4月7日 神の国は平和で、差別がない。   ローマ14918

ローマ14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

14:10
それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

14:11
次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

14:12
こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

14:13
ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

14:14
主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。

14:15
もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

14:16
ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。

14:17
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

14:18
このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。

 発達障害の治療に関して、障害というものをどのように考えたら良いのか苦慮しています。現在の理解では、発達障害は先天的もしくは、幼児期に疾患や外傷の後遺症により中枢神経系に機能不全があるものとされます。そして、それは直らないものとされ、2004年に制定された発達障害者支援法では、生活の支援を行うことが目的とされます。障害者総合支援法は今年の4月1日から施行され、身体障害者、知的障害者、精神障害者、発達障害者を対象とした支援を広範にすると意図されたものです。私が懸念するのは、精神障害や発達障害は治らないものであるとされ、そのような障害を持った人々を理解し支援することが大事だとされながら、実際には障害者として差別されることです。

 アスペルガー症候群は社会性やコミュニケーション能力に特異性が見られる発達性障害で、IQは高く、スピルバーグ映画監督や数学者のボーチャーズ教授は自らがアスペルガ―症候群であることを告白しており、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズもそうであるとされています。外国では、発達障害者も身体障害者も堂々と生活しており、両足がないボブ・ウィーランドがアメリカ大陸を横断したことや、サメに左腕を食べられたべサニー・ハミルトンはサーファーとして活躍し続けて映画になっています。両者共に熱心なクリスチャンで伝道活動に献身しています。

 障害が治らなくても人間としての価値は変わらないのですが、治そうとしないのも権利を奪っていると私は考えています。日本では、精神障害者や発達障害者を治そうとしたり、身体障害者に自由な活動を認めることが少ないように見受けられます。『五体不満足』を執筆した乙武さんが「障害は不便です。しかし、不幸ではありません。」と言いきって活躍していることは日本社会では画期的なことです。「人に迷惑を掛けてはいけない。」という日本独特の考え方が、障害を持った人々に対して、辛い自己規制を掛けているのではないでしょうか。

 老人ホームに入ると、事故を起こさないように世話をされ過ぎ、子ども扱いされるので、嫌がるお年寄りも多いようです。自分の力で生きることがないので、痴呆になっていく確率も高くなります。知的障害者にも、いろいろな制約が掛けられています。街で身体障害の人々を日本ではあまり見かけません。車いすも助けを借りるだけで、幅を利かせてはいません。

 神の国には障害はない、ということは明らかです。イエス様は神の国の福音として、病を癒し、足萎えや目の見えない人を治し、精神の病んでいる人々を癒しました。それについては異論がないでしょうが、それでは、教会は障害を持った人々にどのように対応しているでしょうか。助けるということで、却って自立心や自尊心を損なっていないでしょうか。助けたがることで、甘やかしてだめにしてはいないでしょうか。子育てで、いけないことは、誉めすぎたりけなし過ぎたり干渉しすぎたりくっつき過ぎることでしょう。歩き始める時に、親の方に向いてはなく、親から離れようとして歩き始めるということを知ったことは、驚きでした。親に向かってでは、すがろうとしてしまい、自立ができないのです。

 10節に人を裁く、侮るとあります。それは、障害者を劣等だから助けなければならない、と考えることにも繋がるでしょう。1節には、「信仰の弱い人々を受け入れなさい。その意見を裁いてはいけません。」とあります。胃腸の弱い人は、野菜を中心に食べる。その人を侮って「肉を食べれば健康になる。」と指図するのはいけないことだと聖書が言います。長い生活の中で自分に無理のない食習慣を持ったことを尊重するべきだと言うのです。

 私が妻と結婚することをためらった理由に、妻の不器用さと不自然さがありました。神に導かれて結婚を決意した時には、自分中心の人生は諦めざるを得ないと同時に覚悟したものです。そして、大学教員の道を諦めたと何度もお話しております。最近、そのまま生きていたら、何事も熱心で集中する私は、今頃は過労死していただろうと、感慨を持ちます。夕飯にいなかったら、妻は疲れ切ってしまうかと考え、外で食べることは殆どありません。子育てを妻が出来るとも思えないので、育メンに徹しました。そして、いつも余力を持つように意識しました。妻を助けた人生のつもりが、妻によって恵みを受けました。妻を裁き、変えようと思っていた時は、ストレスが多かったのですが、諦めてから、平安と喜びがいつもあります。

 私の心臓の大きさは胸の幅の46%で無理をしていない状態だそうで、妻は56%で「アドレナリンが出続けるので大きいのかもしれない。」とのことです。妻が私よりも一生懸命生きていることは誰もが知っています。私は一生懸命考えているつもりなのですが。

 ともかく、弱いか、強いか、出来ることが良いのか、出来なくても良いのか、能力はあった方が良いとも限らない、などと考えるようになりました。裁きあうのは止め、人に妨げになること、躓きになることを止めて、干渉しないで仲良く生きることを「決心しなさい。」(13節)。

 ただ、気が付いたこともあります。弱さや障害を自らに感じない人々が、却って自己中心の生活をしていることです。そして、他の人々の生活を侵害しているのです。今日の聖句では、何でも食べられる強い人々が、野菜しか食べられない人々を侵害し、肉は汚れていると信じる人々も強い人々を批判してそしり合っていることが記されています。主義主張は、他の人々の批判の原因となり、神の国の法則を侵害します。

 障害者や弱い人々をそのまま尊重し、ただ、治ること、幸せになることをお互い信じ続け支えあい続けることが大事であると思います。そして、神の国でその完成が実現するのです。


4月14日 神の国は力で示される。   Tコリント4920

Tコリント4:9 私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。

4:10
私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。

4:11
今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。

4:12
また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、

4:13
ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。

4:14
私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。

4:15
たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。

4:16
ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。

4:17
そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。

4:18
私があなたがたのところへ行くことはあるまいと、思い上がっている人たちがいます。

4:19
しかし、主のみこころであれば、すぐにもあなたがたのところへ行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう。

4:20
神の国はことばにはなく、力にあるのです。


 物事の実現、事業の運営には力が必要です。先日、78歳の方とゴルフをしましたが、大変お上手で、毎日練習場で50球を打つと共に毎朝素振りを繰り返しているそうです。経営者として功なり遂げた後、60歳を過ぎてから真剣に始めたそうです。趣味でも何でも、熟練するには、それだけの努力と研鑽を積まなければなりません。私は、ゴルフが上手になるためには、自分の関心と努力を注ぎ込まなければならないので、そういうことは諦めております。

 私などは、中1の時に一大決心をしてから努力と研鑽を続け、それが大学入試の失敗で挫折し、適当に生きたものの、既に8年間精一杯努力をする習慣が身に着いたので、力を持て余して学生運動やら他のものに傾倒したものの、人生を掛けるに足るものを得られずに葛藤した挙句に、福音に接したのでした。21歳の秋に魂を救われ、それでも世への未練を捨てられず足掻いた上で、26歳の時に神に身を委ねる覚悟を決めたのです。

 きょうの聖句に「あなたがたは賢く、強く、栄誉を持っている」(10)とありますが、「愚かで、弱く、卑しめられる」ことは、難しいことです。つまり、多くの人は恥をかきたくない」、「失敗は怖い」、「馬鹿にされるのは嫌だ」などの理由で、消極的な選択をするからです。

「賢い」人は、計画をし、分析をし、さらに試してみて物事にあたるか、或いは自分は行なわないで人にさせます。「石橋を叩いて渡る」という慎重な人もいますが、先日、「あの人は石橋を叩いて壊してしまう人だ」と言った人がいておかしくなりました。ところが、「愛には恐れがありません。」(Tヨハネ4・18)、「もし、自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また、求めることは何でも神からいただくことができます。」(Tヨハネ3・21.22)などという言葉は、この意味の「賢さ」とは逆のものです。パウロが糾弾する「強さ」「栄誉」もまた、危険を冒さず、言葉巧みに保身に生きている形式的信仰者に対してのものです。

