1月1日 主の再臨に備える   ルカ福音書22538 

新改訳 ルカ
2:25
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26
また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
2:27
彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。
2:28
すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29
「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30
私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31
御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2:33
父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
2:34
また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35
剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
2:36
また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、
2:37
その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。
2:38
ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。

 イエス様は、誕生から8日目に、割礼受けました。この出来事はとても大切な意味が含まれています。まず一つは、神であるイエス様が、人間と同じ位置に降りてきてくださったということです。イエス様が、私たち人間の罪をあがなうために、人となって生まれ、同じように割礼を受けたわけであります。また、この日に、みどり子は正式に「イエス」という名前が付けられました。「イエス」というのは、「主は救い」を意味しています。イエス様の降誕を通して、主なる神様がここにおられるということを、私たちに知らせようとしているわけであります。そしてまた、イエス様を通して、主は人々を救われるということであります。
みどり子を抱えたマリヤとヨセフがエルサレムの神殿に入ったときに、彼らは2人の人物に出会います。彼らの共通点は、イエス様の奇跡を見たわけでもなく、教えを聞いたわけでもないのに、生まれて間もない幼子を見て、救い主であるという確信をもったということでした。見ないで信じる者は幸いです。その言葉にふさわしい2人の老人。彼らは如何に救い主を待ち望み、そしてどのように備えたのでしょうか。私たちも、シメオンやアンナのように、主が救い主であるというしっかりとした確信を持ち、父なる神を礼拝し、御言葉を伝える者となりたいものです。
彼らは如何に救い主を待ち望んでいたのでしょうか。彼らの時代、それは決して明るい世の中ではありませんでした。当時のイスラエルはローマ帝国によって支配され、人々は不当に扱われていました。25節に「シメオンはイスラエルの慰められることを待ち望んでいた。」と書かれていますが、「イスラエルの慰め」とは、旧約聖書に預言されている救い主を表す言葉です。イスラエルの人々は、ローマ帝国からの解放を待ち望んでいました。そして、圧倒的な政治力のあるリーダーであったり、強力な軍隊を引き連れた指導者であったり、自分勝手に救い主をイメージしていました。しかし、実際はどうだったでしょうか。イエス様はそのような政治的なリーダーでも、軍人でもありませんでした。イエス様は、その自らの命を十字架の上で捨てて、私たち人類を救ってくださったのであります。
おそらく、シメオンにはそれがわかっていたのではないでしょうか。聖霊が彼の上にとどまっておられた。聖霊のお告げを受けていた。と書かれています。彼は、いつも神殿に来ては、救い主に会う日を待ち望んでいました。どのくらい待ち続けたのかは判りませんが、1年、2年という単位ではなかったでしょう。何年も、いや何十年も祈り続けたわけであります。祈りの中で、シメオンの内に聖霊がとどまり、イエスの訪れを感じ取るわけです。そして、シメオンが幼子を腕に抱いたその時、救いがすべての人々のために備えられている、その幻を見たのです。それは、十字架のシーンであったかもしれません。あるいは、人々が主をほめたたえている様子であったかもしれません。シメオンは、神をほめたたえずにはいられませんでした。
 アンナも同じでした。若くして夫と死に別れたアンナは、それからの数十年の間、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていたのであります。やもめが一人で生きていくという、辛く厳しい生活の中においても、毎日神をあがめ、神に仕えていたのであります。
私たちは、このシメオンとアンナという二人の老人から、いかに祈り備えるかということを学ぶことができます。シメオンとアンナは、何を祈っていたのでしょうか。自らの繁栄でしょうか。豊かになることでしょうか。そうではありませんでした。彼らは、イスラエルの人々の救い、贖いを願い、祈りをささげていたのであります。周りにいる、人々の救いを祈り続けるということは、大切なことです。
私は妻を通して教会に導かれ、31歳の時に救われました。聖霊待望会で自らの罪深さに、はっきりと気づかされ、イエスキリストを救い主として受け入れました。それは、いまでも忘れることのできない、喜びにあふれた体験でした。私の救霊の陰には、多くの祈りの手が挙げられていたのを、後になって聞きました。妻が、結婚前ですが、いつも私のために祈ってくれていたのは知っていました。しかし、妻だけではなく、柏崎先生、良子先生、そして教会の兄弟姉妹が祈ってくれていました。祈りによって、いや、主が私のために祈ってくださった方々の祈りを聞いてくださって、私は救われました。祈りは力があります。祈りは人を変えることができます。
私たちは、いつも備えている必要があります。マリヤとヨセフが赤子のイエス様を連れて宮に来たのは、この一日だけです。シメオンもアンナも、この時を逃してしまったら、イエスには会うことができなかったでしょう。シメオンとアンナは、偶然神殿にいて、運がよかったね、という人がいるかもしれません。そうではありません。彼らが、この場所にいたのは偶然ではありません。毎日同じように、主を礼拝し、備えていたからこそ、この大切な時を逃すことがなかったのです。
忙しい毎日の中で、祈りの時間をしっかりと確保し、祈りの習慣を身に着けていかなければならない、そう教えられるのであります。主に祈りをささげる時間を後回しにせず、それは、毎月の献金と同じようにまず確保しなければなりません。時間が余ったから祈るというものではなく、お金に余裕があるからささげるのではなく、まずすべきことは祈りであります。
これはイエス様の誕生から8日目の出来事です。しかし、私たちに全く関係のない遠い昔の話ではありません。イエス様は再び来られると言われ、天に昇られたわけです。私たちは、このシメオン、そしてアンナと同じように、主が再び来られる時を待っているのです。そして、それは、いつ来るのかわからない。ある日突然前触れもなくやってくる。その日のために、日々祈り備え、万全の態勢で主の再臨を迎えようではありませんか。


1月8日 未来に備えて   Tテモテ61121  
新改訳 Tテモテ6:11 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。

6:12
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

6:13
私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。

6:14
私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。

6:15
その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、

6:16
ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

6:17
この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

6:18
また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。

6:19
また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。

6:20
テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。

6:21
これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。恵みが、あなたがたとともにありますように。


 昨年は思いもよらない大地震と大津波、そして原発事故による放射能汚染がおこりました。ただ地震も津波も昔起こっており、それを警告する石碑などは各地にあったようです。その警告に無頓着で、危険性を指摘されながらも放置していた電力会社や政府の指導者に多くの責任があることは間違いありません。

 指導者というのは、そのような危険に備え、警告し、対処する責任があるのです。それは親もまた同じです。子供を戒めず、教えることができない親は、危険に対処できずに滅びて行くように子供を導いているのです。北方謙三の水滸伝を読み続けていますが、兵を鍛えられない上官は、兵を殺すことになるという言葉が随所に出てきます。憎まれても良いから、部下を鍛えなければならない、という勇士たちの意気に応じて、各地から憂国の士が集まってくるのでした。

 今年の教会のテーマは「未来に備えて」としましたが、まず注目するべきは、17節の「命じなさい。」という言葉です。最近は、上司の命令でも口答えして従わない人が多くいますが、そういう人は多くの祝福を失います。従うということは、納得したから従うということではなくて、目上だから従うということです。先日、始末書を書くようにと指導したら、書くけれども始末書を書く理由を説明してくれ、と言ってくる人がいました。始末書というのは、自分でその理由を考えるためにあるのであって、失敗の意味と対処がわかれば、それで良いというものであり、その理由を説明しろ、というのでは罰するしかないのです。

 神様の教えは命令です。自分の主義主張を唱えて、信仰に自分流を保とうとする人は、信仰ではなくて、主義です。神に従うというのが信仰です。自分には救われるだけの資格も力も行ないもない、ということを認めて、神の大能と愛を信じるから救われるのであって、それを信仰による救いというのです。行ないによって、自らを救うことができる人は誰もいない、と聖書は明言しています。

 「未来に備えて」とありますが、未来とは、イエス・キリストが再び地上に現れる時であり、神の国の訪れの時です。その未来が祝福になるか悲劇になるか、は備えているかいないかに掛かるのです。聖書は、はっきりと家を建てるのは岩の上に建てなさい、と言っています。これは、生き方の基本に神の教えを持ちなさい、ということですが、そのまま適用することも大事です。つまり、岩盤のしっかりとした土地に家を建てて住むということです。教会も我が家もMYビルもそのような地盤です。暮れに富津の土地を諦めたのも、そこが砂地であると言われたからです。聖書は、洪水や津波は押し寄せるもの、と警告しているのです。

