10月2日 老いてこそ人生   創世記121~9


新改訳 創 12:1-9

12:1
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

12:2
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

12:3
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

12:4
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。

12:5
アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。

12:6
アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。

12:7
そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

12:8
彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。

12:9
それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。


 テロメアによる人間寿命の限界120歳について先週お話ししましたが、哺乳類の寿命は脳の大きさと関係があるという説、そして身体のサイズと相関するという説もあるそうです。また、性の成熟が遅い動物ほど最長寿命が長いそうです。むろんクリスチャンとしては、一般の知識が説明するような、人間を動物と一緒にする考え方をそのまま受け入れてはなりません。そうすると人間が単なる生殖を目的とした動物のようになってしまうからです。そして、進化を前提とした適者生存の法則を受け入れることになり、環境の変化(放射能汚染をも含んだ)に対応して生き残れる者だけが生き抜いていくことを認められるという考え方となり、障害者や弱者を捨て置くものとなるのです。

 人間を神は、「地を従え、全ての生き物を支配するもの」、万物の霊長としてお造りになられたとあるのです。そして、出産可能年齢が45歳とすると、後の75年、平均年齢からしても後の40年の意味合いは何なのか、と問う必要があるのです。昔は平均寿命が65歳くらいでしたから、父が45歳の時に生まれた私は、「大学卒業まで親が生きていると思うな」(つまり父は平均寿命を越える)と言い聞かされて、自立の道を励んできました。

 労働に人生の意味合いがあるとすると、働けなくなったら若い者に迷惑を掛けずに死ぬべきという姥捨て思想があることになります。聖書の言う「支配」を労働と見るならば、その人間の使命を果たせなくなったのですから、仕事ができなくなる60歳過ぎには死んでも良いことになってしまいます。

 私の咳は百日咳でした。免疫力があると成人はなかなか掛からないそうですが、疲れがたまったのでしょう。若い時には、疲れたと言いながら、働き続け、育児もやって来ました。今は、とても幼子の子の世話など体力的に出来るものではありません。つまり、労働にしても子育てにしても、役に立たないものになってきたのです。

 ところが、今の歳になってやっと、自分の思い通りに生きる条件が揃ってきたのです。私が他の方と違う生き方を取ってきたのは、もし私が仕事や牧師としての献身を第一に考えてきたら、家庭崩壊すると考えたからです。普通ならば30歳から50歳の働き盛りに、人生を掛けてひたむきに働きまくるでしょう。

 私が学に志したのは13歳の時で、自ら満足のいく生涯を歩もうと決心し、孔子の「70にして心の欲するままにして矩を超えず」というように70歳時の満足を目標に生きてきました。そして、家庭を犠牲にして仕事をし、牧師たちも信者に家庭を犠牲にして信仰第一を強いる姿勢に反発を覚えてきました。「神の国とその義を第一にすれば、すべての祝福は添えて与えられる。」という聖書の言葉は、決して仕事や地域教会の活動を中心とするものではないと考えたからです。そういう面で、私は決して優秀な牧師にも、宗教的指導者にもなれない人間だと思います。私としては、「神の義」というのは、自分を大事にして神の喜ばれる人生を送り、自分と同じように人を受け入れ愛することです。

 アブラハムが神の語り掛けを聞いて、カナンへと旅立ったのは75歳の時でした。私の推測では、75歳になった時に、アブラハムは自分の人生の意味、価値を考え、振り返ったのではないでしょうか。真面目に父に仕えてきたが、父のテラは道途中のハランに住み着いて、何の希望もない日々と送っていました。それで良いのかと、自問し、祈っていました。

 すると、神は、「あなたの生まれ故郷、父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と語りかけました。生まれ故郷はカルデヤのウルですから、既に出ています。苦しいのは、父と離れる決心だったでしょう。父と離れるということは、過去の繋がりを一切捨て、新しい歩みをすることだからです。

 神の義を求めて生きるということは、人間の義務や関わり、自分の習慣や考え方を二次的なものとして、神第一に生きるということです。だからこそ、社会的な成熟を遂げた年齢が必要なのではないでしょうか。

 もし、子どもが幼い時に神第一に生きたら、子育てはうまくいきません。人を気にしないで、自分で思うように生きられる年齢になった時に、「神の国とその義をまず第一に追い求めなさい。」という命令が全うできるではないでしょう。そして神は、それを待っていてくださったような気がします。

 ところが、人間にとって、そのような老境になった時に、神や人に従うということは大変なことです。当教団の力丸牧師が若い時に超教派の海外の大会に参加され、リンレイワックスの社長さんと同室なったそうです。その人は、力丸先生に従い、礼を尽くして対応されたそうです。歳を取った今、私も人を育てること、人を世話すること、人や社会に尽くすことの大事さがよくわかって来ました。

 アブラハムにとって、若く自分勝手なロトを同行することは、やりづらいことも多くあったでしょう。しかし、それは老齢になった者の責任であり、弱さを守り、支えるべき使命を与えられたことかと思うのです。



10月9日 自らを支配する   創世記126~31 
新改訳 創 1:26-31

1:26
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

1:27
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

1:28
神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

1:29
ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。

1:30
また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。

1:31
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

新改訳 Vヨハ1:2

1:2
愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。



 アップル・コンピュータの創立者であり、アイフォンやマックなど世界のIT業界をリードしてアップルを世界最大の企業にしたスティーブ・ジョブズがすい臓がんで死にました。大変なカリスマ性をもっていたことは事実ですが、競争相手を蹴落とし、人や部下に辛辣な言動を為し、ナンバープレートを付けない車を乗り回していた傲慢な人間でした。完全なベジタリアンで、果実食中心で日本食も好物だったそうです。

 世界は、彼の才能を惜しみますが、能力優先の考え方ですから、私は現代の罪の結果の死の象徴だと思っています。肝臓も移植しており、痩せすぎはホルモン異常のためであると説明していましたが、人を酷い言葉で罵倒したり、喧嘩したりする人がアドレナリンが出続けて、すい臓を悪くするのは尤もなことです。長生きをしようとベジタリアンになったのでしょうが、落ち着いた生活をするほうが大事で、果実やジュースは血糖値を急激に上げるので、却ってすい臓には悪いのです。死んだ人を悪く言うようでマナーが悪いのですが、世界に大きな影響を与えた人だからこそ人生の意味を考え、魂の救いがあったらと思ったのです。

 創世記では、神は人を完全なものとして造られ、支配権を付与されました。しかし、人は罪を犯した故に、労働が苦しみとなり、出産も苦しみとなり、殺人も犯し、いのちも短いものとなりました。人間が死ぬ原因は、@寿命、A病気、B事故と怪我、C戦争や殺人、などですが、神と共に永遠に生きる条件は、イエス・キリストによる十字架の救いだけです。

 救いとは、自らの罪を認めて、その罪がイエス様によって十字架で代わりに罰せられたことを受け入れ、赦しを信じるという簡単なことで全うされるのですが、簡単なことが一番難しくなります。簡単でなければ、努力になり、功績になるのですが、人間には神の前に為し得る功績がないので、ただ信じるしかないのです。

 病の癒しについて前にお話したように、重症の時は神に必死に癒しを求めるのですが、良くなると治療しようとしなくなり、前よりも悪くなるのです。そして、癒された人々が、いつのまにかイエス様を殺すことに賛成するのです。一病息災と言いますが、却ってなにか持病を持っている人のほうが、それを労わるので長生きをするということは多くあります。しかし、実は病気を持っていても、自分を労わり、自分の生活を改める人は少ないのです。ですから、一病息災の人は、謙遜な人であり、己が弱さを認めているから、結果として息災になるのです。息災とは、元気なこと、無事なことです。

