4月1日 十字架の備え。   ヨハネ122333節  
新改訳 ヨハネ12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

12:24
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

12:25
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

12:26
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

12:27
今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

12:28
父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」

12:29
そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。

12:30
イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。

12:31
今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

12:32
わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」

12:33
イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。


復活祭の1週間前はシュロの主日と言い、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入城した日です。王様が馬に乗って凱旋というのはよくあるのですが、イエス様は子ロバに乗って入城です。これは頁の下の引証にあるように、15節はゼカリヤ書の引用です。「エルサレムの娘よ。大いに喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和でろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」(ゼカリヤ9・9)。馬に乗るのは、戦いのための怖い王であり、ろばに乗るのは、権力を振るわずに柔和であるということです。

 イエス様はオリーブ山のふもとで、子ろばが向うの村に繋がれているから、尋ねられたら「主が御入用なのです。」と答えて連れて来なさい、と命じられました。この言葉は、私が1979年10月に、夜中に語りかけられた言葉でもあり、それを聞いて牧師になったのでした。しかし、私自身は、お乗せするのが、平和の君であり、仕えられるためではなく、仕えるためであり、権力を行使するのではなく、人々の罪のために十字架に掛かろうとしておられる方であることは、理解できませんでした。

 この前にイエス様は、ベタニヤでラザロ達の家で晩餐をし、マリヤは自分の結婚のために備えていた「非常に高価な、純粋のナルドの香油300グラムをとって、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエス様の足を拭った。」(ヨハネ12・3)。イスカリオテのユダはこれに腹を立てるのですが、イエス様は「埋葬の用意にと、わたしの身体に前もって油を塗ってくれたのです。・・・世界中のどこででも福音が述べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マルコ14・8.9)と言われました。

 イエス様は、ご自分が十字架に掛かられることを何度も話しているのですが、弟子たちは本気にはしません。それを感知し、自らの最も大切にしている高価な香油で十字架の備えをしたのは、乙女マリヤだけでした。女性も男性も結婚すると生活のことを優先し、信仰や神の国への飢え渇きが薄くなってしまうものですが、ここまで献身できる人は、めったにいるものではありません。だからこそ、世界と歴史上の記念になる行ないなのです。

 ともかく、イエス様は十字架に掛かるためにエルサレムに子ろばに乗って入られました。権力によるのではなく、十字架に掛かって人々の罪を身代わりに受けられる柔和な救い主としてだったのです。

 この時の人々の対応は、ラザロを墓から蘇らせた奇跡の救世主として、熱狂して迎えるものでした。自らの上着をイエス様の通られる道に敷き、シュロの葉を振りかざして大声で叫んで迎えたのでした。実際には、その4日後に、「イエスを殺せ。」と全く逆な行動を取る人々の、情勢に惑わされる利益目的の姿だったのです。

 イエス様はここで、有名な一粒の麦死なずば」の教えを弟子たちに語ります。自分のいのちの存続を願うということは無理なことです。どんなに健康であっても、突然死ぬことはあります。また、いつかは必ず死ぬのです。ところが、人は、自分のいのちを愛し、自分の命を長らえさせようとします。また、快楽を求め、利益を求めて、人を犠牲にします。それを罪、つまり自己中心というのです。

 その人が何を目的に生きているかは、その人の行動と人生に現れます。牧師やクリスチャンでさえ、自己利益の追求に信仰を利用している人は多いようです。巧妙に策を弄しても、誰もがその胡散臭さには気がつきます。気がつかないのは本人だけです。破綻する人生を歩んでいる人は、自己犠牲や忍耐ができません。自分の思う通りに計略し、交渉し、要求します。そして、喧嘩をし、興奮して、自ら滅びの道を進んでしまうのです。

 「この世で自分のいのちを憎む」とは、自分が自分の欲望によって生きてしまうということを自覚し、それが神を信じ、神に従うことと対立することを知っているからです。人々の行動とその結末を見ながら、わたしも本当にそのことを実感します。自分たちも気がついていて、誤ったり、弁解したり、物を贈ったりして償おうとするのですが、それで補えるほど人生と人の心は甘くありません。言い訳を言いながら罪を犯しても、結局は滅びて行くだけなのです。

 窃盗犯の犯罪とその弁解に関わったことがあります。裁判官というのは、本人の主張が誤魔化しや嘘であっても、黙って聞いていて、その記録をするそうです。本人は、ばれたことだけを白状するのですが、ばれていないと思っていることも、実は知られているのです。自分が心から、その犯罪を認め、犯罪人であることを嫌悪しなければ、更生の道は難しいようです。

 乙女マリヤがなぜ、自分の結婚のための香油をイエス様に注いだのか、分かりません。ともかく、大事な兄の命を救ってもらい、破綻してしまった兄妹3名の生活が、イエス様のお陰で、救われました。その感謝と喜びのために、一時はなくしてしまったことを覚悟した自分の人生を神に明渡すことを決めたのでしょう。

 わたしも、終末を前に、自らの牧師や社長としての地位を放棄し、新たな開拓と病める者へ仕える生活の準備をしなければならないと覚悟を始めています。既に功なり遂げつつある人生は、このままでは滅びに至りそうで、十字架を負う主の弟子・下僕の姿ではありません。権力を握り始めていることを自覚し、それを打ち捨てて主に従う道を求めるものです。


4月8日 裏切りを知っておられた。   マルコ14273166~72 
新改訳 マルコ 14:27 イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。

14:28
しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」

14:29
すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」

14:30
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」

14:31
ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。

マルコ14:66 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、

14:67
ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」

14:68
しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。

14:69
すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。

14:70
しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」

14:71
しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。

14:72
するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。



 12弟子のひとりユダがイエス様を裏切られることを、14章の18節で語っておられます。21節には、自分が神の国に去って行かれることを示しながら、「しかしい、人の子を裏切るような人間は災いです。そういう人は生まれなかった方が良かったのです。」と語り、ヨハネ福音書13章には裏切るのがユダであることを示し、「あなたがしようとしていることを今すぐしなさい。」(26)と促しておられます。ユダが外に出て行くと、「今こそ、人の子は栄光を受けました。」(31)と言われます。19節には、「そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。」と、ユダが裏切り、弟子たちもイエス様を見捨て、ご自分が十字架に掛かり、そして、復活されることを語っておくのです。

 曽野綾子の『幸せの才能』という本に、「イエスという方は、人を説教で改変させるという「趣味」をもっていなかった。イエスは、人たちをあるがままの姿で受け入れたが、厳密に人格改造を迫る要素は殆どない。」とあり、「世の中の人間関係には、相手に謝罪を要求して、それが聞かれたか聞かれなかったか、ということに情熱を掛けている場合が結構多い。自分から謝ろうとしない相手に無理やりに謝らせる場合、その要求には報復の気持ちが込められている。」と語っています。

 神が取って食べてはならないと言われたのは、善悪の知識の木の実です。「それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2・17)。ヤコブが、叔父ラバンから離れた時、言葉巧みなラバンに対して、「あなたはヤコブと事の善悪を論じないように気をつけよ。」(創世記31・24)と神が警告します。

