7月1日 聖なる者となるために   レビ記19210

新改訳 レビ

19:2
「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

19:3
おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

19:4
あなたがたは偶像に心を移してはならない。また自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。

19:5
あなたがたが主に和解のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。

19:6
それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目まで残ったものは、火で焼かなければならない。

19:7
もし三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは汚れたものとなって、受け入れられない。

19:8
それを食べる者は咎を負わなければならない。主の聖なるものを汚したからである。その者はその民から断ち切られる。

19:9
あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。

19:10
またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。


 政財界の混乱の中で日本に生きるキリスト者としての使命を思いあぐねています。昨日はNCC(日本キリスト教協議会)の「内部被曝からいのちを守る」という講演会に出席し、反原発の力強い姿勢を見ました。JEA(日本福音同盟)は、政治的には不干渉でしたが、6月の総会で異例の「無批判に原発を利用してきた」ことへの反省の理事長所感を出しました。

 日本の福音派は被災者の支援や伝道活動は一生懸命するのですが、社会に対する視点を検討しない傾向にあり、キリスト者としての方向付けを信者に対して指導できないことが弱点です。教会とキリスト者は、「世の光、地の塩」としての立場を神より命じられているのであり、傍観者としての社会的立場は許されないものであります。

 内村鑑三は明治天皇の署名への最敬礼をしなかった不敬事件で教員を追われ、混乱の中で妻も病死したが、その試練の中で伝道者として聖別され、足尾鉱毒事件を反対し、日露戦争にも反対したが、二つのJ(JesusとJapan)に身を献げるという愛国者でもありました。新渡戸稲造もしかりで、勝海舟も坂本龍馬もクリスチャンになっていたという説もあります。信仰者が真摯に信仰に生きようとすれば、社会や政治に関わらないわけにはいかないのであり、それを無視して伝道一筋では、キリスト教が社会に埋没するのは必然となります。

 さて、そのような自覚の中で、「神が聖であるから、私たちも聖でなければならない。」ということは、いかなる意味合いでありましょうか。むろん字義的な意味合いは、この世から離れて神に付くということであります。

 まず、「自分の父と母を恐れろ」、とあります。私は親に対して意見を言ったことはないつもりです。兄や姉が父や母に生意気な口の利き方をすることが、とてつもなく嫌だったことが忘れられません。親が年老いて動けなくなり、頭が働くなり、失敗をしても、決して意見や失礼なことを言ってはいけない、ということが「恐れろ」ということです。自分の判断を親の生き方に対して口挟むことは、神を敬っていない功利的な考え方なのです。

 「安息日を守れ」ということも、日曜日を自分の思い通りに使うな、ということです。神や家族・友人と共に過ごし、生産目的なものであってはならない、ということです。日曜日に仕事をして稼ぐ、という思惑は聖ではありませんし、家事を一人で一生懸命するということでもありません。それでは、やっていけない、と考えるのが俗なのです。神はそれを嫌うのです。

 「偶像に心を移す」とは、信仰や家族よりも大事にするものがあってはならないということです。日曜日に競馬やゴルフ、ショッピングを一人だけでするというのは、偶像です。趣味や特技も行き過ぎると偶像になります。私は教会成長主義も偶像だと思っています。伝道というのは、交流する人々に自然にするものであり、自分の生き方を通して行うものです。

 「和解のいけにえ」というのは、神殿で祭司や家族と共に食べるものであり、日曜日に教会でゆっくり食事を取るということのようなものです。日曜日を教会を離れて合理的に過ごそうとする者は、神の祝福を得られずに、不合理な生活を送ることになります。

 次には、弱者や病者の分まで収奪して利益を得てはいけない、ということです。医療機関や福祉で高利益を上げるだけでなく、下請けや取引業者の利益を圧迫して利益を稼ごうとしない、という健全な経営や商売をする人は稀です。例えば、献金は十分の一で十分で、それ以上することは、献金の賜物がある人だけで、それを促すことは、この法則を損なうのです。教会も国家も企業も構成員が豊かになることによってのみ豊かになるのです。

 このように聖であることを分析してみると、社会も国家も、教会でさえ、聖であることは難しいことに気がつくでしょう。要するに、自分の利益と繁栄を求めて、思い通りに生きることが愚かなのです。

 今回の本、「放射能の対策と治療」の著作に自らの存在を掛けようとさえ考えています。印税は全て被災者に献げることにしました。昨日、双葉町の町長が、町民の多くが喉をやられている、と言っていました。私と同じです。内部被曝が確かに強くあると思います。聖でなければ、私は災いです。この感覚が、自らを聖に保つ原動力であると思います。

  私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。(Tコリント9・16


7月8日 隣人を自らのように愛する。   レビ記19918
レビ19:9 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。

19:10
またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

19:11
盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。

19:12
あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

19:13
あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。

19:14
あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。

19:15
不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。

19:16
人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは主である。

19:17
心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。

19:18
復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。


18節の後半は有名であり、ルカ福音書10章にあるように、隣人とは誰か、ということを信仰者はいつも吟味しながら、毎日の生活を過ごす必要があります。ここでイエス様は良きサマリヤ人の例話を語られます。

 エリコへの道は、強盗が出るので有名だったようですが、そこで強盗に遭い、半殺しの目にあって苦しんでいる人を助けないで通り過ぎたのが、祭司とレビ人でした。この2種類の人は、社会的にも信用のおける人として認められ、地位のある人たちでした。他方、サマリヤ人は、ユダヤ人からは軽蔑され、身下げられている人たちですが、イエス様は、この被害者を助けたのはサマリヤ人であると語られます。つまり、人を助ける心のあるのは、人の助けを必要として生きている人々であると教えるのです。

 祭司やレビ人も、いつの間にか宗教儀式的職業となり、その人格や心は問われない階級になっていってしまったのです。最近は、官僚や政治家、公務員や学校の先生の評価が低くなってしまいましたが、昔は最も優秀な人がなる職業で、それだけで尊敬されていました。妻も私も(医者や牧師)も、苦労が多い時が健全で、尊敬されたり、優遇されると、次第に人間性がおかしくなってしまうかもしれません。

 例話の中のサマリヤ人は、被害者を見てかわいそうに思い、傷を手当てし、宿屋まで連れて行き、医者に見せ、治療と静養の費用を出したのです。実際の行動を取る人が、隣人を愛する人です。もし、東日本大震災や放射能の被害者のために何の行動も取っていない人が、この中にいたとしたら、その人は残念ながら、イエス様から神の国の入り口で拒まれる人でしょう。しっかりと悔い改めないと、大変なことになりますよ。

 もう少し、言いますと、自分は被災者を十分助けたと考える人がいたとしたら、良きサマリヤ人のようではありません。彼は、自分も強盗に遭うかもしれない危険を恐れずに人を助け出し、介抱し、世話をし、さらに先のことまで面倒を見ているのです。

 阪神大震災の時、救援に駆けつけたら、直ぐ近くの駅の人が全く関わり合わないで仕事に従事していたのに驚きました。自分の仕事と生活を優先する人ばかりだったのです。それでもしばらくして、自分のできることはあまりなくなったと判断した時に、関わりを止めました。今回は、多くの人が援助をし、救援に関わりましたが、最近は自分への関わりを気にしています。被害が自分に及ぶことを恐れているのです。恐れるなということではありません。しかし、恐れていてはサマリヤ人のような行動は取れないということは事実です。

 楽焼の祖、長次郎が利休の頼みで茶碗を作り、弟子たちが好きな物を取って最後に残ったのが赤い茶碗だったそうです。柿の実を最後の一つ残しておくことを木守と言いますが、それで利休は木守の茶碗と命名したそうです。旅人か冬の寒さに飢える鳥のために残しておく木守の配慮を知っていた利休ならでは命名ですね。

 昔、日本でも十五夜の晩には、他人の畑から作物や果実を盗むことが赦されていたということで、果実は盗まれると翌年豊作になると言い伝えられていたそうですが、聖書的な配慮は日本でもあったようです。お金が払えない人は、よほどお金がないのだから失礼なことをしてはいけません。金を貸して利子を取らないのは当たり前ですが、元本も返してもらっていない人もおりますが、神様が返してくださったと思っています。金銭や物品で、自分や隣人の尊厳を崩してはなりません。

障害を持った人もいれば 、要領の悪い人もいます。人間の能力で差別してはいけません。どちらにしても性格の悪い人がおります。それは自分の責任です。ただ、比較し、中傷を言う社会では、次第に劣等感を募らせることもあるので、配慮しなければなりません。人を見た眼で判断することも、健全ではありませんが、汚れた人や病気を持った人を放っておくことも罪深いことです。要するに、人と関わりを持ち、人を助けることが、隣人の愛なのです。

