10月 3日 主は救いだしてくださる。   使徒の働き126~17

新改訳 使 12:6-17

12:6
ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。

12:7
すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。

12:8
そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。

12:9
そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。

12:10
彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。

12:11
そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」  12:12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。

12:13
彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。  12:14 ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。

12:15
彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。

12:16
しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門を開けると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。

12:17
しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください。」と言って、ほかの所へ出て行った。


 ヘロデ王は、自分の人気がなく政権も不安定なので、人気取りの手段としてユダヤ人の指導者層にとって問題となっているクリスチャンの迫害を思い立ちました。権力者というのは、自分の立場の安定のために、戦争を起こし、敵を作り出し、或いは目線をそらすために、事件を起こすのです。

 日本は危機管理や国策、そして戦略機構がないために、簡単に諸外国に弄ばれてしまいます。政治や企業の裏には、世界的にはそのような策を練って、自分たちに都合の良いようにわざわざ事件や問題を起こすことが起こっているのです。北朝鮮の核や潜水艦撃沈などは、その浅はかな策ですが、これは簡単にばれています。尖閣列島も中国の策でしょうが、同じような事件は、国家の戦略として東南アジア相手にはいつも起こしているようです。

 アメリカもイラク相手に、そのような策を練り、ブッシュ政権の長命と武器産業を中心にした国家予算増大・分捕り策を実行したことは知られています。ナチスドイツの侵略主義もそのような国家の増強策を民衆を惑わして鼓舞したものです。経済の危機の後には、そのような国家規模の犯罪・裏工作が起こることを日本人ほど知らない民族はないでしょう。場当たり的な対応策は、他国に取って格好のカモなのです。

 しかし、実はそのような辛辣な国家拡大策を練る指導者たちも、自分たちの背後に、もっと悪辣な人類崩壊策を練るサタンの存在を理解し、意識していることはありません。いつの時代でも、サタンは人々の罪と欲望を利用して、できるだけ多くの人々を滅ぼそうと策を弄しているのです。

 個人レベルでは、欲望を利用しています。性欲、食欲、その他の欲望を刺激して、その欲望を満たそうとする人々を滅びの中に迷い込ませるのです。セックス産業に一度入り込んだら、抜け出すことは大変ですが、今では小遣い稼ぎとして、若い男女を誘い込んでいます。ホテルの殺人事件などは、その一角です。タバコやアルコール、そして、甘い物やジャンクフードも大きな誘惑です。一度はまったら抜け出せなくなるものは、サタンの誘惑の手段です。ゲームや賭博も、同様でパチンコなどのCMを堂々と流しているのは、恐ろしいことです。

 社会レベルでは、サタンは競争を利用します。受験競争に始まり、比較や競争は、落ち着いた平安と喜びに満ちた生活を不可能にします。学校や教育というものは、本来、人を教え育てて能力を引き出し、人格を形成させるものでした。ところが、競争社会は簡単にそれらを損ないます。神学校でさえ、最近はその餌食になっているような気がします。会社も、人と人との結びつきや能力の発揮ではなく、給料の対価としてその人の人間性を奪っています。

 国家レベルでは、前述のとおりですが、地球レベルでは、環境破壊が進んでいて、もはや人間は健康に生きることが殆ど不可能になってきました。クリニックニュースでも指摘したように、有害ミネラルは既に殆どの人の身体に浸透しています。人間の遺伝子は、既に産まれた時から損なわれ、多くの障害児や病弱な子供を生みだしています。ウィルスは、人間が本来備えていた免疫力では対抗できないものとなり、また免疫力そのものも非常に弱くなっています。ガンはサタンの最も優れた武器とも言えます。

 ペテロが牢獄に鎖で繋がれ、二人の兵士に囲まれ、戸口の外では番兵が見張っているという状況にいたことは、まるで、どうしようもない状況に陥って逃げることもできず、死と敗北を待つしかない絶体絶命の人のようです。ペテロもまた、ヘロデ王の人気取りの手段として死刑になる段取りだったのです。

 しかし、ペテロの場合は、違っていました。

@ 大勢の信者がペテロのために祈っていました。12・12

それは真夜中なのに、人々は祈り続けていたのです。        

A 天使が神から使わされました。12・7

天使は、「仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされた」(へブル1・14)のです。

B ペテロには、果たすべき多くの使命が残っていた神の僕でした。

 殺されたのは、12使徒の一人でヨハネの兄でした。弟のヨハネは愛情深く、福音書を書くまでに整えられ、最も長生きをしたのですが、この兄は短気で血気盛んなところが治っていなかったかもしれません。17節に書かれているのは、イエス様の弟のヤコブで、エルサレムの教会の指導者となっており、ヤコブの手紙を書いた敬虔な大人物です。

 ペテロを殺そうとしたヘロデは、蛆に食い荒らされて死んだと共同訳にはあります。人が死ぬのも生きるのも、神の許し無しには起こりえません。私達は、天使に守られるような人生を送ろうではありませんか。危機の時に、真摯に祈り合うような教会であろうではありませんか。


10月10日 断固とした歩み。   使徒の働き132~12 

新改訳 使徒13:2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。

13:3
そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。

13:4
ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。

13:5
サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神のことばを宣べ始めた。彼らはヨハネを助手として連れていた。

13:6
島全体を巡回して、パポスまで行ったところ、にせ預言者で、名をバルイエスというユダヤ人の魔術師に出会った。

13:7
この男は地方総督セルギオ・パウロのもとにいた。この総督は賢明な人であって、バルナバとサウロを招いて、神のことばを聞きたいと思っていた。

13:8
ところが、魔術師エルマ(エルマという名を訳すと魔術師)は、ふたりに反対して、総督を信仰の道から遠ざけようとした。

13:9
しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、

13:10
言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。

13:11
見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる。」と言った。するとたちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。

13:12
この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰にはいった。


人間は霊と心と身体からなっています。精神と身体だけの2つに分ける人もいるし、唯物論者は身体しか認めません。共産主義は、当然唯物論を根拠にしており、宗教を認めません。現代では中国、北朝鮮、キューバくらいですが、実際には、強い信念を持っており、神学的には共産主義という宗教であるとされます。日本人は、そういう信念をもっていないので、無宗教という宗教の立場です。そして、この無宗教的なキリスト教が日本では幅を利かせています。

 アメリカという最も近代的かつ科学的な国を分析する日本人が、アメリカ人の殆どが今なお神を信じており、創造論を信じているということに驚きをもって批判しています。実際には、世界で最も宗教性のない日本人は、世界でも最も信念を持たない国民として利用されやすいのです。

 強い宗教性とは、強い信念であり、強い信念のない人は、信仰も弱いということです。アンテオケの教会では、そういう面で普通に断食して自分の霊性を強めること、神への信頼を強くすることを常としていました。

