7月7日 収まりのつかない民族。士師記822283435
新改訳 士師記8:22 そのとき、イスラエル人はギデオンに言った。「あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから。」

8:23
しかしギデオンは彼らに言った。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。」

8:24
ついで、ギデオンは彼らに言った。「あなたがたに一つ、お願いしたい。ひとりひとり、自分の分捕り物の耳輪を私に下さい。」――殺された者たちはイシュマエル人であったので、金の耳輪をつけていたからである。――

8:25
すると、彼らは「差し上げますとも。」と答えて、一枚の上着を広げ、ひとりひとりその分捕り物の耳輪をその中に投げ込んだ。

8:26
ギデオンが願った金の耳輪の目方は金で一千七百シェケルであった。このほかに、三日月形の飾りや、垂れ飾りや、ミデヤンの王たちの着ていた赤紫の衣、またほかに、彼らのらくだの首の回りに掛けていた首飾りなどもあった。

8:27
ギデオンはそれで、一つのエポデを作り、彼の町のオフラにそれを置いた。すると、イスラエルはみな、それを慕って、そこで淫行を行なった。それはギデオンとその一族にとって、落とし穴となった。

8:28
こうしてミデヤン人はイスラエル人によって屈服させられ、二度とその頭を上げなかった。この国はギデオンの時代、四十年の間、穏やかであった。

8:34
イスラエル人は、周囲のすべての敵から自分たちを救い出した彼らの神、主を心に留めなかった。

8:35
彼らは、エルバアルすなわちギデオンがイスラエルに尽くした善意のすべてにふさわしい真実を、彼の家族に尽くさなかった。


ギデオンの勇士は300名ですが、私としてはその他の人々への対応の方に関心があります。普通、聖書の話としては、その選ばれた勇士のように恐れず備えある者になれというのですが、その後の展開は決して良いものではありません。それは、選ばれなかった人々や他の民衆に対する啓発や指導がされておらず、結局、「イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(17・6というパターンに変わりがないからです。

 大勝利したギデオンに対して、強勢のエフライム部族が、なぜ最初に呼びかけなかったと激しく責め立てます(8・1)が、弱小のマナセ部族のギデオンはお世辞を言うばかりです。疲れても追撃を続ける300人に対して、ガド族に属する領域のスコテの人々は食事も提供せず、その先のペヌエルの人々も同様でした。ヨルダン川東の山地を食事も十分に取らずに追い回すのも凄いのですが、ミデヤン人の残りの1万5千人も、そこまでは追ってくるまいと油断していて、打ち破られます。この戦いでミデヤン人は歴史的に消滅します(8・28)。凱旋の帰りにスコテとペヌエルの町に報復します。

勝利したギデオンに対し、人々は王として治めることを願うのですが、ギデオンは戦利品だけを受け取り、エポデを作って、大祭司のように振舞います。要するに、神権政治の、神に認められた指導者であると、レビ族でないのに勝手に立場を付けるのです。実際には、この戦いはマナセとエフライム部族くらいしか関わりがないようですが、政治的にも宗教的にも混乱しており、ヨシュアによるカナン征服後、12部族に分かれて、それぞれが勝手に指導者なしに暮らしているので、外敵の侵入が繰り返されていたのでしょう。

そして、勝手に宗教的指導者になったギデオンは、享楽にふけり、多くのそばめを持って70人の息子を持つようになりました。40年間のギデオンの支配の後に、ギデオンの女奴隷の子アビメレクに息子達が殺され、やくざな権力争いの末にアビメレクも死んでしまうことになります。

めいめいが勝手な判断で生き、権力闘争をするのは、日本の現状にも似ています。マニフェストを出しながら、状況に左右されて、それを行おうとせずに別なことをしてしまった民主党の愚かさは、信念なき日本人の特徴です。また、経済優先によって環境破壊や家庭の崩壊を招いた自民党政権の復権もまた、社会秩序の崩壊をもたらす大きな罠となるでしょう。要するに、終末の様相を呈しているということに、私達クリスチャンはしっかりと悟らなければならないのです。

「邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなさい。」(エペソ6・13)。現在もまた、ギデオンのように性的倒錯に陥ることがないように、最も気をつけなければなりません。勝手に自らが神に仕えていると思い込むことがなく、謙遜に聖書を読み続けなければなりません。

エペソ書の武具の最初は真理の帯で、しっかりとした信念で聖書に基づいた人生はいかなるものかを確認して生きる必要があります。大事なものは、金でも地位でも、学識でも健康でもありません。社会が混乱し、環境が破壊した時に大事なものは、神の国に行くべく信念です。たとえ、死んだとしても天国に行くことができる自分を、確保していなければなりません。

次に正義の胸当てをつけるのです。正義は自分の行ないによるのではなく、キリストによる信仰の義です。自分の正しさに頼る人は、必ず罠に陥ります。

平和の福音の備えを足に履くということは、決して争いをしないように自らを戒めることです。

悪い者が火矢を放つのは、信仰の大盾を取ることによって守るとあります。不安や恐れで、道を踏み外す人は多いのです。神を信じるのです。

救いの兜は、頭にかぶります。どんなことがあっても、私たちは神の国に行く、という究極の救いを、忘れてはいけません。そして、聖書の言葉を覚えていなければ、戦いに剣をもって臨むことはできません。そして、祈りの無い人は、戦いにも気が付かずに敗れて行くのです。絶えず目を覚まし、忍耐の限りを尽くして祈らなければなりません。

「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、頼りにならない富に望みを置かないように。むしろ、・・・神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」(Tテモテ6・17-19)。富んでいる人というのは、給料や年金で暮らして行けると考えている人々のことです。これからは特に、生活の基盤を金銭においてはいけません。未来に備えての基礎作りに励むべきです。

判断や決断のできない人が増えています。それは、その人に人生の指針と基礎がないからです。そういう人は、試練の中で自らも家族も崩壊して行きます。しっかりと信仰を持たなければ、教会と言えども助けることはできません。


7月14日 神の国で何するの?  創世記21525 
創世記2:15 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

2:16
神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。

2:17
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

2:18
その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

2:19
神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。

2:20
こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。

2:21
そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。

2:22
こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。

2:23
すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

2:24
それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

2:25
そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。



教会に過ごして、私達の目線はどこにあるのでしょうか。それは神の国です。ところが、多くのクリスチャンの目線が、この世にあるような気がします。

 恋人達が愛し合う時に、互いのことを見詰めないで、相手に好かれる為に、自分を綺麗に装うとか、相手の好みに合わせるということは在り得るでしょう。でも、金持ちになるとか、成功者になるとか、優勝者になるとか、整形手術を受けるとかは、やり過ぎで、却って嫌われてしまうことになるかもしれません。

 神の喜ばれ、神に愛されるためには、神ご自身を愛することです。

 「神は愛です。愛の内にいる者は神の内におり、神もその人の内に居られます。」(Tヨハネ4・16)。「もし、私達が互いに愛し合うなら、神は私達の内に居られ、神の愛が私達の内に全うされるのです。」(4・12)。「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(5・3)。

 エホバの証人やモルモン教など新興宗教の特徴は、その宗教のために現実生活を犠牲にして布教活動を行い、教勢拡大を図ることです。それは、この世の企業論理に似ています。つまり、資本家や経営者のために企業の活動が為されており、従業員や顧客の為ではないのと同様で、新興宗教の信者の多くは、その宗教の犠牲者となっていくのです。