 聖書の教えを勝手に解釈してはなりません。「無知な心の定まらない人たちは、聖書・・・を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」(Uペテロ3・16)。聖書に、書いてあることは、人を犠牲にすることでなく、自分自身の犠牲で済むならば、素直に従ったほうが良いのです。

 先日、遠方から息子さんを連れてクリニックに来たのですが、採血を嫌がるのを母親が説得できないので、結局なにも出きずに帰って行きました。辛くても親に従えない子供は、治ることも幸せになることもできません。「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをする時ではなく、悪を行う時です。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者から誉められます。」(ローマ13・3)。指導者の批判をする人は、指導者から祝福を得ることも、神から祝福を得ることもできません。聖書を読む時は、素直に従うべきです。

 「富んでいる人に命じなさい。」とありますが、黙示録には、「あなたは自分が富んでいる、豊かになった、貧しいものは何もない、と言って、実は自分が惨めで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」(3・17)とあります。神の前に、富んでいる人などいないのです。

 「高ぶらないように。」人の意見や言葉を聞かず、自分の判断で生きる人です。退くことや、負けること、待つことをしない人です。短気な人は、自分の思い通りに人や物を動かそうとするのです。

 「富みに望みを置かない。」献金ができず、人に物を与えることができず、やろうと思うことにお金を費やすことが出来ない人は、金に依存しているのです。税金を惜しむ人は、経済的に破綻します。健全に税金を払う人は、多くの便宜を得ます。自分の為に、お金を使おうとする人は、神を信じているのではなく、金を信じているのです。神は、「すべての物を豊かに与えてくださる」と信じて、「人の益を計り」「良い行ないを」いっぱいするためにお金を掛け、「惜しまずに施し」、「喜んで分け与える」ためにお金を費やすべきなのです。

 ルカ16章に、主人のお金を乱費している管理人が、主人の金で人助けをした話が出てきます。主人は、その管理人が抜け目なく主人の金で人に恩を着せているのを誉めたとあります。この世の富や金など、結局は「不正の富」(16・9)なのです。「不正の富に忠実でなかったら、誰があなたに、まことの富を任せるでしょうか。」とあるのです。お金の使い方が、神に忠実で、人を助けるために費やす人に対して、神はまことの富を任せます。

 言い方を変えれば、この世で金銭や時や能力を神のために費やすということが、まことの富を増やすことになるのです。私は、なんとなくその極意を体得してきたという気がしています。


1月15日 未来に備える敬虔   Tテモテ4111  
新改訳 Tテモテ4:1 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

4:2
それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、

4:3
結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。

4:4
神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。

4:5
神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

4:6
これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。

4:7
俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。

4:8
肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。

4:9
このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。

4:10
私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。

4:11
これらのことを命じ、また教えなさい。



 1節から4節は、終末に極端な教えが信者の間に広まり、そして信仰から離れる人が起こることを警告しています。その教えの特徴は、良心が麻痺したもの、結婚を禁じて信仰だけの生活に入ること、断食を繰り返して自分の願いを超自然的に獲得しようとするか禁欲的になることなどが特徴です。

 これらは新興宗教の特徴でもありますが、教会成長を強調する教会にも見られるものです。健全な教会成長とそうでないものとを見分けるには、教会員一人一人の成長と成熟を基にしたものか、数だけを増やし献金額や活動量を増やそうとしたものかによって確認することができます。

1. 世界にある物、自分に起こることは、みな感謝をもって受け入れ、嫌なもの排除するものとしてはなりません。4節。

自分にとって得なもの、都合の良いことだけを受け入れ、嫌なものを排除しようとする人々がいます。自分が病気であることを否定し、良くなることだけを求めたら、病気やうまくいかない時は、無駄であり、挫折となります。病気の治療で、良いことだけをしようとする人がいます。私はもっと大事なことは、悪いことをしないことと、良くなるまで待つこと、ほどほどで満足することだと思います。自分にとって最善のものを神に願うのは、神を自分の為に利用していることであり、信仰者としては健全なものとは言えません。自分にとって思うようではなくても、神が自分には最善を為してくださると信じることこそ、信仰です。

2. 捨てるべきものをも感謝して受けるのは、聖書と祈りによってできることであり、そのようにして私たちは聖められます。5節。

 私にとって、神学校に行くこと、千葉で開拓伝道すること、経済的にひっ迫している時に子供を産むこと、その他、損であり、無理であり、無駄であることを聖書を読み、祈ることによって、感謝をもって受け入れることができました。病気の妻と結婚したことも同様です。敢えて犠牲を払って、他者の益、神の御心を為そうとするから、私たちは聖められるのです。

3. 全てのことを感謝をもって受け入れることを他の人に教える。6節。

 教会とは、神の言葉を共有し、教えあうところです。家族もそうです。単に一緒に住まい、食事をし、働くだけならば、心は育たず、愛も育まれません。感謝と忍耐、良きことを教えることが教会のおける奉仕なのです。

4.敬虔のために自分を鍛錬する。7節。

 人は良いことや面白いことにはお金や時間を掛けられます。しかし、我慢とか節制とか自己管理とかはなかなかできないものです。「敬虔なクリスチャン」と言うけれど、「敬虔な仏教徒」と言わないのは、クリスチャンが神に仕えることを目標とし、仏教徒は神になることを目標とするのでとネットに説明されていました。、敬とは敬うことであり、虔とはつつしみ深いことを意味します。敬虔は鍛錬

なしに身につけることはできません。10歳くらいまでに親が敬虔の訓練をするか、若い時の苦難や挫折によって鍛錬されてくるかが大事です。目標がなければ、わざわざ敬虔の鍛錬などしないもので、そのような人物に触れた体験を持つことも大事です。

5.敬虔こそが、現在的ないのちと未来の永遠のいのちを保証します。8節

 信仰というのは人格的なものです。いくら教義に精通していても、礼拝や奉仕に忠実であっても、多くの献金や犠牲を献げても、敬虔がなければその信仰にいのちはありません。敬虔さのない信仰は死んだものです。ですから、信仰者が自慢話や批判話を長々とすることはあり得ないのです。つまり、敬虔さのない信仰者は神に繋がれておらず、神の国に行くことはないのです。

6.敬虔は肉体の鍛錬よりも、有益なことです。8節

 多くを稼いた者が多くを失い、その労苦は稼ぎに費やされて徒労に終わります。人の称賛や誇りは、死と共に消え去り、その人の魂を買うこともできません。強靭な肉体をもって戦いを勝ち抜いたとしても、それは束の間のこの世の勝利であり、永遠の勝利には結び付きません。敬虔は神の国に至る勝利の勲章でありながら、誰にも見せるものではなく、神ご自身が判断してくださるものです。だからこそ、敬虔には、奥義が隠され、敬虔な者には神が共にいて下さり、この世の勝利にも結びつきうるのです。

7.生ける神に望みをおくように人々に命じ教える。10,11節。

 先週は、世話を焼き、信頼してきた人に裏切られ、横領をされました。平気で嘘をつき、誤魔化し、不正をするために残業をしていたのです。盗んでいながら、私の顔を見て知らないと言い、罪を犯し続けてきたのです。今は獄屋にいますが、そのままでは永遠の獄屋に行くことになります。生ける神を信じる人と、信じたように装った人の違いに気がつきます。彼は、信仰者を装っていました。多くの損害を被りましたが、神は私の義に報いてくださいます。生ける神に望みを置く者は、必ずその望みが報われるのです。


1月22日 不動の礎の上に   Uテモテ2111 
新改訳 Uテモ2:11-19

2:11
次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。

2:12
もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。

2:13
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

2:14
これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。

2:15
あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。

2:16
俗悪なむだ話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、

2:17
彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。

2:18
彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。

2:19
それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」



今年の教会標語は、まことのいのちを得るために、つまり天国に入るために、良い基礎を自分自身のために築き上げる、ということです。神の国に入るということは簡単なことではありません。神の国に入る資格がこの地上でも吟味確認されることを知っていなければならないのです。

 先日の事件は本当に驚きました。毎日一緒に働き、打ち合わせもし、温泉の休暇にも行っており、その教会で奉仕をしていた人間です。それが残業と偽って、伝票を偽造し、金庫から金銭を抜き取り続けていたのです。盗難事件が発覚しても「自分は知らない」、と言って探しているふりをしていました。

