いたというところでしょう。しかし、家族の死などの不幸を体験してきた者にとっては、人を愛するということに、却って怖さを感じ、人との交流に期待を抱かないようにしてきたのではないでしょうか。凄いことは、決して不信仰な言葉を言わないということです。子どもが死んだことを決して認めないのです。

 他方、エリシャは12くびきの牛を一人で任せられる裕福な家の子で、エリヤの後継者に指名されると、2頭の牛を料理して両親と家族に振舞い別れの挨拶をしてから、預言者エリヤに従うような幸せに育った人でした(T列王19・19-21)。約8年間エリヤに従って、火の戦車と馬に乗って天に上げられたエリヤの後継者になります。エリヤの禿げ頭をからかった子どもたちを、主の名によって呪うと、彼らが熊に殺されてしまうという恐ろしい事件がありました。

 エリシャはおもに山に隠遁生活をしていましたが、60年もの間、イスラエルの政治と社会に影響を与え、弱者や貧しい者に味方になって、王やイスラエルの敵とも戦うのですが、この頃は、まだ若かったようです。信心深い優しい女性に対して、何らかの神の祝福を体験させたいと、簡単に祝福を宣言するのです。

悲しみや苦しみを多く体験すると、希望や願いを持たなくなることがあります。それでも彼女は、信仰を持ち、神に仕える聖なる預言者を心から接待しました。自分の心をさらけ出さない程度の誠実な奉仕精神です。

彼女は、子どもを持つことによって、自分の心を注ぎ、愛するものを得ました。彼女が恐れたのは、愛するものをまた失うことでした。しかし、それは、現世だけを考えるものであり、自分の心の中だけを考えることでした。神は、彼女の悲しみを知っているからこそ、愛する者を与えたのでした。

彼女は、神が生きているなら、決してこのまま子どもを死なせることはないと、神に迫るべく、エリシャを離さなかったのでした。そして、エリシャに子どもの所に来ることを要求します。エリシャに隠遁生活を許さなかったのです。親の愛は凄いものです。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。それは災いではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけ出すだろう。」(エレミヤ29・11-13

神を呼び求め、心を尽くして探し求めるようなことをしているでしょうか。多くの人が信仰を持っているけれど、修身と教養のような信仰姿勢を保っています。しかし、実際には、生きている限り、試練や苦しみ、悲しみはあります。人を愛そうとすると裏切られることもあるので、期待せず、希望を持たず、距離を置いて人と接しようとします。夫婦や家族でさえもそうです。

人を愛し、心や時間を注ぎ、それでいて裏切られ、嫌な言葉を受け、攻撃されたら、本当に嫌なものです。しかし、それでは、神を見出すことも、御心に沿った人生を送ることもできないのです。

8章を読むと、この後、エリシャは飢饉を逃れてペリシテの地に行くようにと、この女性に告げています。祝福を祈るだけでなく、その後の祝福にも心を配るようになっています。さらに、神は働いて、この家族が帰ってきた時に、全ての財産と土地を戻すように取り計らっています。

試練や人の裏切りに際してこそ、私達の真実な姿が現れてしまうようです。神には隠しおおせるものはありません。


1月19日 遊女ラハブの願い。  ヨシュア2315節 
新改訳 ヨシュア2:3 エリコの王はラハブのところに人をやって言った。「あなたのところに来て、あなたの家にはいった者たちを連れ出しなさい。その者たちは、この地のすべてを探るために来たのだから。」

2:4
ところが、この女はそのふたりの人をかくまって、こう言った。「その人たちは私のところに来ました。しかし、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。

2:6
彼女はふたりを屋上に連れて行き、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に隠していたのである。

2:8
ふたりの人がまだ寝ないうちに、彼女は屋上の彼らのところに上って来て、

2:9
その人たちに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。

2:10
あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。

2:11
私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。

2:12
どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。

2:13
私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」

2:14
その人たちは、彼女に言った。「あなたがたが、私たちのこのことをしゃべらなければ、私たちはいのちにかけて誓おう。主が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに真実と誠実を尽くそう。」

2:15
そこで、ラハブは綱で彼らを窓からつり降ろした。彼女の家は城壁の中に建て込まれていて、彼女はその城壁の中に住んでいたからである。




イスラエルの男だけで60万人、女や子どもを含めれば300万人にはなろうという大集団が40年もの荒野の旅を終えて、カナンの地に入るために、さらにわざわざヨルダン川を越えるということを為しています。私たちは、簡単に、早く、問題や苦労なく、物事を済ませてしまうことを願うものですが、神様の計画というのはそういうものではありません。人生の旅路も、長く、苦難が多く、簡単ではありません。それは、主なる神が「あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心の内にあるものを知る為であった。」(申命記8・2)のです。

 興味深いことは、そのイスラエル民族の大旅行の中で、エリコにいるカナン人の遊女ラハブの救出という、かなり異質な出来事でモーセの後継者ヨシュアによる占領が始まっていることです。二人の斥候が、ヨルダンを渡る前に送りだされます。その一人のサルモンという男性の名前は、マタイ伝1章に「サルモンにラハブによってボアズが生まれ」と書かれるまでは、ルツ記にあるボアズの系図を見ても、全くわからないのです。つまり、ダビデ王とイエス様の系図に、ラハブという異邦人の女性が入ることが、神の計画であったからこそ、この大周りの旅の、さらに難攻のエリコ占領の意味があるのです。

 ところが、もしこのラハブが遊女である自分を卑下し、イスラエルの神を信じ、救いを求めなければ、そのダビデの系図と救い主の系図は絶たれるのです。それでありながら、ラハブの救いと斥候の二人の救いも非常に危機一髪の状況であったことは、おわかりになると思います。

 二人の斥候がラハブの家に入ったことは、エリコの王に直ぐに通報され、兵隊が捜索にやって来ました。ところが、ラハブは、二人を匿い、逃がせるのです。ラハブは、神がエリコをイスラエルに渡されること、イスラエルが奇跡をもってエジプトから出てきて、反抗する王を打ち破っていること、エリコの住民が畏れおののいていることを斥候に伝えます。そして、イスラエルの神こそが、全地の神であることを告白し、自分の家族を救ってくれるように二人に誓わせるのです。

 殆どの人は、適切な判断と行動を取ることができません。神がおられ、世界を支配しておられることを悟ったとしても、神を信じる決心や行動を取ることをしないのです。イスラエルが超自然的な奇跡の連続で40年間旅を続けて来ても、そのイスラエルの中に加わり、神を信じるものとして生きる願いを持ったのはラハブだけだったのです。

 ラハブは、さらに賢い助言をします。城壁の中に建て込まれている彼女の家の窓から綱で彼らをつり下ろすだけでなく、追手の探索から逃れるために、反対方向の山に逃れて3日間身を隠すように言うのです。

 斥候も厳しい探索の中で必死な状況であり、ラハブも命掛けで彼らを救おうとしているのがわかりますから、神にある必死の誓約をします。「私たちはいのちにかけて誓おう。主が私たちにこの地を与えて下さる時、私たちはあなたに真実と誠実を尽くそう。」(2・14)。助かった斥候は、堅固なエリコの住民がイスラエルと神に対して、震えおののいていることをヨシュアに伝えます。指導者になったばかりのヨシュアは、その報告に力を得て、信仰によるカナン入国を始めるのでした。

 ラハブはなぜ、直ぐに、このような命掛けの決断と行動を取ることができたのでしょうか。

 イスラエルの話を聞き、その神のことを知って、ラハブだけが、神を信じたのです。彼女だけは、その神を信じ、その信仰の民の中に加わりたいと願ったのです。神が自分の祈りと願いを聞いてくださると信じたのです。だから、斥候は、神に導かれてラハブの家に入ったのです。そして、ラハブはイスラエルの斥候が家に入って来た時、自分の願いが聞き入れられたのを悟ったのです。

