10月7日 沈黙を守ってはいけない。   エステル記4716

新改訳
エステル4:7 モルデカイは自分の身に起こったことを全部、彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために、王の金庫に納めると約束した正確な金額をも告げた。

4:8
モルデカイはまた、ユダヤ人を滅ぼすためにシュシャンで発布された法令の文書の写しをハタクに渡し、それをエステルに見せて、事情を知らせてくれと言い、また、彼女が王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求めるように彼女に言いつけてくれと頼んだ。

4:9
ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに伝えた。

4:10
するとエステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えさせた。

4:11
「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭にはいり、王のところに行く者は死刑に処せられるという一つの法令があることを知っております。しかし、王がその者に金の笏を差し伸ばせば、その者は生きます。でも、私はこの三十日間、まだ、王のところへ行くようにと召されていません。」

4:12
彼がエステルのことばをモルデカイに伝えると、

4:13
モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。

4:14
もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」

4:15
エステルはモルデカイに返事を送って言った。

4:16
「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」


 ペルシャのクロス王が紀元前539年にイスラエル人の帰還命令を出しましたが、多くのイスラエル人は、そのままペルシャ帝国に残っていました。1章1節にあるように、この帝国はインドからエチオピアまでを領土に入れた大帝国であり、荒れ果てた田舎のイスラエルに還ることを懸念したからと思います。

エステル記のアハシュエロス王(クセルクセス1世)は紀元前486年〜465年の治世であり、先週お話したマカバイ記の300年ほど前のことです。私達は、歴史が数百年単位で神の聖定の中で動いていること、そして、たった一人の信仰者が歴史を動かす大事な役割を担っていることを知らなければなりません。14節に、「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」モルデカイが語ったことを、私達一人一人も時代に埋没することなく、意識して神の僕としての働きに仕えなければなりません。

 もし1974年の或る日に、金沢教会の信者が電柱に伝道集会のポスターを貼るという法律違反の行為をしなければ、良子師が救われておらず、私も救われていないのです。そして、妻が低血糖症で苦しみ、注意欠陥障害的な人でなければ、私は結婚も牧師になることもなかったでしょう。そうすれば、昭二兄とみせ姉の結婚もなく、皆さんがクリスチャンになることもなかった。しかし、神はそれらを全て用意されており、定めていたということ、それを聖定というのです。

 ですから、最初に結論を言えば、「性格が悪い、能力がない、運が悪い、失敗をした、病気になった、怪我をした、障害をもった」などということも、聖定の中にあることを悟れば、失礼ながら大したことではないのです。大したことのない人生のなかで、その人がしなければならないことが、もしかしたらたった一つでもあるのです。むろん、それは魂の救いと信仰者として歩むという前提に立ってのことです。何度もお話しているように、歴史は終末への進み、困難な時代が始まろうとしています。世と悪魔は、私達に成果を求めさせようとします。それは、人々を比較と自己中心な生活への惑わします。大事なことは、信仰者として、試練に耐え、忠実な人生を送り、為すべきたった一つのことを果たせば、神の僕としての使命を果たすのです。

 王妃ワシュティが勝手なことをして退位され、全国から見目麗しい未婚の女性が選ばれました。その一人にエステルがいたのですが、彼女は性格が良く、「女たちの監督官である王の宦官ヘガイの勧めたものの他は、何一つ求めなかった。エステルは、彼女を見る全ての者から好意を受けていた。」(2・15)。エステルは王に愛され、王妃とされましたが、ユダヤ人であることは隠していました。それは、養育してくれた叔父のモルデカイの指示に従ったからです。

 女性たちが夫に従うことは凄いことです。夫は従う妻を絶対に守り、祝福しなければならないからです。同じように、神に従う人を、神は絶対に守るのですが、信仰を二の次にする人に責任を持たないことは当然なことです。

 モルデカイは頑固な人で、宰相のハマンに対して決してひれ伏さなかったので、ハマンは彼だけでなく、ユダヤ教を信じるその同族全てを憎むことになりました。神に忠実でさえあれば、人に憎まれるなど気にしないほうが良いでしょう。私などは多くの人に嫌われ、嫌がられているようですが、神の前にすべきことを祈りながらしているので、評判は神に任せています。大事なことは、私自身の中に平安と喜びがあるかどうかで、人も目を伺うことをしません。

 ついにハマンの策略によって、11か月後のユダヤ人全員の殺害と財産の収奪の命令が出されました。1948年のイスラエル建国のために、当時のアメリカの国家予算と同じような額が世界中のユダヤ人から集まったということですが、ユダヤ人の一体性や民族意識の強固さが、このような歴史から形成されたのです。

 逃げることもできないユダヤ人は、荒布をまとい灰の上に座って断食をしながら神に叫び続けました。私は、多くの信仰者が試練の中で、このように祈ることがなく、諦めたり、人知を尽くしたり、神を呪ったりすることを見ています。大事なこと、必要なことは、神に助けを叫ぶことなのです。先日、たった一つの罪を犯した信仰者に会いました。彼は、自分の信仰と歩み、教会への貢献を限りなく話そうとし、私が彼の失敗を知っていると悟ると、自分はだまされたのだと相手を非難しました。怖いことです。たった一つの罪で、人間性が全く変わり、彼の功績は灰塵に帰すのです。

 エステルは、同族を救うために、命がけの行動を起こします。モルデカイは、「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」と語り、臆病を諌めます。臆病な人は、神を信頼しているとは言えないでしょう。神を信じるならば、勇気と大胆さを持つのです。「神の祝福は流しそうめん」と私はしばしば言います。沈黙をし、人を助ける行動の取れない人は、祝福を失うでしょう。

 エステルは、「死ななければならないのでしたら、死にます。」と決意して、王の所に行き、見事に冷静に形勢を大逆転させます。そして、モルデカイがハマンの地位に取り替わることになります。ユダヤ人は、この歴史的な救済を記念して、この日をプリムの主日として祝うのです。これはユダヤ暦のアダルの月の14日であり、太陽暦では2月から3月に祝われます。イスラエルという国は、そのような歴史的な神の救済計画の中で形成されているのです。

 私自身の信仰も37年の神の聖定の中で形成されてきました。今のところ、神に従い、勇気をもって行動してきたと思います。沈黙したい時もありましたが、聖霊は、私に行動を促してきたのです。人の目には違和感があることも多くありましたが、神に従ってきたつもりです。これからも神を畏れて、罪を犯さずに生きて行きたいと願っております。


10月14日 不義から立ち返る。   ダニエル記91018節 
ダニエル9:10 私たちは、私たちの神、主の御声に聞き従わず、神がそのしもべである預言者たちによって私たちに下さった律法に従って歩みませんでした。

9:11
イスラエル人はみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そこで、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが、私たちの上にふりかかりました。私たちが神に罪を犯したからです。

9:12
神は、大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちをさばいたさばきつかさたちに対して告げられたみことばを、成就されたのです。エルサレムの上に下ったほどのわざわいは、今まで天下になかったことです。