 パウロは、教会に「偽使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変身しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ、光の御使いに変装するのです。」(Uコリント11・13.14)。実際に、今や多くの教会が魂の救われていない教会員によって混乱させられ、騙され、存続の危機にさえ陥っています。教会の運営が、話し合いや会議によってなされている場合に多く起こっています。教会というのは、話し合いではなくカリスマ、つまり神の与えた賜物によって運営されるものであり、指導者が必要なのです。そして、それぞれの指導者のために祈り仕えるところに神の業がおこるのです。

 教会成長を目標にしてきた教会で、教会員の数を増やすことに重点を置いてしまった場合は、そこに偽りの信者が多く入り込み、問題を起こしています。魂の救いというのは、神とその人の問題であり、洗礼を急かしてはなりません。教会を趣味か教養か助け合いの会と思う人々は、教会に通い続けることはできません。真に魂の救われていない教会員は教会に通い続けなくなりますが、たまに集った人に権利を与えてはなりません。

 天国は狭き門です。永遠に神の国に住まうということが、そんなに簡単なものであるはずがありません。その偽クリスチャンは、「神は全ての罪を赦して下さる。」と語っていたそうです。犯罪を犯しながら、悔い改めを祈る人の罪など赦されるはずがありません。

 愛を強調する教会が、壊滅的な打撃を受けつつあるようです。神の愛は、罪を悔い改めて、神を第一として生きる信仰者に対して注がれるのであって、罪人を永遠の地獄に陥れる神の厳しさを忘れてはいけません。放任が愛のように誤解され、子供をだめにする親が多いのですが、神の愛は神の義と両立して存在するのです。

 そういう面で、「私は献金をしない、奉仕をしない、伝道をしない、聖書を読まない、祈らない」という人は、とても「良い基礎を自分自身のために築き上げ」ているとは言えません。いや、むしろその人は、魂の救いを得ていない、本当のクリスチャンではない可能性が高いのです。魂の救いを受けている人が、祈りをしないはずはなく、御ことばを慕い求めないはずがないのです。また、もし救いを体験したとしても、罪を犯し続けたら、聖霊はその人から離れていくのです。

残念ながら、この経済優先の社会の中で、魂の謙遜さと聖さを失った牧師たちを多く見ています。彼らは、教会運営を稼ぎとしています。同様に、多くのクリスチャンが仕事に目をくらんで、神に仕えることを忘れています。

 終末とは、どんなものでしょうか。経済は破綻して、悪どい権力者の支配下に陥ります。黙示録には、彼に従わなければ売買ができなくなると預言されています。災害や病気が人々を苦しめ続けます。誘惑や欲望が人々を捕えて、正義を行う人はいなくなります。

 そんな状況で、自分が生きるために、家族を生かすために、何をしても徒労に終わる時代が来るのです。間違いなく、日本経済は破綻します。放射能は人々の免疫を弱くし、未知のウィルスが人々を痛めつけていきます。自然は破壊し、天候異変は繰り返し、食料が手に入らなくなります。いくら金があってもダメで物価は異常に上昇します。

 信仰者が娯楽にふける時代は過ぎ去りました。自らのために備えなければなりません。揺れ動かない土台を築き上げなければなりません。テレビを見たり、ゲームをしたりしているうちに、災害が起きて、何もなくなってしまう時代が来るのです。次のことは、今後10年間でしなければならないことだと思います。

@ 間違った教えや誘惑に惑わされない信仰と信念。

A 密接に結びついた家族と友人、信仰の友。

B 経済活動の破壊でも生きていける生活基盤。

C 天候異変や災害に耐える体力と装備。

D 借金を減らし、経済の変動に耐える蓄財をする。

E 都会を離れた所に、自給自足の生活の場を確保する。或いは、自然の多い安全な外国に移り住む。

F 終末に関する聖書の記事をよく読み覚えておく。


1月29日 春に備えるように   Tペテロ11325  
新改訳 Tペテロ1:13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

1:14
従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

1:15
あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

1:16
それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

1:17
また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。

1:18
ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、

1:19
傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

1:20
キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。

1:21
あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。

1:22
あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。

1:23
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

1:24
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

1:25
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。


 厳寒の中、木々はあたかも枯れているかのようですが、良く見ると梅の木には蕾が大きくなり、他の木の枝にも芽が寒さに耐える殻を堅くしながら膨らんでいます。秋に葉を落とす木々は、「古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。」(Uコリント5・17)そのままの新しい命を噴き出します。

 落葉は低温や乾燥に備えて、自らの命を守るために葉や地上部を枯らす(死ぬ)のですが、永遠のいのちを守るために、信仰者が自らの罪性を捨て去ることと意味合いが似ています。つまり、自らの存在や罪性を守ろうとする者は、却って自らの存在をも殺してしまうことになるのです。

 「心を引き締め、身を慎み」(13)、イエスキリストの現れを「ひたすら待ち望む」のは、春を待つ草木の姿に似ていると思います。この欲望の錯乱する世俗にあって、「さまざまな欲望に従わず」(14)、「あらゆる行ないにおいて聖なるもので」あることが、神の国への備えなのです。

 何カ月も雨の降らないカルフォルニアでふんだんに使う水が、何千キロも彼方で冬に降り積もった雪解けの水であることに感動したものです。寒さも暑さも、試練も困難も、それにどのように対処するかが、大事なのです。

 「地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」とあるように、誘惑と困難と災害まで起こる世にあって、如何に生きるかが、私たちのいのちに繋がるのです。

 私たちは、この社会の営みを当然なものとして、受け入れてはいけません。現代社会は、罪と悪の中で滅びて行くものなのです。厳寒の冬に葉を茂らせ、花を咲かせようとすれば、いのち全体が枯れ果ててしまうのです。この社会での成功や快楽を求めれば、神の国のいのちは、失われてしまうのです。

 私たち夫婦の、この世における存在理由は福音宣教以外の何ものでもありません。精神疾患の治療も、自閉症の治療も、いろいろな働きも、伝道のためであり、金儲けのためではありません。収入の多くを献金し、人々に注いでいます。冬や日照りや災害に備えて、家を築き、子供を教育し、地盤を強固にしていますが、それは自らの欲望のためではありません。毎日働き、自分を管理するために運動をし、勉強をします。福音のために、自分が強くならなければならないと思っているからです。

 多くの人が日々の生活のために、糧のために生きています。聖書は、それを「父祖伝来の虚しい生き方」(18)として、キリストのために生きるべきことを信者に進めています。私たちの「信仰と希望は神に掛かっている。」(21)と言えるように生き方をしているでしょうか。ラルフ・モアは自分の出費で日本に60回以上来ているそうです。地震の時には、丁度成田に着陸した後で、そのまま機内に7時間留まらされ、空港に60時間拘束されたそうです。それでも日本の多くの人が魂の救いを体験して欲しいと、来日を続けています。

 日本のクリスチャンは、救われた後も、自分の興味と関心の中で変わらずに生きています。好きなテレビを見、好きな本を読み、好きなことをして、生計のために働いています。そこに神を信じるということを付け足しただけです。祈りを真剣にすることもなく、他の人が苦しんでいても、そのために祈ることもなく、自分のことは自分でするものだと考えています。聖書を読んで、そこに書いてあることに従うこともなく、ただ読んで知識を追加しているだけです。

 私たち夫婦が、「何をするのも福音宣教のため」と考えているのは、私たちが献身者であり、牧師だからであると考えたこともあります。しかし、世界中で牧師であろうとなかろうと、魂が救われ、神の国の現実を悟った人は、皆、福音の為に生きて、その才能と時間をそれに結びつけて生きているのです。

 日本人は、みな同じことをするように育てられています。聖書は、教会の中には、御霊に属する人、キリストにある幼子、肉に属する人、魂の救われていない人、偽善的な偽クリスチャン、などがいることを示しています。誰もが、同じことをする必要はありません。私たちは御霊に属する人として、人との妥協や融和を重んじることなく、「聖でなければなりません。」。清くない人やこの世の人を傷つけないように配慮するから、聖さを失ってしまうのです。

 「真理に従うことによって、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」という生活を歩み、「互いに心から熱く愛し合う」ことが必要なのです。そのためには、聖霊からのまことのいのちを求め、聖さを求めて熱心に生きなければなりません。