 日本人は、人の人格の中に入りすぎるきらいがあります。例えば、子供が失敗したり、部下が失敗したりした時に、指導やアドバイスは、余分なことです。本人の反省と言葉を待てば良いのです。人はそれほど馬鹿ではないので、自分の失敗くらいは分かるのですが、人に批判や指導、攻撃をされると直そうとする意欲も失うことになります。子供にお説教をする親は間違いなく嫌われますし、お説教をする上司も敬遠されます。人を矯正するということは、神でもされないのに、分を越えているのではないかと考えます。

 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Uテモテ3・16)とありますが、そういうことが人に出来ると考えるのは傲慢かと思います。教育者や牧師が、「あの人はだめだ。変えなくてはならない。」と考えるとすれば、自己都合であり、まさに罪となります。

 さて、それではイエス様は、ユダを矯正されようとしたのでしょうか。イエス様は、ユダが使徒に相応しい人格と信仰をもっていると判断されましたが、ユダ自身が、サタンに惑わされて金銭欲に溺れてしまったのでしょう。もともと、ユダが裏切られると知っておられたというのは、神の全知性をもっても、人間の自由意思を踏みにじるものです。ですから、「あなたがしようとしていることを」というイエス様のユダへの最後の語りかけはユダの悔い改めを促す必死の願いであったと思うのです。しかし、裏切ろうとして行動したユダを見て、人の罪深さと自らの十字架の必要を痛感されたのです。

 それでは同じくイエス様を否定したペテロはどうなのでしょうか。ペテロも筆頭弟子とされていながら、どうしようもない人で、先程お読みになったように、他の人がすべて躓いても私は躓きませんと言っておきながら、呪いを掛けてイエスなんて知らない、と誓ってしまうようなダメ人間です。ユダも後悔していますから、ペテロとユダの違いは、積極的な悪をしたかどうかということでしょうか。

 次男が非行した時、結局のところ、何をしても息子を立ち直らせることはできませんでしたが、最後に、自分の息子とどこまでも一緒に生きて、責任を取り続けようと決心したのでした。子供を変える、成長させる、矯正させる、ということは親の自分勝手な要求と判断であって、神の目線や子供本人の願いとは異なるものです。私は、このように説教していても、正直のところ、皆さんをすばらしい信仰者に仕立て上げる自身など毛頭ありません。ダメな牧師で申し訳ないと思うばかりです。人を変えよう、矯正させようと立ち回る人々を見て、それが却って神の御旨と違っていたら、本人にとってはいらぬお節介だったら、などと心配します。

 人間の罪性というのは、矯正不可能なものだからこそ、イエス様がその全ての罪を負われて十字架で死なれたのです。努力や教えで人が救えるものならば、十字架はいりません。ペテロのような愚かな人間には、十字架の救いが自分のために必要であると受け入れることは十分でした。ユダは、自分は救いようがないとして自殺をしてしまったのです。

 教会というのは、罪人が自分の罪を認めて受け入れ合うところです。信者同士が矯正や指導をし合うところではありません。かと言って、自分の罪を認めない人を、調子よく仲間入りさせると、後で自分勝手な罪をおかしても悔い改めずにいたり、人を言葉巧みに責め続けることになります。

 「善悪を知る」ということは、「神のようになる」(創世記3・5)ことであり、サタンの誘惑であり、人を裁くのに巧みなことなのです。裏切られることに絶望してはいけません。愛する妻や家族、友人や知人から裏切られてもなにほどのことはありません。そして、その被害の故に十字架に付けられるような災いがあっても、「父よ、我が霊を御手に委ねます。」(ルカ23・46)と死んでいく覚悟をしていれば良いのです。そうしてこそ、神の大能による復活をあなた自身も体験するのです。


4月15日 永遠の命に備えて。   ヨハネ2024~31  
新改訳 ヨハネ

20:24
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。

20:25
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

20:26
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。

20:27
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

20:28
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

20:29
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

20:30
この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。

20:31
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。



 復活祭の先週の日曜日の午後に大宮教会の江草牧師が81歳で召されました。おとなしく口下手な先生でしたが、この日の礼拝説教では力強く話されたので、信徒が驚いたそうです。その説教要旨が告別式で配られました。

  復活と言うと、クリスチャンではない人は「まさか!とてもついていけない」と思われるかもしれません。しかし、記録によると少なくとも500人以上の人が復活後のイエスキリストに会っています。イエスの誕生を書いていない福音書はあっても、イエスの復活を書いていない福音書はなく、復活したイエスについて書くのが4つの福音書の本来の意図だったと言われています。イエスの復活は紛れもない事実です。そして、イエスの復活が、教会の基礎となり、信仰の根拠となりました。すべての人間は地上の人生が終わり、「死」を迎えます。しかし、イエスキリストの復活―死からのよみがえり―「新しい命」によって「死」が一切の終焉ではなく、「死」の向うに確かな希望が持てるようになりました。

 このように力強く説教し、復活祭の祝会をした後、3時過ぎに家に帰り、そのまま心不全で直ぐに召されたそうです。告別式に参加した牧師たちは、「牧師として最高の死に方だ。」と感嘆していました。永らく古く小さな会堂を使っていたようですが、区画整理で移転して新しい会堂を今年の12月に建てるということで、設計も予算も終わっていたところでしたから、うれしかったのでしょう。その後の成り行きも祝福されそうです。

 キリスト信仰ではない人々は、「死んだらおしまい。」と長生きをしようと一生懸命です。私たち夫婦は、キリスト教医療の理想はホスピスにあると考えています。永遠のいのちに至る死を導きながら、ターミナルケアが出来たら何と意味があることでしょう。ターミナルとは執着駅のことですが、始発駅でもあるわけです。皆さんは、キリストにあって魂を救われた者にとっては、肉体の死が、永遠のいのちへの出発でもあることを自覚しているでしょうか。

 トマスは、「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」(ヨハネ11・16)と言っていることからも、熱血漢であることがわかります。これは、ラザロの死を聞いて戻ろうとしておられるイエス様に対して、8節で、他の弟子たちが「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」と、危ぶむことに対する、トマスの真っ直ぐな決意です。

 14章では、ペテロに対して「あなたは三度わたしを知らないと言います。」と答えたのに動揺する弟子たちに対してイエス様が、「心を騒がせてはいけません。神を信じ、私を信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。・・・わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。・・・わたしの行く道はあなたがたも知っています。」と教えます。ところが、トマスは、「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。」と聞きます。現実主義のトマスには、天国の話などは考えてもみないのでしょう。

 「イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に蒔かれたままになっているのを見た。その時、先に墓についたもう一人の弟子も入ってきた。そして、見て、信じた。彼らはイエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」(20・7-9)。復活の日の夕方に弟子たちの所にイエス様が現れて、零体ではなく身体をもって蘇られたことを示されました。ところが、トマスは、その場におらず、そんなことが信じられるかと、弟子たちをなじりました。

 キリスト教が日曜日を礼拝の日とするのは、復活こそ聖書の教えの核心であり、単に十字架で私たちの罪をイエス様が負われたということで終わるのではなく、罪を贖っていただいた者には、永遠のいのちがあることを福音として強調するためなのです。疑うトマスの前にイエス様が現れたのも、1週間後の日曜日でした。