例えば、人に声を掛け、その人への愛情を語り、人生の意味を問いながら、交流の機会を持つ、という何気のないことも大変な勇気がいることに気が付かなければなりません。

儀礼的なことば、形式的なことば、人格とは関わりのない、何でもない日常的な会話しかできない人間がなんと多くいることでしょうか。そして、自慢話や批判話しかできない人が多くいることも事実です。

 真実を求めて生きていない人が真実の言葉を語ることはできません。うわべを飾った生き方は、何の問題もなく、恥をかくことも、失敗をすることもないかもしれないけれども、生き甲斐もないのです。それは、見つめておられる神のまなざしに気がつかない人生です。信仰があるというならば、その信仰を見せることができます。信仰の歩みと決心を語ってください。そして語りあうところに、真実の交流があるのです。

 教区聖会はジュルゲンセン宣教師来日100年記念聖会でもあります。なぜ、私たちはそのような人々のことを思い起こし、記念するのでしょうか。全財産を掛けて知り合いのいない日本に宣教に来た愚かさ、日本語もできない弱さ、耶蘇教の宣教師として嫌われ卑しめられ攻撃迫害され、そして成果もない日々を9年も続けて出会った弓山喜代馬師。この弓山師も伝道者になるために医師の道を捨てて愛媛から上京して伝道を初めていたという愚か者でした。

 信念や信仰で生きる者を愚かとする日本の風潮、しかし、その中でも愚かな者が引き続くのが宣教の奇跡です。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私達には神の力です。」(Tコリント1・18)。神は、信仰で生きる人を求めて、「この世の取るに足りない者や見下されている者を選ばれました。」(1・28)。それは、かれらがこの世の力や知識ではなく、神の力に依存する愚かな者だからです。

 人を愛し、与えるために必要なものは知識や理性ではありません。信仰と希望と愛です。そして、幸せになるために必要なものは、能力や富ではありません。信仰と希望と愛です。そして、真の力とは、その信仰と希望と愛にどれだけのものを費やせるかです。

 病児保育というものがなぜ、定着しないのか、良くわかって来ました。維持管理し、運営することが非常に大変で、保護者の要求とニーズが非常に厳しいものだからです。社会を変えたり、信頼を得るということが簡単に行くものではないことは覚悟しなければなりません。おそらく毎年数百万円の赤字が出るでしょう。批判と要求も大きく、苦労が多いので辞めたがる医療機関が多いことが理解できます。

 世の中は儲け話に飛びつき、少しは誤魔化してもうまく立ち回ることを当然としています。東電があれだけ事故を続け、誤魔化しや不正が発覚しても、政府や業界は擁護しています。強者だからでしょう。弱者には遠慮のない攻撃が起こります。

 そういう社会に諦めることが負けなのです。不正や誤魔化しに同意するのが敗北であり、神の力を求めないで済んでしまうのです。私は日本のキリスト教界に蔓延する経済への依存や恐れが、十字架のことばに依存することを阻んでいることに気が付きました。もはや信仰ではなく、計算と巧みな勧誘でキリスト教界を営ませているのです。そして、私のような企業人で多額な金を自由に動かしていることがうらやましいようです。救いを受けた神の力を、ないがしろにしてしまうような不信仰が世の中だけでなく、教会をも蝕んでいるのです。


4月21日 御国で与えられる義の栄冠。   Uテモテ4111
新改訳 Uテモテ4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。

4:2
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

4:3
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

4:4
真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

4:5
しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。

4:6
私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。

4:7
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

4:8
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

4:9
あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。

4:10
デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。

4:11
ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。


 マラソンのランナーはどのような思いで練習し、走っているのかとテレビを見て思うことがあります。古代オリンピックはBC776年に始まり、AD393年まで行なわれ、ローマ皇帝ネロも参加し、優勝したとされるが誤魔化しであったようで、公式記録からは抹消されたそうです。ですから、パウロがオリンピックを念頭に、特にマラソンに興味があったことと思われます。

 「あなたがたも賞を受けられるように走りなさい。」(Tコリント9・24)、「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。」(9・26)とあるので、よほど関心があり、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。」(9・26)と、練習の重要性をしっかりと把握し、また見ていたと思われます。さらに、「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3・14)と、優勝を目指さなければならないと勝ちにこだわっています。

 近代オリンピックで1908年にIOC会長のクーベルタン男爵が教会の礼拝で語られた内容を取り上げて、「勝つことではなく参加することに意義があるとは、至言である。人生において重要なことは、成功することではなく、努力することである。」と語って、アメリカとイギリスの争いを警告したようです。ただ、この大会から各国のオリンピック委員会を通じての参加となり、参加基準が高くなったので、参加するということはその国のトップでなければならないということで、参加するということは、現代と同じように大変な栄誉となったわけです。

 パウロは古代オリンピックに出たいという青年たちが、あまり真剣には努力をしていないのを見て、そんなことでは参加もできない、と激励していたのではないでしょうか。走る時に、いろいろと考えていては一生懸命走れません。私は前橋高校と高崎高校の定期戦で対抗駅伝に出たのですが、抜かれるばかりで焦ってしまった時に、級友の応援で我武者羅に走り、調子が出て数人抜き返したことがあります。結婚前に金沢教会の運動会では、大学院の研究生活で体力が衰え、女子の中で断然早かった内田良子さんに追い抜かれて、周りから囃され、みっともなさを覚えたことも忘れられません。さらに、痛風で心臓を悪くする前に、100mを全力で走ったら気持ちが悪くなり、手の平が真っ黒になっているのに驚いていると、周囲の人も、私の顔が真っ黒になり血流が悪くなっているのに驚いたこともありました。その後、不整脈で倒れたのでした。

 倒れた時に、祈りの中で私の人生は、人間的な努力の戦いではなく、信仰の戦いであり、自分の力の現れではなく、神の力の現れでなければならないことに気が付きました。印象に残る3つの競争で、自分の体力が衰えていることに気が付かず、頑張ればどうにかなると思っていた愚かさがわかります。日々の努力と練習の積み重ねでこそ、結果は出るのに、その時だけの頑張りでは、身体が反応せずに却って身体を壊してしまいます。

  痛風とリューマチの体質ですから、食べ物や飲み物にも注意し、関節が弱いので、運動の仕方にも注意しています。神に用いられるために、自らの判断力と情報分析力を養い強くするために、新聞2誌を毎日、雑誌5〜6冊、書籍10冊以上を毎月読んでいます。毎月書く原稿は3万字以上、語る説教や講演は13〜15回、日々の来客や従業員への対応、経営判断や牧会、教団、教区、その他の伝道活動をこなしながら、スイミング週2回、ゴルフ月2回、庭や家庭の管理、ホントにいろいろあります。昨年暑さと疲れの中で庭の水やりを怠っていたら松が枯れかけました。庭の手入れには学ぶことが多くあります。こういう話をすると、忙しくて大変だ、真似はできないと思われるかもしれません。「良い仕事をしてもらいたければ、忙しい人に頼め。」(Elbert Hubbard)と言われるように、真剣に努力して生きる人でないと、しっかりとした判断はできないのです。

 神の力の現れとしての日々の生き方は、自分としては、あまり一つのことに熱中しないで成果を追わず、人に要求をし過ぎず、ただ黙々と為すべきことを当たり前のようにこなしながら、神の求める理想を追い続けることかと考えております。

 ボストンマラソンでのテロ行為は残念でした。ボストンマラソンは、年齢別に参加資格の基準があり、60歳でも3時間40分で走らなければなりません。それでも15000人が参加したのです。どれほど、参加のために努力をしてきたことでしょう。私達の努力も無に帰する時があります。何のためのものだったのかと途方に暮れることもあったことでしょう。