ただ、最近気になることは、忙し過ぎる人が多いことです。祭司もレビ人も、自分は一生懸命神のために働いているのだという自負があったのかもしれません。牧師という職業でも、忙しく人の世話をしていたり、教会の仕事をしている人が多く、世の中の仕事では猶更でしょう。

一日、12時間以上は働くべきではありません。8時間労働は、世の中の労働条件ですが、神の法則は半分かと考えています。仕事の後、家事をしても労働です。余計なことをしているように思います。私は、教会員の訪問や世話はしません。何でもするのが、献身であって愛情だと思ったら大間違いです。自分が平安と喜びを保てないような日を過ごしてはいけないと考えています。目的志向が強い人は、自らを用心すべきです。働き過ぎると、近視眼となり、愛情を失って批判的・攻撃的になります。

仕事のようにお祈りをしてはいけません。神と語りあい、神に導かれるためには、心が豊かであり、落ち着いていなければならないからです。どんなに有能で頭の良い人でも、急いで神を愛し、人を愛することはできません。家族に子供や病人、そして弱者がいることは、素晴らしいことです。彼らは思い通りに扱うことができないからです。愛するということは、思い通りにならない人をそのまま受け入れるということです。忙しい日本で、クリスチャンくらい、ゆったりと愛情を持って生きようではありませんか。


7月15日 老後を如何に生きるか。   レビ記253543 
新改訳 レビ記25:35 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。

25:36
彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。

25:37
あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。

25:38
わたしはあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。

25:39
もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が貧しくなり、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。

25:40
あなたのもとで住み込みの雇い人としておらせ、ヨベルの年まであなたのもとで仕えるようにしなさい。

25:41
そして、彼とその子どもたちがあなたのもとから出て行き、自分の一族のところに帰るようにしなさい。そうすれば彼は自分の先祖の所有地に帰ることができる。

25:42
彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。

25:43
あなたは彼をしいたげてはならない。あなたの神を恐れなさい。



 老後ということが気になっています。私自身は生活力があるので、問題はありませんが、祈りの中にある人々がいることが事実です。牧師の老後も、引退すると生活できないので、引退できないという人々がいます。最近の日本人の生活を見ていて、人に迷惑をかけない、人の世話にならない、という間違った価値観が浸透してしまったという思いを強くします。

 経済力が人の評価の基準となり、人に養われるのはみっともない、ということはつい最近のことでしょう。昔は、年金が無くても子供が親の面倒をみるのは当然なことで、だからこそ家族がしっかりと形成され、助け合いの精神が維持されてきたのです。欧米の考え方が正しい、などということは正当ではなく、聖書は子供が親を助け、老後の世話をするのを当然としています。

「もし、やもめに子どもか孫かがいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬愛を示し、親の恩に報いる習慣をつけさせなさい。それが神に喜ばれることです。・・・もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」(Tテモテ2・4,8

 子供を持つということは、神の祝福を求めるということであって、もし子供がいない理由が、子供を育てる自信や能力がない、好きではない、などの理由であったなら、しっかりと悔い改めて、霊的な子供を持つべきです。つまり、自分自身の生活に関心を持つのではなく、人を助け愛することを優先する生活を送るということです。子供を持つということは、自分を優先してはいてはできないので、それで「子供を産むと女性は救われる」(Tテモテ2・15)という奥義を示していると私は考えています。

 それでは男は、如何にして生きるべきでしょうか。それは家長として、経済の祝福の責任を負うことではないかと考えています。そして、その責任を子供に委ねることによって、自らの平安を得るのです。

 さて、それでは経済は自分たちの働きや能力に相関するものなのでしょうか。私の信念は「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10・22)ですが、一生懸命働くことによって糧を得ようとする不信仰者は多いものです。

 レビ25章に、7年目は地の安息の年だから、畑に種を蒔いたり、ブドウの枝を選定してはならない、落ち穂から生えたものを刈りいれてはならない、とあります。それでは、どうして生きて行くのかという質問に対して、神は6年目に3年分の収穫を約束しよう、と言われるのです。これはかなり勇気のいることです。たまには、豊作でない年もあるかもしれません。それでも7年目に安息を保つことができるものでしょうか。

 私たち夫婦は、殆ど貯蓄をしないで生活をしてきました。まず、収入の十分の一を献金し、家賃を払い、生活費を支出し、そして、食費を確保しました。むろん、だいたい20年間は献金したら、食費が無くなり、生活費も危ない日々でした。学校の入学金や学費は、よく払えたものだと思いますが、実際、主愛の医学部の入学金はとても払えるものではなく、諦めてもらったら横浜市大に受かったのでした。

 ともかく、いつも祈っていました。夫婦のどちらかが病気になったら、生活は破綻します。急な出費があったら払えません。それでも献金し、人のために支出をし、助けてきました。十字架を負う人生とはそういうものだと覚悟していたからです。命掛けで神を信じてきましたし、神が私たちを守らないはずがない、とも確信していました。

私はいつも祈って、神から助けなければならない人がいるかどうか、確認しています。ところが、多くの人が計算して無理をしないように生きているので、助けるようにと指示を受けることはあまりありません。

 エリヤは飢饉の時にカラスによって養われました。朝夕カラスがパンと肉を運んできた理由は知りません。また、その飢饉の時に、神に祈り仕えているやもめの所にエリヤが遣わされ、ある限りの壺に油を満たして生活を支えました。人生とは不安定なものであり、生活の営みも経済も計算して、それで賄えるものではありません。

 ところが、殆どの人が年金を計算し、生活のもくろみをして暮らしを立てています。人を助けようとか関わりを持つと出費が多くなるとして、倹約をしています。ルカT2章に、「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。しかし、神は彼に言われた。愚か者。お前のたましいは今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」

 お金がある人も、無い人も、神様ではなく、金様に老後を委ねています。いや、現在の人生も委ねています。今のような社会情勢と年金の破綻の可能性もある時代でも、金様を信じています。神を信じるとは、先週お話したように、小さき人、貧しき人を愛するということです。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」(ルカ6・38

 人に惜しみなく与えられる人は、相手がどれだけ助けを必要としているかを理解している人です。そして、自分が与えられることが、どれだけ幸せなことかを理解できるのです。日本社会は、与え合うことのない社会になりました。それでも、あなたが人に与え、助けることから、生ける神の御業は始まるのです。


7月22日 聖霊の親しい交わりが。   Uコリント13513節 矢吹拠子宣教師
新改訳 Uコリ13:5-14あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です。――

13:6
しかし、私たちは不適格でないことを、あなたがたが悟るように私は望んでいます。

13:7
私たちは、あなたがたがどんな悪をも行なわないように神に祈っています。それによって、私たち自身の適格であることが明らかになるというのではなく、たとい私たちは不適格のように見えても、あなたがたに正しい行ないをしてもらいたいためです。

13:8
私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。

13:9
私たちは、自分は弱くてもあなたがたが強ければ、喜ぶのです。私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています。

13:10
そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、きびしい処置をとることのないようにするためです。この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。

13:11
終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。

13:12
聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。

13:13
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。


7月29日 聖い生き方をする敬虔さ。   Uペテロ3914節 
新改訳 Uペテ3:9-14

3:9
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

3:10
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

3:11
このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

3:12
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

3:13
しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

3:14
そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。


 当教会が設立してから28年経ったということですが、振り返ると神に守られてきたということと、よくぞ信仰をもって対応できたということです。戦いも誘惑も試練も数限りなくあり、聞く者は本になりますね、というくらいの信仰の歩みでしたが、私たち夫婦には、一つでも踏み外していたら千尋の谷底と言うくらいの思いです。槍ヶ岳の尾根歩きをテレビで見ましたが、とても怖くて身も竦む思いです。そして、自分の人生も同じようなものだったと振り返ります。

 それでは、これからはどうなのか、と考え祈ると、ダビデが郎党を連れてサムエルに追われている荒野生活のような気がします。周囲の人には、私達の歩みが順風漫歩のように思われるかもしれませんが、私としては聖なる戦いに備えるためであり、力不足、人材訓練不足を常に感じています。牧師伝道師は将校ですが、杉本伝道師は未だ見習い士官でしかありません。もっと人材が必要です。31年掛けて子供を「若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ」というように育て、教会員も愛情をもって、霊の戦いの戦士になるように祈って来ました。そして、いつも自分を付け狙うサウルのような敵に対して、微力であり、弱さを意識して、戦いを避けて逃げてきたような気がします。

 「サウルが山の一方を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んだ。」(Tサムエル23・26)。そして「仕切りの岩」を挟んで、あわや出会おうとする時に、主の助けが来て、逃げられた、というのがこれまでの心境です。しかし、そろそろ、戦いの時が近づいてきているという感じもあります。