 しかし、それでも斥候を隠し、逃すことは命懸けです。だからこそ、エリコの王の兵隊も、そんな大胆なことを遊女がするはずはないと思い、ラハブの嘘を疑わなかったのです。嘘を言ってはいけない、などと安易なことを言う人がいますが、人を助けるため、守るためには、綺麗ごとを言ってはいられないのです。もし、嘘は付けないとしたら、斥候は殺され、ラハブはイスラエルの中に加われないのです。

 信仰生活というのは、命がけのものなのです。イエス様は人を救うために、枕するところもない荒野生活を続け、パウロも迫害や試練、難業苦行が続いたのです。自分の妻子を守り助けるために、人からの避難や攻撃を受けることくらい覚悟しなければなりません。破産や試練、評判を落とすことなど、覚悟しなければ、神を信じてその使命を果たすことは難しいのです。

 私自身、神を信じてから39年、試練と苦難の連続であり、必死の生活でした。昨年は、あまり試練らしいものがなく、自分の信仰的怠惰と堕落なのかと、神の前に自らを点検吟味しております。

 斥候の一人、サルモンは、誓いに従ってラハブを命掛けで守ろうとし、そして、二人は恋に陥り、結婚をしたのです。


1月26日 呪いに代えて幸せを。  Uサムエル16513 
新改訳 Uサム16:5-13

16:5
ダビデ王がバフリムまで来ると、ちょうど、サウルの家の一族のひとりが、そこから出て来た。その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た。

16:6
そしてダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけた。民と勇士たちはみな、王の右左にいた。

16:7
シムイはのろってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。

16:8
主がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに。主はおまえの息子アブシャロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいに会うのだ。おまえは血まみれの男だから。」

16:9
すると、ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。行って、あの首をはねさせてください。」

16:10
王は言った。「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたからだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか。」

16:11
ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。

16:12
たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」

16:13
ダビデと彼の部下たちは道を進んで行った。シムイは、山の中腹をダビデと平行して歩きながら、のろったり、石を投げたり、ちりをかけたりしていた。


ノアの洪水の後、神は、「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」(創世記8・21)と言われて、人の故に、地を呪うことをしないと誓われました。つまり、人への罰として天候異変や自然災害は起こすことはしない、ということです。しかし、その後、「人の血を流す者は、人によって血を流される。」(創世記9・6)と、罪に関する人間同士の報復を予測されます。更に、父の裸を見て嘲笑ったハムに対して、神は呪いを宣言します。道徳的に生きない者は、呪われるということです。

 私たちは、生きる中で、そのような神が定めた法則を守らなければなりません。高い所から落ちれば死んだり怪我をするように、定めを守らなければ、罰や呪いを受けるのです。

 「クリスチャンは何をしても、神の赦しを受ける。」として、平気で罪を犯す異常な論理と道徳感覚を持った人に出会ったことが何回かあります。「悔い改めれば赦される。」という神の救いの奥義を引用しての論理です。罪責感と倫理感の無い人が悲劇の人生を過ごすことは言うまでもありませんが、信仰と神の前での悔い改めというものがどういうものであるか、ダビデを例にして説明したいと思います。

 ダビデ王は、部下のウリヤの妻、バテ・シェバを見染め、姦淫を犯し、更に姦計によってウリヤを殺してしまいます。神は怒り、ダビデの人生に多くの試練を与えます。その一つに息子のアブシャロムがダビデ王の子アムロンを、実の妹の強姦の仕返しに殺すという大事件が起こります。ダビデは非常に愛情深い父親で、アムロンの死を悲しむのですが、アブシャロムを罰することはしません。しかし、甘やかされて育ったアブシャロムは、更に多くの罪と不道徳を犯し、ダビデに謀反を計ります。

 ダビデは年老いていたので、多くの民と兵はアブシャロムの側についたのですが、ダビデは息子と争おうとはせず、落ち伸びていきます。その際に、「もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいとを見せてくださろう。もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない。』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。」(Uサムエル15・25.26)と不幸を受け入れるのでした。

 「ダビデはオリーブ山を登った。彼は泣きながら登り、その頭を覆い、はだしで登った。彼と一緒にいた民もみな、頭を覆い、泣きながら登った。」(15・30)という光景は、全盛を誇ったダビデ王としては、ありえないような惨めな姿であったことでしょう。ダビデは、全ての不幸を自分の罪のせいであると、人々にばれるような姿で歩いたのでした。人への見栄や誇りを保とうとせず、神の前に悔い改めを示したのです。そのような惨めでみっともないダビデ王に従って歩く民と家来に向かって、前王サウルの一族のシムイが呪いながら石を投げつけて、今日の聖書の箇所を叫ぶのです。

 勝者にはへつらい、敗者には無慈悲になるのが、世の常なのでしょうか、人間の罪性というのは、そのように惨い行動にでるものです。失敗をした人や苦しんでいる人を助けようともせずに貶めたり、ミスをあげつらうことは、誠実な人のすることではありません。ところが、実際にはしばしばあることであり、私たちは弱者や敗者、そして障害者に対して、心無い行動と態度に出ることをよくよく注意しなければなりません。

 そのようにして、人間は自分の行動の中で、真実な姿が現わされ、神の前にも弁解しようのない罪性が、他人の罪と弱さが現れる中で、明らかになってしまうのです。「もし、人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。」(マタイ6・14)の奥義のとおりなのです。そのような惨めなダビデに従い、誠実を尽くす人がいるかと思うと、シムイのような悪意に満ちた言動を表す人もいるのです。

 ところが、ダビデは、そのシムイを殺そうとするアビシャイをなだめ、「ほうっておきなさい、彼に呪わせなさい。主が命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は今日の呪いに代えて、私に幸せを報いてくださるだろう。」(16・12)という謙遜と悔い改め、そして、驚くべき信仰を告白しています。悔い改めというのは、全ての不幸や不始末を受け入れることによって、証拠づけられます。「赦してください。」と神の前に悔い改めても、自分への災いを避けようとすることばかりの都合のよい信仰姿勢は、祝福へとは繋がらないのです。

 その後、王として凱旋してきたダビデの前に、シムイは倒れ伏して赦しを請います。そこではまたアビシャイが今度こそ、シムイを殺してしまおうと怒りますが、神の祝福の中で王として戻ったことを、怒りの中で処理してはならないと、ダビデは諌めます(19・16-23)。しかし、ダビデは自分が死ぬ時には、王に対して、そのような不埒な行動を取ったシムイへの罰を世継のソロモン王に言い残すのです(T列王2・8)。神の前の自らの行動と、王としての国を治める立場を使い分ける見事な指導者であり、信仰者でした。神からの祝福は、自らの過ちを認めるところから始まるのです。


2月2日 愚かな親の嘆き。  Uサムエル16513

Uサムエル18:31 するとクシュ人がはいって来て言った。「王さまにお知らせいたします。主は、きょう、あなたに立ち向かうすべての者の手から、あなたを救って、あなたのために正しいさばきをされました。」

18:32
王はクシュ人に言った。「若者アブシャロムは無事か。」クシュ人は答えた。「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者のようになりますように。」

18:33
すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」

19:1
そうこうするうちに、ヨアブに、「今、王は泣いて、アブシャロムのために、喪に服しておられる。」という報告がされた。

19:2
それで、この日の勝利は、すべての民の嘆きとなった。この日、民が、王がその子のために悲しんでいる、ということを聞いたからである。

19:3
民はその日、まるで戦場から逃げて恥じている民がこっそり帰るように、町にこっそり帰って来た。

19:4
王は顔をおおい、大声で、「わが子アブシャロム。アブシャロムよ。わが子よ。わが子よ。」と叫んでいた。

19:5
ヨアブは王の家に行き、王に言った。「あなたは、きょう、あなたのいのちと、あなたの息子、娘たちのいのち、それに、あなたの妻やそばめたちのいのちを救ったあなたの家来たち全部に、きょう、恥をかかせました。