 週報の表紙の絵にあるように、イエス様はトマスの指を引いてご自分の脇の傷跡に触れさせようとされます。天国というのは、死んだ後の魂の安らぎの場所と言う、気休めのものではないのです。復活の教えは、天国に行くという、観念的なものではなく、現実の社会における永遠のいのちの力強さなのです。

 永遠のいのちを確信したらどうなるでしょうか。

1. 病気やけが、事故や災いが怖くなくなる。

2. この世の栄枯盛衰、失敗や苦労が問題ではなくなる。

3. 能力や権力、財産や立場で物事を処理しようとしなくなる。

4. 短期的な結果で物事を判断しなくなる。

5. 人の評価や自分の満足・欲望ではなく、神の御心を求めるようになる。

 最も疑ったトマスは、最も遠い国へ行き福音を伝えたそうです。インドへも行き、中国に景教として伝わった聖書の教えもトマスの伝道が元のようです。弘法大師として知られる空海も景教の教えに洗礼を受け、それまでの原始仏教とは違う真言宗を始め、キリストを大日如来として説明したという説が大きいようです。なお、大日如来とは、宇宙の本体であり、絶対の真理であるそうです。ただ、クリスチャンとしては、そういう歴史的な理解よりも、自らの復活信仰を確立することが大事です。


4月22日 心が内に燃えて。   ルカ2413~35  
ルカ 24:13-1825-32

24:13
ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。

24:14
そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。

24:15
話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。

24:16
しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

24:17
イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。

24:18
クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」

24:25
するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。

24:26
キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」

24:27
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

24:28
彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。

24:29
それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。

24:30
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。

24:31
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

24:32
そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

 エマオの途上の絵は好きなので、何度かお話しております。二人の弟子は、イエス様の復活の報告を聞いているのに信じないで暗い思いを持ち、エルサレムから離れるところです。信仰の友が、墓にイエス様の遺体がなくなっていることを確認し、天使にも会い、イエス様がよみがえられたと報告しても、信じられないで嫌になっているのです。先週お話したトマスと同じような弟子たちです。

 イエス様がその道を同行しているのにも関わらず、イエス様ご自身だとは思いもしないで否定的な言葉を口にしているのです。この二人に対して、イエス様は「愚かな人たち。聖書を信じない心の鈍い人たち。」と嘆き、聖書の解説をされました。それでも彼らはイエス様であることに気がつかない、愚かな人たちでした。イエス様が、パンを取って祝福の祈りをし、彼らに裂いて渡した時に、やっと「目が開かれ、イエスだとわかった。」(31)とあります。

 福音派の方々の説教は、彼らが信仰がなかったので、イエス様であることに気がつかず、復活を信じなかったのだと語ります。確かに、聖書を信じない心の鈍い人たち、とイエス様が怒るのですが、それでは信じるということは、どういうことなのでしょうか。

 ローマ10・17で「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです。」とあります。聖書のことばを適当に聞くのではなく、食料のように毎日何回も食べて、いのちの源として保たなくてはなりません。聖書のことばを読んだことがあるとか、理解しているとかでは、だめなのです。皆さんの中に、昨年食事をしたので、いまでも生きていられるという人はいるでしょうか。食事は毎日摂らなければ生きてはいけないのです。同様に永遠の命を週に1回礼拝の時だけ、少し聞いて、それでいのちを保とうとするのは無理な話です。

 弟子たちは、復活を知っていたのに、それを「話しあったり、論じあったりして」イエス様にも気がつかず、「暗い顔つき」をしていたのです。聖書の内容を知っているということと、聖書のことばを自らの永遠のいのちとして神からの語り掛けを聞くということとは全く違うことなのです。

 聖書を通読しているとか、読んでいるとかいう人々は多いのですが、聖書のことばを通して神と語り合い、神に聞くというデボーションをしていない場合が多いのです。

 デボーションとは、聖書を読みながら、自分の生活に関わる神の御旨について思いを巡らせることであり、神に聞き従うことを受け入れることです。要するに神との交流です。二人の弟子は、自分の思いに囚われていたので、イエス様が共におられるのに、それに気がつかず、悩み苦しんで、愚痴をこぼしていただけなのです。ところが、イエス様からパンを受け取った時に、イエス様であることがわかったのです。自分の思いに囚われている間は、イエス様がすぐ傍に居られても気がつかずに悩んでしまうのです。

 最近気になることは、現代人はニュースや情報に多くの時間を割いているが、自分自身の心を育てることや考えること、黙想すること、神に聞くことなどは殆どしていないということです。更に、日本人は、他人のことに関心や干渉をし過ぎます。

 先日お話しましたように善悪の基準というのは、自分に当てはめるよりも他人に当てはめて批判や指導をすることが多いので、善悪を知る木から実を食べることが罪の始まりであるのです。善悪の基準を自分の身において謙遜かつ誠実に過ごすならば、いのちの実を得るのですが、どうも他人のことにおいてしまうのです。

 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それはキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6・4)。デボーションというのは、自分の古い生き方を脱ぎ捨て、或いは死んで、神にある新しい生き方を身につけるということなのです。

 「自分は変わらなければならない。成長しなければならない。」という考え方は、自分を追い込むだけで、暗い顔つきになります。人間の判断というのは、大したものではありません。能力のあると思い込んでいる人が、自分の欠点を見ずにおごり高ぶるだけのものです。

 自分、というものにこだわらないで、神のことば、聖書に自分を委ねるのです。自分というものを、捨てるのです。自分は、どうしようもない罪人なので、イエス様と一緒に、十字架で死ぬのです。

 新しい歩みというものは、自分に拘泥しないで、自分の能力や性格、働きや過去などに未練を残さず、捨て去るから出来るのです。デボーションは、その導きを神との語り合いによって、行うから、私たちを神の人に導くのです。心が内に燃えて生きることをお勧めします。


4月29日 あなたに関わりないこと。   ヨハネ2115~22 
新改訳 ヨハネ21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

21:16
イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

21:17
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

21:18
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

21:19
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

21:20
ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。

21:21
ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」

21:22
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」


 1972年にテレビ時代劇の木枯らし紋次郎が流行りました。私の故郷の前橋市のすぐ傍の太田市藪塚がその三日月村でした。上州というのは田んぼがなく、畑も出来ずに桑畑ばっかりという空っ風の吹きすさぶ貧しい地方です。紋次郎が間引かれる所を姉に救われたけれど、「穀つぶし」として厄介がられ10歳時に家を出て渡世人となったというスト―リです。貧しい地方では、子供を育てる食料がないので、最低限の子を育て、一生懸命働いても、報いもない人生が当然でした。

 紋次郎が、「あっしには関わり合いのねえことで。」と人とは関わり合いを持たないようにしながらも、結局は命掛けで人を助けることになるストーリが貧しさの中から抜け出してきた人々には受けたのでしょう。1983年の「おしん」なども、同様でしょう。私も小さい頃は、8畳と4畳半の家に一家8人が住んでいて、狭い中を住んでいたことを覚えています。近所にはバラックがあり、汚れたボロボロの服を着ていた子供もいました。突然いなくなり、どうしたのかと驚きながら、貧しさの怖さを感じていました。