 聖書は言います。「御ことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、しっかりやりなさい。」(Tテモテ4・2)。寛容を尽くし、とあるのが印象的です。他人に対して、期待しすぎて失望してはいけないのです。さらに、人々は、「自分に都合の良いことを言ってもらう」ことを要求します。どのような場合にも慎み、困難に耐える生き方をすれば、裁きの主の前に出ても、堂々と主から栄冠を受けることができるでしょう。

 最近は、人に失望するのは、走りながら横を見ているからだと気が付きました。先頭に出れば、見るのは決勝点のみです。オーバーペースもスローペースも自分にあった走りならばOKですが、日々の練習をしない人には、参加資格がありません。日曜だけ教会に来て、信仰を考えるようでは、いざという時に走ることができません。教会に長い間来ないでいる人は、信仰の走りがどういうものか、忘れてしまっているのかもしれません。

 ホントはゆっくりと時間制限なしに誰でも走れるホノルルマラソンに出たいのですが、私の膝では走るのは無理でしょう。それでも天国へのマラソンの為には日々、努力しているつもりです。真剣に努力する者だけが、栄冠の可能性を信じることができるのだということが分かって来ました。


4月28日 天路歴程。   イザヤ26110
新改訳 イザヤ 26:1-10

26:1
その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。

26:2
城門をあけて、誠実を守る正しい民をはいらせよ。

26:3
志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

26:4
いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。

26:5
主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。

26:6
貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける。

26:7
義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。

26:8
主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。

26:9
私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。

26:10
悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。


 歴史上、聖書の次に読まれているという『天路歴程』の作者ジョン・バンヤンは1628年にイギリスの貧しい村に生まれました。21歳の時に結婚した妻の持ってきた物は本2冊で、「平凡な人の天国への道」と「敬虔の実践」だったそうです。夫婦で読んだこれらの本と妻が語るその父の敬虔な生涯がバンヤンに信仰を根付かせたようです。しかし、実際にはいろいろな弱さと誘惑を体験しながら、病弱な妻が死に、聖書を読む中でバプテストの信仰を持ち執事となるのです。1660年に国教徒の牧師で無いのに説教したとして投獄され、6年の後、更に説教してまた6年入獄します。彼はグラマースクール(高校程度)で学んだだけでしたが、獄中で本を書き始め、60冊も生涯で書いています。1672年に出獄して牧師とされましたが、3年後に再び投獄され、その時にこの本の構想が得られたそうです。

 『天路歴程』では、社会に生きる多様な人々の性格から行動などを的確に捉え、真摯な信仰生活と見せかけの生き方の違いを分かり易く描写しています。

 滅亡の世から逃れようと神の国を目指す基督者に強情者と従順者が説得し、落胆の沼に落ち込みます。助力者に助け出された後、世才氏が誘惑して違う道を教え、悩んでいるところを、伝道者が来て狭き門から入るべきこと、「義人は信仰によって生きる。」ことを教えます。そして世才氏はこの世の教理に賛成した道徳町の教会に行っていると警告します。

 狭い門に辿りつくと門番が語ります。正道は真っ直ぐだけれど狭く、邪道は広いけれど曲がりくねっていて多くの道があるのです。そして、背負っている重荷は救いの場所に着くまでは負い続けなければなりません。そして、絶望の檻に閉じ込められている人に会わせられます。彼は、「目を覚まして慎んでいることを止め、肉欲を欲しいままにし、罪を犯し、御霊を憂えさせて去らせてしまった」人でした。もう一人、おののく人にも会います。彼は、「裁きの日が来ているのにその備えがしていない」人でした。

 十字架に出会い、重荷を外されて更に進むと、間抜者、無精者、厚顔者が眠り呆けているのに出会います。忠告しても眠り続けているので、進むと虚礼者と偽善者に出会います。彼らは狭き門から入らず、垣を乗り越えてきて、どんな誤魔化しや嘘も平気で言える人でした。彼らは三叉路に出て間違った道に行き、基督者だけが難儀の山道を真っ直ぐに進むのでした。

 更に進むと、臆病者と不信者に会い、臆病者は危険に出会って戻るところで、不信者は二匹の獅子に恐れて戻るところでした。聖書に導かれて進んでいくと鎖に繋がれた獅子に会い、戻った人は恐れで鎖に気が付かなかったのを知りました。更に、屈辱の谷、破壊者、死の陰の谷、邪悪な者、浮気夫人などに遭いながら、難儀が丘、詐欺町などを通ってきたことを出会った信仰者と語り合うのでした。

更に饒舌者と出会い、空の町で尋問されて、物笑いや悪意や復讐の的となり、打ちたたかれて檻に入れられ、嫉妬者、迷信者、追従者によって偽証を受け、信仰者は殉教するのでした。

 有望者と同行しながら、楽な道に迷って危うく深い穴に落ちそうになり、懐疑城の絶望者に捕まりまがらも、約束の鍵で抜け出し、偽善者が入る地獄へのわき道を逃れ、更に進んでいきます。巧言者、魅惑境、自惚れ国、無知者などに気をつけながら、悪鬼が変節者を捕えているのに遭い、薄信者が略奪されるのを見、無知者について来られて先を進みます。光の天使を装った巧言者にも騙され、苦難の末に神の国に行き着きます。そこでは、試練を経て忍耐と信仰を持って到達した彼らが大歓迎されるのです。ところが幸運によって天国の門に辿りついた無知者は、入る資格がないとされて地獄に追い払われてしまいました。

 ながらく解説をしましたが、この人生にいろいろなことがありますが、誤魔化しで神の国に行けることはないということです。私も5月で還暦となりますが、人生は車の運転のように、いつでも飛び出し事故や不注意事故などがあり得ると用心しています。人は親しい人をかばい、安易に魂の救いを保証してしまうことがあります。神ならぬ人が、そんな不遜なことをしてはなりません。

 発達障害、知能障害、精神障害、痴呆者の人々が、神の前にどのように出られるのか、私にはわかりません。神には、ご自身の判断基準があり、それを一概に適用されるものとしてはなりません。しかし、健康な人々が、心を頑なにし、聖霊の感化をないがしろにすることは見聞きしております。そして、頑なな故に、その心身に悪影響を及ぼしていることもわかっております。

 私でさえ、わかる人の傲慢さ、罪深さですから、神の前に通らないわけはありません。そして、自らが神の及第点に達しているという自負は、それほど強くはなく、周りの人々の不信仰さ、不敬虔さに比べているにすぎなく、危ういものであると感じております。危うさの中でも、聖化はなされていることは自覚しておりますが、罪は火のごとく、私を容易に包み覆う恐ろしいものであることを、執り成しの祈りの中で気付かされます。

高校大学受験で、私は後のない不安の中を体験しました。人生でも、これまで大きな罪や過失を犯さないできましたし、誘惑にも負けなかったつもりです。ただ、神に守られたことと、罪を犯すこととは紙一重の差であることも気が付いております。祈りと節制を心がけなければなりません。罪を犯して、何事もなく戻ることはできないと思います。


5月5日 肉に従う者は神の国を相続できない。  ガラテヤ51626節 

新改訳 ガラテヤ 5:16-26

5:16
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

5:17
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

5:18
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

5:19
肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

5:20
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

5:21
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

5:22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

5:24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

5:25
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

5:26
互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。


 教区聖会は、本当に祝福されました。予約段階で、定員を300名も超え、急遽別室を借りてモニターで参加できるようにしましたが、そちらからも決心者、受霊者が起こされました。癒される者、救われる者、献身する物も多く、なぜ、これほどのことが起こるのかというと、多くは説教者に依存するでしょう。神の業は人を通して起こるのです。

 天野師は、総務局長でしたが、代議員を辞退して教会成長と伝道者としての道に専念することにしたように思われます。公にしては失礼ですが、教団の教職はみな知っているのですが、天野師は、事務能力はないというか、関心がないようです。ともかく、神の業に熱心で、この世のことには無頓着というところがあるようです。皆さんも、天野師が講師の集会には参加すると、神の御業を拝することができるでしょう。