19:6
あなたは、あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるからです。あなたは、きょう、隊長たちも家来たちも、あなたにとっては取るに足りないことを明らかにされました。今、私は知りました。もしアブシャロムが生き、われわれがみな、きょう死んだのなら、あなたの目にかなったのでしょう。

19:7
それで今、立って外に行き、あなたの家来たちに、ねんごろに語ってください。私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれひとりあなたのそばに、とどまらないでしょう。そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいでしょう。」


ダビデ王は勇者であり、賢明かつ力強い王でしたが、子どもに対しては、どのように対して良いか、わからなかったようです。信仰心の篤い人は、ともすれば、全てのことを神と自分との関係の結果とおいてしまうような、あまり適正とは言えない、対人関係を持ったり、行動をとってしまうことがあります。自分の内面を聖書と御心から探り、悔い改めることは大事ですが、他人の行動を、自分と神との関係の結果であると考えると、間違った判断を起こします。更に、人の心の内面を探ったり、裁いたりするのは行き過ぎであり、健全な人間関係を損ねてしまいます。

 それでも、親の考え方や性格、そして子どもへの対応は、子どもの人生を左右し、影響を与えることも事実です。聖書は、その面では子どもを生活の中心におくと、子どもが高慢になり、自分が世界の中心であるかのような考え方を身につけてしまうので、子供には訓戒をしっかりと与え、親に従うように教えています。子どもを愛するということは、非常な喜びではありますが、神に従い、人々を愛するように育てるには、難しいことです。愛するとは、愛されるように行動することであると何回か述べましたが、親は子どもに対して、可愛がり過ぎて子どもを自己中心にしてしまうことが多いようです。或いは、子どもを粗雑に扱っても、人を顧みない人間にしてしまいます。

 ダビデも、自分の罪と咎を意識すると、子どもに対して厳しく躾けることができないようで、妹を辱めたアムノンを罰することができず、その実の兄のアブシャロムの不信をかってしまいました。さらにアブシャロムがアムノンを殺しても、罰することができないので、アブシャロムの父に対する反逆を引き起こしてしまうのです。

 アブシャロムは、次第に高慢になり、反逆計画を周到に準備して、ダビデの諮問役のアヒトフェルも味方につけ、ダビデが反撃する暇もないうちに権力を握ってしまいます。ダビデ王に服する人々は、身近にいた者たちだけで、王は味方すると危害を加えられそうな人には、従うことを断って逃げのびたのでした。そして、先週のメッセージのようなことが起こります。

 アヒトフェルというのは大変賢い人で、バテシェバの祖父であるとのことですから、高齢であったのでしょう。アブシャロムに対して、王とは和解しえないような無残な行動を取らせます。孫がウリヤの妻として幸せに暮らしていたのに、ダビデ王の欲望で寝とられ、そしてそばめの一人となったのを恨んでいたのでしょう。まさか、曾孫のソロモンが王となるとは思いもよらなかったことです。

 戦争というのは王を打ちとれば勝ちです。アヒトフェルは、ダビデの体制が整わないうちに闇撃ちに精鋭でダビデを襲うことを助言します。しかし、ダビデから惑わすことを頼まれていたフシャイが、違う意見を言い、受け入れられると、もはやこれまでと、アヒトフェルは自害します。要するにアブシャロムのために働いたのではなく、ダビデが憎かったのでしょう。

私自身、会社を潰されそうになったことがあります。部長として信頼し、任せていた者が不倫をしそうになったので、注意をした時、その他の不正が幾つも明るみにでました。彼は、仕事が終わった後に、職員を食事に誘い、辞めさせて会社を潰し、自分が同じような会社を始めようと画策したのです。辞めようとしない者には、毎晩電話をし、脅したり、物を贈ったり、執拗に迫ったそうです。結果として7名が辞めましたが、数名が残り、私が何人分もの仕事をして会社を立て直し、その後の数年で業績を倍増させたことがありました。中小企業の社長というのは、そのくらいの力がないと続けられないものです。そして、彼の人生は破綻し、離婚や子どもとの確執が続いています。

 さて、今日のテーマは親の悲しみ、愚かさです。ダビデは、王位を奪い、自分を殺そうとしたアブシャロムを殺さないでくれ、と隊長や兵に願っています。アブシャロムは、騾馬に乗っていて、大きな樫の木の下を通り過ぎる時に、頭が樫の木の枝に引っかかって中吊りになるという、みっともないことになります。家来が助けなかったのですから、ダビデのような三勇士や三十勇士はいなかったのでしょう。ダビデの方は、将軍ヨアブが殺せと言っても、ダビデ王の命令があると言ってアブシャロムを殺さない兵がいるのですから、豪勇なものです。

 ヨアブは、アブシャロムを殺し、穴を掘って埋めてしまいます。ダビデ王は、息子の戦死の報を聞き、「我が子アブシャロム、ああ、私がお前に代わって死ねばよかったのに。」と嘆きます。

 北イスラエルは、アブシャロムに付き、その後の分裂とも結びつくことになりますが、その大軍と戦って勝ったユダ部族の兵に対して、戦勝を誉めることもなく、ダビデは泣き、敵の王の死の喪に服してしまうのです。これは、王や王に従った家来たちに恥をかかせることであり、家来よりも身内を大事にすることであり、戦いの労をねぎらうこともないことで、王としてしてはならないことでした。

 それでもダビデは、悲惨な目にあったアブシャロム、そして、自分の家族のことが、自分の罪の故であると自覚し、悔い改めながら泣き叫ぶのでした。一つの罪が多くの不幸をもたらします。男性も女性も決して不倫や罪を犯してはなりません。神の前での罪も、よく見極め、犯さないように心がけなければなりません。

 そして、子どもを甘やかしてはなりません。親に対して、不満や意見を言うような不遜な子どもは、人々の愛や好意を受けることはできません。子どもを愛することがどういうことかわからず、甘やかすと子どもを不幸にします。親は子ども中心に生きてはなりません。親の仕事と生活の中に、子どもを組み込むのです。その厳しさの中で子どもを十分に愛するのです。愚かであっては、子どもが身を滅ぼします。


2月9日 主なる神の前を生きる。  Uサムエル222133
新改訳 Uサム22:21-33

22:21
主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。

22:22
私は主の道を守り、私の神に対して悪を行なわなかった。

22:23
主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。

22:24
私は主の前に全く、私の罪から身を守る。

22:25
主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって私に償いをされた。

22:26
あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、

22:27
きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

22:28
あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。

22:29
主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。

22:30
あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。

22:31
神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。

22:32
まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神のほかにだれが岩であろうか。

22:33
この神こそ、私の力強いとりで。私の道を完全に探り出される。


ダビデは羊飼いでしたが、別に王になろうと思ったわけではないでしょう。

 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Tサムエル16・7)として、高慢になったサウル王の代わりに神に選ばれても、ただ、ひたむきに正義感にと神に対する真摯な信仰によって生きただけであると思われます。

 巨人ゴリヤテに対しても恐れず、「私は、お前がなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、お前に立ち向かうのだ。」(Tサムエル17・45)として、自らの信じる神に対する侮辱に対して義憤をもって、戦います。自分の能力や経験など全く考えずに、神に対する真摯な思いだけで行動しているのです。

 ダビデが歴戦を重ねても大勝利し、名声が高くなって、サウル王に嫉まれ、槍を投げつけられ殺そうとされても、自信をもって戦いに出向き、勝利を収めます。邪心や功名心、権力欲などがないからでしょう。王が娘メラブを妻として与えると言って、それを反古にしても気にせず、「私は貧しく、身分の低い者だ。」(Tサム18・23)として、ダビデを殺そうとするサウル王に忠実に従っています。

 何度もサウル王に追いかけられ殺されそうになりながら、その息子ヨナタンと親友になります。その友情は非常に麗しいものでした(Tサムエル20章参照)。友や親友を持てない人は、自分中心であるからであって、このような麗しい友情を持つには、自己犠牲を厭わない誠実な心があるからです。友情でも恋愛でも、相手に受け入れられる自らの誠実さが大事です。