 さて、弟子たちはよみがえりの主には会いましたが、どうしてよいのかわからず、もうイエス様と共に教えの旅に出ることもないと思い、3年前までしていた漁に行こうとしました。夜通し漁をしても、気が乗らないので何もとれず、嫌になるばかりでした。

 明け方の靄の中でイエス様に語りかけられ、誰であるかもわからずに、指示の通りに網を降ろすと大漁となり、イエス様であることがわかりました。岸辺でイエス様は魚を焼き、パンを備えて空腹の弟子たちの心と体を満たしてくださいました。食事を済ませてから、こらまでのようにイエス様に話しかけられないペテロに対してイエス様は、「ペテロよ。わたしを愛するか。」と聞きます。「はい。」とおじおじと答えるペテロに対して、イエス様は3度質問を繰り返し、そのたびに「わたしの羊を世話しなさい。」と命じます。

 前にお話ししたように3度も呪いを掛けてイエス様とは関係がないと言ってしまったのですから、ペテロの自責の念は大きいものでした。恐怖心は、人を思わぬ過激な行動に至らせてしまいます。イエス様は、ペテロの罪責感をぬぐい、新たな使命を与えることで前進させようとされたのです。

先日読んだ本で、3万人アンケートで殆どの人が過去の失敗に囚われており、その自責、言い訳、後悔をいつまでも言い続けるとありました。また、それが原因で前進するということができないそうです。他方、過去の失敗をすっかり忘れたり、無視して生きている人々は、愚かな無責任な人になって迷惑を掛けます。過去の失敗を踏まえ、自分の弱さを認めて、過ちを繰り返さない人こそ、失敗が益になるのです。

 それでは、そのように慰め、励ましたペテロはどんな人生を送ることになるのでしょうか。

 表紙に絵を載せましたが、ペテロが腰を縛られ引っ張られながら、殴られています。自分の行きたくない所へ行き、やりたくないことをしなければならないとイエス様に言われるのです。

 ペテロは、自分がそのような人生を送るのなら、若いヨハネはどのような人生を送るのですか、と聞きます。イエス様は、「あなたには何の関わりもない。ただ、あなたはわたしに従いなさい。」と命じられます。

 わたしたちは、他の人の生き方を見て参考にし、他の人の意見を聞いて生きようとします。先日、自分の人生を振り返りました。全く予想外の人生で、自分も周囲も家族も想像できないようなことになっています。水中ウォークをしながら考えました。「人の目やうわさを気にして生きることはやめよう。既に基準を外れた人生を生きている。神だけを畏れて、自らのなすべきことをしよう。」

 ペテロは、自分の悲惨な人生が心配でしたが、「ヨハネも同じならば・・・」と考えたのでしょう。能力や財産、立場や評判、健康や仕事量など、考えればきりがありません。老いも感じるようになりました。しかし、神は言われます。「わたしに従いなさい。」

 神に従うということは、凄いこと、自慢になるようなことではありません。それは、人に引っ張られ、やりたくないこと、行きたくないことをしなければなりません。そして、報いもなく、こつこつとするのです。

 プールで自分が中一の春に、神に向かって祈り叫んだことを思い出しました。「平凡な人生は生きたくない。神が居られるならば、艱難辛苦があっても良いので、死ぬ時に満足のいくような人生を送らせて下さい。」

 天地創造の神を私が知らなくても、その時、神様は聞いていてくださったと悟りました。その後、逃げたくなるようなことが何回もあり、罪を犯しそうなことも何回もありました。しかし、不思議に神が導いて下さったのです。そして、自分がそれを選んできたことも、はっきりと覚えています。

 あなた自身の人生を生き、人の目を気にしてはいけません。他人の目は、「あなたに何の関わりがあるでしょう。」


5月6日 みたま命!   ローマ書812~17節   田中清人師

新改訳 ロマ 8:12-17

8:12
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

8:13
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

8:14
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

8:15
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

8:16
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

8:17
もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。


5月13日 あなたの母を楽しませよ!   箴言2322~26  

箴言23:22 あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。

23:23
真理を買え。それを売ってはならない。知恵と訓戒と悟りも。

23:24
正しい者の父は大いに楽しみ、知恵のある子を生んだ者はその子を喜ぶ。

23:25
あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。

23:26
わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ。


申命記516 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。


 母の日の祈りの中で、表題を思わせられました。聖書には、「あなたの父と母を敬え」とありますが、9人兄弟の末子で父45歳、母42歳の時に生まれた私は、「よくぞ産んでくださった。」という思いと共に、老齢になっている両親に対する労わりの気持ちが常にありました。両親を喜ばせるということは、自分の人生の支えであり、親を嘆かせてはいけない、という思いが、私にとってこの世の誘惑からの防波堤でした。

 新婚の時、母を横浜の三景園に連れて行って喜んでくれたことが忘れられません。年老いた母であることを意識させまいと、少しヒールの高いサンダルを履いて広い園の中を歩き回り、足に負担であることに妻が気付いてケアをしたことがうれしく、また申し訳ない思い出です。正月に両親を家族と一緒に栃木の温泉に招いた時は、子供たちが交代で肩をもんであげたりして、母が涙を流して喜んでくれました。妻の両親も、乗りたがっていた霞ヶ浦の高速船にお供して、愛想の悪い義父があれこれと私に注文を言うのを義母が申し訳なさそうにしていたのが、初めての親子の交流だったと思います。その後、水郷めぐりや入院の世話などで、すっかり信頼されるようになりました。

 親に注文し、要求してばかりいる人は、幸せになれません。23節にあるように、真理というのは、犠牲を払って勝ち取るものであって、要求するものではありません。私の親が、私に立身出世や成績の良さを求めなかったことは、その後の私の生き方に強い影響を与えています。私の母は、私が幸せになることを望んでいたのであって、そのために自分を献げてくれました。今は、妻がそのような母になって子供たちの幸せを心から願っていることをうれしく思います。

 さて、自分の産んだ子を自分の子として育てられなかった母親がおります。出エジプト記の2章に、「生まれた男の子はナイルに投げ込まなければならない。」という命令にも関わらず、3ヶ月隠して育てていたのが、モーセの母親です。隠しきれずないので、水の漏れ出ない籠に入れて、ナイル川岸の茂みに浮かべます。神の配慮の中で、丁度水浴びに来たパロの娘によって助けられ、姉のミリアムの機転で実の母が乳母として雇われます。

 男の子を出産した夫婦は多かったけれど、モーセの両親は罰せられるのを覚悟で育てようとし、またナイルに流すとしても神の手に委ねて見守るのです。法律や制度にしても、或いは決めたことにしても、神の助けと導きを求めることが大事です。

 王家の子として育てられたモーセが、実はイスラエル人であることは、実の母である乳母から聞いていたと思います。パロの娘も気がついていたことでしょう。そういう面では、このパロの娘は、大変な人物であり、神に選ばれた人でしょう。イスラエル人の男の赤子殺害命令に反発して、その子を自分の子として育てたのですから、確かにモーセの偉大な母でありました。実母もまた、罰を覚悟して、モーセにイスラエル人教育を施したのは間違いありません。

 親に権威があるというのは、子供の為に自らの命、財産、名誉など全てを犠牲にする覚悟があるからであると、私は思います。親は、子供を自分の名誉や意地、自慢のために育ててはいけません。そのような子は、親をも自分のために利用しようとするでしょう。