 ダビデは、サウルを殺す機会は何度もありましたが、「悪は悪者から出る。」(Tサムエル24・13)として、決して時に乗じて、違反行為をしませんでした。私は多くの信仰者が判断を誤り、「しょうがなかった」と言い訳をしながら、悪に負けてきたのを見ています。判断を誤れば死です。或いは大けがです。

 福島県三春町が県や国の指導に逆らって、昨年の3月15日にヨウ化カリウムの服用を住民に指導しました。彼らは十分に検討し説明をしたうえで、「服用しないで後悔するよりも、間違ったら責任を取る覚悟をしながら、住民の健康を考えて服用を決断したのです。県は怒って回収命令を出し、マスコミは非難攻撃をしましたが、動じなかったそうです。1年半立って、やっと彼らの判断が正しいことが証明されましたが、国や県は非難をしていながら、「自分たちの行動はしょうがなかったのだ。」と言い訳を言っています。

 その判断の指導を取ったのが、当時の副町長の深谷さんで、登山家でもあり、剣岳で遭難しかかったことがあるそうです。「山では常に決断を迫られる。判断を5つ間違えたら死ぬ。自分は4つまでだったから、こうして生きている。」とのことです。深谷副町長らの指導で、町の底力を見せようと協力して、ヨウ化カリウムの説明書や配布を短時間の内に済ませ、国や県、そしてマスコミの攻撃に動じない三春町の行動は歴史に残るでしょう。

人生は、山歩きのようなものかと思います。登り降りしながら、険しい坂も楽しい道も歩むのですが、景色を味わいながら地図やコンパスで全体の道程を確認し、無理は禁物、楽は後が危ない、などと協力助け合いながら、登山と下山を確保するのです。分かってもいないことを伝えると命取りになります。嘘やごまかし、喧嘩や欲は禁物です。そして、少しずつ力と経験を蓄えて、難しい山に挑戦するのです。状況にあった万全な装備も準備しなければなりません。

山では落雷や突然の豪雨、天候の急変もあります。真夏で雪が降ることもあり、テントが雨でびしょぬれになります。私などは、もはや怖くてとても登れません。 「主の日は盗人のようにやってきます。」とありますが、皆さんは、備えはしているでしょうか。罪を悔い改めずに負ったまま生きる人は、山登りとは関係ない重すぎる荷物を負って、山に登ろうとするようなもので、遭難するのがおちです。敬虔とは、余分な意地を張らないことです。聖い生き方とは、自らの弱さ、罪深さを認めたうえで、物事に固執しないで、神に委ねることです。

むろん、聖書を読み、天地を造られた神を信じければできないことですが、あまり信仰とか善悪に固執しないほうが良いでしょう。結局のところ、私達は罪人なのです。全てを信仰を基準にして考える人もいるようですが、神は、それほど難しいお方ではないと思います。私は、神のご機嫌を意識するよりも、罪と誘惑を注意することの方が重要だと思っています。山に登ることよりも、道を間違えたら、戻ることや下山することを考えたほうが良いのです。成功することばかりを考えないで、事故や危険を考えるべきなのです。

エルサレムは、山々を越えた峰の先にあります。人々は、神を求めてエルサレムに向かって歩みました。私もまた、多くの方々と一緒に信仰の山の頂に登りたいのです。


8月5日 人生の戦いに勝つために。   Tコリント92327
新改訳 Tコリ9:23-27

9:23
私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

9:24
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

9:25
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

9:26
ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

9:27
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。


先週、人生は山歩きのようなものだとお話しました。オリンピックを見ながら、日本選手は勝つのが下手だなと感じました。水泳の北島は優勝は出来ませんが、実績があり、自分が勝てるかどうか、わかっているという様子が見えました。女子柔道で金メダルを取った松本選手の試合前の気迫はすごく、世界選手権で右手甲を骨折しながら戦ったという経歴の持ち主です。格技には、気迫が必要で、体操の金の内村選手は高難度の技を命掛けで身につけ自分のものにしてきたという根性が見受けられます。

 聖書にも古代ギリシャのオリンピックを見て書いたらしい部分が、今日の聖句です。おそらくパウロは競技に参加する選手たちを見て、自分の信仰生活との一致点を見出したのでしょう。私もまた、おなじような感慨を持ちました。つまり、彼らは優勝するために自らを「打ちたたいて従わせ、失格者にならないように」訓練を繰り返しているのです。

 改善しない患者さんの中に、「自分は一生懸命にやっているのに」という人が多くおります。実は、「一生懸命やっていれば、後は周りが協力してくれる。」という依存型がこういうパターンです。厳しいことを言いますが、母性社会というのは世話を焼きすぎます。日本選手は、コーチ依存が多いように思います。コーチや監督も口を出し過ぎ、指導をし過ぎているので、努力に酔ってしまうのです。勝負と言うのは、「冠を受けるためにする」のであって、指導者のままに練習する選手がチャンピオンになるのは、無理です。要するに主体性と自負がなければなりません。特に、柔道は監督や指導者が口を出し過ぎているような気がします。北島がチャンピオンらしいのは、コーチを自分で選び、自分で人生と生活を選択していることで、もはやこの自分では優勝できない、と見定めるところも、大したものです。

日本人は、「努力すれば報われる」という考え方を持つ人が多いようですが、聖書は、「求めなさい。そうすれば与えられます。」或いは、「与えなさい。与えられます。」さらには、ここにあるように冠を受けるように戦うという目的志向です。これは基本的に全く違う考え方です。努力というのは、自己満足で終わってしまう場合が多く、人それぞれに水準が違います。柔道の選手は血みどろの努力をしてきたことでしょう。しかし、勝つためには、努力と共に知恵や気迫、そして生活力が必要です。

私などは、結婚した時に収入がなく、妻が病気ですから、見栄も外聞もなく、どんなことをしても収入を得ようと必死に生きていました。毎日1食の断食と4時間の通学は、本当に辛いものでした。長男が生まれた時に、妻の両親が生活力が無いとみて、母子を連れ去ったのも、しょうがないと考える程に厳しく苦しい生活でしたが、私はそれを認めず、どんなことをしても親子3人生き抜く覚悟でした。神学校の成績や他の学生の迷惑など考えていたら生き抜けないと判断して、何を言われても無視をしました。末っ子で甘えん坊の私が、他人の思惑を無視して生きる生活力を付けたのは、命がけの日々が何年も続いたからです。人に報われることなど、考えていたら生きていけなかったのです。

信仰で生きずに、人の了解や助けを求めていたら、ずっと楽だったでしょう。私は戦っている時に弱音は吐きたくないので、人に事情や都合は言いません。誤解されようと批判されようと、神が私に託した課題をやり遂げ、勝ち取ることが大事なのです。子供が非行した時も同様でした。

 妻が町内会の班長をしています。募金がどこかの家で留まってしまって上の役員から怒られ、やっと集まったお金を届けようとしたら電話が繋がらないので、「電話が掛からないからどうしようもない。」と言っているので、「そんなこと言い訳を言っていたら、会社では怒られるよ。」と言うと、「でもどうしようもない。」というので、「まだ、甘やかされて育った影響が残っているのか。」と怒りました。「どうしようもない。」という人間は、決して人生の競争に勝つことがない、と伝えました。それでも、泣き言ばかりを言っていた昔に比べると、強くなりました。名医とかスーパーウーマンとか誉められるようになりました。しかし、私は妻の頭であり、指導者です。神に誉められて、祝福の栄冠を妻が取れるように、今後も訓練して行かなければなりません。むろん、仲の良い夫婦として歩みながらです。

 教会やクリスチャンが世の光、地の塩として生きていくために、私達は強くなければいけません。愛し合うということは、甘やかすということではないのです。罪人を悔い改めがしっかりしないままに受け入れると、同じ過ちを犯します。2度と罪を犯さないためには、十分に訓練されなければなりません。

 罪に負けた時には、なぜ負けたかをしっかり把握し、そのペナルティーを十分に受けなければなりません。欧米では、競争に負けたり、失敗をしたり、誤魔化しをしたら、厳しいペナルティーがあります。日本は、罪を相対的にしか理解しない社会なので、永遠の滅びに備えた地上の罰を甘くする傾向にあります。不正や誤魔化しをしたら会社はクビであり、学校は退学処分です。しかし、その後しっかりと悔い改めて、努力を続けたら報われるのです。

 原発やその他の日本の事件・事故を見る時に、責任を問うことがありません。それで問題を大きくし、解決が出来ないでいるのです。私は、クリスチャンの中にも罪の悔い改めをさせないで甘くする傾向が、日本の教会を崩壊させていると理解しています。