 昨晩、妻に「戸を閉めることを忘れないようにと言ったのは、この34年間でおそらく1万回はあるだろう。」と言ったら、娘の前で嬉しそうに笑っていました。娘は呆れて、「お父さん、まだ1万回は言うことになるんじゃない。」と言いました。妻は、私の注意よりも、私が妻を愛している、という確信の方が強いのでしょうか、妻に対しての忠告や訓戒は、殆ど守られたことはありません。ともかく、妻に対して、自分が誠実であることは確かだと思います。『破れ鍋に綴蓋』と言いますが、破損した鍋でも修理する蓋があれば、どうにかなるということで、夫婦がうまくいくためには、お互いの欠点を繕い合う習性があれば、十分です。

 話はそれましたが、ダビデは、サウル王どのような虐げにも動じることなく、忠実であり続けたのです。相手に応じて、動向を変えたり、善悪を論じることは、その人自身の誠意が疑われるものなのです。親しい人の陰口を言う人は、友を失い、伴侶の悪口を言う人は、一生幸せにはならないものです。

 ダビデには、「困窮している者、負債のある者、不満のある者」(Tサム22・2)が集まってきて、その長となりました。400名のごろつきの親分になったわけです。しかし、その後の歩みは立派であり、部下は統率の取れた軍隊に仕上がった


2月16日 人生はオセロのよう、イエスは隅の白石。
新改訳 イザ 28:16-22

28:16
だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。

28:17
わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。

28:18
あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。

28:19
それは、押し寄せるたびに、あなたがたを捕える。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。」

28:20
寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。

28:21
実に、主はペラツィムの山でのように起き上がり、ギブオンの谷でのように奮い立ち、そのみわざを行なわれる。そのみわざは異なっている。また、その働きをされる。その働きは比類がない。

28:22
だから今、あなたがたはあざけり続けるな。あなたがたを縛るかせが、きつくされるといけないから。私は万軍の神、主から、全世界に下る決定的な全滅について聞いているのだ。


 オセロというのは、8×8の盤に白と黒の石を順番において、相手を挟むと自分の色に逆転するゲームで世界的にはREVERSIリバーシと呼ばれています。勝ち方としては、隅を取ると断然有利ですが、途中ではなるべく取る石を少なくし自分の色の壁を作らず、相手の中に入って挟むことのできる手を多くすることが戦術の基本です。勝利は64の石のうち、33個以上を取れば勝ちとなります。隅は、決して裏返しにされない場所なので、そこを確保すると非常に有利で、ハンデはそこに前もって置かせるようです。

 思いがけない話題から入りましたが、多くの人が目先の勝利に走ってしまうようですが、オセロ的思考というのは、非常にユニークです。途中では、なるべく勝たない、つまり多くを取らないようにしないといけないのです。そして、他の石と並ばないで、孤立して敵の中に入ると有利なのです。そして、大勝利を狙うのではなく、33個以上を取ることに徹するのです。

 イザヤは、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、マナセらの時代、約50年間預言者として活動しましたが、それはアッシリヤに支配された傀儡政権でした。北イスラエルは、信仰も出して淫らな偶像に仕えるものとなり、王権も移動して混乱の中でアッシリアに捕囚として連れて行き、代わりに他の国の人々をサマリヤなどに連れて来て住まわせました。それはイスラエルの王ホセアの時で、南ユダではヒゼキヤ王の時代でした。

 ヒゼキヤ王の時に、アッシリヤが攻めて来たけれども、打ち負かしていました(U列王18・7)。ところが、北イスラエルを滅ぼし、捕囚に捕え、アッシリヤの王セナケリブが攻めてくると恐れて、神殿の金銀を剥がして貢として送りました。そうすると、更にアッシリヤの将軍ラブ・シャケが攻めて来て、主に拠り頼むというユダの王を嘲るのでした(U列王18・19-35)。

 ヒゼキヤ王は、荒布を身にまとい、部下や祭司を預言者イザヤのもとに遣わして、「今日は苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。」(19・3)、として神への祈りを頼むのでした。

U列19:17 主よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。

19:18
彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。

19:19
私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」

その夜、主の使いがアッシリヤの陣営で18万5千人を殺した(19・35)とあります。そして、セナケリブは帰国した時に、異教の神殿で、自分の子に殺されたとあります。

 その頃ヒゼキヤも死病に陥るのですが、イザヤの祈りで癒されます。でも、調子に乗ったヒゼキヤはバビロンの王の癒しの祝いの言葉に喜び、その使いに神殿の中の様子と国中を案内し、見せます。異邦人を神殿に入れてはいけないことになっているのに、勝手な王の行動です。そして、神からバビロン捕囚の預言を受けても、自分の時代ではないことを喜ぶような始末です。結局のところ、神を信じるのは、自分の利益のためでしかないのです。

 このような信仰者の勝手な願いと祈りに対する神の答えが、今日の聖句なのです。公正や、正義を守らず、まやかしで生きる人々に対する神の裁きを、彼らは受けることになるのです。

 私は日本の人口の1000分の1しかいないクリスチャンの真実性にも疑いを持っています。多くの牧師や超教派の働き人が「リバイバルを起こす!」と言いながら、自分の利益と関心の中に生きてしまっています。家族を愛し、誠実な信仰者としての生き方を失っています。「信仰者が勝つ」ということに関心を持ち過ぎているのです。

 オセロの話に戻ります。勝とうとしてはいけないのです。列を為してはいけないのです。信者だけと交流してはいけないのです。未信者の中に孤立しても自分が白であることを明確にして、周りはどこも黒であり、神を信じていない人であることがわかるならば、働きは明らかとなるのです。

 私たちは、クリスチャン軍と未信者軍との戦いではないのです。周囲の人一人一人を丁寧に白にしていくために、自らが神の救いの中に生き、人に人生を180度代えていくことが大事なのです。

 周囲の未信者の中に入って、まったく違いがわからないようでは困ります。

 イエス様は隅のかしら石、決して裏返ることはないのです。イエス様のところまでもっていけば、全て白となるのです。人生、負けて負けて、敗北ばかり続いたほうが、最後に勝利になり易いのがオセロ的人生です。一つ一つの石の勝利にこだわらず、あなたの人生を主に委ねて、コツコツと白であり続けることが大事なのです。


2月23日 人生に悔いを残さない。  創世記48147-12
創世記48:1 これらのことの後、ヨセフに「あなたの父上は病気です。」と告げる者があったので、彼はそのふたりの子、マナセとエフライムを連れて行った。

48:2
ある人がヤコブに告げて、「あなたの子ヨセフがあなたのもとにおいでです。」と言ったので、イスラエルは力をふりしぼって床にすわった。

48:3
ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナンの地ルズで私に現われ、私を祝福して、

48:4
私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』

48:7
私のことを言えば、私がパダンから帰って来たとき、その途上カナンの地で、悲しいことに、ラケルが死んだ。そこからエフラテに行くには、なお道のりがあったが、私はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道のその場所に彼女を葬った。」

48:8
イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。「これはだれか。」

48:9
ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった子どもです。」すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう。」と言った。

48:10
イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。

48:11
イスラエルはヨセフに言った。「私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。」

48:12
ヨセフはヤコブのひざから彼らを引き寄せて、顔を地につけて、伏し拝んだ。


今年は、人生とは何か、如何に生きるべきか、というテーマでお話をしています。長く生きていると悔いは幾つもあります。しかし、その悔いをそのまま残し、無為に生きることは、神の国を目指すキリスト者としては恥ずべきものと考えます。自らの至らなさ、罪深さの故に、咎を負い、苦しみを遺します。その一つ一つを忘れようとして生きるのではなく、その咎をしっかりと見つめ、自らの贖いとしての犠牲を払うことが大事です。接する人々、或いは接しなければならない人を通じて、神の前に信仰を全うするのです。

