7月3日 神はあなたの必要を知っている。   マタイ福音書625~34

マタ 6:25-34

6:25
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

6:26
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

6:27
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

6:28
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

6:29
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

6:30
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

6:31
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

6:32
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

6:33
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

6:34
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

父なる神こそが私たちの存在の源であり、私たちが現在この日本にいることが神の御旨であることを学んできました。むろん進化論を信じるならば、人の存在には意味がなく、ただ排他的に自己の欲求を追求すれば、それで済むということになり、ただ死んでいくのみです。

 戦後日本に優性保護法なる法律が制定されていました。これは、「障害をもつ子どもの出生は家族と社会の負担であり本人の不幸だから、障害をもつ子どもを産む可能性のある人の生殖機能を奪ってもかまわない」といった障害者への偏見に満ちた考えを、国が表明したということです。そういう考え方は、現代の政治や社会にも浸透してしまっていて、今回の災害にも弱者への援助という考え方が国にはあるような気がします。そして、自分だけが勝ち抜き、生き抜いていくことこそ大事であり勝者なのだ、という考えが、社会に浸透しているような気がします。

企業社会にも、そのような勝ち負けの考え方が常に働く者の心の中にあって、挫折したら敗者として過ごさなければならないというようなストレスの多い社会になっています。こういう考え方が、政治、経済、医療福祉にまで影響を与え、強い者こそが勝者になり、権力をもつのであって、弱い者は黙って従えば良い、などという考え方が指導者の間に沁み込んでいて、傲慢な偉そうな感じがするのです。そういうことが、災害対策が遅々として進まない根本的な原因ではないでしょうか。進化論に従えば、人間の命など尊いものではなく、適者生存ということで、自然や社会の競争に勝ち抜いた者だけが幸せになり、子孫を得ることができるということになるのです。

 精神疾患を持った人々の数は増える一方です。弱者、障害者、被災者というのは、誰でもなり得ることで、その人々を助けるということは、力がある者が余ったものを出すというようなことではなくて、人としての当然な義務なのです。ところが、日本では多くの人が、「自分には力がないからできない」と考えているのです。ですから、自分が困難に陥った時に、「助けてくれ」とも言えないで我慢するのです。クリスチャンでさえ、こういう人が多いのですから、神の恵みなど当然理解できないことになります。

 従業員が体調を崩しました。彼女は治療方法と栄養の意味合いを積極的に教えていたのですが、自らが病気になった時に、助けを求められないのです。強引なまでに治療を説得していたのに、自分が悪い時には治療をしようとしないのに、私は驚きました。恵みというのは、自分の力では何もできない、ということを認めた人にのみ、注いできます。いや、注いでくるのを受け留めることができるのです。弱さを認めなければ、人に助けを求めることはできません。神様に助けてくれと祈ることはできるのですが、人には言えないのでは、救いも恵みも得られません。

主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Uコリント12・9

 視点を変えて、今日の聖句を見てみましょう。要するに、「心配するな。あなたの父が控えている」ということです。空の鳥、野の草、を養ってくださる父なる神は、あなたの必要を全て知っておられるのです。ただ、こういうと、神は黙っていても助けてくれると、自分勝手に誤解する人が、親との交流に慣れていない人にはいるようです。

 長男が私に助けを求めて来たので喜んでヨーゼフに働いてもらうことにしました。長女も元気なようで、親のクレジットでいろいろと使っているようです。義理の息子は、音沙汰ないので心配ですが、英語の勉強に明け暮れているのでしょうか。他の子供も勝手に過ごしながら、連絡は取っており、何かの時には助けを求めてきます。私としては、「あなたの父がついている」というところです。

 信仰者にとって大事なことは、父なる神の国にいるということです。神の支配権の及ぶところで暮らし、神の支配と守りを受け入れるのです。神の義とは、自分の義を主張せず、父なる神のよしとされることを念頭において生きるということです。

 私は、親との関係が進化論を信じているような関係である親子が多いことに気がついています。親に迷惑を掛けない、親に助けを求めない、強く生きて人生に勝利し、親に「あなたの遺伝子は優秀なので、子孫は繁栄します」ということを証明しようとする子供たちです。キリストの力が、信仰者を覆うためには、弱さを認めて、助けを求めなければならないことを知らないのです。

 或いは、父なる神が本当の親であることを信じていないのかもしれません。肉の親が頼りないから、神が全能の方であることをわからないのでしょう。「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」イザヤ40・28

 私は自分が雄々しい親でありたいと願っていますが、それは父なる神が雄々しく私を育み、守り、見守り、助け、力を注いでくださることを体験しているからであります。



7月10日 蛇のように聡く鳩のように素直に。   マタイ福音書1016~27
新改訳 マタイ10:16 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。

10:17
人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。

10:18
また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。

10:19
人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。

10:20
というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。

10:21
兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。

10:22
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

10:23
彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。

10:24
弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。

10:25
弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。

10:26
だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。

10:27
わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。


 私たちの存在は血縁に依らず、父なる神こそが私たちの存在の源であり、私たちは、神の御心によって現在のこの地に遣わされていることを学んできました。信仰者としては、能力や遺伝的優劣による考え方を排除し、弱者であることをわきまえながら、神に助けを求めながら神の業をすることが、使命であるのです。そして、今日は、如何にこの世で対応すべきかを学びたいと思います。

 日本人は、どうしてこんなに忍耐深いのか、世界中の人々が驚いています。朝日新聞の夕刊で水俣病の経緯が連載されていますが、おそらく放射能汚染の被害を食い止めるためのジャーナリズムとしての誠意だろうと思います。天災も、公害も、戦乱も、悪政も、じっと我慢して耐え抜き、子孫たちが家を守り、互いに助け合ってきた庶民の国が日本なのでしょう。だからこそ、礼儀のない者、勝手な者、仲間を大事にしない者などは、はみ出し者として阻害され、痛烈な批判と攻撃があるのでしょう。

 全ての国柄に長短があります。中国の歴史を見ると、外敵が常に侵入するので万里の長城ができたように、じっと我慢していたら一族根絶やしになる弱肉強食の国です。韓国の歴史ドラマは、歯がゆいほどにヒーローが執念深く攻撃されます。両班でなければ何の権利も認められないような権力社会だったのでしょうか。権威への追従と反抗が常に感じられます。民族的には、タイやベトナムのほうが日本人に似ているような印象も見られますが、発展途上国だけに専横がまかり通っている感じがします。アメリカは、単純かつ純真なキリスト教国ですが、他の国を見下して自分たちが最高と考えている力強い田舎者国家です。ヨーロッパの国々は、戦争や闘争を繰り広げてきた古狸の国々ばかりで、日本が対抗するには経験不足です。そういう面で、母国の卑下は、日本人としては控えるべきでしょう。大事なことは、日本の独自性と長所を捉えることです。

 日本人は、神を信じない人が殆どですが、神を信じる人に対しては、要求と基準を強く持つ傾向があります。また、普段、神を信じていないくせに、このような大災害では、神に文句を言うという人もいます。つまり、御利益信仰なので、人間に御利益を与えない神はだめだという人間中心主義なのです。ところが、前述のように災害とか悪政に対してと同様、神に対しても文句を言いながらも忍耐深いのです。

 イエス様は、神を信じない人々を狼と呼び、神を信じる弟子たちを羊と呼びます。だから、聡く生きて、狼に騙されないように気を付け、だからと言って不信な人にならずに、素直でありなさい、と忠告されます。つまり、この世で如何に生きるかとよくよく検討し、かつ純粋で誠実であることが大事なのです。

 漱石は「草枕」で、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」と書きましたが、イエス様は英知を持って世に対処しながら、人の情にほだされながら素直に生きよと言うのです。さらに、信仰者としての意地を通せと漱石と逆のことを言われます。

 先に申しましたとおり、日本は信仰者に対する要求の強い国です。ですから、クリスチャンとしては、イエス様の言われる通りに苦難・迫害・逆境を当然とし、人々に憎まれようと、「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(10・22)と、「とかくこの世は住みにくい」のを覚悟して、神の国を目指して生きるべきものなのです。「弟子は師にまさらず」(10・24)とは、イエス様でさえ迫害されたのだから、弟子が迫害されるのは当然だ、という意味です。