 また、聞く者にも依存します。忙しくて参加する暇はない、と考える人は、参加をしなかったことは当然です。定員が一杯なので、無理だろうと自己規制をした人も、申し込みが遅かった人も参加できませんでした。まるで、マタイ22章の婚礼に招かれた客が、自らの都合で参加しなかったかのようでした。ところが、その後に王が通りの人々を誰でも招いたのに、王が用意した婚礼の服を着ていない人が、追い出されたことも思い出します。彼は、救いという神が与える義の衣を着ていないのでした。

定刻の2時間前に私は会場に着きましたが、既に長蛇の列ができていて、出来るだけ前に座ろうとしていました。神の国は、「激しく攻める者が奪い取る」(マタイ11・12)ものだからです。会場に来ていても、神の祝福と御業を求める人と、参加をするということだけに満足する人では、まったく霊性が違っていました。妻と私は、聖霊のバプテスマを求める祈りに村上姉が一番前にでているので、直ぐに近寄り祈り続けました。献身の招きにも岡本兄が出ているので直ぐに近寄り祈り続けました。必死さというのは、周囲の人にもわかり、神の祝福も違います。人生の縮図のように感じました。

人それぞれに神の備えられた生き方があります。私などは、自分の能力や賜物がどういうものか未だに確信出来てはおりません。独身の時には、何をしても神の業がついて回りました。ともかく命掛けで信仰に生きていたからです。しかし、この世の仕事と信仰生活の両立に苦しみました。妻を結婚相手に導かれてからは、この世での成功者は諦めました。しかし、妻の家の手前、妻を医師として独り立ちさせなければならないと覚悟したものです。そして、子どもが生まれ、さらにこの子たちを貧しく辛い思いをさせてはならないと仕事にも励み、生活の糧を得ることを優先しました。さらに、教会に来る人々やクリニックに来る人々に精神疾患や問題を抱えた人が多いので、それらの人々を助けることに神にある使命を感じました。そして、それらが大きな働きに発展しています。ともかく、自分の能力や賜物や願いを優先したものではありません。

社会的には成功者でしょう。日本のクリスチャンとして、社会に強く生きているという自負もあります。 しかし、教会に献身尽くしていない、子どもたちの魂が皆救われているわけではない、という負い目が強くあります。それでは、自分の人生と歩みは間違っていたのでしょうか。

聖書を読むと、肉と御霊が信仰者の中で対立して、私達の心の支配をしようとしていることがわかります。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そのようなものに自分の心が支配されたことはないと、私は自分の内に内在する聖霊にあって、言うことができます。しかし、支配されかかることが何度もあり、誘惑が巧妙にされてきたことも事実でした。

信仰者が堕落したのも何度も見て来ました。そして、堕落した人が神に立ち返ることはあまりないのです。そして、恐ろしいことには、堕落し、御霊がその人から去ってしまったことにも気が付いていないのです。クリスチャンとしての習慣や言動は身についていても、聖霊が内在していないので、平気でそれらの肉の行ないをしてしまうのです。だから、パウロは「あなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(5・21)。ペテロは、イエス様を3度も否定しましたが、肉の行ないが習慣化したわけではないので、悔い改めることができました。

「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉の為に蒔くものは肉から滅びを刈り取り、御霊の為に蒔く者は、御霊から永遠の命を刈り取るのです。」(6・7.8)。

自分が、神にあって人生を過ごしてきたかどうかを判断するには、実を確認するのです。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」このような品性が身に着き、歩んでいるのならば、あなたは神の国への道を歩んでいるのです。

失礼な言い方かもしれませんが、発達障害者、精神障害者、高齢者、幼き者、問題を抱えた人々などが、感情的に異常を来したり、さらに問題を起こしたりするのも、見て来ました。普通の信仰者でさえ、たまには罪を犯すこともあります。しかし、悔い改めさえすれば、神の御霊は彼らから去ることはなく、罪の常習化こそが恐ろしいものであることを指摘しなければなりません。あなたには、御霊による愛や喜び、平安があるでしょうか。あなたが陰で犯している罪は、御霊をあなたから去らせ、肉の欲の常習化となって、地獄への道に陥れるのです。神を誤魔化すことはできません。


5月12日 神の選びを優先した母リベカ。  ローマ9818
新改訳 ロマ 9:8-18

9:8
すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

9:9
約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」

9:10
このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。

9:11
その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、

9:12
「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。

9:13
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。

9:14
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。

9:15
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。

9:16
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

9:17
聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。

9:18
こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。


 リベカのことは何度かお話したことがありますが、母の日の説教としては初めてです。双子を妊娠したリベカは、男の子がお腹の中でも争っているので、どうなることかと心配します。すると、神が語りかけて、その子はどちらも国の先祖となり、特に弟の国は強い国となり、兄が弟に仕えるようになると(創世記25・23)預言されるのでした。兄のエサウはエドム人となり、一時栄えるのですが、ダビデによって支配され、バビロニアの進行に味方し、イスラエルの支配から離れるのですが、哀歌やオバデヤにあるように他国によって占領され、その後消滅していきます。

 子育ての基準や目的をどのように考えたらよいのでしょうか。

普通、親は子どもの幸せを願い、健康に育ってくれたら、優秀になってくれたら、良い働きができたら、成功者になれたら、などと目的をもって子育てや教育を心がけます。しかし、神の国の存在を知り、神と共に生きることを願うクリスチャンが同じような願いを持っていたとしたら、可笑しいものとせざるをえません。どのような成功者になろうと、神の国に入れなかったら、人の人生は全く甲斐の無いものとなります。

 ですから、信仰者の親の願いの第一は子どもの魂の救いであり、その次に神に役に立つ者となることです。むろん、そういう意味では、性格が良く、能力に秀でた者と育てることは大事ですが、第一のものを二の次にしてはなりません。ところが、人が魂の救いに至るという旅路は、なかなか容易なものではなく、親のお仕着せで魂が救われるというほど、人間の罪は尋常なものではありません。

 事実、ヤコブの人生は波乱万丈のものであり、人を騙し騙され、全てを失い、落ち着く暇もなく、年老いてエジプトにまで逃れる始末です。ところが、ヤコブは、イスラエル(神と戦って勝利を勝ち取り、神の子とされた)という名前を神からいただくことになり、そして強い信仰と忍耐を学んでいく者となっていくのでした。

 そのような人の人生に決定的に影響を与えるのが、父であり、母なのです。父は、社会性があり、論理的言動が必要とされ、家の支配者としての責任ある立場となるために、子どもたちのそれぞれの適性を理解しながらも、偏った愛情を注いではならないという点があると思います。男の子には、自分の判断と人格を注ぎ、家を継ぐ者に育て上げる必要があります。そして、男というのは、戦いで死ぬ可能性があるので、次男は相続の2番目として兄にも仕えていくという順位があります。イサクの子育てには、兄エサウを長男として尊重していた様子がうかがえます。「イサクはエサウを愛していた。」(創世記25・28)。男の要件として、戦いに勝ち、家を守る強さが必要であり、そういう面では、エサウの肉体的強さと感情の強さ荒々しさは、十分相応しいと言えましょう。

 ところが、「リベカはヤコブを愛していた。」のだから、問題が起こります。両親がそれぞれ贔屓とする双子の男の子を溺愛していては、家族がうまくいかなくなります。

 エサウは猟師であり、野の人であって、ヤコブは穏やかな人であって、親と一緒に天幕にすんでいました。ヤコブが料理をしていると、野から帰ってきたエサウが食べさせろと言います(創世記25・28〜)。そうすると、ヤコブは、長男の権利をその豆料理と交換しろと言います。エサウは自分の力に自信があるので、そんな権利などあてにしてはおりません。結局は力がある自分が家を継ぐと考えているのです。ところが、ヤコブは、神の祝福の系図があり、神の祝福が人生の祝福の源であると信じていたのです。事実、父イサクは「主が彼を祝福して下さったのである。こうして、この人は富、ますます栄えて、非常に裕福になった。」(26・12-13)のですが、それをエサウは、悟っていなかったのです。