 罪というのも同様で、罪を赦されても赦されても、悔い改めても悔い改めても、罪を犯し、そのうちに罪を意識しなくなる人もいます。だいたい罪を認めるというのは、聖霊なる神なしには無理であると聖書は言っています。自分の罪が十字架に掛かるほど罪深いものであると認める人は、生まれながらにはいません。なんとなく罪責感があるだけなのです。

 「嘘も方便」と日本社会では言われます。しかし、神の前では、嘘も誤魔化しも認められず、必ず裁きに掛けられます。実は、私たちは何となく罪だなと感じていることも、周りの人が皆やっているから平気だと考えてしまうのですが、それこそが罪性なのです。例えば、女性を奴隷のように考えたり、奴隷の人を人間とみなさなかったり、能力がないとしてバカにしたり、障害者を差別したり、民族的な違いを劣等性とみなしたり・・・、多くの罪を犯しているのです。

 大金持ちになろうとする人も多いのですが、その金を何に使うのでしょうか。「小さい事に忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さいことに不忠実な人は、大きいことにも不忠実です。」(ルカ16・10)とありますが、日常の金銭も神の為に仕えないような人が大金を持ったら、堕落するのは明らかです。

 そういう面で、自分持っているものを全て、神から授かったものとしてよく管理している者は幸いです。「管理者には、忠実であることが要求されます。」(Tコリント4・2)。パウロは、「人間による判定を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分を裁くことさえしません。」と言っていますが、人の目を気にせず、人の目にある判断よりも神の目を気にして、全てを神の支配下にあることを常に意識するのです。 

 自分の行動において、人間関係において、家族に対して、国や社会に対して、地球と環境に対して、神の律法に対して、果たして正しいと言えるのでしょうか。神は私たち人間に、或いは一人一人にそれらに対する支配権を授けてくださいました。それを全うしているのでしょうか。

 私は、自分の身体が損なわれていることを自覚しています。そして、働き過ぎであり、安息を守っていないことの害であることを意識しています。しかし、それを覚悟で、祖国のために、放射能汚染で苦しんでいる人々のために、子孫のために、海や地に棲む動植物のために、今は働かなければならないと決心しています。日本人が、クリスチャンでさえ、そんなことはできない、無駄であると言ってきます。それでは、誰が人々を救うために動くのでしょうか。誰かがするのでしょうか。国がするのでしょうか。国とは自分であり、人とは自分なのです。神の前に、私は自分がするべきことを自覚しているだけです。

 もしかしたら、無意味であり、無駄であり、徒労であり、愚かであり、妄想であるかもしれません。しかし、私がここまで、してきたことは全て、神の指示であったという確信があります。これからが、私の傲慢と愚かさと思われようと、他の人がしなくても、自分は神の支配権を自らの働きで全うしたいと願っているのです。若い時、加山雄三の「旅人よ」という歌に魅かれました。「草は枯れても、いのち果てるまで、君よ、夢を心に、若き旅人よ。」


10月16日 弱さに甘んじる。   Uコリント121~10

新改訳 Uコリント12:1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。

12:2
私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。

12:3
私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。――

12:4
パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

12:5
このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

12:6
たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。

12:7
また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

12:8
このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

12:9
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

12:10
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。




 信仰者が周囲の人から嫌がられるとしたら、律法的になったり、一人よがりになったり、感情的になったり、・・・ともかく、周囲に批判的になり、自己分析ができなくなった状態であると思います。私自身は、あまり人に指導しないように気をつけていますが、どうしてもガンバリ屋なので、力強く自分の考えと信仰を語ると、聞く人の側は、お説教を食らっているとか、指導されている、と捉えることも多いと思います。

 自分を管理せず、努力をしない人もいます。そういう人と一緒に仕事をすると、大変な迷惑です。家族がそうであれば、悲劇となります。私たちは、クリニックの仕事で、そういうことが体調の悪さ、病気から来ることを伝えていますが、習慣化した本人は、治りたい、仕事をしたい、良くなりたい、という考えが失せてしまうことがあります。仕事をしていても、努力や勉強を必要とすると、自分には向いていない、と辞めてしまう人は、どのような仕事もできず、幸せになることもできないと思います。

 私たちが信仰の道に入ったのは、これまでの価値観や生き方に違和感を覚え、真理や愛や生きがいを求めたからで、そこに神を信じて救いと解決をえたのであります。さて、その救いとは、「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって、義と認められるということを知った」からこそのことでした。つまり、自分の罪性というものを、努力や品性などで帳消しにするほど簡単なものではなく、存在からして自分勝手な罪人であると、認めることが信仰の最初なのです。

 救いとは、努力の結果であってはならないのです。ところが、私たちが教会に来て、今も神を信じて歩んでいるのは、信仰という努力の結果なのです。つまり、仕事と同じように、努力をしない信仰者は、胡散臭く、周囲からみても、一緒にいることは嫌なものです。そういう面で私などは、仕事も趣味も勉強も大変な努力家ですから、一緒にいると逆にプレッシャーを感じるかもしれません。会社の社長が大変有能で、社員にも同じような努力を強いたら、社員は仕事を頑張っても、疲れ果てることでしょう。

 信仰の祝福は、仕事や家庭の祝福、病の癒し、品性の改善などを痛切に望みながら、それを努力の結果としてよりも、神の祝福として求めることが大事なのです。いくら努力しても、人間の能力は限られています。努力で得られないのが品性です。家庭の幸せのために、いくら注意しても、事故や災いは降り注いできます。それに気がついて、神に祈り、神に委ね、神を信じることが信仰なのです。

 ことの成就、幸せの達成は、行いや努力では無理なのです。

 信じるとか、祈るということは、行いや努力とは全く異質のものです。

 祈ることと、神を信じることのない人間の行為は殆ど長期的には徒労に終わります。

自分の子供のために信仰によって祈っていない人は、子どもに口やかましく注意し、指導し、教えますが、子どもはそれを嫌います。

 日常生活で祈っていない人は、気配りをし、計画をし、力の限り努力しますが、疲れ果て、嫌がられるだけです。

 パウロは、石打ちに遭い、死にかかって天国を垣間見ました。その体験があまりに凄いので、人間の努力や栄華など、何の価値もないことに気がついたのです。

 パウロは、神が与える恵みは、人にとって十分なものであり、神の大能に気がつくことこそ、神の祝福を十分獲得する秘訣であると悟ったのです。だから、「キリストの力が私を覆うために、むしろ喜んで私の弱さを誇りましょう」と考えたのです。

 私はいつも子供たちのために祈っています。思う通りにはなっていないし、ならないと思いながら、神が最善のことをしてくださると信じて心を定め、子供には注文を言いません。

 自分の仕事も思い通りにしようなどとは考えません。何が神に喜ばれ、益であり、人のためになるかを考えて、最善を尽くすだけです。最善を尽くせず、人から非難されたら、そんなものかと覚悟して、甘んじて批判や失敗を受け入れます。自分の弱さを認めない人には、他人の批判や失敗は、嫌なもの、邪魔なものでしかなく、神の恵みを受け入れるには、傲慢過ぎると思うからです。

 自らに報いがなく、称賛がないことを当然とするのは、難しいことです。「弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじる」ことを平然とできたら、神の祝福だらけになり、たいそう強いものになります。

 信仰者というものは、他人に厳しくあってはいけません。自分の子供、自分の部下、障害者、病人、弱者、罪人に対して、優しくあることができれば、神は私たちの傍にいつもいてくださいます。