 強い肉体はしっかりとした鍛錬しかから生み出せません。軍隊教育というのは、身体を言い訳のできない極限におけるように訓練するので、軍隊教育を受けた人の身体は明らかに違います。アメリカや韓国のような徴兵制の国の青年の身体や精神は強くするように訓練されたものであることがわかります。

 イチローは誰よりも野球のために自己訓練と管理をしているので、尊敬を集めています。昨日は、妻が朝8時20分から7時過ぎまで食事も取らないで診察をしていたので、感動して涙を流す看護婦がいました。自己のためでなく、人のために簡単に献身できることが信仰者としては、当然な信仰訓練の場となると私は考えています。そういう面で朝早くから祈るとか、聖書を何時間読んだとかは、自分の為であり、人に話したり、比較や自慢するものではありません。私は、単なる宗教行為のための安逸な比較競争は嫌いです。どうせ祈るなら、毎日きちんと祈るものであり、たまには何時間も、或いは夜を徹したり、断食をして祈るような真摯な宗教性のない祈りは、神にも届かず、単なる自己満足で終わります。

 ノーベル賞を取った根岸教授が、「日本は若者にとって快適すぎる。外国にでなければいけない。」というような言葉を言いましたが、これは安逸な無宗教の社会の崩壊傾向を指摘したものだと思いました。我が教団の牧師は、経済的に貧しく社会的にも認められないような状態から始まる人が多いので、私は信仰者訓練には非常に良いと考えています。

 さて、バルナバとサウロは、「聖霊によって遣わされた」のでした。強い信仰者とうものは、この「聖霊によって」という自覚がなければなりません。「良いと思った」とか、「なんとなく」などというものではなく、「主の名をみだりに唱えてはならない」という裁きを意識しながらも、「神によって」指導されることを求めるべきなのです。自分の言葉、自分の判断を安易な思いに左右されないで、しっかりと祈りの中で神に導かれなければなりません。
 パウロは、はっきりと魔術師に対して、裁きを宣言しました。「おまえは主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。見よ。主の御手が今お前の上にある。」はっきりと申しますと、主の御手は皆さんの上にもあるのですが、信仰をもって歩んでいない者には見えず、またそれを主の僕として、告白しないので、神なき人が神なき社会に生きているようになってしまっているのです。

 アブラハムは、聖霊に満たされていたので、ロトとその家族を取り返すためにケドラオメル王やその他の王に戦いを挑んで勝ったのです(創世記14・17)。モーセも聖霊に満たされ続けたからこそ、エジプトのパロに勝ち、荒野を40年間も民を導いて旅ができたのです。ダビデも然り、ネヘミヤも然り、パウロもペテロも皆、聖霊に導かれなければ、何もできなかったのです。

 ジョイが死んだことを思いながら、妻と私は、神が戦闘モードに入るべく私達を促しているのだと、示されていることを語り合いました。人々を助けるためには、闘わなければなりません。今、神に示されていることは、イザヤ54・2-4です。

 「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄の杭を強固にせよ。あなたは右と左に増え拡がり、あなたの子孫は国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたは辱めをうけないから。」

 我が家は広くなり、教会も広くなり、広いクリニックのビルも与えられました。人材も増やし、従業員は20名となります。宣教師も募集し、教会奉仕者も募集します。この日本に神の業を推し進めようと思います。これからが、戦いです。ひるんではいられません。主の御霊が導くままに、どこへなりと、なんなりと進んでいかなければなりません。


10月17日 ロゴスとしての福音。   使徒の働き1323~31 
新改訳 使 13:23-31

13:23
神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。

13:24
この方がおいでになる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、前もって悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。

13:25
ヨハネは、その一生を終えようとするころ、こう言いました。『あなたがたは、私をだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は私のあとからおいでになります。私は、その方のくつのひもを解く値うちもありません。』

13:26
兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。

13:27
エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。

13:28
そして、死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです。

13:29
こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。

13:30
しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。

13:31
イエスは、ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに、幾日もお現われになりました。きょう、その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています。


 パウロとバルナバがこの第一次宣教旅行で着いたのは、出発したアンテオケと同じ名前のついているピシデヤのアンテオケでした。同行の若いマルコは、困難さに難儀してエルサレムに帰ってしまうのですが、このアンテオケの説教でパウロとバルナバの立場が変わってくるという注目すべき名説教です。ここにはまだ、キリスト教のことも、迫害も伝わっていなかったので、会堂に入ると律法学者の様子を見せる二人に会堂司たちが、聖書の解説を頼むのでした。

 パウロの説教のポイントは以下の通りです。

1. 神は、イスラエルを選び出し、エジプトから救い出してくださった。

このことは、選民性を思い出させ、神が彼らを歴史に介入して救い出されるという信頼を確認させるものです。私達は、時代と社会に埋没してしまって、自らが神から選び出され、救い出されたことを忘れてはなりません。

2. 約束の地を相続し、それを治めるまでに長い年月が掛った。

その時、その人々は苦労だけが多かったが、神はそれを訓練の時として用いられ、私達は信仰こそ、人生と国家の勝利の源であることを知った。

3. 神の心に適った王が神の御心を実行する。

サウロのように見た目や能力ではなく、神の御心に適った者こそが神の御心を実行するのです。そして、それはイエス様においてこそ実現するのであり、それは神の約束でした。

4. イエス様の救い主としての意味は神の国の王としてのものです。

@ 悔い改めが必要なことをバプテスマのヨハネが宣言していました。

A イエスは罪に定められて死ななければならなかったのです。

B 神は、イエス様をよみがえらされました。

C 神の国に住まうためには、罪の赦しが必要であり、イエス様は信じる者の罪を負って死なれ、赦されたのです。

D 信じて解放される人と、あざけって滅びる人がいます。

 パウロの言葉を聞いて、多くの人々が罪を悔い改め、神を信じました。そして、次の安息日には、ユダヤ人や改宗者だけでなく、町中の人々が会堂に集まってきました。しかし、その時に、これまで自分たちこそ、信仰の指導者だと考えてきた人々が、二人をねたみ、攻撃してきたのです。

 信仰とか、誠実性とか、その人の本性は、自分の利権や考え、その人の依って立っているものが損なわれた時に、現れてきます。ですから、信仰者というのは、試練や迫害なしに成長することはなく、それらによって本物か偽物かが判明してくるのです。

 ヨハネ福音書の冒頭に、「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」とあることばとは、ロゴスという言葉が使われ、イエス様のことであります。ロゴスとは、論理、理由、概念などを一般的には意味しますが、ヨハネはイエス様はロゴスであると指摘したのです。

 ロゴスとしての神理解は、私達を気儘な神のご機嫌伺い的な宗教行為や信仰から、脱却させます。また、競争的な信仰ではなく、神の御心とその論理の中に生きるべく、信仰者を正しく教え導きます。

 キリスト教というのは、感情的なものではなく、宗教熱心を争うような類いのものではありません。ですから、熱心に伝道する、ことを競う信仰者ではなく、神のロゴスを人々に教え導くことがクリスチャンとしては必要なのです。