9:13
このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているように、私たちの上に下りましたが、私たちは、不義から立ち返り、あなたの真理を悟れるよう、私たちの神、主に、お願いもしませんでした。

9:14
主はそのわざわいの見張りをしておられ、それを私たちの上に下しました。私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。私たちが、御声に聞き従わなかったからです。

9:15
しかし今、私たちの神、主よ、あなたは、力強い御手をもって、あなたの民をエジプトの地から連れ出し、今日あるとおり、あなたの名をあげられました。私たちは罪を犯し、悪を行ないました。

9:16
主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、どうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、エルサレムとあなたの民が、私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。

9:17
私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。

9:18
私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。

 1節にあるアハシュエロスはアケメネス朝ペルシャの王によくある名で、エステル記のアハシュエロス王(クセルクセス1世)はとは違います。その子ダリヨスと書いてあるのは、どうもクロス王のようです。5・31にあるように62歳でバビロニア帝国を滅ぼしたのが紀元前539年です。

 エレミヤが25章12節でユダヤがバビロンに70年支配された後、バビロンが滅びると預言したのは、ネブカデネザル王の元年、紀元前605年でした。U歴代誌36・21には、その70年の意味が、イスラエルが王を立て、徴税のために土地の安息年がなくなった490年の7分の1であることを示しています。つまり、サウル王が立ったのがその420年程前ですから、強制的に残りの70年を徴税も刈り入れもない荒れ果てた土地にされたという意味合いです。

 ダニエルが、「律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そこで、律法に書かれているのろいと誓いが私達の上にふりかかりました。」と書いてあるのは、そのような安息命令を守らなかったからであると認めた悔い改めです。レビ記25章4節には、7年目は全き休みの年であると書いてあるのです。

 新約聖書になってからは、この安息年の戒めは殆ど強調されなくなっていますが、安息日の戒めは強く残っています。クリスチャンは、安息日(土曜日)ではなく、主の復活の日(日曜)を聖日として守っていますが、実際に仕事をしないで安息を守ろうとする人はすくないようです。私自身は、日曜が説教をするので、とても安息とは言えず、木曜を安息の日として守っています。そして、さらにヨエルの年のように49年働いたら1年休もうと思っています。

 成果主義は聖書的ではないとお話しましたが、休みなく働く人が、主の戒めを守っていないということを意識し、悔い改めるということを、あまり聞いたことがありません。牧師については尚更です。私が過労で身体を痛めた時に、悔い改めたことは、安息の中に生きなければ、何をしても意味がない、ということでした。イザヤ58章13節に、安息日を守るべきことがあり、その日に「自分の好むことをせず、主の聖日を栄えある日と呼ぶ」のなら、と記しており、次の章で「あなたの咎が、あなたがたの神との仕切りとなり」と書いてあります。私は、それで人生を単純に神に従い、神を喜ぶ日々を送るものとしようと決意したのです。

 先週、寺田姉が「最高の人生の見つけ方」という映画から、人生の意味合いに2つの大事なものがあると教えられたと言ってくれました。

1. 自分の人生に喜びを見いだせたか。

2. 他者に喜びを与える事が出来たか。

 夫婦が仲良く過ごせば、この課題を果たすことができます。この映画では、その回答を見出しています。安息日を守るということは、このことです。

 「自分の好むことをする」から、夫婦が仲良く過ごせないのです。聖書の戒めを守るということは、戒律的になることではありません。私は、そのように仕事をしてきました。会社やクリニックの経営者としては、成功したように思いますが、牧師としては全く二流です。教会が、安息日を互いに愛しあうような生き方を確認し実行するためのものでないなら、意味がないと考えています。そういう関係の中で人生が祝福されるべきものとなり、教会が成長するようにと願っています。働くことで祝福されるのではないのです。

 ダニエルは15節に、奴隷であったエジプトから解放されたのに、彼らが罪を犯したと悔い改めます。そして、赦しを求めます。日本人の多くは、何かをすることで自分の価値づけをしています。仕事や収入がないとやることがないと思っています。なぜ、人を愛することに時間を費やさないのでしょうか。自分のために生きると何をしても虚しく、喜びがなく、辛いものです。あなたの人生が、成果を求めて来たのなら、悔い改めて、神を喜ぶ日々を送ることに目を止めるべきです。

 ダニエルの祈りは聞かれ、U歴代誌36・22にクロス王が、ユダヤ人解放令と神殿建設命令を紀元前539年に出したのです。

 私もまた、皆さんに言います。労働の奴隷から解放され、神の宮の建設の喜びを自分のものとしてください。神の宮とは、あなたがた自身です。「あなたがたの身体は、あなたがたの内に住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを知らないのですか。」(Tコリント6・19


10月21日 あなたの祈りは聞かれている。   ダニエル記101121

ダニエル10:11 それから彼は私に言った。「神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣わされたのだ。」彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。

10:12
彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。

10:13
ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、

10:14
終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。」

10:15
彼が私にこのようなことを語っている間、私はうつむいていて、何も言えなかった。

10:16
ちょうどそのとき、人の姿をとった者が、私のくちびるに触れた。それで、私は口を開いて話し出し、私に向かって立っていた者に言った。「わが主よ。この幻によって、私は苦痛に襲われ、力を失いました。

10:17
わが主のしもべが、どうしてわが主と話せましょう。私には、もはや、力もうせてしまい、息も残っていないのです。」

10:18
すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、

10:19
言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」

10:20
そこで、彼は言った。「私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ペルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。

10:21
しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。


 当教団を含めたペンテコステ・カリスマの教会で、地域の霊を縛る祈りというものが為されている場合があります。私は地域霊が存在し、その地域の人々に悪い影響を与えていることは認めますが、方法論的に異常な対処法を取る人々がいることに注意しなければなりません。今日の聖句は、その根拠となる地域を支配する悪霊の存在を指摘しています。

悪霊とは、そもそも最上級の天使であったサタンが神に反抗した時に従った天使であり、意思を持った霊的な存在です。聖霊なる神が全知であり普遍的(どこにでも存在し得る)存在であるのに反し、天使は霊的な存在なので移動は早いとしても知覚も存在も限定的です。その天使には階級と力の差があり、悪霊に関しても同様です。「私達の戦いは血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天にいる諸々の悪霊に対するものです。」(エペソ6・12)とあり、ダニエルに神の言葉を伝えに来た天使ガブリエルを邪魔したのは、ペルシャを支配する悪霊の長であり、助けに来たのが天使長ミカエルです。霊の世界でも戦いがあり、ミカエルはギリシャの支配悪霊とも戦う(6・20)とのことです。

このような悪霊の働きに対して、悪霊を縛るということで、神社仏閣の前、特に参拝者の多い時に、車で乗り付けて「サタンよ、悪霊よ、出て行け!」とマイクで叫ぶ異常なクリスチャンがいます。この周辺にも車からマイクで「サタンよ、お前を縛る、出て行け!」と叫ぶ狂気な人がいて、礼拝の時間にも、通りから聞こえてくることがあります。ご自分の礼拝や信仰生活を犠牲にして、そのようなアジ演説をする人が聖書的なクリスチャンとはとても思えません。

