4月3日 神に会う備えをせよ   アモス書44~13節   杉本茂謙伝道師

新改訳 アモス4:4 ベテルへ行って、そむけ。ギルガルへ行って、ますますそむけ。朝ごとにいけにえをささげ、三日ごとに十分の一のささげ物をささげよ。

4:5
感謝のささげ物として、種を入れたパンを焼き、進んでささげるささげ物を布告し、ふれ知らせよ。イスラエルの子ら。あなたがたはそうすることを好んでいる。――神である主の御告げ。――

4:6
わたしもまた、あなたがたのあらゆる町で、あなたがたの歯をきれいにしておき、あなたがたのすべての場所で、パンに欠乏させた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。――主の御告げ。――

4:7
わたしはまた、刈り入れまでなお三か月あるのに、あなたがたには雨をとどめ、一つの町には雨を降らせ、他の町には雨を降らせなかった。一つの畑には雨が降り、雨の降らなかった他の畑はかわききった。

4:8
二、三の町は水を飲むために一つの町によろめいて行ったが、満ち足りることはなかった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。――主の御告げ。――

4:9
わたしは立ち枯れと黒穂病で、あなたがたを打った。あなたがたの果樹園とぶどう畑、いちじくの木とオリーブの木がふえても、かみつくいなごが食い荒らした。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。――主の御告げ。――

4:10
わたしは、エジプトにしたように、疫病をあなたがたに送り、剣であなたがたの若者たちを殺し、あなたがたの馬を奪い去り、あなたがたの陣営に悪臭を上らせ、あなたがたの鼻をつかせた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。――主の御告げ。――

4:11
わたしは、あなたがたをくつがえした。神がソドムとゴモラをくつがえしたように。あなたがたは炎の中から取り出された燃えさしのようであった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。――主の御告げ。――

4:12
それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。

4:13
見よ。山々を造り、風を造り出し、人にその思いが何であるかを告げ、暁と暗やみを造り、地の高い所を歩まれる方、その名は万軍の神、主。


・アモス書の背景

アモス書の1章に、ヤロブアム2世の時代、とありますから、紀元前79050年頃のことです。そのころ北イスラエルは、全盛期といわれる時代でした。王の統治は40年続き、北イスラエルの国は、一見すると経済的にも豊かで、繁栄し、軍事的にも、安定した国に見えました。しかし、人々の心は乱れ、神を怖れず、偶像礼拝の罪に満ち溢れておりました。そこで神は、南ユダのテコア出身の農夫であった、アモスを預言者として立てられ、北イスラエルに向かって彼らの真の姿を告げられました。

アモスはこの書を記し、イスラエルの罪に対する神のさばきを告げました。アモスは、イスラエルの社会的、道徳的堕落を、叫ぶのであります。最後の裁きの時がくる。神を怖れ、神に立ち返らなければならない。やがて来られる神に、出会う備えが出来ていない彼らの姿を、叱責しているのであります。では私たちは、どのように神に合う備えをする必要があるのでしょうか。

・「自らの礼拝の姿勢を吟味する」ということ

4節5節は何を言っているかと言いますと、神は、預言者アモスを通して、イスラエルの民の形式的な礼拝に対して、皮肉を言っているのであります。お前たちが、熱心に守っているその、形だけの礼拝をもっと徹底したらよいではないか。それが、敬虔な態度であるというなら、もっと熱心にしてみたらよいではないか。しかし、わたしは、そんなものを求めてはいない。

形式的な彼らの礼拝は、神への尊敬を表すものではなく、自分たちの宗教性、宗教熱心に対する興味であったといえるでしょう。信仰が、神に対する姿勢ではなく、自分の行為に向けられてしまいました。私たちは、こんなにきちんと、欠かさずに礼拝を捧げている。敬虔できよい態度で、いけにえを捧げている。そのような、自己満足であります。

神は、礼拝というのは、そもそも何なのかということを問うているのであります。あなたたちは、何のために、礼拝しているのか。イスラエルの民にとって、本来、礼拝というのは、恵みのときでありました。自分たち、そして、その子孫が、神の救いに預かり、神の掟に従って生きる民となるようになる。確かに自分たちは、神に選ばれた民である、ということを確認する時でありました。私たち礼拝者のこころが、神に向いているのかということが問われているのであります。神は、私たちの礼拝形式を否定しているわけではありません。問題は、私たち礼拝者の態度であり、姿勢であります。私たちは、その姿勢、心を常にチェックし、自らを見つめなおさなければならないのです。

・「神の裁きをどうとらえるか」ということ

6節から11節までは、自然災害、伝染病、戦争を通しての、神の裁きが語られています。様々な形で裁きを与えた、しかし、あなた方がたは、私のもとに帰ってこなかった。神は裁きを与えても、立ち返らないイスラエルを、容赦なく非難しています。

では、神はなぜ裁きをなさるのでしょうか。神は私たちを憎み、懲らしめようとしておられるのでしょうか。私たちに何か罰をあたえようとしておられるのでしょうか。そうではありません。神のもとに帰ってきて欲しいという神の願いであります。それぞれの節で、繰り返し、「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。」という表現で閉じられています。神は、イスラエルの民が悔い改めて、神に立ち返ることを、望んでおられました。彼らが神に心を向け、いやされることを、神は望んでおられました。どんな裁きの中にあっても、神の愛が、イスラエルに変わらずに注がれているということであります。

神を信じない人々は、神がいるなら、なぜこのようなことをするのかと言います。神の裁きを人間の頭で理解しようとするならば、それは何とも受け入れがたいものです。しかしそれは、神の裁きに会って嘆くイスラエルの民と同じであります。裁きの預言に耳を貸さない、ユダヤ人と同じであります。

信仰のある人たちは、これこそ私たちの目を開く機会だと考えます。神が私たちに語っておられる。神は何をなさろうとしておられるのか。神は何を伝えようとしておられるのか。神は私たちが、神に立ち返ることを望んでおられるのではないだろうか。そのように考えるのであります。神は私たちに、試練を通して、悔い改め、立ち返ることを望んでおられます。神に心を向ける機会をくださっているのであります。

・「神は道を備えてくださっている」ということ

私たちは、神が、どんなに手を差し伸べても、あるいは、どんな神の憐みも、時間がたつとすぐに忘れてしまいます。しかし、神は、自分に背いた人々と、今一度、やり直しをなさろうとしているのです。それが神なのです。地震を通して、試練を通して、神は私たちを呼び戻そうとしておられます。神は無責任な方ではありませんから、神が「帰れ」と呼び掛けられる時、それは、帰れるように道は整えられているということを意味しています。

私たちが神に立ちかえり、神に従って歩む道は、残されています。それが、イエスキリストの十字架です。神は、私たちのために御子イエスキリストの命を犠牲にされました。これが私たちに残された、最後の機会です。悔い改め、神に心を向け、イエスキリストを救い主として受け入れ、キリストの弟子として歩む。これこそが神に立ち返る唯一の道です。この道以外に、救いはありません。


4月10日 自分自身の堅実さを失わない。   Uペテロ313~18 

新改訳 Uペテ3:13-18

3:13
しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

3:14
そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

3:15
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。

3:16
その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。

3:17
愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。

3:18
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。


 4大公害病と言われるものがあります。

1. 水俣病。熊本県水俣市のチッソという会社が工場廃水として水銀を出し、生物濃縮を経て高濃度に水銀を汚染された魚介類をたべて人が発症した。熊本大学医学部は1959年に原因を究明していたが、政府が認めたのは1968年であった。

2. イタイイタイ病。岐阜県の三井金属工業の神岡鉱山からでたカドミウム汚染。腎臓障害とカルシウム代謝異常をもたらす。発病は戦後まもなくだが、政府が認めたのは1968年である。

3. カネミ油症。北九州市小倉区のカネミ倉庫が、米ぬか油の脱臭の過程でPCBを用いたので、ダイオキシンが含まれており、酵素や遺伝子を異常にする毒性を示した。1968年に発症したが、国は責任を認めていない。

