10月6日 祝福になるか呪いになるか。  Uサムエル6515

新改訳 Uサムエル

6:5
ダビデとイスラエルの全家は歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で、力の限り喜び踊った。

6:6
こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。

6:7
すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。

6:8
ダビデの心は激した。ウザによる割りこみに主が怒りを発せられたからである。それで、その場所はペレツ・ウザと呼ばれた。今日もそうである。

6:9
その日ダビデは主を恐れて言った。「主の箱を、私のところにお迎えすることはできない。」

6:10
ダビデは主の箱を彼のところ、ダビデの町に移したくなかったので、ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。

6:11
こうして、主の箱はガテ人オベデ・エドムの家に三か月とどまった。主はオベデ・エドムと彼の全家を祝福された。

6:12
主が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された、ということがダビデ王に知らされた。そこでダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上った。

6:13
主の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。

6:14
ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。

6:15
ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上った。




ダビデは30歳から40年間、王でしたが、権力を確保すると共に堕落してしまいました。それは、戦いの現場から離れたからであると思います。パウロは、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(Uテモテ4・7)と言いましたが、戦いを続けて殉教をするような状況でした。

 同じ仕事を続けると、経験と実績などから大体の的確な判断はできるようになります。でも、長年指導者をしていると、やはり緊張感がなくなり、敵も非難する者もいなくなると、堕落が始まるような気がします。自慢話と過去のことばかりを言うようになったら、老いが始まっていると言って良いでしょう。老いは受け入れるしかありませんが、堕落はいけません。

 人生の艱難辛苦は、私たちを健全に保ちます。大会社の不始末や不正が目立ちますが、指導者が自分の思う通りに経営を続けて何も問題がないようになったら、実は大きな腐敗が始まっていて感じなくなっているのかもしれません。同じことは人生にも言えます。問題や課題が無くなったら、私たちは信仰も危機の状態に陥っているかもしれません。

 ダビデは王となり、王宮を建て、諸国と戦い続けました。ペリシテ軍を打ち破り、王権を確立しようと、ペリシテ人に奪われた後、長年キリヤテ・エアリムにある神の箱をダビデの町エルサレムに迎え入れようとしました。預言者サムエルによる神権政治も、年老いた時に、継ぐべき、息子達が堕落していたのでペリシテ人が責めてきても対応できず、神の箱が持ち出されてしまっていたのでした。その師匠の祭司エリも40年間指導者でしたが、年老いて息子を指導できず、自らも肥満して、シロから神の箱が奪われた時に、息子が死に、自らも死んだのでした。サウル王の場合には、王となると直ぐに高慢になっていますが、指導者も信仰の人も、老化は高慢に繋がる場合が多く、息子を謙遜かつ適切な指導者に育てるということは、非常に難しいことがわかります。

 神の箱は、Tサムエル6章に記してあるように、それをどのように扱うかで、その置いてある場所と人々が祝福されるか、呪われるかが明らかでありました。ダビデは、その神の箱をエルサレムに運び入れることが、自らの王権が神の祝福の下にあることを国民にも示そうとして、おこなったのです。新しい牛車を作り、楽隊を用意し、ダビデも一緒に力の限り、神をほめたたえます。

 ところが、牛車がひっくり返りそうになったので、祭司ウザが神の箱を落ちないように抑えます。すると、神の箱に手で触ったウザはたちどころに罰を受けて死にます。人々もダビデも、恐ろしさに竦み上がり、エルサレムに運び上げることを止めて、留め置きます。

 3ヶ月留め置かれたオベデ・エドムという家臣は恐ろしさのあまりに丁重に神の箱を安置します。すると、彼の家は祝福され、尋常ではない恵みを受けます。神の臨在があり、神が共に居られたら、何もしなくても尋常でない祝福を受けるのです。それを知ったダビデ王は、改めて神の箱を運び始めましたが、祭司に相談し、神の箱は牛車ではなく、祭司が担ぐべきだということを知り、改めました。そして、慎重に見守りながら、その人々が契約の箱を担いで6歩無事に進んだ時に、牛を生贄として捧げたほど喜んだのでした。

 サラは3人の主の使いが、サラの懐妊を告げると、「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」と心の中で、それを嘲笑いました。その心の中を見抜いて、使いが指摘し、「主に不可能なことがあろうか。」と厳しく誤魔化しを責めると、やっとサラは真剣になりました。

 人生の意味合いを生産活動や成果に求める人は、老いると楽しみがなくなります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。災いの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」(伝道者12・1)。

 人生の目的は神との交流であり、神を崇めること、感謝することです。そのことを自己実現の手段とする人は、実現したと思ったら、神を崇めること、神に仕えること、神に感謝することを忘れます。ダビデは、神を崇め、神の前で踊り讃美することを、王としての確立の手段にしてしまったのです。

若い時のダビデは、そのような人ではありませんでした。しかし、多くの妻も娶り、多くの部下に追従されている生活を長い間過ごす中で、試練や敵は外部ではなく、自分の内の罪深さとして湧き上がり、もはや自ら悔い改めることができなくなってしまったのです。

謙遜さの確認は、人や物事や神に感謝できるかどうかでわかるようです。考えることはできても、感謝することはなかなかできません。いかがでしょうか。


10月13日 主と共に生きる日々。  イザヤ58614節 

新改訳 イザヤ58:6 わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。

58:7
飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。

58:8
そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。

58:9
そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、

58:10
飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。

58:11
主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。

58:12
あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。

58:13
もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、

58:14
そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。」と主の御口が語られたからである。



先週は、王となった若きダビデが、神の箱の前で喜び踊ったことを話しましたが、結局のところ、王となることを願いとしていたために、いつしか讃美が出来なくなり、自分の罪深さを悔い改めることができなくなってしまったのでした。

 讃美の心、感謝の心を持ち続けることは大変大事なことです。今日の聖句の前に「わたしは高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人と共に住む。」(イザヤ57・15)とありますが、歳をとっていく中で、少しずつこれが可能になってきた感があります。

しかし、平安や謙遜や喜びは、風に吹き飛ばされる花のようで、いつまでも保たれるものではありません。我が家の日々草やバラの花のように、日々水を注ぎ、丁寧に生きなければ、花は咲かず、草は枯れ果ててしまいます。

人々の心の頑なさや言葉の厳しさに驚きながら、直ぐにその執り成しの祈りをしないと自らからも、平安や喜びが無くなってしまうことに気が付きます。心というのは、非常に繊細なものなのです。苛立った人々と御霊に導かれないで接していれば、直ぐに苛立ちが自分の心を支配してしまいます。だからと言って、頑なな人や言葉の荒い人と接しなければ、キリストにある謙遜をなくしてしまいます。

枯れかけた花を元に戻して咲くようにすることは難しいことです。昨年の夏の猛暑で枯れてしまった松が、手入れの結果、この春に芽を出して緑の葉を付けたことは本当にうれしかったことです。私は、それらの世話をしながら、教会から離れた人々、喜びを失ってしまった人々の執り成しの祈りをします。手を掛け過ぎると、却って枯らしてしまうこともあるので、本当に祈りの毎日です。柘植の木も、前の梅が茂り過ぎると陰になって枯れてしまいます。根の張る場所も広くはないので、注意が必要です。定期的に酢を注ぐことにしました。自分の身体にも酢は良いので、調べたら、根の張りに役立つようです。

神の好まれる断食とは、と説明があります。それは断食の内容ではなく、人々を自由にするために戦うことです。人々を助け、力を注ぎ、世話をすることです。神の喜ばれることは、宗教的儀式ではなく、人々を愛し、助けることなのです。そして、神の御霊に満たされないと自分だけの日々を過ごしてしまうのです。

自分の感情に囚われて、怒ったり、不満を言ったり、人を攻撃する人がいます。聖書を用いて、人々を裁いたり、人を批判する人もいます。そういう人々は、対象の人が悪であり、罪深いことで、攻撃し、責めることを、自分の義としているようです。聖書は、そのようなことを決して義とはしません。