2月5日 苦難に備えて   創世記412940節  
新改訳 創世記41:29 今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れます。

41:30
それから、そのあと、七年間のききんが起こり、エジプトの地の豊作はみな忘れられます。ききんが地を荒れ果てさせ、

41:31
この地の豊作は後に来るききんのため、跡もわからなくなります。そのききんは、非常にきびしいからです。

41:32
夢が二度パロにくり返されたのは、このことが神によって定められ、神がすみやかにこれをなさるからです。

41:33
それゆえ、今、パロは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように。

41:34
パロは、国中に監督官を任命するよう行動を起こされ、豊作の七年間に、エジプトの地に、備えをなさいますように。

41:35
彼らにこれからの豊作の年のすべての食糧を集めさせ、パロの権威のもとに、町々に穀物をたくわえ、保管させるためです。

41:36
その食糧は、エジプトの国に起こる七年のききんのための、国のたくわえとなさいますように。この地がききんで滅びないためです。」

41:37
このことは、パロとすべての家臣たちの心にかなった。

41:38
そこでパロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」

41:39
パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。

41:40
あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」


 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」                (ローマ8・28

 この聖句に、「知っています。」とありますが、苦しみ・悲しみ・災害・危機などがあっても神がそのことを益としてくださるために、長い年月の忍耐深い信仰生活が保たれていなければ、体験できないことです。

 今日、お話することは、弟を奴隷として売り飛ばし、父には死んだと思わせたような恐ろしい事件が、結局のところ家族を飢饉から救い、エジプトという国を壊滅から守り、王制を強化し、イスラエル民族に文化を体験させ、民族的団結を強固なものとし、神の全能性を世に知らせ、歴史に神の顕現をし、イスラエル国家を成立させた、という驚くべき意味合いをもたらしたということです。

 そして、結論的に言えば、そのような苦難を経ながらも、信仰と希望と愛を失わなかったヨセフだからこそ、国家的な苦難に備える判断と指導をすることができたのです。更に言えば、ヨセフのような指導者ではないと自らを位置付け、苦難に負けてしまう人は、信仰をも失い、挫折の人生を生きることになってしまうのです。

面白いことに、物語を読む人は、主人公の側に立って考え、判断した挙句、自分は主人公のような英雄でもヒロインでもないとして、いつの間にか主人公を迫害したり、敵となった人物のような人生を歩むことが多いのです。子供の頃に物語を読むことは大事で、子供たちは純粋に英雄になろうと願います。子供の頃から悪役になろうとか、取り巻きになろうと考えるならば、親から愛されなかったり、いじめにあったり、正常な育てられ方をしなかったことがあると思います。

 先週、近野稜君が怪獣ものの絵本を夢中になって読んでいましたが、自分が怪獣をやっつけるヒーローになりきっていたのだと思います。そういう幼児時代を経ないでお勉強ばかりしていると、勇気や希望が育たなくなってしまいます。

 さて、聖書に戻りますが、ヨセフは最も好きな人物です。ヨセフは17歳になっても夢を大事にする人でした(創世記37章)。自分の将来について、いろいろと模索することが多かったのでしょう。自分の将来について、勝手に決めてはいけません。しかし、聖書は自分の言葉に気をつけなさい、と言っています。ダビデ王でさえ、「主よ、私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守ってください。」(詩編141・3)と自らの言葉に気を付けています。否定的なことを言う人は、そのような人生を歩むのです。くだらないことを言う人は、くだらない人生を歩むのです。

 しかし、いつまでも神に祈り、夢見る人であったヨセフは、兄弟に憎まれ、殺されそうになり、奴隷に売られてしまいました。遠いエジプトでも誠実に働き、「主が共におられた」ほど神の御旨を求めて生きていたので祝され、侍従長の家の管理責任者になりました。

 女主人に言い寄られても、神を恐れるヨセフは誘惑にも乗らなかったのですが、却って無実の罪を着せられて監獄に入れられてしまいました。しかし、監獄でも「主がヨセフと共におられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださった。」(39・23)。

 「主が共におられる」ためには、どうすれば良いでしょうか。それは、私たちの教会理念にあるように、「状況に左右されず、聖霊に聞き従い、神を信じ人を信じて」生きることです。苦難を苦難と思うから、信仰が強く持てないのです。「万事が益となる」と信じることが大事なのです。しかし、殆どの人が、自分の思い通りにならないと、神の祝福を信じられないのです。そして、神に祝福されているのに、それを自分の能力や働きのせいだと考えるのです。

 ヨセフは、神に祝福されながらも2年以上監獄で暮らすことになります。17歳で奴隷に売られてから30歳でエジプトの宰相になるまでの13年間を報われないで過ごすのです。しかし、ヨセフの凄さは、奴隷に売られ、無実の罪を着せられ、監獄で報われないで過ごしても、神を信じ、神と共に生きたことです。

 苦労をした人は多くいますが、苦労の中でも希望をもって努力した人は少なく、さらに神を信じ、神が共におられた、という人は殆どいないと思います。長期間の苦難と試練の中でも耐え抜いて努力をしたからこそ、ヨセフは適切な方策をエジプトのパロ王にすることができたのです。

 数ある知恵のある者を見て来たパロは、直ぐにヨセフの聡明さと知恵と決断力がわかり、宰相にしたのです。試練の中でこそ、人は鍛えられて神の人となっていくのです。

 そして、数多くの耐えられない苦難にも耐えて、神と共に過ごした者だからこそ、更に先に続く試練にも耐える指導者になったのです。皆さんは、自分は指導者ではない、そんなに能力はない、大した者ではないと考えるでしょうか。

 「神の御計画に従って召された」のは、全てのクリスチャンです。ペルシャ帝国に捕囚となっていたイスラエル民族が虐殺され掛かった時、王妃に選ばれていたエステルに叔父のモルデカイが言います。「あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかし、あなたもあなたの父の家も滅びよう。あなたが、この王国に来たのは、もしかすると、この時の為であるかもしれない。」(エステル記4・14)。エステルは、「死ななければならないのでしたら、死にます。」と答えて、イスラエルの民を救ったのでした。

 私自身、何をして良いのか、分かりません。ただ、神が共におられるのは、感じております。そして、苦難が続いていることも事実です。しかし、それに関わらず祝福されていることも事実です。大事なことは、神が共におられる生活をどんな時にも続けることです。


2月12日 誘惑に備えて   マタイ福音書4111 
新改訳 マタイ 4:1-11

4:1
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

4:2
そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。

4:3
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

4:4
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

4:5
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、

4:6
言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」

4:7
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」

4:8
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、

4:9
言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

4:10
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

4:11
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。


 ゴルフの時の愚痴はよくあるものです。愚痴を言っていると次のプレーが悪くなるので、上達するにつれて、愚痴は言わなくなります。また、上達すると失敗の原因が直ぐにわかるので、次に直すことができます。愚痴をこぼす人は、自分が未熟であることがまだ分かっていないので、どうして失敗するのか、そんなはずはない、不運だったと思って愚痴を言うわけです。

 愚痴をいうゴルフプレーヤーを笑っていた私ですが、最近自分が愚痴ばかり言っていることに気がつきました。「自分の仕事が報われない」、「期待していた人に裏切られた」、「思う通りにいかない」・・・、そんな思いに囚われるから愚痴がでるわけです。感謝をしているならば、愚痴は出るはずがないのですが、そうもいかないのが人間の罪性、弱みです。Im OK, You are OK.ならば良いのですが、OKしないと愚痴がでるわけです。

 愚痴への対応方法は、@悩みを打ち明けているのではなく、愚痴をこぼしているのだと見分ける。A共感しない。B諫言しない。C助言しない。だそうです。正当性は分かりませんが、ネットに出ていました。なんだかおかしくなりました。

 アダムとエバの最初の罪の後、やはり愚痴と言い訳を二人は言っています。「あなたが傍に置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3・12)。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」二人は、裸であることに気がついていてイチジクの葉を綴り合せて腰の覆いを作ったのですが、なんと脆い服でしょう。「あいつが悪いのだ。自分は正しいのだ。自分は努力しているのだ。」これが愚痴の原因です。それを罪と言います。説教者で牧師である私も愚痴ばかりこぼしていたのですから、ただ悔い改めるばかりです。ゴルフになぞって分析してみました。また、これはテーマ聖句のTテモテ6章17,18にも書いてあることでした。