聖書は、サタンの策略があることを悟って、神の与える全ての武具を身につけるように勧めています(エペソ6・11)。13節にもあるように、「すべての武具」を身につけることが大事で、一部では霊の戦いに勝利できません。また、平和の福音の備えというように争いを引き起こすようなものではいけません。

@ 真理の帯 

A 正義の胸当て

B 足には平和の福音の備え

C 信仰の大盾

D 救いの兜

E 御霊の剣である聖書の言葉

F 祈りと願いによる気力

G 教会による祈り合い

 6・12にダニエルに対して「あなたが心を定めて悟ろうとし、神の前でへりくだろうとしたその初めの日から、あなたのことばは聞かれている」とあります。聖書の教えは、人に対しても、社会に対しても、国家に対しても攻撃的になるものではありません。たとえ、それが理不尽であって攻撃的なものであっても、私達の戦いの武器は、前述のものであり、日々の生活においてへりくだって生きることであり、傲慢に神社や仏閣の前で人間的に失礼な言動を取ることではありません。

 ただ、霊の戦いが現実にあり、それに対して、私達に「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。」との言葉は、何よりも大事な励ましです。そして、多くのクリスチャンがこの霊の戦いに気がつかずに、理性や知性によって生きていることは、愚かなことなのです。神が「善悪の知識の木の実を取って食べたら、必ず死ぬ」と言われたことは、今でも私たちの人生の法則として悟っていなければなりません。

 神の使いは、創世記31章で、ラバンに対して「あなたはヤコブと事の善悪を論じないようにせよ。」と言われました。善悪の判断は指導者や自らの倫理を守ることには必要なことですが、他人や社会に対して持つと批判的なものとなり、サタンの罠にはまるのです。

 世界や人生を左右する大事なことは、霊的なことであり、謙遜に歩み神の正義を身につけて(救い)、祈りと御ことばによって生きることなのです。「主を恐れることは知識の初めである」(箴言1・7)。ダニエルの凄さは、徹頭徹尾、神を恐れ、神の前に生きて、王の権力も世の惑わしや攻撃も恐れなかったことなのです。社会は霊の力によって左右され、あなたの人生は祈りによって神に聞かれ、祝福の道への導かれるのです。


10月28日 聖霊が臨まれる。    使徒の働き19161318
使徒19:1 アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、

19:2
「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。

19:3
「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。

19:4
そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。

19:5
これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。

19:6
パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。

19:13
ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみた。

19:14
そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。

19:15
すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と言った。

19:16
そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。

19:17
このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。

19:18
そして、信仰にはいった人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。



 先週、悪霊の存在についてお話しました。以前、聖霊は私達を満たすけれども、支配することはしないと語ったことがあります。ところが、悪霊は、どうにかして私達を支配し、私達の心を縛ってしまいたがるのです。その為には、ゲーテのファウストにあるように、私たち自身が自らの同意し、主権を委ねる必要があるのです。しかし、それでもなお、悪霊は悪の天使ですから、時空を超越できないので、人に憑いていれば他のことができず、常に人を支配するのではなく、悪さをする時に、その人を拘束すればそれで十分なのです。それで、悪霊に憑かれてもなお、その人の判断は残るのです。しかし、悪霊に憑かれた生活を送ると、ついには理性を失い、狂人として過ごすことになるのです。

 先週話した「悪霊を縛る」という祈りをする人々は、悪霊さえも人間を常に拘束しておくことができず、イエス様でさえも悪霊を人から追い出すだけなのに、なんという無節操なことを考えるのでしょう。常軌を失した行動は、悪霊には好都合なことです。

 悪霊が私達に付け入る隙は、私達が罪を犯すことです。性欲が最も有効で、高慢や物欲も罠に陥る隙となります。嘘というのも一度つくと癖になり、いつしか悪霊に惑わされるものとなります。13節の魔除け祈祷師が、イエス様の弟子を偽って悪霊に向かい、却って散々な目に遭ったのも、彼らが嘘をついたからです。

 罪を犯し続ける人に、聖霊が内在することはありません。神を信じているとしている人も、聖霊が内在できないような汚れた生活を過ごしているならば、聖霊なる神は、その人から去っていきます。マタイ12章には、汚れた霊が去っても、聖霊に支配されない生活を送っていると、再び悪霊が支配して前より悪い状態になるとイエス様は警告をしています。

 天使は私達を支配したり、拘束したり、命令することはありません。ヘブル書1・14には「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者になる人々に仕えるため遣わされた」とあります。私自身は、私を守る天使を意識していますし、天使が喜んで私に仕えられるような生活を過ごそうと常に考えています。聖霊なる神は、私達が自らの主権を委ねて、思いを聖霊に向ければ、いつでも私達に語り掛け、導いてくださいます。

 聖霊と天使が、私の罪深さと性格の悪さ、更に日常生活の品の悪さにも関わらず、私を見守り、私を助け、私を導いてくださることに気が付いてから、他人の罪と悪に対して寛容になりました。しかし、悔い改めと神を仰ぐことのないクリスチャンからは、聖霊が去っていき、天使の守りもなくなることにも気が付いています。そのような霊的な感性というものは、聖霊のバプテスマなくしてはありえません。当然、魂の救いは、その人の悔い改めと信仰に応じて、聖霊が為してくださることです。しかし、それは、この2節の「聖霊を受けましたか。」という体験とは異なることです。

 4節の、「悔い改めのバプテスマ」というのも、救いの結果としての水のバプテスマとは少し違いますが、それらは神を求めて信仰生活を送るための宗教的な行ないです。聖霊のバプテスマとは、水のバプテスマが水に浸されるように、聖霊がバプタイズ(人を覆う、浸す)することであり、異言を語ることで確認される体験なのです。

 しかし、それで異言をいうことで完了するのかというと、それは聖霊のバプテスマを受けたしるしであり、その後に伴う聖霊の賜物をしっかりと受け留めるための最初の体験なのです。ところが、異言で祈っているだけで良しとして、聖霊に満たされ、導かれることを求めないと、御霊からの賜物を受け取ることができません。Tコリント12章には、御霊の賜物として、@知恵のことば、A知識のことば、B信仰(救いのためではなく、信じること)、C癒し、D奇蹟を行う力、E預言、F霊を見分けるちから、G異言(聖霊のバプテスマのしるしとしてのものではなく、見知らぬ外国語としての預言)、H異言と解き明かす力(その外国語の預言を通約・解釈する)などが与えられます。

 また御霊による奉仕の賜物として、@奉仕、A教える、B勧めをする、C分け与える、D指導する、E慈善を行う、などがあります(ローマ12・7,8)。御霊による働きとして、牧師、教師、預言者、宣教師などがあるのです(Tコリント12・28-29、エペソ4・11