 機能性低血糖症について、いくらその害や原因を強調しても、医学としてのスタンスで研究と解析を積み、実証しなければ、とても医師は信用することはなく、用いることもありません。まがい物の健康食品のように、何に効いたとか、この薬効があるという諸説をいくら強調しても、社会に認知されることはないのです。

 神学を勉強しろと言うのではありません。イエス様を信じれば、何でもできるとか、クリスチャンは何をしても祝福される、などというロゴスから外れたことを信じてはならない、ということなのです。

 聖霊に満たされたら、神をロゴスの中で信じたら、ということを聖書は言っているのです。聖霊に満たされるということまでも、悪霊憑きのように自分の判断が持てなくなり、異常な状態になると考えたら大間違いです。聖霊に満たされたら、ロゴスに生きるのです。

 聖書を学び、信仰者として成長するということは、この神の論理を身につけるということなのです。山上の垂訓は、そのようにして、神のロゴスを示しているのです。この世の論理や宗教に惑われてはいけません


10月24日 創造主を認めて生きる。   使徒の働き148~18 
新改訳 使徒14:8 ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。

14:9
この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、

14:10
大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。

14:11
パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」と言った。

14:12
そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。

14:13
すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。

14:14
これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、

14:15
言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。

14:16
過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。

14:17
とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」

14:18
こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。


 この第一次伝道旅行では、パウロとバルナバの福音説教を聞いて、受け入れて信じる異邦人と、反対して攻撃するユダヤ人たちとが大きく分かれていきます。そこで、「私たちは、これからは異邦人のほうに向かいます。」(13・46)と宣言することになります。

福音は、その人の罪深さを明らかにするが故に、悔い改めない人は、必ず福音には批判的になります。教会が正しく、真っ直ぐに福音を語り続ける限り、悔い改めない人は、教会に集い続けることはできず、教会やその存在を批判的になります。そういう面で、教会や牧師、そして真実なクリスチャンが批判され、迫害されるのは当然なことであり、驚き嘆くことはないのです。

使徒の働きには、特にユダヤ人の攻撃が激しく執拗であることが述べられています。ユダヤ人とは、ユダヤ教を信じる者であると定義されますが、異邦人でユダヤ教に賛同しながら割礼までは受けていない人は、「神を敬う人」などとされます。現代では、キリスト教を信じるユダヤ人、つまりメシヤニック・ジューと言われる人々もいますが、それは基本的にはユダヤ教の教えの本質はイエスがメシヤとして示しているのだとするもので、ユダヤ教からは離れていないとされています。

 ともかく、ユダヤ人がクリスチャンを迫害するのは、彼らの教えが律法主義に陥ったからであると、使徒たちは語り、イエス様ご自身も、神の教えを教条的・儀式的にしてしまったユダヤ人指導者たちを強く批判しています。そして、実際、新約時代に最もクリスチャンを攻撃したのが、ユダヤ教徒なのでした。興味深いことに、歴史的にはキリスト教の内部でさえ、新しくできた流れや教派を最も攻撃するのが、その前にリバイバルを起こした教派なのです。私たちペンテコステ派を最も攻撃したのが、その前に勢いのあった教派であったのですが、既にペンテコステ派も、古くなりつつありますが、それでも最も勢いのある教派であり続けています。参考までに、その後の流れとしては、カリスマ派が出ていますが、外部から見れば同じようなものと捉えられています。

 さて、十戒の2番目は「自分のために偶像を作ってはならない。それを拝んではならない。仕えてはならない。」とあります。それは、自分の主義主張や宗教観を偶像というものに映して、それを他の者を巻き込んで宗教的に優先化することであります。つまり、ユダヤ人の律法主義というものは、神ご自身への畏敬や従順というものよりも、宗教的指導者による信者への統率やマインドコントロールに利用された宗教となってしまったので、イエス様は間違っていると指摘され、指導者を嫌ったのでした。

 人というのは、自分の主義主張、価値観、習慣、考え方、性格などに囚われ、それを他の人にも強要し、つまり偶像を作ってしまうことになるものなのです。自らに強い価値観を持つことは良いことで、自分を律することは大事なのですが、それを他の人に要求すると価値観の偶像化が起こるのです。

 先週は、ロゴスとしての神、ということをお話ししました。神の御心とその論理というものが分かれば、信仰者としては、安心して信仰生活を歩むことができるはずなのです。ところが、そのガイドブックであり、神の言葉である聖書を、ある特定な解釈や指導でいのちのないものにしてしまったのが、律法主義なのです。その十戒には、「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」とありますが、聖書というのは、全能全知なる創造主をしっかりと人格をもって意識し、そのロゴスに沿って生きるためのガイドブックなのです。

 ですから、生まれつき足の利かない人であっても、神を信じ人格をもって応答する者には、「自分の足でまっすぐに立ちなさい。」と語りかければ応答するのです。大事なことは、神への応答であり、神が自分自身に働きかけてくださっていることを信じることなのです。

 人々は、その奇蹟を見て、バルナバとパウロを神として崇めようとしました。つまり、超能力のある人を拝み崇めて、自分の利益を得ようとするのです。「自分のために偶像を作ってはならない。」というのは、そういうことです。自分の利益を求めて、主義主張や宗教を強調するのは、偶像なのです。

 聖書の福音を強く信じれば、主義主張も強くなって当然です。しかし、更には、それを自分の利益としないで、人を愛し、神を愛するために用いて、「何事でも自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言者です。」とイエス様が言われたことを果たすことが、信仰の奥義なのです。

 そういう面で自分の在り方、考え方を変えることができない人は、神に仕え、神を喜ばせることはできません。自分のこれまでの在り方に固執し、囚われることが厳しく言えば、偶像になっているのです。


10月31日 苦しみを経なければ。   使徒の働き1419~28節 
新改訳 使 14:19-28

14:19
ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。

14:20
しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。

14:21
彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、

14:22
弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。

14:23
また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。

14:24
ふたりはピシデヤを通ってパンフリヤに着き、

14:25
ペルガでみことばを語ってから、アタリヤに下り、

14:26
そこから船でアンテオケに帰った。そこは、彼らがいま成し遂げた働きのために、以前神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。

14:27
そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。

14:28
そして、彼らはかなり長い期間を弟子たちとともに過ごした。


  1517年10月31日にルターが95カ条の論題をヴィテンベルク城の扉に張り出して、宗教改革の始まりとなりました。ルターは、『聖書のみ』(聖書のみに忠実な教会)、『信仰のみ』(純粋な信仰のみによる救い)、『万民祭司』(神の前での平等)の宗教改革の3大原理を強調し、プロテスタントの礎を作りました。