「後ろ指を指すことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させる」ことが大事なのです。神の義とは、神と共に過ごすことによってのみ達成できる、優しさとその行ないです。

皆さんは、今日の聖句を読んで感動したでしょうか。

 もし、感動されなかったなら、次の章をご覧ください。「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ」た、のではないでしょうか。

 感動のない日々は、御霊があなたから去ってしまった証拠です。

 私は、引退ということが人々の心から活性を取り除いてしまうことに気が付きました。それで、引退後の自分を活性化させるために、引退後に十分な力を持っていることに気を配ることにしました。

●引退後に自分の活動が更に成長充実するために、後継者育成に力を注ぎます。

● 引退後の活動のために、自分の知識と判断、そして人格を養います。

●引退後は、活動に自分の力と財力を注ぎ、そのために死しても破産しても良いとします。

● 引退後は、自らのためには生きないで神と社会と弱き人々のために生きることを目標とします。

● 現在の役職からの引退は70歳とします。

 これを書いただけでも、感動します。引退後は、自分の趣味のために生きるなどという非聖書的な願いを抱いたら、それだけでつまらない人生となるでしょう。

 ご自分の家族のことや、友人知人のことを十分祈り、考えて下さい。

そのままで良いはずがありません。今からでも遅くありません。主と共に生きるためには、他の人のために助け、祈ることを怠ってはいけないのです。


10月20日 光の中を御国まで歩む。  Tヨハネ1526節  
Tヨハネ1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

1:6
もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。

1:7
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

1:8
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

1:9
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

1:10
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

2:1
私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。

2:2
この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。

2:3
もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。

2:4
神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。

2:5
しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。

2:6
神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。



新聞を読んでもテレビを観ても、また世の中の様子や自然界を見ても、世の末のような荒れ果てた様相を呈してきています。著名な人と言えども、裏ではスキャンダラスなことがあり、権力闘争も凄いようです。健全に生きるには世捨て人にでもならなければならないかと思わせられます。ところが、世捨て人にも世の荒波や自然界の脅威が押し寄せ、もはや逃げ場がない、というのが実情でしょうか。

 日本は世界でも稀な中流階級が殆どを占める落ち着いた社会でしたが、今や勝ち組、負け組などと経済格差が大きくなって、所得格差が大きく二極化し、負け組と思われる人々の暴力や犯罪が起こる一方、勝ち組とされた富裕層の堕落ぶりも大きな問題を引き起こしています。二極化は、今や世界の潮流であり、国家も勝ち組になろうとなりふり構わない闘争を引き起こしつつあります。

 中国も実は人口やレアメタル以外には資源のない国で、レアメタルの扱いにも失敗し、でたらめな都市計画や汚職で財政破綻は間違いのないものとなっています。韓国は、中産階級の少ない国ですから、サムソン・現代・SK・LGの4グループでGDPの55%以上を占め、さらにその指導者や元大統領が犯罪で殆ど捕まってしまうという荒れ果てた様相です。日本社会が比較的落ち着いていたのは、中産階級が十分に形成されていたからですが、それもまた危うくなっています。

 私どもが、将来は危うい、年金生活も危うい、と語ってきましたが、あまり反応はないようです。今回の台風でも、家が流され、水が浸入して、財産が無くなってしまった人もいます。これから起こる地震や噴火、津波では、多くの人が大被害を被るでしょう。

 人生は、モーセに率いられた民が通ったような荒野です。そこで、彼らは奇跡を体験し、御霊の食べ物や飲み物によっていのちを繋ぎました。「にも関わらず、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒野で滅ぼされました。」(Tコリント10・5)。「それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(Tコリント10・11.12)。

 いつの時代でも、どのような時でも大事なことは、神を信じて生きることです。このことが確立していないと、破局がきます。魂が救われた者だからこそ、祈り合い、助けあうことができるのです。未信者でも助けあうことはあります。東日本大震災の時の助け合いは、世界のどこでも見られないような見事で美しいものでした。このような国に生まれ育ったことを誇りに思い、感謝するものです。ただ、神の国に繋がらない助けや救いは、精一杯のこの世の働きです。それを否定するものではありません。しかし、その善良な人々が、神の国を信じないで、ただ善意で行なっていることに限界を感じないのでしょうか。

冷たい言い方ですが、災害や事故の中で死とその後のことをうやむやにしては、いけないのです。人生の先にあることを考えないで、善行を為しても、それで良しということはないのです。非常に怖い教えです。

 人間は、常日頃、少しは悪いことをしているけれど、いざという時は、罪滅ぼしにいのち掛けで人助けをする、それではいけないと聖書が言うのです。
また、信仰者に対しても、神を信じているからと言って、それで済むというものではないと、冷たく言い放ちます。要するに、「暗いところ、偽り、罪を犯す」これを認めないと、神は言われるのです。「クリスチャンとして、そこそこ歩んでいるから、それで良いではないか、他の人々より、ずっとましであり、聖書を読み、祈っている」などと考えている人々が日本人だけでなく、多くのクリスチャンにあるのです。

 ところが、「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は偽り者であり、真理はその人の内にありません。」と厳しく言われます。つまり、「自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(Tヨハネ12・6)。

 先日、知り合いの牧師の不始末が明らかになりました。本人は、ばれるとはおもっていなかったのでしょう。直前まで、大胆かつ不遜に行動していました。しかし、明るみに出ると、次々に他のことも明らかになり、牧師職の辞職にまで追い込まれることになるでしょう。

 いくら善行をしても、一回の犯罪や罪行為で人生が破綻してしまいます。社会的にも地位のある人、その地位を得るために大変な努力と研鑽を積んできたのに、一回の不始末で、全てを破滅させてしまうことは、毎日の新聞でも明らかです。まして、神の前で言い逃れはできません。

 相対評価ではないのです。ところが、自分自身には、「少しは罪深い所があるけれど、多くの善行を積んでいるから、愛の神が私を責めることはないだろう。」と高をくくっているのが、殆どの人です。実は善行を積むことよりも、罪を打ち捨てて光の中を歩むことのほうが難しいのです。

 夫婦でも、別々に一生懸命働く方が簡単で、仲良く睦まじく生きることは、実ははるかに難しいのです。光の中を歩むとは、家族や友人知人と豊かに交流しながら、愛し合うことなのです。それが十分にできない人は、神の国にたとえ入っても、することがないので、ハデスで苦労する方が性にあっているということになりかねないのです。


10月27日 契約を守って生きる。  ヘブル10162636節 

ヘブル10:16 「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。

10:26
もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

10:27
ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。

10:28
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。

10:29
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

10:30
私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。

10:31
生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。

10:32
あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。

10:33
人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。

10:34
あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。

10:35
ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。

10:36
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。




先週は、思い出となるような雨漏りの礼拝でした。天井から雨が滴り、漏電の惧れもあったので、「電気を消しましょう!」という声も上がりました。しかし、その説教の題は、「光の中を御国まで歩む」というものでしたから、私としては、決して説教中に光を消すことはできませんでした。皆さんの中には、雨が滴り始めるのを見たとたんに、説教題を忘れてしまった人もいるかもしれません。でも、私としては、「さあ、善行を積むことよりも、罪を打ち捨てて光の中を歩むことのほうが難しいのです。」という本題に入るところだったのです。

 信仰とは、神との契約です。「イエス・キリストを救い主として信じるなら、その人は全ての罪から救われ、神の子とされる。」この契約の履行条件は、「主イエスを信じ、その歩みをする」ということで、「わたしの律法を彼らの心におき、彼らの思いに書きつける」(10・16)ことによって、聖霊によって導かれます。

 契約というのは、意思表示だけによっても成立し、その契約条件が満たされなかったり、契約に違反した場合には、解除されます。「主イエスを救い主と信じる。」ということは、継続性が要求され、ある時は信じ、ある時は信じない、では、契約は破棄されるでしょう。