 私には、現代日本のキリスト教会が、それらの聖霊による支配や導き、そしてその結果としての賜物によって営まれているのではなく、人間的な判断によって為されているという懸念が強くあります。ただ、ともあれ、私自身としては、聖霊に導かれて日々を過ごせば十分であります。10年前、5年前、2年前とも全く違う展開と働きをしておりますが、今後どのように聖霊が私を導かれるか、全くわかりません。

 ともかく、聖霊が臨まれているような日々を過ごすことが肝心であります。


11月4日 主の宮の再建命令。    エズラ記118
新改訳 エズラ1:1 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。

1:2
「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。

1:3
あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。

1:4
残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」

1:5
そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。

1:6
彼らの回りの人々はみな、銀の器具、金、財貨、家畜、えりすぐりの品々、そのほか進んでささげるあらゆるささげ物をもって彼らを力づけた。

1:7
クロス王は、ネブカデネザルがエルサレムから持って来て、自分の神々の宮に置いていた主の宮の用具を運び出した。

1:8
すなわち、ペルシヤの王クロスは宝庫係ミテレダテに命じてこれを取り出し、その数を調べさせ、それをユダの君主シェシュバツァルに渡した。



 世界のどこに行っても自らの国を誇り愛する気持ちを人々は持っており、その為に命を投げ出す人が多くいます。ところが、日本人の愛国心について、あまり感じません。どういうことなのでしょうか。中国や韓国との問題についても、向うの人々は激しい怒りと敵対心を持っているのに、日本人は真剣に捉えていないところがあります。別に興奮して対抗心を持てというのではなく、愛国心がなくなっているのが気がかりです。アメリカ人の愛国心も強烈で、自らを世界平和を守る責任を持った国家だと考えるからこそ、紛争地域に軍隊を送るのです。石原慎太郎氏の思考は是非はともかく愛国心を強烈に持っていることは間違いありません。戦争をしないという憲法があろうと戦争は起こり、国は侵略し合うのが世界であり、歴史なのですが、戦後日本、特に最近の平和ボケは亡国のおそれがあります。

 それは災害や犯罪に対する警戒心の無さとも共通しています。あれだけの震災がありながら、政府も官僚も国民も更なる災害に備えていません。放射能汚染に対しても、全く無防備です。沖縄で起きている米軍兵士の狼藉も他国ならば、大変な問題になるでしょうが、政府は本気で対策を考えておりません。再臨についても、真剣に考える日本人クリスチャンは少ないようです。

 「悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目覚めてその罠を逃れることもあるでしょう。終わりの日には困難な時代が来ることをよく承知しておきなさい。その時に、人々は・・・。見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。・・・いつも学んではいるが、いつになっても真理をしることのできない者たちです。・・・信仰の失格者です。」(Uテモテ2・26-3・7)。

 信仰を形式的、宗教的に捉える人々は、そのようにして終わりの時代の誘惑に惑わされて、「信仰の失格者」になってしまうのです。日本人としての愛国心はともかく、信仰者として神の国の愛国者になるためには、神の国の住民としての誇りと義務を全うしなければなりません。

 私達は、バビロン捕囚とその後のユダヤ人の試練と苦しみを学んできました。バビロン捕囚とは、霊的には神の国の住民である私達が罪の為に、この世の国に捕えられ、人権を失って支配されていたことを意味します。捕囚にあって、自らが神の国イスラエルの住民でありながら、自らの国を失ってしまったことを悟るのです。

 イザヤ44・28、45・1に「油注がれた者クロス」と書いてありますが、イザヤは紀元前742-690年頃の預言者でクロス王の解放令539年の150年以上前に名前を記していたことになります。ダニエル書でこれまで学んできたように、神はダニエル以後の王国の名前や王たちのことを具体的に預言しています。それを知っているクロス王は、自分の名前が150年以上前の預言者に記されていることをダニエルに教えられ、自らの王としての使命はユダヤ人の解放と神殿再建であることを理解するのです。

 エペソ1・4には「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストにあって選び」とあります。クロス王が名前を記されているように、私たちも名前を記されているのです。ところが、クロス王の解放令に応じて帰国したのは、エズラ2・64にあるように42360名に過ぎませんでした。

 そもそもU歴代誌36・14にあるように、イスラエルの祭司も民も、「異邦の民の忌み嫌うべきすべてのならわしを真似て、不信に不信を重ね、主の宮を汚した」のでエルサレム神殿は紀元前586年に破壊されたのでした。それは、エホヤキン王のバビロン捕囚(BC605)後の猶予の後も、「心を閉ざして、主に立ち返らなかった。」(U歴代誌36・13)からです。そして、殆どの民がバビロンに連れて行かれて工事などの苦役に使われたのです。エゼキエル書の「ケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき」というのは、灌漑工事に使われていた時のことです。エステル記はペルシャ帝国の時代ですが、127州全てにユダヤ人が分かれて住んでいた(9・30)とあるので、非常に多くの人々が帰還しなかったのです。要するに、愛国心がなかったと言えるでしょう。

 エズラ1・5には、「神にその例を振るい立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を立てるために上っていこうと立ち上がった。」とあります。イエス様の十字架による罪からの解放に応じて、神の宮を築き上げようとする者はやはり少ないのです。神の宮とは、私達の中に住まわれる聖霊を奉じることですから、自らを神の宮として清めていくために、立ち上がらなければなりません。


11月11日 主の宮の礎を据え。    エズラ記3813
新改訳 エズラ3:8 彼らがエルサレムにある神の宮のところに着いた翌年の第二の月に、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアと、その他の兄弟たちの祭司とレビ人たち、および捕囚からエルサレムに帰って来たすべての人々は、主の宮の工事を指揮するために二十歳以上のレビ人を立てて工事を始めた。

3:9
こうして、ユダヤ人ヨシュアと、その子、その兄弟たち、カデミエルと、その子たちは、一致して立ち、神の宮の工事をする者を指揮した。レビ人ヘナダデの一族と、その子、その兄弟たちもそうした。

3:10
建築師たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。

3:11
そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。

3:12
しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。

3:13
そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。




 私は住まいを独身の時に4回、結婚してから7回替え、教会は5回目、クリニックは4回目です。それぞれに事情があり、追い出されたことも3回、競売も2回で、経済的ゆとりがあったことなどありません。特に教会の移転は印象的で、最初は不動産屋を50軒も周り、2度目は祈りの中で「必死で求めなさい。」と迫られて10日の断食をしました。4回目は自分の死を覚悟して後任の牧師の為に安い家賃の所に替え、この会堂は取得の為に自分の財産だけでなく個人的な借金をし、更に7カ月間毎朝・毎晩祈りに来て、不法占領者を立ち退かせたのでした。

 信仰で生きるということは、現実には難しいことです。殆どの人は信仰を持っているけれども、それは救いの為の信仰であって、人生を導く信仰となっていません。聖霊のバプテスマとその力について語りましたが、理解することと実行することは全く違います。日本人は、物事を「頭で理解すれば、それで良い」、と言うところがありますが、周到に準備して実践し、その成果を確認するということが理解です。聖霊に導かれて祈り、行動するということは、聖書のことばによって自己吟味しながら、現実生活を聖霊とのやり取りで勝利していくということなのです。聖霊は私達の心に希望と願いを与えて下さるのですが、多くの人が、それを現実に照らして否定してしまうのです。