4. 四日市ぜんそく。石油コンビナートの排煙、特に二酸化硫黄が原因。1960年から問題となり、1972年に被告企業が賠償した。

 他に、宮崎県高千穂町の土呂久鉱山のヒ素公害が1971年に告発されたが、和解に15年かかった。それ以前では、1937年から1986年までの群馬県の安中公害訴訟はカドミウム汚染です。

 明治時代後期からの古河鉱業による足尾銅山のカドミウム鉱毒事件は、田中正造の命がけの抗議運動により1972年に勝訴したが、古河鉱業は責任を認めず、賠償金ではなく見舞金を払った。衆議院議員である田中正造は、1901年明治天皇に公害を直訴し、拘束されたが、遺書と離縁状を書いての命がけの行動でした。反対運動で財産を使い果たし、死去した時には袋の中に新約聖書・鼻紙・川海苔・日記・帝国憲法だけであったそうです。

 このように公害をまとめたのは、政府というのは、歴史的に公害に関する情報を公開せず、却って封じ込め、裁判の被告になると責任を否定し続けて、被害者を攻撃してきたということがあるからです。今回のような放射能汚染について、そのような日本政府の姿勢が海外からの抗議によって、少しずつ情報が開示されています。風評被害に注意しろ、というのは情報操作に利用される危険な立場で、良くても悪くても情報は伝わるべきで、それを検証し、正しく判断することが、私たち一人ひとりに必要なことなのです。

 そういう面では、クリスチャン各自が、例えば説教についても、神からのメッセージなのか、聖書に基づいてものなのかを、しっかりと検証することが必要です。また、語る者も安易に「神が私に語られた。」などと言って自分の言葉を絶対的なものとしてはならないことは、十戒にあり、「主は御名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。」(出20・7)ということをわきまえておかなければなりません。説教者が聖句を引用するのも、自分の言葉ではなく神の言葉をそのまま伝えるべくしてなのですが、聖書を用いれば、全て神からのメッセージなのかというとそうではありません。預言も「他の者はそれを吟味しなさい。」(Tコリント14・29)とあります。説教というのは、聞く者自身の吟味を経てのみ、その人の人格に影響を与えるのであって、鵜呑みにするのでは、消化されずに出してしまうことになります。

 そもそも信仰というのは、吟味検証を経てこそ成熟してくるのです。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身を試し、また吟味しなさい。」(Uコリント13・5)。実際には、聖書のことばも、人生における諸事への対処についても、どうしたら良いかわからないことが多いものです。そういう時に、よく吟味せず、政府や人の言葉に左右されて、安易に判断して「自分の身に滅びを招いています。」(Uペテロ3・16

 聖書のことばを如何にして、現実の生活に適用させ、自分はどのような行動を取るべきかを熟慮し聖霊に聞き、信仰者として為すべきことを確信したら、神頼みせずに、自らの責任と犠牲の中で実践していくことこそ、大事なことなのです。


4月17日 打算では得られないもの。   マルコ141~11 
新改訳 マルコ 14:1-11

14:1
さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。

14:2
彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していた。

14:3
イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。

14:4
すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。

14:5
この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。

14:6
すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。

14:7
貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。

14:8
この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。

14:9
まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

14:10
ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。

14:11
彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。

 本田健「ユダヤ人大富豪の教え 幸せな金持ちになる17の秘訣」という本に「金儲けのことばかり考えている連中より、仕事が大好きでしょうがない人間のほうが成功する。」と書いてあり、多くの点で同意するものでした。世の中は、金儲けの話ばかりで「お金があったら幸せになれる」というような考え方が横行しています。そんな中で、今回の大震災がありました。人の価値観が全く変わるような出来事だったと思われます。

 さて、今日は受難週の始まりでシュロの主日と呼ばれています。この日にロバの子に乗ってエルサレムに入城したので、人々はゼカリヤ9・9の預言の成就と信じ、イエス様が王として入城されたのだとして歓喜して迎えたのでした。今日お話しするのは、ベタニヤのことですから、その前日の土曜日、安息日が終わる時に、重い皮膚病(ツァラアト)に侵されたシモンの家に立ち寄ったのです。

このツァラアトという用語は以前はらい病と訳されていたのですが、そうではないので、ヘブル語をそのまま音読みしています。ツァラアトに侵された者は汚れている、とされたので、イエス様と一行のものがそこに平気で滞在したのは、持ち主がそこにいたのではなく、死んでいたか、或いは子供が住んでいたかと思われます。ヨハネの福音書によれば、ラザロとマルタ、マリヤの兄弟がいたとあり、給仕をしていたので、彼らの家である可能性が高いと思われます。

ツァラアトのシオンが彼らの父であるとすれば、彼らは差別と虐げを受けて来たのに相違ありません。それが彼らを、偏見に捉われない誠実な人間に形成させたとも言えるでしょう。むろん、そういう環境でも、卑屈になる人もいるでしょうが、ある人々は試練と屈辱の中で真摯な人格が形成されてきています。ともかく、彼らはイエス様の教えに全面的に従い、献身的な奉仕をしてきたのですが、そういう中で兄のラザロが死んでしまいました。マルタとマリヤは未婚だったので、確かにラザロを含めて、若い青年だっと思われます。父が汚れているとされる皮膚病で、兄が死んでしまい、彼女たちの絶望の大きさは、ヨハネ11章に大きく取り上げられています。

「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11・32)と嘆くほどに、一生懸命信仰をもって奉仕をしてきたのに、不幸があったのでは、どうしようもないという絶望感をマリヤは率直にイエス様に告げています。そのラザロが、神の大能により、よみがえったということは、マリヤにとって如何ばかりの喜びと、信仰による価値観の大転換をもたらしたことでしょう。彼女は、自分の結婚のために貯めておいた高価なナルドの油(約300万円)をイエス様の足に注いで、自分の髪でそれをイエス様の足に拭ったのです。

美しい未婚の乙女が、そんなことをするということは、周囲の人々には、とてつもなく驚きのことであったでしょう。マリヤにとっては、イエス様への心からの感謝と、自分の結婚を諦めて、神に献身する決意のしるしであったかもしれません。信仰の行為は、他人には愚かで異常なことと見えることはよくあります。

 良子師も医学部4年の時に医師の道を辞め、伝道者になろうとして神学校の試験に行ったことがあります。自らも医師の道を捨てた弓山喜代馬師の勧めで、医師になることを渋々認めたのですが、伝道者の道は諦めていなかったようです。そんな様子を見ていたのが私で、「あんな感情的で非論理的な女性が伝道者になったら、神の栄光にならないのではないか、周りが迷惑するだけだ。馬鹿なことをする。」などと、呆れていたのですが、祈る毎に気になって、そんな馬鹿なことをしないようにと祈らされてしまい、現在のような状態になっている次第です。要するに、打算は、信念や献身には勝てないのです。

 全うなこと、正当なこと、理屈にあったこと、そんな生き方をしても、神にも人にも影響を与えず、ただ自分だけが、危険を冒さず、馬鹿なことをせず、理性的に生きたと、自己満足をするだけなのです。例えば、「愛は盲目」などと言いますが、損得を考える人でも、恋したら全てを投げ捨てても、相手に受け入れられたくなるのです。最近は、そのような恋愛をする人は少ないようです。

 私なども結局は、妻に引っ張られて大学教授や公認会計士の道を捨てて、うだつの上がらない牧師の道を決心したのです。周りからは呆れられ、もったいない、と言われ、評判を落としました。自分もまた、馬鹿なことをする、と考えたのですが、自分を愛してくれる人を助け、満足のいく生き方をするためには、神に従う以外にないと、諦めました。私は、成功者になることを捨てたのです。