 聖書の神は、私達に愛を要求する前に、自ら犠牲となって私たちを愛してくださいました(Tヨハネ4・10)。「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(4・11)。つまり、真実の宗教の特徴は、信者同士が深く愛し合い、大事にし合うことであり、そのことが神の愛の願いなのです。

 ですから、愛をテーマにして自己犠牲的に伝道をすることは、聖書の神の願いではありません。ところが、肉体の鍛錬のように、「定めに縛られる」そのようなものは「何の効き目もないのです。」(コロサイ2・23)。日々の生活の中で、自分勝手な伴侶や家族を受け入れて愛するほうが、はるかに犠牲的伝道活動よりも難しいのです。自分の夫や妻への、愛を実践することなしに、社会で働いたり、家事をしたり、或いは趣味に没頭する方が、はるかに簡単なのです。

 夫婦仲の悪いクリスチャンや子ども達へ厳しい干渉を続ける親を多く見うけることがあります。或いは、宗教活動に熱心なあまり家族でくつろいだり、一緒に食事をすることも少ない夫婦も多くおります。一日は、24時間あり、8時間の睡眠、8時間の労働、8時間の休養が日々の生活で大事なことです。さらに、安息日を聖なる日にせよ、とは「労働をしない。」という神の至上命令であり、どんな仕事もしないので、「奴隷も、あなたと同じように休むことができる。」(申命記5・14)とあり、休むのです。

注意欠陥障害という症状の人が多くなっているように思いますが、その特徴は「くつろぐことができない。」ということのような気がします。くつろいだ生活を過ごしていないと、セロトニンが分泌されず、さらにくつろぐことができなくなります。くつろがないと消化吸収も悪くなり、セロトニン生成の栄養素も吸収できなくなります。なにか罪の故の咎のようなイメージが浮かびます。「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主の全ての命令とおきてを守り行わないなら、次のすべての呪いがあなたに臨み、あなたは呪われる。」(申命記28・15)。

 創造の時、アダムは園を耕し、管理しましたが、伴侶がいないので、寂しかったのです。人生の意味合いは、伴侶を神によって与えられ、その後は、何としても、その伴侶と一緒に自らの与えられた仕事をしていくのです。その時に、互いに隠すべきものを持たず、裸の付き合いができなければなりません。へそくりはだめです。隠し事も誤魔化しもだめです。

 しかし、罪によって労働は苦役になり、夫婦は愛し合うことができなくなりました。それでは、罪許されたクリスチャンの最も大事な使命は、労働を喜びとし、夫婦が愛し合うことです。一日8時間は仕事をし、8時間は人を愛するために費やさなければなりません。そして、日曜日ないし、その他の一日を休みに充てるのです。休みとは、魂と肉体の休息です。遊び回るのではなく、くつろいで過ごすのです。

 睡眠時間が8時間はいらない、という人もいますが、そういう人は肉体の休憩を8時間取るべきです。これを確保しないと早死にします。或いは病気になり、強制安息を取ることになります。

 毎日8時間をくつろぐことに費やさず、家族や夫婦の交流に費やさない人は、間違いなくその償いをしなければならなくなります。しかし、それを災いや苦痛と考える人は、さらに大きな試練に会わなければなりません。代価は愛によって、払わなければならないのです。

 労働は一日8時間で十分です。私自身、一月の仕事時間は200時間くらいでしょうか。少し多いと考えています。働き過ぎるほうが、ろくな仕事はできません。大変失礼ですが、一日10時間以上働く人は、苦役ということを考えざるを得ません。お金を使い過ぎるから、労働時間を増やさなければならないのかもしれません。お酒やたばこ、ギャンブル、社交、かなり無駄な時間と出費を当然として、敬虔な信仰生活は無理なものです。

 神の国に行っても、暇すぎてやることがなくて苦労しそうな人は、地獄の苦役の方に回ってしまうかもしれません。よくよく注意するべきです。


7月21日 安息年の生活を暮らせますか?  レビ記25171822 
新改訳 レビ 25:1-7

25:1
ついで主はシナイ山でモーセに告げて仰せられた。

25:2
「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたがはいったとき、その地は主の安息を守らなければならない。

25:3
六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。

25:4
七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。

25:5
あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。

25:6
地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、

25:7
また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。

25:18
あなたがたは、わたしのおきてを行ない、わたしの定めを守らなければならない。それを行ないなさい。安らかにその地に住みなさい。

25:19
その地が実を結ぶなら、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。

25:20
あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか。』と言うなら、

25:21
わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。

25:22
あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。



木曜の午後、スイミングクラブに行くと、夜とは違う方々が楽しんでいました。水中エアロビクスでは、インストラクターの通りではなく、適当に手を抜いて身体を動かし、水泳はメダカの学校のようで、水中ウォーキングは列をなしているのに、全員が違う歩き方でした。マットで身体をほぐしていた老人は、ほぐしたまま横に眠ってしまい、15分ほどしたら、そのまま動き始めました。一年中が休日のようですが、「神の国で何するの?」という先週の説教を思い出し、天国ではこういうことはあるのだろうか、と考えながら眺めていました。健康維持のためですが、天国には肥満も病気も無い、というならばスイミングクラブはないでしょう。

 イオン地下のビュッフェでは、多くの高齢者が昼食時間にたむろしています。昔は若い人たちが「たむろして」いたのに、最近は高齢者です。やることがないので、食事になるべく時間を掛けようとしている様子です。大学の同窓会に行ったら、先輩方ばかりで還暦の私など若造です。世代を同じくする人は、退職が迫っていますが、退職後のことなど何も考えていません。どうにかして働き続けたい、という願いばかりです。子どもの頃から働き詰めで、休むこともなく働いてきた世代が、やることがなくなる、仕事がなくなる、ということは辛いことです。同窓会では、「私達の世代は七〇過ぎまでは働ける。若い人の仕事を取ってしまうようなあ。」と言っていましたが、実は多くの人が既に病気持ちでした。

英会話でGAP YEARという単語を学びました。高卒から大学入学まで、或いはその他の節目の前に、今までの環境では経験しえない所に行ったり、活動をしたりすることで、ワーキングホリデーやボランティア活動など海外へ行くことも含みます。

仕事というのは、利益や給料を得るためのものですが、利得を得るためのものは、それで目的が達成してしまいます。「生きていくためには働かなければならない。」という論理が日本や経済社会を貫いています。それでは、聖書はどうなのでしょうか。

安息日は、「休む、安息を取る」ということが目的ですが、それは仕事のために休むことが必要なのだという意味付けをしてしまう人も社会もあります。しかし、七年に一度の安息年は、どういう意味合いなのでしょうか。「種を蒔いたり、剪定をしてはならない。」ということであって、「土地を休ませる目的なのだから、他の仕事はしても良いのだ」という考え方もあると思います。しかし、五〇年に一度のヨベルの年は、二年間働かないことになります。農耕社会の通念では、土地は荒れてしまうことになるのです。ヨベルの年では、売った土地は無償で登録してある持ち主に返り、奴隷も解放され、借金も棒引きになるのです。経済原則の完全否定です。二年間働かないで、その前の年の収穫で三年分生きろ、という神の命令です。かなり厳しい、「生存は神の恵みに依存しろ」という原則論の徹底です。