 主イエスを救い主として信じる、ということも具体的には、あらゆる分野に関わってきます。自分の主として、全ての分野において救ってくださると、信じならば、それは効力のある契約として、イエス様がそれぞれにおいて救ってくださると信じます。

 例えば、結婚の時の夫婦の誓いがあります。「あなたは神の教えに従って、夫(妻)としての分を果たし、常に妻(夫)を愛し、敬い、慰め、助けて変わりなく、その健康の時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限りあなたの妻(夫)に対して堅く節操を守ることを誓いますか。」と誓いますが、私は、間違いなくそれを果たしています。皆さんは、いかがでしょうか。

 夫(妻)を馬鹿にしたり、責めたりする人がいますが、その人は、それで神の前の誓約を破ってしまっているのです。
神の前での誓いに関してもっと誠実に捉えなければなりません。悔い改めて、誓いを守ろうとするならば、神は許して祝福を注いでくださいますが、実は、殆どの夫婦は、愛し合おうとする努力を放棄しています。そんな状態で、違う分野の祝福を願う、というのもおかしなものですが、それはそれで、神は聞いてくださると思います。

 ところが、やはり、簡単に状況に左右されて、神を信じることを放棄するのです。「光の中を歩みましょう」と同意している最中でさえ、「漏電の恐れがあれば、光を消して歩む」ことに心を変えてしまうのです。そのような人に、神の祝福が注ぐことはまずありません。「契約を守る」ということは、犠牲を覚悟することなのです。

『リーダーシップのダークサイド』という本を読みました。全ての人には、闇の部分があり、それは生い立ちにも関係しています。その闇の部分を未解決にしておくと、人生において大きな失敗をすることになるという実例を挙げています。性的に放縦な家庭に育った人は、性的なことにしっかりとけじめをつけないと、誘惑に遭います。いやむしろ、その誘惑を呼び込みたがるようです。経済的に失敗した生い立ちや経歴を持つ人は、富に固執する傾向があり、それで信仰を失う傾向があるようです。温かい家庭に育っていない人は、家庭を温かくする術を知らず、崩壊させる行動を取りがちです。私たちは、自分の弱みの部分、闇の部分にキリストの光を当て、救っていただく必要があるのです。

 私自身は、人の世話にならずに、生きてきましたから、独善的で干渉型のリーダーでした。しかし、多くの挫折を経験し、またタイプの違う妻を誓約通りに愛すべく努力する中で、自分の闇を確認してきました。むろん、人間ですから、いまだ多くの闇をもっており、主イエスに明渡しながら、生きようとしています。

 「繁栄の神学の危険性を指摘するのは誤解だ。」と主張する牧師たちがいます。私には、教会の繁栄を強く望む牧師たちこそ、挫折感の裏返しのような気がします。教会は、教会員一人一人の霊的成長を願い、その結果としての成長はあり得ますが、逆はないと考えています。

 牧師を成功した牧師と、そうでない牧師に分けることを考えること、そのような思考をすることが、教会の健全性に関してどれだけの悪影響を与えていることでしょう。信者を成功者と失敗者に分けることも同様です。

 ある人は、経済的に祝福されることも、成功者とされることもあるでしょう。また、失業し、何をしてもうまくいかないこともあり得ます。大事なことは、神に従い、日々の生活を主と共に生きることです。私には、成功しよう、金持ちになろう、という思いが、人々を返って挫折に追い込んでいるような気がいます。

 主との契約を守る、イエスキリストの思いと存在を意識しながら、自らの与えられた人生を、最善を尽くして生きる。それには、犠牲や失敗、挫折を覚悟しなければならないことも多くあると思います。ペテロは、論理的には、迫害の迫るローマから逃げようと考えました。しかし、アッピア街道の松のところで、主の姿を見て、ローマに戻り、逆さ十字架に掛かることをよしとしたのです。パウロは、殉教を覚悟したローマへの旅路を喜びの中で歩みました。

 もし、繁栄した人がいるならば、苦しんでいる人々にその繁栄を注ぐ為に満たされているにすぎなく、自らの力を誇ってはなりません。わたしは、そう考えています。


11月3日 優秀な者が幸せになるのか。  Tヨハネ2191517節 
Tヨハネ2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。

2:2
この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。

2:3
もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。

2:4
神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。

2:5
しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。

2:6
神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

2:7
愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。

2:8
しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。

2:9
光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。

2:15
世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

2:16
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

2:17
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。



王様と乞食の話はしばしば語られます。王様が乞食に対して、なぜ努力をして働かないのか、と聞きます。乞食は、努力をしてどうするのかと聞きます。努力をして地位と力と富を得て、自分のやりたいことができるようになり、幸せになると、答えます。すると乞食は、既に自分はやりたいことをして、好き勝手に生きているから、努力をする必要はない、と答えます。

 この話は、幾つか矛盾があり、物事を単純化し過ぎていることはわかると思います。ただ、現代の青年達には、このような考え方は十分浸透しているようです。つまり、王様と乞食の話を聞いて、そのまま受け入れているのです。モラトリアムとは支払い猶予ということですが、自分の人生の方向性を決めず、何もしないでいる人間をモラトリアム人間として、定義することがしばらく前にありましたが、今では定着してしまったようです。

 仕事をしない、学校に行かない、精神病院に入院したままで治ることは考えない、親や社会がどうにかしてくれる、努力すると失敗するが、普通に生きれば誰かが世話をしてくれる・・・、そういう中で、人と関わり合うことができなくなり、恋愛や結婚など論外となって、性欲を異常に処理する犯罪も起こってきます。極端な例ですが、実は、乞食の方が良い、という考え方は、非常に頽廃的なもので、その人を破壊に陥れてしまうのです。

 ところが、努力している人々が幸せになっている実例を見ていないと、そのようになってしまうのです。人に最も影響を与えるのは、親の姿と生活です。親と家庭が幸せでないと子どもたちは、生きる希望がわかないのです。言葉では誤魔化せない、人生そのものを、親を通して子どもは理解するのです。

 クリニックニュースに、「自分の子どもに対して優秀にしようと考えてはいけない。」と書きました。優秀になる、ということは親と子どもの見栄であり、そのような価値観を植え付けることは、人間形成に害となり、優秀でなければ価値がないかのような差別的価値観を与えてしまうことになります。

 優秀であることと、幸せになることは別の次元のことです。しかし、実際には経済的社会的に劣等では、幸せになることは難しいものがあります。それで、優秀になれば幸せになれると、短絡的に結びつけてしまうのです。

 結婚は、何のためにするのでしょうか。水曜聖研では、聖書人物研究が始まりました。アダムは、一人でいることにたまらない孤独感を持ち、何をしても虚しかったのですが、仕事上の助け手では、その虚しさは埋まりませんでした。妻が必要だったのです。参加者に聞いてみると、「一人でも充実して仕事をしていた。」「いろいろと考えるには、未だ未成熟だった。」などという返事がありました。日本人的だな・・・、という感想を持ちました。結婚が愛し合い、喜びあうためである、という答えが出て来ませんでした。

夫婦は、仕事をするために結婚するのではありません。ところが、多くの夫婦が相手に、優秀な伴侶であることを求めます。聖書は、「自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」(エペソ5・33)とあり、要求するものではないことを教えています。

 結婚して33年が経ちましたが、妻に従順や働きや成果を要求するよりも、仲良く過ごすことのほうがはるかに大事であることに気が付きました。そして、愛し合い仲良く過ごすと、夫婦として非常に効率的に助け合い、優秀になれることにも気が付きました。多くの夫婦が、文句を言い、相手を批判し、そのために感情に左右されて、仕事や生活に支障をきたしているのです。そして、子どもたちは、結婚や成功、優秀さに何の期待も寄せなくなるのです。優秀さが幸せをもたらすのではなく、幸せが優秀な人を作り出すのです。愛し合うことは、手段ではありません。しかし、実際には多くの成果をもたらすのです。