@ 能力以上の無理な生活をしていたのではないか。これは高慢が原因です。スコアが悪いゴルファーは、実力以上の無理をして大失敗をします。一気に良い結果を出そうとすることは高慢でした。「高ぶらないように」

A 安息を取らずに、仕事ばかりをしていたのではないか。これは十戒違反で大きな罪です。ゴルフもスコアばかり気にしている人は、決して技量が向上しません。「富に望みを置かず、神に望みを置く」

B 愚痴の対象を思い見ずに、自分勝手に裁いている。緑の野を親しい人と一緒にゴルフしていることを忘れています。「人の益を計り、良い行ないに富み」

C 自分の利益や都合を優先している。人の迷惑になる行動は、マナー違反であり、他の人を助け、自分の弱さに引きずられてはいけません。「惜しまずに施し、喜んで分け与えるように」

 妻は、私の愚痴を良く聞いてくれるので気が晴れるのですが、愚痴自体は健全なものではありません。愚痴ではなく、信仰と感謝を分かち合いたいものです。

 さて、次にサタンに誘惑されたのは、ヨブでした。サタンは、ヨブが試練の中で神を呪うはずだと、神に挑戦しました(ヨブ記1・11)

@ 家族や財産を失い、自らは病気になるが、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1・21)と神を呪わず、愚痴を言わない。

A 不幸は罪から来ると因果応報を唱える友人に対して、「私の良心は生涯私を責めはしない。」と信じ、罰としての不幸を受け入れない。

B 自分の理解と判断で生きるのではなく、神が大能をもって世を治めていることを信じ、神に委ねて生きよ、と神ご自身がヨブに語る。

 私たちが愚痴を言ってしまうのは、自分の論理や判断で、「報われていない」「やってられない」「不合理だ」と思うからです。それは特に、身近な人、大事に思っている人、期待した人に対して愚痴として現れてしまいます。しかし、それは、人に対する支配であり、境界線を乗り越えた干渉となってしまっているからなのです。信仰とは、神に委ねることであり、自分の能力や努力で成し遂げることではないからです。

 3番目にサタンに明確に誘惑されたのはイエス様です。イエス様は40日間の断食の後ですから、空腹を覚えられました。

@ 石をパンに変えることができるけれども、「神の口から出る一つ一つのことばによる」生き方を選ばれた。つまり、自分勝手な判断と欲望によって生きるのではなく、神に委ねることを宣言したのです。

A 高い所から飛び降りて、天使が自分を守ることを示すよりも、思い通りにならない不自由な生き方を選ばれたのです。

B 栄耀栄華を自分のものにしようとする誘惑を拒絶しました。欲望に従い、世界を従えるのではなく、父なる神に仕えることを神の御子が選びました。

 その誘惑に勝利した後で、天使たちが仕えるために近付いてきました。人生を思い通りに生き、思い通りに人に要求するような人に、神は共にいて下さいません。そんな人に天使が仕えたら、大変なことになります。 

 私が自分の愚痴に気がついたのは、プールで泳いだ後、風呂に入ってくつろいだ時でした。自分の罪に気がつき、祈りが足りないこと、働き過ぎていることに気がつきました。これでは、神の祝福が来ないのもしょうがありません。最も大きな誘惑は自分の心の中にありました。


2月19日 災害に備えて   マタイ24314節 

新改訳 マタイ24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

24:4
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。

24:5
わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

24:6
また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

24:7
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

24:8
しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

24:9
そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

24:10
また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

24:11
また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

24:12
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

24:13
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

24:14
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。



 思いも寄らぬ大地震と津波、そして放射能汚染に東北、特に福島県の人は驚き、戸惑い、苦しんだことだろうと思います。避難した人、避難できなかった人、それぞれに葛藤があったことでしょう。東大地震研究所によれば東京に直下型大地震が4年以内に70%の確率で起こるということです。18日も関東地方で地震が8回も起き、最大震度が4でした。

 日本各地でこのような天災に乗じて、神の罰であるとかタタリであるとか言って宗教への勧誘が起こっているようです。そういう面でも、私たちは聖書的認識と対応を心得ておかなければなりません。弟子たちもまた、イエス様に終末について聞いております。

 イエス様の強調点は「人に惑わされないように気を付けなさい。」(24・4)です。

 イカサマ宗教が現れ、戦争や民族紛争、飢饉や地震が起こります。不法がはびこるということは、治安が悪くなり、犯罪が日常的なものとなるということです。人々がつまずく、ということは、生きて行く希望がなくなるということです。互いに裏切り、憎み合うということは、人間的な交流がなくなり、家庭が崩壊していった結果でしょう。一人ひとりが自分勝手に生きて、子供を慈しみ育てるなどということはなくなり、愛というものは献身的・犠牲的なものではなくなってくるでしょう。

 24章の後半には、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべでありなさい、とイエス様は語られます。つまり、イエス様は、終末の様相を呈してきても、自分の責任を全うして為すべきことを為し、他の人の世話をする者でありなさいと教えるのです。終末の災害や状況に左右されることなく、また、誘惑に惑わされて飲み食いや遊興にふけることなく、霊的な目を覚まして、信仰者として忠実に生きることが大事なのです。大事なことは、「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」

  皆さんには、何度も言ってきましたが、献身してからの苦しみは思い出しただけで涙が出てきます。耐えられないと思うようなことが何度もあったけれど、若さというものは、朝起きると活力が出てくるものです。悩んではいられないという気力と使命感、そして聖霊の励ましがありました。

 人間にとって一番の苦しみは、希望がない、ということかと思います。私達の教会のテーマ聖句は「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」終末の試練とは、この希望がなくなることなのです。不法がはびこり、愛が冷える、そういう中で、耐え忍ぶことができなくなり、絶望してしまうのです。それを惑わしと言うのです。神を信じるということができなくなってしまうのです。あまりに、苦難が多く、状況が悪くなるのです。

終末の艱難は、間違いなくあるでしょう。いろいろな終末のしるしが起こったら、イエス様が「戸口まで近づいていると知りなさい。」(24・33)。

 春の嵐というのは、暖かくなる前に必ず起こります。「冬来るなば、春遠からじ」というように、終末の苦難は、神の国の訪れの前触れなのです。秋の台風、冬の木枯らし、大雪、梅雨、いろいろな天候に対して、私たちは備えて生きて行きます。日照りや天災でも、落胆しても絶望することなく、生きてゆこうと立ち上がってきました。

 マタイ25章には、長い夜に備えて、灯の為の油を十分に用意していなさいとあります。病気に打ち勝つにも、体力や免疫力が勝負です。同じインフルエンザ・ワクチンを打っても、掛かってしまう人がいますし、全く掛からない人もいます。妻の母が布団を上げただけで肋骨を骨折してしまいました。骨そしょう症だからです。寺田さんの母は牛肉が大好きだそうで、重病だったのに元気になったそうです。終末というのは、信仰の免疫力が強くなければなりません。

 信仰の免疫力とはどのようなものでしょうか。25章には、タラントの例えがあります。人生とは、神から賜物を与えられ、それをどのように生かそうとするかの努力と工夫の試されるところです。ともかく、自分に与えられた才能と富と時間を用いて、神の富を増やそうと努力することです。その努力の積み重ねが、信仰の免疫力になるのです。信仰の戦いをしていない人は、免疫力がないので、直ぐに挫折します。

 この世では、報われないこともあるかと思います。肉親が津波で流された人の悲しみは如何ばかりでしょうか。自分の住んでいる所が放射能汚染で帰れない人の無念さは、十分に理解できないでしょう。

 しかし、神の国が、私たちの前に用意されているのです。試練に耐え、惑わされないで信仰を守った人々には、神の国の栄冠が用意されているのです(25・34)。


2月26日 救いの日に備えて   Tペテロ31022 
Tペテ3:10 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、

3:11
悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。

3:12
主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」

3:13
もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。

3:14
いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。

3:15
むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。

3:16
ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。

3:17
もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。

3:18
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

3:19
その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。

3:20
昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。

3:21
そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。

3:22
キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。

 この教会にも多くの方が集い、多くの方がイエス様を自らの罪からの救い主を信じて救われました。しかし、悲しいことに多くの方が教会からも救いからも離れたことは事実です。2週間前に「愚痴を言わないように」と語り、義人ヨブも愚痴を言ってしまったことが神の全能に委ねていない証拠であると語りました。それでも、牧師としては、罪を悔い改めず、誘惑や頑なさで信仰から離れて行った人々のことは、苦しみであり、辛さであります。