ヨベルの年には、雄羊の角でできたラッパがイスラエル中で鳴り響かされるとあります。それは解放の宣言です。奴隷も借金も解放されるのです。そして、労働も解放されるのです。それは、罪からの解放を知らせる福音の宣言に似ています。
そうだとすれば、労働は罪ということになるのでしょうか。罪を犯す前、アダムはエデンの園を耕していたとあるので、労働そのものは罪ではなく、罪によって「土地が呪われ、労働が苦役になった」と創世記(3・17-19)のです。

 それでは、安息年やヨベルの年に彼らは何をしたのでしょうか。

聖書を学び暗記し、信仰を身につけることを第一にしたのです。 「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのもので生きるということを分からせるためであった。この四〇年の間、あなたの着物はすりきれず、あなたの足ははれなかった。・・・主があなたを訓練される。」(申命記8・3-18)。自分の力で富を築き上げたと言わないように。主に心を据えなさい。

 次に、安息によって学びと知恵の充実した日々を過ごしたのです。ユダヤ民族の優秀さは知られていますが、生活の質と自らの質を高めるために地やされたのではないでしょうか。面白いことに働くことが好きな人は、学ぶことや味わうことをあまりしません。学問というのは、知識を身につけると事ではなく、考え模索し、指導を受けて、体験して行くことです。これには時間が必要なのです。勉強ばかりしている人に、学問は身に着きません。生活の工夫も凝らしたでしょう。家も増築し、新婚の人に家を建てたかもしれません。

 更に、趣味や芸術を高めたでしょう。利得のために働かないということは、大変貴重なことなのです。詩篇を読むと楽器の演奏や讃美が記されています。着物を織ったり、敷物を作ると箴言31章にありますが、それらも楽しみの中でできるでしょう。

 また、子育てや教育に時間を掛けることもできます。

 休日をレジャーに充てるとして、遊ぶことばかり考えている人では、充実した楽しい安息を過ごすことはできません。聖書を自分の人生の指針として、しっかりと身につけ、神に依存する人生を歩むことが信仰者として大事です。

今年、何冊の書物を味わって読みましたか。趣味に時間は掛けましたか。楽しみは、何ですか。真実な信仰を味わう為には、労働を離れなければなりません。仕事に忙しい時こそ、それが問われるのです。


7月28日 神の祝福と人間の行為  詩篇1篇3節 櫻井圀郎師

聖書直訳:詩篇13
 彼は、水の運河の側に植え換えられし木、即ち、その時にその実を生じ、その葉一葉も枯れざる木の如し。而して、彼の為す全事は成功させん。

直訳修正:

 彼は、水路の側に植えられた木のようである。即ち、その時にその実を生じ、その葉一葉も枯れない(木のようである)。而して、彼の行うすべてのことは成功させる。


8月4日 信じて実を結ばないと。  マルコ11章12142025
新改訳 マコ 11:12-1420-25

11:12
翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。

11:13
葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。

11:14
イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。

11:20
朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。

11:21
ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

11:22
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

11:23
まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

11:24
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

11:25
また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」



我が家ではイチジクの実が多くなっています。無花果という名のとおり、花が咲かずに実がなるようですが、実の中に花があるのだそうです。一つ一つの葉の元に実がなっており、葉があれば実はつくのが普通です。実が付かないのは、日照不足や剪定方法に問題があり、実が大きくならないのは、水分不足やカミキリムシの影響だそうですが、それは日本の情報です。木が大きくなると別になにもしなくても実が付いたというのが、子どもの頃の印象です。イチジクは最古の栽培果実であったという説もあり、メソポタミアでは6千年以上前から栽培されていたようで、イスラエルでは栽培はそれほど難しくはなく、乾燥イチジクは非常に多く食用とされています。

 アダムとエバが罪を犯した後に、裸でいることを恥じて、イチジクの葉で腰の覆いを作ったとあり、聖書で最初に名前の出る果実です。ちなみに、「善悪の知識の木」の実がリンゴであるとは書かれていません。

 マタイ24章には、「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。」とあり、十字架に掛かる前の春には、いちじくが実を結ばないことはイエス様もご存じです。「葉が茂ったいちじく」(11・13)とあり、季節外れに葉が茂っていたので、実もあるかとお腹の空いていたイエス様が探されたのです。つまり、この時期には葉は茂っていないはずなのです。

 葉が茂っていたら、実もついているはずなのに、季節外れに葉だけが茂っていたことに、イエス様が怒って呪いを掛けられ、翌朝その木は根まで枯れてしまいました。そのことを見たペテロの質問に対して、イエス様は、「神を信じなさい。・・・心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」と答えています。

 イエス様の呪いも不可解で、この質問に対してこの答えも不可解です。季節外れに葉を茂らせていなければ、イエス様は怒らなかったのでしょう。通常どおりに、春に新芽を出し、夏に実を実らせれば、何でもないのに、実がないのに葉を茂らせる、つまり虚栄や偽りに腹が立ったということでしょうか。「神を信じなさい。」と激しい言葉を言われるのは、信仰の実体がないのに、信仰者であると見せかけることへの怒り、というように理解されます。本当に、信仰があるならば、その実りはあるはずなのに、「実りが無いのに、信仰者だと見せかけている人は呪われる。」という激しい内容に解釈されます。そして、その怒りは、なぜ、本気で神を信じないで、自分は信仰をもっているかのように振舞うのかという、みせかけの信者への怒りを示し、神の裁きを教えている、ということになります。日本人クリスチャンには厳しい教えです。

先週の櫻井先生は、木というものは、植えられた場所に依存し、水が無ければ育たないのに、水路の傍に植えられたということは、一方的な恵みであると話されました。人間は自立できないもの、神に依存するしかない存在であると教えられました。

 「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ、その人は水路の傍に植わった木のようだ。」と話され、「時がくると実がなり、その葉は枯れない。」その人は何をしても栄える。」(詩編1・3)とあります。クリスチャンに実がならないのならば、神と繋がっていない証拠となるのです。実がなっているかどうかは、人々がその実を取って食べ、喜び味わうかどうかによってわかります。

 根まで枯れたいちじくを見た弟子たちは、イエス様の怒りの大きさに驚かされたでしょう。自分が祈ったものが実現しなかったら、神の前に恥じて、自分の不信仰や罪を悔い改めることが必要なのです。

 先月、大阪に行きましたが、それは「千葉に働きに来い。」と言った人に対して、その後の働き掛けをしないことを悔いたからです。事情に左右されて来られないならば、私としては神の前に責任はありません。私は、三度働きかけています。今回、暑いフロリダに行くのも、「英語宣教師が欲しい。」と神に願ったことの働き掛けをする責任を感じたからです。MYビルの購入の時に、打算や人の働き掛けを断ったのも、神ご自身が働いてくださることを信じなければならない、と考えたからです。

 信じる、ということは、その実現のための全ての犠牲を払うことを必要とします。例えば、神を信じます、と表明したならば、神を信じることに伴う損失や犠牲を覚悟しなければなりません。神に献身します、と表明した人は、献身的な生活の犠牲を払わなければなりません。それが出来ない人は、献身するなどと表明してはならないのです。偽りの表明を神は、嫌うのです。