 モーセはミデヤン人の祭司の娘チッポラと結婚し、息子を得ます。チッポラは、イスラエルの習慣に従わずに息子に割礼を施しませんでした。モーセも、自分がイスラエル人なのか、エジプト人なのか、あいまいに過ごし、ミデヤンの習慣に従っていました。

 しかし、神はモーセに語り掛け、エジプトから同胞を引き出す使命を与えます。この時、モーセに兄のアロンがいることを確認しているので、モーセは自分の家族が誰であるか知っていたことになります。そして、チッポラと息子を連れて、エジプトに近づく時、モーセが主に殺されそうになります。ここは、聖書を読むのに難解な所ですが、チッポラは、息子に割礼を施していない不信仰な態度が神の裁きにあうことを悟り、直ちに息子に割礼を施すのです。信仰者として息子への中途半端な態度が、神の僕としては死に値するということに気がついたのです。

 聖書は「父と母を敬いなさい。」と命じますが、実は、その言葉には、「父と母よ、子供たちに敬われるような生き方をしなさい。」という強い真理の意味合いがあるのです。決して子供を利用するような育て方をしてはいけません。神と人との前に謙遜に歩み、親を敬い喜ばせるような生き方をしなければ、その人の人生は意味がないのです。

 子供のない夫婦もいれば、独身で老齢になっている方もいますが、それでも神の人として、中途半端な生き方をしてはならないのです。子供が自分たち中心の生き方をしているのならば、それは、あなたがそのような生き方をしたからなのです。人を愛し、人に喜ばれるような生き方をすることを生きがいとするように人々に影響を与えて行かなければならないのです。


5月20日 あなたがたは力を受けます!   使徒1章3~11 
新改訳 使 1:3-11

1:3
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。

1:4
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

1:5
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

1:6
そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

1:7
イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。

1:8
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

1:9
こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

1:10
イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

1:11
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」



 イエス様の一番弟子として自慢したり、争ったりした挙句に、イエス様とは関係ないと裏切ったりしたペテロをはじめとする弟子たちでしたが、イエス様は、手厚く彼らをケアし、教えました。それでも、自分が悲壮な人生を送るとなると、やはり拒みたくなるような人間臭い、あまり大したことのない弟子たちでした。それでも40日の間、弟子たちに神の国のことを語り、永遠のいのちと復活の約束を明らかにしました。

 生身の人間というのは、たわいもなく弱く、未熟なものなのです。英雄伝や伝記など、超人的な人物像を書き連ねて、人間を祭り上げるものは注意をするべきです。ゴシップやスキャンダルを過大過激に書き記した雑誌などが売れるのは、人の弱みを知りたがる人間の罪性の故ですが、人間を過大評価するものも、元は同じです。

 「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。悪を行う者は邪悪な唇に聞き入り、偽り者は人を傷つける舌に耳を傾ける。貧しい者をあざける者は自分の作り主をそしる。人の災害を喜ぶ者は罰を免れない。」(箴言17・3-5

 伊集院静が、「震災の時の東北の人たちの律儀さや忍耐深さを、外国ばかりでなく国内でも大きく取り上げているが、そういうものは黙っているものだ。」と言う。家族の遺体が発見された時に、「見つかっただけ幸せだ。」という言葉の背後に、まだ遺体が見つかっていない人々に対する配慮があるから言うので、「幸せだ。」と思っているはずがない。ただ、悲しんだり、苦しんだりしては、他の人に迷惑だから、耐えているのだという言葉が身にしみました。彼は、鮨屋で子供が注文をするのを見たら、頭を黙って殴り付ける、と言います。

 人の苦しみ弱みに付け込んで、偉そうなことを言ったり、論評したり、悲しそうなふりをする人間が私も好きではありません。他人や組織の財力を、立場を利用して、災害につぎ込んでも、その人自身が、犠牲を払っていなければ、偽善でしかありません。人の不幸や災い、病気や苦しみに応答して、自らも苦しみの中に飛び込む人は、少なくなってきました。

 「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(Uコリント8・1)とありますが、聖書を用いても屁理屈は言えます。私は、犠牲を払えない人を好きではありません。そういう面では、立派そうな牧師たちが、嫌になることもあります。なぜ、こうも日本の牧師さんたちは、おしゃべりが好きなのでしょう。自慢や批判も、神の裁きを免れません。当教団の牧師さんたちも、私の説教を読んでいるそうですから、覚えておいてください。綺麗ごとを言う人は好きではありません。

 神が望むことは、十字架を負うことであり、犠牲を払うことであり、受けるよりも与えることです。牧師は誰よりも、人に与えるべき存在です。牧師は、信者の献金に依存しているので、牧師のために献げて奉仕をするべきだ、などと言う牧師は似非です。そんなことで信仰者が育つはずがありません。

 私たちが力を受けるのは、何の為でしょうか。福音を伝えるためです。福音を伝えるということは、どういうことでしょうか。人々を助け、人々のために祈り、人々のために犠牲を払うことによって、自分ではなく神が働いてくださることなのです。論理で神を信じるほど、人間は愚かではありません。

 マリヤ・クリニックの患者さんで、他の病院や精神科で「もう来るな。」と言われた人が多くおります。私の妻は、凄いと思いました。他と同じように、それらの患者さんから言いたいように言われ、攻撃され、好き勝手に行動されながらも、話を聞き、治療を続けているのです。神の僕でなければ、できることではありません。

 患者さんは、そういう場合でも耐えるのですが、従業員が同じようだと、修羅場になってしまいます。自分勝手で訓練の難しい従業員をそのまま我慢すると、組織が崩壊し、治療が進まなくなってしまいます。同様に、クリスチャンが、自分勝手で訓練を受けず、神の僕としての歩みをしないと、福音がめちゃくちゃになってしまいます。

 どうしようもなかったペテロは、聖霊がいつも臨み続けることによって、神の僕としての偉大な働きをすることができたのです。一度だけ、聖霊が臨んで力を受けたのではありません。聖霊のバプテスマは、その力を受ける最初の出来ごとです。そして、その後、聖霊に満たされ続けるのです。 

 「ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。」(4・8

 「一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」(4・31

 「聖霊に満たされたステパノは、天を見つめ、神の栄光と神の右に」(7・55

 「主イエスが私を遣わされました。聖霊に満たされるためです。」(9・17

 「サウロは聖霊に満たされ、彼を睨みつけて」(13・9

 「弟子たちは、喜びと聖霊に満たされていた。」(13・52


5月27日 終わりの日に聖霊を注ぐ   使徒214~24 

新改訳 使徒2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。

2:15
今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。

2:16
これは、預言者ヨエルによって語られた事です。

2:17
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

2:18
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

2:19
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。

2:20
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

2:21
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』

2:22
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。

2:23
あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。

2:24
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。


 放射線の内部被曝の害と対策について、まとめていますが、人々の緊張感の無さが気になります。内部被曝は外部被ばくの700倍ほどのダメージを身体に与えますから、今後、多くの人がガンになっていくでしょう。しかし、日本人の半数はガンになるのですから、それが放射能によるものかどうか、説明は困難になります。