 日本・中国・韓国・タイ・ベトナム・アメリカなどの国民性を御話ししましたが、神の国の国民性も語らなければなりません。「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ3・20)とあり、先週、神の国とその義をまず第一に追い求めなさい、とマタイ6・33を御話ししたように、神の国の住民として、この日本に生きることが大事なのです。

 神の国の住民としてふさわしくないことは以下のとおりです。

正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(Tコリント6・9.10

不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。(ガラテヤ5・19-21

 この世において信仰者に試練があるのは、「神の国にふさわしい者とするため」(Uテサロニケ1・5)であり、「神の国に入るには多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14・22)とあるのですが、アリマタヤのヨセフは「神の国を待ち望んでいる人であった」(マルコ15・43)からこそ、知恵をもってイエス様の亡骸を引き取ったのです。

 愚かさゆえの試練ではなく、信仰者ゆえの試練を体験することが大事なのです。知恵を使わず、ただ一生懸命に生きるのでは、神に救いをいただいた者としては申し訳なく、情に棹さすだけの人生では、神の国の基準を全うすることもできません。確かに、神の国の基準を生きるためには、聡くかつ、純粋でなければならないのであります。


7月17日 互いに労り合うために Tコリント1217~27

新改訳 Tコリント
12:17
もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19
もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20
しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
12:22
それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23
また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24
かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 私は、東北大震災の後、摂理と試練、せして、人それぞれの使命と能力などをもう一度、考えながら、今自らの為すべきことを模索しており、それをそのまま説教題として選んでおります。この間に体験したこと、学んだこと、見聞きしたことは、日本人の特徴であり、欠点でもありました。躓き、失望することも多く、自らの使命とは何なのか、なぜ、自分の今があるのかを主に問いながらも、指導者としては身を引きたいという疲れも感じます。
私は指導者的タイプなのでしょう。でも、あまり指導者的タイプの人に出会いません。官僚的タイプの人や学者タイプ、組織人、職人タイプの人には、よく出会います。むろん、他にもいろいろなタイプがあります。指導者としては、メンバーの能力を超えたことをあまりさせず、成長を促すように努めること、最終責任を取りながら、組織をあるべき目標に向かって進ませることが大事であり、そのようなことができない人は、指導者タイプではないと、考えています。
大学時代、ある人が部長をやりたいというので、それでは柏崎は副部長をと、推されましそ。コンパの時、彼は酒癖が悪く、皆の前で私に悪態をついてきて、場は白けるものとなりました。彼は、何でも私中心になってしまうことに腹を立てていそのでした。私は、その時の心の傷があり、信仰を求めました。そして、指導者の賜物のない人を指導者にするということは、本人にとって大変な苦痛であることに気がついたのでした。
菅首相が指導者の賜物がないのは、どうも明らかなようです。私が尊敬する霊的指導者は、弓山喜代馬師であり、キム・ジュンゴン師であり、チョー・ヨンギ師です。歴史的人物は、出会ったことがないので、本当は分かりますんが、黒田官兵衛は、好きなキリシタン大名です。彼は、引退後に如水を名乗りましそが、それはモーセの弟子のジョシュア、ヨシュアを引用したとされています。荒木村重によって有岡城の牢獄に幽閉された時の忍耐や、城攻めの巧みさ、関ヶ原の戦いの時に息子の長政が兵を率いて行ったので金蔵を開いて領民を兵隊にして9千人の軍を作り戦いに勝利したことなど、官兵衛のやったことは、同感です。
小早川隆景とは仲が良かったらしく、隆景は如水に対し「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない」と指摘したそうです。決断力と忍耐との兼ね合いに苦労したと思います。
聖書的な指導者としては、全ての人を分け隔てなく接し、差別や見下すことがあってはならない、ということが、この聖句から理解できます。指導者像はともかく、日本人が身につけなければならないことは、「神はみこころに従って、身体の中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。」ということです。弱い器官を叱咤激励して強くしようとするのではなく、そのまま受け入れながら、尊び、他のところと調和さするということが大事です。
営業とか伝道というのは賜物が必要です。私が金沢教会の青年たちに刺激を与えたように、この教会にもそろそろ伝道と指導の賜物のある青年が集うように祈っています。落ち着いた良い教会になってきました。設備も整いました。後は、神が人々をこの教会に導いて下さるような牧師でありたいと願っています。5年間でそのような枠組みと組織ができるか否かが、私の牧師としての成果が問われるものとなるでしょう。
適切に指導し、教えて、愛によって構成員を結びつけていけば、神の祝福の中に成長していきます。エペソ4章にあるように、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの身体を建て上げる」ことが牧師の使命であり、教会の意味合いなのです。それを邪魔するものは、エペソ4・14にあります。つまり、
@ 未熟な者
A 悪巧みや悪賢い策略、間違った教えにもてあそばされる信徒、です。
要するに、この世の間違った教えや欲望に対して、惑わされない教会員養成をすることが教会にとって最も大事なのです。教会が、人を増やそうとか、親しくなるとか、そういうこの世の考え方では、成長と神の祝福は難しいのです。
先日、クリニックの会合に、自分の自慢話や意見を大きな声で言い続ける人が来ました。そのうち、相手をする人がいなくなったので、さらに自分がどんなに立派な人間であって、社会的影響力を持った人間であるかを話すために、私に個人的な打ち合わせを求めてきました。会話の中で、私が応じていかないので、不本意に帰って行きました。
教会で自慢話や世間話、批判話をする人を相手にしてはいけません。そういう人の相手を教会ですると、彼らは自分が神の国に相応しくない人間であることに気がつかないで過ごしてしまうのです。魂の救われていない人は、「神の国の奥義を知ることが赦されて」いないのです。彼らが、教会に来ても、自分の目立つことや認められることばかりを考え、「見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。」(ルカ8・10)。魂の救われていない人を、まともに教会員として取り扱ってはいけません。「聖なるものを犬に与えてはいけません。」とあるように、却って、そういう人々は問題を起こし、私たちを攻撃してくるからです。教会の基準は、救われた者に対してだけ開かれていなければならないのです。
砂の上に自分の家を建てた愚かな人というのは、神の国を信じてそれを基準として生きることを求めない人のことです。彼らは、世の人と同じように生き、失敗しています。試練や苦難によって、人生の意義が消え失すてしまう人々は、洪水が押し寄せて家が流されても、自分の愚かさに気がつかないのです。私たちは、この災害の時に、神の国の福音を伝伝えられるような岩の上に家を建てそような生き方をしていなければなりません。


7月24日 神でなく人に従う結果   Tサムエル8章9~22
新改訳 Tサム8:9 今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」
8:10
そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。
8:11
そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。
8:12
自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。
8:13
あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。
8:14
あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。
8:15
あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。
8:16
あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。
8:17
あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。
8:18
その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」
8:19
それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。
8:20
私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」
8:21
サムエルは、この民の言うことすべてを聞いて、それを主の耳に入れた。
8:22
主はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」そこで、サムエルはイスラエルの人々に、「おのおの自分の町に帰りなさい。」と言った。


 東北視察に行き、被災者の気持ちと困難が少しは分かった気がしました。直ぐに辞めた大臣が、「自分で頑張らない奴は助けないぞ」と言いましたが、何をしてよいかわからず、何をしてくれるのかも、わからないのに、何も言えず、ただ毎日を生きることを辛抱しているというのが実情かと思いました。「報告がない」、「手続きをとれ」などという組織が多いようですが、被災者の苦しみを知らないお上の立場でしょう。

 さて、震災にあっても立派な節度を保つ国民性と、何もできない稚拙な政治が、外国からは驚きの目で見られていますが、ある本に、「統制の取れた自治社会を営める日本人は、指導性を持たない未熟な政治を選択してきた」という趣旨の見解があり、なるほどと思わせられました。軍部の強権によって戦争拡大路線を選んできた反動でも言えるでしょうが、やはり未曾有の危機には、強力な指導力なしには対応できません。終末を警告する聖書を信じるクリスチャンとしては、更に大きな災害が日本に起こることを覚悟しなければなりません。

 妻がサンダルを買ってきました。4割引きで売っていたという靴は、皮が薄く出来も悪く素材も記されてなく、その値段でも明らかに高い、と思われるものでした。なぜ、これを買ったの、と聞くと店の人が熱心に勧めたと言います。最も騙されやすい人柄です。「新興宗教でなくて、正当なキリスト教に救われ、ついでに私と結婚してよかったね」と言うと、直ぐに「ホントね、神様の恵みね。」と同意します。私と結婚して良かったと本気で信じているのですから、やはり騙されやすいのでしょう?