10月23日 多くの実を結ぶ   ヨハネ151~9  

新改訳 ヨハ 15:1-9

15:1
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

15:2
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

15:3
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

15:4
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

15:5
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

15:6
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

15:7
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

15:8
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

15:9
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。




 クリニックで食品の放射能数値が分かる線量計を買いました。我が家の柿が変な熟し方をしたので心配でしたが、残っている物は堅いしっかりとしたいつも通りの実なので、計測したら殆どないことが分かり安心しました。東北の果実農家は、売れないということで、大変な状況のようです。手塩にかけた樹木から実った実が売れないということはどんなに苦しいことでしょうか。

 先週、信仰というのは、神を信じて歩むことであり、努力の結果を求めるものではない、ということをお話しました。神の祝福としての果実を求め、与えられながら神を信頼して歩むということが大事なのです。その実が実らないと神からは拒まれるということがマタイ21章19節にあります。

「教会に来てください。」「神を信じましょう。」と言うと、「神を信じてあげる。」とか、「神は信じない。」とか勝手な物言いをする人が日本には多くいますが、神を信じるということは、天国に行く条件なのです。天国に行き、神と信仰の友と永遠に幸せに過ごしたいと望まない人は、神を信じなくてもよいのです。それでも私たちは、家族や友人、さらに多くの人に神を信じて欲しいので、ついへつらってしまうのです。

牧師も教会も、信者が増えると献金も増え、メリットも増えるので、伝道において媚びてしまうことがあります。教団の財務局がニュースとして、多くを献げると多く祝福されるから沢山献金しようと勧めていましたが、私はそういう御利益信仰を健全だとおもっておりません。神からの祝福は大事なものですが、こんなに献げるから祝福してくれ、という交渉的なものを信仰とは言わないと思います。アメリカや韓国には、そういう交渉的信仰が多いように思いますが、そういう考え方は聖書の基本的考え方と違うと思います。

神の国を用意しておられる神の条件に応じて、それを果たすことが人間の義務なのです。それが嫌なら、神の国には入れず、魂は地獄に行くと聖書に書いてあります。この世の生き方を愛し、この世の栄華と幸せを願って、神の国や人間のあるべき生き方を求めない人は、神の国に迎え入れられることはないのです。

患者さんが医師やスタッフの応対が悪いと言って、文句を言い、怒ることも自由であり、私たちは、それに対して誠実に対応するのはマナーです。医療機関というのは、それが義務なのです。但し、文句を言うだけでなく、治療も止めたら、その患者さんが治らないで自ら苦しむことになるのです。治療に関しては、医師に従わなければならないのです。

 さらに、神を信じて歩んだ結果としての実りが、良いものか悪いものか、ということを問われるとも書いてあります。「木の善し悪しは、その実によって知られる」(マタイ12・33)とあるからです。つまり、悪い人から、良い行いや結果は得られない、良い人から悪い行動は起こらないということです。私たちは、人の言い訳や対応に誤魔化されていますが、神は私たちの動機と心の中を見抜きます。

 今回の放射能関係のことも、結局企業も人も、「儲からない、苦労が多い、やったことがない、先が読めない、大変だ。」ということで、手を引いています。日本人は、会社とか役所の権威の下で動いていて、自分個人の人格で生きている人とあまり会っていません。

何が良いことで、神に受け入れられるのか」(ローマ12・2)と模索しながら、歩んむことが大事で、「できることならばやる」、という考え方で、神の僕とか、キリストの大使という意識を持つ常識的クリスチャンが大事かと思います。今回は、別会社を設立し、利益は東北の被災者のために費やそうと考えております。

 今日のテキストはブドウの木の特性が書いてあります。イエス様がブドウの木であり、私たち信者は枝であるとあります。枝もブドウの木の一部ですが、木は切り取られず、枝は削除されたり、刈り込みがされるのです。実を結ばない枝とは、どんな人のことでしょうか。怖いものです。要するに、教会に繋がっているだけではだめだということです。クリスチャンとしての結果を出さない人は、木の幹から取り除かれるのです。取り除かれた人は、神からの祝福をもはや受けることができません。信仰者としての喜びがなくなり、枯れて、火に投げ込まれるのです。

 私はクリスチャンとして多くの実を稔らせてきました。それでも周囲を見ると、古くなって実を結ばなくなっている枝が多く見えます。キリストに留まっているということは、多くの実を結ぶということによって証明されます。また、キリストの愛に留まり、愛に満たされていることが、自分でもわかるのでしょう。

枝が多くの実を結び、大きく太くなると幹の本体と区別がつかなくなります。そうなると刈り込みされなくなるのでしょうか。ともかく、私は本当によく刈り込みをされていると思います。

 「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Uコリント5・15-17)


10月30日 120歳まで生きる。   Tコリント4章1~5,1517節 
新改訳 Tコリ4:1-5

4:1
こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。

4:2
このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。

4:3
しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

4:4
私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

4:5
ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。

新改訳 Tコリ4:15-17

4:15
たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。

4:16
ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。

4:17
そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。

 「神のデザインによる医療」151頁を書き上げました。これまでのクリニックや治療の会で発表した資料を、まとめ上げたものです。家内や娘に見せると医学的には、ああだ、こうだ、と細かく言うのですが、私のような素人には、そう言われるとわからなくなります。二人が難しく言ったところは省いて、ともかく健康の為の知識を分かり易く説明することに努めました。実は、伝道の為の本なのですが、そうは思われないでしょう。クリスチャン向けの本は多くあるのですが、伝道向けというとクリスチャンでも読みたくない堅苦しいものになるので、こういう本を書きたかったのです。売れたら、その試みは成功したことになりますが、さて教会に繋がる人が起こるか、祈るばかりです。一部を紹介します。

自分が「80歳まで生きれば良い。」と考えていたことが、傲慢であり、自己管理の義務を放棄していたことに気がつきました。「人の齢は、百二十年にしよう。」と神が言われたのですから、勝手に八十年で十分などと考えることが、神の命令に背いた生き方になります。百二十年生きるように、自分の身体を管理し、慈しまなければ、身体と人生を与えてくださった神の御旨に背くことになります。現在五十八歳ですから、まだ倍以上の人生があります。如何に大事に自分を管理し、私の人生に与えられた神からの使命を全うし、そして喜びの日々を過ごさなければならないか、よくよく吟味しなければなりません。

 120歳まで生きようとすることが、神からの最も大事な人間に課せられた使命であるとしたら、私たちはどのように生きなければならないでしょうか。

1. 死んではなりません。

2. 病気になってはいけません。

3. 怪我をしてもなりません。

4. 良く働き、良く休み、良く食べて、良く寝なければなりません。

5. 怒ったり、喧嘩したり、不摂生をしたり、堕落をしてはいけません。

6. 夫婦仲良く、親を敬い、子を養い、友と交流し、国を愛すのです。

7. 自分の弱点と長所を理解し、良く自分を管理する必要があります。 

 これらが果たされれば、まさに神の国に住まうようです。そうです。この地上の人生を神の国のように過ごした者が神に入る資格があるのです。伝道と言いますが、それは福音を伝えることであり、神の愛、神による救いを伝えるのですが、その救いの結果が、このような生活でなければ、何の魅力があるでしょう。

 このような生き方こそ、神の奥義であり、神秘なのです。この奥義の管理者として、私たちは、神の、御旨に忠実に生きなければなりません。「少しくらい不摂生をしてもよい」、少しくらい怒ってもよい。」、「少しくらい・・・」と堕落して行くのです。健康は、基礎力の積み重ねです。食べ物に好き嫌いがある人が健康になることはありません。不摂生をする人が身体を壊すのは、当たり前です。自分のことを自分で出来ない人が、幸せになることはありません。努力なしに成功