 この聖句で、「悪を言わず、偽りを語らず」とありますが、人々は神は信じていると言いながら、罪を犯し続け、結果として教会に通えなくなるのです。そして、それらの人々の教会に来なくなる理由として述べるのは、いつも牧師批判です。私が批難されても、教会に続けて来て私が罰を受ければ、それで良いのですが、最も大きな罪は聖霊を汚すことであると聖書は言います(マタイ12・31-32)。

 聖霊を汚すとは、どういうことでしょうか。イエス様に逆らう言葉というのは、「信じられない」、「奇跡や癒しをしてみろ」、「私を助けろ、救え」などという挑戦的な言葉かと思います。聖霊は、イエス様を信じ救われた人の中に内在して、「罪、義、さばきについて」私たちに教え、その誤りを認めさせます(ヨハネ16・8)。罪を悔い改めたから救われた私たちが、「罪を犯していない」、「私は正しくあなたは間違っている」などと罪を犯しながら、悔い改めないならば、聖霊は汚されるのです。

サタンは、訴える者という意味がありますが、神が救おうと定めた人が救いに寄らず、自己義に生きて神の救いをないがしろにすることによって、神の救いの計画を台無しにしようとしています。つまり、完全なる神の定めが間違ってしまったことによって、自分での裁きを無効にしようとするのです。

 現代社会の裁きの根拠は法律ですが、権力者は法をも無視して裁きをすることがあります。法律は社会を治めるための互いの約束ごとと定義するのでしょうが、権力者が社会を絶対的に治める場合には、法を無視することがあるのです。

 神は、引力とか、月の運行とか、時間とか、秩序を持って遂行される自然法則を定められましたが、人間の内にも法則を定められました。人を裁き、人に要求することによって、「律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの両親も一緒になって証しし、また、彼らの思いは互いに責めあったり、また弁明し合ったりしています。」(ローマ2・15)。

 ですから、どのように文化的に未開であっても、人は正しいことや悪いことは分かっているのです。ところが、文化が進み、知恵が進み、論理が発展してくると、神に対抗する屁理屈を持つのです。その屁理屈の根拠が、善人や誠実な人、指導者や宗教的指導者に対する批判と攻撃です。つまり、全ての人が悪い人であり、罪深いのだから自分など責められる筋合いはない、ということです。

 でも、聖書は、「義人はいない、悟りのある者はいない。神を求めるものはいない。」(ローマ3・10-11)と指摘しています。ですから聖書は、そんなことは分かって
ると説明します。「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰による」(ローマ3・28)のです。つまり、もともと聖書は、屁理屈や訴える者の論理を超えているのです。

 大事なことは、「自分は罪人だけれど、イエス様は、私の罪の身代わりに死んで下さったので、それを認め悔い改めれば救われる」ということなのです。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は・・・、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」なのです。罪を認めないで、人を非難し、悪口を言う者を神は認めず、聖霊なる神は内在できないのです。

 クリスチャンとは、立派な人間のことではありません。自らの罪を認め、十字架による救いを信じ、神に従って生きる人なのです。教会から離れるとは、自分の罪を認めず、人の罪を責め、自分の論理と欲望に従って生きるから、そうなってしまうのです。そういう人々は、どういうわけか私を憎みます。神を憎むわけにはいかない。教会員は自分とは関係ない。しかし、自分の論理を認めないで神を信じている愛情のない牧師が目ざわりなのでしょう。彼らにとって愛情とは、罪人を罪人としないで受け入れてくれることなのでしょう。

 聖書は、そういう私の心も知っており、「たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主として崇めなさい。」と慰めて下さいます。それでも、私たちの願いは、彼らがキリストに立ち返り、教会に戻ることです。

 「全ての肉なるものの終わりが、私の前に来ている。地は、彼らの故に暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地と共に滅ぼそうとしている。あなたは自分のためにゴフェルの箱舟を造りなさい。」(創世記6・13.14)。箱舟を造るとは、現代では教会を建て上げるということです。

 ノアは、人々に馬鹿にされ、罵られ、邪魔をされ、攻撃を受けながら箱舟を作り上げました。現代における教会形成もまた同様なものです。皆さんもまた、聖徒として教会を建て上げるために召し出されました。教会形成とは、「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹きまわされたり、波にもて遊ばれたりすることがなく、むしろ、愛を持って真理を語り、あらゆる点において、成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ4・14.15.)。


3月4日 春に備えて   ヤコブ5718節 

新改訳 ヤコブ5:7 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。

5:8
あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

5:9
兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。

5:10
苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。

5:11
見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

5:12
私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。

5:13
あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。

5:14
あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

5:15
信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

5:16
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

5:17
エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。

5:18
そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。


 毎年梅のことをこの時期に話しますが、今年は昨年よりも1ヶ月は開花が遅いようです。昨年は既に1月に紅梅が咲いていました。寒さの中、蕾を殻の中に潜めて少しずつ大きくなり、暖かくなったら一斉に芽を出し、花を咲かせる鮮やかさに感動します。暖かくなる前に蕾を咲かせたら寒さにやられて実を付けることはできません。7節を読めば、農夫の忍耐も蕾のようです。必ず暖かくなるのですが、待ち切れずに種を蒔いたら寒さにやられます。

 終末にイエス様が、この地上に再び来られるということも、春のように間違いのないことだと聖書は語ります。ただ、寒さの中に耐え忍んで待つことに似ていると言います。「心を強くしなさい」とあるので、それは厳寒が続く冬のようなものです。苦難や寒さが厳しく長いと待ちきれない、ということがあります。多くの人が努力や頑張りは出来るのですが、待つということ、忍耐は難しいようです。

 9節にあるように、長い間、苦難が続くと「つぶやき合う」ようです。耐え忍ぶことができず、つぶやくと、余計なことをしてしまいます。或いは、感情的なことをしてしまいます。だから、「裁かれてしまう」ようなことをしてしまうのです。

 歳を取るということは、多くの失敗を経験してくるということです。そして、多くの人の失敗を見てくるということです。4章の1節から、争いの原因が記されています。それは、欲望です。自分のために欲しがるので、争いが起こるのです。ところが、神ご自身に健全に願うならば、与えられると教えられます。

 4章の6節には、「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」とあり、だから神に従いなさい、と教えます。ここでは、自分が正しいと思い込み、強引にことをやり遂げようとしたり、他の人を抑え込もうとしない、ということです。自分が神の前に正しいことをしていると思うなら、神の裁きと導きをじっと待っていなさい、ということです。そうすれば、祝福を与えられるのです。

 このことは、私の大好きなヨセフに当てはまります。何度もお話しているように、兄弟に裏切られ、無実の罪を着せられ、獄に入り、それでも希望をもって生きたからこそ、神が共におられて、勝利の人生を獲得したのでした。

 ですから、聖書は4章8節に「神に近づきなさい。」と命令するのです。笑いが悲しみに、喜びが憂いに変わる(9)こともあるのでしょう。その時こそ、主の前に生きてへりくだりを教えられると諭されます。

 罪や未熟さというのは、自分が正しいと思うことでしょう。子供が親に逆らい、文句や要求をする、偉そうなことを言う、更には攻撃してくる時、神を敬う親は、へりくだり、神に近づこうとするのです。部下や後輩に攻撃された時、神を敬う人は、神の裁きに自らを委ねるのです。11節にあるように、他人の悪口を言い、裁く人は、自分の身に裁きを受けるのです。ですから、つぶやかずに、忍耐するのです。5・11には、ヨブの忍耐が教えられています。歳を取り、指導者となり、地位を得て後も、思い通りに行かないことを受け入れるのです。

 5・12には、「誓わないように」と教えています。自分に自信を持ち、自分の考えを絶対化すると罪を犯すことになります。自分の人生も、愛する人々も、属する組織も、思い通りにならないことを受け入れ続け、ただ執り成しの祈りと配慮をすれば良いのでしょう。

 聖書は、右の頬を打つ者に左の頬を向け、自分を告訴して下着を取ろうとする者に上着も与え、自分に同行を強いる者には、要求の倍の距離を同行しなさいと教えます。さらに「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5・44)とさえ、要求します。信仰の初期の頃は、とても無理であってあり得ない教えだと思っていましたが、現実には、そうしなければ、神からの平安は得られないことを悟りました。「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。」というとおりです。