 支配欲求というのを人は強く持っており、他人を支配し指示すると共に、他人に干渉し援助する援助欲求・攻撃欲求も持っているものです。また、服従欲求を持っている人もおり、相手や集団の指示に従うことで安定した立場や環境を手に入れようとするのです。その場合、他の人の上に立とうとしない代わりに、他者に依存したり、自己責任を回避したりする傾向があるようです。それらが相手と状況により、またその人の性格により複雑に交錯するのです。

 先週、この世の間違った教えや欲望に惑わされない信仰者を形成していくのが、教会の指導者の働きであると説明しました。生きた身体の中では、弱い劣った部分を大事にしなければ存続できなく、またそれらは「かえってなくてはならないものなのです。」(Tコリント12・22)と学び、教会の働きの中で失敗や経験の中で整えられていくことが必要であることを理解しました。苦難こそ、信仰者を成長・成熟させるものなのです。私は、そういう面で、試練や困難の中で信仰者が整えられているという神の奥義を驚嘆の思いで見守るのです。

 今日の聖句ですが、士師を通しての神権政治を営んできたイスラエルは、大預言者サムエルを通してさえも、国家としては力なく統制の難しいものでした。確かに、神が働かれた時は力強かったのですが、「イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(士師21・25)という状況です

 「イスラエル人が主に叫び求めた時、主はイスラエル人のために、彼らを救う救助者」(士師3・9.15.6・7.)を起こされた、とあります。「彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守ってあゆむかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」(士師2・22)。人生というのは、その人が神の国に行くための試金石なのです。

 ただ、人間は、指導者がないと、めいめいが正しいと思うことを勝手に行うので、統制ができず、悔い改めも難しくなるのです。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神のよらない権威はなく」(ローマ13・1)とあり、悪の指導者、無能な指導者といえど、神は人間社会の秩序を重んじるのです。「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをする時ではなく、悪を行うときです。」(13・3)とあり、ある場合には、地上の支配者を超えた絶対的支配者である神を畏れて、地上の支配者と対抗することもあり得ましょう。

 そのような聖書理解の上で、今日の聖句を理解しなければなりません。国があり、政治があり、社会の法律に従い、税や労役に服しなければなりません。徴兵に応じるのも国民の義務と書いてあります。「その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めても、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」(18)のです。

 いくら良いと思うことでも、この秩序に反することをしたら、罰を受けるのです。「めいめいが勝手に正しいと見えることを行って」は、いけないのです。指導者の無能や悪政を体験し甘んじ、それによって指導者を選び、養成する責任を持たなければならないのです。

 また、指導者はその構成員の生殺与奪の責任をもあることをわきまえ、よく予測吟味し管理して、言い訳なく指導を行わなければならないのです。災害対策や放射能対策、などに関する遅延は、日本の指導者が神の前に責任を問われるものとなるのですが、その指導者を選んだ国民は、自らの怠慢の責任を負うているのです。人を指導したいという指導欲求を満たす者が、あるべき指導者ではなく、神の前の管理責任を全うしなければならないのです。

 人は、自らの霊性と精神性で神を意識し、神に従うほど、成熟したものではありません。だからこそ、指導者は神の前にひとり立ち、人々の執り成しをしなければならないのです。人々は、自分の思う通りにならないとつぶやき、組織に対して、指導者に対して、神に対して、不満を言うのです。私たち、クリスチャンは、この世の人々の祭司として、神の前に執り成しをする使命を帯びています。決して、社会や世に同調して、不満を言う者であってはならず、神に聞き、神に訴えるものでなければなりません。


7月31日 ここまで主は助けて下さった。   Tサムエル71~12節   船津恭子師
新改訳 Tサム
7:1
キルヤテ・エアリムの人々は来て、主の箱を運び上げ、それを丘の上のアビナダブの家に運び、彼の子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。

7:2
その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。

7:3
そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」

7:4
そこでイスラエル人は、バアルやアシュタロテを取り除き、主にのみ仕えた。

7:5
それで、サムエルは言った。「イスラエル人をみな、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのために主に祈りましょう。」

7:6
彼らはミツパに集まり、水を汲んで主の前に注ぎ、その日は断食した。そうして、その所で言った。「私たちは主に対して罪を犯しました。」こうしてサムエルはミツパでイスラエル人をさばいた。

7:7
イスラエル人がミツパに集まったことをペリシテ人が聞いたとき、ペリシテ人の領主たちはイスラエルに攻め上った。イスラエル人はこれを聞いて、ペリシテ人を恐れた。

7:8
そこでイスラエル人はサムエルに言った。「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。」

7:9
サムエルは乳離れしていない子羊一頭を取り、焼き尽くす全焼のいけにえとして主にささげた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。それで主は彼に答えられた。

7:10
サムエルが全焼のいけにえをささげていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来たが、主はその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。

7:11
イスラエルの人々は、ミツパから出て、ペリシテ人を追い、彼らを打って、ベテ・カルの下にまで行った。

7:12
そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と言った。


8月7日 死ななければならないのなら死ぬ覚悟。   エステル47~16

新改訳 エステル
4:7
モルデカイは自分の身に起こったことを全部、彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために、王の金庫に納めると約束した正確な金額をも告げた。

4:8
モルデカイはまた、ユダヤ人を滅ぼすためにシュシャンで発布された法令の文書の写しをハタクに渡し、それをエステルに見せて、事情を知らせてくれと言い、また、彼女が王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求めるように彼女に言いつけてくれと頼んだ。

4:9
ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに伝えた。

4:10
するとエステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えさせた。

4:11
「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭にはいり、王のところに行く者は死刑に処せられるという一つの法令があることを知っております。しかし、王がその者に金の笏を差し伸ばせば、その者は生きます。でも、私はこの三十日間、まだ、王のところへ行くようにと召されていません。」

4:12
彼がエステルのことばをモルデカイに伝えると、

4:13
モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。

4:14
もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」

4:15
エステルはモルデカイに返事を送って言った。

4:16
「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」

イスラエルに16年ぶりに行って、大きな成長を遂げていること、社会的な成長が政治的な方向付けにあること、全世界のユダヤ人がイスラエルに対する愛国心で支援と一致をしていることに驚きました。

 ユダヤ人は、70年に国が滅びてもラビによる学校の存続を守り、国家のない1875年間、民族性を保ってきました。その間、キリスト教徒によって迫害を受け、土地の保有と公的な職業を持つことを認められなかったため、金融業や商業を営むしかなかったのですが、これがユダヤ人の商業性と知性を養ったと思われます。現在、米国の大学院生の27%はユダヤ人だそうですが、エルサレムにあるユダヤ人の総本部には世界中からイスラエルに対する支援金が集まるそうです。全ての家には核シェルターを作ることが義務付けられ、放射能を含めた毒ガスを防ぐマスクは無料で配布されます。国家としての危機感と政治的な方向性が日本と全く異なることを痛切に感じてきました。

 日本には原爆記念日が2回ありますが、子どもの頃見た焼けただれた死体の恐ろしさを忘れることはできません。原爆症というのは、66年経った今でも被爆者やその子孫にとっては現実のものであり、晩発性放射線障害として、白血病・放射性白内障・悪性リンパ種・ガンなどがありますが、数十年後に発病するものもあり、因果関係を立証して政府に補償を求めることは難しいのです。