 そのような罰と処分を前提にした努力が人生であり、例えばオリンピックにしろ、人生の一つのプロセスの一つに過ぎないのです。私は、短期的な目的志向は好きではなく、成長目標は人を惑わすと考えています。私達、信仰者の目的は神の国に行くことであり、神が私達に課した十字架の人生を喜んで生きて、神の栄冠を受けることなのです。


8月12日 まさかの時の友。   ルカ福音書84056節   竹中範明師
新改訳 ルカ 8:40-56

8:40
さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。

8:41
するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。

8:42
彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。

8:43
ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、

8:44
イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。

8:45
イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか。」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」と言った。

8:46
しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」と言われた。

8:47
女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。

8:48
そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」

8:49
イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」

8:50
これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」

8:51
イエスは家にはいられたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょにはいることをお許しにならなかった。

8:52
人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」

8:53
人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。

8:54
しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」

8:55
すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。

8:56
両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。




 「ここに二つの奇蹟の物語が紹介されている。「会堂管理者ヤイロの娘の復活」と 「長血の病の女の癒し」の奇蹟の物語である。戦いに敗れ、力尽き、苦しむ二人の物語である。徳川家康は、自分の生涯を振り返り、「人生は、重き荷物を担い手旅するごとく。」と言ったという。神とともに歩む私達キリスト者の地上の生活も、決して、苦難や試練から免れてはいない。直面する問題の中で、私達も自らの弱さのゆえに、立ち尽くすことがある。しかし、私達には、イエスがともにいて下さる。

  詩篇461節に、「神はわれらの避けどころ、また力。苦しむとき、そこにある助け。」とある通りである。イエスは、常に私達とともにいて、愛の御手で私達を支え、問題を解決し、救い出して下さる。イエスは、決して、イエスを信じる者をお見捨てになることはない。それゆえ、私達は、どの様な苦しみの中にあっても、その所で百合の花を見出し、その所から煌めく星を仰ぐことができる。」


8月19日 これから起こる事。   ダニエル記2513  
ダニエル2:5 王は答えてカルデヤ人たちに言った。「私の言うことにまちがいはない。もし、あなたがたがその夢とその解き明かしとを私に知らせることができなければ、あなたがたの手足を切り離させ、あなたがたの家を滅ぼしてごみの山とさせる。

2:6
しかし、もし夢と説き明かしとを知らせたら、贈り物と報酬と大きな光栄とを私から受けよう。だから、夢と説き明かしとを私に知らせよ。」

2:7
彼らは再び答えて言った。「王よ。しもべたちにその夢をお話しください。そうすれば、解き明かしてごらんにいれます。」

2:8
王は答えて言った。「私には、はっきりわかっている。あなたがたは私の言うことにまちがいはないのを見てとって、時をかせごうとしているのだ。

2:9
もしあなたがたがその夢を私に知らせないなら、あなたがたへの判決はただ一つ。あなたがたは時が移り変わるまで、偽りと欺きのことばを私の前に述べようと決めてかかっている。だから、どんな夢かを私に話せ。そうすれば、あなたがたがその解き明かしを私に示せるかどうか、私にわかるだろう。」

2:10
カルデヤ人たちは王の前に答えて言った。「この地上には、王の言われることを示すことのできる者はひとりもありません。どんな偉大な権力のある王でも、このようなことを呪法師や呪文師、あるいはカルデヤ人に尋ねたことはかつてありません。

2:11
王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。」

2:12
王は怒り、大いにたけり狂い、バビロンの知者をすべて滅ぼせと命じた。

2:13
この命令が発せられたので、知者たちは殺されることになった。また人々はダニエルとその同僚をも捜して殺そうとした。


 今回の旅行で最も印象深かったことは、欧米人が待つということに関して十分に訓練を受けているということでした。買い物でも、入場でも不平や苛立ちを見せずに待ち続けていました。特に大陸横断鉄道ではエドモントンで乗車が1時間遅れ、ジャスパーでは降りて45分観光の時間があったのだけれど改札が開いたのは、その30分後、途中エンジンの故障で何度も止まり、結局バンクーバーに着いたのは6時間遅れ。でも一人も怒る人がいないで、淡々と降りて、更にトランクが出るまで30分ほど待つ。こういうことを何でもないと対応することができるためには小さい頃から、普通に待つことを経験しなければならない。韓国の万国博で行列を何とかして先に入り込もうとしていた人が無数にいたことを思い出します。日本人ならば、そういうことはしないが、不平は凄いでしょう。

 さて、旅行中にオリンピックがあり、韓国や中国の日本への攻撃も凄かった。UBCの学生も3割が中国人ということで、中国の世界への進出が目に付きました。どうも国を信じていないで、自らの財産を他国に築き、他国で地位や仕事を確立しようとしているようです。アフリカの人も、生活の安定を求めて世界中を移り歩いています。日本人の楽観主義は、国を信頼していたからだと判断しましたが、今や政治も経済も年金も治安も自然も環境も悪化してきています。元々いつの時代もどこにおいても生きるということは困難なのですが、日本が戦後まれな経済成長と安全かつ快適な社会を保てたということです。

 新渡戸稲造記念公園がUBCの中にありました。武士道を世界に紹介し、その本は世界のベストセラーになって、稲造を国連の事務次長に就任させることにも繋がりました。彼は、軍閥が日本を滅ぼすと言って攻撃されながらも、人種差別に反対して国連で活躍しました。カナダの会議に出かけた帰りにビクトリアで死んだのですが、このように外国で記念される人物がいることは印象に残ります。やはり国際人をこれからは多く生み出していかなければなりません。私達は、子供たちをそのような観点で育てる必要があり、私達自身も国際的な視野を持たなければ、生きていけないような時代になっていくのです。

 紀元前600年頃、北イスラエルから多くの人がバビロンに捕囚として連れて行かれました。少年ダニエルもその一人で、王族でもあったので、宮廷に仕える者として教育されました。大帝国バビロニアを一代で築き上げたネブカデネザルは、王として国をどのように治めるべきか、何が起こるか、油断なく警戒していました。2章1節に「ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。」とあります。そして、宮廷に仕える知恵者を呼び集め、自分がどのような夢を見たか、説明し解き明かすように命じます。知者たちは、どのような夢か教えてくれたら説明すると答えるが、王はそのような誤魔化しは通用しない、夢をあてることができないような者の解説など信用できないと答えます。

 絶対権力者の命令というのは、そのようなものであり、それができなければ殺されることになります。そんな理不尽なと考えるのは、平和にならされているからであり、世界中、国が荒れれば人は殺されるものでした。ナチスの迫害を警戒してアメリカに逃れたユダヤ人や知識人は多く、トルコ周辺のキリスト教徒虐殺を予知してアメリカに逃れた人々も多かったようです。アメリカというのは、そのように歴史的に迫害された人々をかくまう中で国力を上げてきた国ですが、現在はアメリカへの攻撃を予知して他国へ逃れる人々が多くなっています。
 ダニエルが、王の命令に答えることのできる唯一の人となるのですが、そのために彼のしてきた努力を忘れてはいけません。

1. 身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるに相応しい者で、文学とことばとを教えるにふさわしいものであった。

2. 贅沢かつ異教の習慣のごちそうやブドウ酒で身を汚さないように注意した。

3. 人に愛されながらも、信仰に熱心だった。誰よりも努力した。

 知識を覚えるだけの勉強は、社会で生き抜くためには殆ど意味がないのです。皆さんは、電車が来るのを1時間黙って、何の不満も言わずに子供と一緒に待っていられるでしょうか。危機がある時に、家族と一緒に国外に迅速に避難できるでしょうか。なぜ、金が世界中で蓄えられているかというと、どこでも換金できるからです。英語を話せない人は、外国で生きていくことはできません。地震の地盤に原発がこれだけ多く立っているということは、なにかあったら国外退去しかないのです。そういう危機を理解したうえで、原発にどう対応するか考えていかなければならないのです。

 クリスチャンは現在が、終末であり、再臨の前には未曾有の困難が世を覆うという預言をわきまえておかなければならないのです。

 残念ながら福島県の多くの人々が放射能汚染の現実の中でなにもできないで、そこに留まり、健康を害し、生活に苦労しています。

 肉体を鍛えなければなりません。危機に備えなければなりません。


8月26日 歴史は神が支配されている。   ダニエル記22435
ダニエル2:24 それからダニエルは、王がバビロンの知者たちを滅ぼすように命じておいたアルヨクのもとに行き、彼にこう言った。「バビロンの知者たちを滅ぼしてはなりません。私を王の前に連れて行ってください。私が王に解き明かしを示します。」