 「イサクの歴史である。」(創世25・19)として、エサウとヤコブのことが記され、「ヤコブの歴史である。」(同37・2)として、その子ども達の歩みが記されていることはお話しました。その人の人生は、受け継いだ者の歩みによって記されるのです。自らのための歩みというのは、神の前では功績と記されることなく、神のため、人のために何をしたかということが残るのです。人は、自分のやったこと、苦労したことは覚えており、自分は如何に歩んだかと誇ったりするものです。その実態は、子どもがどのようになったか、で問われてくるのです。子どもの無い人、結婚していない人は、どうでしょうか。同じように、自分の神の前、社会や人に対する貢献で、その人の歩みが問われるのです。

 ヤコブは、エジプトの王パロに対して、「私の辿った年月は130年です。私の齢の年月はわずかで、不幸せで、私の先祖の辿った齢の年月には及びません。」(創世記47・9)と答え、堂々とパロを祝福しています。ヤコブの子どもたちは、どのような歩みをしたのでしょうか。

 それは49章の辞世の子どもたちへの預言で記されています。長男ルベンは不道徳でした。次男と三男のシメオンとレビは喧嘩早く怒りに任せて人を殺し、やっと4男のユダが相続権を得るのです。11番目のヨセフがヤコブにとっては喜びの子であり、末っ子のベニヤミンは甘やかされて乱暴になります。

 7節にあるように、ヤコブは愛する妻のラケルが旅の途中で、ベニヤミンを出産する時に死んだことが悲しみであり、それが心を引きずって、ラケルの子ヨセフを溺愛することになり、兄たちに憎まれ、ヨセフは殺されそうになるわけです。ヤコブにとって妻はラケルだけであり、騙されて妻としたレアや女奴隷たちは、愛情の対象ではなかったようです。しかし、父として、夫として、十分に愛情を注がなかった咎が、子ども達の心を傷つけ、荒れたまま育ててしまったのです。その愛情の対象のヨセフが若いうちに死んだ、と報告された時の絶望感も、他の子ども達の心を傷つけたことでしょう。ルベンは、ヨセフを殺すことを長男として弟たちに止めるように説得し、ユダは、肉親を殺すことはいけないと説得するのでしたが、弟たちは、荒れていてヨセフを奴隷に売ってしまいました。ヤコブの悲しみは如何ほどだったことでしょう。

ヨセフは、エジプトの宰相として兄たちに謁見した時に、その荒々しい性格がどのようになっているかを時間を掛けて調べました。そして、年月を経ても兄たちが、「弟のことで罰を受けているのだなあ。あれが我々に憐れみを請うた時、彼の心の苦しみを見ながら、我々は聞き入れなかった。それで我々は、こんな苦しみに会っているのだ。」(42・21)と言っているのを聞き、泣きながら、ホッとしたのでした。

 末子のベニヤミンを捕虜としてエジプトに連れて来いとヨセフが言うと、父は「私の妻は二人の子を産んだ。一人は出て行ったきりだ。確かに裂き殺されてしまった。・・・あなたがたがこの子をも私から取ってしまって、この子に災いがおこるなら、あなたがたは、白髪頭の私を、苦しみながら黄泉に下らせることになるのだ。」(44・29)と言ったとして、ユダが自ら、捕虜となることを希望します。

 つまり、兄たちは、父に息子として扱われていないのです。そして、兄たちは、ベニヤミンだけが父の実子であると受け入れているのです。ヤコブが子どもを贔屓し、兄たちに愛情を注いでいないことは明らかです。ルベンとユダは、人格を形成していますが、他の兄たちは、罰を受けることを恐れ、自らの判断で生きることができないのです。ヤコブが死んだ時も、「ヨセフは我々を恨んで、我々が彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」(50・15)と恐れているのです。

 ヤコブは、自分の不幸せだという感情に支配されて、息子達に愛情を注いでいないのです。子ども達の人格形成の不十分さや荒々しい行動は、父親としての義務を果たしていないヤコブの咎なのです。息子達は、自分の咎に恐れ、父親に服従していますが、それは親子の情愛の欠如があります。ヤコブは、愛する妻を辛い旅の途中で死なせてしまったという悔いに捉われ、更に多くの悔いを残すこととなってしまっているのです。しかし、ヤコブはそれを悔いるばかりで、悔い改めることをしていないのです。

 「時間が全ての悲しみと咎を忘れさせる。」ということはありません。私たち自身は、それを忘れようとして、自分の過去の苦しさだけを思い出し、「苦しみという犠牲を払ったから、帳消し。」と思い込んでいます。しかし、ヤコブの子ども達の心の傷は癒されることなく、人生を破壊させていくのです。

 私自身は、親に対して、妻の親に対しても、怒ったり、意見を言ったり、失礼なことはせずに孝を尽くしたという、意識は持っています。それが私の心の錨であり、支えでもあり、励みでもあります。私の人生に価値があるとしたら、親が私を喜んだ、という意識があります。神の前の価値も、神は私を喜んでおられる、という意識ではないでしょうか。今のうちに、悔いを帳消しにする自己吟味と行動を取りましょう。


3月2日 愚か者が後を継いだら。  伝道者21826節 
新改訳 伝道者の書2:18 私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。

2:19
後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。

2:20
私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。

2:21
どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。

2:22
実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。

2:23
その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。

2:24
人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。

2:25
実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。

2:26
なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。



ダビデが後継者に苦しみ、その息子に命を狙われて苦しんだことはお話ししました。それでも主の預言の通りにソロモンが王位を継ぎ、知恵ある王として王国は繁栄しました。ダビデは、「我が子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持を持って神に仕えなさい。主はすべての心を探り、全ての思いの向かうところを読みとられるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現わされる。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。」(T歴代誌28・9) 愛情深いダビデがソロモンを王として後継者にできる喜びは大きく、その言葉の後に続く、29章の内容はダビデ王と国民の興奮と喜びを表しています。

 王となったソロモンは、何を与えようかとの神の問いに対して、「民を治める為の知恵と知識」を求めたので、神は、そればかりか、富と誉を与えたのでした(U歴代誌1・7-12)。そして、ソロモンは荘厳な神殿を建設し、神の栄光を拝したのでした。神殿と宮殿の建設に20年を掛けたソロモンは、その後、次第に堕落をしていくのでした。

 神は、「あなたの父ダビデが歩んだように、わたしの前を歩み、わたしがあなたに命じたことを全てそのまま実行し、わたしの掟と定めとを守るなら」(U歴代誌7・17)と言われたけれども、ソロモンは、主に従うよりも、自らの知恵と知識に溺れて堕落し、子どもの教育も疎かにしていくのでした。だからこそ、今日の聖書の箇所のような虚しい言葉を語る事になってしまうのです。

 聖書というのは、その一語一語が聖霊に導かれて書かれているのですが、その一語一語が正しいというわけではありません。つまり、悪魔の言葉が書いてあり、不信仰者の言葉がその状況とその立場における真理として書いてあるのです。ですから、伝道者の書は、現在のような福音を伝える伝道者が語る奥義としてではなく、自らが「ダビデの子、伝道者のことば」(1・1)と記したので、『伝道者の書』という書名となったのです。つまり、「道を外した者が書いた道を記している」という意味での真理なのです。

 「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。」という孔子の言葉がありますが、人としてのあるべき道を聞き求めることは大事ですが、それで魂が救われるということはありません。悟りというのは、世の道理や知恵を身につけて行くことですが、それで神の国に行けることはないのです。

 教会に悟りを求めに来る人がいるのですが、それは自分の心と処し方に関心があるのであって、結局のところ、聖書の教えからすれば、自己中心、つまり罪の為せるものなのです。振り返ると、教会を離れた人々は、その悟りで信仰を考えていた傾向が見られます。

 悟りや知恵があれば、この世はうまく処することが出来て成功者になれます。しかし、子どもを育てるのは、哲学者や成功者には難しいものです。子どもに対しては、嫌われるのを覚悟しても、戒めや罰を与え、罪に対しては本気で怒らなければならないからです。権威や知識で処することができないのが、教育であり、人格形成です。ソロモンは、自分の思うどおりに王として生きることができたが故に、子どもを育てることが出来なかったのです。