 ルターは、神の臨在を強く意識して罪を恐れて苦しんでいました。ルターは人間は善行でなく、信仰によってのみ義とされること、すなわち人間を義(正しいものである)とするのは、すべて神の恵みであるという理解に達し、ようやく心の平安を得ることができたのです。

 ルターが反対した贖宥状(しょくゆうじょう)とは、「罪のゆるし」を与える免罪符ではなく、「ゆるしを得た後に課せられる罪の償いを軽減する」ものだそうです。西方教会で考えられた罪のゆるしのために必要なプロセスは三段階からなり、まず、犯した罪を悔いて反省すること(痛悔)、次に司祭に罪を告白してゆるしを得ること(告白)、最後に罪のゆるしに見合った償いをすること(償い)が必要であり、西方教会ではこの三段階によって初めて罪が完全にゆるされると考えられました。古代以来、告解のあり方も変遷してきましたが、一般的に、課せられる「罪の償い」は重いものでした。ところが、中世以降、カトリック教会がその権威によって罪の償いを軽減できるという思想が生まれ、これが「贖宥」です。贖宥状はもともと、イスラームから聖地を回復するための十字軍に従軍したものに対して贖宥を行ったことがその始まりで、従軍できない者は寄進を行うことでこれに代えたそうです。

 ルターは、「キリスト者の自由」というような信仰の奥義を書き、教会の聖職位階制度を否定し、結婚もするという画期的な改革を行ったのですが、農民の解放を暴力的に行おうとするドイツ農民戦争には反対し、民衆からの支持を失ってしまいました。

 さて、このようなルターの歩みは、使徒パウロとも共有する多くの信仰の戦いでもありました。パウロが「神の国に入るには、多くの苦しみを受けなければならない。」と語った言葉と、主イエスの十字架の死による贖罪はどのように繋がるのでしょうか。信仰による救いと試練との関係を明らかにしなければなりません。

 Uテサロニケ1章5節には、「あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しい裁きを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。」と書いてあります。つまり、苦しみを受けなければ、神の国にふさわしい者とならない、清い者とならない、ということなのです。

 なんとパウロは、生まれつきの障害者を癒して人々の熱狂的な歓迎を受けた後、反対派から攻撃され、石打ちにあって殺されてしまいます。Uコリント12章によれば、この時パウロは神の国に行き、その素晴らしさに圧倒された後、生き返るのです。しかし、この時のけがが元で、肉体にとげ(同12・7)、つまり後遺症が残るのでした。

 聖書では聖さとは、この世から分かれて神に付くことであるとされます。つまり、自己の能力や判断から離れて、思い通りに行かなくても神に委ねることなのです。自分の能力で生きているうちは、やはり自分勝手なのです。自分の能力に絶望し、自分の思惑や判断に依存しないようになることが聖さなのです。

 私なども、信仰に入ってから思う通りにならないことばかりでした。教会のブラスバンドの指導を頼まれ、東日本聖会に演奏するために編曲や指導で一生懸命になっているうちに、大学院の勉強ができずに、まさかの大学院受験の失敗がありました。クリスチャンになって証しを建てようとした時のみっともない恥ずかしい出来事でした。船津先生は、これで私の信仰が危なくなるかと思ったそうです。しかし、わたしの信仰は少しも揺らがずに、勉学に励みました。そして、信仰は強くなりました。考えてみれば、それで大学院修了と家内の医学部卒業が同時になったのでした。

 実際には、信仰をもってから30年近く、戦いと苦しみの日々でした。それは世の中との戦いでありながら、実際には自我との戦いでありました。子育てばかりが続いて、情けなくて涙が出た日々もあり、子どもの非行で絶望の時もあり、教会の分裂は続き、人に裏切られ、攻撃され、破産の危機に遭い、病気で死にかけ、なんと多くの試練があったことでしょう。

 Uコリント12章には、「私はキリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時こそ、私は強いからです。」(10)と記されていますが、「キリストの力が私を覆うために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」ということが分かって来ました。

 試練がなければ、自分の力に依存し、聖さとはかけ離れた打算で生きる者になっていたでしょう。私は本来、そのような罪人です。キリストの弟子になるということは、自分の十字架を負い、イエス様に従うことを、試練の中で身につけるということです。そして、そこにこそ、平安があるのです。


11月7日 恵みによって救われた。   使徒の働き151~11 
新改訳 使徒15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。

15:2
そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

15:3
彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。

15:4
エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行なわれたことを、みなに報告した。

15:5
しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言った。

15:6
そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。

15:7
激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。

15:8
そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、

15:9
私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

15:10
それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。

15:11
私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」


  先週の宗教改革で説明しましたが、人間の歴史は指導者が特権を作り、それを守ろうとする歴史でもあります。それは、宗教や政治において著しいものでありました。ルターが聖書のみ、信仰のみ、と強調したのは、特権を慣習や制度によって確保する当時のカソリック教会指導者に対する反論でした。

 ここでも、キリスト教の中に、ユダヤ教の必須の義務である割礼を施そうとする旧態派が現れてきます。割礼というのは、男性生殖器の包皮を切り取ることですが、神はユダヤ人に性病をなくすためと性的誘惑を戒めるために命じたのだと思われます。しかし、本来、性というものは、神が造られたものであり、愛し合い、子孫を残すために大事なものであって、悪いものではありません。初代教会でも妻帯は普通のことであり、教皇の権威の由来であるペテロも妻がいました。それをいつのまにか、カソリック教会は聖職者に妻帯を禁じる制度を作り出してしまったのです。

 それでルターは1525年に41歳で元修道女と結婚し、6人の子どもをもうけて家族円満に暮らしたのです。宗教というのは、厳しくすることによって、その信者を戒律の中で縛り付け抜け出させないようにする傾向があります。私などは、こういうことを平気で言うので、宗教指導者としては、あまり成功しないタイプであることは自覚しております。しかし、敢えてルターは、自由というものを強調したのであります。

 パウロやバルナバと彼らユダヤ主義キリスト教徒との間の対立は解決の付かないものであり、教会の働きを侵害するものとなったので、二人はエルサレムに行って、使徒たちや長老たちとその教義について意見をまとめようとしました。これがエルサレム会議です。

 会議は激しい論争となりました。日本人は、こういうことについては、うやむやに済ますことが多いのですが、それでは問題は解決せず、結局のところ、組織は崩壊し、人々の基準は堕落していきます。

 今日は、家族形成セミナーがありますが、語り合い表現しなければ互いの立場や考え方はわからないのです。怒りやすい人や落ち込みやすい人は、自分の頭の中だけで他人の言動を類推し判断してしまう傾向があります。祈りも、神に聞く、ということが大事なのですが、神に注文をするだけの祈りの人が多いように思います。やり取りが必要であって、そのもっとも激しく真剣なものが論争なのです。

 当教団の総会も来週ありますが、なかなか激しい論戦があり、新米の牧師が聴講すると驚いてしまうようです。アメリカの中間選挙も民主党の惨敗に終わり、オバマ大統領も政策の変更を余儀なくされています。他方、日本の政治は、判断があいまいであり、論争も内容のないものばかりが続いています。これでは、国はうまくならないでしょう。