 福島の原発事故の後、下痢を多くの人が起こしたことは知られていますが、新陳代謝の激しいのは、骨髄の造血作用、腸の粘膜、胎児などで、細胞分裂が放射能によって支障をきたし、遺伝子の修復が間に合わないからです。乳児の急死も多く報告されていますが、もはや因果関係を証明するのは難しいような検査不足であると思われます。人のいのちが欧米に比べて非常に軽く扱われるのは、日本人の死生観ゆえなのでしょうか。交通事故で死ぬことと、放射能で死ぬことを同列に扱い、運が悪いで済ませるような希薄な生命倫理があるように思います。

 司馬遼太郎は、「坂の上に雲があるならば、人々はそこを目指して登る」と列強に憧れる明治の人々の心を説明していますが、今や人々の心に国家目的は殆ど失われているように思われます。愛国心もなければ被災者への思いやり同情心もなく、助けようと行動するよりもむしろ、自分への被害を分析し、害のないように自分と家族を守ることに努めるばかりです。

 再び主が来られる時、人々を右と左に分けます。人々が困っている時に自分を犠牲にして助けた人か、何もしなかった人かによって、確かに神を信じているかいないかはわかるのです。私は、明確に何をしろ、と言っているのではありません。指示を待って行う人は、自主的に自らを削って人を助ける人と、全く違うのです。表に出なくてもよい、人に知られなくてもよい、神の御前に、どのように生きるかによって、その人の人生は試されているのです。

 エステルは、ユダヤ人であることを隠してペルシャの王妃に選ばれました。しかし、ハマンという首相がユダヤ人を皆殺しにしてその財をくすねようとして王の許可を得た時に、いのちがけで王に訴えることを決意したのでした。叔父のモルデカイは言います。「このような時に沈黙を守るなら、あなたは滅びる。王妃になったのは、この時にいのち掛けで働くためです。」

 人間と言うのは、簡単に言えば、生きるか、死ぬか、のどちらかしかありません。更に、天国に行くか、地獄に行くか、のどちらかしかありません。私は、この人生を悔いのないようにいのち掛けで、生きることを決めています。確かに、死ぬことを覚悟して行動したことは限りなくあります。破産も覚悟したことも多いでしょう。私にとって、信仰はいのちがけのものです。エステルも言います。「私は死ななければならないなら、死にます。」しかし、その覚悟で人生を生きる人は、まちがいなく天国にいくことでしょう。

 大言壮語を言う人がいます。それを信仰だと思っているなら、とんだ誤解です。大きなことを言い、信じるならば、大きな犠牲を覚悟しなければなりません。「塔を築こうとするとき、まず座って、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者があなたがたのうちに一人でもあるでしょうか。」(ルカ14・28)とイエス様は言われます。敵と戦いを交える時もゆっくりと勝算をかぞえないで戦う者は愚か者で、自分のいのちを失うでしょう。「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14・33)と言われました。

 そのようにして、私にはイエス様の弟子であるという自覚があります。

 「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28・19)というイエス様による宣教命令があります。私自身の意識の中に、弟子としての師匠はおりません。先輩はいます。ですから、孫弟子を作るいう意識はあまりなく、弟子仲間を確保したいという願いはあります。いかがですか。


8月14日 イエス様に信頼する。 マルコ福音書435~41節 井桁久志師

新改訳 マルコ 4:35-41
4:35
さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。
4:36
そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
4:37
すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。
4:38
ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
4:39
イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
4:40
イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
4:41
彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

ナイアガラでの綱渡りの話− 信じることと、信頼することの違い。
T. 向こう岸に渡ろうというイエス様の招き
a
イエス様の招き
夕方、イエス様は弟子たちに向こう岸に渡ろうと言われた。イエス様が「わたしに従って来なさい」と招いてくださり、イエス様を信じて、救われた。
b
同じ舟に乗った
人生は航海に例えられる。イエス様はわたしたちと同じ舟に乗っておられる。
「わたしは決して、離れず、あなたを捨てない」「世の終わりまであなたと共にいる」
私たちの人生の中で孤独と思える時がある。誰にも話すことの出来ないこと。誰にも心の奥深くにあることを話すずに、孤独を感じるとき、もう世の終わりだと思うような時、イエス様がすぐせばにいてくださる。
c
向こう岸目指して船出した
向こう岸はどこ?ガリラヤ湖の反対の岸 (ゲネサレの地)
私たちの向こう岸は天国。この地上の人生を終えた先。私たちはこの世にあっては旅人、寄留者であり、この地は寄留の地である。
U. 恐れと信仰
a
突然の嵐 沈没寸前
夕方に岸を離れたので真夜中の暗闇
賢明に舟をコントロール
漁師の彼らが恐れてしまうほどの嵐 想定外
聖書の中に「恐れるな」という言葉は360回出てくる。神は毎日、私たちに「恐れるな」と語っておられる。
b
不信仰な言葉
@イエス様は眠っておられる 沈黙?
なず、イエス様は嵐の中で平然と眠っておられるのか?疲れていたのか?なず、すぐにでも弟子たちを助けなかったのか?
信仰の確認、信仰を試している。イエス様の元に来た人たちにイエス様すぐに答えなかったことがしばしばある。本気で求めているのか。真剣に願っているのか。
A弟子たちはパニックに陥り、恐ろしさのあまり、半狂乱になってしまった。せして、弟子たちの否定的、不信仰な告白。私達が溺れ死んでも、いいんですか。私達がどうなってもイエス様、無関心なんですか。私たちがどうなっても自分の知ったことではないと思っているんでしょう。
イエス様が共におられることを忘れてしまっている。全能の神が共にいることを忘れてしまった。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエス様から目を離してしまい、現状を見るならば、パニックと恐れが私たちの心を支配する。ペテロが水の上を歩いてイエス様の所に行ったとき、イエス様を見ていたときは、問題なく歩いたが、イエス様から目を離してしまい、周りの状況、すなわち風や波を見た瞬間、沈み始め、溺れた。
V. 向こう岸での御業
a
試練の後に、神は大きな御業を表してくださる。
試練の後に、神は大いなる御業を現してくださる。その信仰をもつことが大切。
聖書に出てくる人もせうであった。例ヨセフ
詩篇23篇 「死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れますん。あなたが共にいるからです。
羊飼いは羊を最も良い牧草地へ、泉へと導く。そのような場所はあまり人や動物が入ったことのないような深い谷間を越えて行かなければならない所にある。
b神の偉大な御業が起きた(レギオンからの解放)
ゲラサの地で多くの悪霊によって苦しんでいる青年がいた。町も彼ゆえに苦しんでいた。イエス様は彼を悪霊から解放した。せして、彼がキリストの証人となっていたるところでイエス様の証をした。
c 私たちの向こう岸である天国はどのようなところか。黙示録21章1節―4節 神の報いがある。
Tコリント15:50−58


8月21日 しるしとなり記念となる物。   ヨシュア記314~47  
ヨシュア3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。

3:15
箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、――ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――

3:16
上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。

3:17
主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

4:1
民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに告げて仰せられた。

4:2
「民の中から十二人、部族ごとにひとりずつを選び出し、

4:3
彼らに命じて言え。『ヨルダン川の真中で、祭司たちの足が堅く立ったその所から十二の石を取り、それを持って来て、あなたがたが今夜泊まる宿営地にそれを据えよ。』」

4:4
そこで、ヨシュアはイスラエルの人々の中から、部族ごとにひとりずつ、あらかじめ用意しておいた十二人の者を召し出した。

4:5
ヨシュアは彼らに言った。「ヨルダン川の真中の、あなたがたの神、主の箱の前に渡って行って、イスラエルの子らの部族の数に合うように、各自、石一つずつを背負って来なさい。

4:6
それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。後になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか。』と聞いたなら、

4:7
あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』」



 イスラエル、トルコ、クロアチア、スロバキア、ボスニア・ヘルツェゴビナと各国を回り、宗教が人々の生活に深く根ざしているのを感じながら、特に今回は日本人の観光客がそれを戸惑いもなくカメラに納めているのに違和感を覚えました。人々は、教会や神殿で涙を流しながら神に訴え祈っているのに、それを感傷もなしに記録している日本人の姿は、現地の人々にはどのように映るのでしょうか。帽子を脱げと言ったら脱ぎ、こうしろと言ったら従うけれど、自らの宗教心はなく、教養や知識のために世界旅行を度重ねることが、その人の人生にどれだけ関わることなのでしょうか。