 私は、牧師として人生を明渡し、献身すると表明したので、献身しなければ、呪いに遭うのです。それを覚悟して、献身生活をしているのです。別に対してことはしていませんが、神を第一にすることを怠ったら、私は災いに遭うのです。しかし、献身していれば、神は私を献身者として、普通の人以上に祝福されるのです。そういう面で、献身表明をして、献身的な生活をしていない人は、悔い改めて、献身ができないことをお許しください、と責任を感じ、罰を覚悟しなければならないのです。それが神との契約です。信仰者が、信仰によって生きることをないがしろにしたら、呪いに遭うのです。信仰によって生きたら、大いなる祝福を得るのです。神を軽んじてはいけません。


8月11日 「聖霊の流れに乗る」 使徒行伝15135節 市川キリスト教会 下道敬子師

使徒言行録15135節(新共同訳)

1.ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
2.それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。
3.さて、一向は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。
4.エルサレム二到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。
5.ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。

6.そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
7.議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いてしんじるようになるためです。
8.人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。
9.また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。
10
.それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも追いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。
11
.わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

12
.すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。
13
.二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。
14
.神がはじめに心を配られ、異邦人たちの中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。
15
.預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。

16
.『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を立て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。
17
18.それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」昔からしらされていたことを行う主は、こう言われる。』

19
.それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
20
.ただ、偶像に備えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙に書くべきです。
21
.モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」


8月18日 一番になろうとしてはいけない。  創世記1119

新改訳 創 11:1-9

11:1
さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

11:2
そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。

11:3
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

11:4
そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

11:5
そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。

11:6
主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。

11:7
さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

11:8
こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。

11:9
それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。


内紛や民族の争いは世界各地で起こっています。中国の日本攻撃は国家的策略なのでしょうがないものの、韓国人の日本攻撃は怨念のようなもので、いつまでも止まることはないでしょう。日本人にも、原爆や戦後の仕打ちなど腹の立つこともあるのですが、あまりそういうことに固執しないのが、国家的長所かと思われます。世界的にも歴史を振り返ると、残虐なことは常に繰り返されており、人間は愚かで罪深いものですが、近隣の国家との争いというものは、やはりどうしようもないもののようです。

 アメリカに行って、その成長ぶりと繁栄に驚きました。アメリカ人は待つということに、決して苛立たず、仲良く楽しんでいます。中国や韓国では、列を越して先に行こうとすることが当たり前で争いが起こります。日本ではともかく忍耐して待っていることと比べても、欧米のマナーの良さには驚きます。知らない者でも、エレベーターや入口では声を掛け合っています。会話にはいろいろな言語が混ざっており、黒人、アジア人、ヒスパニック(スペイン系)、などいろいろな人が交流しています。むろん、いろいろな軋轢が実際にはあるのかもしれませんが、表立った争いはありません。

 飛行機の中で「42-世界を変えた男」を観ました。黒人(アフリカ系アメリカ人)初の大リーガーとなったジャッキー・ロビンソンの差別と屈辱の中での努力と成功の物語ですが、差別や攻撃と戦ってきた人が英雄としてされる国家の強さを感じました。背番号42は、アメリカの全ての野球チーム(アマチュアに至るまで)の永久欠番となり、4月15日は「ジャッキー・ロビンソン・デー」となって、差別がないしるしとして、全員が背番号42を付けることがあります。ドジャースの会長ブランチ・リッキーは「君はこれまで誰もやっていなかった困難な戦いを始めなければならない。その戦いに勝つには、君は偉大なプレーヤーであるばかりか、立派な紳士でなければならない。仕返しをしない勇気を持つんだ」と言い、マタイ5・39の右の頬を打つ者に左の頬を向けなさい、という言葉を引用して右の頬を殴ったそうです。

 韓国経済も中国経済も壊滅的ですが、他国を避難攻撃する国家が繁栄した例はありません。むろん、アメリカも危ない時はありました。エジプトにしても同様で、争いで繁栄することはないのです。安倍首相も、対決姿勢の多い人ですが、危険であることは事実であり、戦争を前提とした憲法改悪を目論む政治に注意を向けるのはクリスチャンの義務であります。

 さて、今日の聖句で取り上げられることは、「天に届く塔を建て、名を上げよう」という危険性です。ナンバー1になろうとするクリスチャンが多いようです。自分の成功や出世を願うことは構わないのですが、一番になろうとすることは、比較であり、他を負かす欲望です。自慢です。排他的成功を願うことは危険です。なぜ、神がバベルの塔を危険とされたのか、それは排他的自己実現であり、神に従うという意識がないことなのです。

 第二に、勝利や成功のための統一や一致の危険です。「一丸になって」と言いますが、人間は多様性があり、他の人に自分と同じ考え、志向、努力を要求することは、それ自体で危険なのです。一致とは、同じ方向を向くことだとして、同じように努力を重ねる夫婦や集団を見て、検証性や思いやりのない危険性を見ます。夫婦や教会が全く同じ考え方や志向を持つのは、それ自体で危険です。このようなことを言う牧師はあまりいないかもしれませんが、神と共に過ごすということは、目的志向では無理なのです。

 人は、相手や組織に自分の要求をぶつけます。しかし、聖書は「自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。」
(マタイ7・12)と黄金ルールとしています。妻が、ディズニーの「エベレスト探検」というジェットコースターになったら、吐き気がして動けなくなってしまいました。私は、高く景色が良いので喜んでいたのですが、女性の弱さにも気が付き、その類のものは乗るのを控えました。しかし、妻自身は、ビュッフェでは相変わらず食べ過ぎて、お腹を壊すことを繰り返しています。それもまた、楽しみとして理解するべきでしょう。人を思い通りにせず愛する、ということの訓練では夫婦は最も役に立つでしょう。

 第三として、このバベルが背徳の町であったことに注意しなければなりません。成功や事業のためならば、何でもして良いと考える人々がいます。会社の仕事のためなのだから、と人を犠牲にし、モラルを失って行動する場合があります。そのようにして、人は堕落していくのです。

 ジャッキー・ロビンソンも実は糖尿病となり、五三歳の永久欠番の式典では、杖なしでは歩けず右目が失明していました。選手として成功した後は、次第に肥満して行きました。ストレスの中で、勝利を目指して節制するのは、難しいことです。責めるべきではありませんが、アメリカに行き、肥満と足の悪い人々が非常に多いことに気が付きました。経済優先の成功思考の社会では、ゆっくりと料理をし、ゆっくりと食事をすることが難しくなっているようです。


8月25日 政治家は戦争を好む。  Tサムエル81022
新改訳 Tサムエル8:10 そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。

8:11
そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。

8:12
自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。

8:13
あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。

8:14
あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。

8:15
あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。

8:16
あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。

8:17
あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。

8:18
その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」

8:19
それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。

8:20
私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」

8:21
サムエルは、この民の言うことすべてを聞いて、それを主の耳に入れた。

8:22
主はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」そこで、サムエルはイスラエルの人々に、「おのおの自分の町に帰りなさい。」と言った。