2:25
そこで、アルヨクは急いでダニエルを王の前に連れて行き、王にこう言った。「ユダからの捕虜の中に、王に解き明かしのできるひとりの男を見つけました。」

2:26
それで王は、ベルテシャツァルという名のダニエルに言った。「あなたは私が見た夢と、その解き明かしを私に示すことができるのか。」

2:27
ダニエルは王に答えて言った。「王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。

2:28
しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。

2:29
王さま。あなたは寝床で、この後、何が起こるのかと思い巡らされましたが、秘密をあらわされる方が、後に起こることをあなたにお示しになったのです。

2:30
この秘密が私にあらわされたのは、ほかのどの人よりも私に知恵があるからではなく、その解き明かしが王に知らされることによって、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためです。

2:31
王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。

2:32
その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、

2:33
すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。

2:34
あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。

2:35
そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。



 東北の大震災と放射能汚染だけでなく、次々と天災が襲い、政治も乱れ、経済も停滞する中で、年金不安や生活不安が人々の心を覆ってきています。そういう中で、クリスチャンは、どのように国が荒れ、或いは滅びるようなことがあってさえも、神が歴史と世界を支配しておられることを知り、確信をもって強く生きる必要があります。いつの時代にも困難があり、人は思い通りには生きられません。しかし、その中で、ある人々は神を信じるに至り、他の人々は神を嘲り好き勝手に生きようとするのです。

 「あなたがたは光に照らされて後(信仰に入った後)、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めの頃を思い起こしなさい。」(ヘブル10・32)。「あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」(10・35)。「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」(1038)。

 イスラエルは神の選ばれた特別な国であり、自分たちは選民であると信じたのに、北イスラエルは滅び、南ユダから捕虜として連れ去られたダニエルは、それでもなお神を信じ、自らを聖め、信仰者としての勇気ある態度を取ったことを先週お話しました。絶対的な権力を持つネブカデネザル大王に対して、その見た夢とその内容を、神によってダニエル自身に示されると信じたのです。

 なぜ、ダニエルはそのような行動を取ったのでしょうか。それはどんな権威に対しても動じずに、その上に神の支配があることを確信していたからです。そのようにして、確かにダニエルに奥義が示されました。それは、巨大な像です。その解釈は36節から記されます。

 バビロン帝国は、その強大さと華麗さから純金の頭の部分を意味します。次に起こる銀の胸と両腕の国は、協力しているメディヤとペルシャであり、聖堂の腹と腿はギリシャであり、世界中を治めると預言されます。第4の国であるローマは鉄のように強いが、それらの国は、人手によらずに切りだされた石である神の国によって滅ぼされると教えられるのです。その解釈は44節に詳しく書かれています。つまり、ローマ時代に天の神によって起こされる神の国は、永遠に滅ぼされることなく、この世の国々を打ち砕くとされるのです。

 これらの預言は、その後、何度もダニエル記に示されます。それは、7章の次の王ベルシャツァルの時の幻でも同様でした。バビロンは鷲の翼を付けた獅子として示され、メディヤとペルシャは熊のようで、3本の肋骨としての国、バビロン・エジプト・ルデヤを征服しました。4つの翼をもった豹のような早くて強い国アレキサンダー大王のギリシャは世界を征服するけれど、4つの頭である4人の後継者に分かたれます。そして7章7節に恐ろしく、ものすごく強い国ローマが起こるとあります。

 さらには、8章では、雄羊としてのメディヤ・ペルシャ連合軍が、雄山羊であるギリシャによって滅ぼされ、8節には、その後にアレキサンダー大王が死んで4人の王が支配し、その1本であるセレウコス朝シリヤの王が、エルサレムの神殿を汚すことが預言されるのです。その解説も、8章20節から記されています。

 さて、預言の通りにバビロンは滅び、それを預言したことで知られているダニエルは、次に支配したメディヤの王ダリヨスの下でも首相として働くことになります。(5・30-6・3)。

 話は、まだまだ続いていくのですが、今日はその預言の中でも第4の国ローマの時代に神の国が起こり、それはこの世の国を滅ぼして永遠に続くとあることを確認しなければなりません。

 皆さんが住んでいるのは、日本であり、神の国ではありません。韓国もアメリカも神の国ではなく、神の国の支配はまだ実現していないということです。つまり、預言は正確に成就したけれど、完結していないのです。ローマ帝国は鉄のように強大な国でしたが、東ローマと西ローマに分かれ、さらに10の国に分かれたとあります。実は、預言がイエス様の十字架による神の国の実現によって、中座しているのです。

 「今は恵みの時、救いの日」(Uコリント6・2)とあるように、福音を世界に伝えるために預言が一時停止をして、終末に至るのです。イエス様が2000年前に救い主として地上に来られ、終末には王の王として裁きをするために再臨すると預言されているのです。

 「終わりの日に、嘲る者どもがやってきて嘲り、自分たちの欲望に従って生活し、キリストの来臨の約束はどこにあるのか。」(Uペテロ3・3-4)と言うが、神の前では一日は千年のようであり、千年は一日のようであって、主は、「忍耐深くあられ、一人でも滅びることを望まず、全ての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。主の日は盗人のようにやってきます。」(Uペテロ3.9-1)。

 社会が混乱しているからといって、私達クリスチャンは自らを迷わせてはいけません。「あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」(Uペテロ3・11


9月2日 国は正義によって支配される。   ダニエル記43037節 
新改訳 ダニエル4:30 王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」

4:31
このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声があった。「ネブカデネザル王。あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。

4:32
あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、こうして七つの時があなたの上を過ぎ、ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」

4:33
このことばは、ただちにネブカデネザルの上に成就した。彼は人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになった。

4:34
その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。

4:35
地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押えて、「あなたは何をされるのか。」と言う者もいない。

4:36
私が理性を取り戻したとき、私の王国の光栄のために、私の威光も輝きも私に戻って来た。私の顧問も貴人たちも私を迎えたので、私は王位を確立し、以前にもまして大いなる者となった。

4:37
今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。



 世界中の政治家が自らの権力維持のために動いており、世界的視野や自らの国の将来についても考えに入れていないように見られます。韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領も大阪で生まれ苦学の末に現代グループの会長になった熱心なクリスチャンですが、最近の言動は何か常軌を失しています。日本の政治家は、韓国や中国との領国問題が過熱し、国債の発行ができないで国の資金が無くなっているのに、政治家としての責任を放棄して政局を動かそうと躍起になっています。中国の政治家は殆どが巨額の汚職をして蓄財に努め、海外に財産を蓄えています。フランスは前も現大統領も不倫をし、同棲をしており、イギリスの王子はスキャンダルだらけです。アメリカ大統領選の中傷合戦はひどいもので、ロムニー候補はモルモン教徒です。

 そういう現代に果たして神は、どのように介入をしておられるのでしょうか。ダニエル書4章を読むと、ネブカデネザル大王が「いと高き神が私に行なわれたしるしと奇跡とを知らせることは、私の喜びとするところである」として、聖書の神を褒め称えている記事が冒頭に記されています。

 ネブカデネザル王は、また夢を見ますが、今度は信頼しているダニエル(ベルテシャツァル)に解き明しを求めます。ダニエルは、王が高慢になってしまい、その罰として狂気になり、7年の間、野の獣のように暮らすことを預言します。30節に、ダニエルの警告にも関わらず、王が大バビロンの栄光を誇ったとたんに、狂人になってしまうのでした。

 しかし、やはり預言の通りに王が天を見上げた時に、理性が戻り、神を誉めたたえる者として王位を回復するのです。そして、34節からの神を賛美する言葉がでてくるのです。「神の御業はことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。」ということばは、現代にも有効なのでしょうか。

 まずは、ネブカデネザル王は、絶対的権力者でありながら、試練によってへりくだることができる稀有な人物だったことが理解されなければなりません。「人の心の中を知っておられる神は、・・・何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」(使徒15・8.9)。私達は、ネブカデネザルのような絶対的権力者でさえ、神の前にへりくだることができることを知りながら、自らの価値観や判断を変えずに日々を送ってはならないのです。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(ヤコブ4・6、Tペテロ5・5)。イエス様は、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マタイ20・26)。