 ペテロは立ち上がって言いました。「神は、異邦人にも聖霊を与えて、・・・何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」(8,9)。神は、人を民族によっても、能力によっても、外見によっても、生まれによっても、行いによっても、過去の歩みのよっても、差別せずに、私たちを、信仰によって救ってくださるのです。

 例えば、私は35年の信仰歴があり、多くの献身的奉仕をし、捧げものをし、自らを主の弟子として戒めてきました。それが、教会に来たばかりの、何もしていない、性格も悪く行ないも悪い、そんな人と同じ扱いを神にされたら、どうでしょうか。実は、救いというものは、そういうものなのです。

 それでは、信仰や奉仕や努力や犠牲は、どうなるのでしょうか。もし、私たちが自らの信仰と救いをそれらに置いていたとしたら、私たちは、恵みによって救われていないのです。それは、親が子供を愛し、慈しみ、何をおいても救いだそうとすることと似ています。しかし、実際に救われるためには、本人の救われたいという意思が必要なのです。神と言えど、勝手に強引に救うことはできないのです。救うのは、イエス様であって、その人の行ないや努力などではないのです。もし、その人が、それらに依存していたら、神を信じているのではなく、行いを信じているのです。ですから、割礼というものを強調することは、信仰による救いではなく、行いやその人の生まれに依存することであって、救われることはないのです。

 ロゴスとしての神、とお話を続けています。ところが、多くの信仰者が、自分の論理の中で神を信じ、信仰生活を送っています。自分の論理ではなく、神の論理を知って身につけるならば、信仰生活は安定したものになります。自分の論理が間違っているかどうかは、神の論理を良く知り、神と語り合うことが必要なのです。


11月14日 神に立ち帰る人を悩ませない。   使徒の働き1511~20 
新改訳 使 15:11-20

15:11
私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」

15:12
すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行なわれたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。

15:13
ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。

15:14
神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。

15:15
預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。

15:16
『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。

15:17
それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。

15:18
大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』

15:19
そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。

15:20
ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。



 日本では社員教育を丁寧に年月を掛けて行うのが通例でした。徒弟教育などは、10年、20年などは当たり前で、厳しい修行に付いていくということが条件で、耐えられない人は自ら職を辞するしかなかったのでしょうか。

 先週は、遠方より来た友人たちと夜を徹し、翌日も飛行機の時間ぎりぎりまで話をしました。既に牧師となって27,8年になるのですが、牧師を辞めたり、問題を起こしたりした人々のことも話題になりました。どんな仕事でも30年もすると、その人間性が出てきます。神学校時代にまず30年してから一人前と言われたことも思い出します。さらに、40年、50年して年老いてからも生身の人間ですからいろいろと変わってきます。

 若い時の苦労は、未熟さや社会的未経験が原因だったでしょう。その後は、苦労や試練に負け、失意の時代もありました。これからは、誘惑や高慢が危ないでしょう。人生は、いつになっても戦いがあります。引退したら、戦いはないのかと思っている人もいますが、信仰者に引退はありませんから、やはり堕落や怠惰という危険性もあるように思われます。

 アメリカなどは、社会や組織が人を教育し訓練すると言うよりも、積極的に自ら訓練や教育を求めて、活動を始めなければならないようです。アメリカ社会というのは、努力している人には助けや協力が来るのですが、日本のように未熟な人を会社や親が時間を掛けて育て上げるということはないようです。ですから、向き不向きをはっきりと判断して、転職や引越はよくあるようです。

 世界的に貨幣経済が浸透してきているので、じっくりと人を育て上げるという風潮は間違いなくなくなっていくでしょう。イエス様は、「持っている者は更に与えられて豊かになり、持たない者は持っている物までも取り上げられてしまう」(マタイ13・12)と言っていますが、それは更に明らかになっていくでしょう。徒弟制などは、技術が複雑で難しく、人が少ない場合に成り立つのであって、経済と社会の変容の波にもまれて、日本も未曾有の困難に呑まれていくでしょう。

 マタイ13章には、神の国の福音という種が人の心に蒔かれることを語っています。福音を聞いても聞こうとしない人は、道端に蒔かれてしまったようであり、困難や迫害によって信仰を捨ててしまう人は、岩地に蒔かれたようで根が張っていないからです。人に対する心遣いや社会における仕事や風潮、仕事で稼がなければならないなどということを優先する人は、茨の中に蒔かれたようで、十分に成長しないので成果が実らないで、いたずらに年を過ごすだけになります。福音を受け留めて、その人の人生に結びつける人は、良い地に蒔かれた種のようで、成長して多くの実を結びます。

 福音を信じようとする人々に割礼を強いるのは、種を蒔く土に網を掛けてしまうようで、土地を守ろうとするあまりに、種を拒み、成長を阻害してしまうのです。基準を厳しくし、選別して優良品質となった苗は、過酷な自然条件には対応できずに、枯れてしまいます。実は、条件付けのない信仰のみこそが、最も環境と状況の変化に対応できるのです。人が人を教え、条件付けをしても、人格が形成されていなければ、実を結ぶことはできません。徒弟制度というのも、下手に人が人を教えて、個性をなくしてしまうと、真に価値あるものを造り出せないということにあるのではないでしょうか。

 厳しい信仰の戒めを守り割礼を受けたユダヤ人たちは、福音という力強い種を受け入れることができず、世の嵐にも対応できずに国を滅ぼしてしまいました。

 福音という種は、間違いなく強いもので、大きな実を結びます。その種に教会は、殻を付けてもいけないし、処理をしてもいけないし、放置したり、腐らしたりしてもいけません。聞く者の心が、道端のようで全く蒔くに適していない場合もあり、岩地のように根ざさない場合もあり、十分に成長させない誘惑の茨が生えている場合もあります。しかし、成長して実を結べば、30倍、60倍、100倍にもなっていくのです。

 低血糖症の治療も23年間行って、やっと実を結び始めました。これまでは、他で働いて、土地を耕し続けたのでした。まだまた力が必要ですが、全国展開して多くの人々を癒し、力づけていくことができるようになっていきそうです。

 千葉での開拓も、当初は「耕し肥やし種を蒔け」と自らに言い聞かせて、伝道を続けてきました。今回の改装拡張は、以前ほど献金していません。これまではあるだけの資金を貯金を下ろして献げ、或いは借金をしてまで献げてきました。総額2千500万円ほどの大工事ですが、始めて楽な工事をしたと思っています。教会員が力になってきたのだな、と実感しています。

 20節に、偶像に備えて汚れた物を避ける、ということは信仰者として、他の宗教に迎合するな、ということです。不品行をするな、ということは当然ですが、酒、煙草、ギャンブル、ポルノ、道徳的退廃は、自らをわきまえ、注意しなければなりません。血を避けるということは、当時では病の感染に注意しろ、健康管理に気をつけろ、ということです。そうしたうえで、信仰者として、自由な福音をしっかり成長させていこうではありませんか。