アメリカ人の国を愛し誇りと思う気持ちは、移民でさえ持っているようで、アメリカの成長の原動力を為しています。アメリカは、移民の国であり、世界中の苦しんでいる人々にとってアメリカに行きさえすれば、という希望を与え続けているようです。愛国心は、どの国の人々もあり、日本人も同様にあるのですが、国家や国旗に関しては異説、反対論もあります。それで戦後日本は、愛国心と言うと、なにかぎこちないものを覚えます。戦中の帝国主義による内外への侵略行為・暴挙の後遺症が解消していないからであろうと思いますが、自民党らの右翼政治家にとっては、魅力ある繁栄の歴史なのかもしれません。

 改憲、特に9条の修正を目論むことは、戦争の遂行権を確保しようとする動きであり、既に集団的自衛権の承認を目論むために内閣法制局長官を代えたりして自民党は動き始めています。政治家、国の指導者にとって、戦争をするということは、魅力なのでしょう。犠牲は、国民であり、戦争によって国家は破綻してきたのにも関わらず、一部の戦勝国の繁栄を羨んでいるのです。

 なんと多くの人々が戦争の犠牲になり、家族が、社会が崩壊してきたことでしょう。政治家がこの犠牲者を見ていないことは、福島原発の事故とその処理の様子を見ても明らかです。

 聖書は、王を求めるイスラエルの民に、このことを警告しているのです。王というのは、戦争をしたがるものであり、人々を自分の繁栄のために搾取するのです。そして、税金を取り、もっとも優秀な人々を抱えあげ、王の仕事をさせるのです。国民は、王の奴隷となり、「自分達の選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、」もはや神は応えようがないのです。愚かな国民は、王が勝って、自分達の国を繁栄させてくれることを期待するのですが、負けて略奪されることは考えないのです。

 戦争や戦争のうわさ、民族の敵対は、終末のしるしです。もはや避けて通れない世界戦争への道を世界中が進んでいるのです。
残念ながら、日本だけが免れるわけにはいきません。なりふり構わぬ利益追求の経済戦争が、至る所で勃発しています。TPPにしても、世界経済が同時に破綻し、食物供給が同時に崩壊するための方向でしかないのです。例えば、TPPで食物価格が安いということで日本の農業が崩壊し、世界に食料を供給する地域が地球温暖化で環境が悪化し供給できなくなったら、どうなるでしょうか。食料を確保するための、略奪戦争が始まるのです。既に中国では、砂漠化で食料供給が不足し始めています。世界中で、砂漠化が進み、食料の自給が難しくなっているということは、食料供給をTPPなどで独占した企業が、暴利をむさぼることにもなるのです。食べるものが無いということで、人々は暴徒化するのです。

 経済的には国境はなくなりつつあります。中国や北朝鮮でさえ、貨幣経済に呑まれて、為替管理が国を左右するものになってきました。1ドルが80円から100円になれば、26兆円の7割を海外に依存するトヨタの売上は30兆をを越し、大変な利益を生み出します。(実際には海外生産が多くなっていますが)。円が3割安くなれば、国際的に労働力も3割安くなり、競争力も強くなります。そういうことで、世界経済というものは、これだけ流通量が増え自由化されると、一部の国際企業が世界を左右する力を持つのです。そして、実際には、経済的観点から政治が動かされるのです。

 イスラエルに王を求めるという民の願いは、厳しい徴税、徴兵、搾取となりました。現代社会の繁栄を求める人々の欲求は、戦争、経済戦争、社会の崩壊、健康の破壊、その他、破滅的・終末的様相をもたらすのです。

 これからは、弱い企業は倒産をしていくでしょう。大企業だからといって安心してはいけません。独自のものを持たない会社も店も潰れて行きます。公務員は決して辞めないようにしましょう。生きる為の戦いには、公務員が一番間違いのない仕事です。インフレが進めば、貯金は価値がなくなります。物価は高くなり、食料は不足して買えなくなっていきます。財政破綻するので、健康保険は高くなり、医療費も高騰します。食料が高くなるので、小さな飲食店は経営が成り立たなくなります。小売店もみなつぶれます。

デトロイト市のように破綻すると年金ももらえなくなり、人々は働き口を探して移動します。公共団体も、破綻と成功が顕著になり、企業も同様、国も同様です。ギリシャは、ユーロに属しているので、インフレで切り抜けることができません。働き場もないので破綻し、他国へ人々は移住します。そして、移住された国も、移民者を迫害します。そして暴動が起きるのです。韓国も中国も、人々は逃げ出し始めています。日本は、どうにかやって来れましたが、TPPで破綻するでしょう。農業が破壊し、小売りが破綻すると経済は成り立ちません。そして、戦争が始まるのです。

 アメリカでは、粗悪な食物を食べ、運動をせずに足がむくみ、まともに動けなくなっている人々を多く見ました。健康管理をきちんとせず、身体を甘やかしてしまった人々は、試練の時に歯ぎしりして苦しみます。

 信仰を強くし、自分を強くしなければなりません。甘えて過ごしている人は、崩壊するでしょう。私は何を言っているのでしょうか。終末が迫ってきていることを伝えているのです。そして、それは、王を願い、自分達だけの繁栄を願う人々の罪と欲望の結果としてもたらされるのです。救われるのは誰でしょうか。質素に倹約し、神に忠実に仕えて、信仰生活を全うした人々です。

 「目を覚ましていなさい。」(マタイ24・42)。「用心していなさい。」(24・44)。主人が帰って来た時に、自分に任されていたことを忠実に賢く働いていた僕は、褒美をもらいます。私たちも、主に喜ばれるような日々を、現在だからこそ歩まなければなりません。


9月1日 真理に基づいて判断する。  マタイ221522節 
新改訳 マタイ 22:15-22

22:15
そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。

22:16
彼らはその弟子たちを、ヘロデ党の者たちといっしょにイエスのもとにやって、こう言わせた。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。

22:17
それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」

22:18
イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。

22:19
納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。

22:20
そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」

22:21
彼らは、「カイザルのです。」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

22:22
彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。


憲法を変えるという論議が出ています。化学兵器を使ったシリアを爆撃するとアメリカ政府は判断し、日本政府は賛成しています。放射能汚染のタンクから水が漏れ出て、レベル3の危険とされて、外国から非難されているのに、国会は審議を先送りしています。これらのことの判断基準は、どのようなものなのでしょうか。私達は、何を基準として、これらのことの是非を判断するべきなのでしょうか。

 プロテスタントのクリスチャンの判断基準は、当然ながら聖書ですが、それを具体的に適用するのは難しいので、教理というものを確認します。当教団の場合には、「基本的真理に関する宣言」として、16項目がまとめられています。アメリカ・:アッセンブリー教団の場合には、牧師はこの教理に同意する署名と負担金の支払いを毎年求められ、更新しているそうです。日本では、教職として教団加入の時に、その誓いをした上で任命されます。更に、4年以上教職であり、試験に合格した正教師でなければ、聖餐式や洗礼式、そして葬儀や結婚式をすることはできません。

 その正教師は、教会の信仰及び運営が教団の教理及び教規に基づいて為されることに責任を負い、定期的に報告をしなければなりません。牧師が正教師でない場合には、正教師の指導と主管を受けなければなりません。そして、牧師は、その教会と信徒が、聖書と教理に基づき、信仰生活を守るよう責任を持たなければなりません。