はありません。人を愛するということは、忍耐であり、寛容であり、親切です。自分勝手な人が幸せを獲得するということはないのです。

 人の判定や裁きを気にしないと3-5節にあるのは、人の目や常識、そして習慣というものが、決して神の法則に適っていないで、罪人の妥協の上に成り立っているからです。人の目には非常識や異常とされることでも、自分と家族のためには敢えてすることがあります。常識とかマナーとかを人に要求する人は、自分がその奴隷になるので、自由になることがありません。心の中の尺度で、神に喜ばれ、正しいことを判断し、そして神の義を守ろうとすることが大事なのです。

 勤務の条件を守らず、必要な努力をしないで言い訳を言う人は解雇されます。自分で正しいことを判断できない人も罰せられると聖書は書いています。管理者には、努力が必要なのです。怠け者は、外の暗闇に追い出されると、イエス様が言われるのです。この法則を信じて、怠け者を赦さないということが、神の義を守るということです。ルーズな育て方をされた子供は、自分勝手な生活をして生活も健康も破壊するのです。

 私たちは、自らが罪と欲に対してルーズなので、人も律することが出来ないのです。パウロは、「どうか、私にならう者となってください。」と言うことができました。「キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。」というような人物に、あなた自身がなる必要があるのです。

 自堕落な生活をしてはいけません。120歳どころか、私たちは永遠に神の国に生きるかどうかの、大事な生活を送っているのです。



11月6日 終末を生きる。   マタイ24314 

新改訳 マタ 24:3-14

24:3
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

24:4
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。

24:5
わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

24:6
また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

24:7
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

24:8
しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

24:9
そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

24:10
また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

24:11
また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

24:12
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

24:13
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

24:14
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます



 現代社会に生きるということは、非常に複雑な社会が築き上げられているので、なかなか面倒で神経のすり減ることが多いと思います。国際経済を見ても、ギリシャの破綻は殆ど回復不能なほどにいっており、日本の国の債務も880兆円を超えているのですから、税収の17年分程になっており、返済不能になっています。アメリカも債務が増えており、多くの国が債務超過になっています。企業や個人が債権を持っていても、その価値が下がるのですから、そこも破綻します。要するに、現代社会は、勝ちのない破綻社会になっていくのです。

 個人についても、家庭で丁寧に育つ子は少なく、情報社会に生きる者として年少の頃から学ぶことを要求され、情緒的な養育は望むべくもありません。その上にストレスが増え、環境が悪化し、食事も劣悪になっていくので、殆どの人にとって、ゆとりのある幸せな生活というのは難しくなっています。

 120歳まで生きる、ということを語りましたが、環境・社会・国家など悪化の一方のようです。自然災害もこれまでになく大きなものが頻発し、更にそれらを破綻させる要因となっています。放射能汚染も、この先30年以上、日本全体を蝕んでいくでしょう。私が申し上げたいのは、そういう社会状況と時代だからこそ、自らをよく管理しなければ、この世と罪に負けてしまうということなのです。

 世の終わりがあるということを聖書でははっきりと教えています。イエス様は何度も繰り返して、世の終わりと天地が滅び去る(24・35)ことを教えているのですが、悟らない人は、そういうことを考えてもみないようです。その終末の前にイエス様が信者を迎えに来られます。「目を覚ましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるのか、知らないからです。」(24・42)。「だから、用心していなさい。なぜなら、人の子は思いがけない時に来るのですから。」(24・44

 終末があり、この世が滅びるのならば、長生きをしようとか、健康でいようとか考えるのは無駄だと考えることがあるとしたら、それは滅びる人の場合です。続く25章には花婿を迎えるために備える必要のある10人の使用人の乙女たちのことが記されています。そのうち5人の乙女は賢く、灯と灯を燃え続けさせる予備の油を用意していたのです。予備の油とは、夜が長いので、それに備えて十分な油を用意するということです。

 エジプトでヨセフが宰相になった時、七年の豊作の後に続く七年の飢饉のために穀物を蓄えておきました。私たちが、神の言葉と終末を信じるならば、平和のうちに試練に備えなければならないのです。

 教会では、防災用に多くの水と食料を備えました。教会員の皆さんにも、備えをお勧めしましたが、実行したでしょうか。教会の備えに依存して自ら備えない人は、試練や災害に生き抜くことは難しいと思います。津波に対しての警告は、東北の海岸には多くの所に昔から記されていました。しかし、備えていない人々は、海岸沿いに家を建て、多くのダメージを受けました。

 私は、尤も必要な備えは、体力の維持と強化だろうと思うようになりました。今回の震災で直接に死んだ人も多かったのですが、その後の体調の変調により死んだ人もかなりおり、また体力がなければ、その後も生き抜くことが難しいのです。更に基本的なことが気力です。そして、一人では決して生きてゆくことができないので、助け合える仲間の確保です。私たちは、助けを求める側ではなくて、できるだけ助ける側に立つことを意識しなければならないと考えます。 終末とは、気力も体力も、食料事情も経済力も、環境や安全も危なくなる時代であると思います。私は、神に仕え、人を助けるために、自分が弱く力のない者であることを自覚します。

北方謙三の水滸伝を八巻まで読みましたが、国と戦うために梁山泊の軍が軍としての戦力だけでなく、経済力や生活力を必死に付けようとしていることに納得します。日露戦争の際も日本は、ロシアの国力に対抗しようとして必死に軍事増強を図りながら限界をよく理解して速やかな和睦をしました。太平洋戦争の時、日本は明治三八製の三八式銃で半自動小銃を持っていたアメリカ軍と戦い、最後は肉弾戦をしようとしていたと櫻井教授が教えて下さいました。原子爆弾でさえ、過小評価をして戦争を継続しようとしたのです。

5タラントをもう5タラント増やすことは大変な努力を要します。2タラントにしても同様です。具体的には、自らの力を強くし、蓄えを増やすことです。今考えていることは、共同農場を持つことです。歳をとって一人で都会に住むことは、なかなか難しいことです。グループホームのような形を取り、教会員が一緒に助け合いながら住み、作物を育てるのです。一人で力を付けるのではなく、一緒に仕事をしながら、力を付けて行くのです。

福島第一聖書バプテスト教会は、福島県双葉郡大熊町という原発の隣に位置していたので、教会員ごと避難し、流浪の教会として奥多摩福音の家に共に暮らしています。そして、来春に福島に共に帰って暮らすことを計画しています。

私たちも、自分の家を確保していてもよいのですが、教会員が共同作業で畑を耕し、少人数でも一緒に暮らせる場所を確保して、それを拡大して行こうと考えています。途方もないようなことでしょうが、皆さんと一緒に検討して行きたいと考えています。


11月13日 幸せになる。   申命記6313  

新改訳 申6:3 イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。

6:4
聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。

6:5
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

6:6
私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。

6:7
これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。

6:8
これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。

6:9
これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

6:10
あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、

6:11
あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、

6:12
あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。

6:13
あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。

 曽野綾子さんが、幸せになる、ということは、その人の感覚の問題であって、他の人がいくら努力しても、その人を幸せにすることはできない、と書いていました。私は、晴耕雨読が理想で、傍に妻がいたら幸せです。

しかし、既に3ヶ月も咳が続いており、治ったと思った百日咳が悪化しており、喉には緑膿菌がついていました。妻も忙しく、頬がげっそりと痩せてしまい、私にはそちらのほうが心配です。忙し過ぎた罰のように感じ、少し休養を取らなければならないと感じています。放射能関係の働きも、小さな企業の限界を感じています。普段通りに働いた上に、この期間に3冊も書き、そして除染などのために外国を含め動き回ったのは、神の恵みを受け取る暇も無くしてしまったかと反省をしております。