 お読みした聖書では、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」がこの世から出たもので、罪の象徴であることを指摘しています。私達が、その欲によって生きているかどうかは、伴侶や家族に何を期待し、どのように生きているかによって証拠づけられます。聖書は、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。」と命じています。「あなたがたが罪を犯さないようになるため」(1節)に、聖書の教えがあり、キリストのとりなしがあるのです。

 乞食には、妻も家族もいないと思われます。王様が王妃と愛し合い、仲良く過ごしているかどうかはわかりませんが、乞食に馬鹿にされるのですから、あまり感心できるような生活を営んでいるようには思われません。ですから、世の罪人の生活のどちらに影響されることも愚かなことなのです。皆さんも、芸能人や有名人、先哲に影響されることなく、何気ない愛し合う家族と生活を形成することが大事であることをわきまえなければなりません。

 「御ことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私達が神のうちにいることがわかります。」


11月10日 子どもを怒らせてはいけません。  マタイ18114 
マタイ18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」

18:2
そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、

18:3
言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。

18:4
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

18:5
また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。

18:6
しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

18:7
つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。

18:10
あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

18:11
〔人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。〕

18:12
あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。

18:13
そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。

18:14
このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

 「父たちよ。あなたがたも、子どもを怒らせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6・4

 甘やかしや放任によって子どもが怒り、親に文句を言っていることもありますが、そういうのは、「主の教育と訓戒によって育て」てないからであって、次元が違うことです。甘やかされた子どもが怒るということは、親が怒るところを見て、怒ればものごとが自分の思う通りに進むと考えるからでしょう。親に対しては、おべっかを使っていても、他の子どもや弱者に対して怒る習慣は、理不尽な怒りを見聞きしてきたからでしょう。そういう面では、子どもが小さい時に、気分や感情、或いはどのような理由を付けても、子ども自身に納得させない怒りは、子どもが大きくなり親よりも力を持った時に、逆襲に遭うでしょう。つまり、子どもを怒らせるとは、子どもが納得しない、親の自分勝手な行動なのです。

 聖書では、母の役割はどのように書いてあるでしょうか。

 「母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。」(Tテサロニケ27)、とあり、婦人執事になるには「子どもと家庭を良く治める人でなければなりません。」(Tテモテ3・12)。このためには、「悪口を言わず、自分を制し、全てに忠実」(3・11)である必要があり、そのようにしてこそ、「良い地歩を占め」ることができるのです。

地歩を占めるとは、その立場を確立することですが、母としての確立とは、自分の主張をやめ、責任ある母親として生きることの覚悟から来ると思います。未婚の女性が悪口を言わず、自分を制して忠実ならば、間違いなく幸せな結婚をするでしょうが、現代社会では、そのように教えられることは殆どありません。  

  父親はどうでしょうか。

自分の家庭を良く治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人」(Tテモテ3・4)、であることが必要です。長老は、「その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。」(テトス1・6)。

聖研で、人は結婚することによってこそ、自分が罪深いことを知り、伴侶を愛さなければ幸せになれない現実に直面すると説明しました。神は、罪なき人を作ったのではなく、罪深いからこそ、努力して愛さないと、決して幸せにはなれないことを悟らせるために、人を男と女、つまり、夫婦として生きることを定められたのです。罪こそ、人が愛さなければならない理由なのです。そして、神の愛を体験しなければ、愛するということは、途方もなく難しいのです。愛すべき自分の子どもでさえ、愛し優しく育てることは、難しいのです。だから、「子どもを怒らせて」しまうのです。

さて、子ども自体は、どのようなものなのでしょうか。私たちは、大きくなると子どもの頃のことをすっかり忘れてしまいます。ただ、私は、よく考える子だったので、自分のことを覚えています。

 子どもというのは、自分がどういうものか、まったく自己分析をすることはできません。良い子か悪い子か、優秀かだめな子か、何になれるか、自分の親の能力や社会的地位の比較、社会はどのようになっているのか、まったくわかりません。ただ、人の言うことについては、非常に聞き耳を立て、その言葉を信じます。自分のやりたいこと、食べたいものが、良いものかどうかもわかりません。やってよいかどうかもわかりません。子どもには、親の言う論理なども理解できません。殆ど、親の反応を見て身につけて行きます。親がどのような屁理屈を言おうと、そんなものは理解できません。ただ、親が信頼できるかどうかは、自分を愛しているかどうかで、確認するのです。そして、親に依存しています。

 だから、子どもは、当初は、「自分を低くして」おり、親を受け入れ、その言葉に従うのです。「躓きを与える」とは、そのような何でも親に学ぼうとしている子どもに、一貫していない理不尽な行動と態度を示してしまうことなのです。親が平気で人の悪口を言い、自堕落で、怠惰で、感情的であるならば、子どもたちは、人生はそんなものであると考えてしまうのです。

 私は、自分の家に出入りする人々の、嘘やごまかし、善行や正直、喜びや悲しみ、働き者や怠け者、皆見ていました。ただ、自分がどういうものかは、わかりませんでした。人々は私には関心が無かったのです。父や母や姉たちは、私の人格や心の中まで入って来ず、干渉もしませんでした。

 皆さんは、子ども達の見つめる目に耐えられるでしょうか。あなたがたが、平気で罪を犯し、嘘を言い、怠惰であるならば、子どもたちは人生はそんなものであると悟り、そのような人格を形成していって、自分に悪影響を与えた人々を忘れ、同じようになっていくのです。

 私は、幼稚園に行きませんでした。同世代の子ども達の愚かさが耐えられなかったのです。それも覚えています。しかし、小学に入ると、友達に影響され、次第につまらない人間になるほうが、友達を持ちやすいことに気が付いて行きました。そして、2年の時、担任のおばちゃん先生の長期病気休暇の間、クラス編成をして自分が更に悪くなってしまい、その目崎先生を嘆かせた悔いも忘れることができません。そして、現実の友達の愚かさに影響されまいとして、本を読みふけったのでした。その挙句、自分が運動もできず、音楽もできない、つまらない人間になってしまっていることに気が付き、愕然として中学入学の時に、自己改革と希望を持つことを決心したのでした。私は、自分自身に躓き、神と義を求めたのでした。


11月17日 愛のない者に神はわかりません。  Tヨハネ4718 

Tヨハネ4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

4:8
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

4:9
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

4:10
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

4:11
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

4:12
いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

4:13
神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

4:14
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。

4:15
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

4:16
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

4:17
このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

4:18
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。


神の造られた人間が罪を犯すということは、失敗だったのだと異端の教えは言います。そして、罪を犯さず、失敗のない人間になろうと教え指導します。日本の教育の教えは、政府や組織にとって都合の良い、従順で真面目な人を養成するようになっていますから、宗教もそのようなものとなります。キリスト教でも、多くの信者は、良い人間になって人々の模範となり、証しを立てようと考えます。驚くべきことは、私が何度も、「クリスチャンとは自らの罪性を認め、神の義に依存して生きるものです。」と話しても、「神様、私の罪を赦してください。良い人間にして下さい。」と祈る人が多いことです。

 その違いがお分かりになるでしょうか。自分の罪性に覚悟し、良い人間になろうとすることを諦め、神の願う業をすることが大事なのです。先週、良い子に育てようとする親や大人の理不尽に子どもは怒りを感じることがあるとお話しました。自分が良い人間でないのに、子どもに自分への従順や品性を求め、自分の願いや要求を子どもに転じることは、不幸なことであり、悲劇に繋がります。つまり、要求とか期待というものは、愛とは相いれない自分勝手なものなのです。