 他人や敵でさえ、「私たちは、主があなたと共におられることを、はっきりと見たのです。」(26・28)と言っているのに、長男のエサウは、そのことを理解せず、信仰を理解しない異邦人の女二人を妻としていたので、それが、「彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。」(26・34)のです。

 イサクは年老いて目が見えなくなり、長男のエサウに相続を譲る為、神の祝福の祈りをすることにしました。祝福を得るためには、それだけの見返りを捧げなければならないのは、神にも人にも同じことです。イサクは、自分を喜ばすために、美味しい肉料理を提供して満足させることを要求します。ケチな人は、神からも人からも祝福を得られないことを知っておいてください。父イサクは、親に仕えて喜ばすことの大事さを教えようとしたと思われます。

 ところが、それを聞いたリベカは、最上の子ヤギ2頭で美味しい料理を作り、ヤコブに長男エサウであるように欺いて父の祝福を奪いなさいと命令します。ここでリベカは、もしばれたら、そのことで起こる呪いは全て、自分が受けると覚悟を決めています。

 親を喜ばし、親から祝福されるということは、神の祝福を受ける秘訣なのです。親に対して、偉そうに振舞ったり、対等に話をしたり、世話をしていると恩を着せる子どもがいたとしたら、祝福の源を絶っているようなものです。どんな悪い親だとしても神は、親の許可なしに子どもを祝福するようなことはなさらないのです。そして、その重要性を知っているリベカは、命がけで夫の受けている神に祝福を、神が生まれる前に定めたヤコブに注ごうと、働いたのです。


5月19日 主の霊に満たされたら何でもしなさい。  Tサムエル10110
Tサムエル10:1 サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。

10:2
あなたが、きょう、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、ふたりの人に会いましょう。そのふたりはあなたに、『あなたが捜して歩いておられるあの雌ろばは見つかりました。ところで、あなたの父上は、雌ろばのことなどあきらめて、息子のために、どうしたらよかろうと言って、あなたがたのことを心配しておられます。』と言うでしょう。

10:3
あなたがそこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会います。ひとりは子やぎ三頭を持ち、ひとりは丸型のパン三つを持ち、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています。

10:4
彼らはあなたに安否を尋ね、あなたにパンを二つくれます。あなたは彼らの手から受け取りなさい。

10:5
その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町にはいるとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、

10:6
主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。

10:7
このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。

10:8
あなたは私より先にギルガルに下りなさい。私も全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげるために、あなたのところへ下って行きます。あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私があなたのなすべき事を教えます。」

10:9
サウルがサムエルをあとにして去って行ったとき、神はサウルの心を変えて新しくされた。こうして、これらすべてのしるしは、その日に起こった。

10:10
彼らがそこ、ギブアに着くと、なんと、預言者の一団が彼に出会い、神の霊が彼の上に激しく下った。それで彼も彼らの間で預言を始めた。

 サウル王は悪い王であるとされています。しかし、神は、サウルを悪い王と定めていたわけではありません。「あなたは彼に油を注いで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼は、わたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。」(Tサム9・16)と預言者サムエルに神は命じています。そして、サムエルは周到に準備して、最も虚弱なベニヤミン族に属するサウルを多くの客の前で主客として招き、その後、密かに王のしての油を注いでいます。

 イスラエル民族は、士師記とあるように勇士と預言者が国を指導してきた神権政治の国で、預言者サムエルはその最後の指導者として、イスラエルを導きます。恩師のエリは、大変な肥満で自己管理も子どもの管理もできない人で、二人の息子は禁じられている献げ物の肉の脂身を強引に奪って食べるような人間となっていました。そのような献げ物への不徳を神は怒り、「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」(2・30)という有名な言葉を宣言しているのでした。

 そして、祈りの母ハンナの請願の子として生まれたサムエルが大祭司エリの下で指導を受け、「主は彼と共におられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。」(3・19)、「主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現わされたからである。」(3・21)というほど、神に忠実であり、神もその栄光をサムエルによって現わされたのです。

 しかし、その息子たちもまた、「父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、裁きを曲げていた。」(8・3)となって、民は彼らが宗教的に国を指導することを拒み、王を求めていたのでした。そして、選ばれたのがサウルです。

 「主の霊があなたの上に激しく下ると・・・、あなたは新しい人に変えられます。このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたと共におられるからです。」(10・6.7)。聖霊のバプテスマは、そのように人を新しく造り変えるものです。ところが、旧約の時代では、聖霊の満たしは一時的なものであり、キリストの御霊として、信者に内在することもなく、教え導くこともありませんでした。それでも、聖霊に満たされたら、あまり考えたり悩んだりすることなく、御霊の導かれるままに行動することが一番良いのです。

 私は、1975年3月31日に聖霊のバプテスマを受けなかったら、これを最後に信仰に区切りをつけ、大学4年生としての進路のために集中しようと考えていました。その後も何度も、こんなに信仰に熱心になると、生活に支障になると考える度に、祈祷会で聖霊の熱い充満に遭いました。私が祈ると人が救われ、聖霊のバプテスマを受け、病が癒され、奇跡が起こるのでした。

 私は群馬県生まれですから、友人は義侠心に厚いと言います。確かに、聖霊に満たされたら、聖霊に満たされた者に相応しい行動を取らなければ、神に申し訳ない、という義侠心は強くあります。そして、神の義さえ、裏切らなければ、神は「私と共におられ、私の言葉を地に落として失望させるようなことはなさらないのです。」

 勧善懲悪という言葉がありますが、神は悪に対してそれほど、厳しくはないような気がします。私は、積極的な悪は行ないませんが、それほど清くはないと考えています。DV(家庭内暴力)の解決方法の記事がありましたが、伴侶や子どもの悪や罪、そして悪い習慣や怠惰に対して、「まあ、いいか」という考え方を持つと、DVは収まるそうです。私達クリスチャンも、あまり自分の聖さ、善行、罪深さなどを深く考えないで、聖霊に満たされることを優先したほうがはるかに、祝福の人生を送ることができます。

 確かに、私たちは罪と肉に対して決別して生きなければなりませんが、そのためには、聖霊に満たされることが必要十分条件なのです。そして、聖霊に満たされれば、あとは何をしてもうまくいくのです。

 「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Uコリント5・17

 自分の過去の失敗も、聖霊に満たされるなら、全ては過ぎ去ったもので神に赦されていると確認できるのです。自分の弱さや罪も、聖霊に満たされるなら、思いだすこともない、消え去ったものとなるのです。

 私は、いつも聖霊に満たされているわけではありませんが、どうも妻の過去の悪さや嫌なことが思いだせないのです。むろん、自分のこともあまり覚えていません。ボケたわけではない証拠に、明日のことや為すべきことは、きちんと覚えています。ボケでいるかどうかの確認に、昨日の食事の内容を思い出せ、というチェックがありましたが、それもどうにかなりそうです。ただ、人の罪は、自分の罪を含めて、殆ど忘れる傾向にあります。夫婦円満になってきたのも、聖霊に満たされたのか、ボケたのか、ともかく、全てが新しくなるのです。

 サウルは、自分の罪に悔い改めることをせず、無残な罪人の死を遂げています。エリも同様でした。罪を正当化し、我を張り、言い訳を言い、悔い改めないと、聖霊は私達の中に内在することができなくなり、私たちも非業な人生を歩まなければならなくなります。悩むということは、自分の罪を言い訳しようとするからです。悩まないで悔い改めるなら、慰めの聖霊が私たちを喜びに満たしてくださいます。聖霊に満たされ続けましょう。聖霊は私達の罪責感を一つずつ赦しのハンコを押して取り除いてくださるのです。