11月21日 教会からの悪の浄め。   申命記1712~13節  櫻井圀郎師
新改訳 申 17:8-13

17:8
もし、町囲みのうちで争い事が起こり、それが流血事件、権利の訴訟、暴力事件で、あなたのさばきかねるものであれば、ただちに、あなたの神、主の選ぶ場所に上り、

17:9
レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ねなさい。彼らは、あなたに判決のことばを告げよう。

17:10
あなたは、主が選ぶその場所で、彼らが告げる判決によって行ない、すべて彼らがあなたに教えることを守り行ないなさい。

17:11
彼らが教えるおしえによって、彼らが述べるさばきによって行なわなければならない。彼らが告げる判決から右にも左にもそれてはならない。

17:12
もし人が、あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司やさばきつかさに聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その者は死ななければならない。あなたがイスラエルのうちから悪を除き去るなら、

17:13
民はみな、聞いて恐れ、不遜なふるまいをすることはもうないであろう。


11月28日 余分な重荷を負わせない。   使徒の働き1522~32 
使徒15:22 そこで使徒たちと長老たち、また、全教会もともに、彼らの中から人を選んで、パウロやバルナバといっしょにアンテオケへ送ることを決議した。選ばれたのは兄弟たちの中の指導者たちで、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスであった。

15:23
彼らはこの人たちに託して、こう書き送った。「兄弟である使徒および長老たちは、アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟たちに、あいさつをいたします。

15:24
私たちの中のある者たちが、私たちからは何も指示を受けていないのに、いろいろなことを言ってあなたがたを動揺させ、あなたがたの心を乱したことを聞きました。

15:25
そこで、私たちは人々を選び、私たちの愛するバルナバおよびパウロといっしょに、あなたがたのところへ送ることに衆議一決しました。

15:26
このバルナバとパウロは、私たちの主イエス・キリストの御名のために、いのちを投げ出した人たちです。

15:27
こういうわけで、私たちはユダとシラスを送りました。彼らは口頭で同じ趣旨のことを伝えるはずです。

15:28
聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。

15:29
すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」

15:30
さて、一行は送り出されて、アンテオケに下り、教会の人々を集めて、手紙を手渡した。

15:31
それを読んだ人々は、その励ましによって喜んだ。

15:32
ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、また力づけた。


 子育ても期待と過干渉が交錯して、難しいことが多い。親としては良かれと思っても、子どもには過重負担になってしまう。受験や入学など環境が変わる時は、注意が必要です。世話をし過ぎると弱気な子どもになり、放任すると野放図な子どもになる。また、その子の本来の性格に違うような躾をすると、性格が歪んだり、劣等感を持ったりすることもあります。

 聖書研修会で、境界線を形成する講座を持っていますが、厳しい指導の中で育つと境界線を形成できずに何でも受け入れてしまうような人格が形成されます。軍隊教育のようなもので、絶対服従を訓練すると自らの主体性で判断することができなくなります。

日本の教育システムは、そのような理念で造られ、意識せずとも指導者や教師に服従して教えられたことを覚え学ぶというものです。ですから、議論や決断は苦手で、言われたことを素直に従うという人間を作り出す洗脳的な社会システムを造り出した日本は、激動する世界に対応する人材を生み出すことができなくなってしまったのです。そして、そのような従順を要求されることで、人々は内面にある不満や反発心を克服できずに、神経を苛立たせているのです。

私たちが救いに預かり、クリスチャンとして成長するということは、自他の境界線をしっかりと形成した、判断と決断のできる人間になるということです。友人のウッド先生が、白頭鷲のことを教えてくれました。白頭鷲は、40歳台になった時に、5ヶ月間掛かって、自らの身体を変身させていくのだそうです。まず、古くなった口ばしを岩にぶつけてもぎ落とし、数週間掛けて生えてくる口ばしを待ち、その口ばしで柔軟性のなくなった爪を一本ずつ抜いてしまうのだそうです。しばらくして生えてきた爪で、今度は古い羽根をむしり取らないと素早く飛べないのです。そのような凄惨な自己訓練をしないと白頭鷲は、70歳までは生きられないのだそうです。

 今日の聖句にあるように初代教会にも、信者に厳しい戒律を命じて組織を強固にしようとする働きかけはありました。しかし、パウロやバルナバ、ペテロやヤコブらの教会指導者は、そういう戒律によって教会を形成することを禁じたのです。信仰者には、他の宗教との妥協と倫理的堕落を避け、健康に注意することがけを命じたのです。

 信仰とは、強いられ、命じられて持つものではありません。「この世と調子を合わせてはいけません。神の御心は何か。すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12・2)。白頭鷲のように、自らの決断で自分を変える努力をしなければ、信仰者として歩むことはできないのです。

 イザヤ40章には、「主を待ち望む者は、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」とあります。

 先々週、信仰は徒弟制のようなものだと話しました。自ら意識し、学ぼう、身につけよう、腕を磨こうと努力しなければ、職を辞するしかありません。つまり、信仰というのは、生きたものであり、人を変えるのではなく、自分を変えようと意識していないと保てないのです。それは、聖霊なる神が清めと真理の神であるので、間違ったことを平気で行ったり、清めを心がけない人に内住することはできないからなのです。

 先日、妻と話をしていて思い出しました。この教会でも、使徒の働きにあるような教会を人間の判断によって運営しようとする人が4人で相談し、牧師の働きと権利を制限して自分たちが教会を運営しようとしたのです。そして、礼拝でそれを提案して、教会を改革すると誘ったのです。私は、教会の主は神ですから、ともかく黙っていましたが、結局その人たちは信仰だけでなく、生活も破綻して、悲惨なことになっています。

 人を思い通りに変えようとすることは、神でさえ、しないのであります。神は、真実な方ですから、境界線を越えて、信者を変えようとはされません。イエス・キリストは自分を十字架に掛けようとする人々に対してさえ、抵抗せずに執り成しをしておられます。

 ところが、人は、自分の考え方や判断を、教えや風習、そして聖書をも利用して人々を思い通りに支配し、変えようとするのです。それは神と聖書のことを考え違いをしているのです。いくら良いものであっても、強制したら、その良さを失ってしまうのです。

 自らを神の僕として形成することを決意し、願い、そして日々歩みながら、信仰を人々に証しするのです。そして、神に救いを願うのです。自分の子どものために願い祈るということは、なんと年月のいることでしょうか。最もそれを願いながら、最も自分が試されることは、自らの家族の魂が救われ、神の器に成長することです。神は決して、私の願いを裏切らない方であると信じております。