 ところが、最近は、どうも私を成功者であると見る人が多いようです。実は、私も打算の法則を身に付けたのです。それは、自分にとって損となることをするということです。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」(ルカ6・38)。さらに、「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は、多く要求されます。」(ルカ12・48)。「自分を捨て、自分の十字架を負って、イエス様に従う。」(マタイ16・24)。こういう原則を平気で自分のものとしなければ、決して神の祝福はありません。中途半端は、神にも人にも祝福されないのです。

 マリヤは、救われ、教えを受け、兄をよみがえらされ、そして、自らを神に献げたのでした。こういう人が全世界で、ほめたたえられ、記念となるのは当然なのです。


4月24日 想定外のよみがえり。 マタイ285~7節  礼拝説教 櫻井圀郎師

マタイの福音書 28:5-7
「天使は女らに答えて言った。汝ら、驚くな。というのも、私は十字架に架けられたイエスを汝らが探しているのを知っているから。彼はここにはいない。なぜなら、彼が言った通りに、彼はよみがえったから。来て、主が横たわっていた場所を見なさい。そして、急いで行って、弟子らに言いなさい。彼が死人からよみがえったことを。そして、彼は、確かに、汝らの前にガリラヤに行ったことを。そこで、汝らは、彼と会うであろう。私は、確かに、汝らに語っておく。」


5月1日 自らの人生。 ヨハネ2118~24

新改訳 ヨハ 21:18-24
21:18
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
21:19
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
21:20
ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。
21:21
ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
21:22
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23
そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」と言われたのである。
21:24
これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。

 先週は心が憂えて、どうしようもなかった。放射線の内部被曝のことを調べると、多くの人が放射能汚染によってダメージを受けることが明らかです。せっかく対策サプリを贈呈しようというのに、申し込みも少なく、政府の言うことを信じて、マスクもしないで外で遊んでいる子供たち。これまで一般人の年間許容量1mSvであったのを、原子力委員会は議事録も残さない非正規な会議で、小中学校の屋外活動を制限する基準値を20mSvにしてしまった。内閣官房参与の小佐古教授が、涙ながらに抗議の辞任をすると枝野長官も他の大臣も、それを相手にせずに正しい判断だと言う。更に、中部電力は、最も危険な浜岡原発の3号機の再運転を始めるとする。人の命を何だとおもっているのかと、情けなくなります。
地震も放射の汚染も、これだけで済むものではないでしょう。祖国が滅びようとしている、この憂えは神への訴え、祖国の罪の懺悔となり、ただ憐れみを請うだけのものとなります。政府も国民も、自らの繁栄を願い、神の前の罪を認めようとしません。牧師たちでさえ、人々に気に入られることを求め、他の人々よりも一生懸命救援活動だけを行っています。
エレミヤ書を読むと涙が出てきます。エレミヤは、縄とかせを作り首に付けさすられて預言したり、穴の中に入れられたりして、青年期から50年間くらい反体制の預言者として語り続けます。誰が、そんなことを好き好んでするでしょうか。同時代の預言者ウリヤも同じように預言しますが、迫害を恐れ、エジプトへ逃れると王からの追手が来て、剣で刺殺されます(エレミヤ26・21-23)。逃げるわけにもいかず、語らないわけにもいかず、ただ人々の嫌がる、神への悔い改めとバビロンへの移動を訴え続けるのです。
9人兄弟の末子で、人から好かれるように行動し、嫌われることが嫌だった私が、献身を促されました。献身表明してから、周囲の態度は一変し、呆れられる者、異常な者として行動することを促されました。伝道するということは、その人の価値観、存在を否定し、ただ神の前での悔い改めを宣言し、伝える、ということになります。人の能力や地位、性格を肯定して感心していたら、伝道にはならないのです。どんなに能力があり、社会的貢献をしていようと、神の前には悔い改めなければならないことを伝える。だから、人と親しくなろうとすることで、伝道し、牧会し、訓練することはできないのです。世から、聖別されなければならない。これが、とてつもなく苦しいことです。
自分の能力と才能、性格を考えたら、とても悔い改めを迫るほどの清さも、行いもしていないのだけれど、だからと言って妥協したら、人々に悔い改めを迫ることはできないのです。仲良くする、一生懸命にその人の世話をして愛情を注ぐ、そういうことで救いを伝えることはできないのです。自分を語るのではなく、神のことばを語るのだからです。日本人は、品性と人格の成長を願います。せして、人々の目を気にします。しかし、自分の状況など、どうでもよいのです。神の言葉だけが真実なのです。
 ペテロは、「神のことを思わないで、人のことを思って」(マタイ16・23)、十字架を否定しました。自分を捨て、とは、人々に理解されること納得されることで、神の業をしようとする、人間的な道理を捨てることです。
イエス様が捕縛された時、ペテロは恐ろしさのあまりイエス様を3度も否定してしまいました。人間の能力と人間性などは、どんなに素晴らしい人でも、そんなものなのです。他の人に能力や配慮を要求するクリスチャンは、自分の罪性に未だ気がついていないのです。
イエス様がペテロに言った「若かった時」とは、これまでの人生です。「歳を取ると」とは、これからの人生です。それは、「あなたの行きたくない所に、他の人があなたを好き勝手に連れまわします。」ということです。そして、「わたしに従いなさい。」とイエス様は言われました。好き勝手に他の人に連れまわされ、さすられて生きることが、死に繋がり、せして、神の栄光を現わすのです。なず、連れまわされるのか、それは、他の人に対して、嫌なこと、その人格を否定するような、神ご自身のみことばを語るから、連れまわされるのです。人に気に入られるならば、連れまわされることなく、自分で動きまれるからです。
ペテロは、自分がそんな嫌な人生を送らなければならないとイエス様に言われた時に、隣のヨセフはどんな人生を歩むのかと、聞きました。イエス様は、そういう比較の考え方を否定し、「それがあなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われました。
私の人生は、目いっぱいです。もうこれ以上できない、と言いたいし、他の人と折り合い、仲良く過ごしたいことも当然です。献身してから、自分の人生はまったく変わりました。今も、変わり続けています。多くの人が、論理と納得の人生を生きています。私は、自分の論理の中で仕事をしていないし、納得もできないような有様です。とても、自慢できることではないし、多くの問題と難関を抱えています。毎日、それは増える一方です。
その日になると、新しい課題が増えており、やらなければならないことも山ほどあります。人々は、自分勝手であり、自分の利益、自分の論理、自分の判断を優先します。そこに、神の介入を起こすためには、私たちが人から気に入られることよりも、為すべきことを優先するのです。

人の目やうわさなど、大したことではありません。私たちは、神にあって自らの人生を生きるべきことを課せられているのです。


5月8日 父と母を敬え。 エペソ6章1~9節 杉本茂謙伝道師
 
新改訳 エペソ 6:1-9
6:1
子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2
「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3
「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。
6:4
父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
6:5
奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
6:6
人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、
6:7
人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
6:8
良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。
6:9
主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから


 本日の聖書箇所は、みなさんも良くご存じの、十戒の引用であります。モーセの十戒の内、前半の4つの戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」「あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。」「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」です。これらは、人間と神様との関係を扱っています。
後半の六つの戒めは、「あなたの父と母を敬え。」「殺してはならない。」「姦淫してはならない。」「盗んではならない。」「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。」です。これらは、人間と人間の関係を扱っております。この、後半の6つの戒めの、一番初めに位置するのが、本日の聖書箇所であります「あなたの父と母を敬え」という戒めです。ちょうど、人間と神様との関係、そして人間同士の関係の橋渡しをしているような役割をしています。
聖書の中で神様は、子にとっては、親のような存在として描かれています。つまり、両親を敬うと言うことは、同時に神様に対しても敬うということを意味しているわけであります。父と母を敬うということを通して、神様を敬うということを教えられるのです。
「敬う」という言葉には、重んじること、優位におくこと、高く評価すること、崇敬することという意味があります。この戒めを、子という視点で考えて見るならば、子は両親を重んじ、自分よりも優位に置き、高く評価し、崇敬しなければならないということを命じられているということであります。これは勧めではなく、神の命令であります。子は親を評価し、立派だから言うことを聞くとか、尊敬に値するから従うとかいうことではありません。子は親に従わなければならない、そして同時に、親は子を教え、導かなければならない、というのが、聖書の教えであります。神様が、私たちにこの世での命を与え、私たちを導くために、父と母が与えられているのであります。神様が与えてくださった、父と母を敬いなさいと言われているのです。
私自身、親元を離れ、社会にもまれ、自分で判断をし、自分一人で生活するようになって、失敗をするということが増えていきました。失敗を経験して初めて、両親が本当に自分のことを心配し、労苦してくれていたんだなということが分かりました。それまでは、失敗しないように、両親に守られていたわけであります。
神様を尊敬し、敬うということも同じことだと思います。自分が如何に神様に守られているか。神様がどんなに自分のことを心配してくださっているか。そういう方がいるということに気が付くことができれば、神様が自分のために、どのような犠牲を払ってくださったかを知ることができれば、自然と神様を敬い、感謝することができるのです。
 どうしても、人のいやな部分が見えてしまうということがあります。一緒に暮らす家族であったらなおさらかもしれません。人と時間を共有するということは、良いことも、悪いことも多々見えてきます。自分を含めて、人にはみんな、いいところもあり、悪いところがあります。その人のいやなところに目がいってしまうと、自分のことは棚にあげて、非難をしてしまうのであります。
 どうしても両親が尊敬できないという方が、いらっしゃいましたら、両親の良いところをとにかく探してみてはいかがでしょうか。いやなところほど、目につくものであり、良いところは見えにくくなっているものです。でも、自分だって、嫌がられているところがあると思うのであります。相手の良いところを、意識的に見つけるようにして見ると、見えてくると思うのです。どんなに嫌だと言っていても、必ず良いところがあるはずです。お互いに、良いところを見つけて、褒め合ったほうがどれだけお互いのためになるでしょうか。
今日は、母の日ですから、普段なかなか感謝の気持ちを伝えられないお母さんに、是非、感謝の気持ちを伝えていただきたいと思います。いつもは恥ずかしくて言えない感謝の気持ち、わかっているんだけど褒めてあげてないところ、そういったところを、言葉にして伝えてみてはいかがでしょうか。そして、既婚男性の方々は、なかなか感謝の気持ちを伝えられない、奥様にも、その気持ちを伝えていただきたいと思います。男性としては、恥ずかしいのですが、女性に感謝を表すには、言葉にして表現する必要があるようであります。そして、教会のご婦人たちにも、日ごろの感謝を表したいと思います。本当に、いつも教会のお掃除や、お花の準備、お茶の用意など、そのほかにも、私たちの見えない所で多岐に渡り、ご奉仕をしてくださって感謝いたします。
父と母を敬うということ。それは、いろいろな形で、態度に現すことができるかと思います。そのもっとも顕著なものは、感謝を表すということではないでしょうか。「父と母を敬え」という命令に対する私たちの応答は、両親に感謝をするということであり、そして、両親を与えてくださった神様に感謝をするということであります。母の日とは本来、お母さんに感謝を表すことから始まりました。この母の日に、両親に対して、特にお母さんに対して、そして妻に対して、教会のご婦人たちに対して、感謝の気持ちを表したいと思います。そして、そのような出会いを与えてくださった神様に感謝をいたしましょう。
感謝にあふれた生活、そこには、祝福が満ち溢れています。そうしたら、あなたはしあわすになり、地上で長生きする。というのが、神様の約束であります。


5月15日 国が滅びる。世が滅びる! ゼカリヤ144~16

新改訳 ゼカリヤ14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。
14:5
山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。
14:6
その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。
14:7
これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。
14:8
その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。
14:9
主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。
14:10
全土はゲバからエルサレムの南リモンまで、アラバのように変わる。エルサレムは高められ、もとの所にあって、ベニヤミンの門から第一の門まで、隅の門まで、またハナヌエルのやぐらから王の酒ぶねのところまで、そのまま残る。
14:11
そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレムは安らかに住む。
14:12
主は、エルサレムを攻めに来るすべての国々の民にこの災害を加えられる。彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。
14:13
その日、主は、彼らの間に大恐慌を起こさせる。彼らは互いに手でつかみ合い、互いになぐりかかる。
14:14
ユダもエルサレムに戦いをしかけ、回りのすべての国々の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。
14:15
馬、騾馬、らくだ、ろば、彼らの宿営にいるすべての家畜のこうむる災害は、先の災害と同じである。
14:16
エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。

 東電は、政府がせっかく30億円も掛けて開発した原発内操作のロボットを要らないとして用いなかったそうです。原発が破壊することを前提にした用意は許されなかったのでしょう。危機管理が全くなっていないわけです。先月警告した浜岡原発は、政府が停止を要請し、中部電力の反発にも関わらず停止しました。3つのプレートが重なる危険な断層の近くに建っているのですから当然です。津波対策の問題ではありません。日本が破滅するところでした。
300キロも離れた足柄市の茶葉から基準値を超えた放射性セシウムが検出されたということですから、かなり広範囲に放射能汚染は進んでいると理解して良いでしょう。セシウムの半減期は30年ですから、もはや関東全域は危ないと言っても過言ではありません。ハウス物以外は気を付けて食べるべきでしょう。
聖書には、終末のことが非常に多く書かれています。イエス様は、ご自分の十字架のことよりも終末のことを詳しく説明されています。マタイ福音書の殆どは、神の国と裁きと終末のことに関連しています。「洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24・39)とあるように、「だから、目を覚ましていなさい。」と警告されるのですが、日本人は、聖書も知らず、神も信じないので、そんなことを考えることもないのです。
終末は、イエス様が再臨される時です。これを花婿を迎える結婚式になぞられてイエス様は警告します。マタイ25章の賢い5人の乙女は灯と共に予備の油を用意していましたが、愚かな5人の乙女は、灯をもっていただけです。灯とは、聖書の御ことばであり、神を信じる信仰をもっていたことを示しているのだと思われます。そして、花婿であるイエス様が来られるのを知っていたのです。ですから、この聖句は信仰者に対するものであることがわかります。油というのは何を意味するのかという疑問もあります。聖霊に満たされていたというように解釈する人もいるし、聖霊派は聖霊のバプテスマを受けて祈っていたと説明する場合もあります。ともかく、信仰の火が消えないように備えていたということは明らかです。
大事なことは、何気ない日々に信仰をもって終末に備えて歩んでいるということです。私は、災害に備えて非常食を備えています。非常用のトイレも水も用意し、太陽光と発電機で発電ができるようにも備えています。建物も地震その他の災害に強いようにし、保険も入っています。そして、皆さんに自分のことは自分で災害対策として備えてください、と伝えました。2ヶ月経ちましたが、備えたでしょうか。教会に来ればどうにかなる、牧師に頼れば平気だ、と考えていませんか。聖書は、自ら備えていない乙女は、婚礼に入れなかったとあります。災害に備えていないような人が、終末に備えているとは思えません。私は、終末が本当にあるし、迫っていると信じているからこそ、十分に準備をしているのです。25・45には、他の人の為にもきちんと食事を用意する忠実な僕には、大きな報いがあるとあります。私は、そのようにしたいのです。
 イスラエルという国は、放射能対策が十分なようです。イスラエル全住民用の各シェルターがあるそうですし、防毒マスクも全住民に配布されています。ビンラディンがイスラエルに味方する国にテロを起こす、と命令したように、イスラエルは周囲の過激なイスラム国家や人々から攻撃されています。だから、イスラエルは、全ての攻撃に対して備えているのです。ゼカリヤ14・12の「彼らの肉をまだ足が立っているうちに腐らする。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。」というのは、核兵器のことではないでしょうか。別に神がするのではなく、終末はそうなるということを預言しているのです。
イスラエルの領土は、1948年まではアラブ人のものでした。それをナチスのユダヤ人殺害を経て、彼らは命がけでイスラエルという国をアラブ人の国の真ん中に建国したのです。イスラエルという国がなければ、ゼカリヤ書の預言は無意味です。1900年間、この預言は、人々には意味がわからなかったのです。そして、終末にイスラエルは、周囲の国々に攻め寄すられると預言されます(ゼカリヤ14・2)。その時に、イエス様が再臨され、エルサレムの向かいにあるオリーブ山の頂に立ちあがります。私は本気でそれを信じています。
「自分の欲望に従って生活」する人々が、私たちクリスチャンをあざけり、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。」(Uペテロ3・4)と言うのは当然です。私たちは、不誠実な生活を送っている人々に迎合することはないのです。むしろ、「主の日は、盗人のようにやって来ます。」(Uペテロ3・10)、「あなたがたは、どれほど清い生き方をする敬虔な人々でなければならないことでしょう。」
皆さんが、どのような信仰生活を歩むかは、ご自分の判断に寄ります。ただ、聖書は、単にイエス様を神だと信じているだけで、再臨を信じ備えていない人は、本当に神を信じていて神の国に入る人ではないと断言しているのです。怖いことです。
初臨というのは、2000年前に、イエス様が乙女マリヤから生まれた時のことですが、その時にイエス様を救い主として信じなかったと同様に、現在もイエス様を裁き主として信じない人も多いのです。そういう面で、確かに、神を信じ御国に救われるのは、再臨に備えている人であるということになるのです。