 地位があろうと、能力があろうと、或いはなかろうと平凡であろうと、神の目に大事なことは、謙遜で自らの罪を認め、神と人に仕える者であることなのです。良い麦も悪い麦も刈り入れるまでは、そのままにされると言われたイエス様のことばを忘れてはなりません。私は名牧師でも、名説教家でも、良い世話人でもありません。ただ、皆さんに対して、悪いものは悪いと言い、高慢になってはいけない、人を押しのけたり、見下げたりしてはいけない、というだけで、ただ自らは社会人として誠実に生きるだけの者です。父親は、家庭で立派であったり、自慢したりするような自分に関心を持つよりも、子供の成長と躾けに関心があるべきだと考えています。ネブカデネザルは、王としての業績に目がくらんだ時に心を失い、王としての自らの姿勢に恥じた時に、心を取り戻したのです。
 「仕事のためだからしょうがない」として嘘をつき、誤魔化しをし、社会に害になることをする人々がいます。「放射能の内部被曝は健康に害はない。」と言った人は地獄に落ちるでしょう。「直ちに害はない。」などと言いのけた政治家が神の罰を受けるかどうかわからないなどと考えたら、私達は自らの正義に責任を持てません。嘘やごまかしをする人は、神の罰を受けると、子供たちに教え、自らを神の前に正しく生きなければならないのです。

 指導者が権力闘争に明け暮れて、人や組織を自分の思うままに動かそうと考えたら、既に正義を失っているのです。社会がそのような力関係によって動いています。若い人や子供まで、自己を主張し、強く言い、人を制圧すれば、成功者になれると信じているのです。神を恐れない所業です。

 私は未熟な者ですが、神の僕として生きることを決心しています。神は正義の味方です。神を畏れ、神の前に正しく生きることを心がけ、自らの主張や権利は、神に委ねることが出来るようになりたいものです。

 妻と仲良くなれるようになってきました。子供や弱者とも仲良くなれるようになってきました。しかし、高慢な者、傲慢な者、守銭奴、誤魔化しをする者、大嫌いです。正義に付くということは、不正義と戦うことを意味すると思います。神に付くということは、サタンや不正と戦うということを意味します。自らの旗色を明確にしないで、神を味方につけるでしょうか。

 自分も罪を犯し、過ちをする可能性があるから、断固として正義を主張できない人が多くいます。立派でなくても良いのだと思います。自らも失敗することはあります。でも、あいまいに生きていると、正義や神の祝福からは離れ、いつの間にかサタンの支配下に生きるようになってしまうのです。この世は、戦いの時代なのです。イエス様は、裁き主として来られると聖書は言っていますが、その主の前に立てるでしょうか。


9月9日 あなたの人生は軽かった。   ダニエル記51831 
ダニエル5:18 王さま。いと高き神は、あなたの父上ネブカデネザルに、国と偉大さと光栄と権威とをお与えになりました。

5:19
神が彼に賜わった偉大さによって、諸民、諸国、諸国語の者たちはことごとく、彼の前に震え、おののきました。彼は思いのままに人を殺し、思いのままに人を生かし、思いのままに人を高め、思いのままに人を低くしました。

5:20
こうして、彼の心が高ぶり、彼の霊が強くなり、高慢にふるまったので、彼はその王座から退けられ、栄光を奪われました。

5:21
そして、人の中から追い出され、心は獣と等しくなり、野ろばとともに住み、牛のように草を食べ、からだは天の露にぬれて、ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました。

5:22
その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。

5:23
それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。

5:24
それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。

5:25
その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』

5:26
そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。

5:27
『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。

5:28
『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです。」

5:29
そこでベルシャツァルは命じて、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国の第三の権力者であると布告した。

5:30
その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、

5:31
メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ



 今日は、敬老礼拝ですが、ご自分の人生を顧みられて、重いものであったか、軽い者であったかを振り返る方は多いことと思います。重い軽いは、単に苦労が多かったか少なかったかということではなく、重い責任を負って生きてきたか、自分の事だけを考えて生きてきたかと言うことだと思います。

 先週お話したネブカデネザル大王は、史上稀にみる大帝国を築き上げても、如何に国を治めていくか気に掛かっていたようで、支配した国々の知者を助言者として数多く採用していました。その一人がユダヤ人のダニエルで、宰相として重く用いたのでした。それでも高慢になり、理性を失って獣のようになった日々を過ごした後に、天を見上げ、自らをへりくだらせたことを書き残したのです。

 その後継者ナポニドス王の息子ベルシャツァルは、権勢に任せて大宴会を繰り広げていました。そしてエルサレムの神殿から奪ってきた金銀の器を持って来させて、それで酒を飲み、偶像の神々を讃えて、興じていたのです。そこに突然、手だけが現れて宮殿の壁に文字を書いたのです。

 王の子として飲み食いに興じ、学問も自己訓練も政治も怠っていたベルシャツァルは、自分が最高の権力にあると思っていたのに、自分の手の届かない超自然現象が現れて、畏れおののくのでした。一同、恐怖に駆られて何も出来ない中を王母が来て、11節からの言葉を述べます。「あなたの王国には、聖なる神の霊の宿る一人の人がいます。」紀元前586年にエルサレムの神殿が破壊され、金銀の器が略奪された時に捕虜として連れて来られ、このバビロン帝国が滅びる539年までに47年が過ぎていますから、ダニエルは既に62,3歳かと思います。再び呼び出されて解き明しをするのですが、既に貫禄は十分で22節にあるように、王を諌めています。

 「あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。」ネブカデネザルの教訓は王族だけでなく、全ての国民に伝えられていたのに、王はそれを軽んじていたのです。その意味を解き明かされた後も、ダニエルを父ナポニドス王と自分に継ぐ第3の地位に任じれば、どうにか神様も赦して下さると取り繕ったのでしょう。ところが、直ぐに悔い改めない王は、その夜の内に殺されて国が滅びることになります。

 バビロンは人口数百万人もおり、城壁は高さ90m、厚さ24mもあって、バビロンを囲み延長65キロに及んだということです。古代ギリシャの哲学者フィロンが世界の7不思議とした「空中庭園」が有名ですが、縦横400m、高さ15mの土台の上に何層も庭園を積み上げ、110mの高さの一番上に貯水槽を設けてメディヤから来た王妃のためにネブカデネザル王が美しい庭園を築いたとのことです。ところが、強大な都市を維持し、水を提供するために城内に大河ユーフラテス川を通しており、その川を渡って、一夜のうちにペルシャの大軍が油断しているバビロンを征服したのでした。

 来年は、アメリカも韓国も中国も、そして日本も指導者が変わる年ですが、全地を支配される神の目に適う指導者というのは、どういう人なのでしょうか。また、指導者ならぬ私達市民が、神の目に重んじられるということは、どうすれば良いのでしょうか。

 聖書は人それぞれに能力が違い賜物も違うので、それぞれに応じた役目を神に負わされるとあります。「だれでも自分自身をきよめて、不義を離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわり、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」(Uテモテ2.21

 先週、「正義によって生きる」ことの大事さをお話しました。神の前に義であること、神の目に正しい関係を保つことこそが、人生で最も大事であり、利害や打算によって損なわれない正義を貫くことこそが、神の目に重んじられ、指導者にも必要なことなのです。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6・33

 牧師としては殆ど教会を留守にしており、留守電に教会に来たいという問い合わせがあり、答えられていないことを申し訳なく思っています。牧会者としては何もしていないことも済みません。

 先日、ある牧師と話しましたが、一生懸命牧師として働き、教会員の世話をし、指導しているけれども、うまくいかない、ということでした。私は、それを聞きながら、この教会の皆さんに何もしていないけれど、順調に成長していると思いました。学校の教師や職場の上司、そして親が、思い通りに指導しようとして干渉し、指図します。私は、人それぞれに神に与えられた生き方があり、それについて私ごときが分かるはずがないので、教会員の皆さんには、ただ祝福を祈るだけに心がけています。そして、自らは、与えられた環境で最善を尽くし、神にも人にも恥じない正義を尽くしていくことを心がけています。

 神の目に正しいと思われることを日々行なうことを心がけること、そのために恥をかき、攻撃を受け、試練があろうと、報われなかろうと、こつこつと続けることが大事だと思います。私の両親は、何でもない小市民でしたが、決して悪に加担せず、迎合せず、噂をせず、批判をせず、黙々と人を助け、働いてきた人です。私は、その両親を心から尊敬し、恥じない生き方をしようと心がけています。自分の子供たち、教会員たち、社員や患者さんのことを心配し、最善を尽くそうと生きるだけです。幸いなことにある程度の能力と才能を神に与えられています。それを神にあって生かすことに責任を感じています。


9月16日 神の前に跪き祈る。   ダニエル記51831 
新改訳 ダニエル6:3 ときに、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。そこで王は、彼を任命して全国を治めさせようと思った。

6:4
大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。

6:5
そこでこの人たちは言った。「私たちは、彼の神の律法について口実を見つけるのでなければ、このダニエルを訴えるどんな口実も見つけられない。」

6:6
それで、この大臣と太守たちは申し合わせて王のもとに来てこう言った。「ダリヨス王。永遠に生きられますように。

6:7
国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。

6:8
王よ。今、その禁令を制定し、変更されることのないようにその文書に署名し、取り消しのできないメディヤとペルシヤの法律のようにしてください。」

6:9
そこで、ダリヨス王はその禁令の文書に署名した。

6:10
ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。――彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