プロテスタントの牧師として気になったことは、カトリックの聖者・福者などの信仰者が人々の心に強く結びついていることでした。その国・地方・教会ごとに身近な聖人や信仰者たちが語り継がれ、人々は彼らを偲び、彼らに神への執り成しを求めるのでした。聖書でも、「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから」(ヘブル12・1)と11章の信仰の勇者たちを語りながら、私たちへの励ましとしています。

 私自身、ダビデやパウロの信仰に感化と励ましを受け、ジョージ・ミューラー、ハドソン・テーラー、アウグスチヌス、ドフトエフスキー、カーネギーらの欧米の信仰者はもちろんのこと、日本では内村鑑三、新渡戸稲造、山室軍平、石井十次、香川豊彦、杉原千畝、三浦綾子、星野富弘、その他多くの信仰者に啓発されています。ところが、日本のプロテスタントはどうも信仰偉人を尊重し、その歩みと功績を記念することが少ないように思われます。なにか、日本人一般にあるような、人をこきおろし、評価しない、という卑しさがあるのではないでしょうか。だから、子どもにしても、大人にしても、人生の目標と人格を養うことの影響を受けることが少ないのではないでしょうか。 最近、父のことや恩師弓山喜代馬先生のことが思い起こすことが多くなりました。悔いのない生涯を歩みたい、という思いが強くなってきています。

 さて、それでは聖書は、なんと言っているのでしょうか。ここでは、子孫への記念にし、神の奇跡や自分たちの歩みをしっかりと残せと神は言われます。本来ならば40日で通過できる荒野を40年も掛かったことは、自分たちの罪性と神の大能を示す歴史的な事実となりました。これが40日であったならば、歴史に残ることはないでしょう。子孫たちに語る時に、その石の所に連れて行き、自分たちの祖先がエジプトで奴隷となっていたこと、神の大能と指導者モーセによって連れ出されたこと、それでも多くの反逆と罪を行い、このヨルダン川を渡ることができたのはエジプトから逃れたものではヨシュアとカレブしかいなかったこと、などを語るのです。

 更に、ここは劇的な出来事の記念碑です。彼ら百万人以上の民がヨルダン川を渡る際、契約の箱を先頭にして進み、その箱を担ぐ者たちの足が水際に浸った時、この川の流れが堰き止められ、彼ら全員がそこを歩いて渡った証拠なのです。試練の谷、苦難の川があったとしても、もし信仰によって歩むならば、神がその試練の川を止めてくださるということを、子どもたちに語ることができるのです。信仰を持つということ、神を信じて歩むということを自分の子供たちに教え身につけさせることは、難しいことだと思います。強制的に宗教儀式に染まらせても、信仰という自発的な宗教心を形成させるには逆な反応をもたらしかねません。
 プロテスタントに比べて、カソリックのほうが家族の信仰を保つことが多いのは、信仰というものが理念的ではなく、生活習慣に浸透させているからかと思います。プロテスタントとしては、それが真の信仰ではなく、習性に過ぎず、実際に救いに導くものとは遠いという主張もあります。

 私は、教会形成にあたり、教会員には子供の前で涙して祈り、神への信仰と自らの葛藤をそのまま語り伝えることが必要であると、今にして確信するものです。強く立派な信仰者であり、神に十分な信頼を置いて神が助けてくださる、などと見せかけるのは辞めましょう。

 イスラエルにしても、ボスニア・ヘルツェゴビナにしても、戦争の銃弾の跡をわざわざ残していました。クロアチアのドブロクニクは『アドリア海の真珠』と言われた美しい町であり、1979年に世界遺産に登録されたのですが、1991年ユーゴスラビア崩壊に伴い、セルビア・モンテネグロ勢力によって砲撃を受け、7割の家屋が崩壊したのですが、残った市街図をもとに古いレンガを集めて、昔のままの旧市街を再建しました。教会には、内戦の際のロケット弾が貫通した跡を、そのまま残して説明のプレートを付けていました。城門の傍には、破壊した家屋の場所が記されていました。彼らは、まず教会を再建し、自分たちの家を再建したのですが、戦争の悲劇と苦しみを子孫に語り告げるために、わざわざ窮屈な建物を再建したのです。

 子供たちに、人生の苦しみを語り告げなければなりません。甲子園野球も終わりましたが、野球に勝つためには練習の苦しみを乗り越えることを先輩が後輩に語り告げ指導して、伝統が作られて行くのでしょう。現代日本のような核家族と都市文化では、親が語り、子に教えなければ、人生の戦いに乗り越え、神を信じて生きる子孫を保つことはできません。


8月28日 私たちは自らの証人です。   ヨシュア記2419~28

新改訳 ヨシュア24:19 すると、ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。

24:20
もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」

24:21
それで民はヨシュアに言った。「いいえ。私たちは主に仕えます。」

24:22
それでヨシュアは民に言った。「あなたがたは、主を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。」すると彼らは、「私たちは証人です。」と言った。

24:23
「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」

24:24
民はヨシュアに言った。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」

24:25
それでヨシュアは、その日、民と契約を結び、シェケムで、おきてと定めを定めた。

24:26
ヨシュアは、これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って、主の聖所にある樫の木の下に、それを立てた。

24:27
そして、ヨシュアはすべての民に言った。「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。」

24:28
こうしてヨシュアは、民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。


 神と指導者モーセに従い通したヨシュアとカレブだけです。カレブは「私は私の神、主に従い通しました。」(ヨシュア14・8)と85歳の時、告白することができました。「それでヘブロンはケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。」(14・14)。カレブという名は、「砦、堅く守る」という意味だそうです。

ヨシュアもまた、「どんな神々でもあなたがたが仕えようと思うものをどれでも今日選ぶが良い。私と私の家とは、主に仕える。」(24・15)と110歳の生涯の終りに宣言し、神に従い通したことと、家族に信仰を浸透させた確信を語っています。ヨシュアの宣言に応答して人々は、「私たちが主を捨てて、他の神々に仕えるなど、絶対にありません。」と約束しますが、人々のうつろな心、不信仰な歩みを身に浸みて知っている指導者ヨシュアは、19節を語ります。

私は、神経質で恥ずかしがりやで運動も音楽も勉強も何もできない自分が、つまらない将来像を告白してしまったことを恥じ、中学1年の春に、自ら恥ずかしくない人生を生きて行こうと決意したことを忘れることはできません。高校の時は、自分の決意を箪笥に張り、毎日唱えて、性格改造や自己研磨に励んだものです。それが身についてきた大学時代に個人の努力の限界を覚え、そして信仰に入ったのでした。

 牧師生活と人生や経済にも安定してきましたが、神に従い通すという課題に未だ、大きな戦いを覚えています。洗礼を受けたから自分は、信仰者として十分だと思うでしょうか。教会で奉仕や什一献金を続けたから、自分は良い信仰者だと思うでしょうか。或いは、神学校に行き、牧師になったから自分は献身者なのでしょうか。

 「主に仕えているかどうか、自分が証人である。」というヨシュアの言葉に、私の精神はおののかざるを得ません。あの決心をして既に46年、信仰に入り、36年、牧師になって28年、私はそれほど健康でも体力に自信があるわけでもなく、信仰の戦いを続けてきました。自分の力も強くなってきましたが、戦いは大きくなり、強くなり、困難は続いています。誰にも相談できず、年老いた貧しい両親の下で学に志し、家族を支え、教会を守り形成し、今や多くの患者や守り指導するべき人々を抱えています。眠れぬ夜もあり、起き上がれぬ体調もあり、課題は増える一方です。

 努力を装い、責任を転嫁し、決断をしなければ、どんなに楽でしょう。世の政治家や指導者、そして周囲の人々を見ます。人々を批判し、言いたいことを言い、責任を持たずに強者になびき、弱者に驕るならば、神の裁きを免れることはできないと気がついています。力と精神の限界に何百回直面したことでしょう。確かに聖霊なる神は、共にいてくださったからこそ、乗り越えることができたのです。