信仰生活というのは、時間の中に真実が現れます。神を信じ、人々を愛し仕え交流し、犠牲を持って生きて、喜びと平安を保つように努めれば、おのずと信仰生活は深まり、幸せは深くなっていきます。金持ちになろうとしてあくせく働いたら、お金はなくなり、喜びもなくなって行きます。日曜に自分の用事を優先する人に、神が祝福を注ぐということは、あまりないでしょう。

 今日は、子供祝福式ですが、子供は何もできない乳幼児期に親を一生分幸せにするという言い方をすることもあります。何かをするということが、人間を幸せにするということではないでしょう。

 娘の友達が我が家に泊るというので、高価な土産を持ってきました。そのように気を使うのであれば、友の家に泊まるということもなかなか出来ないでしょう。放射能対策で、未信者の政治家や企業の人々と付き合うと、お礼や挨拶など気を使うことが多く、私のような人間には、かなり疲れます。超教派の集会にも、10年以上参加していませんが、状況報告や自己紹介が自慢話みたいで好きでないからです。「証し」という言葉で、神の祝福を競い合うみたいなことは、凄く嫌いです。だから、そういう傾向のある牧師たちとの交流は、なるべく避け、役職も遠慮したいと思っています。

 幸せというのは、競争で勝ち取るものではないのです。神や人との交流でしみ込んでくるものなのです。だから、人を差別したり、馬鹿にしたり、自慢を言う人が、幸せになることはないのです。

 日本社会は、競争社会です。私は子供に成績の善し悪しで、口を出したことはないつもりです。部活でも塾でも進学でも親が子供に期待するから、子供はそれを追ってしまいます。それよりも、一緒に食事をし、遊びに行き、仲良く過ごすほうがずっと大事なのです。

 欲望があるとすれば、幸せを感じていないからです。やりたいことをし、食べたい物を食べ、楽な生活をしたいという人々は、そんなことで幸せになることはないことを知らないのです。

 信仰は義務感から持つものではありません。祈らなければならない、聖書を読まなければならない、献金をしなければならない、礼拝に参加しなければならない、などと考える人は、普段の生活を義務からやっている人です。

 子供をそのように育ててはなりませんし、自分もそのように生きてはなりません。子供も、他人も思うように動いてはくれませんし、問題を起こします。それでも良いではありませんか。神様でさえ、人間が思う通りにならないことを知っています。

 ですから、父なる神は、私たちに命令を出します。それは、神を愛せよ、という命令です。奉仕をしろ、献金をしろ、祈れ、などという命令ではないのです。

 赤ちゃんに要求する人がいるでしょうか。赤ちゃんは何もできません。何もできないのに、私たちは赤ん坊がいると可愛くてたまらなくなり、幸せになります。幸せというのは、努力の結果ではないのです。

 ところが、少し子供が大きくなると、優秀になれ、大きくなれ、性格の良い子になれ、親に従え、などと子供に要求を始めるのです。そして、怒りやすくなり、しかったり、罰したりするのです。だから幸せでなくなるのです。

 夫婦の間でもそうです。要求が強いから仲が悪くなるのです。自分のことよりも伴侶のことを互いに大事にしていたら、仲良くなり幸せになるのです。

 今日の聖句は、そういうことを何よりも優先し、子供たちに神を愛することを教え込みなさい、ということなのです。


11月20日 収穫の秋、神への感謝。   レビ記233941節 櫻井圀郎師

39.
 確かに、第七の月の15日に、汝の、地の産物の収穫に、汝は、主の祭を祝い、第1の日は安息日とし、第8の日も安息日とする。

40.
 汝は、第1の日に、美しい木の実、椰子の掌、綱の木と谷のポプラの枝を取って取り、汝の神、主の前に向かって、7日、喜ぶ。

41
.汝は、年に7日、これを、主への祭を、祝う。第七の月に、これを祝う。汝の子孫らへの永遠の定めである。






 「秋」とは?/「穀物の燔祭(はんさい)」

T 収穫の祭

 1 「仮庵の祭(スコット)」

    「三大祭」/「過越の祭(ペサハ)」+「七週の祭(シャブオット)」

    7日間、仮庵(スコット/仮の小屋)で過ごす

    今年のスコット:1013日(木)?19日(水)

 2 3回の安息日

第1の日(スコット前日)/第8の日(スコット7日)/本来の安息日

 3 収穫感謝の祭

    農産物の収穫に対する感謝の祭/「秋祭」

    文部省唱歌「村祭」/北島三郎「まつり」

    すべての恵みの感謝

U 神への喜び

 1 美しい木の実、椰子の掌、綱の木と谷のポプラの枝

    柑橘類と緑の葉の枝

 2 「取って取れ」

    二重命令/命令者の保証付きの命令

 3 日本・欧州の習俗

日本の正月飾り/ゲルマンの樹木信仰/クリスマスツリー・リース

V 永遠の定め

 1 永遠の定め

    「永遠」とは?/「永遠の定め」とは?

 2 収穫感謝祭の意味


11月27日 待ち望め主を!   詩編4218節  
新改訳 詩 42:1-7

42:1
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

42:2
私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。

42:3
私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。

42:4
私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。

42:5
わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

42:6
私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。

42:7
あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。

42:8
昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。



 今年もあと、1ヶ月となりました。「新しいことをする」というテーマを揚げたのですが、まさにいろいろなことがありました。大震災だけでなく、世界中にいろいろなことがあり、その中でも政治家や金持ちは平気で同じように暮らしています。ラスベガスのギャンブルに100億円以上使い込み、平然としている人がいるという現実があります。政治家や企業家は放射能などの危機にも自分の身の安全だけを考えています。今回の本には、弱者の救済こそイエス様の働きであり、クリスチャンの為すべきことであると書きました。

 何人かの心病んだ方々と話をしました。人に迷惑を掛けてはいけない、と教え込まれ、自らの失敗や弱さに怯えていました。イエス様が、「悲しむ者は幸いです。柔和な者は・・・、義に飢え渇いている者は・・・、憐れみ深い者は・・・、心の清い者は・・・、平和をつくる者は・・・、義の為に迫害されている者は・・・」と叫んだことは衝撃です。「鹿が谷川の流れを慕い喘ぐように」私の魂も神を慕い喘ぎます。

 3月からの8カ月間かけずりまわり、奮闘しましたが、結局できたことは、この本1冊です。でも、自分の魂と叫びを書き記したという感慨があります。そして、百日咳もどうにか収まりそうです。この間の苦しみは何だったのかと振り返りながら、人の罪が収まりようもなく大きくなっており、終末が真近いことを思い知らされています。

 今は、この世の世知辛い仕事を引退し、神と共に弱者と共に落ち着いた日々を過ごす準備をしようと思っています。海の見える高台に小さな診療所兼教会兼別荘を建て、その横にグループホームと低血糖症の回復施設を作るのです。待合室では自由にお茶やお菓子を食べ、ソファーもテーブルもあり、そのまま日曜日には礼拝を持つのです。三階にはお風呂を作り、富士山を眺めるのです。とんがり屋根は十字架塔です。神を待ち望みながら、更に起こるであろう震災や災害そして戦争や事件から避難する人々を守るのです。

4節は、イスラエルの神殿に巡礼に行った楽しい思い出を思い起こしているのでしょう。神の存在を信じなければ、苦しさはただ我慢するだけのものとなってしまいます。神との交流の体験があり、信仰者同志の喜びと支え合いがあるからこそ、試練や批判にも耐えられるのです。