5月22日 働きの成果を問われる。 マタイ2514~29
新改訳 マタイ
25:14
天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
25:16
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17
同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
25:19
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
25:20
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25:25
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
25:26
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
25:27
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
25:28
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
25:29
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。


放射の対策のことで、知人友人と接触をしました。商社の社長をしている後輩や東電の理事をしている同輩、政治家たち、それぞれ死に物狂いの仕事をしてきたのでしょう。自分の仕事と成果に自負を持っています。大学の恩師に消息を聞くと85歳になっている先生は、ただ教え子の活躍を喜び、一人ひとりの働きを助けようとしています。私の相談にも、よく答えてくださいました。
牧師職を聖職と言って、聖俗の区別をする人もいますが、私はそうは思いません。牧師でも聖なる働きでない人もいるし、評価されない職業でも非常に聖なる働き、人物はいるものです。イエス様は、当時賤しめられていた職業の人々をも招き寄せています。そして、使徒にしています。聖、という意味合いを立場や職業などにすること自体が、聖書的ではなく、危険なのです。そういう面では、クリスチャンだから、罪許されている、天国に行ける、などと無条件に捉えることも危ないと言わざるを得ません。
私は大学時代リーダーであり、この世の功績を求める者としては、先頭を走っていると思われていることでしょう。それが、牧師の道を目指し、この世の功績を捨てたということは、彼らにとってはショックであり、侮辱であったかもしれません。その私が、今更、この世の働きをして放射能対策の仕事をするようならば、「ふざけんな!」と
、罵倒もしたくなりましょう。確かに彼らは紳士であり、私の大学出身者で失礼な人間は殆どおりません。社会的な地位を持つような人々なのです。それでも、私のような存在自体が、彼らの職業的献身を根底から否定するような聖の象徴でもあります。全く理解できない存在です。
それが、そんなことを聞いてくるので、話がわからない、ということになります。私は、放射能対策の装置が日本に取り入れられれば、教会や保育園が無償提供されるということを話すと、やっと宗教者としての私の立場を理解し、納得してくれました。私が、この世で奮闘している彼らと同じレベルで仕事をしたら、私自身が卑怯になり、納得いかない嫌な人間となるのです。
同じように、クリスチャンであることを明示しているマリヤ・クリニックが、親切でなかったり、金儲けに走ったら、人々は怒り軽蔑するのです。クリスチャンである人が、自慢話をしたり、性格が悪かったり、酒に酔ったり、金銭的に汚なかったら、人々は軽蔑をするのです。宗教が隠れ蓑であって、偽善者の嫌な奴、ということになるのです。
聖書は何と言っているでしょうか。「良い木は良い実を結ぶ。・・・実によって彼らを見分けることができるのです。主よ、主よと言う者がみな、天の御国に入るのではなく、天の父の御心を行う者が入るのです。」(マタイ7・17,21)。教会に来ることは自由であり、奉仕も献金も自由にできます。ただ、良い実とはどんなものでしょうか。「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」。「人をそれぞれのわざに従って公平に裁かれる方を父と呼んでいるのなら、あなた方がしばらく地上に留まっている間の時を恐れかしこんで過ごしなさい。」
い。」(Tペテロ1・16,17
先週、ともしびを持っている乙女とは、信者のことであることを示しました。でも、半数は信仰の火が消えないように備えていないことがあり得るので、イエス様は警告されたのです。
財産を分け与えられたしもべもまた、クリスチャンのことです。神からは、5、2*1と能力に応じて多少の判断がなされ、賜物・力・財産が与えられました。それを活用しないで地に埋めて保管していたしもべがまず罰せられるのでしょうか。それは、忠実に働いたか否かです。
この私が、この世の道を捨て、牧師になったのに、またこの世の働きをのうのうとしていたら、私は友人からも親戚からも人々からも神からも軽蔑され、嫌われ、罰せられます。
しかし、私は確かにこの世の仕事をしています。この世の仕事もまた、神から課せられた使命であると信じ、神の御旨に忠実に働こうとしているのです。大事なことは、同じ仕事をしながらも、クリスチャンとして、神のしもべとして、聖なるものとして意識し、神に忠実に働くことが大事なのです。
なぜ、祈り心で仕事をしないのか不思議です。祈り心を持たながら、家事をし、育児をし、友と語ることもできます。祈り心を持つからこそ、仕事のミスにも落胆せず、他人のミスや罪にも御霊によって対応できるのです。
自分の口から出る言葉や身体が行う仕事が、罪に惑わされた感情や欲望に支配されたものであったら、だれがあなたを神のしもべと認めるでしょうか。


5月29日 人生の意味合いは何か。 マタイ2531~40

新改訳 マタイ
25:31
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
25:32
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
25:33
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
25:34
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
25:35
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:37
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
25:38
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
25:39
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
25:40
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』