 牧師や信徒は、聖書と教理を守るといっても、それは信仰に基づいた人格の問題であって、実際には守れない人も、罪を犯す人も、社会的犯罪を犯す人も起こる場合があります。牧師の場合には懲罰委員会があり、信者の場合には、戒告や除名などがあります。実際には、殆どこのような処罰が為されることはありませんが、教会の倫理性を保つためや他の信者への危害を加える場合には、あり得ます。

 個人や組織については、そのような内部規定の他に警察や裁判所がありますが、国が間違った判断をする場合には、どうしたらよいのでしょうか。

 学校で習うことは三権分立で、行政・立法・司法がそれぞれの権力の集中を抑えることになっておりますが、現状からも歴史的にも、行政権が一番強く、他を操作するようです。ただ、憲法で明確に主権は国民にあるとされており、国民がそれぞれの指導者を選ぶことになっているのですが、実際には選挙権は立法府に対してだけです。アメリカの場合には、行政を担当する大統領は国民が選ぶので、同じく選ばれる議員とは対立する場合もあります。面白いことに、大統領の政党と多数派の政党は、異なる場合が多いのです(現在は下院が共和党で大統領は民主党)。アメリカ国民は、権力の集中を警戒するのでしょうか。先週、「政治家は戦争を好む。」と話しましたが、アメリカ大統領は特に、そのようです。

イエス様が殺害されたのも、権力闘争で自分達の権力が損なわれるのを危惧したパリサイ人、ヘロデ党、律法学者、祭司長、その他の指導者たちの罠でした。彼らは、イエス様が、@真実な方、A真理に基づいて神の道を教え、B誰をも憚らない、C人の顔色を見ない、ということを知っていました。だからこそ、彼らにとって怖かったのでしょうが、彼らは、それを利用してイエス様を罠に掛けようとしました。

 憎むローマに税金を払うという不満をユダヤ人が持っていることを利用し、もし、税金を否定すればローマには反逆する者とし、税金を肯定すればローマに組する者として攻撃しようとしたのです。イエス様は、デナリ硬貨を見せ、それを鋳造する政治的な者に政治的なことは任せなさい、と言ったのです。

 そのようにして、イエス様は政治的なことには介入なさらず、結局のところ、教えは広めたものの、政治的な介入によって、十字架刑に処せられてしまいました。

 さて、それは敗北だったのでしょうか。イエス様は、はっきりと「人の子が栄光を受ける時が来ました。」(ヨハネ12・23)と言われて、一粒の麦が地に落ちて死ねば、豊かな実を結ぶ、とご自分の十字架の死を栄光のものとして預言されたのです。「今が、この世の裁きです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」(ヨハネ12・31)と、この世の支配者の敗北を宣言します。

 クリスチャンたる者、この世の政争、紛争、戦争に一喜一憂して、喜怒哀楽を現わすべきではありません。残念ながら、世の中は崩壊して行き、社会は乱れ、経済は誰もが破綻するのです。そして、悪人が経済を支配し、人を支配し、国を支配するでしょう。

 私たちは、誠実な信仰を保ち、悪に負けず、社会の乱れに乗ぜず、人を助け愛し、地の塩、世の光として生きて、福音を伝えるのです。真理がないがしろにされるときこそ、真理に生きることが大事なのです。


9月8日 死して遺すもの。  マタイ253140  
新改訳 マタイ25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

25:32
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

25:33
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

25:34
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

25:35
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

25:36
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

25:37
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

25:38
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

25:39
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

25:40
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』


ウィル・スミスが主演の『7つの贈り物』は、日本人にはわけがわからないかもしれません。マサチューセッツ工科大卒の航空学エンジニアのトーマスは、運転中に携帯電話に気を取られ、事故を起こして、同乗の婚約者と対向車の6人を死なせてしまいます。心苦しんだトーマスは、国税局で働く弟のベンが肺がんになったことで、自分の片肺を提供したことによってヒントを得、他の人にも肝臓の一部をドナーとして提供します。そして、自分の身体を最も必要とする人に提供することによって贖罪をしようと決心するのでした。

 治療中の弟のIDを使って、国税局の職員として調査しながら、最もドナーを必要とする、その価値のある人を探します。親友の弁護士に全てを打ち明け、7人の人を救うために、自らを贈るという計画を実行するのです。家庭内暴力で苦しむ母子に自分の豪邸を与え、自分はモーテルに住んで、死ぬ時の為の猛毒クラゲを飼います。腎臓を少年ホッケーチームのコーチに与え、骨髄液を男の子に提供し、あと二人の提供者を探します。

誠実な盲目ピアニストに網膜を提供することに決め、心臓病を持つ女性に心臓を与えることに決めるのですが、その女性と恋に陥ります。しかし、彼女は適合性の少ない心臓で、前もって調べていたトーマスしかドナー候補はなく、衰えていく心臓で死にそうでした。最愛の恋人を殺してしまった罪責感と虚無感の中で自分の身体を与えて、殺してしまった人と同じ数の人の命を救い、贖罪しようと決心していた彼に、生き甲斐と喜びを与える人が現れたのですが、その人を守る為には、やはり死んで自分の心臓を提供するしかない、というジレンマが起こるのです。かれは、浴槽に氷を詰め、自分の身体を浸して死んでも臓器が守られるようにして、友人の弁護士に決行を連絡し、救急車を呼び、クラゲを入れて悶えながら死んで行くのでした。

 「愛する者を生かす為には、自分が死ななければならない。」というイエス様の十字架のメッセージを理解できない者には決して、この映画は理解できないのだということを、日本人の感想を読んで、つくづくわかりました。自分も長生きをし、相手も幸せにすることを選ぶという単純な図式ばかりを選ぶ、自己優先、利益追求の浅薄な考え方ばかりで、人を愛することや現実の生活の葛藤を体験していないものばかりでした。戦争は嫌いでも、家族や国を守り救うために、戦争に出て行き、死んでいった人々の苦しさ、無念さを理解できないのでしょう。宮崎駿監督も『風立ちぬ』以降、映画製作の意欲がなくなるのも無理がない、現代日本の義侠心の崩壊ぶりです。

 私自身はクリスチャンとしての精神性に命をかけて生きてきたつもりです。「命掛けで生きなければ永遠のいのちを神から与えられる資格はない。」と信じ続けております。ですから、仕事を選ぶ時、自分中心の大学教員の職を目指すよりも、私を必要とする女性がいるということで、結婚を選び、そして、キリスト教牧師の職を選んだのです。神からの召しとか、なりたいとかではなく、十字架を負う生涯として自分は牧師の職を歩むべきだと確信したのです。

今日の聖句をもう一度ご覧ください。空腹な人に食物を与え、見知らぬ旅人に宿を与え、着る物を与え、病の看病をし、罪人を慰める、そういうことをあなたはしているでしょうか。自分の利益とは、全く関係ない人に対して、善を為したでしょうか。

 私は、この映画を観た日に、ドナー登録をしました。隠れた献金を始めました。自分が死んだ後、何を遺すのか、自信がありません。魂を救い、人生を変えて下さったイエス様に対して、御国でどのように感謝を捧げられるか、畏れを感じました。

 例えば、この聖句に対して、「自分はそんなことをする勇気はない。力はない。出来るはずがない。」と考える人がいるかもしれません。この映画を観た多くの人々と同様、「そういうこともあるんだ。」と考えるだけかもしれません。