 エゼキエル書でケルビムの全身に目がある、という記述がありますが、神の目に対して、言い開きはできません。神は全てのことを見通し、御存じです。頑固な者は、その頑固さの始末を付けさせられ、自分勝手な者は、人々の勝手に振り回されて悪態をつきます。人を赦すことのできない者は、友を持つことができず孤独な人生を送ります。信仰は常に試され、不信仰の実を収穫するのは容易ですが、信仰の実を味わうには多くの年月と忍耐が必要です。

 蛇足ですが、株式会社ヨーゼフもまた、大きな石を主の聖所に立てなければならないと感じています。つまり、経営理念を社外に告白しなければならないようです。多くの人々がマリヤ・クリニックや潟ーゼフの信頼性を確かめようとし、ホームページを見、本を読んで私たち夫婦を調べているようです。会う人ごとに、それを知らされ、恐ろしさを覚えます。小さき人、平凡な人と自称するのは簡単ですが、既に大きな社会的責任のある人間になっているのです。

 誓約をすれば、その言葉に責任が生じ、その継続的遂行が義務付けられます。私は洗礼式の誓約でさえ、本当にこの人はこの誓約が守れるのか心配になります。誓約というのは、守れば祝福されますが、守らなかったら呪われることを受け入れるということなのです。単にできるだけやってみようということではないのです。この信仰の誓いの大事さ、神聖さを悟っている者のみが、誠実な信仰者ということができるのです。

 洗礼の際の誓いは、B聖霊の恵みに信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きることを願いますか。C自分の最善を尽くして教会の礼拝を守り、教会員としての務めを果たし、あかしの生活をすることを願いますか。という質問です。多くのクリスチャンがこれを忘れているようにも思います。それなのに、神に祝福を求めるというのは、筋違いの要求です。私たちが神の命令を守れば、神は私たちをいつも守り祝福して下さるのです。洗礼を受けないで、「私は神を信じているクリスチャンである」と言うことは、神の前でも聖書でもあり得ないことです。しかし、実は、この誓約は「願いますか」と言うものであり、本来それほど難しいことではないのですが、人間の罪性というのは、それを容易にはしないものなのです。また、今は聖霊による助けを受けられるという教会時代に生きていることも忘れてはならないことです。


9月4日 信仰道を修練する。   ヘブル書111~11
新改訳 ヘブル
12:1
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

12:2
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

12:3
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

12:4
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。

12:5
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

12:6
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

12:7
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

12:8
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

12:9
さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

12:10
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

12:11
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。



 神学校の聖別会では、「信仰は武道である。」日々の修練が大事で、理屈や知恵ではなく、日々修練を重ねて鍛錬しなければ、信仰を身につけることも強くなることもできないことを語りました。1節にあるように、天に召された信仰の先達や天使に見守られながら人生という道を、忍耐をもって走り続けるためには、自分を鍛錬しなければなりません。

 「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい行ける道を設けてくださったのです。」(ヘブル10・20)というように、イエスさまは、この信仰道の「創始者であり、完成者」(12・2)なのです。さらに、「罪と戦って血を流す」のですから、武道であることに他なりません。信仰道は日々の鍛錬が必要であり、この鍛錬をしていないと、敵に襲われて傷つけられ死んでしまうのです。ですから、神の訓練法は、人生における試練であり、信仰の戦いなのです。(5-7節)。この訓練を受けていないとすれば、この道に入っていない人しかありません。そして、騙されやすい民衆なので、敵はその領地に囲い込んで労役をさせているに過ぎないのです。

 悪魔の策略に対する武器は、エペソ6章に書かれているとおりです。真理の帯を腰に締め、正義によって自分の心を守り、決して人とは戦わないという歩みを定めるのです。随時攻撃してくる悪魔からの恐れを、自分の身で守るのではなく神が守ってくださるという信仰をもって大盾として防ぎ、攻撃されやすい頭には、既に救われ神のものとなっているという兜をかぶるのです。聖書のことばは、私たちが有する唯一の武器であり、それに堪能し使いこなしていなければなりません。日々、御ことばである剣を振って修練を積んでいなければ、剣を使いこなすことなどできず、ただ防戦一方になってしまいます。

 どんなに立派な武器を持っても、その人の肉体が弱く鍛錬がされていなければ、戦いに勝つことはできません。自分がクリスチャンであり、家族もそうであると安心していてはなりません。武器を身につけず、鍛錬もされていない人を滅ぼすなど、サタンにとって容易いことなのです。私は、自分を信仰者として訓練していない人々が、簡単に罪を犯し、サタンの罠にはまって破綻していった例を多く知っています。

 鍛錬とは祈りなのです。どんな時も御霊によって祈り、絶えず、目を覚まし、忍耐の限りを尽くして祈りの修練を積むのです。祈りをしていない人は、神が用意された試練に簡単に負け、聖さに預かることができません(12・10)。

神を信じている人には、試練がなく全てが守られるはずだと考えている人がいます。努力や修練をしない人は、既にサタンの罠にはまっています。この世では、神を信じていようといまいと同じように試練や戦いはあります。勝とうとせず、逃げてばかりいる人は、既に敵の捕虜となり奴隷のなっているのです。現在の日本は、占領国のようです。享楽に囚われ、信念も情熱もなくし、真実や愛に目を向けることなく、虚しい日々と過ごしているのです。

 「神を信じれば、何の苦労もなく喜びが溢れ、平安で過ごせるはずだ。クリスチャンは、互いに弱さを受け入れあって、生きれば良いのだ。」と教える人もいます。それは偽の教えであって、それでは「私生子であって、本当の子ではないのです。」(8節)。真実に生きるということは、そんなに生易しいことではないのです。自分の子供を育てるということも、生易しいことではありません。子供の目を見つめ、悪や罪に対しては、本気になって怒るのです。本気で怒られない子供は、誤魔化しをし、嘘を言い、罪を犯します。

 なぜ、親が子供を本気で怒れないのでしょう。彼ら自身が罪を犯しているからです。そして、赦しを体験していないからです。私は神学生に霊的な権威を持ちなさいと指導しました。霊的な権威を持つためには、神の前に、人の前に、誠実に生きていなければなりません。そして、日々神の前に出て祈り、自らを御ことばによって鍛えていなければなりません。

 スポーツというのは誤魔化しが効きません。鍛錬していなければ、必ず弱くなるからです。現在、スポーツが人気あるのも、そういう厳しい現実を生きている人々を見ることができるからですが、見たからといって自分の現実を忘れてはいけません。そしてスポーツと同じように、己が霊性を高める強くする修練を積む必要があるのです。

 弱音を吐かず、愚痴を言わず、言い訳をせず、全ての自らの過ちと罪を認めて神の義を確認します。

人を避難せず、人の過ちや罪を赦し、神の前に執り成し、その人の祝福と守りを信じ期待し、自らがするべきことを確認して行い助け、思い通りにならないことを受け入れるのです。

子供・病者・高齢者・障害者・弱者のそれぞれの状況を良く思いやり、自分としての為すべきことを判断して失敗を恐れずに行動するべきです。行動しないで、教訓と訓練を受けることはありません。

自分の子供や家族、部下、従う人々には、それぞれ何をするべきか、良く祈り考え、判断して、責任をもって対応するべきです。失敗を恐れてはなりません。日本は、失敗を恐れ、失敗を責める社会です。これは、サタンの支配下にある特徴です。サタンは責める者だからです。

要求ばかりを繰り返し、自ら何もしようとしない人々は、甘やかされ、親の指導を受けなかった人々です。彼らは、自らの罪と怠惰の中で、責任を取り、挫折していく中で、悔い改めの機会を持つことを、執り成していくしかありません。その人の孤独と虚しさは、罪の結果なのです。罪の結果を、あいまいにさせるのがサタンの罠なのです。日本は、そういう社会です。神の前に、自らを修練していきましょう。