 空気清浄器の製作は無理となりました。放射能対策も暗礁に乗り上げています。しかし、うなだれ、絶望してはいけません。自分の為にやっているのでなかったら、これからの歩みが試金石となります。神を待ち望まなければなりません。

 思う通りに行かない時、苦しみ・悲しみの時、人から非難され・誤解された時、失敗と挫折の時、罪を犯し快楽に惑わされて後悔の念に苦しむ時、神を待ち望まなければなりません。5節6節のうなだれている要因は、大変な試練とその実解決が続いているからかと思います。人々は、神を信じている、と告白する人々を馬鹿にし、からかうでしょう。うまくいかないのに、なぜ神を信じ続けるのかと、そしるのです。

しかし、もし、神を信じ、救われなければ、その人の人生は破滅へと突き進んでしまうのです。私たち、愚かなように神を信じるのは、信じなければ絶望が私たちを覆い、悲しみが心を張り裂いてしまうからです。

神が、裁く方ではなく、怒る方ではなく、慈しみ深い方であるからこそ、私たちは、神を待ち望み、神に叫び、さらに神をほめたたえるのです。

 思い通りにいかないことなど、なんのこともありません。多くの弱き人々がそれを当然として耐え、ただ悲しみ悩み、そして自分を責めてしまっていることからすれば、活動ができるだけでも幸いです。


12月4日 主の訪れ。   ルカ福音書16780節 
ルカ 1:67-80

1:67
さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。

1:68
「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、

1:69
救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。

1:70
古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。

1:71
この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。

1:72
主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、

1:73
われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、

1:74
われらを敵の手から救い出し、

1:75
われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

1:76
幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、

1:77
神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。

1:78
これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、

1:79
暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

1:80
さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。


 イエス様の産まれる時代は、ローマ帝国がイスラエルを支配し、エドム人のヘロデ大王によって治められていました。ユダヤ人という意味は、アブラハムの孫のヤコブが神によってイスラエル(神が支配する、神が戦う、神の王子、などの意味)と名付けられ、イスラエル民族の父祖となるのですが、その12部族のうち、10部族の属する北イスラエル王国が滅び、南ユダ王国が残ったことから、ユダヤ人として区別されました。

現在のイスラエルは、失われた十部族をも戻して神の支配の国を作り出すシオニズム運動の中で、第2次世界大戦の後、ナチスの迫害の後、エルサレムを目指してユダヤ人が集まり建国したことから始まります。その際に1900年前に使われていたヘブライ語を採用し、読み方書き方を1から教育して国語としたのです。このヘブライ語は、昔の日本語と同じように、右から左に文字を書きます。旧約聖書は、古代ヘブライによって書かれ、母音を表す文字はなく、発音と共に引き継がれてきました。エホバの証人というキリスト教を真似る新興宗教がありますが、エホバという文字は聖書にはなく、神を表す言葉を読めないので、主(アドナイ)の母音を、現代ではヤーウェと読むと分かっている文字に臨時に当てはめて、エホバと読んでいた時代が19世紀にあったのです。

 さて、そのヘロデ王がエルサレムに神殿を再建し、多くの参拝人が起こったことなどから経済的には豊かな時代であったようですが、政治的には王権を確保しようと殺し合いなど酷いものがあったようです。宗教的には、聖書の教えを律法的にしたパリサイ人などの支配により、戒律の厳しいものがあったようです。それでもなお、聖書自体が語られ、読まれていたので、真摯な信仰者は多く、今日の聖句を預言する祭司ザカリヤのような人がいたのです。

 ザカリヤとエリサベツの夫婦は、老いるまで「神の御前に正しく、主の全ての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた。」。その人の信仰の真実さは、このように長い年月を経ても変わりなく、神を意識して正しく信仰の定めを守ることによって証明されるのです。

私たち夫婦も信仰をもって36年間礼拝を守り続け、説教をし、讃美をしてきました。おそらく六千回以上説教をし、その準備に数万時間を掛けてきたわけです。讃美も、数千時間してきたことでしょう。最近は、パソコンを使うので痛まないのですが、それでも聖書は何冊も使いつぶしてきました。その結果を先週、しみじみと感じることが何回かありました。日々の細々としたことが皆、信仰と結びついています。今回の本についても、医学と治療の詳細にわたるまで、聖書は何と言っているか、神は何を願っているのかと問いかけながら勤しんできた蓄積を書き現わしたわけです。

 神の前に忠実に歩んできたザカリヤでも、天使ガブリエルの突然と出現と、老いた自分たちに子供が与えられるとの言葉には驚いてしまいました。神はザカリヤの信仰の強めの為に、しばらくの間、口が利けないようにしました。言葉というのは、平気で不信仰なことを口にします。「私の口のことばと、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。」(詩編19・14)とあるように、言葉で不遜なことを言わない人は幸いです。ザカリヤの信仰を更に高め真摯なものにしたのは、この言葉を言えない十か月の日々だったのです。

 真実の信仰者は試練を経て、その信仰を強くし、偽りの信仰者や愚かな信仰者は試練の中で、自らの信仰をなくしていくのです。イエス様は、マタイ十三章の毒麦の例えで、この世に生きる中で私たち自身が、自らの信仰の真実性を明らかにすると教えています。家族にも周囲の人々にも、福音を伝えず、自らの信仰を表明していない人は、裁きの時に神にどのように取り扱われるか、よく覚悟していなければなりません。

 全ての人に神の裁きがあると知っているのが、真実な信仰者です。ザカリヤは、「主はその民を顧みて、贖いをなし」(68節)、「我らを憎む者からの救いである。」(71節)と、真摯に信仰を持つことが、堕落して生きる人からは憎まれることを知っています。

 信仰者の願いは、「われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕え」(75節)て生きることなのです。私は確かに、牧師として聖書を語り続け、人を執り成し、医療では多くの人を攻撃批判されても癒し執り成してきました。神は、ご存知です。あるべき姿の医療を啓発し、さらに精神疾患やその他の治療を日本では先駆けて実践してきました。

 それでもなお、私にとっては、この世は世知辛いものです。早く引退して、世の喧騒から離れ、聖書の言葉を聴き、自然の中に棲み、集まってくる人々を癒し慰め、神に仕えた人生を送りたいのです。そして、静かに主が再度地上に再臨される時を待ち望みたいのです。私には、それが迫っているように思われています。


12月11日 マリヤ讃歌。   ルカ福音書14556 
新改訳 ルカ1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」

1:38
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

1:39
そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。

1:40
そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。

1:41
エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。

1:42
そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。

1:43
私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。

1:44
ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。

1:45
主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

1:46
マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、

1:47
わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

1:48
主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。

1:49
力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、

1:50
そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。

1:51
主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、

1:52
権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、

1:53
飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。

1:54
主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。

1:55
私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」



 乙女マリヤの勇気ある信仰によってイエス様が生まれ、世界が変わります。この「私は主のはしためです。あなたのおことばどおりにこの身になりますように」という即座の反応は、彼女の信仰と意志の強さ、そして謙遜さから来るものです。マリヤは、即座に受胎から来る全ての試練を覚悟したのです。

 昨日は職員の朝礼で妻が、この讃美を歌い、音程のずれた自作の歌で皆を驚かせました。妻は、この讃美が本当に好きなのでしょう。我が家で大声でピアノを弾きながら歌っているのを私が誉めたので、調子に乗って職員の前で歌ったのでしょう。私はこの讃美が好きで大きな声で歌い上げる姿勢を誉めたのであって、歌唱自体は、人に聴かせるものではないことを言いそびれていました。妻は、絶対音感のピアノ演奏をするのですが、秘密ですが、歌うと音痴なのです。