 残念ながら、そういう人々に対して、イエス様は答えを用意しておられます。41節からをご覧ください。自分の損得で生き、判断する人々に対して、神は永遠の刑罰を用意されているのです。

 実は、この映画の最初に、「7日で神は世界を創った。7秒で、僕は、自分の世界を壊した。」というタイトルが出て始まります。「今まで自暴自棄に生きて来た。」と告白する主人公に対して、彼女は「やり直せるわ。」と答えます。しかし、彼は、「僕は取り返しの付かない過ちを犯した。」と自己犠牲を決行するのです。

 「自暴自棄」とは、「希望を失い、自分などどうなってもいいとやけくそになること。失望のために投げやりな行動をとって、自分をだめにすること。」と説明されています。クリスチャンにとって、死の先にあるものは、永遠のいのちです。神の国でのしあわせな生活です。その希望をしっかりと認識するならば、この地上の人生を、投げやりな生き方で過ごしてはいけません。そうしないと、破壊的な結末を経験することになるでしょう。私は、そういう人を沢山見て来ました。やり直せないと考えることを、投げやりというのです。


9月15日 勝負の厳しさ。  Tサムエル17111節 
新改訳 Tサムエル17:1 ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。

17:2
サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人を迎え撃つため、戦いの備えをした。

17:3
ペリシテ人は向こう側の山の上に、イスラエル人はこちら側の山の上に、谷を隔てて相対した。

17:4
ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。

17:5
頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅で五千シェケル。

17:6
足には青銅のすね当てを着け、肩には青銅の投げ槍を背負っていた。

17:7
槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は、鉄で六百シェケル。盾持ちが彼の先を歩いていた。

17:8
ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣に向かって叫んで言った。「おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷ではないのか。ひとりを選んで、おれのところによこせ。

17:9
おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」

17:10
そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう。」

17:11
サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。


東京でのオリンピック開催が決まりました。日本人は、個人競技は比較的苦手ですが、勝ち負けのはっきりした競技というのは、闘争心の強い、他人を気遣ったりしない人でないと勝ち残るのは難しいようです。弱肉強食とは、文字通り、弱い者が肉となって強い者に食べられるということですが、民族性や地域性も大きく関わるでしょう。アフリカ系の人には、闘技にそれほど強い人はいませんが、民族的に優しいのでしょうか。南米系もあまりいません。日本人は、集団性の競技や個人的研鑽のスポーツが強いようです。個人主義的なものは強くないようです。

 スポーツをすると、その人の強さや弱さ、性格も現れます。自分の身体能力が、そのまま数字に表れるのは厳しいものです。私自身は、運動能力があまりないので、集団競技は他のことまで頭と身体が回らず、苦手です。若い頃は、闘争心が強かったのですが、クリスチャンになって、それが嫌だとは意識しました。勝負に関わらず、神に委ねて最善を尽くすことを心がけたのですが、ゴルフをやって、少しずつ身に付いてきたような気がします。心身共に、鍛えないと衰えるもので、特に心が弛む人が多いようで、自らを戒めています。弱さを認めるのも良いことですが、身体能力が衰えると、生活状況も衰えます。

 イスラエルの初めての王、サウルの時代に、ペリシテ人が軍を集めてイスラエルに侵略してきました。両軍が陣を張り対峙すると、身長280センチ以上の巨人ゴリヤテが個人の代表戦を挑んで来ました。鎧の重さは57キロ、槍の穂先は7キロというどうしようもない力強い戦士です。ゴリヤテは、イスラエルの軍に向かって、脅しを掛け、自分と戦えないような弱虫ばかりなのか、と嘲笑します。

 サウル王とイスラエルの全ての人は、ゴリヤテの言葉を聞いて意気消沈し、非常に恐れました。しかし、一人、ダビデだけは、「生ける神の陣をなぶるとは。」(17・26)と怒り、サウル王に対して「あの男のために、誰も気を落としてはなりません。私が行って、ゴリヤテと戦いましょう。」(17・32)と言いますが、サウル王は、ゴリヤテが大きいだけでなく長く戦士をしている熟練のものだから、ダビデが戦って勝つはずがない、と言います。それに対して、ダビデは「獅子や、熊の爪から私を救いだして下さった主は、あのペリシテ人の手から私をも救いだして下さいます。」(17・37)と答えるので、サウルはその無謀さに呆れながら、勝手にさせるのです。

 サウル王が貸し与えた鎧かぶとは、17歳のダビデには大き過ぎて辞退し、自分の杖と川から拾った滑らかな5つの石を投石袋に入れて、ゴリヤテに戦いを挑みます。ダビデは「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って、私に向かってくるが、私はお前がなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、お前に立ち向かうのだ。今日、主はお前を私の手に渡される。・・・この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。」(17・43-47)と信仰宣言をします。

人生には、常に戦いが待ち受けています。結局のところ、戦いには家柄も、財産も、学歴も、能力も、人の助けも、力にはなりません。大事なことは、直面する戦いに対して、「絶対に負けるわけにはいかない。」という気力がポイントなのです。そのスピリットの上に、分析・判断・能力・助けなどが必要なのですが、勝負というのは、勝つか負けるか、いつも半々なのです。ところが、多くの人が人生において、戦う気力を持っていないのです。

 私は、12歳の時に、大学に入り、社会で有用な人になることを決心しましたが、父は45歳離れ、家は貧しく、誰も大学に入るということを知りません。全て、自分で判断し、準備し、力を付けました。援助を頼むということをしたことはありません。全力を尽くして、社会のために生きるならば、必ず助けは来ると、神を知らない前から信じていました。ですから、志望大学に落ちた時、その突然の高熱を恨み、神はいないと、覚悟を決めたのでした。しかし、希望と誠のない人生は虚しく、結局のところ、イエス・キリストに出会って、救いを得たのでした。

 結婚の反対、子育ての試練、不整脈で身体が動かなくなったこと、痛風で口も開けられなくなったこと、倒産と破産の危機、暴力や脅しを受けたこと、人に騙され罠に掛けられたこと、試練は数えきれないくらい続き、今でも多くあります。

 戦わなければ勝利はありません。『天路歴程』を紹介したことがありますが、天国に行くためには何と多くの戦いを勝ち抜けなければならないことでしょうか。東日本大震災の大津波を見た時に、人生そのもののような気がしました。押し寄せる罪と誘惑の津波に対して、私たちは絶対に逃げ切って、津波から身を守らなければならないのです。罪や誘惑、不信仰というものは、動かないで黙っているものではありません。日々、私達に押し寄せてくるのです。

 一人では、信仰の戦いに勝ち続けるのは、難しいものです。私は、多くの人が、戦いの後に疲れ、或いは気を緩めて、ダビデのように大きな罪を犯してしまうことを見て来ました。しかし、夫婦が祈り合い、家族が支えるならば、大きな津波のような罪や誘惑も逃れることができます。教会というのは、祈り合う、神の家族です。もっと、他の教会員に関心を持ち、祈りあう習慣を身につけなければなりません。また、信仰の戦いに際して、エペソ書にあるような武具を身につけなければなりません。そこには、「絶えず目を覚まして、どんな時にも御霊によって祈ること、忍耐の限りを尽くして祈るべきこと
が教えられています。