 低血糖症体験集を発行しますが、その巻頭言に妻との出会いを書きました。変な人だと思い、近づかないようにしていたのですが、どんどん自滅する方向に進みながら、早朝の祈り会に来て祈り続ける彼女を見て、放っておくことに罪責感を感じてとうとう結婚することになりました。それで研究者の道も放棄することになってしまいました。
結婚してからも、不器用な妻に依存しなければ食べていけないので、自尊心をかなぐり捨てて主夫となり、事務長となり、妻を引き立ててきました。妻が元気になることと反比例して体調を崩し、教会は伸びず、内外の問題が起こり続け、経済的にも破綻し、途方に暮れたものです。頭を下げ続け、避難や批判にも弁解のしようもないことが続き、絶望が自分の心を絞めつけます。
神を信じ、福音を伝え、家族を支え、一生懸命生きて来たのに、先行きは見えず、人に馬鹿にされ、面目も意地もどこかに行ってしまったようでした。もはや逃げようもなく、ただ神に自分の心を注ぎ、涙と絶望を洗い流していただくために祈るばかりでした。そんなことが何年続いたことでしょう。祈ると自分の罪深さ、弱さ、ずるさが示され、ただ神の前に悔い改めるばかりでした。
他の人に比べれば、悪いことなど何もやっていないし、自己犠牲で献身してきたつもりです。誰よりも努力し、誰よりも働き、学び、仕え、とりなして来たのに、なんで報われないのだろう、と神に叫びました。
「慰めよ、慰めよ。私の民を。その労苦は終わり、その咎は償われた。その全ての罪に引き替え、2倍のものを主の手から受けたと」イザヤ40・1-2.
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわすでした。私はそれであなたのおき手を学びました。」詩編119・71.
「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄養になる。」Tペテロ1・7.
思い返すば、2002年12月の悔い改めから祝福の雨が降り始めました。その頃は、苦労を嘆くこともなくなり、たんたんと為すべきことをするようになりました。恥ずかしながらやっと謙遜ということが分かって来ました。人に対して驕ることも怒ることもなく、相手の願いや要求ではなく、主の御心と良きことを判断して行動するこつが、少しわかってきたような気がします。
人間と言うのは、なんと愚かで罪深いものでしょう。神を信じ、ひたむきに聖書を学び語り祈り伝道して20年で、やっと少しわかるくらいなのです。
さて、それで聖書を解説することができます。人生において大事なことは、神の業を代わってすることです。自分の判断でやることは、殆ど自分の利益や欲得に結びついているので、そんなことをいくら行っても、神の祝福と油注ぎは得られないのです。
更に説明しますと、自分で良いと思ったこと、やりたいと思ったことは、置いておきます。そして自分の能力や判断も置いておきます。自分の計画や予定も置いておきます。言いたいことも言わずに置きます。
そして、全てのことについて最低2週間くらいは、御心を求めて祈り、神からの答えとなすべきことを探るのです。私は、それを神からの導きを求める良い方法であると理解するようになりました。
多くの人が、思ったこと、気が付いたことを、時も場所も相手も配慮せずに語ってしまい、やってしまいます。それで神の僕と言えるのでしょうか。従業員が、会社の仕事を自分の考え、趣味、立場、利益でやっていたら、会社はつぶれてしまいますし、社長はその人を解雇するでしょう。神の僕とか、クリスチャンと自認しながら、自慢話やこの世のことを話している僕が、良くやった良い僕だと言われるでしょうか。
ある人が、空腹であり、渇いており、旅人であり、裸であり、病気であり、囚人であるということは、あなたとは関係ありません。自分が、その人に関心を持たなければ、その人の状況はあなたとは関係がないのです。
そのような人の隣人となるのは、そのような人に関心を持つ人なのです。東北に親戚も知人もいない人が、東北の救援に無関心ならば、あなたの隣人は誰もいないことになります。友人や親しい人ができない人というのは、自分の利益と結び付かないところで、人に尽くしたり助けたり思いやりを持つことができない人です。そんな人に友達ができるはずがありませんし、神もまた、あなたを知らないと言うでしょう。
今の私には、多くの人が面会を求め、交流を求め、助けを求め、仕事を求めてきます。私もまた、彼らをどのように対処するべきか、主に求め、友に求め、機会を求めています。
自分のことばかり考える人に誰が助けと交流を求めるでしょうか。あなたは自分の富と力と時間と能力などを、この世の友の為に費やさないのであれば、誰があなたの相手となるでしょうか。ルカ16章に、「不正の富で、自分のために友を作りなさい。」(9)とあります。金銭など、不正の富に過ぎないのです。金に使われてはいけません。ケチな人の傍には誰も寄って来ません。人と親しくしたければ、惜しみなく人に尽くすべきです。与え、施す人の周りには、多くの人が群がって来ます。そして、神の祝福も群がってくるのです。


6月5日 主に期待しつづける。   ローマ書818~30節 杉本茂謙伝道師
新改訳 ローマ8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

8:19
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

8:20
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

8:21
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

8:22
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

8:23
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

8:24
私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

8:25
もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

8:26
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

8:27
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

8:28
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

8:29
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

8:30
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。


何が自分にとって益となるのかわからない、ということがあります。自分にとって良いものを追い求めているつもりでも、実のところ自分にとって害でしかないものを、追い求めているということはいくらでもあります。逆もしかりで、思いもよらないことが益となるということもあります。何が私たちにとっての本当の益となるのでしょうか。そのことを知っているのは創造主なる神様だけです。言い換えれば、私たちの主は、全てご存じであるということです。

私たちは、イエス様を愛しているという自覚があると思います。しかし、生まれた時からそうであったかというとそうではありません。十字架のキリストに出会い、悔い改めてはじめて、私たちは神を愛する人へと変えられたわけであります。しかし、その起因は私たちではなく、神様がまず私たちを愛してくださったところにあります(1ヨハネ4910)。それに対して、そうだその通りだった、イエス様ありがとうと、応答し受け入れたから、私たちは主を愛することができるわけです。

ローマ人への手紙を通して、一貫して言われていることは、「律法によるのではなく、信仰によって、全ての人が義と認められる」ということです。それは、ユダヤ人にも、異邦人にも、イエスキリストを信じるすべての人に与えられる神の義であります。そこには何の差別も条件もありません。律法を握り締めて歩んできたユダヤ人にとっては、驚くべきことであり、受け入れがたいものでした。

ユダヤ人は、律法を堅く守り歩むことで救いを信じていました。しかし、パウロはそうは言っていません。無論パウロは、決して律法を軽んじていたわけではありません(ピリピ3:5-6)。むしろ、この上なく律法を守っていた人でありました。しかし、イエス様にとらえられ、回心したパウロは、救いは律法の行いによるのではないと気づかされるわけであります。むしろ律法によって、私たちの罪が明らかにされると言っているわけです。(ローマ3:20

私たちの主が召し集めてくださり、イエス様を信じた私たちには、素晴らしい約束が与えられています(8:28)。私たちはそのことを知っているにもかかわらず、忘れてしまったり、疑ってしまったり、そのような存在です。旧約聖書において、イスラエルの民は、試練にぶつかる度に、神を疑い、神を否定する態度を取りました。その度に神は、繰り返し御自分を疑うイスラエルを困難から救い、神を信じるということを教えてくださいました。しかし、紅海が二つに割れ、エジプトの軍勢から救い出された後も、数日も過ぎるとまた忘れてしまう有様でした。石を打つと水が湧き出るのを見て、「神に信頼すべきだ」ということを教えられたはずなのに、試練が来るとまた忘れてしまい、「これがない、あれがない」と言って神に不平を言うのです。とにかくイスラエルの民は神を疑いました。それがイスラエルの罪でありました。

私たちはとても弱いものです。困難に直面すると、すぐに神様の約束を忘れそうになるものです。そのような弱い私たちを助けてくださるのが、御霊であります(8:26-27)。御霊により頼むことによって、神のくださる恵みを受け取り、さらに与えようとしておられるもの、栄光を受け取ることができるのです。これが神様の約束であり、これを待ち望んで歩みたいのであります。

創世記にヨセフの物語があります。ヨセフは、兄たちに憎まれ、十代の若さにして奴隷として売られてしまいます。そしてエジプトの地で、奴隷として働き、牢獄に入れられ、その試練は13年にも及びます。しかしヨセフは、どのような試練の中にあっても、決して不平を言わず前向きに働いたのです。ヨセフはすべてが、神の御計画の中にあり、神がすべてを益としてくださることを知っていました。ヨセフはなぜ、自分の置かれている理不尽な状況を憎まなかったのでしょうか。それは、兄たちに対するヨセフの言葉から読み取ることができます。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。(創世記50:20)」人間の理解を超えた神のご計画があることを、ヨセフは知っていたのであります。このような信仰を持ちたいものです。

私自身、信仰を持つということにしても、自分の力では、どうしようもないということを体験いたしました。しかし、主は求める者に与えてくださる方であり、必要なものを備えてくださいました。私達が神に期待するならば、神がそれに答え、そして、神のご計画が、神の栄光が、私達を通してあらわされるのです。

どのような方法かは、私たちには想像もつきませんが、私たちには、主がキリストに似た者へと変えてくださるという約束があります。神がすべてのことを働かせて益としてくださるということは、すでに与えられたもの、過去に関して言っているわけではありません。私たちに益となるものを、現在、そしてこれから、与えようとしておられるという約束です。主が、どんな良きものを与えようとしてくださるのかに目を向けたいものです。神様が私たちに、与えようとしておられるものに期待し、それが益となるものであると信じて受け取りたいものです。私たちは、主に期待してもよいのです。