 ソロモンにとって、後継者レハブアムは明らかに愚か者でした。王位を引き継いで直ぐに王国を分断させてしまうのですから、かなりひどい息子です。21節にあるように、「どんなにソロモンが知恵と知識と才能をもって労苦しても」(21)愚かなレハブアムがだめにしてしまうことを、賢いソロモンは既に気が付いていたのでしょう。「実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人に何になろう。」(22)と、ソロモンは嘆くのです。

 訓戒や罰を愛ゆえに与え、子どもを丁寧に育てなければ、その人の人生は虚しいものとなってしまうのです。あなたの人生は、その後継者によって価値が問われるのです。

 「ほめて育てろ」と世の中は言います。しかし、聖書は、「子どもを怒らせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6・4)と教えます。その言葉の前には、両親に従うことと、敬うことが戒めとして語られます。ほめるとか、けなすということではなく、人格によって子どもを育てないと、自らの人生が虚しいものになってしまうのです。

 子どものいない人も、損得や知恵によって生きるのでなく、人を愛し、そのために命を注ぐような生き方をすることが大事だと思います。愚か者を遺すような生き方をしてはいけません。


3月9日 自分の財産と信仰を継ぐ者  創世記17111 
新改訳 創世記17:1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

17:2
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」

17:3
アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。

17:4
「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。

17:5
あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。

17:6
わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

17:7
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

17:8
わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

17:9
ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。

17:10
次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。

17:11
あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。


ダビデが後継者に苦しみ、ソロモンが後継者を愚か者として絶望したのに、反して信仰の父、創始者と呼ばれるアブラハムはどのようだったのでしょうか。ダビデやソロモンが王として多くの妻や側女を持ち、そして家庭を崩壊させていき、子どもをきちんとして父として育てなかったことはお話しました。

それに対して、アブラハムは75歳まで意気地のない父テラに仕え、神が「父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12・1)と言われるまで忍耐を尽くしたのでした。テラの子は、アブラハムとナホルとハランですが、ハランはウルで死んでおり、その娘とナホルが結婚し、息子がロトであることから、ハランが長男であったかもしれません。ナホルは、ウルからテラが出る時には同行せず、その後メソポタミヤ北部に定住したようです。アブラハムが後にイサクの嫁探しにハランの方にしもべを遣わすので、この地方の人は純朴であったのかもしれません。サラは、異母妹であったようです。テラは、優柔不断な性格だったのかもしれません。カナンを目指すはずだったのが、ハランから離れられなくなるのですから。だからこそ、神は、不信仰な家族と町から離れるようにアブラハムに告げたのでした。

 アブラハムが旅立つと、家長テラを置いて、皆が付いて来ました。ロトは、親代わりのアブラハムについてくるのですが、欲が強いので、アブラハムの僕たちと仲良くできず、いつも争うことになりました。アブラハムは、そこでロトと別れる決断をします。アブラハムは、相続をすると思って勝手なことをしているロトとは一緒に歩めないと覚悟を決めるのです。ロトは、肥沃な土地に行くのですが、結局のところ、よこしまなソドムの人たちの中で生活も家庭も崩壊させていくのでした。

 ソドムやゴモラらの5人の王が、エラムの王ケドラオメルら4人の王に打ち負かされ、その時にロトと家族としもべたちを拉致していくと、アブラハムは、直ぐに318人のしもべたちを動員して追跡し、凱旋していた彼らを打ち破るのでした。80歳を過ぎているアブラハムの気力と体力、そして行動力には驚かされます。自らの弱さや歳を意識する者では、強い信仰は保持できないのでしょう。

 いと高き神の祭司とされるメルキゼテクに対して十分の一の献げ物をするけれども、ソドムの王の悪辣さを知っているアブラハムは、彼らからは何も受け取らないで、「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。・・・あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラハムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。」(14・22.23)と啖呵を切るのでした。見事なまでの信仰的潔癖さ、不正やよこしまな人々に対する嫌悪です。信仰というのは、このような強い行動と信念、そして正義感を伴わなければ、強いものであり続け得ないのです。

 だからこそ、神は「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(15・10)と神は語りかけるのです。

 むろん、その励ましに対して、アブラハムは率直に、子のない不安を神に伝えます。しかし、神は「あなたの子孫は空の星のような数になる。」と預言します。そして、アブラハムはそれを信じます。

 困難な中でも神の祝福を信じることが、神の義なのです。

 「老後」とは、仕事をしなくなった時とか、年金をもらい始めたときと言うそうです。皆さんは、自分の老後をどのように考えているのでしょうか。アブラハムは少なくとも、80歳を超えても100歳を超えても、老後とは思っていないようです。

 私自身は、老後を考えて、今の牧師職、社長職、その他安定的収入を得られている今の生活を6年後に辞めることを決断しました。今のうちに新しいことをする準備をしたいのです。確かに年金を得られるようになります。子ども達も育て上げました。これからは生活のためではなく、社会や神のために自らの人生を捧げて行きたいのです。

 決断した時には、何をするか全く考えてはいませんでした。ただ、「このままでは私は老いてしまう。生活が安定したと思ったら、堕落が始まる。」と判断したのです。そして、そういう人々を多く見ています。

 時間をつぶすために何をしようかと考えるほど、私には恐ろしいことはありません。それは、神に召し出された者にとって、神の国への道を失うことだからです。自らが信仰者としての道を進み続けるからこそ、次世代の者へ信仰を引き渡すことができるのです。自らの財産を子どもたちに分け与えるなどと考えたら、子どもは相続争いと堕落が始まるでしょう。

 信仰による義とは、神の国を目指して生きることです。最近、先の道が少し見えるようになってきました。私の老後は、今までとは違う新しい道です。


3月16日 神を畏れるから従う。  創世記221118節 
新改訳 創世記22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」

22:12
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

22:13
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

22:14
そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

22:15
それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、

22:16
仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、

22:17
わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。

22:18
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」


元々強い人間も、賢い人間もいません。人は皆、人生を歩みながら自らを形成していくのです。今回の本を書きながら、何でもない私たちが、よくも誰もしていない治療を次々に始めることになったのか、ただ、神に従っただけではないか、と顧みるのです。困難や攻撃もありましたが、めげずに前進を続けて来ました。夫婦共に老いを感じ始めたのですが、老アブラハムの歩みに励ましを与えられます。ある人に言いました。「祝福を求める人生は信仰者としてはみっともない。ただ十字架を負って、神に従って行けば、それで良いのではないか。」。どうも通じなかったようです。

 先週は、アブラハムが恐れることは山ほどもあるけれども、信仰の故の意地を張って、王たちを撃退し、悪辣な王には媚びないで神を信じたことをお話しました。多くの人が困難に目を留め、自分の弱さを思い知らされて妥協の道を進みます。アブラハムは、恐れずに神に従いました。「報いは非常に大きい。」(15・1)と言われても、祝福に目を留める余裕はなく、ただ神に従うしかないと考えたのではないかと思います。

 妻のサラも女奴隷を夫に提供したのに、妊娠して自分を見下げると腹を立て追い出そうとする愚かなところがありました(16章)。神はアブラハムに「わたしの前を歩み、全き者であれ。」(17・1)と言われました。ある伝道師が、「神が私に御旨を示して下さるまで待ち続ける。」と言ったので、私は、「それは時間の無駄だ。取りあえず、正しいことをしてみて、失敗を経験しながら自分の弱さを体験し、神を信じて行くと次第に御心がわかってくるものだよ。」と伝えると、不本意なようでした。「神に従う。」ということは、指示待ち人間になるということではありません。自分の責任と判断で正しいと思うことをする人でなければ、仕事でも役に立ちません。