 クロス王の帰還・神殿建設命令に応じた人は、エルサレムとユダヤに戻った人は、「捕囚の身から解かれ」(2・1)たのです。希望を持って、新しい人生を始めようと立ち上がった人だけが、この世の奴隷から解放されるのです。イエス様が「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8・32)と言われた時、人々は「誰の奴隷になったこともありません。」と答えますが、イエス様は彼らが罪の奴隷であることを指摘されました。自由人として生き、判断することは、主体性がなければできないのです。主体性とは、自己責任であり、自己責任があるからこそ、神と相対できるのです。信仰とは、神との問答です。

 ネブカデネザルの占領・捕囚の後に、他国の人々がそこを占領しました。王の許可とはいえ、たった42360名では耕作をし、自分たちの身を守りながら神殿を建設することは非常に難しいことです。ネヘミヤ記(4・16-)には、半分ずつ護衛と工事を担当し、工事の者も武器を携帯していたとあります。作業もやりづらかったでしょうが、いつ敵が襲ってくるかわからない状況だったのです。「彼らは周りの国々の民を恐れていたので、祭壇をもとのところに設けた。」(3・4)。恐れるからこそ、信仰を最重視したのです。恐れと言うのは、信仰の逆です。恐れが起こることはしょうがありませんが、それを信仰で払しょくするのです。それを信仰生活というのです。

 さらに、彼らは讃美を精一杯しました(3・10)。悩みやウツになる人は、考え込んでしまう人です。問題は誰にでもあるのです。信仰者は、心配や悩みを神への讃美で取り除くのです。

 私達夫婦も、振り返るといつも「主は慈しみ深く、恵みは豊かに注がれた。」と語り合います。先週、私たち自身が神の宮であり、神殿であるとお話しました。主の宮の礎とは、私達の救いであり、信仰です。イエス様は、信仰という「岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16・18)。

 この礎が据えられた時、老人たちは大声で泣きました。50年前に破壊された神殿を知っていたので、その荘厳さを思い出し、悲惨な目にあった過去と自分たちの罪や咎を再確認したのでしょう。老人は過去を見て、その苦労や試練の経緯を思い出すのです。彼らには、将来と言うよりも、今ある恵みを思うのかもしれません。

 他の人々は、残骸に礎が据えられた時に、将来を見たのです。そして、試練や困難は多くても、必ず築き上げると決意し、喜びの声を上げたのです。

 ともかく、信仰の歩みには感動があり、慰めがあり、喜びがあります。私自身も歳を取って来ました。なんと多くの試練を恵みによって乗り越えてきたことでしょう。思い起こせば、苦しみのあがきの横に主の導きと臨在があったことを確認できます。しかしまた、私にはまだまだ責任と使命があります。これまでの恵みを感謝しながらも、だからこそ、自らに課せられた十字架と使命を果たさなければなりません。

 ヨエル2・28に「わたしの霊をすべての(求める)人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」子供たちが将来への預言を語れるように、お年寄りが将来へのうれしい夢を見られるように、若い者が幻を見て行動できるように、今の私は、現実を信仰によって切り開き、祝福の礎を据えなければならないと自覚しております。


11月18日 必要な未来予測と許されない未来決定   ルカ書1216b〜21節 櫻井圀郎師
ルカ書1216b〜21

ある金持ちの畑が豊作だった。

そこで、彼は彼自身の中で考え、言った、

「私はどうすべきか。私は私の穀物を貯蔵するところがないから。」と。

そして、彼は答えた、

「こうしよう。私は私の倉を撤去しよう。そして、私はより大きなのを造ろう。

そして、私は私の農作物と私の財産の全てを貯蔵しよう。」と。

そして、私は私の魂に言おう、

「魂よ。汝は多大な財産を多年に亘り貯蔵した。汝は休息せよ、食べ、飲め、楽しめ。」と。

しかし、神は彼に言った、

「馬鹿な。今夜に、汝の魂は汝から回収する。汝が準備した物は誰に(帰する)や?」と。

これが自分のために蓄えた者であり、神へと富まない者である。



T 想定外の大豊作

 1 予測しない豊作

 2 慌てた穀倉建設

U 作物貯蔵の目的

 1 自己の快楽目的

 2 神への貯蔵目的

V 必要事と不許事

 1 必要とさる想定

 2 許されない決定


11月25日 妨害は信仰の試金石 エズラ記417
新改訳 エズラ
4:1
ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰って来た人々が、イスラエルの神、主のために神殿を建てていると聞いて、
4:2
ゼルバベルと一族のかしらたちのところに近づいて来て、言った。「私たちも、あなたがたといっしょに建てたい。私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めているのです。アッシリヤの王エサル・ハドンが、私たちをここに連れて来た時以来、私たちは、あなたがたの神に、いけにえをささげてきました。」
4:3
しかし、ゼルバベルとヨシュアとその他のイスラエルの一族のかしらたちは、彼らに言った。「私たちの神のために宮を建てることについて、あなたがたと私たちとは何の関係もない。ペルシヤの王、クロス王が私たちに命じたとおり、私たちだけで、イスラエルの神、主のために宮を建てるつもりだ。」
4:4
すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。
4:5
さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。このことはペルシヤの王クロスの時代からペルシヤの王ダリヨスの治世の時まで続いた。
4:6
アハシュエロスの治世、すなわちその治世の初めに、彼らはユダとエルサレムの住民を非難する一通の告訴状を書いた。
4:7
また、アルタシャスタの時代に、ビシュラム、ミテレダテ、タベエルとその他の同僚は、ペルシヤの王アルタシャスタに書き送った。その手紙はアラム語の文字で書かれ、アラム語で述べられていた。