 そして、良い人間になるという自分への願望も、自己中心な罪性の現れなのです。日本のキリスト教がつまらない品性教育の組織に堕しているのも、神の存在と介入を無視しているからです。先日の教団総会では、当教団の継続的な成長が確認されました。多様な代議員が議論に熱を上げ、在るべき姿を論じながらも、互いの弱さを認め合い、分かち合う姿に感銘を受けました。表紙の祈り合う姿をご覧ください。夜には、2時間の聖会を行い、説教では、「神に扱われ、宣教がブレイクスルー(壁を打ち破る)ためには、私達がブレイクダウン(破局を迎える)経験が必要であり、枝を刈り込まれることによってしか、ブドウの実は実ることがない。」と語られました。

 他人の罪性は、簡単に見極められるものです。どんなに外面を装っても、ばれてしまい、避難や批判をされます。夫婦や家族ならばなおのことです。なぜ、そのような批判をし、良くなることを要求するのでしょうか。

 自分が良い、優れていると思っているからです。自分が罪深く、価値がない、と認めている者は、批判や攻撃をしないのです。罪人の罪とは、罪深いくせに、それを認めないことなのです。そして、多くのクリスチャンが、神に、そのような避難や攻撃をされないような立派な人間になりたいと願い祈っているのです。それは、自らの罪性を認めていないからです。

 私達クリスチャンが、自らの罪を認め、キリストの十字架を自分のためであると受け入れるとは、自分が死ななければならない存在であることを確認するということなのです。もはや良くなりようのない、死に値する罪人なのです。それを信じることが義であるということは、罪性をそのまま受け入れることなのです。

救われ、天国に行くために悔い改めるなどという欺瞞は、神には通じません。私たちは、救われようのない自己中心な罪人なのです。だからこそ、責め合い批判し合うようなことをしたら、それこそ愚かなことです。愛し合うことしかないのです。愛し合わなければ生きられないのです。神の愛がなければ生きられないのです。

 そのような罪人である私達に、神は身代わりとなって罰を受けて下さいました。無価値な私達の生きている意義は、神が愛してくださっているということだけなのです。私達が神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださったのです(10節)。だから、愛し合う以外に、私達の存在理由はないのです。

 朝起きて、ご飯を食べ、仕事をして、ご飯を食べ、寝る、それだけの生活は、罪人の日常生活です。言い訳のように、お祈りをし、聖書を読んでも、その罪深い生活は、大した価値はありません。「愛の内にいる者は、神のうちにおり、神もその人の内に居られます。このことによって、愛が私達においても、完全なものとなりました。」互いに愛し合うことによってしか、価値がないのです。

 幼児は可愛いものです。愛する対象がいるということは、その人に生き甲斐を持たせます。子どもを思い通りに育てようとするのではなく、愛し受け入れるのです。そして、愛することによって、親は自らの存在価値を見出すのです。子どもを要らない、などということは、その人の人生を無価値にすることです。実際に、子どもがおらず、伴侶もいない人は、愛する対象を獲得してください。自分の命を注ぐ対象を獲得することによって、自分のいのちを確認することができるのです。

 人のために祈り、執り成すということは、何という価値あることでしょうか。その幸せを願い、救いを願うことは、私たちを深い神信仰へと導きます。私達の人格を形成します。愛する人がいないということは、なんという無益な人生でしょうか。いのちは、愛する対象に注ぎかけ、すり減らすことによってこそ、光り輝くのです。

 このような説教を続けていますが、もし、相変わらず非難し愚痴を言い合う生活を送っているのなら、あなたの内に神は居られません。愛のない人には、神は分かりませんし、神が内在していない証拠となります。教理的な救いの理解など、何の役にも立ちません。キリスト教は形骸化された宗教ではありません。愛によって生きる人には、神がその臨在と奇跡を現わせます。


11月24日 愛は信仰と希望を必要とする。  Tコリント13413 

新改訳 Tコリ13:4-13

13:4
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

13:5
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

13:6
不正を喜ばずに真理を喜びます。

13:7
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

13:8
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

13:9
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

13:10
完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。

13:11
私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

13:12
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

13:13
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。


先週は、「愛のない者に神はわかりません。」という聖句を紹介しました。神に取り扱われるためには、破局を迎えるような挫折感、認罪感の体験が必要なことが多く、死ぬべき程の罪を自覚するからこそ、イエスキリストの十字架が現実として必要なのでした。そういう面で、私たちは悔い改めで赦しが済むような安易な認罪感では、クリスチャンとして、まともな愛を実行することができないとお話したのです。ですから、改心ではなく、回心であって、心は悔いても改められるほど、簡単な罪性ではないのです。ただ、自分のことを振り返らずに、救ってくださり、愛してくださる父なる神と子なるイエスキリストを見上げることが必要なのです。

 それでは、愛するとはどういうことをすることなのでしょうか。愛のない人には神はわからないし、神も内在していない、と聖書にあります。要するに、聖霊に満たされた人と言い替えることもできるでしょう。聖霊に満たされた人にとっては、愛は当然なことでしょうが、聖霊に満たされていない人、愛がわからない、実践していないと言う人には、やはり説明する必要があるでしょう。

 聖書研修会では、サタンに出会ったらどうするか、の質問をしました。次に怖い暴力団に脅されたらどうするか、と聞きました。驚くべきことに、後者への対応の方が、怖がっていたのです。「身体を殺しても魂を殺せない人たちなどを恐れてはいけません。」(マタイ10・28)とありますが、信仰のイメージトレーニングができていないようです。

 今日の聖句を読んで、どのように思われるでしょうか。感動する内容ですが、要するに天国を完全に信じているから記せることであることを確認してください。「全てを我慢し、全てを信じ、全てを期待し、全てを耐え忍ぶ」ということは、自分が永遠のいのちを確信しているからこそ、出来ることなのです。「天国に行くことを信じている。」と盲信しているかどうかは、ガンなどの不治の病になった時に確認できますが、諦めである場合もあるので、元気なうちに「いつ死んでも恥じることはない。神の御前に立つ覚悟はしている。」と確認することが必要でしょう。

 私は最近少しだけ、「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず」ということができるようになりました。それは、自分が大した人間ではなく、たとえ束の間うまくいったところで結局のところ神の御手の中にあるということがわかってきたからです。そして、自らの利益や願いをかなえようとすることが、罪深い自己中心なことであることが悟ってきたからです。自分が正しいと思って、人を攻撃や避難することが、とても罪深いことであることが少しずつ分かってきました。牧師としては未だ熟せず、皆さんには申し訳ないことですが、どんな罪人に対しても、怒ったり避難したり馬鹿にしたりすることがなくなってきました。自分としては、愛が少し形成されてきたかなと思うものです。

ただ、気をつけなければならないことは、愛というのは積極的な行動であるということです。考えているだけの人は、愛があるとは言えません。例えば、子どもの放埓を黙認している親は、愛があるとは言えません。愛というのは、罪に対して、積極的に改善を務めるということを求めるのです。自分の罪深さがわかり、人を許せるようになったからといって、愛とは言わないのです。それは怠惰というのです。

 信仰者にとって、希望とは自分に関することではなく、周囲の人々の回復や幸せ、そして魂の救いに関することです。自分の魂の救いが確信あることであるならば、他の人々にも、特に愛する人々に対して希望を強く抱くことは必然なことです。

 信仰とは、その希望が実現に至ることを強く信じることです。ですから、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11・6)。アブラハムは、信仰者としてとてもハランなどに住み続けることはできないと感じ、カナンへの無謀な旅を始めたのでした。それは75歳でした。満足に行く人生を生きたいと決心するには遅いように思えたのですが、彼のその後の歩みは、歴史に残る偉大な生涯となりました。

 90歳を過ぎてから詩を作り始め、101歳で死んだ柴田トヨさんの映画「くじけないで」が上映中です。人生が幸せなことばかりなどということはありません。トヨさんも苦労は多かったようです。しかし、くじけていたら、ろくなことはないと詩を詠んだのです。「ねえ 不幸だなんて溜息をつかないで 陽射しやそよかぜはえこひいきしない 夢は平等に見られるのよ 私 辛いことがあったけれど 生きていてよかった あなたもくじけずに」。