 神は、アブラハムを「諸国民の父」となる、と預言されましたが、アブラハムには何のことかわかりません。そして一方的に、契約の締結と、男性器の包皮を切り捨てるように命じられます。割礼は性病になる可能性が低くなることと、性器に印を遺すことにより自らの性的な堕落への戒めがあるかと思われますが、新約では無くなっています。割礼を受けている男性は、エイズの罹患率が半分だそうです。性病の感染率が低いのも、この二つの意味合いがあるでしょう。アメリカでも20世紀末まで多くの人が受けていました。

 アブラハムには3人の神の使いが現れて、ソドムとゴモラの破壊を宣言します。歴史上、考古学上もその破壊は記されていますが、その破壊を目の当たりにしたアブラハムの驚きと恐怖はいかばかりでしょうか。また、ロトは信仰者アブラハムと別れ、その取り成しにも関わらず破滅していくばかりでした。神に従わない愚か者は破滅していき、神を信じる者は繁栄していく現実を知るのです。

サラは65歳くらいの時にエジプトのパロに見染められるのですが、90歳でもゲラルの王に見染められます。出産前で特異的に若返ったのでしょう。異常なことが魔術的な力として迎えられる風土があったのかもしれません。アブラハムは再び、自分の妻を妹として偽る失敗をしてしまいます。異邦の王が、神秘的な力を手に入れるためにはどんなことをしでかすかわからないことを知っていたからかもしれません。20章11節に、神を恐れない人々が、そのような神秘的な美しさを持った女性を手に入れるために、夫を殺す習慣があることを言っていますが、用心深いアブラハムが恐れを持っていたこともわかります。ともかく、この夫婦を、神は超自然的に守っているのです。

 百歳でイサクを与えられ、その乳離れの大宴会をしたアブラハムは周囲の人々の驚嘆となり、昔妻にと見染めたゲラルの王アビメレクは、「あなたが何をしても、神はあなたと共におられる。」(21・22)と崇りを恐れて、平和条約を求めます。

しかし、神はアブラハムに理不尽な試みをします。その愛する一人子イサクを全焼の生贄として献げろ、と命じるのです。驚くことにアブラハムは、翌朝早くそのことを実行しに、イサクとモリヤの山(エルサレムの神殿の建てられる場所あ)に旅立つのです。私自身、死ぬことを覚悟することは何回もありました。妻も十字架を背負っています。しかし、子どもを犠牲にする、ということは考えられないようなことです。3日間の旅は、如何に苦しいことでしょうか。そして、青年になっていたイサクも、父の苦悩を感じながら、全焼の生贄として縛られることに従ったのです。父に神への生贄として殺されそうになった気持ちは如何ばかりでしょうか。

私自身、ここまで神に従ってきた意識の中で、子どもをも神が導いてくださっているとは考えています。しかし、この十字架の道を子どもが簡単に引き継げるとも思えません。それでも親の責任は、神に従うことを命掛けで教えていくことかと思います。私たちは何でもない平凡な人間ですが、それでも神に従ってきた、そして、神は祝福してくださった。それを皆さんにも伝えたいのです。

「主の山には備えがある。(アドナイ・イルエ)」(22・14)。神は私たちを選び、祝福の道を用意されています。しかし、その道を歩むためには、祝福の道を探すのではなく、神の御心を求めて、自分の責任と判断で為すべき犠牲の道を歩まなければならないのです。


3月23日 伴侶のために自らを献げられるか。  創世記244967 
創世記24:49 それで今、あなたがたが私の主人に、恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」

24:50
するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。

24:51
ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」

24:52
アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した。

24:53
そうして、このしもべは、銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えた。また、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈った。

24:54
それから、このしもべと、その従者たちとは飲み食いして、そこに泊まった。朝になって、彼らが起きると、そのしもべは「私の主人のところへ帰してください。」と言った。

24:55
すると彼女の兄と母は、「娘をしばらく、十日間ほど、私たちといっしょにとどめておき、それから後、行かせたいのですが。」と言った。

24:56
しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」と言った。

24:57
彼らは答えた。「娘を呼び寄せて、娘の言うことを聞いてみましょう。」

24:58
それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります。」と答えた。

24:59
そこで彼らは、妹リベカとそのうばを、アブラハムのしもべとその従者たちといっしょに送り出した。

24:60
彼らはリベカを祝福して言った。「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」

24:61
リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人のあとについて行った。こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。

24:62
そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのである。

24:63
イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。

24:64
リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、

24:65
そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。

24:66
しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。

24:67
イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。


私の研究では、結婚の対象と意味合いは、聖書でも歴史的に変わってきて、信仰の完成と共に結婚が奥義として、明らかに啓示されたのだと思います。

創造の時から律法を与えられたモーセの時までは、家族内での結婚も当然でした。そこでは夫婦となる意味合いは、「産めよ、増えよ、支配せよ。」という祝福命令を実行する人間の使命として、結婚がありました。長寿の彼らは、遺伝子も傷つき難かったので、またたく間に数が増えました。アブラハムも異母妹のサラと結婚しており、イサクはいとこのベトエルの娘リベカと結婚します。神の摂理的意味合いとしては、これで民族としての固有性が遺伝子の中で定着したことと、その血統の固有性が確立されてきたのかもしれません。

 モーセによって与えられた律法で、近親婚は死刑となります(レビ18章)。この時代の結婚観は、家系と土地を相続していくためのものであり、妻の立場は弱いものでした。ただ、道徳や倫理は、律法を通してしっかりと教えられ、民族の維持と秩序を法律や道徳で築き上げようという意味合いが家庭教育の中で教えられます。他の国々に比べれば、イスラエルは女性の権利が守られ、地位も隷属のような状態ではありませんでした。

 結婚の意味合いが全く変わったのがイエス様の教えです。イエス様は、不貞以外の理由での離婚を禁じたので、弟子たちは、妻に対する夫の立場がそんなに弱いのなら、結婚しないほうがまし、とまで言っています(マタイ19・10)。キリスト教圏でない国々の女性の権利は、非常に弱く、日本・韓国・中国でもキリスト教的結婚観は定着しておらず、クリスチャンでさえ、確立されていないように思われます。

 私たちが聖書的結婚観とするものは、結婚していないパウロによって説かれるのは不思議なことです。私は、結婚していないからこそ、女性に対する偏見や弱音或いは不満から離れて、神の奥義を語ることが出来たように思います。

 例えば、「夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男のところに行っても姦淫の女ではありません。」(ローマ7・3)は、当時の女性の立場としては革命的な文章です。パウロは、「姦淫するな。」という律法を、「愛は隣人に対して害を与えません。」(ローマ13・10)から説明し、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、妬み」などが罪と結びついていることを宣言することによって、肉欲との決別としての夫婦愛を唱えています。また、性欲が不品行と結びつくことを覚えて、夫婦が相手の性的欲求を適えなさい(Tコリント7・2-5)、と語り、性的衝動が抑えられないと「サタンの誘惑にかかる」と丁寧に指導しています。欧米では、夫婦間の情愛の親密さがあからさまですが、そうすることによって伴侶以外への性的衝動を抑え、また労りあうことを感じるのかもしれません。ともかく、夫婦間の性は罪ではなく、好ましいことを教えています。

 さらに、やもめに対しても、「情の燃えるよりは結婚するほうがよい。」(Tコリント7・9)と性的欲求が生活を破壊する恐れを指摘しています。

女が祈る時、かぶり物をして祈るべきなのは、女は男の為に造られた(11・9)ことを意識する為だと言いながら、「主にあっては、男も女を離れてあるものではありません。」(11・11)と教えます。「教会では、妻たちは黙っていなさい。」(11・34)とまで言っていながら、次第にパウロは、その教えを変えて行きます。解説者たちは、その理由をコリントの女性たちが、教養がなく、出しゃばりで、信仰も未成熟だったからだとしています。

 獄中書簡と呼ばれるエペソ書には、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のために自分を献げられたように、あなたがたも自分の妻を愛しなさい。・・夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。」(エペソ5・22-33)と崇高な奥義を示しています。