 妻もこれまで人の非難や自らの失敗を繰り返しても前進を続け、低血糖症の治療を行ってきました。末娘に「見栄と意地が一番高くつくから注意をしなさい」としばしば言いましたが、逆に恥と避難を受けながら前進するには、真実な信仰と謙遜が必要です。私は妻の音痴な讃美を聞きながら、この聖句を喜ぶ信仰に感動したのです。職員も同様かと思います。

 この時、マリヤの言った言葉“Let it be to me according to your word”は、ビートルズのポール・マッカートニーが引用して歌っていることで有名です。

私が問題をかかえた時 メアリー母さんが現れて 賢い言葉を言ってくれる あるがままに(受け入れなさい)
そして私が落ち込んでいる時 彼女は私の前に立ち賢い言葉を言ってくれる あるがままに(受け入れなさい)
あるがままに あるがままに あるがままに あるがままに 賢い言葉をささやけ あるがままに
世界中の失意の中の人々が 同じような気持ちで暮らしている これが答えになるだろう あるがままに(受け入れなさい)

 この世のいろいろなことを自分の判断で取捨選択し、都合の良いものだけを受け入れる人は、神の御心を受け入れることはできません。先日、今年を振り返って、「今年の勝率は何割くらいだろうか」などと思い起こしました。実は、私は自分の思う通りになるのは、最初から2-3割だろうと考えているので、ヒットを打とうとするよりもボールを良く見てファウルで粘ることが多いので、あまり負けることは少ないのです。要するに、私の思考傾向は、成功をするよりも失敗をしないことを心がけているのです。つまり、御心を求めると罠に陥ることが多いので、御心でないものを避けるようにするのです。他の人から見ると、私は打ち気満々に見えるかもしれませんが、私には多くの人が打席に入るのを怖がり、野球をプレーしないで見ているだけのような気がします。日本人は、野球を観るのが好きですが、アメリカ人はプレーしたり参加するのが好きなことが日米の違いのような気がします。

 ともかく、マリヤは信仰最前線の生涯を歩んだのです。46-48節は、選ばれて信仰の戦いに参戦する喜びを叫んでいます。「誰の目にも留まらないで、つまらない人生を歩むかと思っていた私に神が大きなことをしてくださいました。」凄いことです。マリヤはおとなしい女性ではありません。マリヤは妊娠を告げられた時から、強い女性になっていったのです。

 子供のことを思う母親には、夫も会社も社会も国も敵うものではありません。ポールの歌は、聖母マリヤではなく、悩んでいた時の自らの母メアリーの夢の忠告であるそうですが、この歌はあるがままに世の中のことを受け入れなさい、ということです。しかし、このマリヤの返事は、神の言葉をそのまま自分の身に、受け入れるということで、意味合いは全く異なるのです。

 人生の傍観者ではなく、自らの身に神の御心の達成を願うのです。だからこそ、マリヤは「その憐れみは、主を恐れかしこむ者に」と叫んで、神を信じ、恐れる者こそが、神の働きを代行するのだと宣言するのです。「心の思いの高ぶっている者を追い散らし、・・・引き降ろす」と、神の恐るべき裁きを断言します。

 「女が慎みをもって信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」(Tテモテ2・15)という聖句は、女が惑わされて過ちを犯すからであるという言葉に続きます。つまり、子供を産んだ女性は、惑わされない覚悟を持つということだと思います。子供のいない人は自分のことを考えますが、子供を持った人は、自分のことよりも子供のことを考えるので、覚悟を決め、惑わされなくなるのです。「自分など、どうなっても良い。子供が幸せになり、自分の道を強く歩むなら。」と考えるのが、親というものです。

 自分の子がどうなるか、心配するのが親ならば、その受胎した子が神の子であると知ったマリヤは、どのような試練をも覚悟したことでしょう。一人で遠く離れたユダの山地までエリサベツに会いに行ったのも、信仰の先輩であり、神の働きを知っている親戚と信仰の交流をしたかったからであると思います。

 それでは、男はどのようにして救われるのでしょう。「慎みをもって信仰と愛と聖さを持つことです。」この世に負けてはなりません。


12月18日 主が共に居られる。   マタイ福音書11825節 

新改訳 マタ 1:18-25

1:18
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

1:19
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

1:20
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

1:21
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

1:22
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。

1:23
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

1:24
ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、

1:25
そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。


ヨセフという人は、凄い人だと思います。イエス様を産んだマリヤの称賛ばかりあるのですが、そのマリヤとイエス様を守り続け、忍耐を持って普通の歩みとは全くかけ離れた人生を歩んだヨセフは男性として、凄いと思うのです。

 ヨセフは、ダビデの子孫で最も由緒ある家柄です。大工をしていて、それほど裕福ではなく、人に注文を付けられることもしばしばであったでしょう。それを耐え、気にしないで正しく謙遜な人間であったということは、強い精神と信仰を持っていたからでしょう。

 たかが大工と思うかもしれません。人の能力は神が与えたものですが、優れた能力と権力を持つことを誇りとし、また性格も優れた人が褒め称えられます。ところが、それで高慢になり、滅びに至ることが多いのです。大工という仕事に誇りを持つことと、権力者としての地位に誇りを持つことは、全く異なることを理解していなければなりません。聖書は上に立つ者は「皆に仕える者になりなさい。」(マタイ20・26)とあるように、権力を持つことの方が高慢になり、天国の道を失う危険が多いのです。大工として、ヨセフは人々の生活に寄与し、喜ばせることに誇りを持ったのだと思います。そして、人に仕えること、人々の勝手な要求を適えることを何でもなく受け入れたのです。

 そのヨセフが、最も愛する婚約者の妊娠を聞いた時、「彼女をさらし者にしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」のは、怒りや敵意よりも、人の弱さと罪の怖さを良く知っていたからです。人を責めるよりも、黙って自分が耐えることを選んだのです。そして、彼は、マリヤをどのように守るか、去らせるか「思い巡らせていた」のです。自分を裏切った婚約者を、被害者として、或いは何かの事情があるのだろうと、守ろうとしたのです。

 そんなヨセフだからこそ、夢のお告げにも従ったのです。殆どの人が、丁寧に教えても指導しても、自分に損になることは受け入れないものです。しかし、ヨセフは、それを信じ、マリヤと結婚し、子供が生まれるまで、夫婦の関係を持とうとしなかったのです。そして、一緒にベツレヘムまで旅をし、マリヤを労わり、夫として父親としての役割を果たしたのです。

 泊るところもなくて、家畜小屋で子供を産むことになった無残な苦労は、この夫婦には何でもないことでした。それは、信仰によって、二人の結びつきによって神の御心を為しているという確信があったからです。

 私たち夫婦も、周囲の者みなに反対され、避難された結婚の時を思い出します。金はなく、職もなく、神学校に入ろうとしながらも、妻は精神疾患で大学を卒業できず、何もできずにうつ状態のままでした。それぞれの両親家族の猛反対を受けながら、「こんな状況では、反対するのも当然だろう。」と、その思いを受け入れていました。ただ、私には、神が、この女性と結婚せよと示したという事実だけが、誰にも言えない信仰の確信としてあったのです。それは人に説明できるものではありません。自分だけの神との約束です。