 携帯のゲームで数十万円の請求が来たということですが、毎月数百円で映画やテレビドラマやアニメを見られるというようになったそうです。こんなに見る時間がある人間はどんな人だろうと思いました。生活が破壊するに決まっています。ゲームや映画やテレビを見続けたら、掃除洗濯買い物、そして育児や趣味、健康管理など出来なくなるに決まっています。

 他方、仕事の拘束時間は増え、その成果に責任を持つような仕事は少なくなり、家族も憩いや交流が少なくなってきています。国を憂うる政治家は、いなくなり、明日を目指す企業家もいなくなりつつあります。更に、宗教指導者の緊張感の無さが気になります。

 国を憂え、明日の希望のために自らの命を費やす、そういう人々が日本をここまで築き上げたのだと思いますが、今やそういうことを考え、ひたむきに自らを鞭打って国や神の為に生きる人々は、どこにいるのでしょうか。東北地方の牧師や信者が一生懸命頑張っているのとは別に、日々の暮らしに追いまくられている牧師や信者もおります。

 私は、今は終わりの時代だと信じております。だからこそ、聖霊が私たちに注いだのです。天変地異も続いています。ある人々は、「そういうふうに人々を脅して伝道をしてはいけない」、と言います。また、「キリスト教は御利益宗教ではないので、癒しや奇跡そして、祝福を強調するべきでない。」という人もおります。しかし、聖書は、聖霊のバプテスマが与えられるのは終わりの時代であると、17節に記してあります。そして、聖霊による多くの奇跡や癒しや祝福が、伝道と共に起こっています。

 私自身は内部被曝の可能性があります。昨年の百日咳に続いて、今年も咳が2ヶ月以上続いて、夜眠れません。神からは、「聖霊に従って真剣に生きろ!」というお達しだと受け留めています。実は、「自分は内部被曝だ。」と気がついた翌日に、詩編91編を書き記した手紙が、クリスチャンの患者さんから届きました。これは、私が不整脈で倒れた時に、聖霊によって幻で与えられた聖句です。「千人があなたの傍らに倒れても・・・あなたには近づかない。・・・災いは、あなたにふりかからず、えやみもあなたの天幕に近づかない。」神は、凄いことをされると、また感慨深く受け留めました。

 先週も試練がありました。最近は、試練など毎週、毎月あります。昔は、それを克服し、信仰を持つまでに数カ月かかることもありましたが、今は、生きるのも死ぬのも、勝利も敗北も神に委ねて最善を尽くしているので、あまり手間取りません。神は、私と共に居られ、私も神と共にいることを最大の関心にしております。イエス様の戒めを保ち、それを守る人は、イエス様を愛するからです。イエス様を愛する人は父なる神に愛され、イエス様も愛してくださり、イエス様ご自身をその人に現わしてくださいます。(ヨハネ14・20-21

 聖霊のバプテスマを受けるのは、何のためでしょうか。

1. 聖霊は助け主なのです(ヨハネ14・16)。助けを必要とする人生を歩んでください。無難な人生を送ろうとする人に神は、助けを送りません。

2. 真理の御霊です(17)。全てのことを教え、導いてくださいます。

3. 御霊の実を与えてくださいます(ガラテヤ5・22.23)。愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制です。黙っていて、実るのではなく、サタンの誘惑を断ち、聖霊によって祈り、御ことばに立ち、信仰によって生きる人のみが実らせることができるのです。

 ペテロたち使徒は、自分たちの能力や力では、生きていけないことを悟ったのです。だからこそ、聖霊のバプテスマを与えられるために祈りに専念していたのです。

 あなたが聖霊に満たされ、神の使命に生きるならば、落ちる飛行機にあなたを乗せないでしょう。地震が来ても、津波が来ても、事故が起きても、あなたは助かるでしょう。超自然とは、神を信じる人には、神が全てを働かせて、その願いを聞いてくださることであり、助けてくださることなのです。

 私には、まだ果たすべき使命が多く残っていると思いますし、そのことに自らを献げて生きています。ですからガンなどに侵されることはないと信じています。人間ドックとか検診とか、いくらお金を掛けても、わからない病気はあり、いくら人知を尽くしても治らない病気があります。しかし、神には、できないことはない、と聖書は言っています。


6月3日 この曲がった時代から救われる   使徒237~47  
使徒2:37-47

2:37
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。

2:38
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

2:39
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

2:40
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。

2:41
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

2:42
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

2:43
そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。

2:44
信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。

2:45
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。

2:46
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

2:47
神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。


 ドラクロアの「民衆を率いる自由の女神」という絵を御存知でしょうか。男たちの屍を乗り越えて、胸も露わな乙女が、右手に3色旗を掲げ、左手に銃を持って男たちを先導して戦いに向かっています。この3色旗は、自由・平等・博愛を意味し、後にフランス国旗となります。ナポレオン没落後のブルボン王朝を終わらせた7月革命(1830)に興奮して、ドラクロアが書いたものです。

 学生や労働者を中心にしたパリの民衆の、シャルル10世の王制に対する反乱で、武力もないので政府は楽観視していたのですが、軍が心情的に民衆の味方なので鎮圧できるはずもなく、抑圧されていた労働者や農民の決起は、ヨーロッパ全域に影響を与えていったのでした。

一つのパンを飢えた子供たちの為に盗んで19年もの投獄を受けたジャン・バルジャンの物語『レ・ミゼラブル』は、この時代を背景としています。なお、当時は精神病者は罪人として牢獄に入れられていました。フィリップ・ピネルという精神科医は「精神病者を鎖から解き放った」初めての医師として知られています。200年経った今、同じようになっているのは、誰の責任でしょうか。

 人生は、神からいろいろな課題を与えられた一人一人の試金石かと、私は考えています。自然の災害もあり、社会の不法もあり、一人一人には誘惑が付きまといます。貧乏であろうと裕福であろうと試練はあり、能力があろうとなかろうと、同じように誘惑があります。正義を唱えて権力を握った人が、不正を犯すことは、よくあることです。愛に燃えて結婚して直ぐに、不倫を犯す人もいます。美しい人は、さらに美しくなろうと悩みは絶えません。美しさを諦めた人は、自堕落に歩むことも多くあります。つまり、状態や状況というのは、神の前の人として、何の言い訳にもならないのであります。

 ところが、人は社会の成り行き、人々の不徳を見ているうちに慣れて、不義を悟ることなく、不正に歩むようになります。だからこそ、イエス様は、「金持ちが天の御国に入るのは難しい」(マタイ19・23)と言われ、「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(マタイ5・20)と宣言されたのです。

 神がいなければ、なんでもない社会の標準を覆し、「天国には入れない。」という絶対基準を示したのです。ですから、「自分はクリスチャンとしては、よくやっている。」などと考える人は、神の義を理解していない人として、既に神の国の基準から外れる覚悟をしなければなりません。神の国の基準は、功績ではなく、状態なのです。

 歳を取ると、そのことが明らかになってきます。自分の功績や過去の話をする人は、神の基準を忘れて、昔の努力によって既に神の国の入国資格を得たような錯覚に陥っているようです。「歳をとってまで、そんなことは厳しすぎる。」と思う方もいると思いますが、確かに、「この人は神の国に相応しい。」と思うご老人は多くいるものです。