9月11日 母の存在。   ヨハネ福音書1923~27節 

新改訳 ヨハ 19:23-27

19:23
さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。

19:24
そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。

19:25
兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。

19:26
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。

19:27
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。


 母なる大地、母国、母教会などと言いますが、母なる神はなく、父なる神であります。母を必要とするのは、人間なのです。欧米で聖母崇拝が強いのは、父なる神と子なる神イエスだけでは、情緒的に慰められないからかと思います。プロテスタントとしては、情緒的にイエス様に母に対する感情を知ろうとした人々に対して、「天におられるわたしの父の御心を行う者は、誰でもわたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マタイ12・50)として、イエス様の家族、特に母マリヤに対する特別な崇拝を持つことをイエス様が戒めていることを強調します。

 プロテスタント国であるアメリカやカナダに親しんできた私には、カトリックのポルトガルやクロアチアを訪れて驚いたことは、聖母崇拝です。しかし、実際にはカトリック国の女性の立場は弱く、さらに回教国では国にもよりますが驚くほど女性の立場は弱くなっております。さらに、アフリカ諸国では、女性の権利が殆ど認められず、今なお女性売買がされている地域があるようです。どうも宗教と女性の立場には、相関関係があるように思えてなりません。日本ではどうかというと、女性の社会的進出や地位、立場は先進国の中ではかなり低いと言えます。却って、韓国や中国のほうが、女性の立場は高いように思われます。日本のキリスト教界でも同様で、女性の立場が強くなっていたり、地位ある女性が多いようには見えません。

 使徒パウロが女性を軽んじているのは明らかです。Tコリント11章の教えは、他の聖書の箇所から見て適切なものなのか、パウロの偏見としての記録なのか、難しいところです。ユダヤ教では女性の立場は全く低く、教育を施されることはありませんでした。これを教え伝えているのはコリントの教会に対してであるということも知っていなければなりません。コリントと言うのは、道徳的に大変頽廃したところで、文化・習慣として女性たちは言いたいことを言い、やりたいことをやってきたという当時としては稀有な都市であり、ユダヤ教的素養のあるパウロには我慢のならない女性たちの乱れ方だったのでしょう。

女性がかぶり物を教会ではかぶり、男性は付けないという教えは既にプロテスタントでは否定されています。それは、当時の社会秩序としては、当然のマナーだっと学者たちは指摘します。つまり、パウロの言いたいことは、その社会の規範を守れ、ということだったのだということです。

私としては、大使徒パウロでさえ、中年女性たちの専横には手を焼き、このような一方的で厳しい規律的な指示を出してしまったということを正確に記述した神の教えであるとすれば、それで良いかとおもってしまっています。パウロが、感情的興奮の中でも、「主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。」(Tコリント11・11)と、男女の同権を語っているのは、当時としては画期的なものだったのです。14章34節に、「教会では妻たちは黙っていなさい。」と書いていますから、よほどやかましい女性たちだったので、ついに聖書に残るような厳しい教えを書いてしまったのだと思われます。ただ、こういう箇所の神学的説明は、学者は困るでしょうね。

プロテスタント国の特徴は、明らかに男女同権であり、キリスト教が広まった国では間違いなく歴史的に女性の立場は向上しています。ところが、聖書を読み信仰を教えるべき牧師たちが、もし女性たちの上に君臨しようとしたら、このTコリント書にあるパウロの女性たちへの混乱から書いた文書を振りかざして、女性の権利を認めなくしてしまうのです。聖書を読み、人格をもって信仰生活を歩もうとする者は、決してそのような弱者にたいする専横を認めてはいけません。そのように些細に見えるようなことが実は、信仰者としての誠意や人格を損ない、キリストの教えを違える酵母菌のようなものになるのです。

私は自分の食べた食器を妻に洗わせてテレビを見ているような夫たちが嫌いです。仕事に忙しいとして酒場で飲んで帰り、休日にも出かけてしまって、家族のことを省みない男性たちが幸せになることは決してないと思います。クリスチャンの男性で、妻に対して横柄な人がいたら、聖霊が去って行くような偽信仰者だと思います。信仰を持つということで、威張ることはあってはなりません。

縫い目のない下着をイエス様の為に編んだのは母マリヤであると思います。この聖句の箇所の後、イエス様はよみがえるのですが、それでも自分の十字架上の死のために母マリヤが嘆き苦しんで死んでしまうのではないかと、イエス様は母のことを心配するのです。そして、心優しく甘えん坊のヨハネを呼び、母マリヤを自分の母のように労り守りなさいと告げ、マリヤには自分が死んでも、ヨハネがいるから気を確かに持ちなさいと、励ますのです。イエス様は、人間の母の情愛の深さ、そして優しいヨハネのような人間にはマリヤのような優しい母が必要なことを知っておられるのです。

私の心の中には、優しく愛情深い母がおり支えでしたが、今は優しい妻が支えとなっております。コリントでは興奮したパウロも、成熟した教会であるエペソでは夫婦の奥義を教えています。「夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。」(エペソ5・28)。更に、テサロニケの人々には、自らが「母がその子供たちを養い育てるように、優しく振舞いました。」(Tテサロニケ2・7)と愛情をもって教えています。

「あなたの父と母を敬え。・・・そうしたら、あなたは幸せになり、地上で長生きをする。」(エペソ6・2.3)とあるように、どのような国でも、状況でも、母を愛し敬うならば、人は幸せになるのです。女性たちよ、優しい母になってください。男性たちよ、女性たちを助け愛し、優しい人になるように、その労苦をねぎらってください。


9月18日 病める者への執り成し。   イザヤ532~8 
新改訳 イザヤ 53:2-8

53:2
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

53:3
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

53:4
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

53:5
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

53:6
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

53:7
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

53:8
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。


 私が「病の成因と教会の癒しの力」という論文を書いたのは、1987年のマリヤ・クリニック開業の前のことでした。医療従事者として病める者への対応の基本理念を確立していなければならないと考えたからです。

 病の原因としては、病原菌・環境要因・遺伝素因があります。人々の考え方の中には、病になるということは、罰であるとか、神の祝福から外れたとか、罪の結果であるとか考えてしまう傾向があります。遺伝素因に関しては、親の罪と考える人々に対して、イエス様が介在すれば、「神の栄光のためです。」(ヨハネ11・4)と語られ、Tコリント12・23には「ことさらに尊ぶもの」とされています。旧約に、障害者は聖所で奉仕してはならない、とありますが、しかし、「最も聖なるものでも聖なるものでも食べることができる」(レビ21・17-23)。つまり、聖所は神の国の例えであり、神の国には障害者がいないことを示すが、実際には、障害者でも食事を同じように取るということが教えられます。

 レビ記などは、伝染性や食事などによる病気予防のために厳しい食物制限がされますが、これはイスラエル民族を病気から守る大きな役割を果たしています。当時の食物環境では、稀に見る衛生指導でしょう。病んだ者や出産後の女性に対する休養の配慮もなされています。ただ、罰としての疫病は(レビ26・25)記されています。また、恐れや鬱は、安息を取らなかった罰として説明されています(26・36)。

 生活習慣病を聖書がどのように捉えているか、興味深いところです。聖書では、脂肪を食べてはいけない、と教えていますが、祭司エリの子たちは脂肪が好きで神の呪いを招いたとあります(Tサムエル2・15、3・15)。エリは自分の子を戒めずに自らも大変な肥満になっていたことが記されています(Tサムエル4・18)。

 新約になると、病者への対応は全く変わります。それは、今日の聖句にあるように、イエス様がその身に私たちの病を負い、罪を負うて下さったからです。これは、罪の許しと共に力強くイエス様ご自身によって宣言されます。労働が禁じられていた安息日にさえ、片手の萎えた人を癒し、盲人で聾唖者を癒し、「痛んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」心優しく公義に富んだ方として示される(マタイ12・9-21)。ルカ4章には、「捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを、虐げられている人には自由を」語り、人々は、その恵みの言葉に驚いたとあります。