12月5日 有象無象の教会模様。   使徒の働き1536~163節 

使徒15:36 幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」

15:37
ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。

15:38
しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。

15:39
そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。

15:40
パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。

15:41
そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。

16:1
それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、

16:2
ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。

16:3
パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。

16:4
さて、彼らは町々を巡回して、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を守らせようと、人々にそれを伝えた。

16:5
こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。



 有象無象とは、群がり集まった取るに足らない種々雑多なつまらない連中、ということだそうです。クリスマスのアドベントに入って、皆さんのことをこのように言うとは、なんと無神経な、と言われてもしようがありません。

 実は、他教会のあったこともない婦人から留守番電話が200回以上入れられ、他の電話もあるので、確認しながら消去していますが、消去するとその分、入れられています。その精神疾患の呂律の回らない言葉で教会や牧師たちの批判話を聞きながら、なるほどと反省させられることも多くあります。私自身、非難される側に立って多くの攻撃を受けたことがあります。

私は、それほど信念と自信のある者ではありませんから、批判されると納得してしまうことが多いのです。非難し、攻撃するには、それなりの理由がないと、どのような人間もそういう過激な行動は取れないものです。祈る中で、その敵意・怒りの理由を思い見るのですが、全く見当違いの妄想による攻撃の場合でさえ、その人の心情を理解しなかったから、私に対する不満が募ったのかとも思いやられました。クリニックにも精神的な障害を持っておられる人が多く来ますから、簡単なことで激怒し、攻撃してきます。従業員には、そういう場合、決して感情的にはならないこと、卑屈になってむやみに謝らないこと、冷静に対応して上司に代わることなどを指導しています。

 しかし、この女性は、牧師がその人に対して強圧的な行動をとり、干渉するので余計反発したようです。教会だけではなく、学校でも職場でも医療や福祉でも、指導する側は相手に服従と規律を要求します。それでないと、統制がとれず、問題が起こり、対応に手間取るからです。昔、PTA会長だったころ、自分は子供を思い通りに躾けていて何でも言うことを聞くのに、会長の子育ては全くだめだ、と青少年補導員をしていた女性から激しく叱責を受けました。私は、その言葉を聞きながら、この人の子供は社会に出たら、物事にどのように対応するのだろう、結婚したらどうなるのだろう、思い通りにならない人や組織をただ攻撃するだけの人になるのではないかと案じたものです。

多くの組織が、そのような理想像を持っています。私も、もし教会員が礼拝を厳守し、祈り深く、聖書を良く理解し、成熟した人格を持って、積極的に奉仕してくれたら、なんと楽なことかと思います。教会に理想を持てば持つほど、牧師は教会員に期待し、教会員は牧師に期待します。

本題に入りますが、パウロも、そのようにしてマルコを拒否し、テモテを愛しました。「信仰による真実の我が子テモテへ」(Tテモテ1・2)と書いています。それは、母がユダヤ人で父がギリシャ人であることから割礼を受けていなかったけれど、パウロの指導のままに割礼を受けるほど、従順であったからでしょう。パウロのような胆汁質・多血質の指導者は、どうしても自分の思い通りに人や組織を動かそうとします。マルコは、ペテロに「私の子」と呼ばれています。やはり相性もあるのでしょう。ともかく、使徒達は人間臭い、生身の信仰者なのです。

 カトリックでは、公式に聖人と認定されなければならず、ローマ法王も使徒の継承者として絶対的な権威を持ちます。プロテスタントはカトリック教会のような聖人は認めません。聖とは、この世から離れ、神に付くこととして、信者を聖徒と呼ぶことはありますが、それはクリスチャンの立場を意味するものであります。あるべき姿勢として、聖徒たるものは、と説教することは、よくありますが、そうすると殆どのクリスチャンは、首をすぼめ、悔い改めるしかないのであります。

 ユダヤ人は異邦人に対して、律法を知らずマナーも知らないので、野蛮人としてさげすみました。その人々をそのまま受け入れ、信仰のみによる救いを伝えたからこそ、世界中に福音が広まったのです。聖書は、人が知恵によっても行いによっても、品性によっても救われないことを伝えているのです。

 私は教会形成は、子どもを見守る親の姿に似ているのではないかと考えています。過度に規制したり期待したり要求すると、親の目を気にして自らの賜物と能力、人生を味わうことができなくなるのではないかと心配しています。自分の子供たちが十分救いを得ず、この世に染まっているのもわきまえています。ターシャが私のことを批判したことも、先日来たアフリカ人が伝道不足を責めたことも覚悟しています。だからと言って、私が強制したり、権力をふるってしまったら、教会が聖書的な教会でなくなることを何よりも恐れています。

 しかし、確信が強くなってきたことも事実です。信者に期待せず、ただ祝福を祈り、執り成しを続け、そして自らは強く歩むべきことを覚悟してからは、自分の信仰と歩みが非常に強くなってきたのです。私の信仰など、神の前に何の役にも立ちません。しかし、神の働きを阻害する教えをし、神の邪魔をしてはいけない、と考えています。

 イエス様が在世中、弟子たちは本当に頼りなく、自分勝手で、罪も義も真理も知らない有象無象の人々でした。こんな人々のために十字架に掛かるのかと、無念ではなかったかと思うほどです。私自身も、いつも殉教を覚悟しているのは、一粒の麦、死なずば、という聖句を覚えているからです。

 信仰者が育つということは、なんと途方もないことでしょうか。

 自らが、あの罪の中から救われ、今の自分になっていることは、なんと凄いことからと感動します。それならば、決して人を変えようと願ってはならない、ただ祝福と聖霊の感化を祈るのみであると覚えます。ままならない世をままならないままに神を信じて生き、ままならない有象無象の人々をままならないままに愛していけたら、なんとすばらしい信仰生活であると考えます。成功者になろうなどと考えてはいけません。教会を自らの力で大きくしようとしてはならない、と考えております。


12月12日 賢者たちの長い旅。   マタイ21~12 
新改訳 マタ 2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

2:2
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

2:3
それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。

2:4
そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。

2:5
彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

2:6
『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」

2:7
そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。

2:8
そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

2:9
彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。

2:10
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

2:11
そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

2:12
それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。


 この東方から来た博士たちが3人であるとは書いてありませんが、複数であり、黄金・没薬・乳香の3つを捧げたから推定されています。また、イエス様は生まれたばかりではなく、家畜小屋で拝んだのではありません。生まれたばかりのイエス様を礼拝したのは羊飼いたちです。八日目に割礼を受けられ、清めの41日間が過ぎてから、ヨセフとマリヤは8キロほど北のエルサレムにベツレヘムから出かけて、長男のために鳩の犠牲を捧げました。

この聖別献金や感謝献金ということを信仰者は、意識していなければなりません。子供を神に献げる代わりに、鳩を献げたのです。或いは、何かに成功したり、請願する時には、それを自分のものではなく、神からの預かりものと意識して、献金をする習慣は、信仰者にとって大事なものです。明らかなことは、信仰心のない人は、決して献金はしない、ということです。自発的に献げる習慣や意識を持たない人が、神に喜ばれて祝福されるということは、まずありません。