 「この時代は曲がっている。」と感じるのは、神の国を求めるからこそです。そして、それは、奇跡や不思議による神の顕現によって、強く感じます。当然、感じない人もおります。大地震と原発事故によって命の危険を感じた人も多かったことだと思います。しかし、今も同様に、いのちの尊さを意識し続け、如何に生きるべきかと考えている人は少ないのです。

 劇場化の時代にあって、災害も悲劇も、身近なもの、自分に関わるものとして意識しづらいようになりました。おそらく、この初代教会発祥のペンテコステの出来事が、東京のある場所で現実に起こったとしても、現代の人々は、ニュースとしてしか捉えないでしょう。

 フランス革命というものが、なんでもない人々の決起によって、労働者や農民の解放だけでなく、精神病者の開放にも至ったことは、凄いことです。アメリカに贈られた自由の女神の像が、アメリカ人の国家意識を今でも形成していることは、凄いと思います。

 日本は、志士や英雄によって、国が変わって来ましたが、国民一人一人の意識というのは、指導者依存であることに変わりがありません。指導者依存の考え方から起こるのは、堕落した指導者なのです。例えば、牧師を特別扱いする考え方から、日本のキリスト教が健全なものになることは難しいでしょう。

 今日の聖句の後半は、共同生活であり、神の家族の暮らしぶりです。立派な人格者が必要なのではなく、互いに助け合い、神を意識して、謙遜な人生を送ることが大事なのです。

 私には、精神病者を虐げている現代の医療や社会は、民の一人として、変えなければならないと考えております。放射能の被害も同様です。神を信じ、仕える者として、弱者や病者、障害者が、損なわれるのは、変えて行き、助けて行かなければならないのです。曲がった時代から救われるということは、曲がった考え方から抜け出して、神の国の住民として生きるということなのです。


6月10日 私にあるものをあげよう。   使徒31~12節 

使徒の働き3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

3:2
すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。

3:3
彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。

3:4
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。

3:5
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。

3:6
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、

3:7
彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

3:8
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

3:9
人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。

3:10
そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

3:11
この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。

3:12
ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。


ペテロとヨハネは、イエス様の宣教の後半から親密になり、2大弟子として特別に扱われるようになりました。当初は、それぞれの兄弟と一緒に動いていたようですが、使徒としてはこの二人と追加して神に選ばれたパウロが大きな活躍をすることになります。ペテロは、イエス様を否定することなど絶対にないと言いながら、3度も否定してしまい、復活の主に会っても、なんとなく自信がなくおどおどしていました。ところが、聖霊のバプテスマを受けた後の大胆かつ論理的、そして何よりも聖霊に満たされた説教に、人々はたちどころに悔い改めて3千人が弟子となったのでした。

 ヨハネは最年少ですから、イエス様に寄り添いながらも、年長の弟子たちの様子を見つめていました。自分のことを言って申し訳ありませんが、私は9人兄弟の末子で、長女とは21歳も離れています。小さい頃から、兄や姉の言動や状況、そして、家に訪れる多くの人々を見つめて育ちました。

 生まれつきの性格があり、能力も違います。人間そんなに変わるものではありません。ただ、自分のことを言いますと、子供の頃と性格も能力も全く違います。神経質で短気で甘えん坊で、運動も音楽もできず、小太りの平凡な子でした。貧乏だったので、教養などは縁遠く、音楽と言えば、テレビで流れる歌謡曲くらいしか知りません。

 そんな私が小学の卒業文集で書いた「平凡なつまらない人生を暮らすだろう。」という自らの言葉に歯ぎしりするくらい恥じて、「二度とこんなことを言うまい。何もしないで恥じるよりも、恥を覚悟して精一杯の人生を生きるべきだ。」と決意したのは、今から思うと、聖霊が働いたのかと考えます。自己改造を決意して、まず苦手な音楽を習おうと吹奏楽部に入り、短気と神経質を変えようと、殆ど私のことを知らない学級の中で面白い人間になろうと努力しました。英語というのは、環境が悪いと全くわからないものですが、3年生になってがむしゃらに勉強し、憑きものが取れたように優秀になりました。滑り止めなどというものはなく、県下一の高校に入り、中学校の時よりも良い成績に驚きました。集中すると人間の能力は延びるものです。生徒会に立候補し、落選しても次には当選し、リーダーになると共に、成績も県で10番以内を何回か取り、調子に乗ったものです。

 ところが、大学入試の時に高熱が出て、滑り止めの横浜市大に入ることになり、全ての人生計画が挫折したようでしたが、7年間も一生懸命生きる努力をすると、あまり変わることもなく、学生運動の委員長や生協活動など、多方面に活躍しました。大学でも知られたリーダーになっていったコンパで、酔った友人から嫌味を言われて、「こんなに人の世話をしても、悪口を言われるのだ。」と馬鹿らしくなりました。そのころは、人生と社会が見えてきて、「努力しても、どうせつまらない生活を送るのだろう。」とやる気が失せてきました。何をしても虚しく、麻雀やパチンコ、そして酒を飲みながら、適当に生きるようになってくる自分が歯がゆかったものです。

 そして、キリストに出会ったのでした。「宗教というのは、アヘンのようなものだ。接するのは良いけれど、深入りしてはならない。」と自分を戒めながらも、聖霊が私に働き続けました。人に教えられ導かれて救われたのではなく、神に自ら迫って救われました。学生聖研でヨセフのことを説明すると聖霊に満たされて流暢に御ことばを語っていました。聖霊のバプテスマも説明なしに与えられ、そして洗礼の時は導いた友人と一緒でした。その後のことは、皆さんご存じでしょう。今あるは、ただ神の恵みと導きです。

 人の能力や力は、限りがあります。多くの人が一生懸命努力をします。そして、地位や財産を築き上げます。しかし、それは神の目から見たら、何の意味もないのです。教皇が多くの財産を教会に集めて、「金銀は私たちに無い、などと言うことはもうなくなった。」と言った時、トマス・アクィナスが、「はい、そして教会はイエスの名によって歩きなさい。」と言えなくなりました、と答えたというジョークがあります。

 人は自分の能力や努力によって生きたがります。「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10・22)という奥義を悟る必要があります。パウロは、「もし、福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。」(Tコリント9.16)と言っています。

 私は皆さんに、「牧師になれ、献身しろ」と言っているのではありません。「聖霊に導かれて生きなければ、そんな生活は何の意味もない。神は、この社会に生きる私たちクリスチャンに日々語り掛け、神の働きをするように導いて居られる。」ということが真実なのです。

 金銀を人に上げても、人を助けても、善行をしても、一生懸命働いても、それはそれで地上の報いはあるでしょう。しかし、それで人々は、死んでいくだけなのです。いや、むしろ、罪は彼らを地獄へと導いていくのです。先日、咳が酷くて眠れない夜に悔い改めました。自分の在り方と人生を肯定してしまっていたのです。

自らの信念や歩みなど、神の前では何ほどのこともありません。ただ神に従い、神の国に繋がる働きを、神の僕として、果たさなければならないのです。「私は誰に対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、全ての人の奴隷となりました。」「私にどんな報いがあるでしょう。それは福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。」(Tコリント9・19.18