 結婚したからと言って、妻の病状は改善せず、私の労苦は増えるだけで、過労とストレスのあまりに、全身蕁麻疹になったり、心臓がおかしくなったり、心身の限界を超える状況が数年続きました。神の導いた結婚は、いったいどういうことなのだろうか、と苦渋が続きました。守りと祝福の請願として続けた一日一食断食を守りながら、状況はまったく改善せず、辛さばかりがありました。

 10年くらい続いた苦難の日々の中で改善したことは、今は良くわかります。悩んでばかりいて、何もしなかった妻が、子供を産んだ後から、活動を始めたのです。そして、医師国家試験も受かりました。体調の悪い中でも、仕事を続けました。生計は、妻の働きに掛かっています。一日休んでも、教会と我が家の家計は破綻します。死に物狂いで働き続け、更に神が与えた子供をめちゃくちゃになりながら育てました。どんなに働いても、生活は楽にならず、教会は成長せず、人々からは馬鹿にされ続けました。信頼した人からも裏切られたことは、数限りありません。

 思い返すと、「主が共に居られた。」という実感だけです。あのような試練を乗り越えられ、妻と一緒にやってこれたのは、主がいつも私たちと共に居られたという事実だけです。そのことが分かっているのは、私たち夫婦だけです。他の人に理解できるものではありません。子供でさえ、私たちの信仰、私たちの葛藤は全く理解できないし知らないでしょう。だからこそ、今私たち夫婦は仲が良いのです。妻無くして、私はなく、私なくして今の妻はなく、主が共に居らずして、今の私たちはないのです。

 イエス様の誕生後も、ヨセフは産後のマリヤと幼子のイエス様を連れてエジプトに逃げます。その苦労を思い見ます。ヘロデ王の死後帰国し、ナザレに帰ります。イエス様が12歳の時に、ユダヤ教の成人式バルミツパをするためにエルサレムに連れて行きます。イエス様の誕生の際の奇跡や守りを特別なものとせず、穏やかに普通の子供として育てている両親の健全性を覚えます。しかし、その後、長年の苦労が響いたのか、むろん神の御心のうちに、若くして死んでしまいます。

 大事なことは、どんな職業であれ、どんな立場と能力であれ、神と共に生きることです。そして、大事なことは、成果を上げようとか、能力を上げようとか、人格者になろうとか求めることよりも、神と共に生きることです。振り返れば、私たち夫婦も、結婚以来31年、戦いと苦労の連続ですが、よくも守られ、耐えてきたと思います。いつも、主が共にいてくださったことが、今やっと分かって来ました。しかし、何度も罪を犯し、誘惑に負けそうな時がありました。悔い改めの回数は、誰にも負けないくらいです。イエス様が傍にいて、私たちを見守っておられたことを、気がつきます。自分で試練を作りだしてはいけません。また、試練のないような人生を歩むならば、イエス様が傍にいてくださることもないでしょう。周囲の目に囚われてはいけません。


12月25日 主への最上の献げもの。   マタイ福音書2112節 
新改訳 マタイ2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

2:2
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

2:3
それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。

2:4
そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。

2:5
彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

2:6
『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」

2:7
そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。

2:8
そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

2:9
彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。

2:10
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

2:11
そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

2:12
それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。


イエス様の聖誕物語の中でマリヤとヨセフ、ザカリヤとエリザベツの信仰と謙遜さと強さには感銘を受けるのですが、東方から来た博士たちの献身と犠牲は多くの人々を驚かせます。黄金・没薬・乳香はそれぞれ高価なもので、それをわざわざ遠方から献げるために来るのだから、従者や旅の荷物など大変な量となり、護衛も含めれば、100人を超えたかもしれません。

 しばしばお祈りの中で、「僅かなものですが、神様がこれで大きな業をしてください。」などと言う場合がありますが、これは「神様が私にしてくださったことから比べれば、僅かなものですが、精一杯献げますので、神様の大いなる御業をしてください。」という意味合いです。だから、「僅かなものですが」と言い訳のような祈りは、私はあまり好きではなく、僅かだと思う献金はしたことがありません。いつも精一杯の献金をしてきたつもりです。

 私は神様の祝福を金で買うような信仰姿勢や、献金を迫るような説教は嫌いですが、神様に何も期待せず感謝も現わせない会費のような献金は、本人の信仰がまともではないと言わざるを得ません。信仰は命がけのものだと信じていますし、神は私の魂を滅びの中から救ってくださったので、この人生は神に献げたものとして生きています。

 ただ、人間というのは、本来罪深い存在なので、最初から信仰で歩む人は少なく、神を信じていても打算を持つということはしょうがないかとも思いながら、そういう人々は、試練が付きまとうので、執り成しの祈りをしています。自らの人生も時間も能力も財産も神のものであると悟った人は、神のものとして神が祝福してくださる以外にはないのです。ところが、神を信じていながら、自分の欲得や打算で生きる人は、サタンから攻撃が頻繁に来るので、信仰の破船に陥ることが多いのです。

 東方の博士たちが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方をわざわざ拝みに来る」のは何故でしょうか。

 趣味や興味でそんなことをわざわざする人はいません。2000年前の遠方の旅は、生易しいものではなく、いのち掛けだからです。伝説によれば、一番遠い博士はインドから来たと言われています。距離としては5000キロ以上でしょう。一日30キロとしても半年は掛かるでしょうし、経費は普通の人の年収の何十倍も掛かるでしょう。打算で生きる人には考えもつかないことでしょう。

 若い伝道師や牧師の説教を聞いていて、感想文のような説教で神を信じ自分を委ねて生きる決心をする人は、よほど前もって神に選ばれた人たちなのだろうと感心することがあります。多くの教会で、彼らが10年以上伝道しても殆ど洗礼決心者が起こらないのは、信仰に命を掛け、神を信じ切って生きていないからだと思います。結果はともかく、本気で神を信じ生きている人は、人格が鍛錬されてきます。信者もまた、同じだろうと思います。

「わたしの聖なる山、イスラエルの高い山の上で、その所で、この地にいるイスラエルの全家はみな、わたしに仕えるからだ。その所で、わたしは彼らを喜んで受け入れ、その所で、あなたがたのすべての聖なる物とともに、あなたがたの奉納物と最上のささげ物を求める。」(エゼキエル20・40)とあるように、神は人をご自身に仕えさせ、最上の献げ物を求めるとあります。神は人に仕えられる必要はないのですが、神に仕えるということが人間には必要であり、最上の物を神に献げるという意識が、人間として大事なのです。妻は、最上の物を私に食べさせようとしますが、子供に最上の物を食べさせようとする家庭があるようです。そんなことをしたら子供が王様となり、秩序を失って、問題児が育つだけです。

 博士たちは、救い主が現れると知って、多くの財産を掛けて、ひたむきに歩んだのです。だからこそ、神は彼らを祝福されるのです。「神への生贄は、砕かれた魂。砕かれた、悔いた心、神よ、あなたは、それを蔑まれません。」(詩編51・17)とあるように、なぜ、博士たちが、救い主に遇うことを求めたかと言えば、彼らは、人生に絶望し、神存在に自分を掛けたからだと思います。

 神を信じ救われるということは、論理的納得や「信じてもいい」などという高慢からは決して与えられないのです。そして、自分の幸せや打算を優先する人は、神を信じても、必ず信仰から堕落するのです。それは、身近な夫婦の関係においてもあてはまる真理です。伴侶よりも自分を優先する人が幸せになることはありません。伴侶の幸せに自分の幸せを掛けるくらいでないと幸せになることはないのです。

 神は、「わたしは高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人と共に住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(イザヤ57・15)とあるように、高慢に人が神と共に歩み、神の国に行くことはありません。ですから、最上の献げ物は、神の前に自らの傲慢を悔いた心なのです。