9月22日 死後に悔い改めは可能なのか。  ルカ福音書162231
新改訳 ルカ16:22 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

16:23
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

16:24
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

16:25
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

16:26
そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

16:27
彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。

16:28
私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

16:29
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

16:30
彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』

16:31
アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」


9月29日 へりくだれば滅ぼさない。  U歴代誌12112 
新改訳 U歴代誌12:1 レハブアムの王位が確立し、彼が強くなるに及んで、彼は主の律法を捨て去った。そして、全イスラエルが彼にならった。

12:2
レハブアム王の第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来た。彼らが主に対して不信の罪を犯したからである。

12:3
戦車一千二百台、騎兵六万がこれに従った。また、彼とともにエジプトから出陣した民、すなわちルブ人、スキ人、クシュ人の人数は数えきれないほどであった。

12:4
彼はユダに属する防備の町々を攻め取り、エルサレムまで攻め寄せて来た。

12:5
そのとき、預言者シェマヤが、レハブアムと、シシャクを前にしてエルサレムに集まったユダのつかさたちのもとに来て、彼らに言った。「主はこう仰せられる。『あなたがたがわたしを捨て去ったので、わたしもまたあなたがたを捨ててシシャクの手に渡した。』」

12:6
すると、イスラエルのつかさたちと王とはへりくだり、「主は正しい。」と言った。

12:7
主が、彼らのへりくだった様子をご覧になると、シェマヤに次のような主のことばがあった。「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさない。間もなく彼らに救いを与えよう。シシャクの手によって、わたしの怒りをエルサレムに注ぐことはやめよう。

12:8
ただし、彼らは彼のしもべとなる。わたしに仕えることと地の諸王国に仕えることとの違いを思い知るためである。」

12:9
エジプトの王シシャクはエルサレムに攻め上って来て、主の宮の財宝、王宮の財宝を奪い取り、何もかも奪って、ソロモンが作った金の盾をも奪い取った。

12:10
それで、レハブアム王は、その代わりに青銅の盾を作り、これを王宮の門を守る近衛兵の隊長の手に託した。

12:11
王が主の宮にはいるたびごとに、近衛兵が来て、これを運んで行き、また、これを近衛兵の控え室に運び帰った。

12:12
このように、彼がへりくだったとき、主の怒りは彼の身を離れ、彼を徹底的に滅ぼすことはされなかった。ユダにも良いことがあったからである。




ソロモン王は、エジプトのパロの娘、モアブ人、アモン人、エドム人、シドン人、ヘテ人その他、700人の妻と300人のそばめを持って、次第に誠実な信仰を失って行きました。「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。」(T列王11・9)。神は、王国を割いて、ソロモンの子孫にはユダとベニヤミンの部族だけを治めさせると仰せられました(T列王11・13)。そして、強大なソロモンの王国に対して、エドム人ハダデが敵対し、アラムを支配するレゾンも敵対し、部下のヤロブアムも反逆しました。ソロモンは悔い改めることもなく死に、多くの子どもの中からアモン人の女の子レハブアムが王位を継ぎました。

 甘やかされて育った生意気なレハブアムは、愚かな判断で預言の通りに10部族を離れさせ、2部族だけでユダ王国を治めることになります。但し、イスラエル全土の祭司やレビ族はレハブアムに付き、自分達の所有地を捨てて、ダビデの子孫に仕えます。更に、信仰深い人々は、やはり全土からエルサレムに集まってきて、レハブアム王を支えます(U歴代誌11・13-17)。その後、ユダ王国が残り、現在のイスラエル国家にまで至っているのも、祭司や信仰者の働きが大きいわけです。ユダ王国は、バビロン捕囚やマカベヤ時代の大試練、そしてローマによる破壊と離散を経ても、悔い改めの中で国が蘇っているのです。

 しかし、レハブアムも、国が分裂した後は緊張感で良い王でしたが、やはり18人の妻、60人のそばめを持つような王で、次第に堕落して行きます。すると、民も堕落をしていきました。どんな立派な人も落ち着くと堕落を始めます。特に、性的なことには注意をしなければなりません。

 試練や艱難は人生や社会に付きもので、いつも起こりますが、堕落してしまうと、それに対抗できなくなります。そして力が弱くなり、敵の攻撃が始まります。お読みしたように、エジプトの王が責めて来ます。そして、神はこう言われました。「あなたがたがわたしを捨て去ったので、わたしもまたあなたがたを捨ててシシャクの手に渡した。」(12・5)。

 このように言われると、殆どの人が意気消沈し、諦めます。逃げられる人は逃げようとします。ところが、「すると、イスラエルのつかさたちと王とはへりくだり、『主は正しい。』と言った。」(12・6)のです。悔い改め、へりくだることができたのです。

 私は、クリスチャンの記事や論説、そして意見に批判的攻撃的な内容が多いことに憂えています。例えば、クリスチャン新聞にも、韓国が戦時中の強制連行・労働の賠償のために日本の会社の韓国内資産の差し押さえをしたと言うことに対して、「靖国を参拝することは、アジアの2千万人を殺害したことを立派なことでしたと讃美することになる。」と書いていました。戦時下の情報や判断をあまり知らない人間が、一方的な自国の批判をしてしまうという愚かさが、社説になるということに危惧を覚えます。

指導者が批判的敵対的言動を取る時は、自分のミスや指導力不足を誤魔化そうとするときであること、心ある者は知っています。徳に厚く、キリスト教が栄えた韓国社会の日本への敵対行動の異常さは、大統領の行政指導力不足と韓国内に現れる諸問題への苛立ちのからくるものでしょう。残念ながら、愚かさというものは、うまくいかない時に、どのような態度を取るかによって明らかになります。

 日本のキリスト教の批判性や理想主義は、現実への対応能力の欠如を誤魔化しているもののように思われます。信者や教理に対する締め付けや統制は、指導者の愚かさを示している以外にどのように説明できるのでしょうか。

 聖書のメッセージは神の愛であり、人々の救いであります。神の裁きの宣言は、救われること、救いを求めることへの人間への切実な勧告であります。

 「兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば赦しなさい。かりに、あなたに対して1日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ16・3.4)というのが、イエス様の教えなのです。地上で福音をきちんと聞いていない人に対して、永遠の地獄を宣言するのが神の在り方だとは思いません。

 但し、パリサイ人や律法学者に対して、イエス様が厳しいことも悟っていなければなりません。パリサイ人は、自分たちを正しいとして、人々に自分達の教えに従うことを強要しました。「彼らは言うことは言うが、実行しない」マタイ23・3)、「災いだ。偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」(マタイ23・13)。

 残念ながら、この地上で、神と福音を知っていながら、福音を伝えず、人々に愛を施さず、謙遜に悔い改めておらず、神と福音よりも自分の生活のことに追われている人が、審判の時に、神に義とされるかは保証できません。

 私自身は、自らにおいて、神の前に誇れるものがないことを自覚するからこそ、精一杯生きているのです。人々のために祈り、助けるべき人はいないかと探り、捧げるべき働きや人はいないかと求め、受けることは考えずに与えることを願っています。神はご存知です。ただ、そのような生き方は、恵み深き救いを体験したからこそしているのです。あなたは如何ですか。