 夢を見る、つまり希望を抱くということ、そしてそれを信じること、それが愛の原動力なのです。残念ながら、自分の成功や出世、うまくいくことを願ってばかりいた牧師や信仰者は殆ど挫折しているようです。しかし、真実な信仰者ならば、その中で自らの罪深さを悟り、神にある信仰と希望と愛とを求めるようになってくるのです。


12月1日 救い主を待ち望み、裁きを待つ。  ヨブ記192129節 
新改訳 ヨブ 19:21-29

19:21
あなたがた、私の友よ。私をあわれめ、私をあわれめ。神の御手が私を打ったからだ。

19:22
なぜ、あなたがたは神のように、私を追いつめ、私の肉で満足しないのか。

19:23
ああ、今、できれば、私のことばが書き留められればよいのに。ああ、書き物に刻まれればよいのに。

19:24
鉄の筆と鉛とによって、いつまでも岩に刻みつけられたい。

19:25
私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。

19:26
私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。

19:27
この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。

19:28
もし、あなたがたが、事の原因を私のうちに見つけて、「彼をどのようにして追いつめようか。」と言うなら、

19:29
あなたがたは剣を恐れよ。その剣は刑罰の憤りだから。これによって、あなたがたはさばきのあることを知るだろう。


アドベント(待降節)が始まりました。丁度、聖研でも学んでいますが、救い主預言は創世記3章のアダムとエバが罪を犯した時から始まっています。しかし、アダム自身の救い主への待望ではなく、父なる神ご自身の人間の罪への勝利宣言です。

 聖書には多くの殉教者や試練にあった人々がおりますが、ヨブの試練は最も悲惨なものだったと思われます。大金持ちで大豪族であるヨブが、資産も子どもも失い、そして自らは醜い腫れものが身体中にできて激痛の中に苦しむことになります。妻は、「それでもなお、自分の誠実を堅く保つのですか、神を呪って死になさい。」(ヨブ2・9)と言うのですが、ヨブは「私たちは、幸いを神から受けるのだから、災いをも受けなければならないのではないか。」と罪を犯す言葉を口にしませんでした。

 友人のエリファズは、「神はご自分のしもべさえ信頼せず、その御使い達にさえ、誤りを認められる。」と冷酷な裁きの神を教えようとします。そして、冷酷な神が人を懲らしめて君臨されると間違った考え方を力説して、神に信頼するヨブを戒めます。ヨブは、「落胆している者には、その友から友情を。」(6・14)として、試練の中にある人を裁く間違いを指摘します。また、「人が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに私は何ができましょう。・・・どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、私の不義を除かれないのですか。」(7・21)と、自分の行ないによるのではなく、神の慈愛によって、罪が赦されることを告白しています。

  次に、ビルダデという人が、「神は公儀を曲げるだろうか。」として、ヨブの悔い改めが不十分であり、偽りがあるから試練が続くのだとして、責めます。ヨブは「私は神に言おう。私を罪ある者となさらないでください。なぜ、私と争われるのかを、知らせて下さい。あなたが人を虐げ、御手の業をさげすみ、悪者のはかりごとに光を与えることは良いことでしょうか。」(10・2.3)として、神の慈愛を確信していて、神に人格的な嘆きと訴えを寄せます。

 さらに、ツオファルという人は、ヨブが苦しみ試練に遭っているのが罪人の証拠であると責め立てます。ヨブは、彼の浅薄さを知って、「神の顔を、あなたがたは立てるつもりなのか。神の代わりに言い争うのか。神があなたがたを調べても大丈夫か。」(13・8.9)として、人の弱みに付け込んで責め立てる人に言い返します。

ヨブの信念と信仰の凄さに感心します。人は試練に遭うと、自分の罪深さを原因として、悩み悔いますが、それは信仰と神への信頼の無さの証拠なのです。神は、あなたを責める方ではなく、救う方なのです。

夫が仕事の失敗をしたと妻に告白した時に、それを聞いて興奮し、夫を責めたり、子どもが悪い成績評価をもらった時に責める親は、愛情の欠如です。

人が苦しんでいる時に、良くしようとして周囲の人や家族が責め立てるなら、その人は、愛情を知ることはないでしょう。日本社会は、周囲の人に迷惑を掛けないように気を使う社会ですが、迷惑を掛けたり、問題を起こしたりすると、避難されるようです。試練や災害にあったのに、人のことを気にすることが多く、罰を受けるのではないか恐れる村八分の農村社会のようです。

 ヨブは、「私は知っている」と宣言します。何という強さでしょうか。「私を贖う方は生きておられる。」ヨブの痛み、病気、破産その他の苦しみを全て、自分の身に引き受けて下さる方が、そういう神が生きて働き、自分の前に立つということを信じているのです。

 「この方を私は自分自身で見る。」決して、死ぬことはなく、試練に負けることはない、と告白するのです。「私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。」なんという神への強い愛、強い信仰でしょうか。

 そして、自分を裁く人々に対して、「あなたがたは剣を恐れよ。」と神がヨブの味方をして、仇をとってくださるとまで信じて、相手に警告をするのです。

 私達がクリスマスに信じ、迎える神は、幼子ではありません。私達の味方となり、私達に報い、私たちを栄光の中で迎え入れて下さる王の王、イエスキリストなのです。2000年前の麗しいストーリに感慨深く慕っているのではなく、私たちを迎え入れてくださる救い主に応じる準備をしていなければならないのです。


12月8日 神からの恵みを受け取る。  ルカ14154
ルカ福音書1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。

1:42
そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。

1:43
私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。

1:44
ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。

1:45
主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

1:46
マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、

1:47
わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

1:48
主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。

1:49
力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、

1:50
そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。

1:51
主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、

1:52
権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、

1:53
飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。

1:54
主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。

1:55
私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」



 何と多くの問題や苦難が続くのでしょう。東日本大震災、放射能の害とその対応の拙速さと誤魔化し、台風、秘密保護法、・・・。『正常を救え(精神医学を混乱させるDSM‐5への警告)』という本を読んだら、このマニュアルに従うと5割以上の人が精神病になってしまい、簡単に向精神薬を処方されると書いてありました。つまり、TPPでは、これを推進するアメリカの巨大製薬会社が日本に進出してくるのです。

 家庭の崩壊も大きなものとなっています。保育園でお話すると、それぞれの子どもが家庭でどのように親に育てられているかは、良くわかります。仕事第一で効率を優先して生きる親に育てられた子どもは、不安定で、友達や先生にくっついて愛情を求めています。怒られ、けなされている子どもは、臆病で落ち着きがないか、反抗的で暴力的です。

親たちも、人員削減の中でIT化が進み、少ない人数で多くの仕事をこなさなければならず、労働環境は酷くなる一方であり、その上で子ども達の病気が増えているので、苦労が多く、家族仲良く過ごすことのできる人々は少なくなっています。

 ただ、歴史をみると、国や社会は、そのような悲惨なことの繰り返しで、平和な時代というのは非常に少なく、平和に見えても、内部闘争の繰り返しがあったりしたものです。そういうわけで、天使は「地の上に平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2・14)と叫んだのです。つまり、平和と平安を願う思いは誰にでもあるけれど、平和というのは、御心に適う歩みと信仰を持った人々の心と生活の中に限定されざるを得ないのです。

 マリヤ・クリニックもこのマリヤの祈りにちなんで、良子師が起こり得る試練や艱難を乗り越えるようにと名付けました。本当に多くの試練があり、攻撃があり、問題が積み重なったものですが、一度も休んだことがありません。主が守って下ったことを感謝するばかりですが、そのような祝福を受け取るためには、強い信仰を持つことが必要なのです。