5月26日 御国への旅路を歌いつつ歩まん。  聖歌480番 
聖歌498(516)番 「歌いつつ歩まん」

@ 主に縋(すが)る我に  悩みはなし
 十字架の御元(みもと)に  荷を降ろせば
 (くり返し) 歌いつつ歩まん ハレルヤ  ハレルヤ
      歌いつつ歩まん  この世の旅路を

A恐れは変わりて  祈りとなり
  嘆(なげ)きは変わりて  歌となりぬ
 (くり返し) 
B主はいと優(やさ)しく  我と語り
  乏(とぼ)しき時には  満たし給う
 (くり返し) 
C主の御約束(みやくそく)に  変わりはなし
  御元(みもと)に行くまで  支え給わん
 (くり返し) 



私ごとで申し訳ありませんが、この30日で還暦となってしまいます。自分の父が還暦の時は15歳で、「大学に行くのは良いが、卒業まで生きて支えていると思うな。」と言われた頃から比べると、まだまだ若いと思うのですが、いかがでしょうか。自分の人生を思い返すと、親に対して批判はおろか意見も言ったことがないことが、神の祝福の源のような気がします。昔の親は厳しかったものです。どんなに理不尽に思えても、私達の思考の内には、それを拒むものはなかったのです。しかし、それでも親の言いつけを守るということが、子どもの義務と考えることは、子どもの側にも親は子どもを、命を掛けて持っているという実感があったからでしょうか。「私たちが敬虔に、また威厳をもって平安で静かな一生を過ごすためです。」(Tテモテ2・2)。

 この聖歌は、結婚式の時に選んだ曲でした。翌日が神学校の入学式、妻は医学部を卒業できないでノイローゼの中、経済的には全く保証がない、・・・参加する教会員はそういう私達の緊張を知っていますから、「ただ信仰のみ、主にすがる我に悩みはなし。」と歌う私達の壮絶さを思い、歌いながら泣き崩れる人もありました。私は決して弱音は吐かない人間なので、人々は私を慰めも励ましもできません。悩んだら、とてもできないことで、だからこそ、「悩みはなし。」と神のみを頼りにすることを宣言したのです。

 私は、神学校生活3年間、一日一食の断食を神に誓って祝福を求めていました。往復4時間の満員電車の通学をしながら、神学校の勉強をし、悩んでいる妻とは毎日2時間くらい話をしました。食事の途中で動きが止まり、箸を持ちながら2,3分悩んでいる妻を見ながら、涙が流れ、絶望の思いがこみ上げてくることは何回もありました。教会も牧師も祈ってはくれていましたが、私が悩みを言わないので、全く心配をしていないようで次々に奉仕を命じられていました。妻は、教会の姿勢で伝道と早朝祈祷はよくしておりました。意識はきちんとあり、何でもない時も多かったので、精神病のようにも思えませんが、しかし、いつも悩んでおり、心因反応がでていました。

妊娠が分かり、9月に切迫流産で21日間出血が続きました。私は一食の断食以外に3日の断食を3回して、御霊の力で癒しを体験しました。まさに命がけの信仰生活でした。半年後に卒業しても全く勉強は進まず、医師国家試験は半年毎でしたが、2回落ちました。そして、4月に長男が生まれ、これでは医師にもなれまい、と妻の両親が突然来て、母子を連れ去って行きました。信仰と言っても、不信者には全く理解できないことと、結果を出さなければ、このようになると自分が情けなくて心臓が張り裂けるほどに苦しみました。そこで、十字架上のキリストの幻を見たのです。「十字架の御元に荷を降ろせば」とあるように平安を得て、歩みましたが、その秋に国家試験に恵みによって受かりました。

 その間私の健康は悪くなる一方で、全身の蕁麻疹、食事の不安定による脂肪肝、花粉症・・・、更に日曜は早朝から夜9時まで教会奉仕と忙しく、月曜はとても起きられませんでした。しかし、請願というのは、自分の身体は犠牲にしても、祝福を求めるというものであると意識していたので、断食をやめることはありませんでした。学期毎の聖別式の祈りでは、守られた、ここまで来た、という感慨で泣き崩れたもので、他の神学生には迷惑だったでしょう。
 私には、嘆いたり悩んでいるのは神に申し訳ない、という気持ちがあるので、弱音は吐かない、という信念があり、勝利するまで事情は人には言いません。それで多くの誤解はあったことと思います。20歳から30歳までは、神に取り扱われて、全く思いもよらない転換が続きました。妻との出会いは20歳の時です。卒業の30歳から40歳までの10年間は、何の良いことも無い、と思い返すほどの苦労ばっかりの時代でした。性格も厳しいものでした。温和な性格では、苦労を乗り越えることはできなかったのかもしれません。祈りと断食はいつもしていました。奇跡と信仰と荒野の時代です。

 50歳までの10年間は、自分の野望が皆うまくいかなかった時代かもしれません。面白いことに、1998年に「駅から200m以内に複合ビルを建てる」というビジョンがありました。労多くして実りの無い時代でした。でも、50歳になる20003年を前に、とうとう神の前に自らのエゴと神への不従順を悔い改めました。そして、直後に現在の教会堂を与えられたのです。ビルも与えられました。それからの10年は、「自分の思いを優先しては危ない」という意識が常にあり、私にしては柄にもなく控えめで、慎重でしたが、「これで神に従っているのだろうか」という懸念はありました。それでも、この10年で性格が良くなってきたのは事実だと思います。

 これからの十年は、どうなるのでしょうか。いろいろなことを経験してきました。力も付けてきました。少しは謙遜になってきました。これで「御元に行くまで支え賜わん。」という働きがなかったら、私の人生は自らの愚かさと弱さに気が付くためだけのものとなってしまいます。歳をとって、生活も安定し、そして霊的に堕落してしまった人を多く見て来ました。恵みによって、これまでの働きはそれぞれ後継者がいるようです。そして、心配してケアしてきた妻も強くなってきました。これからは、神が私に用意された使命があるような気がしています。80歳までに、何事かを「神に仕える者として果たす。」という目標を持ちます。

 ともかく、「80歳プロジェクト」の作成を始めました。それは70歳で、「60歳の時よりも健康である。」ことが基本です。そして、「すべての人のために、幸せと祝福を願い、祈り、執り成し、感謝を捧げる。」ことが、行動理念です。これは冒頭のTテモテ書の前の聖句です。老いと過去に囚われてはいけませんね。そして、活動内容は、「新しいことを日本に示していく。」です。それら全てを歌いつつ歩むことが大事です。


6月2日 

6月9日 苦しみに遭ったことは幸せでした。 詩篇11971節 奥田冬樹師

6月16日 父たちよ。子に訓戒を説け。  箴言1章29節 
新改訳 箴 1:2-9

1:2
これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、

1:3
正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、

1:4
わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。

1:5
知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。

1:6
これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。

1:7
主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

1:8
わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。

1:9
それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。

2:1-6

2:1
わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、

2:2
あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、

2:3
もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、

2:4
銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、

2:5
そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。

2:6
主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。



ホームスクールの会議で、宣教師が「親に対して子どもには権利を有しない。ただ、従うだけが義務であり、そむくことは罪である。」と言うことを聞いて驚きました。さらに、「神に対しても人間は権利を有しない。何をされてもただ従うだけである。」と聞いて、なるほどと思いました。

 「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり」(Tコリント11・3)と聖書に書かれていますが、皆さんはどのように受け取るでしょうか。「男は神の似姿であり、神の栄光の現れだからです。女は男の栄光の現れです。」(同11・7)も現代では、論議が起こるでしょう。

 正直に言って、私には、それに同意する自信はありません。ただ、そのようであるために、自分の行動と妻に対する態度には、非常に責任を感じております。男女に差別はあるべきではなく、人間としての価値は同じものです。そして、世界に未だに存在する女性蔑視や、女性の権利を尊重しない風潮には決して同意しませんし、抗議もします。ただ、これらの聖句は、女性の肉体的・社会的・家庭的立場と弱さを十分に配慮しなければならない、ということをも意味すると思われます。