クロス王の解放令(BC539年))の時に還ってきたユダヤ人の指導者は、宗教指導者ヨシュアと行政的指導者ゼルバベルであり、その困難を励ますのが預言者ハガイとゼカリヤです。多くの敵対行為の中で神殿建設工事は16年間も中断するのですが、記述者はBC440年頃のエズラですから、話は前後します。
4・6のアハシュエロス王、つまり前述したエステル記の時代にも試練が続き、7節から23節のアルタシャスタ王はBC465〜424年の人で、この王がエルサレム再建工事を中止させるのですが、神殿はBC515年に再建されて第2神殿というので、中止は城壁工事だということになります。
24節の「こうして」というのは、そのような城壁工事中止命令と同じように、「神の宮の工事は中止され、ペルシャの王ダリヨスの治世の第二年まで」とあり、それはBC五二〇年までの16年間です。
そして、中止させたアルタシャスタ王が古文書を調べた上で祭司エズラにエルサレムの再建命令を出したのは第七年(7・7)とあるのでBC四五七年であり、六章と七章の間には五八年ほどの経過があります。エズラとしては、アルタシャスタ王の時代の中で過去を振り返っているのです。そのエズラの城壁再建工事がうまくはかどらないので、アルタシャスタ王の献酌官ネヘミヤが嘆き、再建の総督として遣わされるのが第二〇年のBC444年頃なのです。
アッシリヤ王(4・2)がサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕囚したのはイスラエル北王国のホセア王の第9年(BC721年)であり、イスラエルの人々は罪をやめなかったので、北イスラエル王国は滅びました。そして、「アッシリヤの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、セファルワイムから人々を連れてきて、イスラエルの人々の代わりにサマリヤの町々に住ませた。」(U列王記17・24.25)のです。ところが、その民が乱れているので、アッシリアの王はサマリヤにいた祭司を送り、神殿儀礼を教えたのですが、「それぞれの民は、めいめい自分たちの神々を作り、サマリヤ人が作った高き所の宮にそれを安置した。」(U列王17・29)のです。
この人々が「ユダとベニヤミン(南ユダ王国)の敵」(エズラ4・1)の敵であり、「あなたがたと同様、あなたがたの神を求めているのです。」と言ってのけるのであり、「いけにえを献げてきたのは」自分たちの神々に対してだったのです。
ユダヤ人(南ユダ王国出身の人々)は同胞の北イスラエル王国の崩壊が、偶像崇拝であったことを身に沁みて知っており、そのような異教の人々と協働するつもりはありませんでした。それは、ゼルバベルとヨシュアという指導者がしっかりしていたからでもあります。
 せっかく財産を全て持参して故郷に還り、自らの生活よりも神殿の建設を優先してきたのに、たった2年間で工事を中止させられ、周囲は敵ばかりです。まるで、現代のイスラエル人のようです。かれらは、そういう面で戦争や争いにはタフなのでしょう。彼らは、先祖ヤコブ(イスラエル)以来3800年間も戦いを続けてきた民族なのです。
しばしばクリスチャンの口から「うまくいかないのは、神の御心ではないからではないか?」、「神の祝福で全てうまくいっている。」などという言葉を聞きますが、「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみに預かれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」(Tペテロ4・12.13)。
ユダヤの人々は、攻撃にも屈せず、中止命令にも従わずに、どうにか神殿を再建しようと苦心し、ペルシャ帝国の総督の査察を受けることになりました(エズラ5・3)。「しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので」ダリヨス王は再度、神殿の再建命令と費用の援助命令(6・8)だけでなく、ユダヤ人を財政的に支援するように命令するのでした。
人生に試練はつきものです。試練のない人生は、神の御心や為すべきことをしようとしていないからです。振り返れば、試練の中にも主は居られ、主の祝福の跡を見出すことができるのです。しかし、何の抵抗もなく、「うまくいっている」と思われる人生には、何の祝福も、足跡も残らないのです。


12月2日 イエス・キリストの系図   マタイ福音書1116

マタイ1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

1:2
アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、

1:3
ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、

1:4
アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、

1:5
サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、

1:6
エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、

1:7
ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、

1:8
アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、

1:9
ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、

1:10
ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、

1:11
ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。

1:12
バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、

1:13
ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、

1:14
アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、

1:15
エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、

1:16
ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。




 アブラハムの子孫とは、神の命令により信仰をもって生まれ故郷を出て、約束の地カナンに旅立った信仰の父アブラハムの子孫ということです。ただ、アブラハムには女奴隷の子イシュマエルもおり、彼は全てのアラブ人の先祖とされています。ガラテヤ書には、奴隷の子ではなく、自由の女の子として歩みなさいとありますが(4・22-31)、アラブ人にとって大変な侮辱として思われるでしょう。その信仰によって生まれたイサクはエサウとヤコブを生み、ヤコブはイスラエル人の祖先になったわけですがエサウはエドム人、そしてその後はエジプト人に混ざっているように言われもしています。

 マタイは、イエス様の系図には信仰の父アブラハムと建国の王ダビデを強調しています。「ダビデの子」という呼び名は新約聖書で24回使われ、マタイでは11回も呼ばれています。それはダビデが王としてイスラエルを強大な国にしたように、神がアブラハムに約束した領土(創世記15・18-21)を、ダビデの子であるソロモンが領土にしたのと同じように、ダビデの子孫が、約束の国を作り上げて、イスラエルの王として君臨することを待ち望んでいたのです。

 クロス王によるユダヤ人解放を200年も前に預言したイザヤは、「一つのしるしが与えられる。見よ、処女が身ごもっている。」と預言して、処女マリヤが結婚によらずに、聖霊の働きでいのちを身ごもり、イエス様を生むことを預言したのです。そして、イザヤは9章で、「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」と預言し、マタイは、4章・14でそれが成就したと説明しています。

 ルカもイエス様がイザヤ書を開いて「囚われ人には赦免を、盲人には目の開かれることをつげるために、虐げられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」と読み、「今日、この御ことばが実現しました。」と、王としての解放を宣言しているのです。

 イエスとは、ヘブライ語のヨシュア(ヤーウェは救い)のギリシャ語名で、キリストとは、ヘブライ語ではメシヤ(油注がれた者)のことで、イエス・キリストと呼べば、「イエスはキリストである。」と意味します。

 さて、この系図には異邦人の少し正常ではない関係の女性が記されています。まずは、カナン人の嫁タマルのことであり、ラハブとはエリコでイスラエルの斥候をかくまった遊女であり、子供のボアズが見染めたのがモアブ人の未亡人ルツであり、ボアズが見染めてダビデは曾孫です。ウリヤの妻バテシェバによってダビデがソロモンを生んでいるのです。
 つまり、油注がれた王になるべきイエス様の先祖には、遊女も、未亡人も、人妻も、嫁との不倫の子もいるという、驚くべき正直な記録です。むろん、そのような罪の系図として生まれたのではなく、処女の卵子が聖霊によって命を得て細胞分裂を初めて生まれたのがイエス様ですが、人間の罪性をそのまま背負っていながら、信仰を保ってきた末裔と言うことになりましょう。

 ユダは遊女だと思って嫁と関係して子供を持つことになりますが、それを恥じて2度と関係していません。ラハブは、異邦の売春婦ですが、イスラエルの神を知り求めて、命がけで味方をしたけなげな女性です。その息子のボアズが異邦の未亡人ルツの義母ナオミに対する献身的な生活に感動して身受けしたのも、偏見の無さのしるしです。ダビデとバテシェバは、完全な不倫ですが、それでも子供を王にしています。

 このような人々が聖書に名を記され、イエス様の系図に入っていることは、恵まれない家に育った人々には大変な励ましになり、きれいごとばかりを言ってうまく生きれない人々を批判する人々には、あまり取り上げたくないことです。

 私達現代日本人は、血統とか家柄とかは、あまりわかりません。しかし、それでも自分を自慢できるものを探したりするものです。遺伝情報には、その祖先がどのように過ごしたかが蓄積されて、例えば糖尿病体質とか、足が速いとか、数学が優秀とか違いが出てくるのです。焼き肉屋とか食べ放題の店に行くと、体質の似た親子が貪り食っているのを見ますが、肥満体質の子供を養い育てているのだな、と驚き呆れます。