 御使いがマリヤに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます。」(ルカ1・28)と語りかけました。「おられますように。」ではなく、既にマリヤの歩みには主が共に居られていることがわかります。私たちは、祈りで願いを口にするのですが、それを実現しようとしないで、祈りだけで神を動かそうとする場合が多いのです。

 悪いことをしながら、或いは自分に罪や過失があることを自覚しながら、神に助けを願い、憐れみを請う祈りは、いつまでも聞かれません。祈りの中に自らの罪や落ち度を認め悔い改めて、神の御心に生きることを決心して生きれば、それで良いのに、そういう当たり前のことができない信仰者が多いのです。それでは、「主が共にはおられませんよ。」と天使に言われてしまいます。

御使いに、聖霊による受胎を語られても、マリヤは「私は主の奴婢です。どうぞ、あなたのお言葉通り、この身になりますように。」と自らの試練を覚悟しています。試練や困難は嫌だけと、恵みと祝福は欲しい、という人は多くいるものです。試練を覚悟しないで、祝福を得ることを求めてはいけません。賞を得るために競技者は訓練を積み、合格を勝ち取るために受験者は努力をします。恵みというのは、神からの一方的な祝福のことで、それは信じることに伴うということで、信じることが必要なのです。ところが、信じるためには、罪や不正をかなぐり捨てるということが必要なのです。

 マリヤという年若き乙女は、非常に強い覚悟を持っていました。51節から55節にかけて、「心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。」(51)などという、強い正義感に基づいた言葉を恐れもなく、宣言しているのです。戦時下の治安維持法や今度の秘密保護法案では、捕えられる可能性もあります。治安維持法で検挙された人は10万人以上ですから、反体制的なことを話せば直ぐに捕えられるでしょう。クリスチャンとは、捕えられるとか、立場が悪くなるとか恐れないで、正しいことを行う勇気を持つことが大事なのです。そういう勇気を持つことが、御心にかない、神からの祝福を受け取るために必要なのです。

 更にマリヤは、「低い者を高く上げ、飢えた者を良い者で満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」と神のなさることを説明しています。勧善懲悪の宣言であり、神への要求です。

 日本のクリスチャンは、争いを好まないのは良いのですが、悪や罪と妥協するところがあるように思われます。それは、祈りの不足が原因ではないでしょうか。祈りは、この世の流れや人の思惑を超えて、神の御心を求め、実現する思いを私達に起こします。信仰者に祈りがなければ、単に倫理道徳に潔癖な人というだけに終わってしまいます。

 そして、祈りがないから、神の恵みにも応答せずに、世の流れに流されて苦労の多い歩みをするのです。マリヤの正義は、聖書を読みこなし、神の正義をアブラハムまでさかのぼって確認できる信仰の結果なので す。


12月15日 愛と信仰が安っぽくなっていないか。  ルカ16779節 

新改訳 ルカ 1:67-79

1:67
さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。

1:68
「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、

1:69
救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。

1:70
古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。

1:71
この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。

1:72
主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、

1:73
われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、

1:74
われらを敵の手から救い出し、

1:75
われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

1:76
幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、

1:77
神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。

1:78
これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、

1:79
暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」


今年の漢字は「輪」に決まりました。東京五輪の開催決定が大きいと思われますが、東日本大震災の2011年は「絆」、昨年は「金」でした。「絆」に関して、曽野綾子さんが、「絆の条件は、絆を結んだ相手の、悪い運命をも引き受ける覚悟することだ。」(『人間にとって成熟とはなにか』2013)の言葉が強い印象を持ちました。

 家族や学校、そして会社の周囲の人々を非難し攻撃する人々は、自分にとって都合が悪く、思い通りにならないからでしょう。他の人を思い通りにしようとする傾向は、アジアの国々には強いように思われます。アメリカは、国家としては強い干渉をしますが、個人的にはお互いに干渉し合わない国民性を持っているように思われます。私は、日本における「絆」は排他的な、仲間内の共同意識が強いような感じがします。

障害児を育てる親や、病気の家族を世話するということは絆無しには考えられません。それをハンデや不運と取るか否かは、信仰無しには考えられないのではないでしょうか。つまり、排他的な利益共同体としての絆ではなく、苦しみや悲しみ、不幸や試練を共にしながら、支え合い、助け合って生きていくには、信仰や理念が必要であると思います。しかし、理念というのは、経済性や幸不幸によって左右されると脆くも崩れて行きます。

それでは、信仰というのはどういうものでしょうか。私には、信仰や愛というものが、最近、利益や都合、感情によって左右されてきているように思われます。「神に成功や立身出世を祈る。」という御利益信仰は、信じる人の品性や人格を成熟させることを損なわせ、神への信頼という信仰の本質を損なわせる結果となってしまいます。信仰があるからこそ、弱きを助け、強きをくじくという、先週のマリヤの讃歌のような願いと行動が取れるのです。

 私には、このザカリヤとエリサベツという老祭司の夫婦の歩みに感動するのです。ザカリヤは、人生全てを神殿に仕え、生涯一度の香を焚く仕事をすることになりました。こういう仕事は生産性という面では、殆どありません。損得や成果、そして立身出世を求める、現代社会からは、全く愚かな仕事です。それは、現代における多くの宗教界でも見られない、全く見返りのない平凡な仕事です。

 牧師や僧侶が立身出世を求めることは論外なことでありますが、「全てを捨てて主に従った。」ものの、少しずつ、「成功を収めたい。」、「指導者になりたい。」という欲望が起こってきて、信者に檄をとばすこともあり得ることです。ところが、そんな指導者を見ていると、信者の方も、自分の御利益を求める安っぽい信仰になってきて、人格の成長が伴わなくなるのです。宗教の堕落というのは、指導者から始まるのです。

親も子どもを叱咤激励して、成功者になることを求めます。人格者になることや人を愛することを求めるよりも、功利的なことを求めるほうが自分にとって安易だからです。家庭において、子どもを愛し、その絆の故に、他のものを犠牲にする親は少ないと思います。例えば、家庭の団欒を保つためには、職場の栄誉を犠牲にしなければなりません。自分の欲望を抑えて、家族のために料理を作り、雑事をこなし、祈り、聖書を教え、愛の交流を教える必要があるのです。そういうことは、自分の内面が問われるのです。怒りやすく自分勝手な人間が、家族から愛され尊敬されるということはありません。

 ザカリヤのような生産性の無いような、宗教的行為を続け保つ人を、現代社会は愚かな者と見なします。しかし、神が居られるならば、それは最も価値あるものとして、神は、それを喜びます。つまり、祈り、献げ物、伝道、讃美、それらは、信仰者の信仰の質のバロメーターなのです。神を信じていない人は、祈ることはなく、人を助けることもなく、ただ、周囲の人に良く思われたく、また、自分の心の支えや満足のために信仰を保っているのです。

マックリーン宣教師の自叙伝が出版されました。何の飾りもおごりもない、伝道一直線の人生でした。ベンダ夫人は4、5歳の時に宣教師になることを決心し、「ママ、私はね、誰も行きたがらない所に行くの。」と言って、その言葉の通りに、夫と共に歩んだ人です。マックリーン師は、全く教会のなかった土佐清水、四万十、須崎、高知でゼロからの開拓をし、山形や仙台、台湾、そして、最も伝道の難しいと言われる北陸の松任、金沢、氷見、福岡町、富山、上市、魚津で伝道した現代の使徒です。お金があったからやったのではなく、ただ信仰をもって突き進んだ結果として祝福が伴った人です。86歳になる今も、カリフォルニアで刑務所伝道や老人ホーム伝道に明け暮れています。

私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

                   ピリピ3・8-14


12月22日 探求して幾千里。  マタイ2112
新改訳 マタイ2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