6:11
すると、この者たちは申し合わせてやって来て、ダニエルが神に祈願し、哀願しているのを見た。

 再びバビロニアの宰相となりながら、その日の内に滅ぼしたメド・ペルシャ帝国でもダニエルは筆頭大臣になってしまいました。4節にあるように、他の人々はダニエルを失脚させようとしても、何の怠慢も欠点も見つけられませんでした。彼の内には聖霊が宿っていたからです。

 他の人々から見れば、唯一の欠点は信仰一途なことでした。それで、7節のような宗教行為禁止令を出すのでした。それは、ダニエルが、そのような禁止令を出しても唯一人、全能の神に対して祈りを止めない真摯な信仰者であることを知っていたからでした。

 ダニエルは、王によってその署名が為されたことを知って、自分の家に帰り、「いつものように、日に三度、ひざまずき、神の前に祈り、感謝をしていた。」のです。待っていたように、それを確認した人々は、王に訴えてダニエルを士師の穴に投げ込んだのです。

 信仰行為というものは、朝起きてご飯を食べ、歯を磨くように、日常的なものに習慣づける必要があります。朝起きてご飯を食べられない人は、健康にはなれず、仕事もできず、多くの問題を起こして行きます。歯を磨き、整髪料を付け櫛でとかすという何でもないことを習慣としていないから、簡単なこともできなくなり、だんだんと億劫になってくるのです。

 聖書を読み祈る、そして周囲の人々のために祈る、自分のなすべきことを点検して主の導きを求める。夜には自分の為したことを確認し、反省し悔い改めるべきことがないかどうか、聖霊に聞く。全てのことに感謝し、批判の心を持たない。・・・これらを毎日の何でもない習慣にしなければなりません。

 能力の無い人は、祈りと感謝を無駄なことのように考えます。しかし、全能全知の神の知恵を求め、与えられるのですから、何よりも力が与えられるのです。努力や勤労、知識や情報は、主の導きに比べたら、そよ風のようなものです。殆どの人が神の大能を知らず、体験していないのです。

 あなたの祈りに力がないとしたら、神よりも人や社会を恐れているからです。ダニエルは、他の大臣や官僚、そして王をも恐れず、自分を保ち、神の前に敬虔でした。自分の思い通りに人生や社会が営まれる事など求めず、ただ神に仕え、為すべきことをしていたにすぎません。だから、ライオンの穴に投げ込まれると聞いても、それならそれで構わないと、いのりを続けたのです。

 獅子の穴に投げ込まれたダニエルに王は話しかけ、一晩中断食をして心配をし、夜明けに探りに行きます。「生ける神の僕ダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」。神はダニエルを守り、何の傷もなく、ライオンと一緒に夜を過ごしたのです。神の御使いがダニエルを守ったのでしょう。 ダニエルを訴えた者たちが、王の命令でその穴に投げ込まれると、底に落ちる前にライオンに噛み砕かれてしまいました。

 神は私達の信仰に応じた計らいをして下さいます。信仰者には、その信仰に相応しく応じ、神に期待しないで祈りも行ないもきちんとしない者には、神は殆ど応答しません。神に期待しない者に対して、神が応じたとしても、その人は信仰がないので、神の助けであることが分からないからです。

 私は説教には、あまり苦労しません。自分を名説教家であるとは思わないし、ただ聖霊に満たされて神の前に過ごしていたら、語るべきことを備えてくださると信じているからです。聖書研修会でも、何にも用意していませんが、良いテキストは、私と思いと考え方が似ているので、自分の考え方を語り説明するだけで良いからです。傲慢ない言い方ですが、チェックポイントは、聖書から説明できるか否かです。

 もし、私が罪を犯し、嘘を言い、自分の欲で生きたら、たちどころに語る言葉をなくし、知恵を失い、何をするべきか分からなくなくなると思います。思い通りにならないことは幾つもありますが、神の御旨に委ねます。自分の願いや思いが、それほど大したものではなく、神がいつも自分を正しい方向に導いてくださると知っているからです。まるで車についているナビのようです。道を間違えると、戻るように指示してくれるのです。

 今書いている本にも感動しています。良い文ではないでしょうが、放射能に関する巷の情報や知識を分析し、吟味しているからです。急いで書こうと思っていないので、新しく入ってくる情報の真実に驚きながら、内容を変えています。被災者には無料で贈呈しようと考えています。主の導きが確かにあると感じています。

自分の人生を、主に明け渡す覚悟はいつもできています。そういう面で、人への指導も、相手の思惑など気にせずに、為すべきことをやれるようになってきたと感じています。充実してきたのか、御国に行く時が近づいてきたのか、良く分かりません。ただ、妻も子供たちも、まだ成長過程なので、もう少し教えておきたいことがあります。そして、やっと自分の思いと行動に、私利私欲を離れたものが出来つつあります。ヤコブ4・15

ともかく、神の前に祈り、聖霊に教えられ、全てのことに感謝して、生きることが大事ですが、相変わらず、試練や誘惑はあるようです。聖霊に満たされなければ、いつでも破滅であることに変わりはありません。そして、そういう生き方こそが、信仰者の人生であると思います。むろん、自らが未熟であることは、当然ですが、ガラテヤ2・20を思います。共感する方も多くいると思いますが、日々の生活に神を認めなければ、神もあなたと一緒に過ごすことはないことを覚えておいてください。


9月23日 歴史は定まっている。   ダニエル記71322
ダニエル7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

7:14
この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

7:15
私、ダニエルの心は、私のうちで悩み、頭に浮かんだ幻は、私を脅かした。

7:16
私は、かたわらに立つ者のひとりに近づき、このことのすべてについて、彼に願って確かめようとした。すると彼は、私に答え、そのことの解き明かしを知らせてくれた。

7:17
『これら四頭の大きな獣は、地から起こる四人の王である。

7:18
しかし、いと高き方の聖徒たちが、国を受け継ぎ、永遠に、その国を保って世々限りなく続く。』

7:19
それから私は、第四の獣について確かめたいと思った。それは、ほかのすべての獣と異なっていて、非常に恐ろしく、きばは鉄、爪は青銅であって、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。

7:20
その頭には十本の角があり、もう一本の角が出て来て、そのために三本の角が倒れた。その角には目があり、大きなことを語る口があった。その角はほかの角よりも大きく見えた。

7:21
私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。

7:22
しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。


 ダニエル書は聖書の中でも、特別な迫力のある書で、歴史と国家に力強い影響を与えたダニエルという真摯な信仰者の歩んだ姿と、神の大能の顕現が記されています。私自身の信仰と姿勢は、このダニエルに影響を与えられたところが多いことも事実です。それにしても、バビロン及びメドぺルシャという二つの大帝国で宰相を務めただけあって、傑出した能力と人格、そして信仰を持っていたことは、私達とは比較しようもありません。

 聖書の人物としては、アブラハム、モーセ、ダビデ、そしてこのダニエルが旧約において社会的リーダー及び信仰者として、私達に多くのことを教えます。彼らに共通することは、この世の指導者や習慣に左右されることなく、信仰者としての生き方を貫いたことです。そして、彼らの生き方から私達が学ぶことは、神はこの世のどのような指導者や体制よりも力強く世界を支配し、導いておられるということです。

 さて、ダニエルの見た幻は、以前にネブカデネザル大王が見たものと同様な内容でした。確かに、最初の国バビロンからペルシャに移るまでの現実は、その通りになりました。ダニエルは、この王国の推移の預言を2章、7章、8章と続けて与えられており、更に続く終末預言は、この7章から始まり、巻末まで詳細さを増していくのです。そして、私達は、預言の通りに、次にヒョウのように迅速なアレキサンダー大王による世界支配と4つの国への分割、そしてその後のローマ帝国の堅固な支配を知っているのです。

 ところが、ここから人間の姿をした偉大な王が天から来られて世界を支配することになることの預言が始まるのです。歴史が動き、栄枯盛衰の中で国の興亡が起こることを理解しているのですが、ダニエルが見た預言は、そういうものとは全く異なる、神による実際の地上支配なのです。そして、キリスト教信仰の真否は、その人がキリストの地上支配を信じて歩むかどうかに掛かっているのです。つまり、誰もが罪を指摘されたら認めるしかありません。その救いを信じるのは、好都合であり、単に信じるだけで良いと言われたら、キリスト・イエスを罪の救い主として信じ、受け入れるでしょう。神は、そのような信仰の入り方を是認されます。それは信仰の入門なのです。しかし、信仰は、その歩みによって、真実性が証明されるのです。