6月12日 聖霊と力を注がれる。   使徒1035~46節  

新改訳 使徒10:35 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。

10:36
神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。

10:37
あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。

10:38
それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。

10:39
私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。

10:40
しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。

10:41
しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。

10:42
イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。

10:43
イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」

10:44
ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。

10:45
割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。

10:46
彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。


 創世記の冒頭に聖霊なる神が、何もない世界に働き掛けられたことを示しています。箴言8章には、子なる神が世界を組立てる働きをされたとあります。創世記8章を読むと、大洪水の後、父なる神は世界の統御を基本的に自然法則の下に置かれたことがわかります(21-22)。その後は、神は信じる者に対してのみ、積極的な干渉をしながら、ご自分の存在を明らかにしたことが分かります。特に、それは選びの民イスラエル民族を通じて、歴史の中に自己啓示をされてきたことがわかります。

 イエス様は、神の自己啓示の特別なものであり、その言葉と歩みによって神がいかなる方であるかを知らせています。そして、イエス様の昇天後は、聖霊なる神がキリストの御霊として、人々に神の働きと教え、思いを積極的に示しています。聖霊なる神は、世界に遍在し、あまねく動き働いておられ、もし、神を求める人がいるなら、直ちに反応して、そのチャンスを与えるのです。

 信じている者に対しては、求めれば直ちに何でも与えるような甘やかしはせず、それぞれの人に対して、尤も適切な応対をします。試練や忍耐、或いは努力や戦いの後に与えられる祝福は、私たち一人ひとりに対する特別あつらいのメニューなのです。ところが、多くの信仰者が自分勝手な判断と歩みをするので、聖霊なる神に応じることがないのです。実際、聖霊なる神は、ローマ国教となった後のキリスト教の働きの中では、殆ど知られない存在になってしまいました。20世紀になって私たちペンテコステ派が聖霊運動を開始するまでは、神学的にも聖霊論はおざなりになっていたのです。

 イエス様は、マタイ16章18節で教会の成立を預言し、ヨハネ14章16節で聖霊なる神がもう一人の助け主としていつまでも信者と共におられることを約束しています。そして、使徒2章の聖霊降臨によって教会が成立し、聖霊は誰でも求める人に内在してくださることになったのです。

使徒の働きなどの初代教会の信者の特徴は、この聖霊なる神の働き掛けに対する応答の歩みであり、「聖霊に満たされ」、「聖霊が語った」、「聖霊に遣わされ」、などと記されたのです。

 イエス様は、ご自分に逆らうことを言っても赦されるが、「人は、どんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は許されません。聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次にくる世であろうと、赦されません。」(マタイ12・31.32)と言われました。聖霊に逆らうということは、どういうことでしょうか。内住の聖霊に逆らうということは、自分の内なる声に逆らうということです。

 平気で嘘を言ったり、ごまかしたり、悪を行ったりすることは、クリスチャンとしてはありえないはずです。ところが、それを行い、更に悔い改めないで、言いつくろっていると、聖霊は、そういう誤魔化しの人間には内在することができなくなるのです。そして、聖霊が去って行くと、神を信じることも、信仰を持つこともできなくなるのです。私は、多くの人が信仰から離れ、堕落していくのを見てきました。罪を犯しても、悔い改めればよいのですが、それを正当化していくうちに、悔い改めることができなくなります。形式的な悔い改めはしても、内在の聖霊が去ってしまったら、もはや「罪について、義について、裁きについて」悟らせる聖霊がいないのですから、信仰者として歩めなくなるのです(ヨハネ16・8)。

 今日の聖句は、聖書の神について正しく聞いたことのない異邦人の前にペテロが招かれて説教した時のものです。「神は偏ったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」これは、逆に自称クリスチャンであっても、そのように行っていないのなら、神は受け入れない、ということにもなるかと思います。恐ろしいことです。クリスチャンというのは、資格でも民族でもなく、キリストに染まった者、キリストかぶれ、というような、普通とは違った人々なのです。

 正直言いまして、私はそれほど信仰深くも、正しくも、善人でもありません。ただ、内住の御霊が、私を赦さないように導いていることには従っているのです。先日、妻と息子と一緒にゴルフをしました。既に20年以上やっているのに、妻のマナーは誰よりも悪く、人への配慮はありません。ドライバーを打とうとしているのに、音を立てて何かを食べているのはいつものことです。腹も立ち、いらいらもするのですが、聖霊なる神が、私に対して、妻を受け入れ、優しくしなさい、と語り掛けるのです。私は、腹を立てながら、優しくするのです。そこに神の祝福があるのです。

 妻との結婚も、牧師になったことも、千葉に来たことも、クリニックの開業も、子育ても、会社の設立も、一人ひとりへの対応も、みな、聖霊なる神が私を導くのです。昔は、「聖霊様、私はそれほどの力も能力もなく、状況も悪いから無理です。」と逃げていましたが、聖霊に従わなければ、祝福もなく、力もありません。自分の主張も立場も理性も状況も、聖霊に従わない理由にはならないのです。父なる神は、聖霊に従う人に力を注がれるのです。

 聖霊のバプテスマというのは単に異言を言うことではありません。ヤコブによれば、「舌を制御することは誰にもできません。」(ヤコブ3・8)。その舌を神の支配下に置くことが、異言を言うことなのです。それは自分の主権を神に献げることなくして達成できないのです。一度聖霊のバプテスマを受けて異言を言ったからと言って、日常で言いたいことを言っている人では、聖霊の支配下に生きることにはなりません。長く祈る、大きな声で祈る、そういうことで聖霊に満たされるのではありません。神に判断を委ね、聖霊に耳を貸し、その声に従うことが大事なのです。


6月19日 父は子を懲らしめる。   ヘブル書122~11
新改訳 ヘブル12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

12:3
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

12:4
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。

12:5
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

12:6
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

12:7
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

12:8
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

12:9
さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

12:10
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

12:11
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。


 先週は、聖霊のことを話しました。聖霊なる神は、私たちをキリストのような者へと変えていく働きをするので、聖霊に従おうとする人にだけ力と祝福を与え、神の栄光を現わすのです。クリスチャンにとって、祝福とは、内住の聖霊に従って生きることであって、正しいと思うことをすることや、信仰的なことをするという形式的なことではないのです。自分勝手なことをしながら、家族や会社・組織から祝福される人はいないのと同様です。

 さて、父なる神は、世界の統御を基本的に自然法則に委ね、神を求める人や選びの中にある人にのみ聖霊を通して働き掛けることを説明しました。ここで、私たち一人ひとりの存在の源は、この父なる神であることを確認しなければなりません。「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で清く傷のない者にしようとされました。」(エペソ1・4)とあります。

 親がなければ子は生まれない、と人々は言い、親に対する絶対的な服従と孝行を説きます。しかし、「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」(マタイ3・9)と言い、私たち一人ひとりの誕生は、親からではなく、神からのものであると聖書は示すのです。ここで、親や家族・親戚からの拘束よりもむしろ、創造主なる神への従順が大事であることを、クリスチャンは確認しなければならないのです。

 私たち夫婦は、それぞれ親の指導や思いよりも、むしろ父なる神に従うことを選んで、ここまで過ごしてきました。親の思惑とは違う生き方をしましたが、却って親を幸せにすることができたし、私たちの思いや想像を超えた祝福の人生を歩むことができたと思います。つまり、肉体としての私たちの親は、霊的な存在である私たちを宿すための仮のものだったのです。人間の実体は霊にあり、だからこそ、肉体的に死んでも、霊において私たちは生きるのです。

 ところが、多くのクリスチャンがこの内なる人に目を留めていません。パウロでさえ、「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私の身体の中には異なった律法があって」(ローマ7・22.23)と語り、「肉に従う者は、肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」(ローマ8・5)と奥義を語ります。そして、「もし神の御霊があなたがたの内に住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。・・・もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8・9.13)