 イエス様は求める病者には、癒しを施し、その先にある魂の救いの現実性を示したのです。しかし、次第にイエス様は、ご自分の癒しを人には言わないように、口止めされるようになりました。それは、律法学者やパリサイ人が、癒しを知れば知るほど、イエス様を攻撃するようになったからです。そして、ついに死人のラザロがよみがえると、イエス様を攻撃する思いは頂点に達し、殺害計画が実行されるようになったのでした。つまり、癒しという神の国の明確な現れに接して、神の国に入れない人々が明確な攻撃をしてきたということです。

 病や弱さにおいて、その人の人間性が現れるということは事実です。更に死の現実の中で、その人が魂の救われている人か否かもわかります。試練が、その人の信仰を精錬することとありますが、それは「魂の救いを得ているから」(Tペテロ1・9)、試練も病も弱さも栄誉になるのです。

 実は、私も血圧が高くなりました。運動は続けているのですが、体重が減りません。仕事とストレスもあるのでしょうか。ともかく、血圧が高い、ということは私への具体的異常サインであり、警告です。仕事量が増えすぎており、責任も多く、休みもきちんと取れなくなりました。

 病というのは、私たちが健全でないことの指標です。痛風に苦しみ、自らの人生を神に委ねることを告白しました。病の癒しを神に叫んだら、すぐ治ってしまうのでは、私たちは罪人のままで暮らしてしまいます。低血糖症にしても精神疾患にしても、多くは自分の管理を怠っているから起こったものです。現代社会は誘惑が多く、人間は自らの弱さ、罪、過ちを悟らないものです。そこに、病の意味があります。

 罪も病も同じようなものです。大事なことは、神の前に悔い改め、救いや癒しを激しく求めることです。

 そして、病んでいる者、罪を犯している者に対しては、私たち信仰者は、イエス様のように心から同情し、癒しを願い、癒しのために協力をし、助けをするのです。罪に関しては、赦しのために、いろいろなことをしても、相手にはわからないことがあります。しかし、病の癒しのための行動は、明らかであり、相手も喜ぶものです。だからこそ、イエス様のあとに人々が従ったのです。

 先日、宣教師に対して、マリヤ・クリニックに検査にくるのは、健康であることの証明ではなく、身体を労り、健康であるように自らの身体の弱さと病気を知ることです、と説明しました。現代社会では、心身共に健康な者は殆どいません。己が罪深さを知り、自制するからこそ、神と共に生きることができるのです。己が身体の弱さを知らなければ、神の示す聖書的安息を保つことはできません。

 病める自らを執り成し、病める隣人を執り成して生きることが、神の国の住民として必要なのです。


9月25日 あなたの推薦状は?   Uコリント32~16 
新改訳 Uコリント3:2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。

3:3
あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

3:4
私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。

3:5
何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。

3:6
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

3:7
もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、

3:8
まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。

3:9
罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。

3:10
そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。

3:11
もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。

3:12
このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。

3:13
そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。

3:14
しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。

3:15
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

3:16
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。



 今日は敬老礼拝ですので、聖書の中の長寿の人物を御話ししようと思いました。現在、「神のデザインによる医療」という本を執筆中ですが、人間の染色体の端にテロメアと言うものがあり、細胞分裂を繰り返すと、そのテロメアが短くなっていくそうです。そして、そのテロメアの長さから割り出すと、人間の寿命の限界は120歳であり、創世記6章3節にある通りとなります。

 その120年を余すことなく生き抜き、そのまま天に召し上げられたのが、モーセです。人間の身体は、内臓・骨・皮膚・酵素・血液に至るまで、主要なものはタンパク質で出来ていますから、タンパク質を摂っていれば長生きするかというと、その再生の命令が遺伝子から出ており、正しく分裂すれば、テロメアどおりの長寿を全うできるのですが、染色体の末端にテロメアではなく、ウィルスや活性酸素によってDNAが切断されてしまうと、細胞が損傷し、死んだりして、病気となり、死に至るのです。

 先週は、イスラエル人が非常に良質な食生活をしていたこと、それが聖書に書かれたものであり、そのように聖書的に生きることが健康の秘訣であることを御話ししました。しかし、いくら聖書的な健全な食生活をしても、過労や精神的ストレスがあっては、身体の免疫機能に異常が来されて、やはり、細胞の損傷に至るのですから、身体というのは微妙なものです。

 つまり、聖書的に生きるということは、身体的な健康だけではなく、精神的・霊的健康を保つことであり、そのようにして神の栄光を自らのいのちを持って崇め讃えることが大事なのです。

 モーセは、3か月の間、父の家で母乳で育てられただけでなく、その後も王の家で母の愛情と乳をもって育ち、更に王家の食事と教育、そして環境で育てられました。精神的に不安定な人は、幼児の家庭環境が平穏でなく、母の愛情と父の訓戒が不足している場合が多いのですが、そういう場合でも後の読書や人との交流で回復して行くのが通常です。それが損なわれるのは、我欲の強さです。

 モーセも、母の愛情と教えによって自らがイスラエル人であることを知っていたので、同胞がエジプト人によって虐待されるのを我慢できずに、殺害してしまいました。人を殺害するほどの激情をコントロールできなかったのです。忍耐や寛容という品性は、苦難と辛抱によってしか形成されない時間の掛かるものです。多くの人が、この寛容や柔和の実を実らせることができないので、神と共に住む人生を生きることができずに、ストレスをもつのです。

 モーセは、荒野で40年間羊の世話をして文化と離れることによって、忍耐を身につけました。羊は最も思う通りに育てられない手間のかかる動物のようです。他人を思う通りに動かそうとする罪深さというものは、罪の結果としてのそのような荒野の40年というものを経るしかないかもしれません。しかし、試練というものは、人間の心身を強靭にします。人に頼ることのできない試練もまた、自制を身につけるには必要なのでしょうか。

 荒野の生活で忍耐を身につけて平安の日々を過ごしていたモーセが80歳になった時に、神が指導者として召し出したのでした。なんという皮肉でしょう。心身共に活力がみなぎっていた40歳の時に、その力が故の罪を犯し、その力が衰えた80歳になってから、男だけで60万人を指導することになったのです。

 チベット仏教を国教とし、キリスト教を禁じるブータンという国で、クリスチャンが増える唯一の理由は、癒しだそうです。アフリカでも南アメリカでも、回教国でも共産圏でも、更にはアメリカでも、最も福音を信じる理由は癒しだそうです。神の力が働くと病が癒されるのです。

 モーセは、神の前に出て、律法をいただいた時に、聖霊に満たされ顔が光輝いたのです。神の力に満たされたら、身体は完全に健やかになるのです。顔が光り輝くような聖霊に満たされるためには、人を裁くのではなく、人を自由にするための使いに奉じなければなりません。

 私自身は、決して過労にならないように気を付けています。罪人は、自分が疲れ果てるまで仕事をすることを誇っています。愚かなことです。疲れ果てると言うこと自体が、神の法則を破る罪です。自分に課せられた自然の法則を破り、休憩も取らず、食事も満足かつゆっくりと摂らずに働くことが、凄いこと、献身的なことを誤解しているのです。そういうことを神は、許しません。過労というのは、傲慢の罪なのです。

 過労になりそうな時は、休みます。休んでいないと、付けが来て、強制的な休暇を取るように病になります。それでも休まないで、働くと病気になり、病気になっても働くと死んでいきます。

 大事なことは、金儲けでも、大仕事をすることでも、有名になることでも、社会的地位を持つことでもありません。神と共に過ごすことなのです。そして、神と共に過ごしていない証拠として、ストレスが起こり、身体が弱くなっていくのです。身体と言うのは。ゆっくり食事をしないと消化と吸収が出来ないようになっています。急いで食事をする人は、血糖曲線で直ぐに分かります。つまり、急いで食事をすることが罪なのです。そういう人は、料理を作った人に感謝もせず、料理を家族や友と一緒に喜ぶこともせず、料理自体を喜んで味わうこともしないで、食事というものを神の創造行為から除外してしまっているのです。

 牧師は、日曜日に休まないし、その他の日も休まないのならば、神の定めた法則を犯していることになり、その身にペナルティを与えられることになります。多くの牧師が、疲弊しています。伝道するという仕事よりも、神と共に過ごすことのほうが優先するべきだと、私は信じているのです。