 そして何よりも、男性と夫の責任と覚悟を命じていることです。そして、これは神が定めた法則であるということを男性が自ら感じるか否かが大事なことです。

  父親に社会性を指導されていない青年が多くなっています。いや、高齢になっていても父親に対して、平気で逆らい失礼なことを言う人々がいますが、卑しい印象を持ちます。直ぐに言い訳を言ったり、逆らったりする人は、父親の「訓戒を体得」(箴言1・3)していないからであると思います。世の中を眇めで見る人は、父親の訓戒の裏にある愛情を確認していないからでしょう。

 厳しく指導すると、それだけで反発し、指導に従わない人や、蔭口で返す人が多くいます。浅薄な人間関係だけで生きて来たのでしょう。自分の感情を外に出し、率直に受け答えできる人は幸いです。裏に籠る陰湿さは、父親の訓戒と母親の愛情が不足したことも大きいように思われます。

 しかし、そのような環境と家庭に育っても、素直で忍耐深く、謙遜と努力を保持する人々もいるのです。やはり要は、その人の罪性と清めへの願いが大きいと思われます。そして、それらは、その人の人生を形成していくのです。つまり、その人の誠実さが問われるのです。

 さて、そのような人の基本的性向を形成するのが親であり、その親の延長に父なる神としての神観念があるのです。ですから、父親としての自覚は、神に代わるものとしての自覚がなければなりません。これは非常に怖いことです。自分の弱さ、罪深さを自覚すれば、それはとてもできないことです。

自分の弱さ、罪深さを自覚しない場合であって、その行動と判断が家族に及び、責任が問われるとすれば、逃げたくなり、判断をあいまいにしたくなるのは当然なことです。これが現代の父親像でしょう。失敗を重ね、妻や子どもに迷惑を掛け、逆に世話になってしまうことになった父親もおります。しかし、それでも父親は責任者、決断者としての立場を放棄してはならないのです。父親という立場は、能力や性格に依存するものではないのです。

 自分の罪深さと愚かさの歩みを認めたとしても、父親としての権威と責任を放棄すれば、家族の秩序が崩壊するのです。妻や子どもの我ままを是認してはならないのです。それが、神の似姿としての父親の義務なのです。なぜ、理解ある寛容な父親であろうとするのでしょうか。それは妻子から嫌われたくなく、自分の勝手さ罪深さも是認して欲しいからです。

 父達よ、男性たちよ、自らの弱さと罪深さを自覚しない人はおりません。しかし、だからといって、父としての厳しさ、訓戒を与える者としての立場を放棄してしまうのは、あなた自身が神を恐れていないからです。あなたが、自分の父として、男としての使命に殉じようとする時、「あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見出す」(箴言2・5)のです。

 妥協しないで、妻子に自らのへの従順と、罪の悔い改めを指摘する時、父は神からの使命を果たすのです。罪人で無い人はいないからこそ、それぞれがその立場における使命を果たす必要があるのです。

 警察官が自分の罪深さを自覚して、犯罪人を罰しなかったら、社会は荒廃します。裁判官が自分に裁判する権利と正義はないと自覚して、裁くことを躊躇したら、悪が横行します。同様に、父が自分の弱さにおののいて、家族に訓戒を与えず、正義と公正と従順を教えなければ、その家族は崩壊するのです。

 自分の弱さ罪深さにおののいている人は、実はおののきながら、神からの責任を放棄して、社会人としての秩序や義務を全うしようとしていない場合が多くあるのです。警察官、裁判官、公務員、それぞれの仕事を誠実かつ責任感をもって行なおうとする時に、あなたは、神の訓戒と為すべきことを悟り、そして、社会にも貢献できるのです。誤魔化しが横行するのは、神を恐れていないからです。父親が断固として訓戒を与えなければなりません。


6月23日 妻の優しさの中でこそ、男らしく生きられる。
使徒7:23 四十歳になったころ、モーセはその兄弟であるイスラエル人を、顧みる心を起こしました。

7:24
そして、同胞のひとりが虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち倒して、乱暴されているその人の仕返しをしました。

7:25
彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。

7:26
翌日彼は、兄弟たちが争っているところに現われ、和解させようとして、『あなたがたは、兄弟なのだ。それなのにどうしてお互いに傷つけ合っているのか。』と言いました。

7:27
すると、隣人を傷つけていた者が、モーセを押しのけてこう言いました。『だれがあなたを、私たちの支配者や裁判官にしたのか。

7:28
きのうエジプト人を殺したように、私も殺す気か。』

7:29
このことばを聞いたモーセは、逃げてミデアンの地に身を寄せ、そこで男の子ふたりをもうけました。

7:30
四十年たったとき、御使いが、モーセに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現われました。

7:31
その光景を見たモーセは驚いて、それをよく見ようとして近寄ったとき、主の御声が聞こえました。

7:32
『わたしはあなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。』そこで、モーセは震え上がり、見定める勇気もなくなりました。

7:33
すると、主は彼にこう言われたのです。『あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたの立っている所は聖なる地である。

7:34
わたしは、確かにエジプトにいるわたしの民の苦難を見、そのうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下って来た。さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう。』

7:35
『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか。』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになったのです。

7:36
この人が、彼らを導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年間荒野で、不思議なわざとしるしを行ないました。


人が仕事や働きをして、がっかりしたり嫌になったりするのは、批判や攻撃です。自分にとって都合が悪いと、相手が正しかろうと、親しい人であろうと、陰口を言い、非難する人がいるものです。特に、男性は世の中で、そのような人の社会の嵐にいつも遭遇するのです。気の休まる時もなく、耐えて、働きに出なければなりません。

 ヒステリーの女性と会ったことがあります。30分興奮して、自分の考えを主張し続け、反論を許さず、関わる人々を非難し、自分は誰も理解し賛同してくれない、と叫んでいました。私は、あまり動ぜずに、その考え方は間違っており、こういうふうにするものだと諭していて、やっと30分後に収まってくれました。そして、しばらくすると、自分の興奮に失望して、自分は如何にだめな人間で、何もわかっていないのかと話しだしました。ともかく、その人の対応に会議のうち1時間が費やされました。

 このような女性を妻とした男性は、どのようなものでしょうか。当初は、説得し、慰め、付き合っていても、そのうちに関わりたくなくなり、何か話してもその内容で攻撃されるので、黙っているようになるでしょう。そして、欲求不満の女性は、更にヒステリーが募るという具合に、悪化の一途となるのではないでしょうか。

 女性は攻撃には弱い存在です。自分の罪深さや過ち、ミスなどに関して極端に恐れる傾向があります。それらのガードのために、自分が非難されていなか、自分の評価はいかなるものか、他の人はどのように人を評価するのかという情報収集に多くの時間を掛けます。要するに、人の目を気にするのです。そして、そのガードが破綻した場合に、制御不能となってヒステリーになるのです。そして、その状態にさらに失望して、自己破壊していく女性が多くおります。

 これらを防ぎ、女性を社会と心配・失望からガードするのが夫の役割です。そういう面では、未婚の女性は不安定ですが、社会は未婚の女性が控えめにする限りは寛容であります。ところが、最近は、女性の社会進出も多く、自己責任で多くの仕事を任されるので、結婚しても夫をリードし、口出しを許さず、ミスなく社会生活を全うしようとするので、ストレスが多くなっているようです。

 妻の仕事ぶりを見ていても、人に悪く見られたくないという思いが強く、オーバーワークになる傾向があります。やることが多すぎるので、一つ一つのことが少しずつずさんになり、却って問題を起こし、休む暇が無くなって、ストレスになるようです。人に任せることができないので、病気になるか、事故を起こすかと、心配して、ストップを掛けますが、自己管理ができないので、いつも見守らないと危ない状況です。こういうことを言うと、女性から反撃がきます。「良子先生は素晴らしい、そんなことを言うなんで可愛そう!」