 地上の人生は、肉と霊との戦いなのです。肉なる自分の思いや、肉親の要求や希望を満たそうとしても、結局は、虚しいものになるのです。神を信じて生きるということは、実際には、神を信じない肉なる者の思いや要求と決別して生きるということを必要とします。ところが、この世への配慮や思いに囚われて、神を信じることも、信仰的な生き方をも選ぼうとしないで、日常性の中に埋没してしまい、いつまでも罪に勝利できない人生を送ってしまうのです。

現代日本の中で、国を愛し、社会を愛し、信念をもって生きようとする人は殆どいません。毎日を何気なく過ごし、身近な人や自分の思いのままに生きているのです。クリスチャンでさえ、そのような社会に埋没して生き、世の光、地の塩として生きるなど、途方もなく難しいものとなっています。それは、肉に従っていて、御霊の導きなど、受け入れる余地がないからです。

 ヘブル書のテキストは、そのような肉の思いに囚われ、ご自分を殺そうとした人々の反抗を忍ばれたイエス様のことを思い見なさいと語ります。人々が自分の欲求を振りかざしている中で、それと決別して神に従い、信仰をもって生きることを始めなければ、信仰の苦しみなどあるはずがありません。

 楽な順調なものではないので結婚でさえ反対され、神学校へ行くこと、子どもを産むこと、千葉にくること、クリニックを開業すること、みんな反対されてきました。しかし、私は祈り、内住の聖霊に従ったのです。それらは全て、父なる神の御旨の中にあったことでした。その戦いを避け、逃げていたら、現在の祝福はなく、愚痴を言いながら、苦労のままに生きていたことでしょう。戦わなくて勝利がありません。

 父親というのは、子どもが社会に出ても困らないように、強くし、忍耐を持ち、規律を守り、上司に従うことを身に付けさせようとします。言い訳や誤魔化しをする人が多くなっていますが、立派な父親に育てられた人ならば、決してそんなことは許されなかったでしょう。父親というのは、子どもに慕われることを求めるのではなく、子どもが自立することを求めるべき存在なのです。ですから、子どもから嫌われることを恐れて、懲らしめることを躊躇する父親ならば、子どもをだめにしてしまいます。私など、5人の子供全てから嫌われ、怖がられたと思います。

 父親に厳しく躾けられないのならば、本当の親ではないのでしょう(ヘブル12・8)。最近は、だらしない、甘やかす父親ばかりです。子供の言い訳など聞いていたら、子どもはだめになってしまいます。子供に嫌われてもよい、厳しく育てなければと覚悟する父親が少ないのです。そして、もっと馬鹿らしいのは、優しいことが聖書的であり、正しいと考えている人が多いことです。最近は、優しいことが大はやりです。或いは、理解する、受け入れる、などということが聖書的だと信じられています。それは、サタンの惑わしです。神は、私たちを清めようとしているのであって、楽をさせようとしているのではないのです。

 親に怒られたことのない人が社会に出ると、挫折したり、臆病になったり、卑屈になったり、誤魔化したり、規律に従わなかったり、ろくなことがありません。人は、訓練されなければ、決して平安の義の実を結ぶことはないのです。


6月26日 人に定められた時代と地域。   使徒の働き1723~31 
新改訳 使徒17:23 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。

17:24
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。

17:25
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

17:26
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

17:27
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

17:28
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。

17:29
そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。

17:30
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。

17:31
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」



 先週は、父なる神が私たちの魂を生まれさせてくださったことと、私たちの存在の原因であることを学びました。今週は、なぜ、私たちの存在が現在であり、この日本であるかということを知ろうと思います。私自身も信仰者であり、真理を求めている人間であり、その葛藤と模索が毎週の説教になり、また自らへの神の語りかけと受け留めているのです。

 妻と誕生日が同じでなかったら結婚することもなく、2回の電車での出会いがなかったら私がクリスチャンになることもなく、幾つもの出来事出会いを通して、牧師になるまでに至っています。機能性低血糖症になり苦しんでいたことがあったから、このような医療をやっているとも言えます。ダビデがサウル王に追われて逃げている時に、マオンの山の両側を知らずに両軍が進み、寸でのところで落ち合おうとする時に、ペリシテ人が侵入してきたという知らせが来て、サウル王が引き返すということがありました(Tサムエル23・26)。神は、その激突を避けるためにペリシテ軍を動かす備えをされたのでした。

 父なる神は、大洪水後は世界の統御を自然法則に任せていると説明しましたが、「神の御計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8・28)こともまた事実なのです。多くの信者が、自分たちの望むように物事がなるように祈っていますが、父なる神は、既に信仰者たちに対して配慮のある手配をしておられるのです。ところが、神の配慮に応ずるかどうかは、私たちの信仰と判断に委ねられるのです。

 いろいろな問題を通して、私たちの信仰が強くなり、或いは偽物であることがばれることになります。「教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。・・・あなたがたの中で本当の信者が明らかにされるためには、分裂が起こるのもやむを得ないからです。」(Tコリント11・18.19)。

 本当の信者であれば、「栄光から栄光への主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Uコリント3・18)とあるように、試練も、艱難も、失敗も、全て自らの清めと信仰の強めになるのです。真に救われていない偽信者がいくら信仰者の真似ごとの人生を生きようとしても、それでは清めに繋がらないのです。失礼な話のように思われるかもしれませんが、猿やチンパンジーが人間のようなしぐさと行動を取り、まるで人間と同じように思っているかもしれないけれども、やはり猿でしかない、というような印象をもつことがあります。

 クリスチャンでない祈祷師が試しに悪霊に憑かれている者に対してイエスの名によって祈ると、「悪霊が応えて、『自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれど、お前たちは何者だ』と言った。」(使徒19・15)とあるように、偽の信者では神も働いてくださらず、悪霊も逃げないのです。ところが、形式的なことで信仰者を装う人には、それが本当の信仰であるかどうかも、わからず問題が起こり、清めも達成できないのです。裁きの時に、神は一人ひとりに対して、その働きの実と聖霊による清めの実を確認します。神の目にも、成熟した信仰者の目にも、本当の信仰者でない者はわかるのですが、本人は誤魔化してそれを装って生きているという悲劇が起こります。神の前の裁きを気が付いていないからこそ、救われていないのです。

 今日の聖句にあるように、神は私たち一人ひとりを指名して、それぞれにその時代とその地域、その環境を振り分けられました。「これは神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見出す」のです。「確かに神は、私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。」

 日本という信仰者の少ない所に私たちを生まれさせ、未信者の中に漂わせて、信仰を訓練させておられるのも、神の選びなのです。私たちの家族・友人・知人が神を信じるかどうかは、わかりません。ただ、魂の救いを体験した私たちにとって、このような逆境にあって私たちの信仰が試され、強くし、清めをなすのは事実なのです。

 私自身は、今回の東北の被災と東北人の反応の遅さに対して、どう動けばよいのか途方にくれながら、祈り、模索し、この説教のような示しをいただきました。クリスチャンといえど、動き回り働き回って救援活動を行い、その善行を競争して、まったく他の人々と変わらない人々と同じような場合もあります。魂の救いが、クリスチャンの人生の基本であり、使命であることを全く考えに容れない興奮状態に驚き呆れることもあります。

 政治家・役人・経営者も被災者の窮乏を助けるというよりもむしろ、自分の利益誘導に動く人々もおり、また宗教者たちも、教勢拡張に駆け回るようなことも見られます。私にとっては、今のこの時代にあって、如何に生きるか、如何に神に申し開きのできる人生を生きるかが課題であります。

 いろいろと考え、牧師と社長としての現役の引退を73歳と決意しました。あと15年間、自らの立場をもって神に仕え、引退後は、自分の立場を放棄して人々を助ける人生を過ごしていくことを願うものです。あと15年、主にあって猛進しなければと自省しました。