 人の遺伝子には、良くも悪くもいろいろな先祖と自らの作り上げて来た歴史が詰まっているのです。生まれながらのものを肉と言います。「兄弟たち、あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5・13)。


12月9日 この宮の後の栄光   ハガイ書219
新改訳 ハガイ2:1 ダリヨス王の第二年の第七の月の二十一日に、預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。

2:2
「シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者とに次のように言え。

2:3
あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。

2:4
しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ。――エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ。――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ。――

2:5
あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。

2:6
まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。

2:7
わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。

2:8
銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ。――

2:9
この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――万軍の主の御告げ。――」



 ペルシャ帝国のクロス王の命令によってエルサレムに還り、再建された神殿は実質6年も掛かっておらず、その財力も労働力も頼りの無いものでしたから、「以前の栄光に輝くこの宮を見た者」にとっては、「まるで無いに等しいのではないか。」と思える第2神殿でした。

 イスラエルで最も栄えたソロモン王が財の限りを尽くして7年半を掛けてBC950年頃に建てた第1神殿は、わざわざ視察に来たシェバの女王も感嘆したほど豪華のものだったのです。エチオピアの王朝はBC千年前には興っていたそうで、ソロモンとその女王の子孫であるとした王朝が続いていたそうです。

 策略によってBC37年にユダヤの王となったヘロデ大王は、王権を確立しようとしてユダヤ人の人気取りのためにBC19年頃に第3神殿として増築を始め、46年も掛けて(ヨハネ2・20)息子の王たちが完成しました。それは、ユダヤ人にとっても誇りでしたが、イエス様は、「この神殿を壊してみなさい。わたしは、3日でそれを建てよう。」と発言され、結局のところ、その発言が、最後に十字架刑の唯一の証拠となるのです(マタイ26・60-66)。イエス様の死刑の罪状は「神への冒涜罪」(65)であり、十字架に掛けられた罪状書きには「これはユダヤ人の王イエスである。」(マタイ27・37)とあります。

 イエス様の十字架の両脇に掛けられた罪人の一人は、「あなたはキリストではないか、自分と私たちを救え」と言い、もう一人は「我々は自分のしたことの報いを受けているのだ。だが、この方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエス様。あなたの御国のくらいにお着きになるときには、私を思い出してください。」イエス様は彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます。」(ルカ23・39-43

 イエスという名は「主は救い」という意味であると先週お話しましたが、イエス様は人々を救い、神の国に導くために来られた神の国の王なのです。

 ハガイ書に、ユダの総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアに対して、「強くあれ、強くあれ、仕事に取り掛かれ。」と言われたのは、たとえ貧弱でも、神の栄光とは、そういうものに左右されるものではない、ということなのです。神はバビロン捕囚の中でもクロス王やダリヨス王、そしてアルタシャスタ王にも超自然的に働いて、神殿の再建をさせてくださいました。

 しかし、神の目的は、物質的な神殿の再建ではないのです。「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。」(ハガイ2・9)は、ヘロデ王の第3神殿が、この第2神殿より優るということではなくて、イエス様が建てられた神殿なのです。

 イエスは彼らに言われた。「人の子が栄光を受けるその時がきました。」(ヨハネ12・23)。「今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」「イエスは自分がどのような死にかたで死ぬかを示して、このことを言われたのです。」(ヨハネ12・31-33)。

 「銀は我がもの、金も我がもの」(ハガイ2・8)と言われた父なる神が、物質的な豪華さを欲しがるものではありません。私たちも、この世の繁栄や経済的な豊かさを求めると、罠に陥ります。「神の国とその義とを、まず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6・33)と言われました。

 「あなたがたが神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることをしらないのですか。」(Tコリント3・16

 イエス様は、私たちを神殿とするために、この世に生まれて下さいました。だからこそ、イエス様は神様の私たちへの最大のプレゼントなのです。


12月16日 神の霊に燃えて光を出す。   ゼカリヤ書4214節 
4:2
彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。

4:3
また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」

4:4
さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」

4:5
私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」

4:6
すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。

4:7
大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」

4:8
ついで私に次のような主のことばがあった。

4:9
「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。

4:10
だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。」

4:11
私はまた、彼に尋ねて言った。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」

4:12
私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」

4:13
すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」

4:14
彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」



 第2神殿にも金の燭台が置かれていましたが、それはクロス王の解放令の時に持ち返られた多くの宮の用具(エズラ1・7-)に含まれていたと思われます。これは、メノーラーと呼ばれ、その後のユダヤ教の象徴ともなり、イスラエルの国章にもオリーブの枝に囲まれて描かれています。その詳細は、出エジプト記25章にあり、純金1タラント(34kg)から打ち出された大きなもので、7つのともしび皿があり、オリーブオイルが燃えるものであったようです。

 オリーブというのは不思議な実で、普通、油は種にあるのですが、オリーブは果肉に油があるのです。種にも油はありますが、それはオリーブ核油と言うそうです。果肉に油があるので乾燥にも強く、エルサレムの城壁の向かいにあるゲッセマネの園には巨木が並んでいました。自家受粉できないので、オリーブは2本以上を隣接させないと実を付けません。

 ゼカリヤの見た幻には、この良く知ったメノーラーの左右にオリーブの木があり、その2本の木から金の管によってオリーブ油が給油されているのです。これは、実を付けなくても、そのまま油を供給するオートマチックな給油システムであり、画期的なエコとなります。

 ゼカリヤの度重なる質問にやっと答えた天使は、そのオリーブの木は、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを意味するものだと教えます。祭司になれるのはレビ族であり、歴代誌6・15にヨシュアの父エホツァダクが「主がネブカデネザルの手によって捕え移した」時の記録を残しています。同じく3・19にゼルバベルの名前がダビデの子孫としてあります。

 信仰者として大事な覚えておくべき聖句として、先週の「銀もわがもの、金もわがもの」(つまり、金銀は神のものであり、人間が金銀に捕われてはいけない。)と同様に、今日の、「権力によらず、能力によらず、神の霊によって。」も覚えておくべき聖句です。

 神殿建設は、王や権力者の力によって為すものではないのです。教会も、権力者と結びつくことで成長しようとか、金持ちや有名な人を招いて、或いは牧師の権力によって伸ばそうなどと考えてはいけません。私たちは、そういう伝道会をしたことはありませんが、多くの教会が有名な人や歌手などを招いて人を集めようとします。そうすると、人を集めることが教会だと勘違いしてしまうので、却って害になります。

 能力によって教会を築き上げるのでもありません。私は自分の弱さを認め、神の恵みを語る人は好きですが、自慢話をする人は嫌いです。自分は如何に素晴らしいことをやり、教会で活躍したなどと誇る人は、人と助け合うことも、人の助けを借りることもできません。昔、縁談が破断になったことを知られるのが嫌で、誤魔化し続けて話が通じなくなり、会社を辞めた人がいました。そんなことは直ぐにわかるのに、他人に同情されるのが嫌だったのでしょうか。人の批難はするけれど、自分の批難させない、という人です。教会は、能力を自慢する人が構成するものではありません。