 春が来て花が咲くために、木々は力を蓄えています。私たちも信仰者として必要なことは、救いの花を咲かせることです。愚痴を言うのを止め、この世の思い煩いに目を留めることも止めて、喜びの花を咲かせましょう。

 エリヤは、そのように歩むことを教えられ、従っていくうちに、自らの祈りが全てかなえられることを体験してきたのです。「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(4・3)。しかし、「義人の祈りは働くと大きな力があります。」(5・16


3月11日 結婚に備えて   雅歌528 
新改訳 雅歌
5:2
私は眠っていましたが、心はさめていました。戸をたたいている愛する方の声。「わが妹、わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。汚れのないものよ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」

5:3
私は着物を脱いでしまった。どうしてまた、着られましょう。足も洗ってしまった。どうしてまた、よごせましょう。

5:4
私の愛する方が戸の穴から手を差し入れました。私の心は、あの方のために立ち騒ぎました。

5:5
私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。

5:6
私が、愛する方のために戸をあけると、愛する方は、背を向けて去って行きました。あの方のことばで、私は気を失いました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。私が呼んでも、答えはありませんでした。

5:7
町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。彼らは私を打ち、傷つけました。城壁を守る者たちも、私のかぶり物をはぎ取りました。

5:8
エルサレムの娘たち。誓ってください。あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください。

礼拝で雅歌からお話するのは初めてだと思います。雅歌は、恋人同士の情愛が強いので、説明するのも恥ずかしくなってしまって、若い頃はとても無理でした。

 雅歌の全体的意味合いは、ソロモンとシュラムの娘との強い愛は、キリストと教会との関係を指すというものです。神は、人間を男と女とに造られ、愛し合い、依存し合う関係を意図されました。ですから、男女が結婚し、深く強い愛情をもって結びつき、家庭を築き上げて行くのは、聖書の教えの重要な部分です。

 結婚には、「病める時も健やかな時も、貧しい時も富んでいる時も」愛し合うという契約は重要ですが、もっと大事なこと、根本的なことが、伴侶に対する情愛の強さです。仲良く歩むということは、情愛の深さと強さが不可欠です。伴侶と一緒に過ごさない日が、1日でも寂しくてたまらない、ということは仲の良い夫婦では当然なことです。

 「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を献げられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5・25)とあるほどに、自分の妻を愛することについて命がけである必要があるのです。そして、妻も自分自身の判断で生きるのではなく、自分の判断や理性、要求や願望を置いて、夫に身を委ね、夫に従うのです。

 マタイ25章にあるように、結婚の宴のために、花婿が来るのが遅れることは良くあるようです。花婿を出迎える10人の乙女は、花嫁ではありません。彼女たちは、式の準備のために夜更けまでも灯を照らして、花婿を迎える用意をしていなければならなかったのです。十分な用意をしないで、「しょうがなかったのだ。」、と言い訳を言うことは許されず、彼女たちは婚礼の席から追い出されるのです。

 さて、花嫁もどうしたことでしょうか。それが、この聖句です。花嫁は、花婿が来るのが遅れたので、「心が冷め」てしまいました。花婿が戸を開けてくれ、と言っても、自分が寝てしまったので、面倒くさくもない、また遅れたことに怒ってしまったのです。花婿は、どうにかして戸を開けようとするので(4節)、やはり花婿への思いが戻って、あわてて、香水を身に付けます。

ところが、そんなことで手間取っているうちに、花婿は怒って、去ってしまいました。世間知らずで自分勝手な女性は、自分の考え通りに男性を操縦しようとしますが、そういうことは男性を怒らせるだけです。男性というのは、アドレナリンが強いので、自分の思い通りに妻が対応してくれないと怒ってしまうのです。妻の方は、従うということよりも、夫に優しくしてもらいたいので、甘い言葉や丁寧な対応を願うのですが、それが夫を怒らせるのです。ともかくは、新婚の初夜ですから、花婿は怒って去ってしまいます。

じらして思い通りに、花婿を操縦しようとした花嫁は、そんな激しい男の感情に驚き絶望して気を失ってしまいます。気がついて、あわてて花婿を追い、夜の街に出るのですが、見つかりません。男性は怒ったら、もはや妻の気を引こうなどとは思わないのです。腹を立てて、仲間の所に行ったに違いありません。

花婿を探し回る花嫁は、夜回りの注意にも耳を貸さず、興奮して叫んでいるので、彼らに打ちすえられました。夜中に声を上げてうろついている女性を、いかがわしい女だと思い、かぶり物を剥ぎ取って、調べたりしました。もはや、花嫁の状態は、発狂状態となり、花婿を求めて、苦しんでいます。

 パウロは、コリントの教会を、「清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストに献げることにしたからです。」(Uコリント11・2)。「私たちは、喜び楽しみ、神を誉めたたえよう。子羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」(黙示録19・7-8)。

 雅歌というのは、聖書には珍しい情愛の書ですが、結婚にしても、信仰にしても、大事なことは感動であり、情愛です。最近、感情的な敵意に基づいた理屈で攻撃されたことが何回かありましたが、自分の心が思い煩いで支配されそうになりました。妻と一緒に教会に来て、「わが魂よ。なぜうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも、神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」(詩編42・11)。と祈りました。

 そして、その1節「鹿を谷川の流れを慕い喘ぐように、神よ、私の魂はあなたを慕い喘ぎます。」と、喜びが私の内に満たされることを願いました。この世で、労苦は多く、苦しみは私たちの心から、喜びを奪い去ろうとします。しかし、聖霊は、私たちの心を執り成し、私たちに神からの喜びと平安を与えて下さいます。

 この花嫁が、喜びの中で花婿を向かえなかったので、花婿は去ってしまったのです。むろん、キリストイエスは、その後の6章にあるように、花園で花嫁を迎えて下さいます。計算で生きる者は、幸せになることはできません。信仰の実体は、その人の内にある喜びで確認できます。いつも喜んでいて、主を迎える花嫁のようでありましょう。


3月18日 主の山には備えがある。   創世記22114 
新改訳 創世記22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。

22:2
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

22:3
翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。

22:4
三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。

22:5
それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。

22:6
アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。

22:7
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」

22:8
アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

22:9
ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。

22:10
アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。

22:11
そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」

22:12
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

22:13
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

22:14
そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。



 患者さんと親とのカウンセリングをすると、青年になった子供たちの我がままと親の困惑がよくあります。子供たちの巧みな親への要求に対して、それが異常であると分かっていても拒めない親たちが多くいるのです。先日も、アレルギーで体調が悪くなったのに、その食物を食べ続け、こんなになったのは親の管理がわるいのだと文句を言っていました。私は、「どんなものを食べようと、それは自分が決めて食べているのだから、放っておいたら良い。そして、体調が悪くなり、動けなくなっても、親に文句を言い、要求を繰り返す限り、助けないほうが良いですよ。自分で、自分の人生について責任を持たない限り、何をやっても健康にも幸せにもなれません。」とアドバイスしました。親は、うちの息子は仕事ができるはずも、結婚が出来るはずもない、あんなに自分勝手な人間が、世間でやっていけるはずがない、と言いながら、息子の要求に渋々従っているのでした。

 現代社会は、勇気をもって生きることが難しい時代です。家庭だけではなく、学校でも職場でも、無理を強いる傾向があります。ノルマを厳しくして、守れない水準になるように人々を叱咤激励するのです。人々は疲れ果て、守れない基準に劣等感と挫折感を強くし、否定的な人間となって、生活を破滅させていくのです。無理な要求に対してノーと言う勇気と決断力を持つことが大事です。

 ところが、アブラハムは、王と将軍にも「あなたが何をしても、神はあなたと共におられる。」(創世記21・22)と言われるように、無理難題と困難にも打ち勝ってきた人間でした。どうしてでしょうか。15章には「アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」と神に言われ、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(15・6)とあります。かれは、苦難にも試練にも、理不尽な要求の時にも、神が自分を祝してくださると信じたのです。自分の理性での判断や感情的な迷いではなく、神が祝福してくださると、信じたのです。