最近は、お礼や感謝をする人が少なくなってきています。要求ばかりが目立ちますが、人間でさえ、要求ばかりする人には、あげたくなくなります。神を意識する人を、神も覚えて祝福してくださるのです。妻の習性の一つとして、よく物を人にあげたがり、自分のものは惜しむということ、そして、献金を多くしたがるということを、私は最も喜んでいます。私たち夫婦の共通点は、神に献げるために生きているということを強く意識していることです。ひも付きのプレゼントや献金ではいけません。献金を会費だと思っている人は、神から特別な祝福を得ることはできないでしょう。

私たちは普通の人の10倍以上献金し、同じように税金を払い、更に多くの人や組織に献げています。人生の意味合いを、神のために働くために与えられたものだと考えているので、それができることが喜びなのです。「神の前に富む者」(ルカ12・21)であることが、大事なのです。神の前に富む者が、この世でも祝福されることは当然なことです。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」(ルカ6・38)。

 さて、この賢者たちは、ユダヤ人の王、つまり、神の民の王として生まれた方をわざわざ拝みにきたのでした。時ならぬ大きな星が光ったので、旅を始めたのでした。彼らは、自分の仕事も置いて、家族とも分かれ、高価な宝物をもって、長い旅を犠牲を払いながら、困難な中で、救い主を求めて歩んだのでした。

 彼らは、なぜ、そのような旅路に出たのでしょうか。

 それは、人生の意味と魂の救いを求めたからでした。これらを求める人こそ、賢者なのです。人生の意味がわからず、人生を生きるということは、仕事の目的が分からずに仕事をする人のようなものです。このような人は、いくら長生きしても、自分の欲望に追われた愚かな人生を生きるのです。真の神を見出すことほど、人生にとって大事なことは他にないのです。

 賢者たちは、それぞれ黄金、没薬、乳香を献げるために携えてきました。黄金は、真の王に対するものとしてふさわしく、没薬は私たちの罪を身代わりに負うために十字架に掛かってくださる救い主にふさわしく、乳香は敬虔な祈りを献げる神への執り成しとして大事なものでした。そして、それらは、おそらく彼ら自身にとって最も大事なものだったのでしょう。

 先週、有象無象の教会模様ということで、教会には、私たちの理念のように「多種多様な人々が神によってこの世から召し出されてくる」のですが、「自分を捨て自分の十字架を負」(マタイ16・24)わなければ、イエス様に従い、神の国に入ることはできません。「いのちを(自分の判断や能力で)救おうと思う者はそれを失い、わたし(イエス様)のためにいのちを失う(自分の判断を捨て)者は、それを見出すのです。」(マタイ16・24

 自分の王権を権力と暴力で保とうとしたヘロデは死んで黄泉に行き、王権を委ねて救い主への旅を始めた3人の王たちは、救い主に出会い、いのちを得ました。

 自らを振り返ると、自分の判断や考え方、欲望や修正、そして性格を変えるには長い旅路が必要でした。3人の賢者にとって、同行の友、同志、同労者を得たことは何よりも喜びであり、力であり、慰めであったことだろうと思います。彼らが互いに出会えたのは、旅だったからであります。自分の考え方を変えないで、とどまっていては、いつまでも友と出会えないでしょう。彼らは確かに賢者だったのです。


12月19日 幸福であること、祝福されること。   ルカ139~45節 北野耕一師

新改訳 ルカ 1:39-45

1:39
そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。

1:40
そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。

1:41
エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。

1:42
そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。

1:43
私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。

1:44
ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。

1:45
主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」


12月26日 昔のことを思い出すな   イザヤ4318~26 

新改訳 イザ 43:18-26

43:18
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。

43:19
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

43:20
野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。

43:21
わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。

43:22
しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。

43:23
あなたはわたしに、全焼のいけにえの羊を携えて来ず、いけにえをささげて、わたしをあがめようともしなかった。わたしは穀物のささげ物のことで、あなたに苦労をさせず、乳香のことであなたを煩わせもしなかった。

43:24
あなたはわたしのために、金を払って菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。

43:25
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

43:26
わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。


 毎年〃、試練や問題が起こり、漸くのことで切り抜け、祝福を勝ち取ってきました。主の祝福を勝ち取るために、弱音は禁物であり、口で語ったこと通りになって行くことを悟ると、不謹慎なこと、不信仰なことは言えません。年末にも、会堂拡張工事の資金の借入が2カ月待って、ぎりぎりに駄目だと言われましたた。銀行とはそんなものと思っていたので、支払い不能な額までは工事をしなかったけれども、正直、年末も押し迫って、資金繰りに祈りました。

 殆どの人が、妻や友人に愚痴を言います。しかし、それは聞く者にとっては、自分にどうすることもできないので、非常に苦痛です。専門のカウンセラーでさえ、悩みを聞き続けることは難しく、アドバイスと言う形の非難をしてしまいます。飲み屋が繁盛しているのは、そのような不満が多くあるからで、日本独特のような気がします。

 「忍耐をもって善を行い、栄光と誉と不滅のものを求める者には、永遠のいのちを与え」(ローマ2・7)とあるように、聖書の忍耐というのは、単に我慢するだけではだめで、希望をもって勝利を信じることが必要なのです。逆に、「党派心をもち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りをくだされる」(2・8)という恐ろしいことが起こります。仲間を作って、不満を言ったり、不正をする人がいるもので、今年はさすがにそれを体験しましたが、神の怒りが下されることを思うと、自業自得と怖さを覚えます。

 しかし、ここでは、「昔のことを思い出すな。」(イザヤ43・18)と命じられます。昔のこととは、出エジプトの奇跡であり、神の大能の現れです。私にも、皆さんご存じのように、毎年試練が起こります。前の試練とは違うものでも同じようなものでも、同じように対応したからと言って勝利するとは限りません。要するに、私たちの全身全霊を尽くした対応が必要なのです。

 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22・37)とは、人生のあらゆるところで起こる艱難辛苦に対して、それらを尽くして対処し、神を愛する信仰を用いよ、ということであると思います。過去の実績や功績を誇る人も多くいますが、過去のものでは現実の問題に対応できないのです。だから、過去は関係ないのです。

 大事なことは、自分の能力に依存することではありません。「主を待ち望む者は、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。」(イザヤ40・31)のです。インマヌエルなる神(神は共におられる)を体験している人は、不平や不満、怒りや敵意を現わすことをしません。

 来年の聖句は「見よ、神は新しいことをする。もう、それが起ころうとしている。」としたいと祈っていますが、もう少し確信を求めます。新しいことが、起こるために、これまでの既成概念・常識を覆すことを受け入れなければなりません。さあ、主の導きを求めて祈ろうではありませんか。