2:2
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

2:3
それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。

2:4
そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。

2:5
彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

2:6
『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」

2:7
そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。

2:8
そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

2:9
彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。

2:10
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

2:11
そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

2:12
それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。


ベツレヘムは、異邦のモアブの女性ルツが、その従順な歩みによりボアズに娶られた地です。その曾孫がダビデ王であり、ダビデがペリシテ人と戦っている時に、「ベツレヘムの井戸の水が飲みたい。」(Uサムエル23・15)と呟いたことでも知られている肥沃な田園地帯で、ベツレヘムとは「パンの家」という意味です。石灰岩の地帯なので、石灰岩をくり抜いて洞窟を造り、家畜小屋にしていたようです。私もベツレヘムに行ったことがありますが、生誕教会というのは、その地下にイエス様の誕生の場所という洞窟があります。小預言書のミカ5・2ベツレヘムが「イスラエルの支配者なる者が出る。その出ることは昔から、永遠の昔からの定めである。」と預言されていることをユダヤ人は皆知っていました。

 ヘロデ王は、ユダヤ人とエドム人の混血なので、血統からは全くユダヤ人の王になる資格はなく、ローマ帝国にへつらって業績を上げて大王と呼ばれるようになったのですが、権力欲と猜疑心が強く、自分の座を脅かすと考えた妻や3人の息子を殺してしまうほどでした。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を探しに来たという東方の博士たちが全く自分や王宮を考慮していないのを知ったヘロデが、何をするかと怯えるのはエルサレムの人々でした。ヘロデは、確かに、その後、ベツレヘム周辺の2歳以下の男子を皆殺しにするのでした。

 東方の博士の『マギ』という用語は、ヘロドトスによるとメディヤ王国の末裔でペルシャ帝国では祭司の種族になり、哲学・薬学・自然科学、そして占星学に秀でていた人々のようです。皇帝アウグスト(BC27AD14)の勅令による住民登録(ルカ2・1)、ヘロデ大王の死(BC4年)、ヘロデが死期が近づいてエルサレムからエリコに移った年(BC5年)、クレニオがシリヤの総督出会った時(BC107)、ということで、イエス様の誕生は紀元前7年か6年とされています。ヘロデが殺害命令を出したのが、2歳以下の男の子なので、博士たちが来訪したのは、紀元前5年頃だと思われます。聖書注解者のバークレーによれば、エジプトのメソリという月の第1日にシリウスが異常に明るく光ったのが紀元前5年〜2年の間だとのことで、メソリと言うのは『王子の誕生』という意味があるので、古代の占星学では、偉大な王の誕生と信じたのではないか、とのことです。

 ヘロデ大王の孫のヘロデが演説の途中「神の声だ。人間の声ではない。」と言われて得意になっている時に、虫に噛まれて死んだように(使徒12・23)、権勢を誇っている王も、簡単に死んでしまいます。イエス様の命を狙ったヘロデ大王も死にましたが、イエス様は2000年経った今も、救われた人々の王、救い主として崇められ称えられています。

保育園の子ども達に二つの質問をしました。

@  どうして博士たちは、宝物を持って長い命掛けの旅をしたのだろう。

A どうして豪華な王宮ではなく、貧しい家にいる幼子を王様として崇めたのだろう。


子ども達に答えられるとは思いませんでしたが、私の質問を覚えていて欲しかったのです。ペテロに答えた学者たちも、博士たちよりもずっと近く(エルサレムからベツレヘムまで8キロ)にいたのに、救い主を探そうともしませんでした。現代でも、多くの人が、「忙しい、やる事が一杯ある、大変だ、関心がない、つまらない、働かなければならない、家族の世話をしなければ、・・・」、いろいろな理由で、神も真理も探そうとしていません

神を探し、救い主イエス様のところに来れば、「全て、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしが、あなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを追って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎがきます。」(マタイ11・28.29)という体験をします。

 権力を行使しない幼子イエス様を王として認め、宝物を献げた博士たちの信仰は本物でした。神に御利益を要求するような人は、信仰者とは言えません。私は、39年前のクリスマスにイエス様と出会い救われてから、神に自分の利益を求めた覚えは殆どありません。魂の救いと安らぎ、そして真理と希望を与えてくださった神に対して、自らのものを献げようと生きて来ました。

 私には博士たちの喜びがわかります。皆さんは、いかがでしょうか。魂の救いを得ていない方は、イエス様に近づき、救いを求めてみて下さい。


12月29日 あなたがたのいのちである言葉。  申命記324552 
新改訳 申命記

32:45
モーセはイスラエルのすべての人々に、このことばをみな唱え終えてから、

32:46
彼らに言った。「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行なわせなさい。

32:47
これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」

32:48
この同じ日に、主はモーセに告げて仰せられた。

32:49
「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。

32:50
あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。

32:51
あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現わさなかったからである。

32:52
あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へはいって行くことはできない。」


一年を振り返って想うことは、老いたという実感です。60歳が還暦とはよく言ったもので、人生に一区切りができたことがよくわかります。もはや先頭に立って走り回ることもできず、命懸けで戦う気力も失せつつあります。

その分、人間としては穏やかになってきたなあ、という感慨もあります。人をまとめたり、育てたりするのが出来そうに思えるようになってきました。これまでは、指導や指摘が多くなりそうなので、なるべく正面切って人とは向きあわないように心がけていました。人の弱さや愚かさ、罪深さが、そして、その労りと取り成しの必要がわかって来ました。歳を取るということは、こういうことなのでしょう。

40歳の頃、身体を壊し、痛風と心臓、脂肪肝などで、攻撃的な自分を戒めて、神に委ねるように心がけた時は、意識的な悟りでした。今は、身体的な悟りのような気がします。

 しかし、自分の周囲に、歳をとって失敗したり、恥をかいたり、厚顔な人や、権勢を欲張る人がいることにも気が付いています。信仰者でありながら、功績を求め、仕えることよりも仕えられることを求めてきた人々のような気がします。歳をとって、自慢話や過去の話をして威張ることは、みっともないことです。若い頃、目立った働きをしなかった人が、綺麗な老い方をする場合もあります。老い、というものは、その人の歩みの真贋がわかるような、怖さがあります。自分は、どのような歩みをこれからするべきか、味わい深い日々を送りたいと願っています。

 モーセは、40歳の時に人を殺したこともあるけれど、神がモーセに問うのは、メリバで民の不満に怒ってしまった時のことです。ただ一回限りのことですが、それで神はモーセを約束の地カナンに入れさせないのです。

 たった一つの罪で、地位のある人々が職を追われるということがよくあるのですが、本人は、職を追われるまで、その罪が大きいことに気が付かないのです。猪瀬都知事も、言い訳が通ると思っていたことでしょう。大学教授や警察官、裁判官がセクハラなどで失職することも続いています。他人の罪や事件については、大きく話題にするのですが、自分が犯した罪については、罪であると自覚しないことも、罪を誤魔化すことも、罪を正当化することさえもあるのです。

 「悔い改めれば神も赦してくださる。」、と考えて、罪を犯す愚かな人もおります。しかし、実際は罪を犯してしまうと、悔い改める心もなくなってしまうのです。「しょうがなかった。」という言い訳は、心の中を探り極める神の前では、何の意味もありません。心が死んだような人に会うことがあります。人の罪に苦しんでいる時は、悲しみ、苦しみ、恨み、辛みがあります。しかし、自分の気が付かなくなると、心は死んでいきます。

 モーセは、「あなたがたを戒める言葉を心に納めなさい。守り行ないなさい。」と命じます。神を信じ、神の戒めを守るということは、虚しいことではなく、いのちそのものだからです。年末には、教会から離れた人々のことを特に祈りますが、帰ってきた人は殆どおりません。

 人生において神を信じるということは、なかなか難しいことです。試練が続くと、神を信じることが馬鹿らしくなることもあります。しかし、ある人は、どのような試練においても神を信じ続け、神の戒めを守ります。

 「旅人であり、寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いを挑む肉の欲を遠ざけなさい。」(Tペテロ2・11)。

 人生というものは、神の国への長い旅路なのです。道を外れると、戻ることは難しいのです。