 ペテロは、自分にあるのは、ただ主に従い、主が働かれるために、それを宣言することであると知ったのです。「自分の力とか信仰深さとかによって、彼を歩かせた」のではないのです。神の働きを宣言しましょう。信じましょう。あとは、神がやってくださいます。恐れてはいけません。自分を見るから恐れるのです。


6月17日 父の悲しみ。   レビ記101~20節 

新改訳 レビ 10:1-20

10:1
さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。

10:2
すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。

10:3
それで、モーセはアロンに言った。「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』」それゆえ、アロンは黙っていた。

10:4
モーセはアロンのおじウジエルの子ミシャエルとエルツァファンを呼び寄せ、彼らに言った。「進み出て、あなたがたの身内の者たちを聖所の前から宿営の外に運び出しなさい。」

10:5
彼らは進み出て、モーセが言ったように、彼らの長服をつかんで彼らを宿営の外に運び出した。

10:16
モーセは罪のためのいけにえのやぎをけんめいに捜した。しかし、もう、焼かれてしまっていた。すると、モーセはアロンの子で生き残ったエルアザルとイタマルに怒って言った。

10:17
「どうして、あなたがたは聖なる所でその罪のためのいけにえを食べなかったのか。それは最も聖なるものなのだ。それは、会衆の咎を除き、主の前で彼らのために贖いをするために、あなたがたに賜わったのだ。

10:18
その血は、聖所の中に携え入れられなかったではないか。あなたがたは、私が命じたように、それを聖所で食べなければならなかったのだ。」

10:19
そこで、アロンはモーセに告げた。「ああ、きょう彼らがその罪のためのいけにえ、全焼のいけにえを、主の前にささげました。それでこういうことが私の身にふりかかったのです。もしきょう私が罪のためのいけにえを食べていたら、主のみこころにかなったのでしょうか。」

10:20
モーセはこれを聞き、それでよいとした。


 現代社会の腐敗と頽廃を憂えることが続きます。放射能に関する隠ぺいと無責任な対策、原発の稼働に関する誤魔化し、消費税や福祉に関するご都合主義、・・・きりがありません。今週の治療の会では、ストレスに対して安易に向精神薬を処方するという傾向と法律の制定の危険性を述べます。そして向精神薬の添付文書には、多くの副作用が記されていますが、抗うつ剤の副作用にうつになると書いてあるのには驚きます。指導者・責任者が無責任になり、道徳感、倫理感を失っているのです。

 それは父が子を諌めるということがなくなったからだと思います。道徳感や倫理感は生活の中で家庭で育つものであり、特に父親の影響が大きいと思います。家庭内に淫らな本や雑誌を持ちこむのは論外であり、くだらないテレビを笑いながら見ていて、子供が健全に育つとは思えません。

父も母も、自分のいのちと人生を子供に注ぐことによって、神から預けられた使命を全うするのです。自分のいのちを自分のものとした人生は、永遠のいのちを失うのです。「女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」(Tテモテ2・15)とあるように、子を産むだけで救われるのではありません。男は、どうすれば救われるのでしょうか。信仰と愛と聖さは当然のものとして、子にいのちを注ぐことかと私は思います。

 子供を持つということは、人生に重荷を持つようなものです。三浦綾子の「病めるときも」という小説に、婚約者が結婚式で発狂し、その後にお手伝いの女性を身ごもらせた子供を育てたものの、その子も熱性脳症になって知能障害者になった明子というクリスチャンが描かれています。祖父に明子が「どうして、わたしは、こんな苦しい目にあわなければいけないの。」と聞くと、「大きな苦難にあっているというのは、神様の側からみると、お前はそれを負うことのできる力のある人間だということではないかな。この世の偉大な人間で苦しみに遇わなかった人は一人もいない。つまり、試練なのだよ。」と答えます。

 さて、父の日の聖句として、祈りの中に浮かんだのが、今日のアロンの姿でした。ナダブとアビフは出エジプト記24・1にあるように、アロンと並んでイスラエルの70人の長老を信仰的に指導するように選ばれた息子たちでした。その10節には、栄光の神を仰ぎ見たことが記されています。彼ら指導者たちだけが、神を見、その前で飲み食いをして、罰を受けなかったのです。

 二人の息子は、神殿の祭壇に聖なるものでない火をささげて、たちどころに焼き尽くされてしまいました。死体の衣服をつかんで宿営の外に運び出したとありますから、身体は焼き尽くされたけれど、服は焼かれなかったようです。死体に触れると汚れるという律法があるので、祭司は遺体には触らないようにしたようです。9節に、聖所に入る時には、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない、と主が言っておられるので、この二人の息子は酔っぱらって、神殿で奉仕をしたようです。

 宗教指導者がただの祭事の施行者に堕したなかで、キリスト教の牧師には清貧と聖さが求められてきましたし、そのようであったと思います。その中で、私などは、最も清貧から離れた者として、奇異な目で見られたようです。「聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル12・14)という聖さは、私自身は注意し、自戒して、これまで歩んできたつもりではあります。

 聖なる者としては、この世の基準から離れ、神に付くということが必要であります。モーセは、甥が神罰で死んだ時も、直ぐに、祭司として聖なる者としての行動を取り、泣き叫んだり、興奮しないように6節に指導しています。そして、何事もなかったように、献げ物を神殿で食べなさいと命じます。ところが、アロンと生き残った二人の息子は、それを食べないで焼いてしまいます。神殿で食べるということは、神との和解のしるしですが、家族が目の前に死んだ後には、とても食べるどころではなかったでしょう。

 レビ6・26には、罪のためのいけにえは、祭司が食べなければならないと記されています。祭司らが、ささげる者の不義を身に受け留め、そして、神の前に出て、赦しを確認するということです。しかし、アロンは、息子たちは罪を犯し、自らの身で罰を受けてしまったので、とても、これ以上、会衆の罪を身に受けるて和解を確認するなどということは、できません、と言うのでした。

 子供が罰を受けたり、社会のペナルティーを受けたり、失敗したり、不幸になったり、・・・親の苦しみや嘆きは、表現できるものではありません。親は、それらを甘んじて受けて、神の前に、社会の中に、コツコツと生き、その咎を負っていくばかりなのです。

 若い時は野心や希望に燃え立つでしょうが、歳をとり、子を持ち、部下を持ち、会衆を持つと、ただその負い目をいくらかでも担おうとするくらいしか、出来ないことに気がつきます。私の前には、日本社会の不合理に苦しむ、多くの人々がいることが重荷です。神の僕として、なんとかして、その苦しみのいくらかでも負えればと考えています。昨日は、妻の医療を慕って、娘さんが癒された親が、今度はご自分の治療に四国から助けを求めてきました。この方々の悲しみや苦しみ、絶望をいくらかでも共に負えればと祈っています。


6月24日 終末を嘲笑う者   ユダ書18節   櫻井圀郎師

新改訳 ユダ 1:14-25

1:14
アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。

1:15
すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」

1:16
彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。

1:17
愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。

1:18
彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。」

1:19
この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。

1:20
しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、

1:21
神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

1:22
疑いを抱く人々をあわれみ、

1:23
火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。

1:24
あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、

1:25
すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。