 無代価で救われるのは、救いに値する何ものをも神に差し出すことができない人間には、まさに恵みです。恩恵です。

 しかし、その後には、信仰によって歩むという、当然な代価が必要とされるのです。信仰によって歩むことなしに、自らの考え、打算、利益、習慣、常識などというもので歩むならば、その人は、神によって贖われた者(買い取られた存在)ではなく、この世に属する者として捉えられるのです。つまり、信仰によって歩むか、肉によって生きるかは、私達の判断に任せられているのです。それは、教会に来るとか、献金をするとか、そういう行ないによるものではありません。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8・5.6

 第4の獣、ローマ帝国の時に、聖徒たちに戦いを挑む、この世の君が束の間の支配をすると書いてあるのですが、22節に、「それは年を経た方が来られるまでのことであって」とあり、まだ実現していません。この終末の詳細がこの後のダニエル書に示されているのです。そして、3年半の大艱難の後に、裁き主である王の王が地上に来られると預言されるのです。

 私達クリスチャンは、神が全てを見ておられ、信仰による救いの結果、どのように過ごし、どのように神を待ち望んでいたかを確認するかを知っていなければなりません。

 「そういう難しいことは嫌だ、信仰を楽しんで、人生を豊かなものにしていきたい。」、「信仰によって生きるということは、よく分からない。」「クリスチャンだって、信仰深くない人は一杯いる。」このように考える人は、肉に従って生きている人であって、無償の救いを、自分の判断で拒んでいるのです。

 聖書をよく読むと、アメリカが国を存続するとは思えず、中国が強権を振るって世界を指導しようとすることは予想され、ヨーロッパは現在のような弱い結びつけではなくローマ帝国の再来となります。世界中が民族紛争で荒れ果てて、戦争が起こり、飢饉や天災が人々を飢えさせます。聖書は、はっきりと終末は世界が荒れ果てると預言しているのです。

日本などは、国力を失い、平和な落ち着いた社会を保つことは難しくなるでしょう。若い人々は、生活の基盤をしっかりとして、信仰をもって生き抜く力を確保しなければなりません。夫婦は助け合い、協力して家族を守り、暮らしていく用意をしなければなりません。独身の人は、そういうことができる結婚相手を求めなければなりません。高齢者は、自らを助ける家族を確保し、信仰をしっかりと教える必要があります。年金や保険で暮らしていけるかどうか、かなり危ういでしょう。暴力がはびこり、俗悪な人々が搾取し、弱い人々がいたぶられる時代がくるでしょう。強くなければ生きられない時代が始まるのです。それが終末です。聖書は、その警告を繰り返しているのです。聞く耳のある者は幸いです。


9月30日 反キリストの王が立つ。   ダニエル記81626 

新改訳 ダニエル8:16 私は、ウライ川の中ほどから、「ガブリエルよ。この人に、その幻を悟らせよ。」と呼びかけて言っている人の声を聞いた。

8:17
彼は私の立っている所に来た。彼が来たとき、私は恐れて、ひれ伏した。すると彼は私に言った。「悟れ。人の子よ。その幻は、終わりの時のことである。」

8:18
彼が私に語りかけたとき、私は意識を失って、地に倒れた。しかし、彼は私に手をかけて、その場に立ち上がらせ、

8:19
そして言った。「見よ。私は、終わりの憤りの時に起こることを、あなたに知らせる。それは、終わりの定めの時にかかわるからだ。

8:20
あなたが見た雄羊の持つあの二本の角は、メディヤとペルシヤの王である。

8:21
毛深い雄やぎはギリシヤの王であって、その目と目の間にある大きな角は、その第一の王である。

8:22
その角が折れて、代わりに四本の角が生えたが、それは、その国から四つの国が起こることである。しかし、第一の王のような勢力はない。

8:23
彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。

8:24
彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行ない、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。

8:25
彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる。しかし、人手によらずに、彼は砕かれる。

8:26
先に告げられた夕と朝の幻、それは真実である。しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから。」



 旧約聖書は39巻ですが、その他に外典というものが「70人訳」と言われる紀元前3世紀から1世紀に掛けてギリシャ語に訳されたものの中に含まれています。ユダヤ教とプロテスタントは、それらがヘブライ語とアラム語の写本にないとして正典とは認めていませんが、カトリックと東方正教会は認めています。なお、この他に偽典というものがあり、これは異端的な内容が含まれているものとして否定されています。

 その外典の中にマカバイ記の上下巻があり、今日の聖句のギリシャのアレキサンダー大王が倒れた後に4つに分裂した国の一つ、セレウコス朝シリアの「横柄で狡猾な王」(23節)のことを記しています。旧約聖書の最後に記されたのはマラキ書であり、紀元前460〜430年頃です。マカバイ記は、このシリアの悪辣な王、アンティオコス4世エピファネス(現神王)に対する紀元前175年〜135年のマカバイ一族の決死的な戦いを記した歴史書です。

 エピファネスは紀元前170年にエジプトを攻撃して勝ち、帰りにエルサレムに入城して、神殿の調度品や器を略奪し、金の飾りを全て引き剥がしました(マカバイ上1・16-24)。2年後に帰ってきて、住民を殺し、略奪して自らの要塞にし、禁教とユダヤの慣習を捨てることを命じたのです。その内容は、聖書に基づいた祭りの禁止、安息日を汚すこと、聖所と祭司を汚すこと、偶像の宮を作り、神殿に豚や汚れた動物を捧げること、割礼の禁止、律法に従うことの禁止であり、従わない者は死刑でした(1・45-50)。それにも関わらず、イスラエル人は、律法を守ったので次々に殺されていき、割礼を子供に施した女たちはその子と一緒に殺害されたのです。

 祭司マタテヤと5人の息子は、王の役人に律法と儀式を捨てることは決してないと宣言して山に逃げました。同じように逃げた人々に対して、王の軍隊は安息日に攻撃を仕掛け、1000人の者が反撃もせずに殺されます(2・37-38)。そこで、マタテヤらは、安息日でも応戦することを決め、反撃を始めたのです。父が死に、マカバイと呼ばれるユダが指導者になり、サマリヤの総督アポニオスを打ち破り、シリアの将軍セロンの大軍に対して、「戦いの勝利は軍隊の大きさによるのではなく、天からの力によるものである。」と叫んで大勝利をしました(3・19)。

 エピファネス王は怒って、紀元前165年に歩兵4万と騎兵7千をもって、イスラエル人の皆殺しのために責めて来ました。イスラエルの人々は、神殿が汚されていたので、ミズパに行って断食をし荒布をまとって灰をかぶり着物を引き裂いて神に叫び、聖書を朗読したのです(3・47-49)。ユダの軍は最初の戦いで3千人を打ち破り、さらに勝利しました。翌年、王は歩兵6万と騎兵5千を持って攻めて来たのに対して、ユダは1万の兵をもって対抗し、神に「あなたを愛する者の剣をもって、彼らを倒し、御名を知る全ての者に、讃歌をもって、あなたを讃えさせてください。」(4・33)として大勝利をしたのです。

 その後も、戦いは続くのですが、紀元前164年にアンティオコス・エピファネスは、イスラエルに対して為した悪逆の結果としての不幸と災いを認めて死んで行くのでした(6・10-13)。その頃、ユダはローマに使いを送り、同盟を結んだ時の契約文が残されています。ただ、シリアの次の王デモトリオスもユダヤに攻撃を続け、敵の軍勢の多さに挫けた時に戦死します(161年)。

 弟のヨナタンが後を継ぎ、勝利を続けてデメトリオス王からユダヤの自治と免税を勝ち取るのですが、裏切りを繰り返す王を信ぜず、ヨナタンはシリア王朝の内紛に乗じて敵のアレキサンドロス王と和平を結びます。しかし、エジプトのプトレマイオス王に敗れたアレキサンドロス王が死んだ後、また子供のデメトリオスがイスラエルを攻めるのです。ヨナタンは精兵4万人も持つようになるのですが、先のアレキサンドロス王に仕えた将軍のトリフォンに騙されて捕まります。そして、次の弟シモンが指導者になります。

 まだまだ続く戦いは、イスラエルの人々にとっては信仰の戦いであり、それはまた聖書に預言されていたことなのです。反キリストは、「君の君に向かって立ち上がる。しかし、人手によらず、彼は砕かれる。」(ダニエル8・25)です。

 私達は、信仰というものが命掛けのものであり、神は信仰者にそれを確認させながら私達を成長・訓練させているのです。信仰を持っていても、思うようにならないことは多いものですが、だからこそ、信仰を強く持ち続けなければならないのです。私達は、神の国への旅を歩んでいるのです。山あり、谷あり、風雨も嵐も日照りもあり、盗賊も敵もありながら、喜びと平安をもって、この人生を歩んでいきたいものです。