 神の霊こそが、人を謙遜にし、助け合い支え合う教会を築き上げるのに必要です。私は、ノウハウではないと信じています。ですから、牧師の研修会や講演会にでませんし、方法論を採用しません。ただ、生き方を指導し、信仰を語り、教会員の為に祈り、受け入れます。

 もう一つ、「大いなる山よ、思えは何者だ。私の前で平地となれ。」と信じるのです。神を信じ、神に仕え、神の霊に導かれる私に、困難など、歩んでいくうちになくなります。多くの人が、遠くから立ち止まって見守り、平地となるまで歩みださないのです。それでは平地にはなりません。

 黙示録1章によれば、金の燭台は教会であると書いてあります。マタイ5章によれば、「あなたがたは世界の光です。」とあります。教会が権勢を誇ってはなりません。教会で能力を競ってはなりません。教会は神の霊によって救われた人が集い、愛し合い、助け合う神の家族なのです。

 私達の教会は、クリスマスだからと言って、外向けに勧誘活動に出ません。 ノルマ制の会社が好きではありません。また、努力をしないで祝福を得ようとすることも無理です。神の愛の中に友人知人、そして神が導く人を引き入れながら、更に互いの愛を充実させるのです。

 私は、このオリーブの木のようになりたいと願っています。自分の命、力、働き、存在が、いつも教会に注がれていくのです。今年も数百の柚子が実りました。木が根を張り巡らし、枝を広げ、実を実らせていくのです。そして人間が食べ味わいます。自分の存在と活動を教会の為に献げ、神がそれを味わってくださるのは喜びです。

 嫁の母が、もう一人の娘の出産を助けるためにリューマチで腫れあがった足を気にもせず中国からきて働き続けて帰って行きました。ご主人も教会に行き始めたそうです。自分の命を存在を、子供に注ぐ親の姿は、親にとってはなんでもない当然なことです。自分のために子供たちは勝手に過ごしながら、いつしか親になり、子供の為に生きるようになります。自らのために生きる命は、はかないものです。


12月23日 生餅降誕。   ヨハネ福音書651節  櫻井圀郎師
「我」こそ、天から下りし、生命のパンなり。

若し、誰か、このパンを食べるなら、彼は永遠に生きん。

そして亦、「我」が与えるパンは、「我」が世の生命のために与える、我の肉なり。


1 罪を贖う基督の肉

(1) 「我」= 基督

(2)基督 = 救い主

(3) 贖罪 = 肉犠牲

2 永遠に生きるパン

(1)被造物の人間

(2)人間の食べ物

(3)永遠へのパン

3 生命のパンの降誕

(1)天から下った

(2)ベツレヘムで

(3)祝・生餅降誕


12月30日 一年を振り返るとき。   詩篇18篇1〜9節 杉本茂謙伝道師

詩篇 < 18 > 指揮者のために。主のしもべダビデによる。主が、彼のすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、この歌のことばを主に歌った
18:1
彼はこう言った。【主】、わが力。私は、あなたを慕います。
18:2
【主】はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
18:3
ほめたたえられる方、この【主】を呼び求めると、私は、敵から救われる。
18:4
死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。
18:5
よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。
18:6
私は苦しみの中に【主】を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。
18:7
すると、地はゆるぎ、動いた。また、山々の基も震え、揺れた。主がお怒りになったのだ。
18:8
煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった。
18:9


ダビデは主の恵みを確認するために、過去を振り返りました。(詩篇18:4-6)私たちは、様々な過去を背負っています。辛く苦しかった思い出ほど、鮮明に覚えているものです。そして、困難のまっただ中にあるとき、それは永遠に続くかのように感じられるものです。

幾度となく死に直面したダビデの困難は、私たちの困難をはるかに凌ぐものであったかと思います。しかし、ダビデがそのような過去を振り返るとき、彼は神の助け、力強さに目を向けたのです。彼は困難に対して不平不満を言うためではなく、神の恵みを確認するために過去を振り返りました。

ダビデは実際に、死を何度も覚悟したに違いありません。しかし、どのような困難な状況にあっても、ダビデは、決して不平を言いません。むしろ主に祈り願い、助けを求めたのです。

過去を振り返るとき、それは嫌な思い出ではなく、主が助けてくださった、恵みを思い起こす機会となります。苦々しい思い出や、危機的な状況は、その当時は、いつまで続くのだろうと、気が遠くなります。しかし、振り返るとそこには主の恵みがあふれているのです。主は圧倒的な力で、私たちを助けてくださる方です。



過去を振り返るということ、それは時に、不満を呼び起こすきっかけになってしまいます。しかし、主の恵みに焦点を当てるならば、それは、私達がいかに主に助けられているかということの確認をする機会になるのです。



万物の作り主である主は、あらゆる力を行使し、私たちを困難から救い出してくださいます。(詩篇18:7-9)私たちが主に祈り求めるとき、主は様々な形で、祈りに応えてくださいます。それは、もしかすると、私達の願っている形ではないかもしれません。しかし、私達をお造りになった主は、私達にとって最も良いことをご存知であり、もっとも良いことをしてくださる方であります。主は、ダビデの祈りに応え、あらゆる力で、彼を助けました。(詩篇18:6)同じ主が今、私達を守り、導いてくださるのです。

主は、私達が主の前に正しく歩むならば、助けてくださる方であります。しかし、そうでなければ、決して、主の助けは得られないということを、ダビデは知っていました。(詩篇18:25-27)主は、私達に全き者であることを求めておられます。(創世記17:1)そのために必要なことは、私達一人一人が、自らの行いを振り返り、主の前に悔い改めるということです。

ヨナは、主の前に自らの過ちを振り返り、悔い改めました。ヨナが「もう一度、あなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」(ヨナ2:4)と祈るとき、ヨナの祈りは主に届き、地上に吐き出されました。その後、ヨナは、主の命令通りニネベの町に行き、人々に預言の言葉を語るのです。私たちはヨナの祈りから、過去を振り返ることは、自らの過ちを見直し、正す役割も担っているということを、学ぶことができます。

「イエス・キリストは私の救い主です。」と本当に告白できるかどうか、それは、自身の体験として、神の恵みを経験しているかに関わっています。過去を振り返り、主の恵みを確認することができるならば、神が確かに生きておられ、守ってくださる主であるということを、確信し、救い主であると告白できるのです。また、未来においても主の祝福が約束されていると、確信することができるのです。

悔い改めも、無論その働きを担っています。主を告白することは、聖霊の内在なしにはできません。自らの罪を認め、神に自身を明け渡すことによって、平安が与えられ、主を受け入れることができるのです。『聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。』(Tコリント12:3



私達の信仰の核心はイエス様が主であると告白することであります。イエス様が私達のために、十字架にかかって死んでくださいました。主イエス・キリストが私達の罪のために、十字架に掛かり、そして3日目に甦ってくださったからこそ、私たちは、この地上においても、やがて来る御国においても、希望を持つことができるのです。