 女性の愚かさは(失礼!)、人を誉め過ぎることと、指導されることが悪いことのように考えてしまうことです。社会でも家庭でも、人から指導されなくては人間というものは、まともには生きられないものであることを悟っていないのです。男性は、仕事の中で嫌と言うほど、それを教えられ体験してしまうのですが、女性は仕事をしていても、指導に従うことができないことが多く、自己流を通して失敗をします。そういう女性を誉めると、余計、自己流を通すので、ますます問題は深刻化します。

 先週は、父親は自分の出来の善し悪しに関わらず、妻子に訓戒を与えるべきことをお話しました。ところが、女性の方は、その訓戒が社会の評価と会わないと判断すると従わないで、夫を批判します。その妻の反撃に恐れをなすと、夫は家庭で沈黙を守り、無事にその日が過ぎ去るのを待つのです。それは会社における仕事のようです。しかし、それが余計、妻のストレスを増すのです。なぜなら、「女のかしらは男であり」という神の定めた法則があるからです。

さて、男性の模範としては、アブラハム、モーセなどが挙げられるのでしょう。モーセも、自分が王子の位を捨てて同胞のために生きるなら、自分を指導者として認めてくれるものと考えたのに、それが認められない(使徒7・27.28)と、嫌になって逃げてしまいました。ところが、荒野で優しく従順な妻チッポラと過ごす中に、自分の使命に目覚めて、不従順な人々の指導者として生きる生活を覚悟したのです。

 エバはアダムのあばら骨から造られた(創世記2・22)のは、男性の心を守るという働きを持っているからだと言われます。そして、女性は、男性の心を守り、男性を指導者として受け入れてこそ、幸せを獲得できるのです。世の中には、いろいろな考え方が出てきていますが、聖書は「人が一人でいるのは良くない。」として、結婚によってこそ、人生の喜びを知ると記しているのです。

 男性の支配性が先か、妻の従順が先か、しばしば取り上げられることで、エペソ書に妻の従順が先に述べられている、という男性牧師が多いのですが、そういうことは、相互的なものであって、日常生活で、お互いの配慮と愛情の中で築き上げられるものです。制御不能のヒステリーの女性の原因は、少しは夫の側にもありますが、どうしようもなく感情的な行動を取る女性を、男性は相手にしたくないという気持ちがあることは知っておいて欲しいと思います。


6月30日 恐れず、備えある人々。  士師記729 

新改訳 士師記7:2 そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。

7:3
今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。

7:4
すると、主はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない。』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない。』と言う者はだれも、行ってはならない。」

7:5
そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」

7:6
そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。

7:7
そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」

7:8
そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。

7:9
その夜、主はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。


士師記は民が罪を犯して国が衰え、敵が攻撃してきた時に、「イスラエル人は主に叫び求めた。」(3・915、4・3、6・6、10・10)ので、助けの勇士や預言者を起こしたという歴史です。そして、「イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(17・6、21・25)時代です。

 そしてギデオンという人が勇士となっていくのですが、当初は酒舟の中に隠れて麦を打つという用心深いだけの人でした。主の使いは「勇士よ。主があなたと一緒に居られる。」(6・12)とギデオンに語りかけるのですが、ギデオンは、神が一緒に居られるならば、このような国の混乱と他国による略奪はないはずだと文句を言います。

 私は、アベノミックスは危ないと考えています。そもそも戦後経済の闇雲な成長志向・利益志向は、社会や家庭を崩壊してしまいました。金が全ての世の中になり、落ち着いた生活や健康な環境、そして道徳がないがしろにされてしまったからです。そして、教会成長志向は牧師や役員の価値観を教会員の数の増加や経済力・企画・会堂主義へと変えてしまいました。現在の教会の衰退や頽廃は、クリスチャン一人一人の霊的・社会的・人間的成長を丁寧に大事にしなかった結果であると思われます。

 私は教会員一人一人の社会的立場や経済力・能力・性格で差別したことは無いつもりです。むろん、助けや祈りを必要とする人には、特別に対応しましたが、一人一人を見守るには、現在の50名ほどが限度のような気がします。王さまにも権力者にもなるつもりはありません。牧師のことを牧場主として、羊飼いを増やせとして、信徒指導者を数多く養成しろ、という教えもありますが、「良い牧者は羊のために命を捨てます。」(ヨハネ10・11)という意識を持った信徒指導者が、それほどいるとは思えません。要するに、国・社会・教会の指導者は、自分の目的や利益の追求のために指導者になるのではなく、構成員を守り、成長させ、幸せにするために、神によって任じられていると思うのです。

 日本でも、男たちは家族のために、社会のために、国のために命を捨てて使命を果たしてきたのです。ところが、現在は、国や社会や会社や家庭は、自分のために何もしてくれない、という要求と文句をいう人ばかりが多くなっています。神が一緒にいても、私達の考え方が自己利益追求なので、神は助けようがないのです。「自分の目に正しいと見えることを行って」いるだけなのです。教会もまた、リバイバルと叫んで、クリスチャンが増えて力を持つことを願っているばかりです。

 イエス様は、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者は稀です。」(マタイ7・14)と言われているのに、クリスチャンを多くしようとして偽クリスチャンを乱造するので、ローマの国教化によりキリスト教が頽廃したのと同じようなことになるのです。

ギデオン個人を見つめる主に恐れを覚えて、ギデオンは、自分は弱い、と逃げようとしますが逃れられないので、しるしを求めます。焼き尽くす火を見てギデオンは勇気を持ち、バアルの祭壇を壊すのですが、やはり恐れていて夜中に行ないます。父のヨアシュは肝の据わった人で、ギデオンを殺そうとする町の人々に対して、バアルが神ならばバアルが仕返しをすれば良いとして、人々をなだめてしまいます。

 露の降りる土の上に羊の毛だけが乾いているというしるしを再度要求するギデオンに適えた神は、ギデオンを指導者として北イスラエルから人々を集めます。集まった32000人のうち恐れを抱く者22000人を帰し、更に水を飲む時に無頓着な人々を帰して、300人だけが残りました。敵のミデヤン人の数は13万5千人です。0.2%ですから、大体日本のクリスチャン人口と同じようなものです。

 私はクリスチャンがその他の人々に戦いを挑んで勝て、と言っているのではありませんが、霊的な戦いであることは事実です。武器による戦いは直ぐに勝敗が付きますが、霊的な戦いは終末にまで続き、再臨される主が王として立ち上がる時まで忍耐していなければならないのです。エペソ6章を読めば、私達が「主にあって、その大能の力によって強められ」(6・10)、さらに武具を身につけて御霊によって祈り、忍耐の限りを尽くすべきことが述べられています。

 クリスチャンを粗製乱造してはいけません。3万2千人の軍であったらミデヤン人に負けたでしょう。1万人でも同様です。終末の霊の戦いに際して、恐れずに備えを心がけている人こそ、大事なのです。

 私達クリスチャンは自己形成や霊的な成長を心がけ、自らの訓練をして神の御用に立つように備えていなければなりません。赦す、愛する、などの言葉が教会には多いようですが、本当に赦し愛するためには、よほどの力を付けていなければできないことであると思います。馴れ合いの赦しや愛では、この世の戦いに負けてしまうことになります。

 クリニックニュースの巻頭言で、子どもに対して、排他的成績評価を認めたり、万能になるような期待をすると子どもがだめになると考えていると述べました。教会員の皆さんにも、あまり誉めてはいません。いつも叱咤激励をしています。人の評価や結果に惑わされることなく、自らと自らの家族を形成し、力を付けていってください。霊的な戦いに負けては、喜びも感謝も愛の交流もなくなってしまいます。真の勇士こそ、喉が渇ききっても、がぶ飲みせずに、手ですくって水を飲む習慣と配慮を身につけるのです。