 17章には、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と言われました。全き者とは、完全に神に信頼するということです。神に信頼するとは、能力や力、状況や計算で判断しないということです。私の周囲には、状況や能力で判断して、「あれはだめだ、あの人はしょうがない。」などと批評ばかりしている人が多くいます。面白いことに、自分はその範疇にはないらしいのです。周囲の人、皆にケチをつけているのを面白がって聞いていてはいけません。あなたのいない所では、あなたもまたケチをつけられているのです。そういう人とは離れるべきです。

 そんなアブラハムが、神によって試練に遇わされました。自分の年老いて生まれた一人息子を神の山で、全焼の生贄として献げなさいと命じられるのです。ここで悩み、苦しみ、悶えるのはアブラハムも同様だと思います。しかし、それでも彼は、翌朝早く、主の山への旅をイサクと一緒に始めるのです。イサクは、父の決しな形相に驚きながらも、父に従います。息子イサクを全焼の生贄として献げるための薪を息子自身に追わせながら、火と刀を持って進みます。

 イサクも、年老いた父が火と刀を持つけれども、生贄のための羊を連れてきていないのに気が付いており、とうとう父に疑問を投げかけます。ここで、自分が焼かれるとは気がついていないでしょう。しかし、父の苦しみと動揺、それでも必死に歩んでいることは尋常でなく、戸惑っているはずです。アブラハムは、「神ご自身が全焼の生贄の羊を備えてくださるのだ。」と神の全能と慈愛に自分の判断を委ねます。アブラハムにとって最も大切な息子の命までも、神に委ね信頼することを、アブラハムは選んだのです。

 私たちの思い煩いは、神に委ねないから起こるのです。自分の健康、自分の仕事、自分の家庭、自分の財産、それらを自分の判断と管理の内におきたいから、思い煩うのです。自分の能力で、物事を左右し、支配できると誤解するから、悩むのです。

 アブラハムは、それでも神の厳しい指導に従い続け、息子を縛り、薪の上に置きます。この時、イサクは既に青年になっており、年老いた父から逃げることは容易だったのにも関わらず、縛られています。自分の命を掛けて父に従い、神に身を委ねるという驚くほどの従順さを身につけています。イサクの人生は、おとなしいのですが何をしても祝福されるという経過を見ています。神に従い、自分の判断に頼らないという人生の指針が、この事件を通して身についたのでしょう。

 アブラハムが、苦しみながらも速やかに作業を続け、あわや息子を刀で手に掛けようとした時に、神が御使いを遣わして停めさせました。アブラハムが、神に従うことを何よりも優先していることが確認されたのです。そして、近くに角を藪に引っ掛けている雄羊を身代わりに全焼の生贄として献げました。

 そこをアドナイ・イルエ「主の山の上には備えがある。」と名付けました。信仰をもって歩み人の人生には、神があらかじめ祝福を備えて下さるのです。


3月25日 リベカの備え。   創世記241221 
創世記24:12 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。

24:13
ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。

24:14
私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」

24:15
こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。

24:16
この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。

24:17
しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」

24:18
すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま。」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。

24:19
彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう。」と言った。

24:20
彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。

24:21
この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。


 イサクという人は、先週お話したように青年の時に自分の身を献げる覚悟をしたので、何をしても一生、神に祝福された人でした。過去に献身したからと言って、その後に献身の思いを適当にしてしまったら、祝福を失うことは当然ですが。

 アブラハムは、一人息子の嫁を神に請願して、自分の故郷に信仰深い僕を遣わしたのです。遠い旅を経て、下僕は良い妻の気質をもった乙女を探そうと祈りました。それは、水の価値が尊い地方で、自分に水を飲ませて下さいと頼んだら、自分だけでなく、ラクダにまで水を飲ませてくれる親切で優しい女性を願ったのです。

 ラクダは一度に100リットルもの水を飲むそうですから、10頭のラクダでは、深い所にある井戸まで下りて汲み上げる為に、100回くらいは往復したかもしれません。旅の者が勝手に多量の水を汲んだら咎めを受けるかもしれないので、リベカは自らそれを続けましたが、自分の用事が進まないことを覚悟で、旅人を助けようとする優しい女性であることを示しています。

 旅人をもてなすことは、自分と利益のつながらない赤の他人ですから、何の報いもないことです。ですから、聖書では、旅人をもてなすことこそが、神の国に繋がる親切な行為であるとするのです。(マタイ25・35、ローマ12・13、Tテモテ5・10、テトス1・8、ヘブル13・2

 そのようなリベカの親切さ、優しさ、働き者である様子を見ていた下僕は、リベカに5.7gの金の飾り環と114gの2つの金の腕輪を贈ります。現在の価格でも数百万円はするでしょう。無私な労働には、法外な神からの祝福があるものですが、そういうことをする人は少ないようです。損得で生きる者は損得でつまずき、天に宝を積むことはできません。自尊心とか、名誉とか、地位とか、財産とかも、滅びて行くものですが、そういうものに自分の人生を掛けている人は、やはり滅びて行くものです。

 リベカの兄ラバンと父ベトエルは、凄まじく高価で立派なリベカへの贈り物に驚き、その旅人を迎え入れ、食事を提供しようとします。しかし、下僕は食事を取らずに、用向きを言います。それは、主人の息子の嫁さがしであり、神が自分の請願を聞き届けて下さり、リベカと会わせられたということでした。そして、これは間違いなく神から出たことであるが、あなた方がそれを受け入れるかどうかは、自分で判断してくださいと、迫ります。まさしく忠実かつ信仰深く勇気ある神の僕です。

 ラバンとベトエルは、下僕の信仰と気迫に押されて、リベカがイサクの嫁となることを承諾します。するとその僕は、そこにひざまずいて主なる神を礼拝します。そして多くの金銀財宝を彼らに与えます。

 翌朝早く、その僕は、直ちにリベカを連れて、アブラハムのもとに帰るといいます。ラバンたちは、10日間の名残を求めるのですが、彼はすぐに旅立つと言います。決断のできない彼らは、リベカ本人に問うのですが、リベカは、直ぐに出かけると答えます。物事は、直ぐに行なわないと、雑念や打算が入り、うまくいかない
ものです。この下僕は、人の欲望や誘惑を良く知っている知恵たけた優秀な人です。

 リベカという女性は、このような判断と行動においても、決断力と信仰に満ちた女性でした。良いことは直ぐに行なうということは大事です。多くの人が、まあゆっくりしてと、テレビを見たり、食事をしたり、雑談をして、機会を逃します。「失敗をしたらどうしよう。」、「どのようにしたら良いか、よく考えよう。」、「人の意見を聞いてみよう。」などとして、なすべきことが分かっているのに、決断することに怖気づいてしまうのです。

 成功する可能性と失敗する可能性は、いつも五分五分です。成功する可能性に掛けても、その後にまた決断をしなければなりません。信仰というのは、それぞれの決断の時に、ただ神の祝福と導きを仰いで、恐れずに決断をするということです。決断をしなければ、間違いなくうまくいきません。うまくいくかどうかは、わかりませんが、決断の積み重ねでその人の信仰や人格が形成されるのです。

 信仰の歩みが出来ない人は、決断の出来ない人です。リベカは、ラクダの多さを見て、水汲みを躊躇することはありませんでした。この人たちには、自分が水を汲むしかないと覚悟を決めたのです。嫁入りの覚悟を決めたら、兄や父の判断や人情を仰がずに、旅立つことを決めたのです。

 他の人の意見を聞いてから判断するなどということは、失敗する人の姿勢です。正しいことはする。神に喜ばれることはする。自分の人生は、自分で築き上げるのです。私たち夫婦は、今でも多くの避難や攻撃を受けます。指導者が避難や批判を受けるのは当然です。しかし、信仰と勇気をもって進まなければ、人々を導くことも、幸せにすることもできないのです。人から陰口を叩かれるのが怖くて何も出来ない人は、神を畏れていないのです。

 リベカは、双子の息子のうち信仰がなく粗野な長男のエサウが、長男として神の祝福を受け継ぐことを危惧し、次男のヤコブに父を騙しても父の祝福を得なさいと説得します。「わが子よ。あなたの呪いは私が受けます。ただ私の言うことを良く聞いて、行って取って来なさい。」(27・13)と子ヤギを取って来るように命じ、夫を騙すことを堂々と行ないました。信仰を軽んじる長男が神の祝福を得ることを、断じて認めることができなかったのです。なんと凄い勇気と決断力でしょう。