 イサクとリベカの夫婦は、この奥義を全うした理想的な夫婦のように思われます。イサクは、先週お話したように、神のために自分を献げた人間です。妻を真に愛する為には、自分の利益や欲望のために生きる自分勝手な人間ではできません。28歳の時に母が死に、40歳の時に結婚したので、愛する女性のいない12年間の寂しい時を過ごしました。

 リベカは、神の導く人と結婚するならば、と即断で家を離れる覚悟を決めました。アブラハムの僕と出会った翌日に、家を出て結婚への旅路を歩んだのです。夫婦が幸せになるためには、相手に依存しなければなりません。自分の能力や仕事ではなく、財産や教養によってでもなく、伴侶として神に導かれた人との結婚そのものによって幸せになると覚悟を決める必要があるのです。

 「イサクはリベカを愛した。イサクは、母の亡き後、慰めを得た。」(67)とありますが、母という女性によって愛されることを知っていたイサクだからこそ、リベカを深く愛せたとも思います。リベカもまた、自分の人生をイサクに掛けたからこそ、深く愛せたのです。

夫婦が愛し合うということは、非常に難しいことです。伴侶のために自分を犠牲にすることの繰り返しがなくては、相手を愛するということは体験できないでしょう。そして、伴侶が自分のために自らを犠牲にして生きていることを体験してこそ、深く愛することができるものです。

 私自身は、妻の助け手になろうと結婚の時に覚悟しました。聖書とは逆だけれど、罰は当たるまい、と考えました。今は、そのことによって自分が生かされ、思いもよらないタイプの生き方をしています。今でも、いつでも妻のために命を捨てる覚悟はしています。妻も私のためには命をすり減らしても、従い愛してくれると思います。互いに命を相手に依存しているからこそ、深い愛を感じています。そして、二人で助け合って生きてきたからこそ、これまでの歩みと成果を上げてこられたのだと思います。


3月30日 権力闘争と障害者の犠牲。  Uサムエル192430

新改訳 Uサムエル

19:24
サウルの子メフィボシェテは、王を迎えに下って来た。彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、爪も切らず、ひげもそらず、着物も洗っていなかった。

19:25
彼が王を迎えにエルサレムから来たとき、王は彼に言った。「メフィボシェテよ。あなたはなぜ、私といっしょに来なかったのか。」

19:26
彼は答えた。「王さま。私の家来が、私を欺いたのです。このしもべは『私のろばに鞍をつけ、それに乗って、王といっしょに行こう。』と思ったのです。しもべは足なえですから。

19:27
ところが彼は、このしもべのことを、王さまに中傷しました。しかし、王さまは、神の使いのような方です。あなたのお気に召すようにしてください。

19:28
私の父の家の者はみな、王さまから見れば、死刑に当たる者に過ぎなかったのですが、あなたは、このしもべをあなたの食卓で食事をする者のうちに入れてくださいました。ですから、この私に、どうして重ねて王さまに訴える権利がありましょう。」

19:29
王は彼に言った。「あなたはなぜ、自分の弁解をくり返しているのか。私は決めている。あなたとツィバとで、地所を分けなければならない。」

19:30
メフィボシェテは王に言った。「王さまが無事に王宮に帰られて後なら、彼が全部でも取ってよいのです。」


ヨナタンの子メフィボシェテは、5歳の時にサウルとヨナタンの死を聞いて逃げる乳母が抱いていた落とした為に、両足が萎えて歩けない障害者になりました(4・4)。サウル家の将軍アブネルとダビデの将軍ヨアブの権力争いなどにより、サウル家が滅びます。ダビデは、ヨアブとその一族が軍事力をもって、王にも従わずに、覇権争いをする様子に苦渋します。そして統一イスラエルの王としてダビデが王位に付いた後、自分を守ってくれたヨナタンの恩に報いるために、その血縁を探しました。

サウルに仕えていたツィバという男が、メフィボシェテがいることを告げると、ダビデはサウルの地所を全てメフィボシェテに与え、自分の家族の食卓で共に食事をする権利を与えます。メフィボシェテには、小さな子どもがいるので、既に20歳くらいにはなっているでしょうが、王に対して「死んだ犬のような自分」と卑下して、ヨナタンの死後の逆境を感じさせます。ダビデの庇護のもと、ツィバは、15人の息子と20人の召使と共に、メフィボシェテの財産管理をすることになります(9章)。

年月を経て、ダビデの子アブシャロムが謀反をしたので、逃げるダビデにツィバが2頭のろばに多くの食べ物を積んで救援にきます。ダビデが、メフィボシェテはどうした、と聞くと、ツィバはメフィボシェテが「父の王国を私に返してくれる。」と言って、主人のダビデからの離反を告げます。ダビデは怒り、その地所は、全て今後ツィバのものになると告げます。その後に、以前お話した卑怯なシムイの呪いがダビデに浴びせかけられます(16章)。

王が凱旋して帰ると、あのシムイが1000人のベニヤミン人を連れて迎え、ひれ伏します。自分の力を見せながら、王にへつらうのです(19・17)。ヨアブは、王の命令に背いてアブシャロムを殺したので、ダビデ王はヨアブを更迭してアブシャロムの将軍アマサを用いるのですが、そのアマサも後に殺されています(20・8-10)。凄まじい軍人たちの権力闘争です。ダビデはこれを嫌っています(3・39)。ですから、ヨアブの弟アビシャイが、シムイは殺すべきだというと、かえって興奮し、「お前には関わりがない。私が王だ。」(19・22)と叫んで、シムイを赦してしまいます。

ツィバも15人の息子と20人の召使を連れて王を迎えます。しかし、そこに裏切ったはずのメフィボシェテも来ます。王が何故同行しなかったのか、と問うと、ツィバがそれを妨げ、王に中傷したのだと報告します。その身なりは、王に従うことを妨害されてから身体を洗わず、ひげもそらず、汚いままでした。「自分の家は死刑に当たるものなのに、王は食卓に加わる者として下さった。障害者である自分は、何も言えない。どうぞ、好きなように処罰してください。」と言います。

ツィバは、障害者の主人に仕えることが嫌で、独立を謀ったのでしょう。全ての子どもと召使を率いて、王にまみえるところなど、知恵の働くことがわかります。王は、いったんツィバに全てのメフィボシェテの財産を与えると言ってしまったので、困惑の中で「弁解を繰り返すな。地所は半々に分けろ。」と捨て置きます。メフィボシェテは、ツィバが全部を取っても良いと、気弱なところをみせます。

 私は、凄まじい権力闘争の中で、あくまで消極的なメフィボシェテと、人の和解や信仰を求めるダビデが、世間の常識から離れている面で共感を持ちます。9人兄弟の末子として、兄や姉の考え方や性格とその結果を見つめてきました。人々とは喧嘩せずに、その動向を見守る習性があります。私の会社をつぶそうとして人が、その郷里で市議選に出ようとしているのを知りました。問題を起こしたのに、自分は成功者だと信じ、反省も無しに突っ走ろうとしている人の話を聞きながら、執り成しようもないと呆れていました。

 働いてはいけないとされる安息日に、イエス様は片手の萎えた人を癒しました。しかし、パリサイ人は、それを見てイエス様を殺そうとしました。生まれつき目の見えない盲人について、弟子たちが誰の罪の為か、とその障害の原因を問うと、イエス様は、「神の業がこの人に現れるためです。」(ヨハネ9・3)と答え、後に、癒された盲人も「神は罪人の言うことは聞きません。しかし、誰でも神を敬い、その御心を行うなら、神は、その人のいうことを聞いて下さると、私たちは知っています。」(ヨハネ9・31)と却って宗教指導者であるパリサイ人に答えています。

 成功や力を求める人々の醜さに呆れながら、自分の持っている平安と喜びに感動をしています。
私が引退を宣言したのも、権力闘争には巻き込まれたくないからです。自分の弱さ、力のなさ、病、障害、問題に苦しみながらも、自らの成功や出世を求められない人々のほうが、神に知られているのです。力を誇示する人間であってはなりません。